ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:その他文学

イメージ 1

 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、文芸評論家亀井勝一郎の生まれた日です。
 亀井勝一郎(かめい かついちろう)は、北海道函館区元町(現在の函館市)で、函館貯蓄銀行支配人の父・喜一郎、母・ミヤの長男として生まれました。1923年(大正12)に旧制山形高等学校(現在の山形大学)に入学し、ドイツ語を通してゲーテ、ハイネの作品に親しみます。
 1926年(大正15)に東京帝国大学文学部美学科に入学、マルクス主義芸術研究会に入って中野重治らを知り、翌年には「新人会」会員となり、共産青年同盟員として、労働運動などに奔走しました。1928年(昭和3)に大学を自主的に退学、三・一五事件のあと治安維持法違反で検挙され、2年後に出獄します。
 その後、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に所属して、プロレタリア文学運動の評論家として、「創作活動に於ける当面の諸問題」などを発表しました。1933年(昭和8)に同盟解散後の左翼運動退潮期に自己内面の真実を問う、第一評論集『転形期の文学』(1934年)刊行後は、左翼文学から退きます。
 1935年(昭和10)に、保田与重郎と『日本浪曼派』を創刊し評論を発表、同誌廃刊後は小林秀雄らの『文学界』に参加、1942年(昭和17)には、日本文学報国会評論部会幹事となりました。この間、古典美や仏教への関心を深め、『大和古寺風物誌』(1943年)、『親鸞』(1944年)などを著しています。
 太平洋戦争後は、『現代人の遍歴』(1948年)をはじめとして、自己を通して日本人の精神史を探る仕事に着手するなど、幅広く活躍しました。その中で、1951年(昭和26)に『現代人の研究』で読売文学賞、1964年(昭和39)に芸術院賞、1965年(昭和40)に『日本人の精神史研究』で菊池寛賞、同年芸術院会員にも推されるなど、数々の栄誉にも輝いています。
 社会的には日中国交回復にも尽力しましたが、1966年(昭和41)11月14日に、東京において、59歳で亡くなりました。
 尚、1969年(昭和44)より、亀井勝一郎賞(文藝評論を対象)が設けられ、第14回の1982年(昭和57)まで続けられています。

〇亀井勝一郎の主要な著作

・『転形期の文学』(1934年)
・『人間教育(ゲエテへの一つの試み)』(1937年)池谷信三郎賞受賞
・『島崎藤村論』(1939年)
・『大和古寺風物誌』(1943年)
・『親鸞』(1944年)
・『現代人の遍歴』(1948年)
・『現代人の研究』(1951年)読売文学賞受賞
・『日本人の精神史研究』(1959~66年)菊池寛賞受賞
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の生まれた日です。
 平林初之輔(ひらばやし はつのすけ)は、京都府竹野郡深田村字黒部(現在の京丹後市黒部)に生まれました。
 早稲田大学文学部英文科に入学し、片上伸や吉江喬松らに親しみ、アテネ・フランセでフランス語を学びます。1917年(大正6)に卒業後、翌年にやまと新聞に入社し、文芸時評を担当、また、フランス文学のヴィクトル・ユゴーなどの小説を翻訳して掲載しました。
 1920年(大正9)の労働争議を契機に退社し、国際通信社に移って、青野季吉らとマルクス主義を研究し始めます。翌年の『唯物史観と文学』で認められ、1922年(大正11)に、雑誌『種蒔く人』に参加、唯物史観に基づく文学理論を展開、初期プロレタリア文学の理論的指導者として活躍しました。
 翌年、評論集『無産階級と文学』を刊行して高く評価され、また、ジャンジャック・ルソーの『エミール』を柳田泉と共訳(1924年)しています。
 1926年(大正15)に博文館に入社し、『太陽』誌の編集主幹となり、1929年(昭和4)に評論『政治的価値と芸術的価値』を書いて、プロレタリア文学理論の矛盾をついて論争を引き起こしました。
 1931年(昭和6)に、フランスのパリで開催された第1回国際文芸作家協会大会に日本代表として出席しましたが、同年6月15日に、出血性膵臓炎のため同地において、38歳の若さで客死しています。

