
開陽丸(かいようまる)は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)オランダで建造、翌年3月に榎本武揚らの手で横浜に回航された江戸幕府の最新鋭軍艦(排水量2,590トン、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m)でした。江戸幕府の崩壊に際し、戊辰戦争に参加し、鳥羽・伏見の戦い後、前将軍徳川慶喜を乗せて大坂から江戸に帰港したことで知られています。
その後、榎本武揚指揮の旧幕府艦隊の旗艦として北海道へ脱出しました。しかし、箱館戦争に参戦中の1868年(明治元)11月15日に暴風雨のため江差沖で沈没しています。
1975年(昭和50)から、江差町教育委員会によって、水中からの発掘・調査が始まり、3万点以上の遺留品の引揚げが行われました。そして、1990年(平成2)に、北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示されています。
その後、榎本武揚指揮の旧幕府艦隊の旗艦として北海道へ脱出しました。しかし、箱館戦争に参戦中の1868年(明治元)11月15日に暴風雨のため江差沖で沈没しています。
1975年(昭和50)から、江差町教育委員会によって、水中からの発掘・調査が始まり、3万点以上の遺留品の引揚げが行われました。そして、1990年(平成2)に、北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示されています。
〇開陽丸関係略年表(日付は旧暦です)
・1862年(文久2年) 江戸幕府の久世広周は「オランダ海軍の持つ最新の設計・設備を施した、蒸気機関推進で大砲を20門以上装備した3000トン未満の軍艦一隻」という条件で注文書を出す
・1863年(文久3年) ロッテルダムの蒸気船会社で設計が完成、ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所(Cornelis Gips & Zonen)に建造が指示される
・1864年(元治元年) 船体の竜骨が組みあがる
・1864年(元治元年10月20日) 「夜明け前(蘭語:Voorlichter)」を想起する開陽に名称が決定され、関係者らを集めた命名式が執り行われる
・1865年(慶応元年9月14日) 進水式が執り行われる
・1866年(慶応2年10月25日) 開陽は日本への引渡しのため、フリシンゲンを出港する
・1867年(慶応3年2月20日) オランダ領東インド(現・インドネシア)のアンボイナへ到着する
・1867年(慶応3年3月26日) 横浜港へ入港する
・1868年(慶応4年1月2日) 兵庫港を出港し、薩摩藩の平運丸に対して空砲で停船を命じたが、平運丸が応じなかったため実弾で砲撃する
・1868年(慶応4年1月8日) 徳川慶喜を乗せて大坂を出航する
・1868年(慶応4年1月11日) 徳川慶喜を乗せて江戸へ帰還する
・1868年(慶応4年4月11日) 江戸城無血開城に至って、榎本武揚は、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否する
・1868年(慶応4年8月19日) 開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸、蟠竜丸、千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美賀保丸)を加えて品川沖を脱走する
・1868年(明治元年10月12日) 仙台折浜より蝦夷地へ向かう
・1868年(明治元年10月20日) 蝦夷地鷲ノ木沖に到着する
・1868年(明治元年10月25日) 旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃つ
・1868年(明治元年11月11日) 箱館を出港して江差沖へ向かう
・1868年(明治元年11月14日) 江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加え、江差を無血占領する
・1868年(明治元年11月15日) 暴風雨のため江差沖で沈没する
・1974年(昭和49年) 文献から沈没位置を推定し、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見する
・1975年(昭和50年) 開陽丸の船体および遺物は日本初の海底遺跡として登録される
・1990年(平成2年)4月 北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1205年(元久2) | 『新古今和歌集』が一応成立し、竟宴が開かれる(新暦4月16日) | 詳細 |
1489年(長享3) | 室町幕府第9代将軍足利義尚の命日(新暦4月26日) | 詳細 |
1925年(大正14) | 「衆議院議員選挙法」の全面改正(通称:普通選挙法)が貴族院を通過成立する | 詳細 |
1935年(昭和10) | 小説家与謝野寛(鉄幹)の命日 | 詳細 |
1962年(昭和37) | 小説家・詩人室生犀星の命日 | 詳細 |