ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:その他教育

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 今日は、明治時代の1890年(明治23)に、教育者・キリスト教指導者新島襄(にいじまじょう)の亡くなった日です。
 新島襄は、江戸時代後期の1843年(天保14年1月14日)に、江戸神田の安中藩江戸屋敷で、安中藩士の父新島民治、母とみの長男として生まれましたが、幼名を七五三太(しめた)といいました。
 1856年(安政3)から蘭学を学び始め、1860年(万延元)には、軍艦操練所に入り、航海実習に従事します。
 欧米文明とその宗教に感銘して脱藩後、1864年(元治元)に、国禁を犯してアメリカ船で箱館から海外に密航しました。
 アメリカ合衆国に渡り、フィリップス・アカデミー英語科を経て、1870年(明治3)にアーモスト大学を卒業し、日本人としてはじめて学士号(理学士)を取得します。その後、アンドーバー神学校に入り、1872年(明治5)に訪米した岩倉遣外使節団の案内役として随行し、欧米の教育事情を視察しました。
 1874年(明治7)に神学校を卒業後、ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、キリスト教に基づく精神主義教育を行なう学校を日本に設立するために帰国します。
 1875年(明治8)に、京都府顧問山本覚馬らの協力を得て、同志社英学校を京都に創設しました。1877年(明治10)には、同志社女学校も設立すると共に、国内の伝道にも力を入れます。
 1884年(明治17)4月から翌年12月まで欧米を巡歴し、帰国後、仙台の東華学校や京都看病婦学校を開校、同志社病院の開院にも携わりました。
 しかし、1890年(明治23)1月23日に大学設立運動途上、神奈川県大磯において、46歳で客死します。
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 今日は、明治時代後期の1891年(明治24)に、第一高等中学校講師内村鑑三の教育勅語への拝礼についての「不敬事件」が起こった日です。
 この事件は、1891年(明治24)1月9日、第一高等中学校講堂での教育勅語捧読式で、教員と生徒が教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められたのに対して、内村鑑三が最敬礼をせず(礼が浅かった)に降壇したものでした。このことが同僚や生徒等によって非難されて問題化し、いわゆる「不敬事件」となり、2月に依願解嘱に至ったものです。
 1890年(明治23)10月30日に発布された「教育勅語」について文部省は直ちにその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布し、丁重に取り扱うことが求められました。その中で、最初に発生した「不敬事件」として問題化、キリスト教信仰が近代天皇制国家理念と相容れない反国家性を持つものと非難され、明治政府による教育・思想統制の一つの事件ともされました。
 内村鑑三は、明治時代、大正時代に活躍した無教会主義のキリスト教指導者・思想家です。1861年(万延2)に、内村宜之の長男として江戸藩邸に生まれました。
 東京英語学校を経て、1877年(明治10)札幌農学校に第2期生として入学し、W.S.クラークの感化を受けてキリスト教に入信することになります。
 卒業後は北海道開拓使御用掛となり、水産研究に従事しましたが、結婚に破れて1885年(明治17)渡米し、アマースト大学、ハートフォード神学校で学びました。
 1888年(明治21)に帰国後、北越学館、東洋英和学校、水産伝習所で教え、1890年(明治23)第一高等中学校嘱託教員となりましたが、翌年教育勅語拝礼を拒んだ不敬事件で教壇を追われることになります。
 その後、「万朝報」の記者となり、足尾銅山鉱毒事件反対運動にかかわり、日露戦争に際しては人道主義的立場から非戦論を唱えることになりました。
 記者を辞めてからは、1900年(明治33)に「聖書之研究」を創刊し、聖書研究会をひらいて無教会主義をとなえることになります。
 それからも、伝道活動・学問的研究・著述活動を精力的に行いましたが、1930年(昭和5)3月28日に、70歳で亡くなりました。

〇内村鑑三の主要な著作

・『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
・『代表的日本人』岩波文庫(1908年)
・『基督信徒のなぐさめ』 岩波文庫(1976年)
・『求安録』 警醒社・福音社(1893年)
・『地人論』 警醒社(1894年)
・『後世への最大遺物』 便利堂(1897年)
・『デンマルク国の話』(1911年)
・『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫
・『内村鑑三全集』全40巻 岩波書店(1984年完結)

☆内村鑑三の非戦論 1903年(明治36)6月30日付「万朝報」記事(全文)

