ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 教育・文化

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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、「万朝報」に『レ・ミゼラブル』を黒岩涙香が翻訳した『噫無情』の連載が開始された日です。
 『噫無情』(ああむじょう)は、黒岩涙香が、ビクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』を一般読者に理解しやすく翻訳したものです。『萬朝報(よろずちょうほう)』に、1902年(明治35)10月8日~1903年(明治36)8月22日まで連載されました。
 原作の複雑な箇所を省略し、人名も戎瓦戎(原作ではジャン・バルジャン)、蛇兵太(ジャビール)、手鳴田(テナルディエ)などの登場人物を漢字で表わし、個性的な男の絡み合いと対決をストーリーの主軸として浮かび上がらせるなど、親しみやすい配慮で読書界をわかせています。単行本は。1906年(明治39)に、前・後篇に分けて東京・扶桑堂から出版されました。

【登場人物対照表】

<噫無情>……………………………………………<レ・ミゼラブル>
戎瓦戎(ぢやん、ばるぢやん)……………………ジャン・ヴァルジャン
彌里耳(みりえる)/僧正…………………………ミリエル
華子(はなこ)………………………………………ファンチーヌ
小雪(こゆき)/華子の娘…………………………コゼット
手鳴田(てなるだ)/旅館主人……………………テナルディエ
疣子(いぼこ)/手鳴田の娘………………………エポニーヌ
痣子(あざこ)/手鳴田の娘………………………アゼルマ
三郎(さぶらう)/手鳴田の息子…………………ガヴローシュ
門八(もんぱち)/手鳴田の手下…………………モンパルナス
斑井(まだらゐ)/市長……………………………マドレーヌ
蛇兵太(じやびやうた)/警察部長………………ジャヴェール
星部(ほしべ)/馭者の老人………………………フォーシュルヴァン
馬十郎(うまじふらう)/被告……………………シャンマチウ
本田圓(ほんだまるし)/士官……………………ポンメルシー
守安(もりやす)/本田圓の息子…………………マリユス
眞部(まなべ)/守安の親しい老人………………マブーフ
桐野(きりの)/守安の祖父………………………ジルノルマン
エンジラ/一揆軍の首領……………………………アンジョルラス

〇黒岩涙香(くろいわ るいこう)とは?

 明治時代から大正時代に活躍した、小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリストです。江戸時代後期の1862年(文久2年9月29日)に、土佐国安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)において、土佐藩郷士の父・黒岩市郎と母・信子の次男として生まれましたが、本名は周六と言いました。
 幼少時には、藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)で英語力を身につけます。その後17歳で上京し、成立学舎や慶應義塾に入学しましたが、卒業には至りませんでした。折からの自由民権運動に参加し、1882年(明治15)に、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」に関する論文を書いて、官吏侮辱罪に問われ有罪となり、投獄されて労役に服します。同年に創刊された『絵入自由新聞』に入社し、2年後には主筆となって、論文や探偵小説を掲載して活躍しました。
 1889年(明治22)に、『都新聞』に移り、多くの小説を書いて、評判となります。しかし、社長と対立して退社後、1892年(明治25)に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊しました。
 同誌は、黒岩の『鉄仮面』ボアゴベイ原作(1892~93年)、『白髪鬼』マレー・コレリ原作(1893年)、『幽霊塔』ベンジスン夫人原作(1899~1900年)などの翻案小説連載と上流階級の腐敗を暴露したセンセーショナルなスキャンダル記事によって人気を博し、大衆新聞として一躍東京一の発行部数となります。さらに、日清戦争後は、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦、石川三四郎などの論客を迎えて、進歩的な論陣を張り、1901年(明治34)には、社会救済を目指す理想団と称する団体を組織し、社会改良運動を起こそうとしました。
 一方で、五目並べを組織化して「連珠(聯珠)(れんじゅ)」と命名、1904年(明治37)に東京連珠社を設立し段位制を制定、自ら初代名人となって高山互楽を名乗り、『聯珠真理』(1906年)を刊行したりしています。ところが、日露戦争(1904~05年)に際しては、それまで非戦論を唱えていた黒岩が、時局の進展にともない開戦論に転じたため、社員内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが連袂退社することになりました。
 それからも、大正初期の憲政擁護運動や1914年(大正3)のシーメンス事件では政府攻撃のキャンペーンを張りましたが、続く大隈内閣を擁護したことから、不評を招きます。晩年は、長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業したりしましたが、1920年(大正9)10月6日、肺癌のため東京において、59歳で亡くなりました。