〇平林初之輔の主要な著作

・『唯物史観と文学』(1921年)
・『無産階級の文化』(1923年)
・『日本自由主義発達史』 日本評論社(1924年)
・訳書『エミール』ルソー作 柳田泉共訳 春秋社(1924年)
・訳書『グリイン家の惨劇』 ヴァン・ダイン作 博文館(1928年)
・評論『政治的価値と芸術的価値』(1929年)
・評論『文学理論の諸問題』(1929年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、1767年(明和4)に、江戸時代後期に活躍した読本・合巻作者滝沢馬琴が生まれた日ですが、新暦では7月4日となります。
 滝沢馬琴は、江戸深川において、旗本松平信成の用人の父・滝沢興義、母・もんの5男として生まれましたが、本名は興邦(のちに解、別号は曲亭など)といいました。
 1780年(安永9)に主家を出奔し、徒士奉公などで放浪の末に、1790年(寛政2)秋に山東京伝に入門します。
 翌年には、大栄山人の名で黄表紙『尽用而二分狂言』を発表、1793年(寛政5)には飯田町のはきもの商伊勢屋の入婿になるものの、著述に専念しました。
 後に、滑稽本よりも物語性が強い読本に転じ、処女作『高尾船字文(たかおせんじもん)』(1796年)を出し、『椿説弓張月』(1807~11年)で人気を博し、1812年(文化11)より、28年をかけて完成させた大作『南総里見八犬伝』で第一人者となります。
 後年は、天保の改革による風俗取締りの影響、1835年(天保6)に跡とりのひとり息子宗伯に先立たれ、1839年(天保10)ごろからの眼疾の悪化で失明などの逆境の中にあっても、息子の嫁おみちの献身的な代筆によって、執筆を続けました。しかし、1848年(嘉永元年11月6日)に、江戸において、81歳で亡くなっています。

〇滝沢馬琴の主要な作品

・黄表紙『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』(1791年)
・読本『高尾船字文(たかおせんじもん)』(1796年)
・読本『椿説弓張月』(1807~11年)
・読本『俊寛僧都島物語』(1808年)
・随筆『燕石雑志』(1811年)
・読本『南総里見八犬伝』(1812~42年)
・読本『朝夷(あさひな)巡島記』(1815年)
・合巻『傾城水滸伝』(1825~35年)
・読本『近世説美少年録』(1829~30年)
・随筆『玄同放言』
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代後期の1894年(明治27)に、戯作者・新聞記者仮名垣魯文の亡くなった日です。
 仮名垣魯文は、江戸時代後期の1829年2月9日(文政12年1月6日)に、江戸京橋(現在の東京都中央区)で魚屋を営む父野崎佐吉の子として生まれ、本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉と言いました。
 幼少期から奉公に出され、その先で戯作に興味を持つようになり、好きをつのらせ、18歳の時に戯作者花笠魯介文京の弟子となります。
 1849年(嘉永2)の19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本」を書き、1855年(安政2)に起こった安政大地震のルポルタージュ『安政見聞誌』で注目されます。
 1860年(万延元)から翌年にかけて出した滑稽本『滑稽富士詣』で認められ、戯作者としての地位を得ました。
 明治時代になって、『西洋道中膝栗毛』 (1870~76年) 、『安愚楽鍋 』(1871~72年)などの開化風俗を描く滑稽本の代表作家となります。
 1872年(明治5)の敬神愛国などを謳った「三条の教憲」公布後はしばらく執筆を控えていましたが、その後、戯作者からジャーナリストへ転身し、1874年(明治7)からは『横浜毎日新聞』の雑報記者となりました。
 翌年には、自ら編集者として『仮名読新聞』を創刊、新聞小説の土台を築き、新聞の続き物を草双紙化した「高橋阿伝夜刃譚」などの毒婦・悪婦もので読者を魅了します。
 次いで『いろは新聞』の社長となり、1884年(明治17)には『今日新聞』を創刊し主筆となりましたが、1894年(明治27)11月8日に、66歳で亡くなりました。