 余ハ日露非開戦論である許りでない。戦争絶対反対論者である。戦争ハ人を殺すことである。爾うして人を殺すことハ大罪悪である。爾うして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やう筈ハない。
 世にハ戦争の利益を説く者がある、然り、余も一時は斯かる愚を唱へた者である。然しながら今に至て其愚の極なりしを表白する、戦争の利益は其害毒を贖ふに足りない、戦争の利益は強盗の利益である。是れは盗みし者の一時の利益であつて、(若し之れをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である、盗みし者の道徳ハ之が為に堕落し、其結果として彼は終に彼が剣を抜て盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償はざるを得ざるに至る、若し世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。
 近くは其実例を二十七八年の日清戦争に於て見ることが出来る、二億の富と一万の生命を消費して日本国が此戦争より得しものハ何である乎、僅少の名誉と伊藤博文伯が侯となりて彼の妻妾の数を増したることの外に日本国は此戦争より何の利益を得たか、其目的たりし朝鮮の独立は之がために強められずして却て弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、其道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆の地位にまで持ちきったでハない乎。此大害毒大損耗を目前に視ながら尚ほも開戦論を主張するが如きは正気の沙汰とは迚も思ハれない。
 もちろんサーベルが政権を握る今日の日本において、余の戦争廃止論が直に行はれやうとハ、余と雖も望まない。然しながら戦争廃止論ハ今や文明国の識者の輿論となりつゝある。爾うして戦争廃止論の声の揚らない国は未開国である、然り、野蛮国である、余は不肖なりと雖も今の時に方て此声を揚げて一人なりとも多くの賛成者を此大慈善主義のために得たく欲ふ、世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来て大胆に此主義に賛成せよ。

                    『万朝報』1903年6月30日より

<現代語訳>

 私は日露戦争の非開戦論者であるばかりでなく、戦争の絶対廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そのようにして、人を殺すことは大罪悪である。そのようにして、大罪悪を犯して、個人も国家も得をするはずもない。
 世の中には、戦争での利益を説明する人がいる。確かに、私も一時(日清戦争の時)このような愚かなことを唱えた人間である。しかしながら、今になってそれが愚の骨頂だったことを表明する。戦争の利益は、その害毒を償うには足りないし、それは強盗の利益に匹敵するものなのだ。これは、盗人の一時利益であって、(もしこれをも利益というのであるならばなのだが)盗人と盗まれた人との永久の不利益となるのだ。盗人の道徳はこれによって地に落ち、その結果として盗人が武器をもって、盗んだものの数倍以上のものでその罪悪を償わざるを得なくなるのだ。もし世の中で最も愚かな行為というものがあれば、それは武器をもって、国の運命を進めようと計ることである。
 近くでは、その実例を明治27~28年の日清戦争において見ることができる。二億円の金と一万の人命を消費して、日本国がこの戦争より得たものは何であるか。ささいな名誉と伊藤博文首相が伯爵から侯爵に昇って、めかけの数を増やしたことぐらいで、日本国はこの戦争で何の利益を得たというのだろうか、その目的だったはずの朝鮮の独立も、これによって強められたのではなく、逆に弱められ、中国の他国による分割支配のきっかけがつくられ、日本国民の負担はとても増加し、その道徳は非常に地に落ち、東洋全体が危険におちいったではないか。この大きな害毒、大きな損耗を目の前に見ていても、なおも日露戦争の開戦論を主張するというようなことは、正気の沙汰とはとても思われない。
 もちろん、軍人が政権を握っている(陸軍大将桂太郎が首相)という、現在の日本において、私の戦争廃止論がすぐに実行に移されるとは、私でさえも希望を持っていない。しかしながら、戦争廃止論は、文明国の知識ある人々の世論となりつつあるのだ。そのようにして、戦争廃止論の声が上がらない国は、未開国であり、つまり、野蛮国ということだ。私は、未熟者ではあるが、今の時節にあたり、この声をあげて、一人でも多くの賛成者をこの大慈善主義のために得たいと願っている。世の中の正義と人道と国家を愛する者は、集まってきて大胆にこの主義に賛成してほしい。

