ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、ジャズなど英米の音楽が「敵性音楽」とされ演奏・レコード発売が禁止になった日です。
 敵性音楽(てきせいおんがく)は、敵対国や交戦国で一般に使用されている音楽を指した言葉ですが、日本では、語昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)1月13日に、内務省と情報局より演奏や発売が禁止された、1,126枚のレコードの音楽の事を指します。禁止になった理由は、米英の音楽は、「卑俗低調」で、国民の士気と健全な娯楽の発展を妨げるというものなので、低俗な英米文化を排除しなくてはならないとされ、レコードの回収運動も行われました。
 また同時期に、レコード会社の社名とレーベルの変更も余儀なくされ、「キングレコード」→「富士音盤」、「コロムビアレコード(日本コロムビア)」→「ニッチク(日蓄工業)」、「日本ビクター(現:JVCケンウッド)」→「日本音響」、「ポリドールレコード(現:ユニバーサル ミュージック)」→「大東亞蓄音機」に変わっています。

〇敵性音楽の一例(戦時下で禁止されたレコード音楽)

・「ラプソディ・イン・ブルー」
・「ミッキイマウスの結婚」
・「タイガー・ラグ」
・「セント・ルイス・ブルース」
・「惑星」組曲
・「ピアノ協奏曲第2番(マクドウエル)」
・「序曲「ポーツマス・ポイント」」
・「二台のピアノと管弦楽のための協奏曲」
・「ダイナ」
・「私の青空」
・「アラビヤの唄」
・「ロンドン・デリー」
・「麦畑」
・「ヤンキー・ドゥードル」
・「アニー・ローリー」
・「アメリカン・パトロール」
・「懐かしのケンタッキー」
・「オールド・ブラック・ジョー」
・「スワニー河」
・「峠の我が家」
・「アレキサンダー・ラグタイム・バンド」
・「月光価千金」
・「南京豆売」
・「アロハ・オエ」
・「巴里は夜もすがら」
・「モンシータ」
・ 「巴里の夜中」
・「モンテカルロの一夜」
・「オルガ」
・「あわれなアパッシュ」
・「可愛いトンキン娘」
・「マンダレイの恋人」
・「ヴェニ・ヴェニ」
・「サ・セ・パリ」
・「ヴィエニ・ヴィエニ」
・「小さなフレンチカジノで」
・「サ・セ・パリ」
・「暗い日曜日」
・「巴里のシャンソン」
・「靴屋の大将/小さな喫茶店」
・「コンチネンタル」
・「ヴァレンシア」
・「バラのタンゴ」

〇会社名が変更させられたレコード会社

・「キングレコード」→「富士音盤」
・「コロムビアレコード(日本コロムビア)」→「ニッチク(日蓄工業)」
・「日本ビクター(現:JVCケンウッド)」→「日本音響」
・「ポリドールレコード(現:ユニバーサル ミュージック)」→「大東亞蓄音機」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1199年(建久10)鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日)詳細
1653年(承応2)町人清右衛門が建議した多摩川から江戸への導水路(玉川上水)着工が許可される(新暦2月10日)詳細
1945年(昭和20)東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す詳細
1966年(昭和41)「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家舟橋聖一の命日詳細
1992年(平成4)共和汚職事件で自民党の阿部文男衆議院議員(元北海道・沖縄開発庁長官)が逮捕される詳細
2001年(平成13)文芸評論家本多秋五の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、今井正監督・脚本の映画『ひめゆりの塔』が封切られた日です。
 映画『ひめゆりの塔』(ひめゆりのとう)は、昭和時代中期の1953年(昭和28)1月9日に封切られた、今井正監督・脚本で、東映製作・配給のモノクロ映画(スタンダード・130分)です。太平洋戦争末期の沖縄戦で看護婦として前線に立ったひめゆり学徒隊(沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成)の悲劇を描いた戦争映画で、沖縄戦の実態を初めて描いた映画として、国民的共感を呼び、配給収入1億8000万円という大ヒットを記録しました。
  清水元、信欣三、河野秋武、岡田英次、津島恵子、香川京子ほかが出演し、第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位となり、第4回ブルーリボン賞監督賞を受賞しています。尚、1982年(昭和57)には、同脚本・同監督により、栗原小巻、古手川祐子、大場久美子、斉藤とも子、蜷川有紀、田中好子ほか出演により、リメイク版が公開されました。

〇今井正(いまい ただし)とは?
 
