新島襄は、江戸時代後期の1843年(天保14年1月14日)に、江戸神田の安中藩江戸屋敷で、安中藩士の父新島民治、母とみの長男として生まれましたが、幼名を七五三太(しめた)といいました。
1856年(安政3)から蘭学を学び始め、1860年(万延元)には、軍艦操練所に入り、航海実習に従事します。
欧米文明とその宗教に感銘して脱藩後、1864年(元治元)に、国禁を犯してアメリカ船で箱館から海外に密航しました。
アメリカ合衆国に渡り、フィリップス・アカデミー英語科を経て、1870年(明治3)にアーモスト大学を卒業し、日本人としてはじめて学士号(理学士)を取得します。その後、アンドーバー神学校に入り、1872年(明治5)に訪米した岩倉遣外使節団の案内役として随行し、欧米の教育事情を視察しました。
1874年(明治7)に神学校を卒業後、ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、キリスト教に基づく精神主義教育を行なう学校を日本に設立するために帰国します。
1875年(明治8)に、京都府顧問山本覚馬らの協力を得て、同志社英学校を京都に創設しました。1877年(明治10)には、同志社女学校も設立すると共に、国内の伝道にも力を入れます。
1884年(明治17)4月から翌年12月まで欧米を巡歴し、帰国後、仙台の東華学校や京都看病婦学校を開校、同志社病院の開院にも携わりました。
しかし、1890年(明治23)1月23日に大学設立運動途上、神奈川県大磯において、46歳で客死します。