ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、文部省の「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」が出され、学徒勤労動員で軍需工場へ動員されるようになった日です。
 「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」(がくときんろうどういんじっしようこうにかんするけん)は、学徒勤労動員で生徒を軍需工場へ動員するための文部省の指令です。これは、作業場を「行学一体ノ道場」たらしめ、学徒の「奉公精神、教養規律ニヨリ、作業揚ヲ純真且明朗ナラシムルコト」を要請し、教職員の「率先垂範陣頭指揮」を強調したものでした。
 これによって、全国の学徒は、通いなれた校舎に訣別して、続々と軍需工場へ動員されていきます。

〇学徒勤労動員(がくときんろうどういん)とは?

 昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3?5日勤労奉仕することを義務づけられました。それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになったのです。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されました。その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されました。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されたのです。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されました。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及んだのです。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月11日をもって、この勅令は廃止されることになりました。

☆学徒勤労動員関係略年表

<1938年(昭和13)>
・6月 文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられる

<1939年(昭和14)> 
・木炭や食料の増産運動において、学生・生徒は正課として作業に参加することになる

<1941年(昭和16)>
・2月 年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出される
・8月 学校報国隊が結成される

<1943年(昭和18)>
・6月 東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定する
・10月  「教育ニ関スル戦時非常措置方策」(国防訓練および戦時勤労動員の強化)が出される

<1944年(昭和19)>
・1月 勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられる
・2月 「決戦非常措置要綱」(学徒の勤労動員は原則通年動員)が閣議決定 される
・3月7日 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定される
・4月27日 文部省から「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」が出され、学徒勤労動員で軍需工場へ動員されるようになる
・7月19日 閣議決定に基づき文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」(国民学校児童の継続動員、教育訓練時間の停止、1日10時間の勤務、交替制深夜業の実施)が出される
・8月23日 学徒勤労動員の法令的措置として、「学徒勤労令」(学徒勤労は学校報国隊の組織をもって実施)の公布・施行と「女子挺身隊勤労令」が出される
・11月 夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令される
・12月 中等学校卒業者の勤労動員継続の措置が決まり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとする
・12月 「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置される

<1945年(昭和20)>
・3月 「決戦教育措置要綱」(国民学校初等科を除きすべての学校の授業は原則停止、全学徒は決戦体制下に総動員)が閣議決定される
・5月 「戦時教育令」(学徒隊の組織編成)が公布される
・10月11日 「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、をもって、「学徒勤労令」は廃止されることになる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が行家から平家追討の為の以仁王の令旨を伝えられる(新暦5月23日)詳細
1871年(明治4)日本8番目の洋式灯台である江埼灯台が初点灯する(新暦6月14日)詳細
1874年(明治7)浜松明治7年大火「小野組火事」が起き、死者3名、焼失家数1,335軒を出す詳細
1897年(明治30)帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする詳細
1907年(明治40)国際的に活躍した版画家斎藤清の誕生日詳細
1948年(昭和23)衆議院不当財産取引委員会で昭和電工への復金融資をめぐる贈収賄(昭和電工事件)が問題化する詳細
1991年(平成3)国際生命尊重会議で、「胎児の人権宣言」が採択された日で、「世界生命の日」とされる詳細
2013年(平成25)推理作家・評論家佐野洋の命日詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、「朝日新聞」で夏目漱石の『心先生の遺書』(後に『こゝろ』に改題)が連載開始された日です。
 『こゝろ』は、夏目漱石の長編小説で、漱石の代表作の一つです。1914年(大正3)4月20日~8月11日まで、「朝日新聞」で『心 先生の遺書』として連載され、同年9月20日に岩波書店より刊行(漱石自身の装丁)されました。
 「上・先生と私」「中・両親と私」「下・先生と遺書」の三部構成となっており、私(大学生)が、鎌倉の海で会った先生に心惹かれて、傾倒していくものの、世間から隠遁したように生活している先生は容易に心を開かず、その謎の多い言動が、自殺した先生の遺書によって解明されるという構成をとっています。漱石自身の孤独と彼が生きた明治への運命的な一体感を暗示しているとされ、前作『行人』以来の自我と他人との問題を扱った晩年の代表作とされてきました。
 この作品が、岩波書店にとっては、出版社として本格的に発刊した最初の小説となっています。
 以下に、『こゝろ』の冒頭部分を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇夏目漱石著『こゝろ』の冒頭部分

