ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

meian01
 今日は、大正時代の1916年(大正5)に、「朝日新聞」で夏目漱石の最後の作品『明暗』が連載開始された日です。
 『明暗』(めいあん)は、夏目漱石著の最後の長編小説で、『朝日新聞』に、大正時代の1916年(大正5)5月26日~12月14日まで、188回にわたって連載されましたが、作者死亡により未完に終わり、翌年1月に岩波書店から刊行されいいます。結婚したばかりの主人公津田由雄と妻お延の円満とは言えない夫婦関係を中心に様々な人間関係が描かれ、人間のエゴイズムに迫っている作品でした。
 近代の毒を浴びた人間性の深層を浮彫りにしていて、日本の近代文学が到達しえたリアリズム小説の最高峰とされています。

〇夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

☆夏目漱石の主要な著作

・『我輩は猫である』(1905~06年)
・『倫敦塔』(1905年)
・『幻影(まぼろし)の盾』(1905年)
・『坊つちやん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『虞美人草』(1907年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』 (1909年)
・『門』 (1910年)
・『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912年)
・『行人(こうじん)』(1912~13年)
・『こゝろ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)陸奥国で貞観地震が起き、大津波により甚大な被害を出す(新暦7月9日)詳細
1857年(安政4)下田奉行とハリスが「日米和親条約」を修補する「日米約定」を締結する(新暦6月17日)詳細
1933年(昭和8)文部省は「文官分限令」により、京都帝大瀧川幸辰教授の休職処分を強行(滝川事件)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会(会長徳富蘇峰)が設立される詳細
1950年(昭和25)獅子文六が「朝日新聞」に『自由学校』の連載を開始する詳細
1969年(昭和44)東名高速道路が全線開通する(東名高速道路全線開通記念日)詳細
1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
1980年(昭和55)「明日香村保存特別措置法」が公布・施行される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

eigakagemushya01
 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、黒澤明監督の映画『影武者』がカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した日ですが、日本時間では翌日となります。
 映画『影武者』(かげむしゃ)は、昭和時代後期の1980年(昭和55)4月26日に封切られた、黒澤明監督の日本映画です。ハリウッドの大手スタジオから世界配給された最初の日本映画で、カラービスタ版で、上映時間180分でした。
 監督・脚本:黒澤明、脚本:井手雅人、音楽:池辺晋一郎、美術:村木与四郎。出演:仲代達矢、山崎努、萩原健一、油井孝太、大滝秀治、室田日出男、隆大介ほかで、戦国時代に武田信玄の影武者となった男の運命を描いたものです。当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入27億円)1位を記録して、高く評価され、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール、セザール賞最優秀外国映画賞、第35回毎日映画コンクール日本映画大賞、日本映画ファン賞など多数を受賞、第53回アカデミー賞で外国語映画賞と美術賞の2部門にノミネートされました。

〇映画『影武者』の受賞とノミネート

・第33回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞
・第53回アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
・第53回アカデミー賞美術賞(村木与四郎)ノミネート
・ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート
・英国アカデミー賞作品賞ノミネート
・英国アカデミー賞監督賞(黒澤明)受賞
・英国アカデミー賞撮影(賞斎藤孝雄、上田正治)ノミネート
・英国アカデミー賞衣装デザイン賞百沢征一郎受賞
・第23回ブルーリボン賞作品賞受賞
・第23回ブルーリボン賞主演男優賞(仲代達矢)受賞
・第23回ブルーリボン賞新人賞(隆大介)受賞
・第35回毎日映画コンクール日本映画大賞受賞
・第35回毎日映画コンクール監督賞(黒澤明)受賞
・第35回毎日映画コンクール男優演技賞(仲代達矢)受賞
・第35回毎日映画コンクール美術賞(村木与四郎)受賞
・第35回毎日映画コンクール音楽賞(池辺晋一郎)受賞
・日本映画ファン賞受賞
・キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベスト・テン2位
・キネマ旬報ベスト・テン助演男優賞(山﨑努)受賞
・報知映画賞作品賞受賞
・報知映画賞助演男優賞(山﨑努)受賞
・ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞外国語映画トップ5受賞
・セザール賞外国映画賞受賞
・ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国監督賞(黒澤明)受賞
・外国プロデューサー賞(ジョージ・ルーカス)
・フランシス・フォード・コッポラ受賞
・ナストロ・ダルジェント賞外国監督賞(黒澤明)受賞
・サン・フェデーレ賞受賞
・ベルギー映画批評家協会賞監督賞(黒澤明)受賞

☆黒澤明(くろさわ あきら)とは?

