ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、東京市・九段の軍人会館で、日本少国民文化協会の設立総会が行われた日です。
 日本少国民文化協会(にほんしょうこくみんぶんかきょうかい)は、児童文化を統制・指導し、その分野での国策協力を進めるために、少年文化団体を一元化したものでした。その目的は、「皇国ノ道ニ則リ国民文化ノ基礎タル日本少国民文化ヲ確立シ以テ皇国民ノ錬成ニ資ス」とされ、同年1月の大日本青年団の設立、4月からの国民学校開始と深く関係しています。
 1937年(昭和12)に日中戦争が勃発するなかで、翌年4月1日に「国家総動員法」が公布され、同年10月には、児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達しました。1940年(昭和15)9月30日に、官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望し、12月24日には、大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催されます。
 1941年(昭和16)6月に「日本児童文化協会要綱」が最終的に決定されましたが、創立準備委員会の中で「児童」という言葉から「小国民」に変更されました。同年12月23日に九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓い、12月30日には社団法人設立の認可を受けます。
 そして、翌年2月11日の建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂において発会式が行われ、文学、舞踊、音楽、レコードの四部会共同作なる『日本のあしおと』が京橋区昭和国民学校児童の唱歌、石川漠門下の舞踊で発表されました。山本有三、城戸幡太郎、小川未明、百田宗治、波多野完治、阪本越郎、佐伯郁郎、北原白秋など著名な児童文化関係者が300名以上集まり、文学部会 (詩、童謡、童話文学、少年文学、科学読物、歴史、地理読物、翻訳文学、評論)。絵画部会(挿絵、動画、漫画、特殊研究会)、童話部会、玩具部会(玩具、人形類、節句品)、生活用品部会、紙芝居部会 (街頭紙芝居、教育紙芝居)、舞踊部会、音楽部会、出版部会、演劇部会(専門劇、学校劇、人形劇)、映画部会、畜音器、レコード部会の12部会に分かれて活動を展開します。
 東京・銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、6月より機関誌『少国民文化』を発刊、11月より月刊の「協会報」が出されました。1943年(昭和18)6月に、「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われ、9月8日には、「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われています。
 しかし、戦局の悪化に伴って活動も停滞気味となり、1944年(昭和19)3月に月刊の「協会報」が、12月には機関誌『少国民文化』が終刊となり、銀座の事務所も空襲で焼け、1945年(昭和20)2月以降は本郷の民家に移転しました。そして、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月頃に一片の声明も出さずに解散、12月には新聞に解散公告が掲載されて幕を閉じます。

〇日本少国民文化協会関係略年表

<1937年(昭和12)>
・7月 日中戦争が勃発する
・9月 国民精神総動員運動が開始される

<1938年(昭和13)>
・4月1日 「国家総動員法」が公布される
・10月 児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達する

<1940年(昭和15)>
・2月 有光社の季刊の綜合理論誌『新児童文化』が創刊される
・9月30日 官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望する
・12月24日 大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催される

<1941年(昭和16)>
・3月 日本児童文化協会設立の仕事の一切が情報局に移される
・6月 「日本児童文化協会要綱」の最終的な決定を見る
・8月1日 情報局講堂で日本児童文化協会設立連絡会が開催され、500数名の出席者が見守る中、事実上、協会が誕生する
・8月18日 第一回の創立準備委員会で児童という言葉が一般社会の通用語となっておらず、協会の性格を規定する上からも上田課長は「児童」の名称に異を唱え、協会の名称として他に適当のものを選定したいとする
・12月23日 九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓う
・12月30日 社団法人設立の認可を受ける

<1942年(昭和17)>
・2月11日 建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂にて発会式が行われる
・2月17日 銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、本格的に活動を始動する
・3月 少国民文化宣揚講演会(少文協主催)が開催される
・3月 誉の家の「ヨイコ」表彰式(市銃後奉公会総合会主催)が開催される
・3月 大東亜戦争と少国民展覧会(少文協主催)が開催される
・4月 少年保護記念展(少文協、司法保護協会主催)が開催される
・4月 少国民向き良い本の選び方展覧会(文学・出版・絵本の三部会の協力)が開催される
・5月 第二回少国民海洋畫展(日本海運報国団、日本海事振興会、少文協、少国民新聞主催)が開催される
・6月  少文協の機関誌『少国民文化』が発刊される
・7月 海の少国民大会が開催される
・7月 軍人援護精神昂揚の綴り方募集が行われる
・9月 『少国民進軍歌』(少文協、軍事保護院)が出される
・10月 軍人援護少国民文化大会(少文協、軍事保護院、軍人援護会主催)が開催される
・11月 月刊の「協会報」が発刊される
・11月 全国少国民ミンナウタヘ大会(少文協、日本放送協会主催/情報局、文部省後援)が開催される
・12月 大詔奉戴一周年記念大東亜少国民大会(東京朝日新聞社、東京府、市、大日本興亜同盟、少文協主催)が開催される
・12月 「少国民ちかひの大会」(少文協、朝日新聞社主催)が開催される