 昭和から平成時代に活躍した映画監督です。明治時代後期の1912年(明治45)1月8日に、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院住職であった父・六助と母・カネの長男として生まれました。
 1929年(昭和4)に旧制芝中学校を卒業し、旧制水戸高等学校に入学しましたが、翌年に学生運動により特高警察に連行され、1年間の停学処分を受けます。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部美術史科に入学したものの、再び学生運動により本富士警察署に検挙され、翌年に1年間の停学処分を受けました。
 1935年(昭和10)に大学を中退、京都のJOスタジオに助監督として入社、1937年(昭和12年)には、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となります。1939年(昭和14)に東宝の『沼津兵学校』で監督デビューし、『多甚古村』 (1940年) 、『閣下』 (1940年) などを作り、中堅作家の地位を固めました。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に戦後第1作『民衆の敵』を監督、1949年(昭和24)には、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督、大ヒットしましたが、東宝を退社しフリーとなります。1950年(昭和25)に『また逢う日まで』を監督、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位など高い評価を得たものの、東宝争議では組合側に加担したためレッド・パージの対象となりました。
 1951年(昭和26)に独立プロに転じ、山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督、1953年(昭和28)には、沖縄戦の悲劇を描く『ひめゆりの塔』を東映で撮り、大ヒットとなります。1957年(昭和32)の『純愛物語』で、毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、1963年(昭和38)の『武士道残酷物語』で、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞 (グランプリ)と国際的にも評価されました。
 その後も、1967年(昭和42)に渥美清主演のテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』シリーズで(4本演出)、未解放部落を正面から描いた『橋のない川第一部・第二部』(1969・1970年)、『婉という女』(1971年)、『あにいもうと』(1976年)などの佳作、力作を次々と発表、ヒューマニズムを基調とした作風が特徴とされます。しかし、1982年(昭和57)に胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受け、引退宣言し、1986年(昭和61)には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明しました。
 1990年(平成2)に第8回日本映画復興賞特別賞を受賞、翌年には14年ぶりに映画『戦争と青春』を撮りましたが、同年11月22日に埼玉県草加市の草加市立病院において、くも膜下出血のため79歳で亡くなっています。

☆今井正監督作品一覧

・『沼津兵学校』(1939年)
・『われ等が教官』(1939年)
・『多甚古村』(1940年)
・『女の街』(1940年)
・『閣下』(1940年)
・『結婚の生態』(1941年)
・『望楼の決死隊』(1943年)
・『怒りの海』(1944年)
・『愛の誓ひ』(1945年)
・『民衆の敵』(1946年)毎日映画コンクール監督賞
・『人生とんぼ返り』(1946年)
・『地下街二十四時間』(1947年)
・『青い山脈』(1949年)
・『続 青い山脈』(1949年)
・『女の顔』(1949)
・『また逢う日まで』(1950年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『どっこい生きてる』(1951年)
・『山びこ学校』(1952年)
・『ひめゆりの塔』(1953年)第27回キネマ旬報ベスト・テン第7位、ブルーリボン賞監督賞
・『にごりえ』(1953年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『愛すればこそ~第二話「とびこんだ花嫁」』[吉村公三郎、山本薩夫とのオムニバス](1955年)
・『ここに泉あり』(1955年)
・『由紀子』(1955年)
・『真昼の暗黒』(1956年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『米』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『純愛物語』(1957年)毎日映画コンクール監督賞、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)
・『夜の鼓』(1958年)
・『キクとイサム』(1959年)ブルーリボン賞監督賞・作品賞、キネマ旬報賞監督賞、キネマ旬報ベストテン第1位
・『白い崖』(1960年)
・『あれが港の灯だ』(1961年)
・『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』(1962年)
・『武士道残酷物語』(1963年)ベルリン国際映画祭グランプリ
・『越後つついし親不知』(1964年)
・『仇討』(1964年)
・『砂糖菓子が壊れるとき』(1967年)
・『不信のとき』(1968年)
・『橋のない川 第一部』(1969年)第6回モスクワ国際映画祭 ソ連映画人同盟賞
・『橋のない川 第二部』(1970年)
・『天皇の世紀~第4話「地熱」・第5話「大獄」』(1971年)
・『婉(えん)という女』(1971年)
・『あゝ声なき友』(1972年)
・『海軍特別年少兵』(1972年)
・『小林多喜二』(1974年)
・『あにいもうと』(1976年)
・『妖婆』(1976年)
・『子育てごっこ』(1979年)
・『ゆき(1981年)
・『ひめゆりの塔』(1982年)
・『戦争と青春』(1991年)モントリオール国際映画祭カトリック同盟プロテスタント映画賞、第4回日刊スポーツ映画大賞特別賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される詳細
1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1895年(明治28)新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の誕生日詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細
1943年(昭和18)日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される詳細
1985年(昭和60)北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する詳細
1998年(平成10)日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日詳細
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NHKkouhakuutagattsenkaijyou
 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、日本放送協会(NHK)の歌謡番組「第1回NHK紅白歌合戦」がラジオで放送された日です。
 NHK紅白歌合戦(えぬえいちけいこうはくうたがっせん)は、1951年(昭和26)から毎年、日本放送協会(NHK)が放送してきた男女対抗形式の大型音楽特別番組でした。当初は、ラジオの正月特別番組として放送されたのですが、1953年(昭和28)1月2日の第3回NHK紅白歌合戦でテレビでの実験放送が実施され、同年2月1日のテレビの本放送開始に伴って、同年の第4回から大晦日(12月31日)に変更されています。
 その年に活躍した男女の人気歌手が白組(男性)と紅組(女性)に分かれて勝ち負けを競ってきました。会場は第1~3回まで東京放送会館第1スタジオでしたが、その後日本劇場、東京宝塚劇場等を経て、1973年(昭和48)の第24回からは東京・渋谷の NHKホールから生中継されています。
 たいへんな人気番組となって、テレビ視聴率は、1963年 (昭和38) の第14回に、ビデオリサーチ社による視聴率調査が始まって以来の最高視聴率81.4%を記録しました。その後も高く、関東地区のビデオリサーチ社調査では、過去の視聴率ベスト10を独占していているものの、2006年(平成18)には 30%台にまで低下しています。

