ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、平安時代前期の921年(延喜21)に、醍醐天皇から、真言宗の開祖空海に、弘法大師の諡号が贈られた日ですが、新暦では11月29日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21年10月27日)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年10月27日) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1928年(昭和3)早稲田大学が坪内逍遥を記念して「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」を開館させる詳細
1933年(昭和8)小説家半村良の誕生日詳細
1975年(昭和50)実業家・国文学者・俳人角川源義の命日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、長崎奉行所内西役宅を校舎(長崎海軍伝習所)にして、海軍伝習が開始された日ですが、新暦では12月3日となります。
 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、江戸幕府が洋式海軍創設のため、長崎に開設した海軍教育機関でした。1855年(安政2)6月に、オランダ国王がスンビン号(後の観光丸)を幕府に献呈したのを契機として、長崎に海軍伝習所を設置することにし、同年7月29日に、矢田堀景蔵、勝麟太郎らが一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられます。
 その後準備が進められ、長崎奉行所の西役宅を校舎に、オランダ海軍軍人 22名を教官として雇い、同年10月22日に出島のオランダ館にて開所式が行われ、24日に伝習が開始されました。第一期生は、幕臣70名、諸藩から129名で、その中に勝麟太郎(海舟)、矢田堀景蔵らの幕臣のほか、五代友厚、川村純義(薩摩藩)、佐野常民(佐賀藩)ら諸藩士がいました。
 目的が海軍の養成だったので、軍艦の操縦術のみではなく、造船術や医術、語学などの様々な教育が、日課を定め、海陸で行なわれます。翌年3月に一期生が修了、続いて二期生が入り、1857年(安政4)4月に江戸の築地講武所内に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動しました。
 同年8月にヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが来日して教授したりしましたが、財政負担が大きいなどの理由により、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになります。その結果、1859年(安政6)4月16日の最終講義をもって閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げました。
 しかし、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の明治政府海軍創設の基礎となって活躍します。また、併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身ともなりました。

〇長崎海軍伝習所関係略年表(日付は旧暦です)

<1855年(安政2)> 
・6月 オランダ国王がスンビン号(のち観光丸)を幕府に献呈
・7月29日 矢田堀景蔵、勝麟太郎らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる 
・9月3日  昌平丸にて長崎海軍伝習所一期生が品川を出発する 
・10月20日  昌平丸が長崎へ着く 
・10月22日  長崎海軍伝習所の開所式が、出島のオランダ館で行われる 
・10月24日  長崎奉行所内西役宅を校舎に海軍伝習が開始される

<1857年(安政4)> 
・3月1日  長崎海軍伝習所の一期生が修了する 
・3月4日  長崎海軍伝習所一期生が観光丸にて江戸へ帰途に就く 
・3月26日  観光丸が上関・御手洗・鳥羽経由で品川沖に着く 
・4月11日  江戸の築地講武所内に軍艦操練所を設置する 
・5月8日  長崎海軍伝習所一期生が軍艦操練所教授方などへ任命される 
・8月5日  ヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが長崎へ来る

<1858年(安政5)>
・8月 咸臨丸が長崎海軍伝習所休講で築地の軍艦操練所所属になる 

<1859年(安政6)> 
・4月16日  長崎海軍伝習所の最終講義をもって閉鎖となり、その後オランダ人教官は本国へと引き上げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1933年(昭和8)小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の誕生日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
2011年(平成23)小説家・エッセイスト・精神科医北杜夫の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、日本戦歿学生手記編集委員会が戦没学生の手記を集めた『きけ わだつみのこえ』を刊行した日です。
 『きけ わだつみのこえ』は、太平洋戦争中の学徒出陣兵の遺稿集で、副題「日本戦没学生の手記」です。1947年(昭和22)10月20日に、東京大学協同組合出版部により編集されて出版されたもので、全国から新聞やラジオ放送を通じて募集した戦没学生75名の日記、手記、書簡などを収めたものでした。
 家族への愛や戦争への疑問、軍部批判や日本国民の責任にも触れられていて、青年学徒の若い人間的な悲痛の声は全国民の心を深くとらえて、ロングセラーとなります。その後、複数の出版社から刊行され、改訂や増補が重ねられ、海外でも翻訳されました。
 この刊行を契機として、1950年(昭和25)4月22日に、日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成されています。1963年(昭和38)には、続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題されました。
 また、1950年(昭和25)に、関川秀雄監督により、第1回目の映画化がされ、1995年(平成7)には、出目昌伸監督により、第2回目の映画化がされています。尚、2006年(平成18)には、日本戦没学生記念会(わだつみ会)によって、東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」が設立され、戦没学徒兵の遺品などを展示してきました。

