ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:その他政界と政治活動

イメージ 1

 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、地租軽減を求める一揆の頻発により、地租の税率が地価の3%から2.5%に引き下げられた日です。
 明治政府は、1872年(明治5)に田畑売買禁止令を解き地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「太政官布告第272号」と「地租改正条例」を発しました。その主要な内容は、 (1) 課税標準を従来の収穫量から地価に改める、(2) 税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、(3) 物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものだったのです。
 しかし、今までの税収を減らさないことを基本としたので、地価は高めに設定され、農民には重い負担となり、「地租改正作業」や「官有民地区分事業」を巡るトラブルもありました。
 その結果、各地で地租改正反対一揆が起きることとなります。はじめは、1876年(明治9)11月27日に、茨城県真壁郡の農民が行動をおこし(真壁暴動)、12月8日には同県那珂郡の農民が蜂起(那珂暴動)、さらに12月18日には三重県飯高郡の農民が蜂起(伊勢暴動・三重大一揆)し、愛知県・岐阜県・堺県・熊本県などに拡大し、「地租軽減」を要求しました。
 これによって、明治政府は、1877年(明治10)1月4日に、地租率を100分の2.5に引き下げる譲歩を行い、「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と歌われたりしましたが、地租改正事業の中止には応じなかったのです。
 その後においても、「地租軽減運動」は自由民権運動と結合して依然盛上がりをみせ、1877年(明治10)の「立志社建白書」や1881年(明治14)に国会開設に備えて結成された自由党の「自由党綱領」でも掲げられて、一貫して「地租軽減」は、反政府運動の主要スローガンの一つとなりました。
 これらの「地租改正」によって、明治政府の財政的基礎が確立したものの、小規模農家の没落による小作農への没落と一部富農による地主制の形成によって、地主・小作の関係は強化されます。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、飛鳥時代の646年(大化2)に、「改新の詔」が発布された日ですが、新暦では1月22日となります。
 これは、飛鳥時代の645年(大化元)に起きた「大化の改新」において、新たな施政の基本方針を示すために、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮で出されたとされる詔です。
 『日本書紀』の大化2年正月に所載されていて、「(1)屯倉、田荘などの私有地、ならびに子代、部曲などの私有民の廃止によって、公地公民制を敷く。(2)天皇の所在する京都・畿内を設定し、地方の行政区画と中央集権体制を整備する。(3)戸籍・計帳を作成して、班田収授法を実施する。(4)これまでの賦役を廃止し、新しい税制を打ち立てる。」の四ヶ条からなっていました。
 しかし、学者の間で「郡評論争」が起こり、藤原京から出土した木簡等により、編者により潤色されたものではないかと考えられるようになったのです。
 実際には、これらの改革が一度に実施されたのではなく、近江朝から天武・持統朝へと引き継がれる中で、律令体制として整えられていったのではないかとされるようになりました。

〇「改新の詔」(全文)大化2年正月

二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。

其一曰。罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。伴造。國造。村首所有部曲之民。處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。

其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓清正強幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強幹聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按検戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。

其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲綿並隨郷土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。〈綿絲絇屯諸處不見。〉別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随郷土所出。凡官馬者。中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者。一戸布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊毎卅戸一人〈以一人充廝也。〉而毎五十戸一人〈以一人充廝。〉以充諸司。以五十戸充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戸充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。

                  『日本書紀』第二十五巻より

   *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

二年春正月甲子の朔、賀正の禮畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰く

 其の一に曰はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、処処の屯倉、及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処処の田庄を罷めよ。仍りて食封を大夫以上に賜ふこと各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜ふこと差有らむ。又曰はく、大夫は民を治めしむる所なり。能く其の治を尽すときは則ち民頼る。故、其の禄を重くせむことは、民の為にする所以なり。

 其の二に曰はく、初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。凡そ京には坊毎に長一人を置き、四の坊に令一人を置きて、戸口を按へ検め、奸しく非を督し察むることを掌れ。其の坊令には坊の内に明廉く強く直しくして時の務に堪ふる者を取りて充てよ。里坊の長には並びに里坊の百姓の清く正しく強幹しき者を取りて充てよ。若し当里坊に人なくば、比の里坊に簡び用ゐることを聴せ。凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、(兄、此をば制と云ふ)、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には並びに国造の性識清廉くして時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして書算に工なる者を主政・主帳とせよ。凡そ駅馬・伝馬を給ふことは皆鈴・伝符の剋の数に依れ。凡そ諸国及び関には鈴契を給ふ。並びに長官執れ、無くば次官執れ。

