ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 交通

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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の一部、愛媛県今治市の伯方島と大島を結ぶ、伯方・大島大橋が供用開始した日です。
 伯方・大島大橋(はかた・おおしまおおはし)は、現在の愛媛県今治市に属する大島と伯方島間に架かる伯方橋(桁橋)と大島大橋(吊り橋)の総称です。伯方島と大島が最も接近する「宮窪瀬戸」に架橋され、1981年(昭和56)に着工し、7年弱の工期をかけ、1988年(昭和63)1月17日に供用開始され、西瀬戸自動車道(しまなみ海道・国道317号バイパス)の一部を構成してきました。
 伯方橋は、橋長325mの3径間連続鋼床板箱桁橋で、大島大橋は、橋長840mの単径間2ヒンジ補剛箱桁吊橋となっていて一体構造化され、全長は1,230mとなります。暫定2車線で、設計速度は80km/h(規制速度70km/h)ですが、自転車歩行者道が設けられているのが特徴とされてきました。

〇西瀬戸自動車道とは?

 平成時代の2006年(平成18)に全通した、本州四国連絡橋ルートの一つで、瀬戸大橋、神戸淡路鳴門自動車道につぐ三番目として、瀬戸内海の島伝いに10本の橋をつないで、広島県尾道市と愛媛県今治市間59・4kmを結んでいます。
 1955年(昭和30)の宇高連絡船「紫雲丸」事故により、修学旅行の学童を中心とした168名が死亡するなどの海難事故を契機に、本州と四国間の架橋実現の要望が高まり、建設省(現在の国土交通省)や国鉄(現在のJR)などが本格的な架橋実現のための調査を開始しました。1970年(昭和45)に、実施機関として本州四国連絡橋公団が設置され、工事着工に向けての準備が進められて、一端1973年(昭和48)11月25日に、神戸~鳴門ルート、児島~坂出ルートとともに、3ルートの同時着工式が予定されましたが、世界的なオイルショックにより、無期延期されます。
 その後、地域開発橋の名目で、1975年(昭和50)に、大三島橋(1979年完成)が着工、続いて、1977年(昭和52)に因島大橋着工(1983年完成)、1981年(昭和56)に伯方・大島大橋着工(1988年完成)、1986年(昭和61)に生口橋着工(1991年完成)、1990年(平成2)多々羅大橋着工(1999年完成)、1993年(平成5)に新尾道大橋着工(1999年完成)、1988年(平成10)に来島海峡大橋の3橋が着工(1999年完成)と順次建設されていきました。1999年(平成11)5月1日には、新尾道大橋、多々羅大橋、来島海峡大橋(3橋)の開通により、本四連絡橋・尾道今治ルート(愛称:しまなみ海道)は、生口島内の高速道路を除いて、繋がります。
 それも、6年後に生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)が完成して、西瀬戸自動車道の全通となりました。海峡部の橋梁として新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本が建設され、総事業費は約7,800億円かかっています。
 本四連絡橋では唯一、歩行者・自転車専用道が併設され、徒歩や自転車、原動機付き自転車での利用もできるのが特徴とされてきました。

☆西瀬戸自動車道を構成する長大橋

・新尾道大橋[本州・尾道~向島間]ハーブ型斜張橋(橋長546m)
・因島大橋[向島(向島IC)~因島(因島北IC)間]吊橋(橋長1270 m
・生口橋[因島(因島南IC)~生口島(生口島北IC)]斜張橋(橋長790m)
・多々羅大橋[生口島(生口島南IC) - 大三島(大三島IC)間]斜張橋(橋長1,480m)
・大三島橋[大三島(大三島IC) - 伯方島(伯方島IC)間]アーチ橋(橋長328m)
・伯方・大島大橋[伯方島(伯方島IC) - 大島(大島北IC)間]桁橋(伯方橋)+吊橋(大島大橋)の複合橋(橋長325m+840m)
・来島海峡大橋[大島(大島南IC) - 四国・今治(今治北IC)間]来島海峡第一大橋、来島海峡第二大橋、来島海峡第三大橋から成る三連吊橋(橋長、第一が960m、第二が1,515m、第三が1,570m)