〇『きけ わだつみのこえ』関係略年表

・1946年(昭和23) 東京大学協同組合出版部により、東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河』が出版される
・1949年(昭和24)10月20日 東京大学協同組合出版部により、『きけ わだつみのこえ』が出版される
・1950年(昭和25)4月22日 日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成される
・1950年(昭和25)6月15日 関川秀雄監督により、第1回目の映画化がされ、封切られる
・1950年(昭和25)8月15日 『きけ わだつみのこえ』刊行収入を基金にして、戦没学生記念像「わだつみのこえ」が彫刻家本郷新によって製作される
・1953年(昭和28) 戦没学生記念像「わだつみのこえ」が立命館大学に設置される
・1955年(昭和30) 新版『きけ わだつみのこえ』が、光文社より〈カッパ・ブックス〉として発行される
・1963年(昭和38) 続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版される
・1966年(昭和41) 『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題される
・1982年(昭和57)7月 岩波文庫として、〈第1集〉新版『きけ わだつみのこえ』が出版される
・1995年(平成7)6月3日 出目昌伸監督により、第2回目の映画化がされ、封切られる
・2003年(平成15)12月16日 岩波文庫として、〈第2集〉新版『きけ わだつみのこえ』が出版される
・2006年(平成18) 日本戦没学生記念会(わだつみ会)によって、東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」が設立さる

☆「わだつみのこえ記念館」(わだつみのこえきねんかん)とは?

 東京都文京区本郷のマンション内にある、日本戦没学生記念会(わだつみ会)によって設立された、戦没学徒兵の遺品などを展示すね施設です。太平洋戦争の下で、戦局の悪化に伴って、徴兵猶予措置の停止に伴う学生・生徒の出陣を学徒出陣と呼ばれました。
 東条英機内閣は、1943年(昭和18)10月に大学や専門学校などに通う学生・生徒の徴兵猶予を取り消し、同月21日に明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場跡地)で出陣学徒壮行会が開かれます。敗戦までに、兵役についた学徒の総数は、13万人とも言われていますが、多くの戦死者を出しました。
 敗戦後の1947年(昭和22)に、東京大学戦没学生の手記『はるかなる山河に』が出され、1949年(昭和24)には、全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版され、大きな反響を呼んで、約200万部を売り上げる大ベストセラーとなります。1950年(昭和25)には映画化も実現し、その年の4月には、次の世代に戦争体験を伝える日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成され、不戦と平和の活動を続けてきました。
 2006年(平成18)に、東京都文京区本郷のマンション内に「わだつみのこえ記念館」を設立し、戦没学徒兵の遺品などを展示しています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦の富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
1879年(明治12)経済学者・社会思想家河上肇の誕生日詳細
1900年(明治33)生化学者赤堀四郎の誕生日詳細
1937年(昭和12)第1次近衛文麿内閣が「九国条約国会議不参加に関する政府声明」を出し、「九カ国条約」が無効となる詳細
1963年(昭和38)日本生命保険相互会社の創立70周年記念事業として、日本生命日比谷ビル内に、日生劇場が開場する詳細
1967年(昭和42)東京都渋谷区に、代々木公園が開園する詳細
2009年(平成21)小説家原田康子の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、婦人標準服が公募され、入選発表された日です。
 婦人標準服(ふじんひょうじゅんふく)は、太平洋戦争下で厚生省が決定した女性用の服装の標準として考案されたものです。スカート式の甲型(洋服型)と和服式の乙型(和服型)のそれぞれに一部式、二部式があり、さらにモンペ式の活動衣があり、全部で7種類が示されました。
 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、まず男子の服装として国民服を定めるため、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募、翌年1月に発表され、1940年(昭和15)11月2日に「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行されます。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされまして。
 その後、女性用には、1941年(昭和16)3月19日に、厚生省が婦人標準服研究会を組織し、同年7月に試作品と公募が行われて10月19日入選発表があり、翌年2月19日に婦人標準服と活動衣が決定されます。これは、原則として、手作りのリフォーム・リメイク服とされ、手持ち衣料から自分で作るものなので、できるだけ簡単なものが考案され、これを基本として自由に応用されたものでした。
 しかし、普及はなかなか進まなかったものの、モンペ式の活動衣は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると、空襲時の防空用として、多くの女性が着るようになります。

〇モンペ(もんぺ)とは?

 和服における袴の形状をした下半衣で、腰、膝にゆとりがあり、裾が細く絞られたものです。多くは農山村における男女が、仕事着に用いる山袴の一種でしたが、太平洋戦争中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてから、全国的に一般化しました。
 1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されます。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
 戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されるようになります。

☆国民服令(こくみんふくれい)とは?