【注釈】
[1]斯かる愚を唱へた者:かかるぐをとなえたもの=内村は日清戦争にあたって「義の為の戦争」と肯定していた。
[2]贖ふ:あがなふ=償う。
[3]日清戦争:にっしんせんそう=1894年(明治27)8月から翌年にかけて、日本と清国が戦った戦争。
[4]二億の富:におくのとみ=日清戦争の戦費が約2億円かかったことを指している。
[5]一万の生命:いちまんのせいめい=日清戦争で約一万三千人の戦死者・戦病死者を出したことを指している。
[6]伊藤博文:いとうひろぶみ=日清戦争の時の首相だった。⇒詳細
[7]伯が侯となり:はくがこうとなり=日清戦争後の1895年(明治28)8月に、伊藤博文が伯爵から侯爵に昇ったこと。
[8]妻妾の数を増やしたる:さいしょうのかずをふやしたる=伊藤博文には何人かのめかけがいたことを揶揄している。
[9]危殆:きたい=あやういこと。非常にあぶないこと。危険。
[10]サーベルが政権を握る:さーべるがせいけんをにぎる=軍人が政権を握っている(陸軍大将桂太郎が首相)ことを指す。
[11]不肖:ふしょう=取るに足りないこと。未熟で劣ること。
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争中の1944年(昭和19)に、「学徒勤労令」が公布・施行された日ですが、同時に「女子挺身隊勤労令」も出されています。
 昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、すでに学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられていました。
 それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになったのです。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されました。
 その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されました。
 その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されたのです。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されました。
 この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及んだのです。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月11日をもって、この勅令は廃止されることになりました。
 以下に、最初に出された「学徒勤労令」の全文を掲載しておきます。

〇「学徒勤労令」(全文)1944年(昭和19)8月23日に公布・施行

学徒勤労令 (昭和19年勅令第518号)

第一条 国家総動員法第五条ノ規定ニ基ク学徒(国民学校初等科及之ニ準ズベキモノノ児童並ニ青年学校ノ生徒ヲ除ク)ノ勤労協力及之ニ関連スル教職員ノ勤労協力(以下学徒勤労ト総称ス)ニ関スル命令並ニ同法第六条ノ規定ニ基ク学徒勤労ヲ為ス者ノ使用又ハ従業条件ニ関スル命令ニシテ学徒勤労ヲ受クル者ニ対スルモノニ付テハ当分ノ内本令ノ定ムル所ニ依ル

第ニ条 学徒勤労ハ教職員及学徒ヲ以テスル隊組織(以下学校報国隊ト称ス)ニ依ルモノトス但シ命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ命令ノ定ムル所ニ依リ学校報国隊ニ依ラザルコトヲ得

第三条 学徒勤労ニ当リテハ勤労即教育タラシムル様力ムルモノトス

第四条 学徒勤労ハ国、地方公共団体又ハ厚生大臣若ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ノ指定スル者ノ行フ命令ヲ以テ定ムル総動員業務ニ付之ヲ為サシムルモノトス

第五条 引続キ学徒勤労ヲ為サシムル期間ハ一年以内トス

第六条 学校報国隊ニ依ル学徒勤労ニ付其ノ出動ヲ求メントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ文部大臣又ハ地方長官ニ之ヲ請求又ハ申請スベシ学校ノ校地、校舎、設備等ヲ利用シテ為ス学校報国隊ニ依ル学徒勤労ニ付亦同ジ

第七条 前条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請ハ厚生大臣又ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監)ガ割当テタル人員ノ範囲内ニ於テ之ヲ為スモノトス但シ命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ此ノ限ニ在ラズ

第八条 文部大臣又ハ地方長官第六条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請アリタルトキハ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外学校長ニ対シ学徒勤労ヲ受クベキ者、作業ノ種類、学徒勤労ヲ為スベキ場所及期間並ニ所要人員数其ノ他必要ナル事項ヲ指定シテ学校報国隊ノ出動ニ関シ必要ナル措置ヲ命ズルモノトス

第九条 前条ノ措置ヲ命ゼラレタル学校長ハ命令ノ定ムル所ニ依リ学校報国隊ニ依ル学徒勤労ヲ為スベキ者ヲ選定シ其ノ選定アリタル旨ヲ本人ニ通知シ学徒勤労ニ関シ必要ナル事項ヲ指示スベシ

第十条 命令ヲ以テ定ムル特別ノ場合ニ於テハ第六条ノ規定ニ依ル請求又ハ申請ハ之ヲ当該学校長ニ為スモノトス
2 前項ノ場合ニ於テ学校長ハ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外直ニ前条ニ規定スル措置ヲ為スモノトス