上 先生と私


 私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉(かまくら)である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ)日数ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこ)で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人(ひとり)ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった。玉突(たまつ)きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻(くすぶ)り返った藁葺(わらぶき)の間(あいだ)を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯(せんとう)のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑(にぎや)かな景色の中に裹(つつ)まれて、砂の上に寝(ね)そべってみたり、膝頭(ひざがしら)を波に打たしてそこいらを跳(はね)廻(まわ)るのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった。私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こし)らえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外(ほか)に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、ここへ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切(いっさい)を脱(ぬ)ぎ棄(すて)る事にしていた。

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

<夏目漱石の主要な著作>

・『我輩は猫である』(1905~06年)
・『倫敦塔』(1905年)
・『幻影(まぼろし)の盾』(1905年)
・『坊つちやん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『虞美人草』(1907年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』 (1909年)
・『門』 (1910年)
・『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912年)
・『行人(こうじん)』(1912~13年)
・『こゝろ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1924年(大正13)宮沢賢治著の詩集『春と修羅』(関根書店)が刊行される詳細
1926年(大正15)「青年訓練所令」が公布され、在郷軍人や青年団幹部を職員とした青年訓練所が各地に設置される詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細
1974年(昭和49)「日中航空協定」が調印(効力発生は同年5月24日)される詳細
1978年(昭和53)小説家橋本英吉の命日詳細
2005年(平成17)小説家丹羽文雄の命日詳細
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 今日は、平安時代前期の905年(延喜5)に、15日に完成した初の勅撰和歌集『続万葉集』に対し、醍醐天皇が編纂し直すよう命じ、改めて『古今和歌集』として編輯を行うこととなったと考えられる日ですが、新暦では5月24日となります。
 平安時代前期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人が撰者となって編集し、905年(延喜5年4月15日)に奏上(注:仮名序では4月18日)された最初の勅撰和歌集で、『古今集』とも呼ばれています。しかし、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜13年(914年)~延喜14年頃とも考えられてきました。
 全二十巻からなり、仮名序と真名序の二つの序文があって、約1,100首を収め、春・夏・秋・冬など13に分類されています。ほとんどが短歌ですが、旋頭歌4首と長歌5首もあり、技巧的・観念的で、繊細・優美な歌が多く、『万葉集』の率直な写生の歌とは異なってきました。
 入集歌数が多いのは、紀貫之(102首)、凡河内躬恒(60首)、紀友則(46首)、壬生忠岑(36首)、素性(36首)、在原業平(30首)の順となっています。この歌集以後、勅撰和歌集が編集され、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれてきました。尚、1205年(元久2)成立の『新古今集』までの初めの8つを「八代集」とも呼んでいます。
 以下に、『古今和歌集』の仮名序を掲載紙ておきますから、ご参照下さい。

<収載されている代表的な歌>
・「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(紀友則)
・「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行)
・「冬がれの 野辺とわが身を 思ひせば 燃えても春を 待たましものを」(伊勢)
・「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」(壬生忠岑)
・「桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける」(紀貫之)
・「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)