 昭和時代から平成時代に活躍した日本を代表する映画監督・脚本家です。明治時代後期の1910年(明治43)3月23日に、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)で、荏原中学校(現在の日体荏原高等学校)に勤めていた父・黒澤勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれました。
 1927年(昭和2)に京華中学校卒業後、画家になることを志し、川端画学校に通って洋画を勉強、1928年(昭和3)には二科展に「静物」が入選します。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入り、1929年(昭和4)には、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に5つの作品を出品しました。
 1936年(昭和11)、画業に見切りをつけ、P.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)に入社、山本嘉次郎に師事し、1938年(昭和13)に助監督となります。1943年(昭和18)に『姿三四郎』で監督デビューし、太平洋戦争中には他に『一番美しく』(1944)など3本を監督しました。
 戦後は、戦中・戦後の青年像を鮮烈に描いた『わが青春に悔なし』(1946年)、『素晴らしき日曜日』(1947年)、『酔いどれ天使』(1948年)、『野良犬』(1949年)などを監督して、日本映画の旗手となります。1950年(昭和25)の『羅生門』では、ベネチア国際映画祭グランプリを獲得、続いて『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などを発表し、ダイナミックな映像表現と一貫したヒューマニズムの追求により、世界から高い評価を得ました。
 1980年(昭和55)の『影武者』でカンヌ国際映画祭のグランプリ、1984年(昭和59)にフランスよりレジオン・ドヌール勲章、翌年映画人として初の文化勲章など数々の栄誉に輝きます。1990年(平成)には、アカデミー賞名誉賞も受賞しましたが、1998年(平成10)9月6日に、東京において、88歳で亡くなりました。没後、映画監督としては初の国民栄誉賞も受賞しています。

<監督映画作品一覧>

・『姿三四郎』(1943年)
・『一番美しく』(1944年)
・『続姿三四郎』(1945年)
・『虎の尾を踏む男達』(1945年)
・『明日を創る人々』(1946年)[山本嘉次郎、関川秀雄との共同監督]
・『わが青春に悔なし』(1946年)
・『素晴らしき日曜日』(1947年)
・『酔いどれ天使』(1948年)
・『静かなる決闘』(1949年)
・『野良犬』(1949年)
・『醜聞(スキャンダル)』(1950年)
・『羅生門』(1950年)
・『白痴』(1951年)
・『生きる』(1952年)
・『七人の侍』(1954年)
・『生きものの記録』(1955年)
・『蜘蛛巣城』(1957年)
・『どん底』(1957年)
・『隠し砦の三悪人』(1958年)
・『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)
・『用心棒』(1961年)
・『椿三十郎』(1962年)
・『天国と地獄』(1963年)
・『赤ひげ』(1965年)
・『どですかでん』(1970年)
・『デルス・ウザーラ』(1975年)
・『影武者』(1980年)
・『乱』(1985年)
・『夢』(1990年)
・『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(1991年)
・『まあだだよ』(1993年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

