ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、『鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行された日です。
 『鉄道唱歌』は、明治時代に発行された唱歌集で、全5集・334番ありました。鉄道沿線の駅名と風物とを歌い込んだもので、地理教育や交通知識の普及に役だつところからとても重宝され、大流行します。
 第1集東海道編[66番]は、大和田建樹作詞、多梅稚・上真行の作曲で、角書に“地理教育”と銘打ってありました。同年中に、第2集 山陽・九州篇[68番]、第3集 奥州・磐城篇[64番]、第4集 北陸篇[72番]、第5集 関西・参宮・南海篇[64番]の各編も出版されましたが、作曲者は変化しました。
 その後、同類の唱歌は各地に誕生し、1911年(明治44)の『山陰線鉄道唱歌』に至るまで、全国の鉄道が歌い込まれます。
 また、1937~38年には、日本放送協会が『新鉄道唱歌』を制作し、国民歌謡として放送しました。
 尚、1962年(昭和37)に大和田建樹作詞「北海道唱歌」が発見され、これをを含めて『鉄道唱歌』は全6集・374番とも言われています。

〇鉄道唱歌(大和田建樹作詞)の各編

・第1集 東海道篇[66番](1900年5月10日発行) 多梅稚・上真行作曲
 東海道線(新橋駅→神戸駅(御殿場線のルート)
 横須賀線(大船駅→横須賀駅)

・第2集 山陽・九州篇[68番](1900年9月3日発行)多梅稚・上真行作曲
 山陽線(神戸駅→三田尻駅)
 鹿児島線(門司駅(現在の門司港駅)→八代駅)
 日豊線(小倉駅→宇佐駅(現現在の柳ヶ浦駅))
 長崎線(鳥栖駅→長崎駅)

・第3集 奥州・磐城篇[64番](1900年10月13日発行)多梅稚・田村虎蔵作曲
 東北線(上野駅→青森駅)
 常磐線(仙台駅→岩沼駅→田端駅→上野駅)

・第4集 北陸篇[72番](1900年10月15日発行)納所辨次郎・吉田信太作曲
 高崎線・信越線(上野駅→高崎駅→直江津駅→沼垂駅)
 両毛線(高崎駅→前橋駅→足利駅)
 北陸線(富山駅→米原駅)
 七尾線(津幡駅→和倉温泉駅)

・第5集 関西・参宮・南海篇[64番](1900年11月3日発行)多梅稚作曲
 片町線・関西線(網島駅→新木津駅→亀山駅→長島駅)
 奈良線(新木津駅→木幡駅)
 紀勢線・参宮線(亀山駅→津駅→山田駅(現在の伊勢市駅))
 関西線・桜井線・和歌山線(加茂駅→奈良駅→高田駅→柏原駅、高田駅→橋本駅、粉河駅→和歌山駅)
 南海線(和歌山北口駅(現在の紀ノ川駅)→難波駅)

・第6集 北海道篇(南の巻・北の巻)[40番](1906年8月〜1907年6月発行)田村虎蔵作曲
 【南の巻】函館線(函館駅→南小樽駅)【北の巻】函館線(南小樽駅→札幌駅→旭川駅)
 手宮線(南小樽駅→手宮駅(現在は廃線))
 幌内線(岩見沢駅→幾春別駅、幌内太駅→幌内駅)
 室蘭線(岩見沢駅→室蘭駅)
 夕張線(追分駅→夕張駅)