<1943年(昭和18)>
・2月 少国民演劇脚本募集が行われる
・2月 紙芝居企画審査が行われる
・2月 戦時下の玩具与へ方展覧会(東京)(少文協主催)が開催される
・3月 生産増強に小戦士を送る大会 少文協、東京府、市、産報、東京産報、大政翼賛会主催)が開催される
・5月 「愛国イロハカルタ」の公募・選定が行われる
・5月 少文協文学部会の機関誌『少国民文学』が創刊される
・5月7日 この日付けの一文で、理事長小野俊一は、協会が必ずしも所期の目的達成のために円滑に運営されていない現実を受け止め、協会の本質が文化統制機関、国民運動的翼賛団体、あるいはその両者を兼ねるものなのか再確認することが必要との所感を示す
・6月 「少国民海の歌」がつくられる
・6月 「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われる
・7月 海行く少国民大会(船舶運営会、日本海運協会、毎日新聞社、少文協主催)が開催される
・7月 軍人援護紙芝居競演会が行われる
・7月 海洋少国民劇幻燈脚本当選者が発表される
・8月 軍人援護紙芝居入選作品披露会が開催される
・8月 鉱山戦士慰問作品(少文協、鉱山統制会主催)が選定される
・9月8日 「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われる
・9月 少国民海の展覧会(少文協主催)が開催される
・11月 第二回大東亜少国民ミンナウタヘ大会が開催される
・12月 軍人慰問帖展示会が開催される
・12月 少国民文化報国挺身隊の結成式が開催される

<1944年(昭和19)>
・1月 「愛国子守歌」(少文協、大日本婦人会、朝日新聞社主催)が募集される
・2月 幼児科学玩具の募集が行われる
・2月 大東亜少国民結集大会(少文協主催)が開催される
・3月 月刊の「協会報」が終刊となる
・3月 少国民総進軍大会(少文協主催)が開催される
・5月 少国民海軍大会(少文協、海軍協会東京都支部主催)が開催される
・6月 文化財展示実演会(空襲挺身活動用)が開催される
・7月 「少国民海洋絵画」(少文協、船舶運営会、日本海運協会、大日本海洋連盟共同主催)が公募される
・9月 少国民歌の歌詞募集が行われる
・10月 少国民絵画普及常設展が開催される
・11月 愛国子守歌発表会が開催される
・空襲が激しくなると、少文協は学童集団疎開の慰問派遣センターとしての役割を担うようになる
・12月 少文協の機関誌『少国民文化』が終刊となる

<1945年(昭和20)>
・2月以降 事務所が爆撃で焼け、持ち主が空き家になっていた本郷の民家に移転する
・10月頃 一片の声明も出さずに解散する
・12月 新聞に解散公告が掲載され、少文協は3年の歴史に幕を閉じる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1912年(大正元)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出す詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
2008年(平成20)小説家早乙女貢の命日詳細
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 今日は、平安時代中期の承平4年に、紀貫之が土佐国守の任務を終えて都へ向かい、『土佐日記』を起筆した日ですが、新暦では935年1月28日となります。
 『土佐日記】(とさにっき)は、平安時代中期の935年(承平5)頃に成立した旅行日記でした。紀貫之が土佐守の任を終わって、承平4年12月21日に土佐の国府を出立し、翌年2月16日に帰京するまでの55日間のものです。
 筆者を女性に仮託し、仮名で書かれた最初の日記文学として知られてきました。内容は、船中の焦燥。海賊の恐怖、土佐の国人や留守を依頼した隣人に対する風刺など多岐にわたりますが、中でも、土佐国で失った女児に対する追憶の情が叙述に強くみられます。
 また、和歌に関する記事の比重が高く、歌論をわかりやすく展開しているとされてきました。仮名散文が文学表現に堪えうることを明らかにし、後の平安女流文学の基礎ともなっています。
 以下に、『土佐日記】の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇紀貫之(き の つらゆき)とは?

 平安時代前期から中期の官吏・歌人・文学者で、三十六歌仙の一人です。貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃に、紀望行の子として生まれたとされてきました。
 寛平4年(892年)から翌年に欠けて、「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平后宮歌合」に出詠、『新撰万葉集』に入選します。延喜5年(905年)に、『古今和歌集』の選者に任じられ、紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上し、「仮名序」を書いて、名実ともに歌界の第一人者となりました。
 延喜6年(906年)に越前権少掾(御書所預)となり、翌年には、内膳典膳となり、宇多上皇の大井川行幸にて歌や序を供奉しています。延喜13年(913年)には、『亭子院歌合』、『内裏菊合 (だいりきくあわせ) 』に出詠しました。
 延喜13年(913年)に大内記、延喜17年(917年)に従五位下となって殿上人となり、延喜17年(917年)に兼加賀介、延喜18年(918年)に兼美濃介、延長元年(923年)に大監物、延長7年右京亮となります。延長8年(930年)に土佐守となり、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を任地で編纂したものの、天皇が亡くなったため、惜しくも勅撰集とはなりませんでした。
 承平4年(934年)12月には、土佐守の任を終えて、土佐国府を出立し、翌年2月15日に帰洛、その後、この紀行を参考に、『土佐日記』を書いて、初めて仮名散文による文芸の可能性を示してみせます。天慶元年(938年)に周防国に赴き、翌年には、周防国にて紀貫之家歌合を催しました。
 天慶3年(940年)に玄蕃頭、天慶6年(943年)に従五位上、天慶8年(945年)には、木工権頭(もくのごんのかみ)となっています。天慶8年(945年)または翌年に亡くなったとされますが、家集『貫之集』を残し、勅撰集入撰歌は『古今集』以下452首に及び、後に三十六歌仙の一人となりました。

