清水元、信欣三、河野秋武、岡田英次、津島恵子、香川京子ほかが出演し、第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位となり、第4回ブルーリボン賞監督賞を受賞しています。尚、1982年(昭和57)には、同脚本・同監督により、栗原小巻、古手川祐子、大場久美子、斉藤とも子、蜷川有紀、田中好子ほか出演により、リメイク版が公開されました。
1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1885年(明治18) | 日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される | 詳細 | |||||
1891年(明治24) | 第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる | 詳細 | |||||
1895年(明治28) | 新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の誕生日 | 詳細 | |||||
1918年(大正7) | 日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる | 詳細 | |||||
1943年(昭和18) | 日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される | 詳細 | |||||
1985年(昭和60) | 北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する | 詳細 | |||||
1998年(平成10) | 日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日 | 詳細 |