811年(弘仁2)武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の命日(新暦6月17日)詳細
1663年(寛文3)江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛文令)21ヶ条を発布する(新暦6月28日)詳細
1832年(天保3)蘭学者・政治家・外交官寺島宗則の誕生日(新暦6月21日)詳細
1915年(大正4)東京駅~東京鉄道郵便局間に、郵便物受渡用の地下電車が開通し、日本初の地下鉄となる詳細
1919年(大正8)和辻哲郎著の『古寺巡礼』が発刊される詳細
1948年(昭和23)憲法学者美濃部達吉の命日詳細
1969年(昭和44)ウィーンにおいて、「条約法に関するウィーン条約」が締結され.る(1980年1月27日発効)詳細
1981年(昭和56)編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ichimuraza01
 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、東京の歌舞伎劇場「市村座」が失火で焼失し、その歴史が終わった日です。
 市村座(いちむらざ)は、中村座、森田座(のち守田座)と共に、江戸三座の一つとされた歌舞伎劇場です。江戸時代前期の1634年(寛永11)に、京都の村山又三郎が日本橋葺屋町に創設した村山座を1652年(承応元)に市村羽左衛門が買収して改称しました。
 1842年(天保13)に、浅草猿若町へ、1892年(明治25)には下谷二長町に移転し、明治末から6世尾上菊五郎らが活躍して栄えます。しかし、大正時代後期には衰え、1923年(大正12)の関東大震災で焼失、翌年に仮建築(バラック)で復興したものの、1932年(昭和7)5月21日に、前進座の公演中に楽屋からの失火で焼失し、再建されずに廃座となりました。

〇市村座関係略年表

・1634年(寛永11) 京都の村山又三郎が日本橋葺屋町に創設した村山座に始まる
・1652年(承応元) 市村羽左衛門が興行権を買い取り市村座と改称する
・1842年(天保13) 前年の火災と天保の改革の一環により浅草猿若町(現在の台東区浅草6丁目)へ移転する
・1872年(明治5) 十四代目市村羽左衛門のとき、負債のため村山座と改称する
・1892年(明治25) 猿若町から下谷二長町(現在の台東区台東1丁目)へ移転する
・1908年(明治41) 田村成義が経営権を取得し11月公演から子飼いの六代目尾上菊五郎や初代中村吉右衛門らを出演させて育てる等して若手役者の育成の場として市村座を活用し始める
・1913年(大正2) 7月に田村が歌舞伎座を松竹に売却すると市村座の経営に専念する事になり歌舞伎座や帝国劇場に対抗して市村座は全盛期を迎え「菊吉時代」「二長町時代」と呼ばれる
・1920年(大正9) 11月に田村が死去すると、配役等の不満から看板俳優の吉右衛門と三津五郎が相次いで脱退し、勢力は弱体化する
・1923年(大正12) 関東大震災で焼失する
・1924年(大正13) 仮建築(バラック)で復興する
・1927年(昭和2) 大谷友右衛門の脱退や菊五郎の負債が重なり、ついに債権者から訴訟を起こされた為、菊五郎は松竹と相談して彼の松竹移籍と彼に支払われる出演料を返済に充てる条件で松竹が3年間市村座を借上げる事になる
・1931年(昭和6) 松竹との契約が切れた為に松竹の傘下から独立し二代目市川猿之助率いる春秋座や四代目河原崎長十郎の劇団前進座の旗揚げ公演が行われる
・1932年(昭和7)5月21日 前進座の公演中に楽屋からの失火で焼失し、市村座の歴史はここに終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1827年(文政10)頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈される(新暦6月15日)詳細
1880年(明治13)三条の大火「糸屋万平火事」で、死者34名、焼失2,743戸を出す詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
1952年(昭和27)地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

touyako5
 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、北海道の支笏洞爺国立公園が国立公園に指定された日です。
 支笏洞爺国立公園(しこつとうやこくりつこうえん)は、昭和時代中期の1949年(昭和24)5月16日に指定された、北海道南西部の国立公園で、支笏湖、洞爺湖を中心として、恵庭岳、羊蹄山などの火山群、定山渓、カルルス、登別などの温泉群を含んでいます。札幌・千歳・恵庭・苫小牧・登別・伊達6市と胆振(いぶり)・後志(しりべし)両地域にまたがって立地し、面積は99,473haあり、小樽、室蘭各市も近く、各地域を結ぶバス交通が便利で、温泉の施設も完備してきました。
 火山の博物館といわれるほど、変化のある火山地形に富み、支笏湖、洞爺湖、倶多楽湖のカルデラ湖群、昭和新山(402m)、有珠山(大有珠 733m)、羊蹄山(1,898m)、樽前山(1,041m)、恵庭岳(1,320m)など新旧とりまぜた各種形態の火山群が有るのが特徴で、2009年(平成21)には、洞爺湖有珠山ジオパークが「世界ジオパーク」認定されています。