☆『土佐日記】の旅程 承平4年12月21日~承平5年2月16日(日付は旧暦です)

・12月21日 国府(高知県南国市比江周辺)出立
・12月21日~26日 大津(高知県高知市大津)
・12月27日 浦戸(高知県高知市浦戸)
・12月29日 大湊(高知県南国市前浜)
・1月9日 宇多の松原(高知県香南市岸本周辺)
・1月10日 奈半の泊(高知県安芸郡奈半利町)
・1月11日 羽根(高知県室戸市羽根町)
・1月12日 室津(高知県室戸市室津)
・1月29日 土佐の泊(徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦)
・1月30日 阿波の水門(鳴門海峡)
・1月30日 沼島(兵庫県南あわじ市沼島)
・1月30日 和泉の灘(大阪府南西部)
・2月1日 黒崎の松原(大阪府泉南郡岬町淡輪)
・2月1日 箱の浦(大阪府阪南市箱作)
・2月5日 石津(大阪府堺市浜寺)
・2月5日 住吉(大阪府大阪市住吉区)
・2月6日 難波(大阪府大阪市)
・2月8日 鳥飼の御牧(大阪府摂津市鳥飼)
・2月9日 渚の院(大阪府枚方市渚元町)
・2月9日 鵜殿(大阪府高槻市鵜殿)
・2月11日 八幡の宮(石清水八幡宮)
・2月11日 山崎(京都府乙訓郡大山崎町)
・2月16日 島坂(京都府向日市上植野町御塔道)
・2月16日 京(京都府京都市)到着

☆『土佐日記】冒頭部分

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
 (後略)

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(安政2)「日露和親条約」が締結される(新暦1855年2月7日)詳細
1917年(大正6)大之浦炭鉱(福岡県)でガス爆発事故があり、死者・行方不明者369人を出す詳細
1941年(昭和16)大日本帝国とタイ王国との間で、「日泰攻守同盟条約」が調印・発効される詳細
1942年(昭和17)第9回御前会議で「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」が決定される詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「都市疎開実施要綱」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)昭和南海地震(M8.0)が起き、死者1,443人を出す詳細
1963年(昭和38)「教科書無償措置法」(昭和38年法律第182号)が公布・施行される詳細
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TVmitokoumon01
 今日は、平成時代の2011年(平成23)に、TBSテレビドラマ「水戸黄門」の最終回スペシャルが放映され、43年にわたるシリーズの幕が下ろされた日です。
 TBSテレビドラマ「水戸黄門(みとこうもん)」は、TBS系の月曜夜8時放送のナショナル劇場(2008年よりパナソニックシアターと改名)での時代劇シリーズのテレビドラマです。1969年(昭和44)8月4日から、水戸黄門:東野英治郎、助さん:杉良太郎、格さん:横内正で開始され、水戸藩2代目藩主の水戸光圀(黄門)がお供の助さん、格さん等と共に諸国を巡りながら、世直しをするという物語でした。
 とても視聴率が高く、最高視聴率は40%以上になり、人気シリーズとなって、主要な配役を交代しながら、2011年(平成23)の終了まで、43年間に渡り、43のシリーズが制作・放映され、最終回スペシャルを含む放映回数は通算で1,227回に及びます。2012年(平成24)には、ザテレビジョンドラマアカデミー賞より本シリーズの「42年の歴史」に対しザテレビジョン特別賞が贈られました。
 尚、2015年(平成27)にスペシャル番組(1回)が、2017年(平成29)と2019年(平成31)に、BS-TBSにて新シリーズ(水戸黄門:武田鉄矢)が放映されています。

〇TBSテレビドラマ「水戸黄門」シリーズ(全43部)