☆日本における戦後の長大橋建設略年表

・1955年(昭和30) 長崎県の西海橋(アーチ橋:アーチ支間216m)
・1961年(昭和36) 徳島県鳴門市の小鳴門橋(吊り橋:中央径間160m)
・1962年(昭和37) 福岡県北九州市の若戸大橋(吊り橋:中央径間367m)
・1973年(昭和48) 福岡県北九州市・山口県下関市の関門橋(吊り橋:中央径間712m)
・1979年(昭和54) 愛媛県今治市の大三島橋(アーチ橋:アーチ支間297m)現在アーチ橋では日本3位
・1983年(昭和58) 広島県尾道市の因島大橋(吊り橋:中央径間770m)
・1985年(昭和60) 徳島県鳴門市・兵庫県南あわじ市の大鳴門橋(吊り橋:中央径間876m)
・1988年(昭和63) 香川県坂出市の南備讃瀬戸大橋(吊り橋:中央径間1,100m)現在吊り橋では日本2位
・1988年(昭和63) 香川県坂出市の北備讃瀬戸大橋(吊り橋:中央径間990m)
・1988年(昭和63) 岡山県倉敷市・香川県坂出市の下津井瀬戸大橋(吊り橋:中央径間940m)
・1988年(昭和63) 広島県尾道市・愛媛県今治市の大島大橋(吊り橋:中央径間560m)
・1993年(平成5) 東京都の東京港連絡橋<レインボーブリッジ>(吊り橋:中央径間570m)
・1994年(平成6) 大阪府大阪市の新木津川大橋(アーチ橋:アーチ支間308m)現在アーチ橋では日本2位
・1998年(平成10) 愛媛県今治市の伯方・大島大橋(桁橋+吊り橋:橋長1,230m)
・1998年(平成10) 兵庫県の明石海峡大橋(吊り橋:中央径間1,991m)現在吊り橋では日本1位
・1998年(平成10) 北海道室蘭市の白鳥大橋(吊り橋:中央径間720m)
・1999年(平成11) 愛媛県今治市の来島海峡第三大橋(吊り橋:中央径間1,030m)現在吊り橋では日本3位
・1999年(平成11) 愛媛県今治市の来島海峡第二大橋(吊り橋:中央径間1,020m)
・2000年(平成12) 広島県呉市の安芸灘大橋(吊り橋:中央径間750m)
・2008年(平成20) 広島県呉市の豊島大橋(吊り橋:中央径間540m)
・2011年(平成23) 広島県三原市の広島空港大橋(アーチ橋:アーチ支間380m)現在アーチ橋では日本1位

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)民撰議院設立建白書が出される詳細
1885年(明治18)思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日詳細
1943年(昭和18)戦費捻出目的でたばこが大幅値上げ(金鵄10銭→15銭、ひかり18銭→30銭、朝日25銭→45銭)される詳細
1944年(昭和19)「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される詳細
1995年(平成7)兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す詳細
2017年(平成29)発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の命日詳細
2019年(平成31)物理学者米沢富美子の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、三浦半島南東端(神奈川県三浦市)に立つ、日本7番目の洋式灯台である劔埼灯台が初点灯した日ですが、新暦では3月1日となります。
 剱埼灯台(つるぎさきとうだい)は、三浦半島の剱崎の突端に立つ白亜八角形の大型灯台です。幕末の1866年(慶応2)5月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税約書」(別名「江戸条約」)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台の一つでした。
 これらを条約灯台とも呼んでいますが、1871年(明治4)3月1日<旧暦では1月11日>に、「灯台の父」と呼ばれるR・H・ブラントンの設計によって設置、初点灯されています。日本の洋式灯台としては、第7番目のもので、建設当初は、石造でしたが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災により、倒壊してしまいました。
 1924年(大正14)7月4日に再建されたのが、現在の灯台で、白色塔形(八角形)コンクリート造です。その後、1991年(平成3)には、無人化され、1996年(平成8)4月には、レーマークビーコン局が併設されました。
 現在の灯塔高(地上から塔頂まで)は16.9m、標高(平均海面~灯火)は41.1mで、第2等フレネル式レンズを使い、光度は45万カンデラ(実効光度)、光達距離は白光17海里(約31km)、緑光18海里(約33km)です。また、無線方位信号所(中波標識局、レーマークビーコン)も併設されました。
 周辺は、岩礁が発達し、浦賀水道や房総半島を望む風光明媚の地となっています。