☆「萬朝報」(よろずちょうほう)とは?

 黒岩涙香が主筆を務めていた「都新聞」の社長と対立して退社後、1892年(明治25)に東京で朝報社を設立して、同年11月1日に創刊した日刊新聞です。「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」の編集方針のもとに小型4ページの紙面に盛りこまれた多様な上流社会のスキャンダル記事や娯楽記事、涙香の翻訳小説で都市中・下流層の人気を博しました。
 1893年(明治26)に山田藤吉郎の経営していた「絵入自由新聞」(1882年9月創刊)と合併、以後は黒岩が編集、山田が経営実務を担当します。第三面に社会記事をはでに取り扱い「三面記事」の語を生み、1900年(明治33)頃から内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客を迎え、進歩的色彩の強い言論新聞となりました。
 日露戦争(1904~05年)開戦前には、非戦論を唱えましたが、黒岩が開戦論に転じたため、内村、幸徳、堺らは退社します。その後、報道体制の確立にも後れをとったため、新聞界の主流から次第に離れ、大正政変では憲政擁護を主張して一時的に人気を回復したものの、第2次大隈重信内閣を支持してから勢力を失い、1920年(大正9)10月6日の黒岩涙香の死後は衰退しました。
 1923年(大正12)9月1日の関東大震災で大打撃をうけ、1940年(昭和15)に「東京毎夕新聞」に吸収され、廃刊となっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

641年(舒明天皇13)第34代の天皇とされる舒明天皇の命日(新暦11月17日)詳細
1874年(明治7)万国郵便連合(最初は一般郵便連合)が発足する(世界郵便デー)詳細
1885年(明治18)日本が「メートル条約」に加盟する詳細
1897年(明治32)小説家大佛次郎の誕生日詳細
1905年(明治38)平民社が最初に解散する詳細
1945年(昭和20)GHQが「必需物資の輸入に関する覚書」(SCAPIN-110)を出す詳細
在京新聞5紙(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)に対し、GHQによる事前検閲が開始される詳細
1952年(昭和27)黒澤明監督の映画『生きる』が封切りされる詳細
1989年(平成元)千葉県千葉市の幕張新都心に幕張メッセ(千葉県日本コンベンションセンター国際展示場)が開業する詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に、日本美術報国会(会長:横山大観)の解散が決定された日です。
 日本美術報国会(にほんびじゅつほうこくかい)は、大政翼賛会文化部が文部省と情報局との協力のもと、太平洋戦争翼賛のために、全日本美術作家を一丸とする社団法人として設立されました。この日の創立総会には、発起人280余名が参集し、日本画家横山大観が会長に就任、4つの部会(日本画・油絵・彫塑・工芸)を設け、第一部(日本画)野田九浦部会長、山口蓬春幹事長、第二部(油絵)辻永部会長、木村荘八幹事長、第三部(彫塑)石井鶴三部会長、加藤顕清幹事長、第四部(工芸)高村豊周部会長、山崎覚太郎幹事長がそれぞれ就任、これらが理事となりますが、その他に芸術院会員の各部から一名づつが理事に就任します。
 1937年(昭和12)7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争へ突入し、同年9月には、「輸出入品等特別措置法」により、軍需に対する必要性を基準に生産・販売・消費・輸出入が統制され、不要不急物資の輸入が禁止され、1938年(昭和13)4月1日の「国家総動員法」の公布によって、絵具や彫刻制作のための銅を含めた資材の使用制限が行なわれるようになりました。同年には不足金属回収運動によって、既存の銅像が供出されることも行われます。
 この中で、同年9月に日本塑像家連盟、1940年(昭和15)10月に工芸美術作家協会、同年11月に美術団体連盟など、洋画家、日本画家、彫刻家、工芸家たちはそれぞれ自主規制のための翼賛的な団体を組織して、制作のための資材の確保に努めました。一方、1939年(昭和14)4月に陸軍美術協会が設立され、同年7月には同会主催で「第一回聖戦美術展」が上野の東京府美術館で開催されたのをはじめ、数々の翼賛美術団体により、多くの展覧会(献画報国日本画展、海軍従軍画家展、聖戦従軍画家展、紀元2600年奉賛展覧会など)が行われていきます。
 それらの流れを集約する形で、1943年(昭和18)5月に日本美術及工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)が発足するに至りました。この二つは、表裏一体の組織として、「彩管(=絵具)報国」を旗印に戦争美術の振興を推進、美術家はこれらの組織に属さなければ、作品制作のための資材配給を得られないという状況に追い込まれます。
 戦争中は活動が続けられましたが、戦後の1945年(昭和20)10月4日の理事会で解散することに決定しました。

