ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、「小学校令中改正ノ件」(明治40年勅令第52号)が出され、義務教育が6年間となった日です。
 「小学校令中改正ノ件」(しょうがっこうれいちゅうかいせいのけん)は、1907年(明治40)3月21日に発布された、従来の「小学校令」を改正する勅令で、義務教育を4年から6年間に延長したものです。それまでは、義務教育とされた尋常小学校(就業年限4年)に、義務ではない高等小学校(就業年限2年)が併設される形が多かったのですが、本令によって、尋常小学校の修業年限が4年から6年に延長され、高等小学校の修業年限も2年、もしくは延長して3年と定められました。
 また、尋常小学校の教科目も「修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操」となり、女子は「裁縫」、土地の状況により「手工」が加えられ、また「農業」・「商業」などが随意科目とされています。この改正によって、高等小学校を経ることなく、尋常小学校から中学校や高等女学校に進学することに改められました。
 以下に、「小学校令中改正ノ件」(明治40年勅令第52号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「小学校令中改正」(明治40年勅令第52号) 1907年(明治40)3月21日発布

 小学校令中左ノ通改正ス

 第十三条 削除

 第十八条 尋常小学校ノ修業年限ハ六箇年トス

 高等小学校ノ修業年限ハ二箇年トス但シ延長シテ三箇年ト為スコトヲ得

 第十九条 尋常小学校ノ教科目ハ修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操トシ女児ノ為ニハ裁縫ヲ加フ

 土地ノ情況ニ依リ手工ヲ加フルコトヲ得

 第二十条第二項以下ヲ左ノ如ク改ム

 前項教科目ノ外手工、農業、商業ノ一科目又ハ数科目ヲ加フ其ノ数科目ヲ加ヘタル場合ニ於テハ児童ニハ農業、商業ヲ併セ課スルコトヲ得ス

 土地ノ情況ニ依リ英語ヲ加フルコトヲ得

 農業、商業、英語ハ之ヲ随意科目ト為スコトヲ得

 第二十三条第一項中「第三項」ヲ「第二項」ニ、第二項中「定メム」ヲ「延長セム」ニ改ム

 第三十六条第一項中「又ハ之ニ代用スル私立小学校」ヲ削ル

附則

 本令ハ明治四十一年四月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ第十三条及第三十六条第一項ノ改正ハ明治四十年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

 市町村立尋常小学校ニ代用シタル私立小学校ニ関シテハ其代用期間ノ満了スルニ至ル迄仍其ノ代用ヲ存続スルコトヲ得

 特別ノ事情ニ依リ第十八条第一項ニ依り難キ場合ニ於テハ市町村立小学校ニ在リテハ市町村又ハ町村学校組合ニ於テ、私立小学校ニ在リテハ設立者ニ於テ期間ヲ定メテ府県知事ノ認可ヲ受ケ当分ノ内尋常小学校ニ関シテハ仍従前ノ規定ニ依ルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ高等小学校ニ関シテモ仍従前ノ規定ニ依ルコトヲ得

 前項ニ依ル尋常小学校ノ教科目ニ関シテハ文部大臣ノ定ムル所ニ依ル

 第十九条ノ教科目中唱歌及第二十条第二項ノ教科目ハ当分ノ内之ヲ闕クコトヲ得

 本令施行ノ際現ニ在学スル高等小学校ノ児童ニ関シテハ其ノ卒業スルニ至ル迄仍従前ノ規定ニ依ルコトヲ得

   「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

835年(承和2)真言宗の開祖空海(弘法大師)の命日(新暦4月22日)詳細
850年(嘉祥3)第54代の天皇とされる仁明天皇の命日(新暦5月4日)詳細
1912年(明治45)東京の州崎大火で、全焼1,149戸、半焼11戸の被害を出す詳細
1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1942年(昭和17)既存の武徳会が改組され、厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省が共管する新たな大日本武徳会が発足する詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細
1994年(平成6)「気候変動枠組条約(UNFCCC)」が発効する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、厚生省が婦人標準服研究会を組織した日です。
 婦人標準服(ふじんひょうじゅんふく)は、太平洋戦争下で厚生省が決定した女性用の服装の標準として考案されたものでした。スカート式の甲型(洋服型)と和服式の乙型(和服型)のそれぞれに一部式、二部式があり、さらにモンペ式の活動衣があり、全部で7種類が示されています。
 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、まず男子の服装として国民服を定めるため、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募、翌年1月に発表され、1940年(昭和15)11月2日に「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。
 その後、女性用には、1941年(昭和16)3月19日に、厚生省が婦人標準服研究会を組織し、同年7月に試作品と公募が行われて10月19日入選発表があり、翌年2月19日に婦人標準服と活動衣が決定されました。これは、原則として、手作りのリフォーム・リメイク服とされ、手持ち衣料から自分で作るものなので、できるだけ簡単なものが考案され、これを基本として自由に応用されたようです。
 しかし、普及はなかなか進まなかったものの、モンペ式の活動衣は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると、空襲時の防空用として、多くの女性が着るようになりました。

〇モンペ(もんぺ)とは?