第十一条 前二条ノ規定ニ依ル通知ヲ受ケタル者ハ同条ノ規定ニ依ル指示ニ従ヒ学校報国隊ニ依ル学徒勤労ヲ為スベシ

第十二条 文部大臣又ハ地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特別ノ事情アル場合ニ於テハ学校報国隊ニ依ル学徒勤労ノ全部又ハ一部ノ停止ニ関シ必要ナル措置ヲ為スコトヲ得

第十三条 隊長タル学校長又ハ教職員ハ当該学校報国隊ノ隊員ノ学徒勤労ニ関シ其ノ隊員ヲ指揮監督ス

第十四条 文部大臣又ハ地方長官ハ学徒勤労ヲ受クル工場、事業場等ノ職員ニ対シ学徒勤労ノ指導ニ関スル事務ヲ嘱託スルコトヲ得

第十五条 学徒勤労ニ要スル経費ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特別ノ事情アル場合ヲ除クノ外学徒勤労ヲ受クル者之ヲ負担スルモノトス

第十六条 厚生大臣(軍需省所管企業ニ於ケル勤労管理及給与ニ関スル事項ニ付テハ軍需大臣)及文部大臣又ハ地方長官(東京都ニ在リテハ警視総監ヲ含ム)必要アリト認ムルトキハ国家総動員法第六条ノ規定ニ基キ学徒勤労ヲ受クル事業主ニ対シ学徒勤労ヲ為ス者ノ使用又ハ従業条件ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得
2 学徒勤労ヲ為ス者ガ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合ニ於ケル本人又ハ其ノ遣族ノ扶助ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十七条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ学徒勤労ヲ為サシメザルモノトス但シ学徒勤労ヲ為ス者ニシテ第三号ニ該当スルニ至リタルモノハ此ノ限ニ在ラズ
 一 陸海軍軍人ニシテ現役中ノモノ(未ダ入営セザル者ヲ除ク)及召集中ノモノ(召集中ノ身分取扱ヲ受クル者ヲ含ム)
 二 徴用中ノ者
 三 陸軍大臣若ハ海軍大臣ノ所管ニ属スル官衙(部隊及学校ヲ含ム)又ハ厚生大臣ノ指定スル工場、事業場其ノ他ノ場所ニ於テ軍事上必要ナル総動員業務ニ従事スル者
 四 法令ニ依リ拘禁中ノ者

第十八条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ志願ニ依ル場合ヲ除クノ外学徒勤労ヲ為サシメザルモノトス
 一 厚生大臣ノ指定スル総動員業務ニ従事スル者
 二 其ノ他厚生大臣ノ指定スル者

第十九条 文部大臣又ハ地方長官ハ命令ノ定ムル所ニ依リ学徒勤労ニ関シ学校長又ハ学徒勤労ヲ為ス者若ハ学徒勤労ヲ受クル事業主ヲ監督ス

第二十条 第六条乃至第十二条ノ規定ハ学校報国隊ニ依ラズシテ為ス学徒勤労ニ之ヲ準用ス

第二十一条 第十六条及第十九条ノ規定ハ事業主タル国及都道府県ニ之ヲ適用セズ

第二十二条 本令ニ於テ学徒ト称スルハ文部大臣ノ所轄ニ属スル学校ノ学徒ヲ謂ヒ学校ト称スルハ第十七条第三号ノ場合ヲ除クノ外文部大臣ノ所轄ニ属スル学校ノ長ヲ謂フ

第二十三条 前条ノ規定ハ朝鮮及台湾ニハ之ヲ適用セズ
2 第六条、第八条、第十二条及第十四条ノ中文部大臣トアルハ朝鮮ニ在ル学校ノ学徒ニ関シテハ朝鮮総督、台湾ニ在ル学校ニ関シテハ台湾総督トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在ル学校ノ学徒ニ関シテハ道知事、台湾ニ在ル学校ノ学徒ニ関シテハ州知事又ハ庁長トス
3 前項ノ場合ヲ除クノ外本令中厚生大臣トアリ又ハ文部大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督トシ地方長官トアルハ朝鮮ニ在リテハ道知事、台湾ニ在リテハ州知事又ハ庁長トス
4 本令中都道府県トアルハ朝鮮ニ在リテハ道、台湾ニ在リテハ州又ハ庁トス