 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、男子の服装として国民服を定めるため、1940年(昭和15)11月2日に公布・施行した勅令(昭和15年勅令第725号)です。
 国民服は、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。
 尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「公園設置ニ付地所選択ノ件」で、国内初の5公園が指定され、芝公園、深川公園、飛鳥山公園が開園する詳細
1899年(明治32)彫刻家山本豊市の誕生日詳細
1929年(昭和4)東京の日比谷公園に日比谷公会堂(当時東洋一の規模)が開場する詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)が終結し、解雇通告の撤回と引き換えに、山本薩夫ら組合幹部20人が退社する詳細
1956年(昭和31)日本とソビエト連邦が、「日ソ共同宣言」に調印する詳細
1960年(昭和35)生活保護処分に関する朝日訴訟の第一審判決が出される詳細
1962年(昭和37)鉄道開業90周年記念事業の一環として、国鉄によって、青梅鉄道公園が開園する詳細
2018年(平成30)ノーベル賞(化学賞)受賞者・有機化学者・海洋生物学者下村脩の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、東京松竹楽劇部(後の松竹歌劇団)が設立された日です。
 松竹歌劇団(しょうちくかげきだん)は、松竹によって創設された少女歌劇団(通称:SKD)です。大正時代の1922年(大正11)に、宝塚歌劇団に対抗して、大阪の松竹分室に「松竹楽劇部生徒養成所」が開設されたのを前身とし、1928年(昭和3)10月12日には、東京の浅草松竹座にも楽劇部が生まれました。
 その後、「東京おどり」の成功と男役の水の江滝子(愛称:ターキー)の断髪姿で急速に人気を高めます。1931年(昭和6)に松竹少女歌劇部(SSK)と改称し、1933年(昭和8)には、楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起き、その解決を機に松竹少女歌劇団(SSKD)となりました。
 1937年(昭和12)に、浅草芝崎町に東洋一の規模を誇る国際劇場が竣工、ここを本拠に隆盛を誇こったものの、太平洋戦争下の1944年(昭和19)3月31日に、解散され、松竹芸能本部女子挺身隊がを結成されます。戦後、1946年(昭和21)の復活公演を機に、「少女」の2字をやめて松竹歌劇団(SKD)と改められて再出発しました。
 1982年(昭和57)の国際劇場が廃館からは、各地を巡演しましたが、1990年(平成2)2月25日に、東京厚生年金会館において最後の「東京踊り」が上演され、これをもってレビュー劇団としての歴史に終止符を打ちます。1992年3月10日、ミュージカル転向後の初公演「賢い女の愚かな選択」を池袋サンシャイン劇場で上演後、定期的に公演を行ったものの、1996年(平成8)6月30日をもって、解散することになりました。

〇松竹歌劇団(松竹少女歌劇団)関係略年表

・1922年(大正11) 大阪の松竹分室に「松竹楽劇部生徒養成所」が開設され、中之島公会堂で第1回試演会を行なう
・1923年(大正12) 「松竹楽劇部生徒養成所」が大阪松竹座の専属となる
・1926年(大正15) 上演した「春のおどり」の好評が発展の動機になる
・1928年(昭和3)10月12日 東京の浅草松竹座にも楽劇部が生まれる
・1930年(昭和5) 「東京おどり」の成功と男役の水の江滝子(愛称ターキー)の断髪姿で急速に人気を高める
・1931年(昭和6) 松竹少女歌劇部(SSK)と改称する
・1933年(昭和8) 楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起き、その解決を機に松竹少女歌劇団(SSKD)とする
・1937年(昭和12) 浅草芝崎町に東洋一の規模を誇る国際劇場が竣工、ここを本拠に隆盛を誇こる
・1944年(昭和19)3月31日 解散する
・1946年(昭和21) 「松竹歌劇団」として再出発する
・1982年(昭和57) 国際劇場が廃館となり、各地を巡演するようになる
・1990年(平成2)2月25日 東京厚生年金会館において最後の『東京踊り』が上演され、これをもってレビュー劇団としての歴史に終止符を打つ
・1992年(平成4) ミュージカル転向後の初公演「賢い女の愚かな選択」を池袋サンシャイン劇場で上演後、定期的に公演を行なうようになる
・1996年(平成8)6月30日 解散することになる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1694年(元禄7)俳聖松尾芭蕉の命日で、「芭蕉忌」とされる(新暦11月28日)詳細
1881年(明治14)「国会開設の勅諭」が出される詳細
1924年(大正13)岩淵水門完成により、荒川放水路が上流から下流までが繋がり、注水が開始されて通水式が行われる詳細
1937年(昭和12)国民精神総動員中央連盟が発足し、国民精神総動員運動が始まる詳細
1940年(昭和15)新体制運動推進のために大政翼賛会が発足する詳細
1943年(昭和18)東條内閣が「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定する詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)を出す詳細
1956年(昭和31)砂川闘争において、東京都砂川町(現在の立川市)での第二次強制測量で警官と反対派の衝突が始まる詳細
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