☆鉄道唱歌(第1集東海道編)歌詞 1900年(明治33)5月10日発行

1.汽笛一聲新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として
2.右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも
3.窓より近く品川の 臺場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上總か房州か
4.梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の 大師河原は程ちかし 急げや電氣の道すぐに
5.鶴見神奈川あとにして ゆけば横濱ステーシヨン 湊を見れば百舟の 煙は空をこがすまで
6.横須賀ゆきは乘替と 呼ばれておるゝ大船の つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん
7.八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹 別當公曉のかくれしと 歴史にあるは此蔭よ
8.こゝに開きし頼朝が 幕府のあとは何かたぞ 松風さむく日は暮れて こたへぬ石碑は苔あをし
9.北は圓覺建長寺 南は大佛星月夜 片瀬腰越江の島も たゞ半日の道ぞかし
10.汽車より逗子をながめつゝ はや横須賀に着きにけり 見よやドツクに集まりし わが軍艦の壯大を
11.支線をあとに立ちかへり わたる相模の馬入川 海水浴に名を得たる 大磯みえて波すゞし
12.國府津おるれば電車あり 酒匂小田原とほからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より
13.いでゝはくゞるトン子ルの 前後は山北小山驛 今もわすれぬ鐵橋の 下ゆく水のおもしろさ
14.はるかにみえし富士の嶺は はや我そばに來りたり 雪の冠雲の帶 いつもけだかき姿にて
15.こゝぞ御殿場夏ならば われも登山をこゝろみん 高さは一萬數千尺 十三州もたゞ一目
16.三島は近年ひらけたる 豆相線路のわかれみち 驛には此地の名をえたる 官幣大社の宮居あり
17.沼津の海に聞えたる 里は牛伏我入道 春は花さく桃のころ 夏はすゞしき海のそば
18.鳥の羽音におどろきし 平家の話は昔にて 今は汽車ゆく富士川を 下るは身延の歸り舟
19.世に名も高き興津鯛 鐘の音ひゞく清見寺 清水につゞく江尻より ゆけば程なき久能山
20.三保の松原田子の浦 さかさにうつる富士の嶺を 波にながむる舟人は 夏も冬とや思ふらん
21.駿州一の大都會 靜岡いでゝ阿部川を わたればこゝぞ宇津の谷の 山きりぬきし洞の道
22.鞘より拔けておのづから 草なぎはらひし御劍の 御威は千代に燃ゆる火の 燒津の原はこゝなれや
23.春さく花の藤枝も すぎて島田の大井川 むかしは人を肩にのせ わたりし話も夢のあと
24.いつしか又も暗となる 世界は夜かトン子ルか 小夜の中山夜泣石 問へども知らぬよその空
25.掛川袋井中泉 いつしかあとに早なりて さかまき來る天龍の 川瀬の波に雪ぞちる
26.この水上にありと聞く 諏訪の湖水の冬げしき 雪と氷の懸橋を わたるは神か里人か
27.琴ひく風の濱松も 菜種に蝶の舞坂も うしろに走る愉快さを うたふか磯の波のこゑ
28.煙を水に横たへて わたる濱名の橋の上 たもと凉しく吹く風に 夏ものこらずなりにけり
29.右は入海しづかにて 空には富士の雪しろし 左は遠州洋ちかく 山なす波ぞ碎けちる
30.豐橋おりて乘る汽車は これぞ豐川稻荷道 東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡
31.見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を 矢矧の橋に殘れるは 藤吉郎のものがたり
32.鳴海しぼりの産地なる 鳴海に近き大高を 下りておよそ一里半 ゆけば昔の桶狹間
33.めぐみ熱田の御やしろは 三種の神器の一つなる その草薙の神つるぎ あふげや同胞四千萬
34.名たかき金の鯱は 名古屋の城の光なり 地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん
35.父やしなひし養老の 瀧は今なほ大垣を 三里へだてゝ流れたり 孝子の名譽ともろともに
36.天下の旗は徳川に 歸せしいくさの關が原 草むす屍いまもなほ 吹くか膽吹の山おろし
37.山はうしろに立ち去りて 前に來るは琵琶の海 ほとりに沿ひし米原は 北陸道の分岐線
38.彦根に立てる井伊の城 草津にひさぐ姥が餅 かはる名所も名物も 旅の徒然のうさはらし
39.いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろ その八景も居ながらに 見てゆく旅の樂しさよ
40.瀬田の長橋横に見て ゆけば石山觀世音 紫式部が筆のあと のこすはこゝよ月の夜に
41.粟津の松にことゝへば 答へがほなる風の聲 朝日將軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ
42.比良の高嶺は雪ならで 花なす雲にかくれたり 矢走にいそぐ舟の帆も みえてにぎはふ波の上
43.堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕ぐれさむき唐崎の 松には雨のかゝるらん
44.むかしながらの山ざくら にほふところや志賀の里 都のあとは知らねども 逢坂山はそのまゝに
45.大石良雄が山科の その隱家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稻荷山
46.東寺の塔を左にて とまれば七條ステーシヨン 京都々々と呼びたつる 驛夫のこゑも勇ましや
47.こゝは桓武のみかどより 千有餘年の都の地 今も雲井の空たかく あふぐ清凉紫宸殿
48.東に立てる東山 西に聳ゆる嵐山 かれとこれとの麓ゆく 水は加茂川桂川
49.祗園清水智恩院 吉田黒谷眞如堂 ながれも清き水上に 君がよまもる加茂の宮
50.夏は納凉の四條橋 冬は雪見の銀閣寺 櫻は春の嵯峨御室 紅葉は秋の高雄山
51.琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禪寺 岩切り拔きて舟をやる 智識の進歩も見られたり
52.神社佛閣山水の 外に京都の物産は 西陣織の綾錦 友禪染の花もみぢ
53.扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず みやげを提げていざ立たん あとに名殘は殘れども
54.山崎おりて淀川を わたる向ふは男山 行幸ありし先帝の かしこきあとぞ忍ばるゝ
55.淀の川舟さをさして くだりし旅はむかしにて またゝくひまに今はゆく 煙たえせぬ陸の道
56.おくり迎ふる程もなく 茨木吹田うちすぎて はや大阪につきにけり 梅田は我をむかへたり
57.三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豐太閤のきづきたる 城に師團はおかれたり
58.こゝぞ昔の難波の津 こゝぞ高津の宮のあと 安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし
59.鳥も翔らぬ大空に かすむ五重の塔の影 佛法最初の寺と聞く 四天王寺はあれかとよ
60.大阪いでゝ右左 菜種ならざる畑もなし 神崎川のながれのみ 淺黄にゆくぞ美しき
61.神崎よりはのりかへて ゆあみにのぼる有馬山 池田伊丹と名にきゝし 酒の産地もとほるなり
62.神戸は五港の一つにて あつまる汽船のかずかずは 海の西より東より 瀬戸内がよひも交じりたり
63.磯にはながめ晴れわたる 和田のみさきを控へつゝ 山には絶えず布引の 瀧見に人ものぼりゆく
64.七度うまれて君が代を まもるといひし楠公の いしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る
65.おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて 神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩
66.明けなば更に乘りかへて 山陽道を進まゝし 天氣は明日も望あり 柳にかすむ月の影
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 今日は、1903年(明治36)に作曲家瀧廉太郎が亡くなった日で、廉太郎忌と呼ばれています。 
 瀧廉太郎は、明治時代後期に活躍した日本最初の本格的な作曲家です。
 1879年(明治12)8月24日に、東京府芝区南佐久間町(現在の東京都港区西新橋)に生まれました。しかし、父の転勤にともない横浜、富山、東京、大分へと移り住むことになります。
 1890年(明治23)に15歳で東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学し、1898年(明治31)に本科を卒業すると、研究科に進みました。
 翌年から同校嘱託となり2年ほど後進の指導に当たりましたが、この間に組歌『四季』、中学唱歌「箱根八里」・「荒城の月」、幼稚園唱歌「鳩ぽっぽ」・「お正月」などの今日でもよく知られている歌を作曲したのです。
 1901年(明治34)には、文部省留学生第1号としてドイツに渡り、ライプチヒ音楽院に入学しました。しかし、結核を患って、帰国のやむなきに至り、父の故郷である大分県で療養することになったのです。
 その後治療の甲斐もなく、1903年(明治36)6月29日に大分市の自宅において、23歳で死去しました。