〇古今和歌集仮名序

やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。
このうた、あめつちのひらけはじまりける(時)よりいできにけり。しかあれども、よにつたはれることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらがねのつちにしては、すさのをのみことよりぞおこりける。ちはやぶるかみよには、うたのもじもさだまらず、すなほにして、ことのこゝろわきがたかりけらし。人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。
かくてぞはなをめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶこゝろことばおほく、さまざまになりにける。とほきところもいでたつあしもとよりはじまりて年月をわたり、たかき山もふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたもかくのごとくなるべし。
なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさかやまのことばゝうねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは歌のちゝはゝのやうにてぞ、(て)ならふ人のはじめにもしける。
そも/\歌のさまむつなり。からのうたにもかくぞあるべき。 そのむくさのひとつにはそへ歌。おほさゝきのみかどをそへたてまつれるうた
なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。ふたつにはかぞへうた
さくはなに思ひつくみのあぢきなさみにいたづきのいるもしらずて
といへるなるべし。みつにはなずらへうた
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ
といへるなるべし。よつにはたとへうた
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも
といへるなるべし。いつゝにはたゞことうた
いつはりのなきよなりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。むつにはいはひうた
このとのはむべもとみけりさきくさのみつばよつばにとのづくりせり
といへるなるべし。
いまのよの中、いろにつき人のこゝろはなになりにけるより、あだなるうたはかなきことのみいでくれば、いろごのみのいへにむもれぎの人しれぬことゝなりて、まめなるところにははなすすきほにいだすべき事にもあらずなりにたり。そのはじめをおもへばかゝるべく〔も〕なむあらぬ。いにしへのよゝのみかど、春のはなのあした、あきの月のよごとにさぶらふ人びとをめして、ことにつけつゝ歌をたてまつらしめたまふ。あるははなをそふとてたよりなきところにまどひ、あるは月をおもふとて、しるべなきやみにたどれるこゝろごころをみたまひて、さかしおろかなりとしろしめしけむ。しかあるのみにあらず、さゞれいしにたとへ、つくばやまにかけてきみをねがひ、よろこびみにすぎ、たのしびこゝろにあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、まつむしのねにともをしのび、たかさごすみのえのまつもあひおひのやうにおぼえ、をとこやまのむかしをおもひいでゝ、をみなへしのひとゝきをくねるにも歌をいひてぞなぐさめける。又春のあしたにはなのちるをみ、あきのゆふぐれにこのはのおつるをきゝ、あるはとしごとに、かゞみのかげにみゆるゆきとなみとをなげき、くさのつゆみづのあわをみて、わがみをおどろき、あるはきのふはさかえおごりて、〔今日は〕ときをうしなひよにわび、したしかりしもうとくなり、あるはまつ山のなみをかけ、野なかの(し)みづをくみ、あきはぎのしたばをながめ、あか月のしぎのはねがきをかぞへ、あるはくれたけのうきふしを人にいひ、よしのがはをひきてよの中をうらみきつるに、いまはふじのやまもけぶりたゝずなり、ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞこゝろをばなぐさめける。
いにしへよりかくつたはれるうちにも、ならのおほむ時よりぞひろまりにける。かのおほむよや、うたのこゝろをしろしめしたりけむ。かの御時に、おほきみ(み)つのくらゐ、かきのもとの人まろなむうたのひじりなりける。これはきみも人もみをあはせたりといふなるべし。あきのゆふべたつたがはにながるゝもみぢをば、みかどの御めににしきとみたまひ、春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける。又山のへのあか人といふ人ありけり〔と〕。うたにあやしうたへなりけり。人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける。 この人々をおきて又すぐれたる人も、くれたけのよにきこえ、かたいとのより/\にたえずぞありける。これよりさきの歌をあつめてなむまえふしふとなづけられたりける。
こゝにいにしへのことをも歌のこゝろをもしれる人、わづかにひとりふたりなりき。しかあれどこれかれえたるところえぬところたがひになむある。 かのおほむときよりこのかた、としはもゝとせあまり、よはとつぎになむなりにける。いにしへの事をもうたをもしれる人よむ人おほからず。いまこのことをいふに、つかさくらゐたかき人をばたやすきやうなればいれず。そのほかにちかきよにその名きこえたる人は、すなはち、そうじやうへぜうは歌のさまはえたれども、まことすくなし。たとへばゑにかけるをむなを見ていたづらに心をうごかすがごとし。ありはらのなりひらは、そのこゝろあまりてことばたらず。しぼめるはなのいろなくてにほひのこれるがごとし。ふんやのやすひではことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし。うぢやまのそうきせんはことばゝかすかにして、はじめをはりたしかならず。いはゞあきの月をみるに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはしてよくしらず。をのゝこまちは、いにしへのそとほりひめのりうなり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをむなのなやめるところあるにゝたり。つよからぬはをうなのうたなればなるべし。おほとものくろぬしは、そのさまいやし。いはゞたきゞおへるやまびとのはなのかげにやすめるがごとし。このほかの人々、そのなきこゆるのべにおふるかづらのはひゝろごり、はやしにしげきこのはのごとくにおほかれど、うたとのみおもひて、そのさましらぬなるべし。
かゝるにいますべらぎのあめのしたしろしめすことよつのときこゝのかへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみのなみ〔のかげ〕やしまのほかまでながれ、ひろき御めぐみのかげ、つくばやまのふもとよりもしげくおはしまして、よろづのまつりごとをきこしめすいとま、もろ/\のことをすてたまはぬあまりに、いにしへのことをもわすれじ、ふりにしことを(も)おこしたまふとて、いまもみそなはし、のちのよにもつたはれとて、延喜五年四月十八日に、大内記きのとものり、御書所のあづかりきのつらゆき、さきのかひのさう官おふしかうちのみつね、右衞門のふしやうみぶのたゞみねらにおほせられて、萬葉集にいらぬふるきうた、みづからのをも、たてまつらしめたまひてなむ、 それがなかに、むめをかざすよりはじめて、ほとゝぎすをきゝ、もみぢをゝり、ゆきをみるにいたるまで、又つるかめにつけてきみをおもひ、人をもいはひ、あきはぎなつくさをみてつまをこひ、あふさか山にいたりてたむけをいのり、あるは春夏あき冬にもいらぬくさ/\の歌をなむ、えらばせたまひける。すべて千うたはたまき、なづけて古今和歌集といふ。
かくこのたびあつめえらばれて、山したみづのたえず、はまのまさごのかずおほくつもりぬれば、いまはあすかゞはのせになるうらみもきこえず、さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき。それまくらことば、はるのはなにほひすくなくして、むなしきなのみあきのよのながきをかこてれば、かつは人のみゝにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくゝものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらが、このよにおなじくむまれて、この事のときにあへるをなむよろこびぬる。人まろなくなりにたれど、うたのことゝどまれるかな。たとひときうつりことさりたのしびかなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづらながくつたはり、とりのあとひさしくとゞまれらば、うたのさまを(も)しり、ことのこゝろをえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、いにしへをあふぎていまをこひざらめかも。