第二十四条 学徒勤労ニハ国民勤労報国協力令ハ之ヲ適用セズ

第二十五条 本令ニ規定スルモノノ外学徒勤労ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

  附 則

1 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
2 本令施行ノ際現ニ国民勤労報国協力令ニ依リテ為ス学校在学者ノ国民勤労報国隊ニ依ル協力ハ之ヲ本令ニ依ル学徒勤労ト看做ス

                            「官報」より
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 今日は、1944年(昭和19)に、東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団疎開が促進された日(集団疎開の日)です。
 昭和時代前期の1941年(昭和16)に、太平洋戦争に突入すると、国内でも、戦地に赴いた兵隊の労働の穴を埋めるために、女性の職場進出が叫ばれ、学生も学業を投げ打って、勤労動員や女子挺身隊として、工場や農村で労働に従事しました。
 物資は配給制となって、思うように買えず、兵器や鉄砲の弾にするために、金属類の供出が求められ、耐乏生活を余儀なくされました。
 空襲がひどくなると地方への学童疎開が行われるようになり、親子が分かれて暮さなければならなくなったりしたのです。

〇「学童疎開」とは?
 太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京,大阪,名古屋,横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。
 アメリカ軍の爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 しかし、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸し、さらにその危険が増大することになり対策の強化が迫られたのです。
 その中で、同年6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 そして、同年8月から学校単位の集団疎開が実施され、1945年(昭和20)の疎開児童数は約 45万人に達したのです。
 これにらの疎開先では公会堂、社寺、旅館などが宿舎とされ、そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。
 そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すといういたましい事件も発生したのです。

☆「学童疎開促進要綱」(昭和19年6月30日閣議決定)

防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ル外特ニ国民学校初等科児童(以下 学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス
                       記
一 学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ一層強力ニ勧奨スルモノトス
二 縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準ジ措置スルモノトス
三 本件ノ実施ニ当リテハ疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス
四 地方庁ハ疎開者ノ適確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス            
       

☆「帝都学童集団疎開実施要領」(昭和19年7月7日)

第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
  区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス
第二 疎開先
  疎開先ハ差当リ関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス
第三 疎開先ノ宿舎
 一、宿舎ハ受入地方ニ於ケル余裕アル旅館、集会所、寺院、教会所、錬成所、別荘等ヲ借上ゲ之ニ充テ集団的ニ収容スルモノトス
 二、都ノ教職員モ児童ト共ニ共同生活ヲ行フモノトス
 三、寝具、食器其ノ他ノ身廻品ハ最小限度ニ於テ携行セシムルモノトス
第四 疎開先ノ教育
 一、疎開先ノ教育ハ必要ナル教職員ヲ都ヨリ附随セシメ疎開先国民学校又ハ宿舎等ニ於テ之ヲ行フモノトス
 二、疎開先ノ地元国民学校ハ教育上必要ナル協力援助ヲ為スモノトス
 三、疎開先ニ於テハ地元トノ緊密ナル連絡ノ下ニ学童ヲシテ適当ナル勤労作業ニ従事セシムルモノトス
 四、宿舎ニ於ケル学童ノ生活指導ハ都ノ教職員之ニ当ルモノトス
 五、疎開先ニ於ケル学童ノ養護及医療ニ関シテハ充分準備ヲ為シ支障ナキヲ期スモノトス
第五 物資ノ配給
  疎開先ニ於ケル食糧、燃料其ノ他ノ生活必需物資ニ付テハ農商省其ノ他関係省ニ於テ所要量ヲ用途ヲ指定シ特別ニ配給ヲ為スモノトス
第六 輸送
  本件実施ニ伴フ輸送ニ関シテハ他ノ輸送ニ優先シ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス
第七 経費ノ負担
 一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月拾円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
    尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
 二、国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス
第八 其ノ他
 一、本件実施ニ伴ヒ出来得ル限リ残存学級ノ整理統合ヲ行フモノトス
 二、本件実施ニ当リテハ都ニ於テ疎開先ノ地元府県市町村ト緊密ナル連絡ヲ図ルモノトス


☆「帝都学童集団疎開実施細目」(昭和19年7月10日)