〇支笏洞爺国立公園関係略年表

・1949年(昭和24)5月16日:国立公園に指定される
・1979年(昭和54):再検討(羊蹄山地域)
・1980年(昭和55):支笏湖ビジターセンターがオープンする
・1995年(平成7):再検討(支笏湖、定山渓、洞爺湖、登別地域)、点検1(羊蹄山地域)。
・2003年(平成15):点検1(洞爺湖地域)、支笏湖ビジターセンターがリニューアルオープンする
・2004年(平成16):洞爺財田自然体験ハウスがオープンする
・2006年(平成18):乗り入れ規制拡張
・2007年(平成19):洞爺湖ビジターセンター・火山科学館がオープンする
・2009年(平成21):洞爺湖有珠山ジオパークが「世界ジオパーク」認定される
・2022年(令和4) :支笏湖地区がゼロカーボンパークに登録される

〇国立公園(こくりつこうえん)とは?

 国立公園は、世界中にありますが、日本では、1957年(昭和32)に公布・施行された「自然公園法」の中で、「我が国の風景を代表するに足りる傑出した自然の風景地(海域の景観地を含む。次章第六節及び第七十四条を除き、以下同じ。)であつて、環境大臣が第五条第一項の規定により指定するものをいう。」(第2条2項)と規定している地域性公園です。
 歴史的に見ると、昭和時代前期の1931年(昭和6)に制定された「国立公園法」によって、1934年(昭和9)3月16日に初めて瀬戸内海国立公園、霧島国立公園、雲仙国立公園の3つの国立公園が指定されたのに始まります。その後、「自然公園法」に受け継がれ、徐々に指定が増えていき、2017年(平成29)3月7日に、奄美群島国立公園が指定されて、合計34ヶ所になりました。
 これ等の公園は、国自らが管理していて、総面積で2,444,364ha(2024年6月25日現在)あり、国土面積に対する割合は約6.5%で、その面積の約60%が国有地となり、年間利用者数は4億1,805万人(2022年)です。
 国立公園の保護区分は、大きく分けて普通地域、特別地域、特別保護地区、海域公園地区の4つがあり、その状況に応じて風致景観の維持が図られてきました。公園の利用施設については、道路、園地、ビジターセンター、自然研究路、公衆便所、避難小屋などの基幹的な公共施設が、国費または国庫補助をもって整備が進められています。

☆日本の「国立公園」一覧(35ヶ所)