 「ウィキソース」より

☆勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。
 尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。
 その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。
 部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

<勅撰和歌集(二十一代集)一覧>

1 『古今和歌集』20巻・1,100首(醍醐天皇下命) 905年成立(一説905年下命、913-14年成立)[選者:紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑] 
2 『後撰和歌集』20巻・1,425首(村上天皇下命) 951年下命、957-959年成立[選者:大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城]  
3 『拾遺和歌集』20巻・1,351首(花山院下命) 1005-07年成立[選者:花山院] 藤原公任『拾遺抄』を増補したもの 
4 『後拾遺和歌集』20巻・1,218首(白河天皇下命) 1086年成立[選者:藤原通俊]   
5 『金葉和歌集』10巻・650首(白河院下命) 1126年成立(三奏本)[選者:源俊頼](三奏本) 世上に流布したのは10巻665首の二度本 
6 『詞花和歌集』10巻・415首(崇徳院下命) 1151年頃成立[選者:藤原顕輔] 
7 『千載和歌集』20巻・1,288首(後白河院下命) 1188年成立[選者:藤原俊成]  
8 『新古今和歌集』20巻・1,978首(後鳥羽院下命) 1205年成立[選者:源通具、藤原有家、藤原定家、飛鳥井雅経、寂蓮(実際は後鳥羽院親撰)] 
9 『新勅撰和歌集』20巻・1,374首(後堀河天皇下命) 1235年成立[選者:藤原定家]
10 『続後撰和歌集』20巻・1,371首(後嵯峨院下命) 1251年成立[選者:藤原為家]   
11 『続古今和歌集』20巻・1,915首(後嵯峨院下命) 1265年成立[選者:藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良] 
12 『続拾遺和歌集』20巻・1,459首(亀山院下命) 1278年成立[選者:二条為氏]   
13 『新後撰和歌集』20巻・1,607首(後宇多院下命) 1303年成立[選者:二条為世]   
14 『玉葉和歌集』20巻・2,800首(伏見院下命) 1312年成立[選者:京極為兼] 
15 『続千載和歌集』20巻・2,143首(後宇多院下命) 1320年成立[選者:二条為世]   
16 『続後拾遺和歌集』20巻・1,353首(後醍醐天皇下命) 1326年成立[選者:二条為藤、二条為定] 
17 『風雅和歌集』20巻・2,211首(花園院監修、光厳院下命) 1349年成立[選者:光厳院(親撰)]   
18 『新千載和歌集』20巻・2,365首(後光厳天皇下命) 1359年成立[選者:二条為定]
19 『新拾遺和歌集』20巻・1,920首(後光厳天皇下命) 1364年成立[選者:二条為明、頓阿] 
20 『新後拾遺和歌集』20巻・1,554首(後円融天皇下命) 1384年成立[選者:二条為遠、二条為重] 
21 『新続古今和歌集』20巻・2,144首(後花園天皇下命) 1439年成立[選者:飛鳥井雅世] 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1849年(嘉永2)浮世絵師葛飾北斎の命日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)日清両国間で「天津条約」(李・伊藤条約)が締結される詳細
「専売特許条例」が公布(施行は同年7月1日)される(発明の日)詳細
1900年(明治33)福井「橋南大火」で、死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒の被害を出す詳細
1942年(昭和17)大平洋戦争下で、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などが初空襲(ドウリットル空襲)される詳細
1946年(昭和21)国際司法裁判所(略称:ICJ)が開所する詳細
1964年(昭和39)彫刻家朝倉文夫の命日詳細
1970年(昭和45)刑法学者牧野英一の命日詳細
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 今日は、室町時代の1397年(応永4)年に、金閣寺(鹿苑寺)の上棟式が行われた日ですが、新暦では5月13日となります。
 金閣寺(鹿苑寺)(きんかくじ)は、京都府京都市北区にある鹿苑寺の通称で、相国寺の山外塔頭寺院です。室町幕府3代将軍足利義満は別荘北山殿に金閣などの殿楼を造営しましたが、1408年(応永15)の義満の死後、遺言により夢窓疎石を勧請開山とし、禅宗の寺院とされました。
 宗派は臨済宗相国寺派、本尊は聖観世音菩薩で、当時は金閣以外に紫雲殿、天上間、拱北楼、反橋、芳徳殿、天鏡閣、泉殿、護摩堂、懺法堂などが立ち並び、壮観を極めたものの、のちに紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺に、懺法堂は等持寺に移転され、焼失や破壊された建物もあって衰退します。しかし、天正年間(1573~1592年)から再建が始まり、徐々に堂舎の修理、復興が行われ、昭和時代前期には、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがありました。
 ところが、中心となる金閣は、1950年(昭和25)7月2日に放火によって焼失、現在のものは1955年(昭和30)に同じ様式で再建されたものです。金閣の前の庭は、室町時代初期に改修されましたが、池中の島の配置などに山荘時代の面影を残す名園で、1956年(昭和31)に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。
 そして、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇金閣寺(鹿苑寺)関係略年表

