ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:その他芸術、アート

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、彫刻家荻原守衛(碌山)の亡くなった日です。
 荻原守衛は、1879年(明治12)12月1日に、長野県南安曇郡東穂高村(現在の安曇野市)の農家で、父・勘六、母・りゃうの5男として生まれました。
 幼少のころから絵が好きでしたが、18歳のとき心臓病にかかり、井口喜源治のキリスト教思想に基づく研成義塾に参加します。
 1899年(明治32)に画家を志して上京し、小山正太郎の不同舎で洋画を学びました。1901年(明治34)に洗礼を受け、同年渡米して、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグその他で学びます。
 1903年(明治36)に渡仏し、J.-P.ローランスに学びますが、現地でロダン作『考える人』を見て感動し、彫刻に転じました。フランスのアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入り、1907年(明治40)にはロダンを訪ね、この頃から「碌山」の号を用いるようになります。
 1908年(明治41)に帰国し、第2回文展に『文覚』が入選し、三等賞を受賞しました。翌年の第3回文展でも『北条虎吉像』が三等賞を受け、生命感あふれる清新な作品として評価されます。
 東京新宿の中村屋に出入りしていましたが、突然喀血し、1910年(明治43)4月22日に、30歳の若さで急逝しました。死後の第4回文展で、遺作となった『女』は三等賞を受けます。
 尚、1958年(昭和33)郷里安曇野に碌山美術館が設立されて、作品が収蔵され、公開されました。

〇荻原守衛(碌山)の主要な作品

・『女の胴』(1907年)
・『坑夫』(1907年)
・『文覚』(1908年)
・『北条虎吉像』(1909年)石膏原型が国指定重要文化財
・『デスペア』(1909年)
・『労働者』(1909年)
・『母と病める子』(1910年)
・『女』(1910年)石膏原型が国指定重要文化財
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、彫刻家・画家・詩人高村光太郎の亡くなった日です。
 高村光太郎は、明治時代後期から昭和時代中期にかけて活躍した彫刻家・画家・詩人で、本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読みました。
 1883年(明治16)3月13日に、彫刻家の高村光雲の長男として、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)で生まれ、共立美術学館予備科を経て、1897年(明治30)に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科へ入学します。
 在学中に文学にも興味を示し、与謝野鉄幹の新詩社同人となり、月刊文芸誌『明星』に短歌、詩などを寄稿していました。卒業後、研究科に進み、さらに洋画科に再入学してして学びます。
 1906年(明治39)から欧米に留学し、3年後帰国して、北原白秋らのパンの会に参加し、美術評論や詩を発表し、彫刻、絵画等でも多岐に活躍しました。1914年(大正3)に詩集『道程』を出版、同年長沼智恵子と同棲を始め、1933年(昭和8)に入籍します。
 しかし、智恵子の統合失調症が悪化し、温泉療養などを経て、東京のゼームス坂病院に入院させたものの、1938年(昭和13)に妻を亡くしました。妻没後3年の1941年(昭和16)に、生前の智恵子を偲んだ詩集『智恵子抄』を発表し、翌年には、詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞します。
 その後、太平洋戦争下では戦争協力詩・愛国詩を発表したものの、戦後はこれを深く反省して疎開先の岩手県花巻から近郊の太田村山口に移って、7年間に渡るきびしい独居自炊の生活を送りました。その中で、1950年(昭和25)に戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版し、翌年に第2回読売文学賞を受賞します。
 しかし、1956年(昭和31)4月2日に、東京都中野区にて、73歳で没しました。 

〇高村光太郎の代表的作品

<詩集>
・『道程』(1914年)
・『智恵子抄』(1941年)
・『大いなる日に』(1942年)
・『典型』(1950年)

<翻訳>
・『ロダンの言葉』(1916年)
・『自選日記』ホイットマン作(1921年)
・詩集『明るい時』ベルハーレン作(1921年)
・『天上の炎』エミール・ヴェルハーレン作