 其の三に曰はく、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。凡そ五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。戸口を按へ検め、農桑を課せ殖ゑ、非違を禁め察め、賦役を催し駈ふことを掌れ。若し山谷阻険しくして、地遠く人なる処には、便に随ひて量りて置け。凡そ田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とせよ。十段を町とせよ。段ごとに租稲二束二把、町ごとに租稲二十二束とせよ

 其の四に曰はく、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。凡そ絹・絁・糸・綿は、並びに郷土の出す所に随へ。田一町に絹一丈、四町にして匹を成す。長さ四丈、広さ二尺半。絁は二丈、二町にして匹を成す。長さ広さ絹に同じ。布四丈、長さ広さ絹・絁に同じ。一町にして端を成す。(糸・綿の絇屯は諸の処に見ず)、別に戸別の調を収れ。一戸に貲布一丈二尺。凡そ調の副物の塩・贄は亦>郷土の出す所に随へ。凡そ官馬は中の馬は一百戸毎に一匹を輸せ。若し細馬ならば二百戸毎に一匹を輸せ。其馬買はむ直は一戸に布一丈二尺。凡そ兵は人の身ごとに刀・甲・弓・矢・幡・鼓を輸せ。凡そ仕丁は旧の三十戸毎に一人を改めて、(一人を以て廝に充つ)、五十戸毎に一人を、(一人を以て廝に充つ)、以て諸司に充てよ。五十戸を以て、仕丁一人の粮に充てよ。一戸に庸布一丈二尺、庸米五斗。凡そ采女は、郡の少領以上の姉妹、及び子女の形容端正しき者を貢れ。(従丁一人。従女二人)、一百戸を以て、采女一人の粮に充てよ。庸布・庸米は、皆仕丁に准へ。

<現代語訳>

大化2年正月元旦,新年の儀式を終えて,改新の詔が宣布された。

1. 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。その代わりに食封を大夫以上の者に身分に応じて与えることとする。その下の諸官人や庶民にはその身分に応じて布帛を与えることとする。また、大夫は民を治めるものである。その政治を誠意を尽くして行えば、民は頼ってくるものである。よって、その禄を重くするのは、民のためにするものである。

2. 初めて都を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・木契を作成し、国や郡の境界を設定することとする。京には坊毎に長を一人置きなさい。四つの坊には令を一人置き、戸口を調べて、邪な悪いやつを正し、監察する役としなさい。その坊令には、坊の内で潔白で強く実直で、時節の政務に対応できるものを採用して当てなさい。里坊の長には、里坊の庶民の中から清く正しく、意志が強いものを採用して当てなさい。もしその里坊に適当な人物がいない場合は、隣の里坊から選んで採用してもよい。だいたい畿内の範囲は、東は名墾横河から、南は紀伊の兄山から、西は明石の櫛淵から、北は近江の狹々波の合坂山を畿内国とする。郡は40里を大郡とせよ。30里以下、4里より以上を中郡とし、3里を小郡とせよ。郡司には国造の中から清廉で政務に役立つ者を大領・少領に選任し、強健・明敏で読み書き計算のすぐれた者を主政・主帳に任ぜよ。駅馬・伝馬の数は、駅鈴・伝符に刻んだ数による。諸国と関には駅鈴と木契(割符)を与える。長官が取りなさい。そうでなければ、次官が取るものとする。

3. 初めて戸籍・計帳・班田収授法を定めることとする。およそ50戸を里とし、里ごとに里長一人を置く。戸口を調べて、農耕と養蚕を課して増えさせ、法を犯すものを禁じ、監察し、賦役を促し駆り立てるのを役目としなさい。もし、山谷が険しい辺境の地で人があまりいない地域には、報告に従って、調べたことにして処理しなさい。田の広さは、長さ三十歩・幅二十歩を一段とし、十段をもって一町とする。一段からの租税の稲は二束二把、一町からは二十二束と決める。

