ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:お雇い外国人

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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)、東京浅草に12階建ての凌雲閣が竣工した日です。
 凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代中頃から大正時代まで、東京市浅草区(現在の東京都台東区)にあった、八角形の12階建ての塔で、「浅草十二階」とも呼ばれていました。凌雲閣の開業起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者は、お雇い外国人の英国人技師ウィリアム・K・バートンで、「雲を凌ぐほど高い」という意味で命名されています。
 明治時代中頃の1890年(明治23)10月29日に竣工し、11月11日に開業しましたが、当時の日本で最も高い建築物(約52m)で、構造は、10階までが煉瓦造り、11・12階は木造で、10階から12階は眺望室となり、望遠鏡が置かれていました。また、8階までは日本最初の電動式エレベーターが設置されていて、「エレベーターの日」(11月10日)は、この設置に関わるものです。
 しかし、開業当日より故障が頻発し、翌年5月には使用中止になり、1914年(大正3)に再設されました。東京一の高さを誇る建物として、東京名所となり、連日見物客でにぎわいます。
 ところが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で、8階より上が崩落し、経営難から復旧が困難であったため再建は断念され、9月23日には、陸軍赤羽工兵隊により爆破解体されて姿を消しました。

〇凌雲閣関係略年表

・1890年(明治23)10月29日 凌雲閣が竣工する
・1890年(明治23)11月11日 凌雲閣が開業する
・1891年(明治24)5月 エレベーターは、開業当日より故障が頻発し、使用中止になる
・1911年(明治44)6月1日 階下に「十二階演芸場」ができる
・1912年(明治45)2月 隣地に浅草国技館」が開館する
・1914年(大正3) エレベーターが再設される
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災で半壊する
・1923年(大正12)9月23日に陸軍赤羽工兵隊により爆破解体され姿を消す

☆明治時代に建てられた主要な高層建築

・五層楼眺望閣(大阪府)1888年(明治21)高さ約31m
・九層楼凌雲閣(大阪府)1889年(明治22)高さ約40m
・浅草凌雲閣(東京府)1890年(明治23)煉瓦造り高さ約52m
・岡山集成閣(岡山県)1891年(明治24)高さ約31m

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1720年(享保5)水戸藩が『大日本史』250巻(享保本)を幕府へ献上する(新暦11月28日)詳細
1779年(安永8)第118代の天皇とされる後桃園天皇の命日(新暦12月6日)詳細
1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1935年(昭和10)映画監督・アニメーション演出家・プロデューサー・翻訳家高畑勲の誕生日詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細
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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、お雇い外国人のドイツ人医学者E・von ベルツが初めて来日した日です。
 E・von ベルツ】(エルヴィン・フォン・ベルツ)は、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、ドイツ人医師でした。1849年(嘉永2)に、南ドイツのヴュルテンベルク王国のビーティヒハイム・ビッシンゲンに生まれ、シュツットガルトの高校を経て、1866年(慶応元)にチュービンゲン大学医学部に入学します。
 1869年(明治2)に、ライプツィヒ大学医学部に転学、カール・アウグスト・ヴンダーリヒ (Karl August Wunderlich) 教授の下で内科を修めました。1870年(明治3)に軍医として普仏戦争に従軍しましたが、1872年(明治5)には、ライプツィヒ大学医学部を卒業し、助手となり、1875年(明治8)にライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれます。
 1876年(明治9)に内科学教授ウンダーリヒの下で講師となったものの、お雇い外国人として日本政府の招聘(契約2年)に応じて来日、東京医学校(現在の東京大学医学部)の内科教授として教鞭をとりました。この頃、箱根の旅館で働く女性の手の荒れているのをみて「ベルツ水」を創製したとされます。
 1878年(明治11)に契約満期となりますが、日本側の懇請で契約をさらに3年延期(その後再三延期)、新潟県下の恙虫病 (つつがむしびょう) を調査、脚気などの研究にも取り組みました。1880年(明治13)には、『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書)を著します。
 1881年(明治14)に東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚、1890年(明治23)には、明治天皇、皇太子嘉仁親王の侍医となりました。1897年(明治30)に樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問、日本人の人類学的特徴の地方変異に着目し、形態学的分類を行ないます。
 1900年(明治33)に勲一等瑞宝章を受章、1902年(明治35)には、東京帝国大学を退官し、宮内省侍医を務めることとなりました。1905年(明治38)に勲一等旭日大綬章を受章、夫人とともにドイツへ帰国し、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務めます。
 「日本人ベルツ」とあだ名されるほどの知日家として執筆や講演に活躍し、貴族に列せられました。1908年(明治41)に伊藤博文の要請で再度来日しましたが、1913年(大正2)8月31日に、ドイツ帝国のシュトゥットガルトにおいて、心臓病のため、64歳で亡くなっています。
 その後、息子トクがベルツの日記や手紙を編集した『ベルツの日記』が刊行されました。尚、夫人花子の墓がある愛知県豊川市の西明寺には、墓碑・供養塔と水原秋桜子による顕彰句碑があります。