〇大政翼賛会とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織です。総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会

・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1707年(宝永4)宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日)詳細
1716年(享保元)儒学者・政治家新井白石が自叙伝『折たく柴の記』を起筆する(新暦11月17日)詳細
1872年(明治5)官営模範工場の富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日)詳細
1876年(明治9)言語学者・国語学者・随筆家新村出の誕生日詳細
1877年(明治10)詩人・医師伊良子清白の誕生日詳細
1941年(昭和16)「臨時郵便取締令」が公布され、外国郵便を開封検閲するようになる詳細
1945年(昭和20)GHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)を出す詳細
1951年(昭和26)いわゆるポツダム命令の一つとして、「出入国管理令」が公布(同年11月1日施行)される詳細
1976年(昭和51)俳人・医師(医学博士)高野素十の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、永井隆著『この子を残して』が、講談社より刊行された日です。
 『この子を残して』(このこをのこして)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)4月30日脱稿し、9月25日に講談社より刊行されベストセラーとなった、永井隆著の随筆です。その内容は、長崎市の原爆爆心地に近い長崎医科大学での原爆投下直後の状況と自身が重傷を負い、妻を亡くしながらも、被爆者の救護活動に当たる様子を記録した手記でした。
 2人の愛児に書き遺した感動の書で、自分の子供を残して死んでゆく悔しさと、自分の専門にかかわる病気と戦争で死ぬ悔しさを訴えたものです。この本を書いて3年後に、著者は亡くなりました。
 尚、1983年(昭和58)には、木下惠介監督・脚本、松竹配給により映画化されています。