4. 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。絹・絁・絲・綿などは、その土地で産出するものを納めよ。田が1町ならば絹を1丈。4町で1匹となる。長さ4丈は広さ2尺半。絁ならば2丈、2町で1匹となる。長さと広さは絹と同じとする。布ならば4丈、長さ広さは絹・絁と同じで、1町で1匹となる。また戸毎に調を徴収せよ。一戸にあら布一丈二尺。調の付加税の塩・贄(魚介類・海藻など)はその土地の産物から選べ。官馬は、中の馬は100戸ごとに1匹を献上しなさい。もし、良い馬ならば200戸ごとに1匹を献上しなさい。その馬を他に置き換える場合の値は、1戸に布1丈2尺とする。兵器は、一人につき、刀・甲・弓・矢・幡・鼓を献上しなさい。おおよそ、役所に仕える雑役夫は、従来30戸に一人を出すのを改めて50戸毎に一人を出して各役所に割当て、五十戸から納入されるものを、役所に仕える雑役夫一人分の食料として充当せよ。後宮に奉仕する女官として、郡の少領以上の家の姉妹・子女の容姿端麗な者を差し出せ。100戸から納入されるものを、後宮に奉仕する女官一人の食料として充当せよ。庸布・庸米は、諸官司の雑役夫と同じとする。

【注釈】
[1]改新之詔:かいしんのみことのり=新たな施政の基本方針を示すため、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮で出されたとされる詔。
[2]子代の民:こしろのたみ=皇室の私有民で、天皇が皇太子のために設置したもの。
[3]屯倉:みやけ=皇室の私有地。
[4]臣・連・伴造・国造・村首:おみ・むらじ・とものみやつこ・くにのみやつこ・むらのおびと=諸豪族の呼称。
[5]部曲の民:かきのたみ=豪族の私有民。
[6]田庄:たどころ=豪族の私有地。
[7]食封:へひと・じきふ=国家が指定した一定地域の郷戸が出す祖税を官人の俸禄として支給する制度。
[8]大夫:まえつきみ・たいふ=中・上の役人で、国政審議に参加する官。
[9]各差有らむ:おのおのしなあらん=各々の地位に応じて給付するという意味。
[10]布帛:ふはく・きぬ=絹織物。
[11]官人:つかさ=役人。
[12]民頼る:たみかうぶる=民が頼ってくる。
[13]禄:たまもの・ろく=民の取り分。
[14]京師:みさと・けいし=天子の住む都のこと。
[15]機内国司:うちつくにみこともち=大和周辺の国の長官。機内・国司と分けて読む説もある。
[16]郡司:こおりのみやつこ=郡の長官の意味だが、金石文や木簡では大宝令まで評が用いられたので、改竄説がある。
[17]関塞:せきそこ=険要の地を守る軍塁。軍事上の防御施設。関所。
[18]斥候:うかみ・せっこう=北辺の守備兵。敵の内情を偵察する者。スパイ。
[19]防人:さきもり=西海の防衛隊。辺境、特に大宰府管内の守備兵。
[20]駅馬:はいま・えきば=駅におく馬。律令制では、駅家に備えて駅使の乗用に使った馬。
[21]伝馬:つたわりうま・てんま=郡におく馬。律令制では郡ごとの郡家に5疋常備された官馬。
[22]鈴契:すずしるし=駅鈴と木契(割符)のことで、駅馬・伝馬の利用や関を通過するための証明とした。
[23]山河を定めよ:やまかわをさだめよ=地方の境界を定めよ。
[24]坊毎:まちごと=町ごと。
[25]坊令:ぼうれい=京の四坊ごとに置かれた責任者。住民 の有力者が充てられ、治安の維持などに当たった。
[26]強幹しき者:いさをしきもの=意志が強い者。
[27]名墾横河:ながりのよこかわ=伊賀名張郡名張川。
[28]紀伊の兄山:きいのせのやま=現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山・対岸に妹山がある。
[29]明石の櫛淵:あかしのくしぶち=播磨国明石郡の内、塩屋あたりや界(境)川をあてるなど諸説 あり。
[30]合坂山:あうさかやま=現在の滋賀県大津市にある。
[31]大領:こおりのみやつこ=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の1番目。
[32]少領:すけのみやつこ=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の2番目。
[33]書算:てかきかずとる・しょさん=読み書き計算。書道と算術。
[34]主政:しゅせい・まつりごとひと=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の3番目。
[35]主帳:しゅちょう・ふびと=律令制の官職で、郡司の中の四等官(大領・少領・主政・主帳)の4番目。
[36]戸籍:へのふみた・こせき=人民登録の基本台帳で、6年ごとに作成された。
[37]計帳:かずのふみた・けいちょう=調・庸の課税台帳。
[38]班田収授の法:あかちだをさめさづくるののり=6歳以上の男女に口分田を班給し、徴税する制度。
[39]農桑:なりわいくわ・のうそう=農耕と養蚕。
[40]賦役:ぶえき・えつき=労働する税。労働で納める課役。
[41]便:たより=報告。
[42]租:たちから・そ=穀物の税。
[43]調:みつぎ・ちょう=一定基準で田地に賦課する税。
[44]絹:かとり=絹を固く織ったもの。
[45]絁:ふとぎぬ=目の粗い絹。
[46]絲:いと=生糸。
[47]綿:わた=絹綿(真綿)。
[48]貲布:さよみのぬの・さいみ= 織り目の粗い麻布。
[49]副物:そわりつもの=付加税。
[50]贄:にえ=朝廷に献上する食料用の魚介類・海藻など。
[51]官馬:つかさうま=公に献上する馬。
[52]中の馬:なかのうま=中級の馬。
[53]細馬:よきうま・さいば=上級の馬。駿馬。良馬。
[54]兵:つわもの=兵器。兵士。
[55]仕丁:つかえのよぼろ・しちょう=諸官司の雑役をするもの。
[56]廝:し=めしつかい。しもべ。下男。こもの。
[57]諸司:もろつかさ・しょし=役所。役人。
[58]粮:かて=食糧。食物。
[59]庸布:ちからしろのぬの・ようふ=税(庸)として納めた布。
[60]庸米:ちからしろのこめ・ようまい=税(庸)として納めた米。
[61]采女:うねめ=後宮に奉仕する女官。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布された日で、翌々日の12月21日に施行されました。
 この法律は、太平洋戦争中の戦時立法の一つで、言論・出版等の適正化を名目とした法律ですが、新聞雑誌発行や集会結社が届出制から許可制となります。
 これによって、同時に施行の「映画法」、「新聞紙等掲載制限令」と並び、政府統制下に表現の自由を抑圧し、違反行為には厳罰をもって臨むものとなりました。
 しかし、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月13日に、「國防保安法廢止等ニ關スル件」(昭和20年勅令第568号)によって廃止されます。