〇R・H・ブラントンとは?

 日本の「灯台の父」とも呼ばれ、明治初期に主要灯台の建設にたずさわったイギリス人技師です。本名をリチャード・ヘンリー・ブラントンといい、1841年(天保12)12月26日に、イギリスのスコットランド・アバディーン洲キンカーデン郡に生まれました。
 もともと鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に従事していましたが、1868年(明治元)2月24日に、明治政府の雇い灯台技師として採用されました。
 短期間に灯台建設や光学等の灯台技術に関する知識を習得後、その年の8月8日、2人の助手と共に来日しましたが、当時はまだ26歳の青年でした。滞在していた8年ほどの間に、灯台26(下記の一覧参照)、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを建設し、灯台技術者養成の「修技校」を設置するなどして、灯台技術の継承にも力を尽くしました。
 また、灯台以外にも、日本最初の電信工事(明治2年・横浜)、鉄橋建設(横浜・伊勢佐木町の吉田橋)、港湾改修工事計画策定(大阪港・新潟港)、横浜外人墓地の下水道工事の設計など数多くの功績を残し、1876年(明治9)3月10日離日して、イギリスへ帰国しました。
 帰国後のブラントンは、「日本の灯台(Japan Lights)」という論文を英国土木学会で発表、テルフォード賞を受賞しました。その後は、ヤング・パラフィン・オイル会社支配人、建築装飾品製造工場の共同経営、土木建築業の自営など、建築家として多くの建物の設計・建築に携わりました。そして、仕事の合間に書きためてあったものを『ある国家の目覚め-日本の国際社会加入についての叙述と、その国民性についての個人的体験記』という原稿にまとめ終えてまもなく、1901年(明治34)4月24日に、59歳で亡くなっています。