・阿寒摩周国立公園(北海道) 1934年12月4日指定 面積90,481ha
・大雪山国立公園(北海道) 1934年12月4日指定 面積226,764ha
・支笏洞爺国立公園(北海道) 1949年5月16日指定 面積99,473ha
・知床国立公園(北海道) 1964年6月1日指定 面積38,636ha
・利尻礼文サロベツ国立公園(北海道) 1974年9月20日指定 面積24,166ha
・日高山脈襟裳十勝国立公園(北海道) 2024年6月25日指定 面積252,178ha
・釧路湿原国立公園(北海道) 1987年7月31日指定 面積28,788ha
・十和田八幡平国立公園(青森・岩手・秋田) 1936年2月1日指定 面積85,551ha
・磐梯朝日国立公園(山形・福島・新潟) 1950年9月5日指定 面積186,404ha
・三陸復興国立公園(青森・岩手・宮城) 1955年5月2日指定 面積12,212ha
・尾瀬国立公園(福島・栃木・群馬・新潟) 2007年8月30日指定 面積37,200ha
・日光国立公園(福島・栃木・群馬) 1934年12月4日指定 面積114,908ha
・秩父多摩甲斐国立公園(埼玉・東京・山梨・長野) 1950年12月4日指定 面積126,259ha
・小笠原国立公園(東京) 1972年10月16日指定 面積6,629ha
・富士箱根伊豆国立公園(東京・神奈川・山梨・静岡) 1936年2月1日指定 面積121,695ha
・上信越高原国立公園(群馬・新潟・長野) 1949年9月7日指定 面積148,072ha
・妙高戸隠連山国立公園(新潟・長野) 2015年3月27日指定 面積39,772ha
・南アルプス国立公園(山梨・長野・静岡) 1964年6月1日指定 面積35,752ha
・中部山岳国立公園(新潟・富山・長野・岐阜) 1934年12月4日指定 面積174,323ha
・白山国立公園(富山・石川・福井・岐阜) 1962年11月12日指定 面積47,700ha
・伊勢志摩国立公園(三重) 1946年11月20日指定 面積55,544ha
・吉野熊野国立公園(三重・奈良・和歌山) 1936年2月1日指定 面積59,793ha
・山陰海岸国立公園(京都・兵庫・鳥取) 1963年7月15日指定 面積8,783ha
・瀬戸内海国立公園(大阪・兵庫・和歌山・岡山・広島・山口・徳島・香川・愛媛・福岡・大分) 1934年3月16日指定 面積66,934ha
・大山隠岐国立公園(鳥取・島根・岡山) 1936年2月1日指定 面積35,353ha
・足摺宇和海国立公園(愛媛・高知) 1972年11月10日指定 面積11,345ha
・雲仙天草国立公園(長崎・熊本・鹿児島) 1934年3月16日指定 面積28,279ha
・霧島錦江湾国立公園(宮崎・鹿児島) 1934年3月16日指定 面積36,586ha
・阿蘇くじゅう国立公園(熊本・大分) 1934年12月4日指定 面積72,678ha
・西海国立公園(長崎) 1955年3月16日指定 面積24,646ha
・屋久島国立公園(鹿児島) 2012年3月16日指定 面積24,566ha
・奄美群島国立公園(鹿児島) 2017年3月7日指定 面積42,181ha
・やんばる国立公園(沖縄) 2016年9月15日指定 面積13,622ha
・慶良間諸島国立公園(沖縄) 2014年3月5日指定 面積3,520ha
・西表石垣国立公園(沖縄) 1972年5月15日指定 面積40,653ha

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1623年(元和9)囲碁名人・本因坊家初代本因坊算砂の命日(新暦6月13日)詳細
1689年(元禄2)松尾芭蕉が『おくの細道』に旅立った日の新暦換算日(旅の日)詳細
1792年(寛政4)仙台藩士・林子平の著書『海国兵談』が発禁となり、蟄居処分になる(新暦7月4日)詳細
1889年(明治22)東京・上野の宮内省博物館を帝国博物館に改称し、京都・奈良にも設置する官制が出される詳細
1944年(昭和19)北海道の三菱鉱業美唄炭鉱でガス爆発事故が起こり、死者109人を出す詳細
1951年(昭和26)世界保健機関(WHO)が日本の加盟を承認する詳細
1968年(昭和43)1968年十勝沖地震(M7.9)が起き、死者50人・行方不明者2人・負傷者330人を出す詳細
1989年(平成元)書家・中国書道史家西川寧の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ningenshittkaku01
 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、太宰治が小説『人間失格』を脱稿した日です。
 『人間失格』(にんげんしっかく)は、太宰治著の中編小説で、『ヴィヨンの妻』、『走れメロス』、『斜陽』と並ぶ代表作の1つです。昭和時代中期の1948年(昭和23)に、雑誌『展望』の1948年6月号~8月号に3回にわたって連載され、同年筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行されました。
 生きる能力さえ失うに至った東北地方の豪家に生れた大庭葉蔵の手記の形で、自己を見つめながら人間存在の本質を問うた作品となっています。作者は、作品完成後の連載中に、山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺しました。
 若者を魅了した小説となり、戦後の大ベストセラー作品とされています。

〇太宰治(だざい おさむ)とは?