〇「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(全文)1941年(昭和16)12月19日公布(法律第97号)

第一條 本法ハ戰時ニ際シ言論、出版、集會、結社等ノ取締ヲ適正ナラシメ以テ安寧秩序ヲ保持スルコトヲ目的トス

第二條 政事ニ關スル結社ヲ組織セントスルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ發起人ニ於テ行政官廳ノ許可ヲ受クベシ

第三條 政事ニ關シ集會ヲ開カントスルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ發起人ニ於テ行政官廳ノ許可ヲ受クベシ但シ法令ヲ以テ組織シタル議會ノ議員候補者タルベキ者ヲ銓衡スル爲ノ集會及選擧運動ノ爲ニスル集會竝ニ公衆ヲ會同セザル集會ハ命令ノ定ムル所ニ依リ發起人ニ於テ行政官廳ニ屆出ヅルヲ以テ足ル

第四條 公事ニ關スル結社又ハ集會ニシテ政事ニ關セザルモノト雖モ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ前二條ノ規定ニ依ラシムルコトヲ得

第五條 屋外ニ於テ公衆ヲ會同シ又ハ多衆運動セントスルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ發起人ニ於テ行政官廳ノ許可ヲ受クベシ但シ命令ヲ以テ定メタル場合ハ此ノ限ニ在ラズ

第六條 法令ヲ以テ組織シタル議會ノ議員議事準備ノ爲相團結スルモノニ付テハ第二條ノ規定ヲ、議事準備ノ爲相會同スルモノニ付テハ第三條ノ規定ヲ適用セズ

第七條 新聞紙法ニ依ル出版物ヲ發行セントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官廳ノ許可ヲ受クベシ

第八條 行政官廳必要アリト認ムルトキハ第二條乃至第五條若ハ前條ノ規定ニ依ル許可ヲ取消シ又ハ第三條若ハ第四條ノ規定ニ依リ屆出デタル集會ノ禁止ヲ命ズルコトヲ得

第九條 出版物ノ發賣及頒布ノ禁止アリタル場合ニ於テ行政官廳必要アリト認ムルトキハ當該題號ノ出版物ノ以後ノ發行ヲ停止シ又ハ同一人若ハ同一社ノ發行ニ係ル他ノ出版物ノ發行ヲ停止スルコトヲ得

第十條 第七條ノ規定又ハ前條ノ規定ニ依ル停止ノ命令ニ違反シテ發賣又ハ頒布スルノ目的ヲ以テ印刷シタル出版物ハ行政官廳ニ於テ之ヲ差押フルコトヲ得

第十一條 第二條ノ規定(第四條ノ規定ニ基キ依ラシメタル場合ヲ含ム)ニ違反シタル者ハ一年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス

第十二條 第三條ノ規定(第四條ノ規定ニ基キ依ラシメタル場合ヲ含ム)又ハ第五條ノ規定ニ違反シタル者ハ六月以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ五百圓以下ノ罰金ニ處ス