・第1部(1969年8月4日~1970年3月9日/32回)主演:東野英治郎
・第2部(1970年9月28日~1971年5月10日/33回)主演:東野英治郎
・第3部(1971年11月29日~1972年6月5日/28回)主演:東野英治郎
・第4部(1973年1月22日~1973年9月17日/35回)主演:東野英治郎
・第5部(1974年4月1日~1974年9月30日/26回)主演:東野英治郎
・第6部(1975年3月31日~1975年11月3日/32回)主演:東野英治郎
・第7部(1976年5月24日~1977年1月10日/34回)主演:東野英治郎
・第8部(1977年7月18日~1978年1月30日/29回)主演:東野英治郎
・第9部(1978年8月7日~1979年2月5日/27回)主演:東野英治郎
・第10部(1979年8月13日~1980年2月11日/26回)主演:東野英治郎
・第11部(1980年8月18日~1981年2月9日/26回)主演:東野英治郎
・第12部(1981年8月31日~1982年3月1日/27回)主演:東野英治郎
・第13部(1982年10月18日~1983年4月11日/26回)主演:東野英治郎
・第14部(1983年10月31日~1984年7月9日/37回)主演:西村晃
・第15部(1985年1月28日~1985年10月21日/39回)主演:西村晃
・第16部(1986年4月28日~1987年1月19日/39回)主演:西村晃
・第17部(1987年8月24日~1988年2月22日/26回)主演:西村晃
・第18部(1988年9月12日~1989年5月1日/33回)主演:西村晃
・第19部(1989年9月25日~1990年4月16日/29回)主演:西村晃
・第20部(1990年10月22日~1991年10月7日/48回)主演:西村晃
・第21部(1992年4月6日~1992年11月9日/32回)主演:西村晃
・第22部(1993年5月17日~1994年1月24日/36回)主演:佐野浅夫
・第23部(1994年8月1日~1995年5月15日/40回)主演:佐野浅夫
・第24部(1995年9月11日~1996年6月10日/37回)主演:佐野浅夫
・第25部(1996年12月9日~1997年10月27日/43回)主演:佐野浅夫
・第26部(1998年2月9日~1998年8月17日/26回)主演:佐野浅夫
・第27部(1999年3月22日~1999年10月18日/30回)主演:佐野浅夫
・第28部(2000年3月6日~2000年11月20日/34回)主演:佐野浅夫
・第29部(2001年4月2日~2001年9月17日/25回)主演:石坂浩二
・第30部(2002年1月7日~2002年7月1日/25回)主演:石坂浩二
・第31部(2002年10月14日~2003年3月24日/22回)主演:里見浩太朗
・第32部(2003年7月28日~2003年12月8日/17回)主演:里見浩太朗
・1000回記念スペシャル(2003年12月15日/1回)主演:里見浩太朗
・第33部(2004年4月12日~2004年9月20日/22回)主演:里見浩太朗
・第34部(2005年1月10日~2005年6月6日/20回)主演:里見浩太朗
・第35部(2005年10月10日~2006年3月6日/20回)主演:里見浩太朗
・ナショナル劇場50周年SP(2006年3月13日/1回)主演:里見浩太朗
・第36部(2006年7月24日~2006年12月18日/20回)主演:里見浩太朗
・第37部(2007年4月9日~2007年9月17日/23回)主演:里見浩太朗
・第38部(2008年1月7日~2008年6月30日/24回)主演:里見浩太朗
・第39部(2008年10月13日~2009年3月23日/22回)主演:里見浩太朗
・第40部(2009年7月27日~2009年12月21日/20回)主演:里見浩太朗
・第41部(2010年4月12日~2010年6月28日/12回)主演:里見浩太朗
・第42部(2010年10月11日~2011年3月21日/21回)主演:里見浩太朗
・第43部(2011年7月4日~2011年12月12日/21回)主演:里見浩太朗
・最終回スペシャル(2011年12月19日/1回)主演:里見浩太朗
・スペシャル(2015年6月29日/1回 1228回)主演:里見浩太朗
・BS-TBS版第1シリーズ(2017年10月4日~2017年12月6日/10回)主演:武田鉄矢
・BS-TBS版第2シリーズ(2019年5月19日~2019年8月11日/10回)主演:武田鉄矢

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1391年(元中8/明徳2)守護大名一族・山名氏清・満幸が室町幕府に叛乱(明徳の乱)を起こす(新暦1392年1月13日)詳細
1596年(慶長元)豊臣秀吉の命で26人のカトリック信者(日本二十六聖人)が長崎で磔刑となる(新暦1597年2月5日)詳細
1876年(明治9)三重県飯野郡の農民が一揆(伊勢暴動)を起こす詳細
1941年(昭和16)「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」が公布される詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣により、「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定され、動員学徒援護会が設置される詳細
1955年(昭和30)「原子力基本法」が公布される詳細
1966年(昭和41)第21回国連総会で「第21会期国際連合総会決議2222号(宇宙条約)」が採択される詳細
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Pannokai
 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、北原白秋、木下杢太郎らが青年文芸・美術家の懇談会「パンの会」を結成した日です。
 パンの会(ぱんのかい)は、明治時代末期に、反自然主義を掲げ、耽美的傾向の新しい芸術運動を起こした青年文芸・美術家の懇談会で、会の名称のパン(Pān)はギリシア神話の神の名からとっています。明治時代後期の1908年(明治41)12月12日に、新詩社を脱退して『スバル』に拠った木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らに、美術雑誌『方寸』に拠る山本鼎、石井柏亭、森田恒友らの青年画家を交えて結成されました。
 自然主義に反対し、美術と文学の交流の上にたった新しい文芸をめざし、月に数回、隅田河畔の西洋料理店に集まり、美と酒との饗宴を繰り広げます。機関誌として発行された『屋上庭園』(1909~10年)は発売禁止にあって2号で廃刊したものの、会自体は1912年(明治45)頃まで続きました。
 北原白秋の『東京景物詩』、木下杢太郎の『食後の唄』はこの会から生まれた、記念的作品です。会そのものは短命に終わりましたが、自然主義に対抗するロマン主義的な運動として文化史上にその名を残し、大正文学の一つの母体となりました。
 以下に、木下杢太郎著「パンの会の回想」を掲載しておきますのでご参照下さい。