第一 集団疎開ノ希望調査
一、 区長、学校長ヲ通ジテ適切ナル方法ニ依リ本措置ノ趣旨ヲ学童ノ保護者ニ徹底セシメ其ノ自発的申出ヲ指導勧奨スルコト
二、 勧奨ニ当リテハ時節柄言辞ニ注意シ無用ノ紛乱誤解ヲ惹起セザル様留意スルコト
三、 集団疎開ノ希望ヲ調査スル際併セテ縁故疎開ヲ希望スル学童ノ疎開先府県名、疎開予定期日等ヲモ調査シ、縁故疎開ノ円滑ナル遂行ニ資スルコト
四、 虚弱児童等ノ集団疎開ニ適セザル者ハ努メテ縁故疎開ニ依ラシムル如ク措置スルコト

第二 疎開先ノ決定
一、 帝都学童ノ疎開先ハ東京都郡部、埼玉県、群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、山梨県、新潟県、宮城県、静岡県(一部ヲ横浜市、川崎市、横須賀市ノ疎開先ニ充ツ)長野県、福島県、山形県トシ必要ニ応ジ其ノ範囲ヲ拡張スルコト
 二、 疎開先ハ努メテ罹災者避難ノ連結県又ハ其ノ近接県ニ選定スルコト
 三、 集団疎開学童数ハ一応二十萬ト概定シ之ノ概数ヲ送出区及受入県ニ仮割当ヲ為シ計画準備ヲ進ムルコト
四、 都ニ於テ区別ノ受入県ヲ、区ニ於テ学校別ノ疎開先ヲ決定スルモノトシ、具体的宿舎割当ハ受入県、市町村当局ト都、区、学校当局ニ於テ協議下検分ノ上最終的決定ヲ為スコト

第三 疎開先ノ宿舎
 一、 宿舎ハ一箇所(同一管理者ノ管理シ得ル範囲)ニ於ケル収容学童数百名程度ヲ標準トシテ選定スルコト
 二、 宿舎借上契約ノ当事者ハ都タルベキモ、地元当局ニ於テ借上及借上条件ノ決定等ニ付強度ノ援助ヲ為スコト
 三、 必要ナル寝具、炊事用具、机等ノ借入ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
 四、 地元ニ於テ採用スルヲ要スル寮母、作業員等ノ詮衡ニ付テモ同様援助ヲ為スコト
五、 宿舎ノ附属設備等ニシテ改善手入等ヲ要スルモノハ予メ地元ノ協力ニ依リ相当ノ手配ヲ講ジ置クコト
 六、 借上ゲタル宿舎ノ建具、器物等ノ破損ニ対シテハ使用終了後ニ於テ之ガ損失補償ヲ為スコト
 七、 宿舎ニ於ケル賄ハ宿舎ノ経営主等ヲシテ請負ハシメ又ハ地元ノ協力ヲ得テ直営スルコト

第四 疎開先ニ於ケル教育 養護
一、 疎開先ニ於ケル教育ヲ都立国民学校ノ分教場ノ形式ニ依ルカ或ハ地元委託ニ依ルカハ都ト受入県トノ協議ニ依ルコト
二、 教育ヲ地元ニ委託シタル場合ハ経営ヲ都ニ於テ支弁シ、都ヨリ附随セシメル教職員ヲ地元国民学校兼務トスルコト
三、 地元国民学校ニ於テハ事情ノ許ス限リ二部授業ノ採用等ニ依リ疎開学童ノ収容ヲ図ルコト
 四、 右ニ依リ難キ場合ハ付近近在ノ公会堂、寺院、錬成所、大農場等ニシテ教場ニ充テ得ベキ建物又ハ宿舎ニ於テ授業ヲ行フモノトス之ガ為メ必要ナル机、腰掛等ハ地元調達ヲ図ルノ外努メテ都内ヨリモ送付スルコト
 五、 集団疎開学童ハ都内上級学校ヘノ進学ヲ認ムルト共ニ本人ノ希望ニ依リ地元ノ収容力ヲ勘案シテ地元ニ於ケル進学ヲモ認ムルコト
 六、 勤労作業ハ児童ノ環境順応ノ程度ニ応ジ且ツ地元トノ融和促進、食糧自給等ヲ目途トシテ之ヲ施スコト
 七、 医師、看護婦ノ嘱託等ニ付地元ニ於テモ協力スルコト
 八、 送出学校ヨリ若干ノ救急医療材料ヲ携行セシメルコト
 九、 児童衣類等ノ洗濯修理等ニ付テハ能フ限リ地元婦人団体等ノ協力奉仕ヲ促スコト