<R・H・ブラントンが日本で建設に携わった灯台>

・樫野埼灯台 [和歌山県串本町] 初点灯1870年7月8日(旧暦:明治3年6月10日) 石造
・神子元島灯台 [静岡県下田市] 初点灯1871年1月1日(旧暦:明治3年11月11日) 石造
・剱埼灯台 [神奈川県三浦市] 初点灯1871年3月1日(旧暦:明治4年1月11日) 石造
・江埼灯台 [兵庫県淡路市] 初点灯1871年6月14日(旧暦:明治4年4月27日) 石造
・伊王島灯台 [長崎県長崎市] 初点灯1871年9月14日(旧暦:明治4年7月30日) 鉄造
・石廊崎灯台 [静岡県南伊豆町] 初点灯1871年10月5日(旧暦:明治4年8月21日) 木造
・佐多岬灯台 [鹿児島県南大隅町] 初点灯1871年11月30日(旧暦:明治4年10月18日) 鉄造
・六連島灯台 [山口県下関市] 初点灯1872年1月1日(旧暦:明治4年11月21日) 石造
・部埼灯台 [福岡県北九州市] 初点灯1872年3月1日(旧暦:明治5年1月22日) 石造
・友ヶ島灯台 [和歌山県和歌山市] 初点灯1872年8月1日(旧暦:明治5年6月27日) 石造
・納沙布岬灯台 [北海道根室市] 初点灯1872年8月15日(旧暦:明治5年7月12日) 木造
・和田岬灯台 [兵庫県神戸市] 初点灯1872年10月1日(旧暦:明治5年8月29日) 木造
・天保山灯台 [大阪府大阪市] 初点灯1872年10月1日(旧暦:明治5年8月29日) 木造
・鍋島灯台 [香川県坂出市] 初点灯1872年12月15日(旧暦:明治5年11月15日) 石造
・安乗埼灯台 [三重県志摩市] 初点灯1873年(明治6)4月1日 木造
・釣島灯台 [愛媛県松山市] 初点灯1873年(明治6)6月15日 石造
・菅島灯台 [三重県鳥羽市] 初点灯1873年(明治6)7月1日 レンガ造
・白洲灯台 [福岡県北九州市] 初点灯1873年(明治6)9月1日 木造
・潮岬灯台 [和歌山県串本町] 初点灯1873年(明治6)9月15日 木造
・御前埼灯台 [静岡県御前崎市] 初点灯1874年(明治7)5月1日 レンガ造
・犬吠埼灯台 [千葉県銚子市] 初点灯1874年(明治7)11月15日 レンガ造
・羽田灯台 [東京都] 初点灯1875年(明治8)3月15日 鉄造
・烏帽子島灯台 [福岡県糸島市] 1875年(明治8)8月1日 鉄造
・角島灯台 [山口県下関市] 初点灯1876年(明治9)3月1日 石造
・尻屋埼灯台 [青森県東通村] 初点灯1876年(明治9)10月20日 レンガ造
・金華山灯台 [宮城県石巻市] 初点灯1876年(明治9)11月1日 石造

〇「改税約書」(別名「江戸条約」)とは?

 幕末の1866年(慶応2年5月13日)に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国との間で結ばれた「安政五か国条約付属貿易章程」の改訂協約で、江戸において締結されたので、別名「江戸条約」とも呼ばれていました。
 1863年(文久3)に長州藩がアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃した下関事件に関連して、1865年(慶応元年9月)に、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英・仏・米・蘭) の威嚇により、4ヶ国は、上京していた第14代将軍徳川家茂に対し、長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに、1858年(安政5)に結んだ「修好通商条約」の勅許、兵庫開港、関税率低減を要求します。これに対し、幕府は兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ要求に応じるほかなくなりました。
 そして、輸入税に関して、「修好通商条約」の5~35%の従価税を廃止し、4ヵ年平均価格を原価とする一律5%を基準とする従量税とされ、きわめて不利な関税率となります。これによって、安価な外国商品が日本市場に流入し、産業資本の発達が厳しく阻害されることとなりました。その他、無税倉庫の設置や外国向け輸出品の国内運送非課税、貿易制限の撤去などがあわせて規定されます。
 この後、明治時代における条約改正の主目標となり、ようやく1894年(明治27)に廃棄されました。
 尚、この条約第11条「日本政府は外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備ふへし」(灯明台規定)により、灯台を建設することを約束させられ、日本で初となる洋式灯台が8ヶ所(観音埼灯台、野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剱埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台)建設されることとなります。