〇木下杢太郎著「パンの会の回想」

 北原君。折角の御頼みだが、僕は十数年来の日記帳手帳の大半を東京の震災で失つたからパンの会の詳しいことはいま確実に思ひ出すことが出来なくなつた。それでも丁度明治四十二年と、四十三年との日記が残つてゐたから、そのうちに記されてゐる分だけを拾ひ出して見よう、尤も日記もあまりていねいには附けてないから脱けてゐるところが多い。
 四五年前まではあの時代を懐しいことに思ひ、時々回想したが、今はもうあまり時が隔つてしまひ、大して興味を感じない。
 何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
 是れと同時に浮世絵などを通じ、江戸趣味がしきりに我々の心を動かした。で畢竟パンの会は、江戸情調的異国情調的憧憬の産物であつたのである。
 当時カフエエらしい家を探すのには難儀した。東京のどこにもそんな家はなかつた。それで僕は或日曜一日東京中を歩いて(尤も下町でなるべくは大河が見えるやうな処といふのが註文であつた。河岸になければ、下町情調の濃厚なところで我慢しようといふのであつた。)とに角両国橋手前に一西洋料理屋を探した。最初の二三回はそこでしたが、その家があまり貧弱で、且つ少しも情趣のない家であつたから、早く倦きてしまつて、その後に探しあてたのは、小伝馬町の三州屋といふ西洋料理屋だつた。ここはきつすゐの下町情調の街区で古風な問屋が軒を並べてゐる処で、其家はまた幾分第一国立銀行時代の建築の面影を伝へてゐる西洋館であつたから、我々は大に気に入つた。おかみさんが江戸つ子で、或る大会の時には葭町の一流の芸者などを呼んでくれて、我々は美術学校に保存してある「長崎遊宴の図」を思ひ出して、喜んだものである。
 その後深川の永代橋際の永代亭が、大河の眺めがあるのでしばしば会場になつたのである。
 また遥か後になつて小網町に鴻の巣が出来「メエゾン、コオノス」と称して異国がつた。
 わかいと云ふものは好いもので、その頃は皆有頂天になり而もこの少し放逸な会合に、大に文化的意義などを附して得意がつたものである。
 次に日記にのつてゐるだけの会合を抜萃して見よう。

 明治四十二年(一九〇九)一月九日、土。パンの会があつた。どこか処は忘れた。その夜森博士邸に観潮楼歌会があつて、パンに出席した二三人の人がそこに行つた。
 夜になつて雪が降つた。
(その月の十三日には上野の精養軒で青揚会が開かれた。上田敏氏が何か演説せられたと見え、予の日記には「上田氏怪気焔」と書いてある。)
(予はその月の十八日に、手こずつてゐた南蛮寺門前がやつと出来上つた。それで急いでそれを美濃紙に清書して、夜森博士邸を訪ね博士に之を示すと、それを閲読したあとで博士がはははははと笑れた。)

 同年二月十三日、土。パンの会があつた。処は分らぬ。伊上凡骨の処で木板を習つてゐるルンプといふ独逸人を神田の安田旅館に尋ね、それを一緒につれて行つた。

 同年三月十三日、土。パンの会。多分両国のこちら側の何とかいふ西洋料理の二階だつたであらう。ルンプも出席した。又珍らしいことに荻原守衛も来会した。また遅くなつてから島村盛助も来た。
 此夜は遅くなつて皆で万世橋の近くの佐々木旅館といふのに宿泊した。倉田白羊が「京都の浅井忠先生の弟子たちで、先生の法事の帰りで遅くなつたからとめて下さい」と頼んで宿めて貰つた。予は今迄他家に宿泊したことがなかつたからこの一夜不安であつた。

 同年三月廿七日、土。パンの会。場処は不明。やはり同じ西洋料理であつたらう。「赤と緑の硝子より公園を見る」といふことが書いてあるから、或は誤かも知れない。石井柏亭の曰く「如何に巴里に於て遊楽するか」(何でも英語の本であつた)を東京で行らう。云々。たしかにさういふのがこの頃のパン会の気分であつた。
(この月の五日には観潮楼歌会があつて、佐々木博士、吉井、北原、與謝野、伊藤、古泉、斎藤、平野、上田、諸氏が集つた。この歌会の最も盛んであつた時である。)

 同年四月十日。深川永代橋畔永代亭でパンの大会を開く。此日には上田敏氏も上京中で出席せられ、皆で酒を強ひ是非巴里の歌を聴かせて下さいと云ひ、上田氏も余儀なく立つて何か短い仏蘭西語の歌一曲を歌はれた。また演説もされた。予は氏の口から南蛮寺に対する言葉を聞いて大に感激した。
 永井氏の「フランス物語」の話、湯浅氏の模写のベラスケスなどについてみんなが話しあつたと記録せられてゐる。
 この時のパンの有様は今もよく記憶に残つてゐるが、詳しく書くのはめんどくさい。なんでも予は女の首を三つ大きく描いたアフイシユを用意して行つて、入口のつき当りの衝立に貼つた。出口清三郎氏といふ画家が当日出席せられたやうに覚えてゐるが、今はどうしてゐられるか。
 この日パンの会を社会主義の会と誤認して刑事が二人来たといふ噂も立つて、今でも皆本当だと考へてゐる。たしかにそんな人二人がゐて隣の日本室で酒を飲んでゐたが、果して噂の通りであつたかどうかは疑はしい。
 このかへりに、酒に酔つた山本鼎と倉田白羊とが永代橋の欄干からアアチのてつぺんへ攀ぢ登りそこから河へ小便をしたりして皆をはらはらさせた。