<評論>
・論評『緑の太陽』(1910年)
・『造型美論』 (1942年)
・美術評論『美について』

<彫刻>
・「獅子吼」 (1902年)東京芸術大学蔵
・「智恵子の首」 (1916年)
・「裸婦坐像(ざぞう)」 (1916年)
・「手」(1923年)東京国立近代美術館蔵
・「黒田清輝(せいき)像」
・「老人の首」
・「鯰」(1926年)東京国立博物館蔵
・「桃(もも)」
・「蝉(せみ)」
・「魴ぼう (ほうぼう)」 (1927年)
・「裸婦立像(乙女の像)」(1953年)
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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、日本初の公立近代美術館である「神奈川県立近代美術館」(神奈川県鎌倉市)が開館した日です。
 この美術館は、鶴岡八幡宮の境内に、坂倉準三設計で建てられたモダンなもので、1966年(昭和41)にガラスばりの新館が増築され、1999年(平成11)に日本の「近代建築20選」に選ばれるなど、建築としての評価も高いものでした。
 開館最初の展覧会は、「セザンヌ、ルノアール」展で、開館後、年間約10本という企画展を中心とする運営を行ない、所蔵品はゼロの状態でスタートします。
 その後、収蔵品を増やしていき、古賀春江、松本竣介の作品など約14,000点の作品を収蔵するまでになりました。その中で、1984年(昭和59)に鎌倉別館(鎌倉市)、2003年(平成15)に葉山館(葉山町)を開館していきます。
 しかし、鎌倉館(旧・新館)は老朽化に伴う改修が必要となったものの、国史跡の鶴岡八幡宮境内では現状変更が認められないことから、借地契約が切れるのを機に、2016年(平成28)3月31日に閉館し、建物は旧館棟のみ土地所有者の鶴岡八幡宮に譲渡されました。尚、鎌倉別館と葉山館の2館は、継続して開館しています。

〇「美術館」とは?
 広辞苑によると、「絵画・彫刻などの美術品を陳列して一般の展覧・研究に資する建物。」となっていました。また、博物館法では、「博物館は、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し(育成を含む)、展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせて、これらの資料に関する調査研究をする機関である」とされていて、美術館は、博物館の一種とされています。
 日本では、1872年(明治5)東京・湯島聖堂で文部省博物館主催の美術工芸品の展示が行われましたが、1877年(明治10)に第1回内国勧業博覧会が上野公園で開催されたとき、美術品を陳列した部門を美術館と称したのが、名称の始まりで、これが後の帝室博物館(現在の東京国立博物館の前身)となりました。
 1930年(昭和5)には、倉敷の「大原美術館」が西洋絵画のコレクションを常設展示する民間最初の西洋美術館として発足します。太平洋戦争後は、1951年(昭和26)に日本初の公立近代美術館である「神奈川県立近代美術館」が開館、1959年(昭和34)、東京に国立西洋美術館が開かれ、その後数を増し、1970年以降は、地方公共団体による公立美術館の設立が続き、増大していきました。
 日本では、現在でも美術館の数は増加傾向にあり、文部科学省の調査では、2015年(平成27)10月現在で、1,064館(美術博物館441、類似美術博物館623)があります。

☆日本の都道府県立美術館一覧

<北海道>
・北海道立近代美術館(北海道札幌市中央区)
・北海道立三岸好太郎美術館(北海道札幌市中央区)
・北海道立函館美術館(北海道函館市)
・北海道立旭川美術館(北海道旭川市)
・北海道立帯広美術館(北海道帯広市)
・北海道立釧路芸術館(北海道釧路市)

<東北>
・青森県立美術館(青森県青森市)
・岩手県立美術館(岩手県盛岡市)
・宮城県美術館(宮城県仙台市青葉区)
・秋田県立近代美術館(秋田県横手市)
・秋田県立美術館 平野政吉コレクション(秋田県秋田市)
・福島県立美術館(福島県福島市)

<関東>
・栃木県立美術館(栃木県宇都宮市)
・群馬県立近代美術館(群馬県高崎市)
・群馬県立館林美術館(群馬県館林市)
・茨城県近代美術館(茨城県水戸市)
・茨城県つくば美術館(茨城県つくば市)
・茨城県天心記念五浦美術館(茨城県北茨城市)
・茨城県陶芸美術館(茨城県笠間市)
・埼玉県立近代美術館(埼玉県さいたま市浦和区)
・千葉県立美術館(千葉県千葉市中央区)
・東京都美術館(東京都台東区)
・東京都井の頭自然文化園彫刻園(東京都武蔵野市)
・東京都庭園美術館(東京都港区)
・東京都現代美術館(東京都江東区)
・東京都写真美術館(東京都目黒区)
・神奈川県立近代美術館(神奈川県三浦郡葉山町・鎌倉市)

<中部>
・新潟県立近代美術館(新潟県長岡市)
・新潟県立万代島美術館(新潟県新潟市中央区)
・富山県美術館(富山県富山市)
・富山県水墨美術館(富山県富山市)
・石川県九谷焼美術館(石川県加賀市)
・石川県七尾美術館(石川県七尾市)
・石川県立美術館(石川県金沢市)
・福井県立美術館(福井県福井市)
・山梨県立美術館(山梨県甲府市)
・長野県信濃美術館・東山魁夷館(長野県長野市)
・静岡県立美術館(静岡県静岡市駿河区)
・岐阜県美術館(岐阜県岐阜市)
・岐阜県現代陶芸美術館(岐阜県多治見市)
・愛知県美術館(愛知県名古屋市東区)