第十三條 第七條ノ規定ニ違反シタル者ハ一年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス

第十四條 第九條ノ規定ニ依ル停止ノ命令アリタル出版物ヲ發行シタル者ハ六月以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ五百圓以下ノ罰金ニ處ス

第十五條 第十條ノ規定ニ依ル差押處分ノ執行ヲ妨害シタル者ハ六月以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ五百圓以下ノ罰金ニ處ス

第十六條 前三條ノ罪ニハ刑法併合罪ノ規定ヲ適用セズ

第十七條 時局ニ關シ造言飛語ヲ爲シタル者ハ二年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ二千圓以下ノ罰金ニ處ス

第十八條 時局ニ關シ人心ヲ惑亂スベキ事項ヲ流布シタル者ハ一年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ千圓以下ノ罰金ニ處ス

附則

本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

本法施行ノ際現ニ存スル政事ニ關スル結社(第六條前段ノ規定ニ該當スルモノヲ除ク)又ハ第四條ノ命令施行ノ際現ニ存スル當該命令ニ係ル公事ニ關スル結社ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ存續ニ付主幹者ニ於テ行政官廳ノ許可ヲ受クベシ

第八條ノ規定ハ前項ノ許可ニ、第十一條ノ規定ハ同項ノ規定ニ違反シタル者ニ之ヲ準用ス

集會又ハ多衆運動ニシテ第三條又ハ第五條ノ規定ニ依リ許可又ハ屆出ヲ要スルモノニ付テハ本法施行後三日以內ニ行フモノニ限リ仍從前ノ例ニ依ル

本法施行ノ際現ニ成規ノ手續ヲ經テ新聞紙法ニ依ル出版物ヲ發行スル者ハ第七條ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケタル者ト看做ス

                        「官報」より
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、市川房枝、久布白落実らが東京の丸の内保険協会に集まって、「婦人参政権獲得期成同盟会」を発足させた日です。
 この会は、関東大震災の救援活動を通じて集まった婦人団体が「東京連合婦人会」を組織し、その政治部が母体となって、市川房枝・久布白落実らを中心に、1924年(大正13)12月13日結成し、宣言書と規約が決められました。
 当初は目的を婦人参政権獲得にしぼり、対議会活動を主に運動をすすめ、政党には中立の立場をとります。婦人結社権、婦人公民権(地方政治への参政権)、婦人参政権の3案を第50帝国議会に提出し、以後毎議会にそれらを提出し続けました。
 進歩的知識婦人の多くをまきこみ、1940年(昭和15)9月に解散するまで、婦人参政権運動の中心的な団体として活動します。しかし、実際に婦人参政権が実現するのは、この時から21年後の1945年(昭和20)12月のことでした。

〇「婦人参政権獲得期成同盟会」の宣言書

一,我等は二千六百年来の因習を破り,男女ともに天賦の義務権利に即して新日本建設の責務を負ふべきことを信ず。
一,明治初年より半世紀にわたり民教育においてすでに男女の別なく,また女子高等教育の門戸も開かれつつある今日,普通選挙の実施にあたり女子を除外するは不当のことといはざるを得ず,我等はこれを要求す。
一,我が国の職業婦人はすでに四百万に達せり,その利益擁護のために参政権を要求するは当然のことと信ず。
一,我国大多数の家庭婦人はその生活完成のため,法律上国家の一員たるべくこれを要求す。
一,市町村における公民たり,また国家の公民たる資格を求めて我等は参政権を必要とす。
一,以上は宗教の異同,職業の差異,あらゆる異同を除きただ女性の名において一致し得る問題なるがゆえに,ここに大同団結を作り婦人参政権獲得運動をなす必要とその可能性とを信ず。

 依って左の決議をなす。

 決議一
我等は市町村に於ける公民権を獲得せんがために、来る第五十議会に提出されんとする市町村制改正法律案中に婦人を男子と同様に含むことを要求す。

 決議二
我等に国家の半身たる存在と義務とを全うせんがために、来る第五十議会に提出せられんとする選挙法改正法律案中に婦人を男子と同様に含むことを要求す。

 決議三
我等は政事的結社の自由を獲得せんがために、治安警察法第五条第一項中より「五 女子」の三字を削除せんことを要求す。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、平塚らいてうにより新婦人協会の設立が発表された日です。
 これは、日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体です。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めました。1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになります。
 男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みました。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めます。
 その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しました。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至ります。約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員
<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言
 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領
一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)
一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