ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:その他舞台、演劇

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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、明治時代に活躍した新派俳優・興行師川上音二郎の亡くなった日です。
 川上音二郎(かわかみ おとじろう)は、幕末の1864年2月8日(文久4年1月1日)に、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区)で、郷士及び豪商の父・川上専蔵の子として生まれましたが、本名は音吉と言いました。
 1878年(明治11)、14歳のときに故郷を出奔して上京し、給仕、巡査などの職を転々として、反政府の自由党の壮士となります。
 その後、郷里で玄洋社の結成に参加して、政治運動に投じ、1883年(明治16)頃から「自由童子」と名のって、大阪中心に演説や新聞発行等で過激な言動に走り、しばしば投獄されました。
 自由民権運動への弾圧が続く中、落語家桂文之助に入門し、浮世亭○○の芸名で寄席に出勤、自由民権論を鼓吹する時局風刺の「オッペケペー節」が評判となります。1891年(明治24)に、堺で書生芝居を旗揚げし、上京して中村座で「板垣君遭難実記」などを上演、幕間に演じた「オッペケペー節」が大人気となりました。
 1893年(明治26)に渡仏後の翌年に戦況報告劇「日清戦争」で大当たりをとって、新演劇の基盤を築き、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)とも結婚します。
 1896年(明治29)に東京神田に川上座を創設したものの、資金繰りに行き詰って、翌々年には人手に渡りました。1899年(明治32)には妻の貞奴と共に、一座を率いて欧米に公演して話題を集め、2年後に再度渡欧し、ほぼヨーロッパ全土を巡業します。
 1903年(明治36)に正劇と称し「オセロ」、「ハムレット」、「ヴェニスの商人」など西欧戯曲の翻案物を上演しましたが、1907年(明治40)には俳優を引退、以後、興行師に専念しました。
 1908年(明治41)には、大阪に洋風劇場「帝国座」を開場、また、帝国女優養成所も開設します。演劇近代化の先駆者として活躍し、「新派劇の父」とも称されましたが、1911年(明治44)11月11日に、大阪において48歳で亡くなりました。

〇オッペケペー節とは?

 明治時代中頃に流行した当時の政治、文明開化の世相を風刺する一種の流行歌です。1889年(明治22)に川上音二郎が作詞し、1891年(明治24)2月以降、鉢巻、陣羽織、軍扇といういで立ちで川上音二郎が寄席や自分の書生芝居の幕間に歌ったのが初めとされてきました。近代国家にふさわしい開明の思想を日常の卑近な例に託して歌に詠み込んだもので、とても人気となって一世を風靡し、その後歌詞は10数種類出来ています。

☆オッペケペー節の歌詞

権利幸福きらいな人に。自由湯をば飲ましたい。オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。
堅い上下角とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪ポン子ツト。貴女に伸士のいでたちで。外部の飾はよいけれど政治の思想が欠乏だ。天地の真理が解らない。心に自由の種を蒔け。オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー
米價騰貴の今日に。細民困窮省らす目深に被ふた高帽子。金の指輪に金時計。権門貴顕に膝を曲け。藝者たいこに金を蒔き。内には米を倉に積み。同胞兄弟見殺か。幾等慈悲なき慾心も。餘り非道な薄情な但し冥土の御土産か。地獄でゑんまに面會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。むやみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかでへどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。ヱラペケペツポ。ペツポーポー
侭になるなら自由の水で。國のけがれを落したい。オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
むことり島田に当世髪。ねづみのかたきに違いない。かたまきゾロ/\引づらし。舶来もようでりつぱだね。買う時ァ大層おだしだらう。夏向ァあつくていらないよ。其時ァおつかが。すいりよして。おそでにかくして一トはしり。からくり細工にいてくるよ。ヲヤ大きなこゑでは。いわれない内證たよ。ぶたいはけつきやうだ御免なさい。オツペケペ。オツペケペツポ。ベツポゝ。
おめかけぜうさんごんさゐに。芝居を見せるは不開化だ。かんぜんてうあく分らない。いろけの所に目をとめて。だいぢの夫をそでにする。浮氣をすること必定だ。おためにならなゐ。およしなさい。國會開けたあかつきに。やくしやにのろけちやおられない。日本をだゐじに守りなさゐ。まゆげのないのがおすきなら。かつたいおいろに持なんせ。目玉むくのがおすきなら。たぬきとそいねをするがよゐ。オツペケ。オツペケベツポペツポーポー
親がひんすりやどんすのふとん。敷て娘は玉のこし。オツペケペ。オツベケペツポ。ベツポーポー
娘のかた掛りッぱだが。とつさんケツトを腰にまき。どちらも御客をのせたがる。娘のころぶを見ならふて。とつさんころんじやいけないよ。オツペケペ。オツペケペツポ。ペツポーポ
洋語をならふて開化ぶり。バンくふばかりが改良でねへ。自由の権利をこうてうし。國威をはるのが急務だよ。ちしきとちしきのくらべやゐ。キョロ/\いたしちや居られなゐ。窮理と発明のさきがけで。 異國におとらずやッつけろ。神國名義だ日本ポー