〇E・von ベルツの主要な著作

・『日本鉱泉論』(1880年)
・『ベルツの日記』

☆E・von ベルツ関係略年表 

・1849年(嘉永2) 南ドイツのヴュルテンベルク王国のビーティヒハイム・ビッシンゲンに生まれる
・1866年(慶応元) テュービンゲン大学医学部に入学する
・1869年(明治2) ライプツィヒ大学医学部に転学、カール・アウグスト・ヴンダーリヒ (Karl August Wunderlich) 教授の下で内科を修める
・1870年(明治3) 軍医として普仏戦争に従軍する
・1872年(明治5) ライプツィヒ大学医学部を卒業し、助手となる
・1875年(明治8) ライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれる
・1876年(明治9) 内科学教授ウンダーリヒの下で講師となり、お雇い外国人として日本政府の招聘(契約2年)により来日、東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師となり、箱根の旅館で働く女性の手の荒れているのをみて「ベルツ水」を創製する
・1878年(明治11) 契約満期に日本側の懇請で契約をさらに3年延期、新潟県下の恙虫病 (つつがむしびょう) を調査する
・1880年(明治13) 『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書)を著す
・1881年(明治14) 東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚する
・1890年(明治23) 明治天皇、皇太子嘉仁親王の侍医となる
・1897年(明治30) 樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問する
・1900年(明治33) 勲一等瑞宝章を受章する
・1902年(明治35) 東京帝国大学を退官し、宮内省侍医を務める
・1905年(明治38) 勲一等旭日大綬章を受章、夫人とともにドイツへ帰国し、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務める
・1908年(明治41) 伊藤博文の要請で再度来日する
・1913年(大正2)8月31日 ドイツ帝国のシュトゥットガルトにおいて、心臓病のため、64歳で亡くなる
・1930年(昭和5) 夫人花子が愛知県豊川市の西明寺にベルツの供養塔を建立する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