 和服における袴の形状をした下半衣で、腰、膝にゆとりがあり、裾が細く絞られたものです。多くは農山村における男女が、仕事着に用いる山袴の一種でしたが、太平洋戦争中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてから、全国的に一般化しました。
 1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されます。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
 戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されるようになります。

☆国民服令(こくみんふくれい)とは?

 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、男子の服装として国民服を定めるため、1940年(昭和15)11月2日に公布・施行した勅令(昭和15年勅令第725号)です。
 国民服は、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇により「運脚の労苦に対する詔」が出される(新暦4月18日)詳細
1860年(万延元)江戸幕府が最初の貿易統制令である「五品江戸廻送令」を発令する詳細
1943年(昭和18)洋画家藤島武二の命日詳細
1907年(明治40)「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲によって、名古屋駅等が炎上する詳細
1950年(昭和25)世界平和擁護大会で原爆禁止の「ストックホルム・アピール」が採択される詳細
2011年(平成23)北関東自動車道が太田桐生IC~佐野田沼IC間18.6kmの開通により、全線開通する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、太平洋戦争の東京大空襲で焼失した新橋演舞場が再建され、開場式が行われた日です。
 新橋演舞場 (しんばしえんぶじょう)は、東京都中央区銀座六丁目18番2号にある劇場で、歌舞伎座、帝国劇場と並ぶ東京の大劇場の一つです。新橋芸妓組合を主体とした新橋演舞場株式会社により、1923年(大正12)に、大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設工事に着工したものの、関東大震災で一時中断し、1925年(大正14)4月に、3階建、客席数1,679席の演舞場が完成し、杮落しは第1回東をどりを行いました。
 1940年(昭和15)に、松竹株式会社が興行面を受け持つようになりましたが、1945年(昭和20)5月25日の東京大空襲で焼失しています。戦後の1948年(昭和23)3月18日に、再建開場式が行われ、同年3月21日から東おどりを復活上演しました。
 1979年(昭和54)8月に、改築のため閉鎖し、新派碑は湯島天満宮境内へ移設、1982年(昭和57)4月には、日産自動車本社新館と一体化した新築の劇場となります。2005年(平成17)に客席を改装し、2009年(平成21)には、日産自動車本社が横浜市へ転出、ビル部分をJ-REITの森トラスト総合リート投資法人が購入し、銀座MTRビルへ改称しました。
 2010年(平成22)5月に歌舞伎座が改築工事に入ったため、2013年(平成25)3月まで、大歌舞伎興行の常設小屋となり、2015年(平成27)には、ビル売却に伴い、野村不動産銀座ビルへ改称しています。現在の建物は、地上16階、地下5階建ての共同ビルで、その内、劇場占有部分は地下3階、地上3階で、舞台間口20m、高さ7.3m、奥行18.7m、客席数は1,428席あり、舞台機構、照明なども、歌舞伎からミュージカルまで上演できる設備を持つようになりました。

〇新橋演舞場関係略年表

・1922年(大正11) 新橋芸妓協会が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立する
・1923年(大正12) 大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設工事に着工するが、関東大震災で一時中断する
・1925年(大正14)4月 3階建、客席数1,679席の演舞場が完成し、杮落しは第1回東をどりを行う
・1940年(昭和15) 松竹株式会社が興行面を受け持つ
・1945年(昭和20) 東京大空襲で焼失する
・1948年(昭和23)3月18日 再建開場式が行われ、同年3月21日から東おどりを復活上演する
・1977年(昭和52) 新派創立90周年を記念し、玄関脇に「新派」碑を建立する
・1979年(昭和54)8月 改築のため閉鎖し、新派碑は湯島天満宮境内へ移設する
・1982年(昭和57)4月 日産自動車本社新館と一体化した新築の劇場(3階建、客席数1,428席)となる(劇場部分を区分所有)
・2005年(平成17) 客席を改装する
・2009年(平成21) 日産自動車本社が横浜市へ転出、ビル部分をJ-REITの森トラスト総合リート投資法人が購入し、銀座MTRビルへ改称する
・2010年(平成22)5月 歌舞伎座が改築工事に入ったため、大歌舞伎興行の常設小屋となる
・2013年(平成25)3月 歌舞伎座が完成し、大歌舞伎興行の常設小屋ではなくなる
・2015年(平成27) ビル売却に伴い、野村不動産銀座ビルへ改称する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1473年(文明5)武将・守護大名山名持豊(宗全)の命日(新暦4月15日)詳細
1874年(明治7)医学者・九州帝大教授・東京帝大教授・日本医師会会長稲田龍吉の誕生日詳細
1881年(明治14)自由民権派の日刊新聞「東洋自由新聞」が創刊される詳細
1925年(大正14)大正日暮里大火が起き、全半焼約2,100戸を出す詳細
1933年(昭和8)「都新聞」で尾崎士郎著の『人生劇場青春編』が連載開始される詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、日本初の全天候型ドームである東京ドームが完成し、オープニングセレモニーが行われた日で、翌日からや野球の公式戦で使用開始されています。
 東京ドーム(とうきょうどーむ)は、東京都文京区後楽にあるドーム球場で、愛称は「ビッグ‐エッグ」と呼ばれています。1987年(唱和62)11月に後楽園球場を解体して建設が始まり、1988年(昭和63)3月17日に完成して、オープニングセレモニーが開催され、翌8日には、こけら落としの試合として巨人対阪神戦が行われました。
 グラウンドは人工芝で、面積13,000㎡、両翼100m、センターまで122mあり、収容人数は、野球使用時で約46,000人、最大で55,000人となっています。プロ野球球団の読売ジャイアンツのフランチャイズ球場となっていますが、野球だけでなく各種催し物の会場としても利用されてきました。