〇視聴率(しちょうりつ)とは?

 あるテレビの番組が、一定地域内のどれくらいの人または世帯で見られたかを示す割合のことで、世帯視聴率と個人視聴率がありますが、一般には前者を指してきました。尚、ラジオの場合は聴取率と言っています。
 調査方法としては、電話によるインタビュー、個人面接、日記による記録、特定の機械による方法などがありました。日本において歴史的には、1954年(昭和29)に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初とされています。
 翌年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を始め(1963年1月まで)、1958年(昭和33)には社団法人中央調査社が日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、翌年には毎月に拡大しました。
 そして、1961年(昭和36)に外資系のニールセン社、翌年にはビデオ・リサーチ社が調査対象世帯に測定機を置く機械式調査を開始し、視聴率調査の主流となっていきます。
 ところが、2000年(平成12)にニールセン社が撤退し、現在では、ビデオリサーチ社が関西、名古屋、札幌、その他大都市地域でそれぞれ実施している機械式調査が中心となりました。その中で、NHKの放送世論調査所では年5回、日記式の全国個人視聴率調査をしてきています。
 2015年(平成27)から、関東地区においては、ビデオリサーチ社によるタイムシフト視聴率(録画して視聴するものも含めた視聴率)が提供されるようになりました。
 ちなみに、視聴率1%はほぼ100万人が視聴していることに相当するといわれ、商業放送では、広告料金の決定や広告効果測定に重要な要素となっています。しかし、行き過ぎた視聴率競争の結果、番組の質が低下しているとの批判も出されるようになりました。

☆過去のNHK紅白歌合戦視聴率ベスト10(関東地区・ビデオリサーチ社調査)