☆「改税約書」(江戸条約)により建設された灯台(条約灯台)一覧 

・観音埼灯台(神奈川県横須賀市)初点灯:1869年2月11日(旧暦:明治2年1月1日) 
・野島埼灯台(千葉県南房総市)初点灯:1870年1月19日(旧暦:明治2年12月18日) 
・樫野埼灯台(和歌山県串本町)初点灯:初点灯:1870年7月8日(旧暦:明治3年6月10日) 
・神子元島灯台(静岡県下田市)初点灯:1871年1月1日(旧暦:明治3年11月11日)  
・剱埼灯台(神奈川県三浦市)初点灯:1871年3月1日(旧暦:明治4年1月11日) 
・伊王島灯台(長崎県長崎市)初点灯:1871年9月14日(旧暦:明治4年7月30日) 
・佐多岬灯台(鹿児島県佐多町)初点灯:1871年11月30日(旧暦:明治4年10月18日) 
・潮岬灯台(和歌山県串本町)初点灯:1873年(明治6)9月15日 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)武蔵国秩父郡から朝廷に銅が献上され、記念して和銅改元がされる(新暦2月7日)詳細
1938年(昭和13)御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定される詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第20条に基づき、「新聞紙等掲載制限令」が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)植物学者・遺伝学者藤井健次郎の命日詳細
1964年(昭和39)伊豆大島大火で584棟418戸が焼失する詳細
1966年(昭和41)青森県三沢市で三沢大火が起きる詳細
1974年(昭和49)劇作家・小説家山本有三の命日(1.11忌)詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、駿河湾汽船「愛鷹丸」が、強風と波浪により沈没(愛鷹丸沈没事故)し、死者・行方不明者121人を出した日です。
 愛鷹丸沈没事故(あしたかまるちんぼつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)1月5日午後に、駿河湾汽船「愛鷹丸」が、静岡県の駿河湾の戸田沖で沈没した事故です。伊豆半島の土肥港(現在の伊豆市)を午後1時半頃に出港し、戸田港(現在の沼津市)に向け航行中の駿河湾汽船「愛鷹丸」(総トン数57t、旅客定員26人の貨客船)が、定員の5倍以上の146人を乗せて航行中、西南からの強風と波浪により戸田沖で沈没しました。
 同船に続いて航行していた東京湾汽船所有の「芙蓉丸」が、直ちに救助に向かい乗客25人を救助、5人の遺体を収容しましたが、残り116人は行方不明となります。尚、静岡県沼津市内浦に、「愛鷹丸沈没事故慰霊碑」が建立されました。
 以下に、この愛鷹丸沈没事故について記述した、岡本綺堂著『春の修善寺』の該当部分を抜粋掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇岡本綺堂著『春の修善寺』の中の愛鷹丸沈没事故の部分を抜粋

 十年ぶりで三島駅から大仁(おおひと)行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路(みち)ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫(ふる)えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽(あお)られて、今にも折れるかとばかりに撓(たわ)みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけて直驀地(まっしぐら)に襲って来る。
 この如何(いか)にも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているというのびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかには沼津の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸あしたかまる)が駿河湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から飜然悔悟した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいという。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したが、それはもう時效を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞きあわせると、当時の被害者は疾(と)うに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生れではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、いくらかの金を作った。彼はその金をふところにして彼の愛鷹丸に乗込むと、駿河の海は怒って暴れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナを乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも罪ある人ばかりでなく、乗組の大勢をも併せて海のなかへ投げ落としてしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引きあげられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどにむごいものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。南条駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟(すなけむり)が巻き颺(あが)っている。その黄(きいろ)い渦が今は仄白くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套の羽をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振照す提灯(ちょうちん)の火のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自働車に乗った。

 (以下略)

   「青空文庫」より

☆明治・大正時代に日本近海で起きた重大海難事故一覧(死者・行方不明者100人以上)