<近畿>
・三重県立美術館(三重県津市)
・滋賀県立近代美術館(滋賀県大津市)
・滋賀県立陶芸の森(滋賀県甲賀市)
・京都府立堂本印象美術館(京都府京都市北区)
・京都府立陶板名画の庭(京都府京都市左京区)
・奈良県立美術館(奈良県奈良市)
・大阪府立江之子島文化芸術創造センター(大阪府大阪市西区)
・兵庫県公館(兵庫県神戸市中央区)
・兵庫県立美術館「芸術の館」(兵庫県神戸市中央区)
・兵庫陶芸美術館(兵庫県篠山市)
・和歌山県立近代美術館(和歌山県和歌山市)

<中国>
・島根県立美術館(島根県松江市)
・島根県立石見美術館(島根県益田市)
・岡山県立美術館(岡山県岡山市北区)
・広島県立美術館(広島県広島市中区)
・山口県立美術館(山口県山口市)
・山口県立萩美術館浦上記念館(山口県萩市)

<四国>
・徳島県立近代美術館(徳島県徳島市)
・香川県立東山魁夷せとうち美術館(香川県坂出市)
・愛媛県美術館(愛媛県松山市)
・高知県立美術館(高知県高知市)

<九州・沖縄>
・福岡県立美術館(福岡県福岡市中央区)
・佐賀県立美術館(佐賀県佐賀市)
・長崎県美術館(長崎県長崎市)
・大分県立美術館(大分県大分市)
・熊本県立美術館(熊本県熊本市)
・宮崎県立美術館(宮崎県宮崎市)
・沖縄県立博物館・美術館(沖縄県那覇市)
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、日本を代表する版画家 棟方志功が亡くなった日です。
 棟方志功は、明治時代後期の1903年(明治36)9月5日に、青森県青森市の刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれました。
 小学校卒業後、家業の鍛冶職手伝いから青森地方裁判所の給仕となり、ゴッホの絵に感銘し、油絵を描くようになります。1924年(大正13)に画家を志して上京し、帝展や白日会展などに油絵を出品するものの落選が続きます。
 1928年(昭和3)に平塚運一に木版を学び、第9回帝展に油絵を出品し、初めて入選しました。その後は、木版画の制作に没入し、1930年(昭和5)から文化学院で美術教師を務め、1932年(昭和7)には、日本版画協会会員となりました。
 1936年(昭和11)に柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らと知合い民芸運動に参加、また翌年には、国画会同人ともなります。
 1945年(昭和20)には、戦時空襲を避けるため富山県西礪波郡福光町(現在の南砺市)に疎開しました。
 太平洋戦争後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受けるなど、世界的な評価を確立します。
 1964年(昭和39)に朝日文化賞を受賞、1969年(昭和44)に出生地の青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には毎日芸術大賞と文化勲章を受章しました。しかし、1975年(昭和50)9月13日に、東京にて72歳で亡くなったのです。
 尚、1975年(昭和50)に郷里青森市に「棟方志功記念館」が設立されました。

〇棟方志功の主要な作品一覧

<版画>
・『大和し美し』(1936年)
・『十大弟子板画柵』 (1939年)
・『天地乾坤韻』 (1952年)
・『湧然する女者達々』 (1953年)
・『柳緑花紅板画柵』 (1955年)

<著書>
・『ワだばゴッホになる』(1975年)日本経済新聞社
・『棟方志功 ワだばゴッホになる』(1997年)日本図書センター〈人間の記録〉
・『板極道』(1972年)中央公論社
・『棟方志功全集』全12巻(1977-1979年)講談社
・『板画奥の細道』(1979年)講談社文庫
・『板散華』(1942年)山口書店
・『棟方志功 ヨロコビノウタ』(2003年)棟方板画美術館編、二玄社、
・『河井寛次郎 棟方志功』(2004年)河井寛次郎共著、新学社〈近代浪漫派文庫〉
・『棟方志功作品集 富山福光疎開時代』(2004年)東方出版
・『棟方志功の絵手紙』(2006年)小池邦夫・石井頼子共編、二玄社
・『孤高の画人 私の履歴書・画家2』(2007年)熊谷守一・中川一政・東郷青児共著、日経ビジネス人文庫
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