・第1位 81.4% 第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日 
・第2位 80.6% 第23回NHK紅白歌合戦 1972年12月31日 
・第3位 80.4% 第13回NHK紅白歌合戦 1962年12月31日 
・第4位 78.1% 第35回NHK紅白歌合戦 1984年12月31日
・第4位 78.1% 第22回NHK紅白歌合戦 1971年12月31日 
・第4位 78.1% 第16回NHK紅白歌合戦 1965年12月31日 
・第7位 77.0% 第30回NHK紅白歌合戦 1979年12月31日 
・第7位 77.0% 第21回NHK紅白歌合戦 1970年12月31日 
・第7位 77.0% 第28回NHK紅白歌合戦 1977年12月31日
・第10位 76.9% 第19回NHK紅白歌合戦 1968年12月31日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1740年(元文5)俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の命日(新暦1月31日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、日本放送協会(NHK)の歌謡番組「第3回NHK紅白歌合戦」のテレビでの実験放送が実施された日です。
 NHK紅白歌合戦(えぬえいちけいこうはくうたがっせん)は、1951年(昭和26)から毎年、日本放送協会(NHK)が放送してきた男女対抗形式の大型音楽特別番組でした。当初は、ラジオの正月特別番組として放送されたのですが、1953年(昭和28)1月2日の第3回NHK紅白歌合戦でテレビでの実験放送が実施され、同年2月1日のテレビの本放送開始に伴って、同年の第4回から大晦日(12月31日)に変更されています。
 その年に活躍した男女の人気歌手が白組(男性)と紅組(女性)に分かれて勝ち負けを競ってきました。会場は第1~3回まで東京放送会館第1スタジオでしたが、その後日本劇場、東京宝塚劇場等を経て、1973年(昭和48)の第24回からは東京・渋谷の NHKホールから生中継されています。
 たいへんな人気番組となって、テレビ視聴率は、1963年 (昭和38) の第14回に、ビデオリサーチ社による視聴率調査が始まって以来の最高視聴率81.4%を記録しました。その後も高く、関東地区のビデオリサーチ社調査では、過去の視聴率ベスト10を独占していているものの、2006年(平成18)には 30%台にまで低下しています。

〇視聴率(しちょうりつ)とは?

 あるテレビの番組が、一定地域内のどれくらいの人または世帯で見られたかを示す割合のことで、世帯視聴率と個人視聴率がありますが、一般には前者を指してきました。尚、ラジオの場合は聴取率と言っています。
 調査方法としては、電話によるインタビュー、個人面接、日記による記録、特定の機械による方法などがありました。日本において歴史的には、1954年(昭和29)に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初とされています。
 翌年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を始め(1963年1月まで)、1958年(昭和33)には社団法人中央調査社が日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、翌年には毎月に拡大しました。
 そして、1961年(昭和36)に外資系のニールセン社、翌年にはビデオ・リサーチ社が調査対象世帯に測定機を置く機械式調査を開始し、視聴率調査の主流となっていきます。
 ところが、2000年(平成12)にニールセン社が撤退し、現在では、ビデオリサーチ社が関西、名古屋、札幌、その他大都市地域でそれぞれ実施している機械式調査が中心となりました。その中で、NHKの放送世論調査所では年5回、日記式の全国個人視聴率調査をしてきています。
 2015年(平成27)から、関東地区においては、ビデオリサーチ社によるタイムシフト視聴率(録画して視聴するものも含めた視聴率)が提供されるようになりました。
 ちなみに、視聴率1%はほぼ100万人が視聴していることに相当するといわれ、商業放送では、広告料金の決定や広告効果測定に重要な要素となっています。しかし、行き過ぎた視聴率競争の結果、番組の質が低下しているとの批判も出されるようになりました。

☆過去のNHK紅白歌合戦視聴率ベスト10(関東地区・ビデオリサーチ社調査)