760年(天平宝字4)聖武天皇の皇后・藤原不比等の娘光明皇后の命日(新暦7月27日)詳細
1866年(慶応2)江戸幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃により、第二次長州征討が開戦される詳細
1912年(明治45)日本画家奥田元宋の誕生日詳細
1924年(大正13)第二次護憲運動によって、清浦奎吾内閣が総辞職する詳細
1939年(昭和14)満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進を明治神宮外苑競技場で開催される詳細
1955年(昭和30)第1回日本母親大会が開催される(母親大会記念日)詳細
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 今日は、1834年にお雇い外国人であるフランス人技師F・L・ヴェルニーの生まれた日ですが、フランスで生まれたので、新暦の日付です。
 F・L・ヴェルーニは、横須賀製鉄所を造ると共に、日本で最初に西洋式灯台の設計・建設を担当したフランス人技師で、本名をフランソワ・レオン・ヴェルニーといい、フランス東部のアルデシュ県オーベナで生まれました。
 リヨンの国立高等中学校に学び、1856年パリのエコール・ポリテクニク(理工科大学)に入学。23歳で海軍造船大学校を卒業後、海軍造船官として、ブレスト工廠で船舶の修理などを担当しました。
 1864年には、中国へ赴任し開港場の寧波(ニンポー)で艦船建造に従事し、その後徳川幕府の要請を受け、1865年(慶応元)に来日、横須賀製鉄所の計画立案から実際の建設指導、さらに経営にも首長として携わります。
 一方、江戸幕府は、1866年(慶応2)5月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と「改税条約」(江戸条約)を締結し、西洋灯台の建設を約束しました。そして、1867年(慶応3)末、イギリス、アメリカ、フランスの合同調査に基づき、最も緊急性が高いものとして、観音埼、野島埼、城ヶ島、品川(第二砲台)の4つの灯台建設を優先的に着工することを決めたのです。
 そして、すでに1866年(慶応2)4月に再度来日し、横須賀製作所に着任していたF・L・ヴェルニーに灯台建設を依頼することになったのです。ただし、その直後に、江戸幕府が倒れたため、工事の着工は延期されることになります。そして、日本初の西洋式灯台の建設が、1868年11月1日(旧暦:明治元年8月30日)起工の観音埼灯台で始まり、翌1869年2月11日(旧暦:明治2年1月1日)に、初点灯しました。その後、野島埼、品川(第二砲台)、城ヶ島と計4つの灯台が、F・L・ヴェルニーを首長とするフランス人技師によって完成されましたが、その後の灯台建設は、主にイギリス人技師、R・H・ブラントンに委ねられることになりました。
 それからも、F・L・ヴェルーニは横須賀製鉄所の首長(所長)として、日本で活躍すること12年におよび造船等の発展に寄与し、日本滞在中に1男2女を儲けました。
 横須賀製鉄所の首長を解雇され、1876年(明治9)3月13日にフランスへ帰国しましたが、ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後、海軍を退職します。
 それからは、サンテティエンヌの鉱山経営に力を注いだものの、1908年5月2日に故郷オブナにおいて、70歳で亡くなりました。
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 今日は、エドワード・S・モースが、1838年に生まれた日であり、1877年(明治10)に初めて来日した日でもあります。
 モースは、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、アメリカ人動物学者ですが、大森貝塚を発掘し、日本の人類学、考古学の基礎をつくったことで知られています。
 1838年(天保9)6月18日に、アメリカ合衆国メイン州ポートランドで生まれ、ハーバード大学のJ.L.R.アガシの助手として動物学を学び、腕足類の研究に携わりました。
 1867年(慶応3)から、ピーボディ科学アカデミーの所員として研究を続け、1871年(明治4)から3年ほどボードウィン大学教授として教鞭をとったのです。
 1877年(明治10)6月18日に、39歳で腕足類研究のため初来日し、翌日横浜から東京へ向かう汽車の車窓から大森貝塚を発見しました。
 その後、請われて東京大学理学部動物学生理学教授に就任、大森貝塚の発掘、近代動物学とダーウィンの進化論の紹介に努め、教育施設の充実のためにも活躍したのです。そして、1879年(明治12)に東京大学を退職し、9月3日に離日しました。
 1882年(明治15)に44歳で再来日し、日本陶器の収集に専念、日本各地で収集した陶器はモース・コレクションとしてボストン美術館に収蔵されています。
 帰国後はピーボディー博物館長、同名誉館長を務めましたが、1925年(大正14)12月20日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラムにおいて、87歳で死去しました。
 日本に関する主な著書としては、『大森貝墟古物編』(1879年)、『日本のすまい・内と外』(1885年)、『モース日本陶器コレクション』(1901年)、『日本その日その日』(1917年)があります。

〇「大森貝塚」とは?
 東京都品川区・大田区にまたがる縄文時代後期~晩期の貝塚です。アメリカの動物学者エドワード・S・モースが1877年(明治10)、横浜から東京へ向かう汽車の車窓から発見し、発掘が行われ、1879年(明治12)には日本初の発掘報告書が出版されました。この発掘は、日本初の学術的なものとして、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。
 これらのことから、 1955年(昭和30)に国の史跡に指定され、1986年(昭和61)には追加指定を受けています。出土物は、各種の貝殻をはじめ、縄文式土器、土偶、石斧、石鏃、人骨片、鹿やクジラの骨などで、「東京大学総合研究資料館」に保存され、1975年(昭和50)に、一括して大森貝塚出土品として国の重要文化財の指定を受けました。
 その後、1984年(昭和59)と1993年(平成5)に、大森貝塚遺跡庭園整備などの発掘調査が行われ、住居址や土器・装身具・魚や動物の骨などが大量に見つかっています。この時の発掘資料の一部は、「品川歴史館」に展示されていますし、品川区大井六丁目と大田区山王一丁目には記念碑が建てられ、大森貝塚遺跡庭園も整備され、大森貝塚貝層断面やモース博士像もあります。
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