 昭和時代に活躍した小説家で、本名は津島修治といい、1909年(明治42)6月19日に青森県金木村(現在の五所川原市金木町)の県下有数の大地主対馬家の六男として生まれました。県立青森中学校(現在の県立青森高等学校)から、官立弘前高等学校に学びましたが、高校在学中から、プロレタリア文学に興味を持って、同人誌に作品を掲載することになります。
 卒業後は、東京帝国大学文学部仏文学科に入学しましたが、あまり授業にも出ず、井伏鱒二に弟子入りし、在学中に、人妻と入水自殺を図ったりして、大学は辞めることになりました。その後、同人誌『海豹』に参加し、1935年(昭和10)、「逆行」を『文藝』に発表して、第1回芥川賞候補となって注目されます。
 それからも、自殺未遂したりしますが、1939年(昭和14)石原美知子と結婚して安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編小説を発表しました。戦時下も『津軽』『お伽草紙』など創作活動を続け、戦後は、『ヴィヨンの妻』、『斜陽』、『人間失格』などを書いて無頼派などと呼ばれて脚光を浴びますが、1948年(昭和23)6月13日に40歳の若さで、玉川上水にて入水自殺しました。

<代表的な作品と初出>

・富嶽百景 『文体』1939年2月号、3月号
・黄金風景 『國民新聞』1939年3月2日、3月3日
・女生徒 『文學界』1939年4月号
・葉桜と魔笛 『新潮』1939年6月号
・八十八夜 『新潮』1939年8月号
・畜犬談 『文学者』1939年10月号
・皮膚と心 『文學界』1939年11月号
・俗天使 『新潮』1940年1月号
・鷗 『知性』1940年1月号
・女の決闘 『月刊文章』1940年1月号~6月号
・駈込み訴へ 『中央公論』1940年2月号
・走れメロス 『新潮』1940年5月号
・古典風 『知性』1940年6月号
・乞食学生 『若草』1940年7月号~12月号
・清貧譚 『新潮』1941年1月号
・みみずく通信 『知性』1941年1月号
・佐渡 『公論』1941年1月号
・千代女 『改造』1941年6月号
・新ハムレット 書き下ろし 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月)
・誰 『知性』1941年12月号
・恥 『婦人画報』1942年1月号
・十二月八日 『婦人公論』1942年2月号
・律子と貞子 『若草』1942年2月号
・水仙 『改造』1942年5月号
・正義と微笑 書き下ろし 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月)
・黄村先生言行録 『文學界』1943年1月号
・右大臣実朝 書き下ろし 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月)
・不審庵 『文藝世紀』1943年10月号
・花吹雪 書き下ろし 『佳日』(肇書房)
・佳日 『改造』1944年1月号
・散華 『新若人』1944年3月号
・津軽 書き下ろし 『津軽』(小山書店、1944年11月)
・ほかは書き下ろし 『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月)
・竹青 『文藝』1945年4月号
・惜別 書き下ろし 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月)
・お伽草紙 書き下ろし 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月)
・冬の花火 『展望』1946年6月号
・春の枯葉 『人間』1946年9月号
・雀 『思潮』1946年9月号 『冬の花火』(中央公論社)
・親友交歓 『新潮』1946年12月号
・男女同権 『改造』1946年12月号
・トカトントン 『群像』1947年1月号
・メリイクリスマス 『中央公論』1947年1月号
・ヴィヨンの妻 『展望』1947年3月号
・女神 『日本小説』1947年5月号
・フォスフォレッスセンス 『日本小説』1947年7月号
・眉山 『小説新潮』1948年3月号
・斜陽 『新潮』1947年7月号~10月号
・如是我聞 『新潮』1948年3月号、5月号~7月号
・人間失格 『展望』1948年6月号~8月号
・グッド・バイ 『朝日新聞』1948年6月21日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破る(新暦6月24日)詳細
1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1787年(天明7)天明大飢饉で大坂の庶民が米屋を襲撃し、天明の打ちこわしが始まる(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