・1225年(元仁元) 藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営む
・1397年(応永4) 金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれる
・1399年(応永6) 現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される
・1403年(応永10) 相国寺七重大塔が落雷により焼失すると、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる。
・1408年(応永15) 義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入る
・1409年(応永16) 北山第の一部を破却して三条坊門第に移る
・1416年(応永23) 七重大塔が落雷で再度焼失する
・1419年(応永26) 日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈される
・1420年(応永27) 北山第は足利義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とする
・1467~77年(応仁元~文明9) 応仁の乱で、西軍の陣となり建築物の多くが焼失する
・1485年(文明17) 足利義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録される
・1573~92年(天正年間) 西笑承兌が中興し、主要な建物の再建開始される
・1649年(慶安2) 舎利殿が大修理される
・1894年(明治27) 庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保する
・1897年(明治30) 舎利殿(金閣)が「古社寺保存法」に基づき「特別保護建造物」に指定される
・1929年(昭和4)7月1日 「国宝保存法」施行に伴い(旧)国宝に指定される
・1904~06年(明治37~39) 解体修理が行われる 。
・1925年(大正14)10月8日 庭園が「史蹟名勝天然紀念物保存法」によりに史跡・名勝に指定される
・1935年(昭和10) 満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れる
・1950年(昭和25)7月2日 放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)
・1956年(昭和31)7月19日 庭園が「文化財保護法」により特別史跡・特別名勝に指定される
・1952年(昭和27) 舎利殿(金閣)の再建に着工する
・1955年(昭和30) 舎利殿(金閣)の再建が竣工し、創建当時の姿に復元される
・1986~7年(昭和61~62) 金閣の「昭和大修復」が行われる
・1997年(平成9) 茶室「夕佳亭」の解体修理がおこなわれる
・2005~7年(平成17~19) 方丈の解体修理も行われる
・1994年(平成6)12月 ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成要素のひとつとして登録される
・2003年(平成15) 茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1889年(明治22)静岡駅~浜松駅間(現在の東海道本線)が開業、長浜駅~大津駅間航路利用で新橋駅~神戸駅が繋がる詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1937年(昭和12)「朝日新聞」で永井荷風著『墨東綺譚』の連載が開始される詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
2020年(平成32)物理化学者長倉三郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、羽仁もと子が東京・雑司ヶ谷に自由学園を開校した日です。
 自由学園(じゆうがくえん)は、大正時代の1921年(大正10)4月15日に、羽仁吉一・もと子夫妻によって、現在の東京都豊島区雑司ガ谷に創立された私立学校です。小学校を終えた女子のために、当時の「高等女学校令」によらないで設置され、カリキュラムは文部省令にはよらず5つの家族形態に分け、日常生活を小集団で自律的に管理させていく方針をとり、キリスト教的自由主義による徹底的な生活教育を行ってきました。
 1934年(昭和9)に校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に移転しましたが、旧校舎は「自由学園明日館」として残され、1997年(平成9)に国の重要文化財に指定されています。また現在は、初等部(小学校)、中等科(中学校)、高等科(高等学校)からなり、1949年(昭和24)には高等教育にあたる最高学部が設置されましたが、これは「学校教育法」に定められた大学によらず、2年課程と4年課程からなり、各種学校扱いとなってきました。
 尚、2007年(平成19)には、幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園しています。また、長年にわたり中等科、高等科は男女別学でしたが、2024年(令和6)に、中等部・高等部を共学化、男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組しました。