・1878年(明治11)12月24日 - 和歌山県太地村でセミクジラを捕獲するため19隻・総勢184名で出漁、荒天による集団遭難事故(大背美流れ)<死者・行方不明者100余人>
・1890年(明治23)9月16日 - 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没(エルトゥールル号遭難事件)<乗員約600人中、死者・行方不明者587人>
・1891年(明治24)7月11日 - 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸」と「三吉丸」が衝突し「瓊江丸」が沈没<死者・行方不明者261人>
・1905年(明治38)8月22日 - 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没<死者・行方不明者165人>
・1908年(明治41)3月23日 - 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没<死者・行方不明者212人>
・1914年(大正3)1月5日 - 静岡県の駿河湾で、汽船「愛鷹丸」が強風のため横転沈没<死者・行方不明者121人>
・1922年(大正11)8月26日 - カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆<死者・行方不明者327人>
・1926年(大正15)4月26日 - 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没<死者・行方不明者182人>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1927年(昭和2)有機化学者向山光昭が誕生日詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、東京市バスが木炭バス4台を初運行した日です。
 木炭バス(もくたんばす)は、木炭を不完全燃焼させて発生した一酸化炭素を燃料として走るバスです。車体後部に装備したガス発生炉によって木炭を乾留し、発生する木炭ガスを燃料とする一種のガス機関自動車で、太平洋戦争中から戦後にかけて、ガソリンが不足した日本で多く用いられました。
 1934年(昭和9)6月に商工省は、「瓦斯発生炉設置奨励金」制度を創設、バス会社等への手厚い補助を組み、1937年(昭和12)12月30日には、東京市バスが木炭バス4台を初運行しています。1940年(昭和15)9月11日に、商工省は営業バスの7割を代用燃料車に転換するよう禁令を発しました。
 1941年(昭和16)9月1日からは、バスのガソリン使用を全面禁止することが鉄道省から発表され、バスは代用燃料車にのみ営業許可をだすこととなり、木炭車の民間普及促進のための歌とレコードが作られます。戦後もガソリン不足の中で、運行が継続されましたが、1951年(昭和26)5月に、運輸省が「ガソリン事情の好転」「森林資源の保護」の2点を挙げ、木炭自動車の廃止にむけて動き出す事を発表し、衰退しました。

〇木炭バス関係略年表

・1932年(昭和7) この頃からバス会社などに試行的に木炭ガス発生炉を採用する事例が生じ始める
・1934年(昭和9)6月 商工省は「瓦斯発生炉設置奨励金」制度を創設、バス会社等への手厚い補助を組む
・1937年(昭和12)12月30日 東京市バスが木炭バス4台を初運行する
・1939年(昭和14) 民間普及促進のため木炭車の全国キャラバンが実施される
・1940年(昭和15)9月11日 商工省は営業バスの7割を代用燃料車に、タクシーもなるべく代用燃料車に転換するよう禁令を発する
・1941年(昭和16)9月1日 この日からバスやタクシーのガソリン使用を全面禁止することが鉄道省から発表される
・1941年(昭和16)9月11日 バスおよびタクシーは代用燃料車にのみ営業許可を出すこととなる
・1941年(昭和16) 木炭車の民間普及促進のための歌とレコードが作られる
・1951年(昭和26)5月 運輸省が「ガソリン事情の好転」「森林資源の保護」の2点を挙げ、木炭自動車の廃止にむけて動き出す事を発表する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(明徳2/元中8)武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)山名氏清が明徳の乱に敗れ戦死する(新暦1392年1月24日)詳細
1867年(慶応3)小説家・評論家斎藤緑雨の誕生日(新暦1868年1月24日)詳細
1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
1977年(昭和52)生理学者久野寧の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、国鉄室蘭本線の岩見沢~室蘭間で、国鉄最後のSL牽引による旅客列車が走った日です。
 蒸気機関車(SL)(じょうききかんしゃ)は、日本においては、明治5年9月12日(1872年10月14日)に、新橋駅(後の汐留貨物駅)~横浜駅(現在の桜木町駅)間を結ぶ日本初の鉄道が開業して以来、鉄道輸送を担ってきましたが、当初の官営鉄道(国鉄)の車両は1号機関車などすべてイギリス製の車両(北海道の官営幌内鉄道ではアメリカ様式、九州鉄道ではドイツ様式が採用された )でした。
 1893年(明治26)にイギリス人技術者の指揮の下、日本初の国産機関車である860形(A9形)が鉄道庁神戸工場で製造され、その後量産されるようになっていきます。
 大正時代から昭和時代前期にかけて、蒸気機関車(SL)の全盛期を迎えましたが、電気モーターやディーゼルエンジン等の動力方式が採用されるようになり、1948年(昭和23)のE10形5両が製造されたのを最後に国鉄における蒸気機関車製造は終了しました。
 そして、1959年(昭和34)に「動力近代化計画」が答申され、電化、ディーゼル化が推進されるようになります。その後、国鉄では次々と蒸気機関車は置き換えられていって、1974年(昭和49)11月に本州から、1975年(昭和50)3月に九州から相次いで姿を消しました。
 最後に残った北海道でも、同年12月14日、C57 135による室蘭本線室蘭~岩見沢間の225列車の運転を最後として、蒸気機関車(SL)牽引の定期旅客列車は姿を消し、貨物輸送も12月24日の夕張線(現・石勝線)でのD51 241による石炭列車が最後となり、国鉄の本線上からはなくなります。ただし、入換え仕業としては1976年(昭和51)3月2日まで追分機関区の9600形が使用されていました。
 民営鉄道でも同時期に蒸気機関車(SL)は姿を消していき、専用鉄道でも1982年(昭和57)の室蘭市における鉄原コークスを最後に、蒸気機関車(SL)の使用は終了しています。
 一方で蒸気機関車(SL)を残していく動きもあり、1972年(昭和47)の鉄道100年を契機に、国鉄蒸気機関車(SL)の恒久的な動態保存が始められ、同年10月に梅小路蒸気機関車館(於:京都市)が開館しました。このSLを用いて、開館直後から1974年(昭和49)までC62形やC61形を用いた「SL白鷺号」が京都~姫路間に行楽シーズンに運行されています。
 また、1976年(昭和51)7月9日に、大井川鐵道が、蒸気機関車(SL)の動態保存運転を開始し、輸送用の蒸気機関車(SL)としての命脈が保たれることとなりました。国鉄でも、1979年(昭和54)8月1日から、国鉄復活蒸機第1号となるC57 1による「SLやまぐち号」が運転を開始します。
 これらが、人気となりその後各地のJRグループや私鉄でも蒸気機関車(SL)が復活運転されるようになっていきました。