〇仮名垣魯文の主要な作品
・「安政風聞集」(1856年)
・「仮名読八犬伝」(-1867年)
・「薄緑娘白浪」(1868-72年頃)
・「報讐殿下茶屋聚」(1868年)
・「西洋道中膝栗毛」(1870-76年)
・「安愚楽鍋」(1871年)
・「松飾徳若譚」(1871年)
・「胡瓜遣」(1872年)
・「世界都路」(1872年)
・「西洋器会」(1872年)
・「倭国字西洋文庫」(1872年)
・「蛸之入道魚説教」(1872年)
・「黄金花猫目鬘」(1872年)
・「三教則の捷径」(1873年)
・「佐賀電信録」(1874年)
・「格蘭氏伝倭文賞」(1879年)
・「高橋阿伝夜叉譚」(1879年)
・「葉武列土倭錦絵」(1886年)
・「毒婦の行末」(1889年)
・「甲府地名くらべ」(?)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、鎌倉時代の1279年(弘安2)に、『十六夜日記』の著者阿仏尼が、遺産相続をめぐって幕府に上訴するため鎌倉に向けて京を出立した日ですが、新暦では11月21日となります。(1277年との説もあります)
 その出立が、10月16日(陰暦)だったところから、「いさよひの日記」と呼ばれるようになり、この書名になったとのことです。

〇『十六夜日記』とは?
 鎌倉時代に、藤原為家の側室である阿仏尼(あぶつに)によって記された紀行文・日記で、『東関紀行』、『海道記』と共に、中世三大紀行文の一つと言われています。
 旅行記、鎌倉滞在記、鶴岡八幡宮奉納長歌の3部から成っていて、1282年(弘安5)ころ成立したと考えられています。
 為家の没後、実子為相(ためすけ)と為家の嫡子為氏との間に播磨国細川荘をめぐる遺産相続争いが起きました。その訴訟のため、1279年(弘安2)に、阿仏尼が京から鎌倉へ旅立つことになったのです。その出立が、10月16日(陰暦)だったところから、「いさよひの日記」と呼ばれるようになったとのことです。
 特に、紀行文の部分は、実際の旅に基づいて書かれており、中世の旅の様子や街道風景を知る上でとても興味深いもので、足跡をたどることも可能です。
 また、当時の訴訟の様子を伝える資料としても貴重なものです。

〇阿仏尼(あぶつに)とは?
 鎌倉時代中期の女流歌人で、平度繁(たいらののりしげ)の養女でしたが、安嘉門院(後高倉院皇女)に仕え、安嘉門院四条とも言われていました。
 しかし、若くして失恋の痛手から一時出家したのです。その後、世俗との関わりを断ち切れず、30歳頃に藤原為家の側室となり、京都の嵯峨に住んで、冷泉為相・為守らを産むことになります。
 1275年(建治元)の為家没後、出家して北林禅尼と称します。それから、播磨国細川荘の遺産相続をめぐって為家の嫡子為氏と争うことになり、1279年(弘安2年10月16日)に、幕府に上訴するため鎌倉に下りました。
 鎌倉では、極楽寺の近くの月影の谷に住んでいましたが、1283年(弘安6)頃、60余才で亡くなったとされています。
 訴訟の方は、没後6年目の1289年(正応2)に採決が下り、阿仏尼側の勝利でした。
 阿仏尼には、文学的な才あり、代表作の『十六夜日記』以外に、『夜の鶴』、『仮名諷誦』、『うたたねの記』、『安嘉門院四条百条』等の著作があります。また、歌人としてもすぐれ、いろいろな歌合に出詠し、『続古今集』以下の勅撰集に48首入集しています。

<代表的な歌>
「山川を 苗代水に まかすれば 田の面にうきて 花ぞながるる 」(風雅和歌集)
「色々に ほむけの風を 吹きかへて はるかにつづく 秋の小山田」(玉葉和歌集)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