第五 食糧其ノ他生活必需物資、学童用品ノ調達
 一、 主要食糧、調味食品等ノ配給統制物資ハ疎開計画ノ進捗ニ即応シテ東京都分ヨリ受入県分ニ割当転換ヲ為シ、集団疎開学童用トシテ指定シ受入県ニ割当ツルコト
 二、 燃料其ノ他ノ統制物資ニ付テモ右ニ準ジ取扱フコト
三、 惣菜、生鮮魚介等ノ副食物ニ付テハ極力地元ニ於テ調達ニ付斡旋スルコト
四、 生鮮魚介類ノ入手困難ナル地方ニ対シテハ塩干魚、介藻類、佃煮等代替物ノ配給ヲ考慮スルコト
五、 計画配給ノ単位量ニ付テハ努メテ東京都ニ於ケル現行標準ヲ尊重スルコト
六、食糧、燃料其ノ他生活必需物資ノ調達運搬等ニ付テハ地元当局、諸団体等ニ於テ能フ限リノ協力ヲ為スコト
 七、 疎開学童ヲシテ極力食糧燃料等ノ自給生産ニ当ラシムルコト
 八、 学童用品ノ配給ハ都ト受入県トノ協議ニ依リ夫々責任区分ヲ定メ配給ノ適正ヲ期スルコト    此ノ際特ニ地元学童トノ調和ニ留意スルコト
九、 食糧、燃料等生活必需物資ハ学童ノ転入以前ニ調達準備ニ遺漏ナキヲ期スルモノトシ、非常用トシテ食糧数日分ヲ児童ヲシテ携行セシムルコト

第六 輸送
 一、 疎開児童数及出発日時ハ可及的速ニ区長ヨリ疎開輸送支部ニ申告セシムルコトトシ、必要ニ応ジ臨時列車ノ特発、車両ノ指定其ノ他特別ノ措置ヲ考慮スルコト
 二、 見廻物品ノ携行ハ寝具、食器、着換ヘ其ノ他当座ノ必需品ニ止メ他ハ取纏メ追送ノ方途ニ依ルコト
 三、 見廻物品ハ車内持込ヲ除キ児童一人当リ二十キロ以内一個(蒲団ヲ含ム)程度トスルコト
 四、 炊事道具、校具等ハ必要最小限度ノモノヲ輸送スルコト
 五、 発着地ニ於ケル小運送ハ小運送業者ニ依ルノ外輸送挺身隊、勤労報国隊、地元諸団体ノ協力ヲ促スコト

第七 経済
 一、 経済負担ノ減免ヲ受クル児童保護者ハ貧困者トシ申請ニ依リ都ニ於テ決定スルコト
 二、 本件実施ニ要スル受入県、市町村ノ費用ニ対シ国庫ヨリ若干ノ補助ヲ為スコト

第八 都内ヘノ復帰、父兄ノ面会
 一、 疎開児童ニシテ止ムヲ得ザル事情ニ依リ都内ヘノ復帰等ヲ希望スル場合ハ学校長ノ詮議ニ依リ之ヲ承認シ得ルコト
 二、 父兄ノ面会ニ付テハ成ルベク便宜ヲ図ルモ極力自制セシムルコト
    尚 必要アルトキハ疎開先責任者ヨリ連絡シ父兄ヲ呼寄スルコト

第九 其ノ他
 一、 本件実施ノ期間ハ差当リ一年トスルコト
 二、 父兄、教職員、学童、受入側官民ニ対シ本件実施ノ本義ヲ徹底セシムル様特別ノ措置ヲ講ズルコト
 三、 本件実施ニ当リテハ地元当局ノ外警防団、婦人会、青少年団、在郷軍人会、翼賛壮年団其ノ他諸団体、篤志家等ノ協力ヲ促スコト<BR>
 四、 都庁内ニ疎開先トノ緊密ナル連絡ニ資スル為連絡協議会ヲ設置スルコト<BR>
 五、 都ノ職員ヲ受入県庁内又ハ適当ナル場所ニ派遣シ必要ニ依リ受入県ニ兼務セシムルコト<BR>
 六、 受入県庁ニ於テハ各部課トモ其ノ所管ニ応ジ協力スルト共ニ本件主管ノ部課ヲ特定シ事務連絡ニ資スルコト
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