〇瀧廉太郎の主要な作品一覧
 日本男児 (詞・東郊:1896年)
 春の海 (詞・東くめ:1897年)
 散歩 (詞・中村秋香:1897年)
 命を捨てて (詞・不詳:1897年)
 我神州 (詞・砂沢丙喜治:1899年)
 四季の瀧 (詞・東くめ:1899年)
 メヌエット(ピアノ曲:1900年)
 組歌『四季』
  1 花 (詞・武島羽衣:1900年)
  2 納涼 (詞・東くめ:1900年)
  3 月 (詞・瀧廉太郎:1900年)
  4 雪 (詞・中村秋香:1900年)
 中学唱歌
  箱根八里 (詞・鳥居忱:1900年)
  荒城の月 (詞・土井晩翠:1900年)
  豊太閤 (詞・外山正一:1900年)
 幼稚園唱歌(作曲は1900年から)
  ほうほけきょ (詞・瀧廉太郎:1901年)
  ひばりはうたひ (詞・東くめ:1901年)
  鯉幟 (詞・東くめ:1901年)
  海のうへ (詞・東くめ:1901年)
  桃太郎 (詞・瀧廉太郎:1901年)
  お池の蛙 (詞・東くめ:1901年)
  夕立 (詞・東くめ:1901年)
  かちかち山 (詞・東くめ:1901年)
  みずあそび (詞・瀧廉太郎:1901年)
  鳩ぽっぽ (詞・東くめ:1901年)
  菊 (詞・東くめ:1901年)
  雁 (詞・瀧廉太郎:1901年)
  軍ごっこ (詞・東くめ:1901年)
  雀 (詞・佐佐木信綱:1901年)
  雪やこんこ (詞・東くめ:1901年)
  お正月 (詞・東くめ:1901年)
  さようなら (詞・東くめ:1901年)
 別れの歌 (詞・不詳:1902年)
 水のゆくへ (詞・不詳:1902年)
 荒磯の波 (詞・徳川光圀:1902年)
 憾(ピアノ曲:1903年)

☆瀧廉太郎作詞・作曲の幼稚園唱歌
・『ほーほけきょ』 作詞・作曲 瀧 廉太郎
(問) 小さい子、小さい子、
    お前はなにをして居ます。
(答) 私は梅をかいでます。
(問) 梅をかいで夫(それ)から。
(答) 夫(それ)から歌をうたひます。
(問) 何の歌をうたひます。
(答) 黄色い靑い着物着て。
(合唱) けきょけきょ けきょけきょ ほーほけきょ。

・『桃太郎』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  桃太郎さんの、 お供には。
  犬猿雉子の、  三匹よ。
  お供の褒美は、 何やらう。
  日本一の、   黍団子。

・『水あそび』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  水を沢山、 くんで来て。
  水鉄砲で、 遊びましょー。
  一二三四、 ちゅっ ちゅっ ちゅっ。

・『雁(がん)』作詞・作曲 瀧 廉太郎
  月のあかりに、   黒いがん。
  一所にならんで、  五つ六つ。
  親がさきへゆき、  子はあとに。
  何処から来たのか、 つれだって。
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