明治政府は、1872年(明治5)に田畑売買禁止令を解き地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「太政官布告第272号」と「地租改正条例」を発しました。その主要な内容は、 (1) 課税標準を従来の収穫量から地価に改める、(2) 税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、(3) 物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものだったのです。
しかし、今までの税収を減らさないことを基本としたので、地価は高めに設定され、農民には重い負担となり、「地租改正作業」や「官有民地区分事業」を巡るトラブルもありました。
その結果、各地で地租改正反対一揆が起きることとなります。はじめは、1876年(明治9)11月27日に、茨城県真壁郡の農民が行動をおこし(真壁暴動)、12月8日には同県那珂郡の農民が蜂起(那珂暴動)、さらに12月18日には三重県飯高郡の農民が蜂起(伊勢暴動・三重大一揆)し、愛知県・岐阜県・堺県・熊本県などに拡大し、「地租軽減」を要求しました。
これによって、明治政府は、1877年(明治10)1月4日に、地租率を100分の2.5に引き下げる譲歩を行い、「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と歌われたりしましたが、地租改正事業の中止には応じなかったのです。
その後においても、「地租軽減運動」は自由民権運動と結合して依然盛上がりをみせ、1877年(明治10)の「立志社建白書」や1881年(明治14)に国会開設に備えて結成された自由党の「自由党綱領」でも掲げられて、一貫して「地租軽減」は、反政府運動の主要スローガンの一つとなりました。
これらの「地租改正」によって、明治政府の財政的基礎が確立したものの、小規模農家の没落による小作農への没落と一部富農による地主制の形成によって、地主・小作の関係は強化されます。