・第1位 81.4% 第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日 
・第2位 80.6% 第23回NHK紅白歌合戦 1972年12月31日 
・第3位 80.4% 第13回NHK紅白歌合戦 1962年12月31日 
・第4位 78.1% 第35回NHK紅白歌合戦 1984年12月31日
・第4位 78.1% 第22回NHK紅白歌合戦 1971年12月31日 
・第4位 78.1% 第16回NHK紅白歌合戦 1965年12月31日 
・第7位 77.0% 第30回NHK紅白歌合戦 1979年12月31日 
・第7位 77.0% 第21回NHK紅白歌合戦 1970年12月31日 
・第7位 77.0% 第28回NHK紅白歌合戦 1977年12月31日
・第10位 76.9% 第19回NHK紅白歌合戦 1968年12月31日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1268年(文永5)蒙古の使者が来朝し、大宰府で「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」等を受け取る(新暦1月17日)詳細
1871年(明治4)蘭学者・医者伊東玄朴の命日(新暦2月20日)詳細
1912年(明治45)生理学者・東京慈恵会医科大学長名取礼二の誕生日詳細
1926年(大正15)彫刻家長江録弥の誕生日詳細
1942年(昭和17)「興亜奉公日」に代えて毎月8日を「大詔奉戴日」とすることが閣議決定される詳細
1976年(昭和51)小説家・作詞家檀一雄の命日詳細
1991年(平成3)詩人・小説家野間宏の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、東京市・九段の軍人会館で、日本少国民文化協会の設立総会が行われた日です。
 日本少国民文化協会(にほんしょうこくみんぶんかきょうかい)は、児童文化を統制・指導し、その分野での国策協力を進めるために、少年文化団体を一元化したものでした。その目的は、「皇国ノ道ニ則リ国民文化ノ基礎タル日本少国民文化ヲ確立シ以テ皇国民ノ錬成ニ資ス」とされ、同年1月の大日本青年団の設立、4月からの国民学校開始と深く関係しています。
 1937年(昭和12)に日中戦争が勃発するなかで、翌年4月1日に「国家総動員法」が公布され、同年10月には、児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達しました。1940年(昭和15)9月30日に、官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望し、12月24日には、大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催されます。
 1941年(昭和16)6月に「日本児童文化協会要綱」が最終的に決定されましたが、創立準備委員会の中で「児童」という言葉から「小国民」に変更されました。同年12月23日に九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓い、12月30日には社団法人設立の認可を受けます。
 そして、翌年2月11日の建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂において発会式が行われ、文学、舞踊、音楽、レコードの四部会共同作なる『日本のあしおと』が京橋区昭和国民学校児童の唱歌、石川漠門下の舞踊で発表されました。山本有三、城戸幡太郎、小川未明、百田宗治、波多野完治、阪本越郎、佐伯郁郎、北原白秋など著名な児童文化関係者が300名以上集まり、文学部会 (詩、童謡、童話文学、少年文学、科学読物、歴史、地理読物、翻訳文学、評論)。絵画部会(挿絵、動画、漫画、特殊研究会)、童話部会、玩具部会(玩具、人形類、節句品)、生活用品部会、紙芝居部会 (街頭紙芝居、教育紙芝居)、舞踊部会、音楽部会、出版部会、演劇部会(専門劇、学校劇、人形劇)、映画部会、畜音器、レコード部会の12部会に分かれて活動を展開します。
 東京・銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、6月より機関誌『少国民文化』を発刊、11月より月刊の「協会報」が出されました。1943年(昭和18)6月に、「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われ、9月8日には、「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われています。
 しかし、戦局の悪化に伴って活動も停滞気味となり、1944年(昭和19)3月に月刊の「協会報」が、12月には機関誌『少国民文化』が終刊となり、銀座の事務所も空襲で焼け、1945年(昭和20)2月以降は本郷の民家に移転しました。そして、太平洋戦争後の1945年(昭和20)10月頃に一片の声明も出さずに解散、12月には新聞に解散公告が掲載されて幕を閉じます。

〇日本少国民文化協会関係略年表

<1937年(昭和12)>
・7月 日中戦争が勃発する
・9月 国民精神総動員運動が開始される

<1938年(昭和13)>
・4月1日 「国家総動員法」が公布される
・10月 児童文学、心理児童学、教育学等の分野を代表する専門家たちの協力のもと、内務省警保局図書課が「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を通達する

<1940年(昭和15)>
・2月 有光社の季刊の綜合理論誌『新児童文化』が創刊される
・9月30日 官民合同発起による「児童文化新体制懇談会」が開かれ、文学、演劇、紙芝居、出版、映画など、少国民文化各分野の関係者30数名が官民合同の強力な指導機関の設置を熱心に要望する
・12月24日 大政翼賛会文化部の斡旋による官民合同の児童文化懇談会である「日本児童文化協会(仮称)設立準備懇談会」が開催される

<1941年(昭和16)>
・3月 日本児童文化協会設立の仕事の一切が情報局に移される
・6月 「日本児童文化協会要綱」の最終的な決定を見る
・8月1日 情報局講堂で日本児童文化協会設立連絡会が開催され、500数名の出席者が見守る中、事実上、協会が誕生する
・8月18日 第一回の創立準備委員会で児童という言葉が一般社会の通用語となっておらず、協会の性格を規定する上からも上田課長は「児童」の名称に異を唱え、協会の名称として他に適当のものを選定したいとする
・12月23日 九段の軍人会館で「日本少国民文化協会」の設立総会が行われ、創立発起人等の官民関係者300数名が靖国の神前で少国民文化の改善、向上、確立のために挺身することを誓う
・12月30日 社団法人設立の認可を受ける

