ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:その他災害

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 今日は、江戸時代中期の1754年(宝暦4)に、江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手した日ですが、新暦では3月20日となります。
 これは、1754年(宝暦4)2月から1755年(宝暦5)5月まで、幕府の命により薩摩藩が行った治水工事のことで、濃尾平野の治水対策として、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事が行われました。
 しかし、想像以上の難工事で、薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両にも及び、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害するという結果になります。
 この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及びましたが、本格的な治水工事の完成は、明治時代前期のヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事を待たなければなりませんでした。
 現在は、亡くなった84名の薩摩藩士を祀った治水神社があり、千本松原の河口側の南端に薩摩藩士の慰霊と宝暦治水の偉業を記念する宝暦治水之碑が建てられています。
 また、周辺は国営木曽三川公園として整備され、木曽三川公園センターの「水と緑の館」では、宝暦治水やその後の木曽三川分流工事に関する展示がありますし、展望タワー(高さ65m)からは、木曽三川を一望の下にすることができるようになりました。
 以下に、「宝暦治水之碑」の碑文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寳暦治水之碑」の碑文

暦治水碑
     内閣総理大臣元帥陸軍大將正二位勲一等功二級侯爵山縣有朋蒙額
     樞密院書記官長従三位勲二等小牧昌業撰文 正五位日下部東作書
尾濃二州之地田野廣衍厥土沃饒有木曽長良揖斐三大川南注入勢海支川交錯或合或分市邑散
在其間者俗稱輪中毎霖雨水出衆流逓相侵淩輒致漲溢横决汎濫往往潰田畝漂廬舎民之苦之也
久矣寳暦年中幕府命薩摩藩修治之藩侯島津重年遣其家老平田靱負大目附伊集院十蔵等赴役
以寳暦四年二月起工至五月而止以夏時水長不獲施功也及九月復作翌年五月而畢費藩帑三十
萬兩始克告成幕府嘉其功賜重年時服五十襲其餘賞賚有差是役也藩士従事者凡六百人地亘十
餘里畫為四區衆各分任其事靱負為総奉行十蔵副之幕府亦遣吏監視修隄防疏溝渠建閘排柵築
堰累籠或創設或修補遠近呼應畚鍤相接而其尤致力者為油島防堵大榑築堰盖油島當木曽揖斐
兩川相會處洪流激甚大榑川受長良川地低湍急故施工甚艱随作随壊困頓支持迄以有成按當時
經營之迹其要在務使諸水各循其道以防侵凌漲溢之憂而其計莫急於斯二者是其所以注全力于
此也於是輪中十里之地無復有慘害如往時者民安其業以至今日世稱之曰薩摩工事後来三川分
流之策實基于此役己竣総奉行平田靱負俄自刃而斃其他前後自殺者數十人就塟安龍海蔵等諸
寺事載其過去牒顧其致死之由奮記靡得而詳焉土人傳言工事艱鉅出於意料之外功屡敗于垂成
以致経費逾額然勢不可中止故寧決死成事而謝專擅増費之罪也想當時士風淳樸人重紀律崇氣
義諸子既奉君命就功程不遂則不己苦心焦思之餘計不得巳以至于此土人所傳當不謬也然則是
役事業之偉且艱可以想見而諸子之堅志不撓舎身徇公竟能全其職守以貽澤於後世則可謂古之
所稱以死勤事功徳加民者矣豈不韙哉尓来百五十年矣居民猶頒薩摩工事而不衰言及死事者則
有歔欷泣下者 皇治中興百度維新凡興利除害之事次第修舉三川分流之策亦果施行成功將在
近茲地人士既感 聖世仁澤之洽因念寶暦創始之功又哀致命諸人之義烈不忍使其泯没莫聞胥
謀建石勒其功績以垂永遠来徴余文余不能辭乃為叙其梗概云
明治三十三年二月                           井龜泉刻字

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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、秋田沖で猛烈に発達した低気圧により各地で豪雪の被害が出た「三八豪雪」の端緒となった日です。
 この年は、前年の暮れ頃から大雪の傾向にありましたが、1月5日頃より秋田沖で猛烈に発達した低気圧によって、強い冬型の気圧配置が続く中で、2月初めごろまで、北陸地方を中心に東北地方から九州にかけての広い範囲で降雪が続き、記録的な豪雪となりました。
 特に、日本海側平野部の広い範囲で未曾有の大雪に見舞われ、福井市で213(1位)、金沢市で181(1位)、富山市で186(2位)、高岡市で225(1位)、長岡市で318(2位)、三条市で245(1位)に達します。これに対する除雪が追い付かず、鉄道や道路も寸断され、孤立する集落が多数出て、雪の重みによる住家や施設の倒壊も相次ぎ、学校の休校も長期に及びました。
 その中で、北陸管内の鉄道は麻痺状態となり、長距離列車は半月余り運休が続き、一番遅延したのは、23日に新潟を出た急行「越後号」で、東三条、押切、長岡で5日4晩、100余時間かかって27日にようやく上野駅に到着よるという状況となります。
 また、雪崩や融雪による洪水も発生し、「消防白書」によると、死者228名、行方不明者3名、負傷者356名、住家全壊753棟、半壊982棟、床上浸水640棟、床下浸水6,338棟などの被害が出たとされています。
 この豪雪について、1963年(昭和38)2月12日に気象庁は「昭和38年1月豪雪」と命名しましたが、一般には、「三八豪雪」と呼ばれるようになりました。

〇豪雪とは?
 比較的短い時間に多量に降る雪のことで、「大雪(おおゆき)」よりもさらに多量のものをいう場合が多いとされます。
 多雪地帯では、一晩で1m以上の降雪がおおむね豪雪の目安とされていますが、雪国では、これを「ドカ雪」と呼びならわしてきました。
 また、積雪の多い地帯を豪雪地帯といいいますが、「豪雪地帯対策特別措置法」(1962制定)によると、積雪積算値(毎日の積雪の値をひと冬にわたって積算した値)が5,000cm/日以上の地帯ということになります。

☆昭和時代以降の記録的豪雪

・1927年(昭和2)の豪雪
・1945年(昭和20)の豪雪
・1963年(昭和38)の「昭和38年1月豪雪」(通称:三八豪雪)
・1981年(昭和56)の豪雪(通称:五六豪雪)
・2006年(平成18)の「平成18年豪雪」(通称:〇六豪雪・一八豪雪)
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