〇自由学園関係略年表

・1921年(大正10)4月15日 東京府北豊島郡高田町雑司が谷(現在の東京都豊島区西池袋2丁目)に「高等女学校令」によらない学校として開校(女子部)する
・1927年(昭和2) 初等部を開設する
・1934年(昭和9) 校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に完全移転する(旧校舎は「自由学園明日館」として現存)
・1935年(昭和10) 男子部を開設する
・1938年(昭和13) 北京生活学校を開校する
・1938年(昭和13) 財団法人化(財団法人自由学園)する
・1939年(昭和14) 幼児生活団を開設する
・1945年(昭和20) 北京生活学校を閉校する
・1949年(昭和24) 最高学部を開設する
・1951年(昭和26) 学校法人化(学校法人自由学園)する
・2007年(平成19) 幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園する
・2024年(令和6) 中等部・高等部を共学化。男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組する

☆羽仁 もと子(はに もとこ)とは?

 明治から昭和時代の教育家・婦人ジャーナリストの先駆者です。明治時代前期の1873年(明治6)9月8日に、青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれましたが、本名はもとと言いました。
 1879年(明治12)に八戸小学校へ入学、成績優秀で文部省から表彰され、女子で唯一高等科へ進学します。1889年(明治22)に上京して東京府立第一高等女学校2年生に編入、翌年には洗礼を受けてキリスト教徒となりました。
 1891年(明治24)に第一高等女学校を卒業後、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学します。1892年(明治25)に帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚したものの、半年で離婚しました。
 1897年(明治30)に再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社、1899年(明治32)には、婦人として初めて新聞記者の仕事に携わります。1901年(明治34)に職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚、1903年(明治36)には、夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生しました。
 1904年(明治37)に「家計簿」を創案して出版、1906年(明治39)に「主婦日記」を出版、1908年(明治41)には、雑誌「家庭の友」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立、家庭環境改善に大きな役割を果たします。1914年(大正3)に雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、「婦人之友」の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版しました。
 長女・説子が小学校を終えるのを機に、1921年(大正10)に東京・雑司ケ谷に自由学園を創設、「文部省令」によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践を試みます。1925年(大正14)に学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転、1927年(昭和2)には羽仁もと子著作集を刊行しました。
 1928年(昭和3)に自由学園初等部を設立、1930年(昭和5)には、全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立されます。1932年(昭和7)に世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国、1935年(昭和10)には、凶作の東北6か村で農村セッツルメント運動を始めました。
 1938年(昭和13)に自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催、1939年(昭和14)には、自由学園に幼児生活団を作ります。太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に自由学園男子部最高学部(大学)、翌年に女子部最高学部(大学)を開学、文部省の基準によらない独自の総合的な学園構想実現へ努力しました。
 しかし、1955年(昭和30)10月26日に夫・吉一が75歳で亡くなり、1957年(昭和32)4月7日には、自身も東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1730年(享保15)江戸幕府が上米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻す(新暦5月31日)詳細
1900年(明治33)日本画家山本丘人の誕生日詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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