〇東京ドーム関係略年表

・1987年(唱和62)11月 後楽園球場を解体し、東京ドームの建設が始まる
・1988年(昭和63)3月17日 東京ドームが完成し、オープニングセレモニーが開催される
・1988年(昭和63)3月18日 こけら落としの試合として巨人対阪神戦が行われる
・1988年(昭和63)4月9日 入場者数が100万人を突破する
・1998年(平成10)4月 東京ドーム来場者1億人を突破する
・2000年(平成12)3月 北米以外での初の米大リーグ開幕戦が東京ドームにて開催される
・2002年(平成14)3月 天然芝に限りなく近い新人工芝「フィールドターフ」が導入される
・2003年(平成15)7月13日 アテネ五輪壮行試合が開催(日本代表対・キューバ代表戦)される
・2005年(平成17)3月 新内野席「エキサイトシート」、新オーロラビジョンを導入する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

806年(延暦25)第50代天皇である桓武天皇の命日(新暦4月9日)詳細
1880年(明治13)国会期成同盟が発足する詳細
1893年(明治26)埼玉県入間郡川越町(現在の川越市)において、川越大火が発生する詳細
1898年(明治31)小説家・俳人・評論家横光利一の誕生日詳細
1945年(昭和20)B29爆撃機309機が神戸へ来襲(最初の神戸大空襲)し、神戸の西半分が焼失、死者2,598名を出す詳細
1953年(昭和28)「麻薬取締法」(現在の「麻薬及び向精神薬取締法」)が公布(同年4月1日施行)される詳細
1985年(昭和60)筑波研究学園都市で、国際科学技術博覧会(略称:科学万博、つくば '85)が開幕する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1195年(建久6)に、後鳥羽天皇・源頼朝・北条政子らの臨席のもとで、東大寺再建により、大仏殿の落慶法要が行われた日ですが、新暦では4月23日となります。
 東大寺(とうだいじ)は、奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
 特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
 以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇東大寺大仏関係略年表

・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年3月12日) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される

☆『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述

<原文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。

<読み下し文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽る。午以後雨頻りに降る。又地震。
今日東大寺供養也。雨師風伯[1]之降臨[2]、天衆地類[3]之影向[4]、其の瑞[5]揚焉[6]。
寅一點[7]、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、數万騎の壯士[8]を催し具し、寺の四面の近郭[9]を警固す。
日出以後、將軍家御參堂、御乘車[10]也。

【注釈】

[1]雨師風伯:うしふうはく=雨の神、風の神の意味。
[2]降臨:こうりん=天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。
[3]天衆地類:てんしゅじるい=天上界・地上界の神仏たち。天地の神仏。平家物語の巻第四「山門牒状」に「天衆地類も影向を垂れ」と出てくる。
[4]影向:ようごう=神仏の本体が一時応現すること。神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。神仏が来臨すること。また、姿を見せないで現われること。
[5]其の瑞:そのずい=その縁起の良い効験は、
[6]揚焉:けちえん=著しいさま。きわだっているさま。目だつさま。あきらか。
[7]寅一點:とらのいってん=寅は1時00分~3時00分で、その2時間を5等分したのが点。1時00分~1時24分を一点、1時24分~1都48分を二点、1時48分~2時12分を三点、2時12分~2時36分を四点、2時36分~3時00分を五点。
[8]壯士:そうし=意気の豪壮なる者。勇壮な男子。血気のさかんな男。
[9]近郭:きんかく=近くの外回り。
[10]御乘車:ごじょうしゃ=牛車に乗車すること。

<現代語訳>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝の内は、雨だったものの晴れた。しかし、午後はまた雨が激しく降った。また地震があった。
今日は、東大寺大仏殿の落慶法要の日だ。雨の神、風の神が地上に来臨し、天上界・地上界の神仏たちが、この世に現われ、その縁起の良い効験はあきらかだ。
寅の一点(1時00分~1時24分)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万騎の意気の豪壮なる者を指揮して、東大寺の四方の近くの外回りを警備している。
日の出以後に、将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ、牛車に乗って、参上した。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲で中心街が消失し、105,093人が罹災、死者519人人、負傷者734人を出す詳細
1946年(昭和21)日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の命日詳細
将棋棋士・十三世名人関根金次郎の命日詳細
1989年(平成元)建築家・建築構造学者武藤清の命日詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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