 同年四月十日。パンの会。多分小人数の会であつたらう。
(同年五月二十一日。北原われわれの雑誌に「屋上庭園」といふ名を付ける。)

 パンの会も段々認められて来て同年十一月廿七日、土曜日の有楽座の自由劇場(多分ボルクマンの初演)のはねた後東洋軒で「渋谷村の連中、岩野氏、蒲原氏、島崎氏、」それにわれわれのパン会の一部とが、総勢廿五人ばかり、岩村氏の音頭にてシヤンパンを抜いたりなどした。

 明治四十三(一九一〇)年、二月七日。パンの会。山崎来り二人にてアフイシユをかく。予は異国情調にてかく。山崎は会には行かず。又パンの大提灯を作る。
 会場は三州屋。定連のほかには藤島氏、鈴木鼓村氏、與謝野氏、水野葉舟、安成、その他ずゐぶん大勢であつたが詳しく日記にしるされてゐない。

 同年二月廿七日、パン例会。集まるものは高村、石井、小山内、北原、吉井、長田の少人数であつた。
 此日屋上庭園の二号が発売禁止になつたといふ知らせを得る。

 同年十一月廿日。パン大会、三州屋。長田、柳、吉井、猿之助、南、高村、永井、山崎、谷崎、武者小路、小宮、島村、柏亭、青山、一平其他大勢。
 此会は黒わく事件といふので有名であつた。それは「長田秀雄君の入営を祝す」と大書したびらに黒わくを附けたのを高村君が持つて来て壁にかけた。萬朝報の記者が唯一人来て居た。誰も知人がなく相手にされなかつたものだから憤慨して、翌日の同新聞の論説欄にこの事を掲げてひどくこの会を攻撃したのである。
 パンの会も此時最高潮に達したのであつた。その後段々と衰へた。

(その時代の空気を示す為めに一寸追記する。十一月廿六日、神田青柳にて古書即売会。北斎絵本東遊、六円五十銭。吉原青楼年中行事、四十五円。駿河舞、五円。西鶴好色一代男、三冊、百円。元禄十六年板(?)松の葉、帙入美本、十四円。哥麿七変人、三枚百円。豊広浮絵、五円。
 見物一浮世絵を見ながら連れの人に曰ふのには「あの似顔なざあ、子供のおもちやになつてたのでさあねえ。」
黒田清輝のまだ盛に活飛した時代で、白馬会には其「荒苑斜陽」など出た。)

 明治四十四年(一九一一)にはパンの会は段々落寞なものになつてしまつた。
 二月の十二日には浅草のヨカロウで開き、そこのかみさんが演説などした。

 同年六月五日、月。神田の新しく出来た(都とか云つた)西洋料理屋でパンの会を催した。この日には内田魯庵氏も出席せられた。ドストウエフスキイの事、甎のことなどに就いて語られたと記されてある。小山内君がどこかで酔つて来て大元気であつた。生田、島村、喜熨斗、平出、萱野の諸氏が御定連でない出席であつた。黒田、島崎両氏からはしやんと断りの葉書が来た、この二人はいつもきちやうめんだと皆で話し合つた。
 萱野が内田氏をつかまへてオスカア・ワイルドのエツセイのことを論ずる調子はわきから見ると少しきざであつたなどと書かれてゐる。
 何とかいふ遊人風の人が入つて来て、知る人もないのに卓上演説を始めるといふやうなこともあつたらしい。
 当時日本に来てゐた独逸のグラアザア氏が、自分たちは出席は出来ないがと言つて百合の花籠を贈つてよこした。

 予はパンの会の為めにしばしば案内状の板下を作つた。それだの貴君や吉井の詩集の挿絵の板下など皆火事にやけてしまつたから、もし持つてゐるならくれ給へ。
 (一九二六、一二、二)

  「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
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1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
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1994年(平成6)小説家・歌人中河与一の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、日本で初めて、屋久島・白神山地・法隆寺地域の仏教建造物・姫路城の4ヶ所が世界遺産に登録された日です。
 世界遺産(せかいいさん)は、昭和時代後期の1972年(昭和47)のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことです。移動が不可能な不動産やそれに準ずるものが対象となっていて、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つの種類がありました。
 文化遺産は、顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文科的景観などで、自然遺産は、顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、絶滅のおそれのある動植物の生態・生育地などで、複合遺産は、文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えているものとなっています。世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている下記の登録基準のいずれか1つ以上に合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件を満たし、締約国の国内法によって、適切な保護管理体制がとられていることが必要とされてきました。
 日本では、1993年(平成5)12月11日に、自然遺産として、屋久島(鹿児島県)と白神山地(青森県、秋田県)、文化遺産として、「法隆寺地域の仏教建造物」(奈良県生駒郡斑鳩町)と「姫路城」(兵庫県姫路市)の4件が登録されたのを最初として、順次増やされていき、2024年12月現在で26件(文化遺産:21件、自然遺産:5件)が登録されています。