   小国政作『版画「川上音二郎書生演劇」』より
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 今日は、1881年(明治14)に劇作家・演出家・小説家 小山内薫が誕生した日です。
 明治時代後期から昭和時代前期に活躍した劇作家、演出家、小説家です。1881年(明治14)7月26日に、広島県広島市で、陸軍軍医小山内玄洋の子として生まれました。
 父の死後、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)へ転居し、府立一中を経て、旧制一高から東京帝国大学文学部英文科に進学したのです。
 在学中から、舞台演出に関わり、詩や小説なども創作し、卒業後は、1907年(明治40)に雑誌『新思潮』(第一次)を発刊して、西欧の演劇評論・戯曲を紹介しました。
 1909年(明治42)には、2世市川左団次と組んで自由劇場を結成、1915年(大正4)歌舞伎研究の古劇研究会を結成、1918年(大正7)には市村座に入ったものの、翌々年に退座するなど模索を続けています。また、1920年(大正9)には松竹キネマの研究所顧問に迎えられ、映画『路上の霊魂』製作の総指揮にもあたりました。
 そして、1924年(大正13)土方与志らと築地小劇場を興して、現在の新劇の基礎を築いたのです。しかし、1928年(昭和3)12月25日、心臓発作のため47歳で急逝しました。

〇「築地小劇場」とは?
 この劇場は、土方与志と小山内薫を主宰として、東京築地(現在の東京都中央区築地)に、大正時代の1924年(大正13)6月13日に開設した日本最初の新劇専門劇団およびその劇場のことです。
 創立時のメンバーは他に、俳優として友田恭助、汐見洋、効果・照明担当の和田精、経営の浅利鶴雄の6人で、演技部に東屋三郎、青山杉作、研究生として千田是也、丸山定夫、田村秋子、山本安英らがいました。
 関東大震災後ヨーロッパから帰国した土方与志が私財を投じて建設(定員 497名)、ゴシック・ロマネスク様式で、当時最新の機構であるクッペルホリゾントや照明設備、可動舞台などが取入れられたのです。
 その後、5年間に100余編の内外戯曲を連続上演、新劇史上画期的な成果を収め、千田是也、山本安英、滝沢修、杉村春子ら、戦後の演劇界を支えた人々が巣立ちましたが、劇団は1930年(昭和5)に解散し、劇場も1945年(昭和20)に戦災で焼失しました。
 この間、実に多彩なものが上演されていますが、その一部を紹介しておきます。

〇築地小劇場で上演されたもの(一部)
 『海戦』(ラインハルト・ゲーリング作)
 『白鳥の歌』(チェーホフ作)
 『休みの日』(マゾオ作)
 『解放されたドン・キホーテ』(アナトリー・ルナチャルスキー作、千田是也訳、佐野碩演出)
 『夜の宿』(『どん底』)(ゴーリキィ作)
 『令嬢ジュリー』(A.ストリンドベリ作)
 『三人姉妹』(チェーホフ作)
 『国姓爺合戦』(近松門左衛門作)
 『役の行者』(坪内逍遥作)
 『法成寺物語』(谷崎潤一郎作)
 『ピーターパン』(ジェームス・マシュー・バリー作)
 『ダントンの死』(ゲオルク・ビューヒナー作)
 『風の又三郎』(宮沢賢治作)
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に築地小劇場が開設された日です。、
 この劇場は、土方与志と小山内薫を主宰として、東京築地(現在の東京都中央区築地)に開設した日本最初の新劇専門劇団およびその劇場のことです。
 創立時のメンバーは他に、俳優として友田恭助、汐見洋、効果・照明担当の和田精、経営の浅利鶴雄の6人で、演技部に東屋三郎、青山杉作、研究生として千田是也、丸山定夫、田村秋子、山本安英らがいました。
 関東大震災後ヨーロッパから帰国した土方与志が私財を投じて建設(定員 497名)、ゴシック・ロマネスク様式で、当時最新の機構であるクッペルホリゾントや照明設備、可動舞台などが取入れられたのです。
 その後、5年間に100余編の内外戯曲を連続上演、新劇史上画期的な成果を収め、千田是也、山本安英、滝沢修、杉村春子ら、戦後の演劇界を支えた人々が巣立ちましたが、劇団は1930年(昭和5)に解散し、劇場も1945年(昭和20)に戦災で焼失しました。
 この間、実に多彩なものが上演されていますが、その一部を紹介しておきます。

〇築地小劇場で上演されたもの(一部)
 『海戦』(ラインハルト・ゲーリング作)
 『白鳥の歌』(チェーホフ作)
 『休みの日』(マゾオ作)
 『解放されたドン・キホーテ』(アナトリー・ルナチャルスキー作、千田是也訳、佐野碩演出)
 『夜の宿』(『どん底』)(ゴーリキィ作)
 『令嬢ジュリー』(A.ストリンドベリ作)
 『三人姉妹』(チェーホフ作)
 『国姓爺合戦』(近松門左衛門作)
 『役の行者』(坪内逍遥作)
 『法成寺物語』(谷崎潤一郎作)
 『ピーターパン』(ジェームス・マシュー・バリー作)
 『ダントンの死』(ゲオルク・ビューヒナー作)
 『風の又三郎』(宮沢賢治作)
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