<1942年(昭和17)>
・2月11日 建国記念日に東条英機首相や谷正政之情報局総裁隣席のもと、情報局講堂にて発会式が行われる
・2月17日 銀座三越6階に構えた事務所を拠点に、本格的に活動を始動する
・3月 少国民文化宣揚講演会(少文協主催)が開催される
・3月 誉の家の「ヨイコ」表彰式(市銃後奉公会総合会主催)が開催される
・3月 大東亜戦争と少国民展覧会(少文協主催)が開催される
・4月 少年保護記念展(少文協、司法保護協会主催)が開催される
・4月 少国民向き良い本の選び方展覧会(文学・出版・絵本の三部会の協力)が開催される
・5月 第二回少国民海洋畫展(日本海運報国団、日本海事振興会、少文協、少国民新聞主催)が開催される
・6月  少文協の機関誌『少国民文化』が発刊される
・7月 海の少国民大会が開催される
・7月 軍人援護精神昂揚の綴り方募集が行われる
・9月 『少国民進軍歌』(少文協、軍事保護院)が出される
・10月 軍人援護少国民文化大会(少文協、軍事保護院、軍人援護会主催)が開催される
・11月 月刊の「協会報」が発刊される
・11月 全国少国民ミンナウタヘ大会(少文協、日本放送協会主催/情報局、文部省後援)が開催される
・12月 大詔奉戴一周年記念大東亜少国民大会(東京朝日新聞社、東京府、市、大日本興亜同盟、少文協主催)が開催される
・12月 「少国民ちかひの大会」(少文協、朝日新聞社主催)が開催される

<1943年(昭和18)>
・2月 少国民演劇脚本募集が行われる
・2月 紙芝居企画審査が行われる
・2月 戦時下の玩具与へ方展覧会(東京)(少文協主催)が開催される
・3月 生産増強に小戦士を送る大会 少文協、東京府、市、産報、東京産報、大政翼賛会主催)が開催される
・5月 「愛国イロハカルタ」の公募・選定が行われる
・5月 少文協文学部会の機関誌『少国民文学』が創刊される
・5月7日 この日付けの一文で、理事長小野俊一は、協会が必ずしも所期の目的達成のために円滑に運営されていない現実を受け止め、協会の本質が文化統制機関、国民運動的翼賛団体、あるいはその両者を兼ねるものなのか再確認することが必要との所感を示す
・6月 「少国民海の歌」がつくられる
・6月 「必勝18年の新方針、新事業」が講じられ、母の錬成、作家の錬成、海事思想の普及、航空思想、科学技術思想、健兵、強兵思想普及、愛国子守歌の制定が行われる
・7月 海行く少国民大会(船舶運営会、日本海運協会、毎日新聞社、少文協主催)が開催される
・7月 軍人援護紙芝居競演会が行われる
・7月 海洋少国民劇幻燈脚本当選者が発表される
・8月 軍人援護紙芝居入選作品披露会が開催される
・8月 鉱山戦士慰問作品(少文協、鉱山統制会主催)が選定される
・9月8日 「協会が真に決戦に即応する少国民文化の士気高揚指導に目的事業の方向を凝集せしめる」ため、定款の変更が行われる
・9月 少国民海の展覧会(少文協主催)が開催される
・11月 第二回大東亜少国民ミンナウタヘ大会が開催される
・12月 軍人慰問帖展示会が開催される
・12月 少国民文化報国挺身隊の結成式が開催される

<1944年(昭和19)>
・1月 「愛国子守歌」(少文協、大日本婦人会、朝日新聞社主催)が募集される
・2月 幼児科学玩具の募集が行われる
・2月 大東亜少国民結集大会(少文協主催)が開催される
・3月 月刊の「協会報」が終刊となる
・3月 少国民総進軍大会(少文協主催)が開催される
・5月 少国民海軍大会(少文協、海軍協会東京都支部主催)が開催される
・6月 文化財展示実演会(空襲挺身活動用)が開催される
・7月 「少国民海洋絵画」(少文協、船舶運営会、日本海運協会、大日本海洋連盟共同主催)が公募される
・9月 少国民歌の歌詞募集が行われる
・10月 少国民絵画普及常設展が開催される
・11月 愛国子守歌発表会が開催される
・空襲が激しくなると、少文協は学童集団疎開の慰問派遣センターとしての役割を担うようになる
・12月 少文協の機関誌『少国民文化』が終刊となる

<1945年(昭和20)>
・2月以降 事務所が爆撃で焼け、持ち主が空き家になっていた本郷の民家に移転する
・10月頃 一片の声明も出さずに解散する
・12月 新聞に解散公告が掲載され、少文協は3年の歴史に幕を閉じる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1912年(大正元)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出す詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
2008年(平成20)小説家早乙女貢の命日詳細
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