〇蒸気機関車(SL)の動態保存運転(構内運転を含む)一覧

<JRグループ>
・北海道旅客鉄道(JR北海道)
 C11形(C11 171)---「SL冬の湿原号」として使用
・東日本旅客鉄道(JR東日本)
 D51形(D51 498)---「SLぐんま」などで使用
 C57形(C57 180)---「SLばんえつ物語」などで使用
 C61形(C61 20)---「SLぐんま」などで使用
・西日本旅客鉄道(JR西日本)
 C57形(C57 1)---「SLやまぐち号」などで使用
 D51形(D51 200)---「SLやまぐち号」などで使用

<私鉄>
・大井川鐵道
 C10形(C10 8)--- SL急行「かわね路号」として使用
 C11形(C11 190)---SL急行「かわね路号」として使用
 C11形(C11 227)---SL急行「かわね路号」として使用
 C56形(C56 44)---SL急行「かわね路号」として使用
・秩父鉄道
 C58形(C58 363)---「パレオエクスプレス」として使用
・真岡鐵道
 C12形(C12 66)---「SLもおか」として使用
・東武鉄道
 C11形(C11 207)---「SL大樹」として使用
 C11形(C11 325)---「SL大樹」として使用
 C11形(C11 123)---「SL大樹」として使用

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)江戸時代の文人画家谷文晁の命日(新暦1841年1月6日)詳細
1907年(明治40)法制史学者石井良助の誕生日詳細
1949年(昭和24)小説家・翻訳家森田草平の命日詳細
1955年(昭和30)洋画家安井曾太郎の命日詳細
1960年(昭和35)国連教育科学文化機関(ユネスコ)第11回総会で、「教育差別禁止条約」が採択される詳細
第15回国連総会で、アジア・アフリカ43ヶ国の提案による「植民地独立付与宣言」が採択される詳細
1972年(昭和47)元東京帝国大学総長・建築家で、日本の建築構造学の父と言われる内田祥三の命日詳細
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