☆日本の世界遺産一覧(26件)

<文化遺産> 
・法隆寺地域の仏教建造物(奈良県生駒郡斑鳩町) 登録基準①②④⑥―1993年(平成5)12月登録 
【構成遺産】法隆寺、法起寺 
・姫路城(兵庫県姫路市) 登録基準①④―1993年(平成5)12月登録 
【構成遺産】姫路城 
・古都京都の文化財(京都府、滋賀県)登録基準②④―1994年(平成6)12月登録 
【構成遺産】賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、教王護国寺(東寺)、清水寺、延暦寺、醍醐寺、仁和寺(別称・御室御所)、平等院、宇治上神社、高山寺、西芳寺(別称・苔寺)、天龍寺、鹿苑寺(相国寺塔頭、別称・金閣寺)、慈照寺(相国寺塔頭、別称・銀閣寺)、龍安寺(妙心寺塔頭)、西本願寺(本願寺)、二条城 
・白川郷・五箇山の合掌造り集落(富山県、岐阜県)登録基準④⑤―1995年(平成7)12月登録 
【構成遺産】白川郷荻町集落、五箇山相倉集落、五箇山菅沼集落 
・原爆ドーム(広島県広島市) 登録基準⑥―1996年(平成8)12月 
【構成遺産】原爆ドーム 
・厳島神社(広島県廿日市市) 登録基準①②④⑥―1996年(平成8)12月登録 
【構成遺産】厳島神社 
・古都奈良の文化財(奈良県奈良市) 登録基準②③④⑥―1998年(平成10)12月登録 
【構成遺産】東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、春日山原始林 
・日光の社寺(栃木県日光市) 登録基準①④⑥―1999年(平成11)12月登録 
【構成遺産】日光東照宮、日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)、日光山輪王寺 
・琉球王国のグスク及び関連遺産群(沖縄県) 登録基準②③⑥―2000年(平成12)12月登録 
【構成遺産】今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽 
・紀伊山地の霊場と参詣道(和歌山県、奈良県、三重県) 登録基準②③④⑥―2004年(平成16)7月登録 
【構成遺産】吉野・大峯(吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社、大峰山寺)、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、青岸渡寺、那智大滝、那智原始林、補陀洛山寺)、高野山(丹生都比売神社、金剛峯寺、慈尊院、丹生官省符神社)、参詣道(大峯奥駈道、熊野参詣道、高野山町石道) 
・石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県大田市) 登録基準②③⑤―2007年(平成19)6月登録 
【構成遺産】銀鉱山跡と鉱山町(銀山柵内、代官所跡、矢滝城跡、矢筈城跡、 石見城跡、大森銀山伝統的重要建造物群保存地区、宮ノ前地区、重要文化財 熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢、佐毘売山神社)、石見銀山街道(鞆ヶ浦道、温泉津沖泊道)、港と港町(鞆ヶ浦、沖泊、温泉津重要伝統的建造物群保存地区)、その他周辺(石見銀山処刑場、千人壷、胴地蔵、人切岩) 
・平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(岩手県西磐井郡平泉町) 登録基準②⑥―2011年(平成23)6月登録 
【構成遺産】中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山 
・富士山―信仰の対象と芸術の源泉(静岡県、山梨県) 登録基準③⑥―2013年(平成25)6月登録 
【構成遺産】富士山域(山頂の信仰遺跡群、大宮・村山口登山道、須山口登山道、須走口登山道、吉田口登山道、北口本宮冨士浅間神社、西湖、精進湖、本栖湖、青木ヶ原樹海)、富士山本宮浅間大社、山宮浅間神社、村山浅間神社、須山浅間神社、冨士浅間神社(須走浅間神社)、河口浅間神社 、冨士御室浅間神社、御師住宅(旧外川家住宅)、御師住宅(小佐野家住宅)、山中湖、河口湖、忍野八海(出口池)、忍野八海(お釜池)、忍野八海(底抜池)、忍野八海(銚子池)、忍野八海(湧池)、忍野八海(濁池)、忍野八海(鏡池)、忍野八海(菖蒲池)、船津胎内樹型、吉田胎内樹型、人穴富士講遺跡、白糸ノ滝、三保松原 
・富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県) 登録基準②④―2014年(平成26)6月登録 
【構成遺産】富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴 
・明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(山口県、鹿児島県、静岡県、岩手県他) 登録基準②④―2015年(平成27)7月登録 
【構成遺産】萩反射炉・恵美須ヶ鼻造船所跡・大板山たたら製鉄遺跡・萩城下町・松下村塾(山口県萩市)、旧集成館・寺山炭窯跡・関吉の疎水溝(鹿児島県鹿児島市)、韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)、橋野鉄鉱山(岩手県釜石市)、三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市)、小菅修船場、三菱長崎造船所 第三船渠・長崎造船所 ジャイアントカンチレバークレーン・長崎造船所旧木型場・長崎造船所 占勝閣・高島炭鉱・端島炭鉱・旧グラバー住宅(長崎県長崎市)、三角西(旧)港(熊本県宇城市)、三池炭鉱 三池港(福岡県・熊本県)、官営八幡製鐵所(福岡県北九州市)、遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市) 
・ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-(東京都台東区) 登録基準①②⑥―2016年(平成28)7月登録 
【構成遺産】国立西洋美術館本館 
・「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(福岡県宗像市、福津市) 登録基準②③―2017年(平成29)7月登録 
【構成遺産】沖ノ島、小屋島、御門柱、天狗岩、宗像大社沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮(福岡県宗像市)、新原・奴山古墳群(福岡県福津市)
・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(長崎県、熊本県) 登録基準③―2018年(平成30)6月登録 
【構成遺産】大浦天主堂・外海の出津集落・外海の大野集落(長崎県長崎市)、原城跡(長崎県南島原市)、黒島の集落(長崎県佐世保市)、平戸島の聖地と集落=安満岳と春日集落・中江ノ島(長崎県平戸市)、野崎島の集落跡(長崎県北松浦郡小値賀町)、頭ヶ島の集落(長崎県南松浦郡新上五島町)、久賀島の集落・奈留島の江上集落(長崎県五島市)、天草の﨑津集落(熊本県天草市) 
・百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群(大阪府) 登録基準③④―2019年(平成31)7月登録
【構成遺産】大仙陵古墳、田出井山古墳、長塚古墳、永山古墳、丸保山古墳、銭塚古墳、大安寺山古墳、竜佐山古墳、収塚古墳、茶山古墳、孫太夫山古墳、菰山塚古墳、七観音古墳、塚廻古墳、銅亀山古墳、源右衛門山古墳(大阪府堺市堺区)、上石津ミサンザイ古墳、寺山南山古墳(大阪府堺市西区)、ニサンザイ古墳、御廟山古墳、いたすけ古墳、旗塚古墳、善右ヱ門山古墳(大阪府堺市北区)、誉田御廟山古墳、墓山古墳、白鳥陵古墳、二ツ塚古墳、峯ヶ塚古墳、向墓山古墳、誉田丸山古墳、西馬塚古墳、栗塚古墳、東馬塚古墳(大阪府羽曳野市)、仲ツ山古墳、岡ミサンザイ古墳、市ノ山古墳、津堂城山古墳、古室山古墳、大鳥塚古墳、はざみ山古墳、鍋塚古墳、浄元寺山古墳、青山古墳、鉢塚古墳、東山古墳、八島塚古墳、中山塚古墳、野中古墳、助太山古墳(大阪府藤井寺市)
・北海道・北東北の縄文遺跡群(北海道、青森県、岩手県、秋田県) 登録基準③⑤―2021年(令和3)7月登録
【構成遺産】キウス周堤墓群(北海道千歳市)、北黄金貝塚(北海道伊達市)、入江・高砂貝塚(北海道洞爺湖町)、大船遺跡(北海道函館市)、垣ノ島遺跡(北海道函館市)、三内丸山遺跡(青森県青森市)、小牧野遺跡(青森県青森市)、是川遺跡(青森県八戸市)、亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)、田小屋野貝塚(青森県つがる市)、大森勝山遺跡(青森県弘前市)、二ツ森貝塚(青森県七戸町)、大平山元I遺跡(青森県外ヶ浜町)、御所野遺跡(岩手県一戸町)、大湯環状列石(秋田県鹿角市)、伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市)
・佐渡島の金山(新潟県) 登録基準④―2024年(令和6)7月登録
【構成遺産】西三川砂金山・鶴子銀山・相川金銀山(新潟県佐渡市) 

<自然遺産>  
・屋久島(鹿児島県熊毛郡屋久島町) 登録基準⑦⑨―1993年(平成5)12月登録 
・白神山地(青森県、秋田県) 登録基準⑨―1993年(平成5)12月登録 
・知床(北海道) 登録基準⑨⑩―2005年(平成17)7月登録 
・小笠原諸島(東京都小笠原村) 登録基準⑨―2011年(平成23)6月登録
・奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(鹿児島県、沖縄県) 登録基準⑩―2021年(令和3)7月登録 

(登録基準の内容)
① 人類の創造的才能を表現する傑作。
② ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
③ 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
④ 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
⑤ ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
⑥ 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
⑦ ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
⑧ 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
⑨ 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
⑩ 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1335年(建武2)箱根・竹ノ下の戦いが起き、南北朝動乱が始まる(新暦1336年1月24日)詳細
1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
1877年(明治10)薬学者(薬化学)近藤平三郎の誕生日詳細
1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1967年(昭和42)佐藤栄作首相が第57回国会の衆議院予算委員会において、「非核三原則」を表明する詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細
1997年(平成9)地球温暖化防止京都会議(COP3)が閉幕、温室効果ガスの削減目標を定めた「京都議定書」を採択する詳細
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