〇『この子を残して』の冒頭部分

 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
 ――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。
 ――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。というのは、その当時満州事変が始まったばかりで、どうやら日本が大戦争をひき起こしそうな気配がうかがわれたからであった。それで、この子の母と結婚するときには、前もってこのことを詳しく話し、万事承諾の上で家庭をもった。
 ハンブルグには放射線の犠牲となり、職務による原子病患者として死んだ百余名の世界中の学者の記念碑があって、その人びとの名は真理探求の道に倒れた科学の殉教者として刻んである。しかし、私は命の惜しい普通の人間だから、とにかく死ぬより生きているほうが好きだった。早死にしてその学者たちの仲間に加えられるよりは、一日でも長く生きて、好きな研究を一つでも多く仕上げ、家庭的には孫の顔をみて、わが後をつぐものは大丈夫だと安心をして、よいおじいさんとして、ゆっくり大往生をとげたいと願っていた。そのうえ、原子放射線によってひき起こされる原子病の苦しみは、並み大抵の生やさしいものではなく、生身をちぎるばかりの苦痛があるものと知っていては、なるべくならば、かかりたくないと思うのが人情であろう。だから私は、原子病の予防にはずいぶんと細かく気をつかった。生まれつき気の弱い、びくびくもので、学校時代には落ちるのが怖さに鉄棒体操のできないほどの私であった。原子病を怖がったのは言うまでもない。
 このごろではレントゲン器械も良くなって、発生管球は金属でよく包まれ、小さな窓から必要なレントゲン線の束だけが出るようになっているので、あまり危なくないが、昔は私たちは裸管球を使ったもので、それらは四方へ向かって恐ろしいレントゲン線を放射していた。この放射線は物体に当たると、さらに二次放射線を発生散乱する。この散乱線がまたも物体に当たると、そこからさらに放射線を出す。このために放射線室の中は管球の焦点から出てくる主放射線のほかに、おびただしい二次散乱線が前後左右から、あたかも十字砲火のように、飛び交う。
 この放射線の細胞破壊力はすばらしいもので、一定量ではガンのような病気を治すが、量を過ごすと健康な部分を病気に変えてしまう。こうして起こる原子病を防ぐために、私たちはいつも放射線の量を正確に測定していて、決して量を過ごさぬように気をつけている。だから今では、専門家が取りあつかうかぎり、放射線によって患者に迷惑をかけることはない。
 放射線は鉛のような重い金属でさえぎられるから、防護の目的にはよく鉛が用いられる。患者の体に放射するときには必要以外の部分を鉛板や含鉛ゴム板で被い隠す。放射線室の壁や床や天井に鉛板を張って外部へ漏れないようにする。配電盤の前に鉛ガラスの衝立を置いて技師を護る。患者の傍らについて診療する医師は含鉛ゴム製の前掛、手袋、長靴や鉛ガラス製の眼鏡でものものしく身を護る。しかし、こんな鉛の甲を身につけていては重くて身動きもできないから、完全防衛というわけにはゆかず、背中のほうとか、二の腕とか、もものあたりは普通裸で出ている。管球から出る主放射線のほうはそれで十分防げるが、後ろのほうや横から来る二次散乱線を防ぐことはできない。この二次散乱線の量は主放射線の量に比べたらいちじるしく少ないものではあるけれども、長い時間には大した量に達するわけである。たとい一日の勤務中に受ける放射線量は少なくても、毎日々々連続働いて五年、十年とたつうちには、肉体の組織がいつしか破壊されて、ここに職業病としての原子病が起こってくる。それは皮膚ガン、悪性貧血、慢性白血病、肺硬化、不妊などである。

(以下略)

 「青空文庫」より

☆永井隆(ながい たかし)とは?

 昭和時代に活躍した医学者・随筆家です。明治時代後期の1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれました。
 松江中学校を経て、松江高等学校に進み、1928年(昭和3)に卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学します。1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。
 1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。
 1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。
 同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。

<永井隆の主要な著作>

・『生命の河』(1948年)
・『この子を残して』(1948年)
・『長崎の鐘』(1949年)
・『花咲く丘』(1949年)
・『ロザリオの鎖』(1949年)
・『乙女峠』(1951年)

☆永井隆関係略年表

・1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれる
・1908年(明治41)秋 父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現在の雲南市三刀屋町)に移り住む
・1920年(大正9) 飯石小学校を優等で卒業し、島根県立松江中学校へ入学する
・1925年(大正14) 松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学する
・1928年(昭和3) 松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学する
・1931年(昭和6)3月29日 母・ツネが脳溢血で急逝する
・1932年(昭和7) 長崎医科大学を卒業し、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻する
・1932年(昭和7)11月8日 助教授に就任した末次逸馬の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組む
・1933年(昭和8) 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍する
・1934年(昭和9)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰する
・1934年(昭和9)6月 洗礼を受け、洗礼名をパウロとする
・1934年(昭和9)8月 森山緑と結婚する
・1937年(昭和12) 長崎医科大学の講師に就任する
・1937年(昭和12)7月 日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征する
・1940年(昭和15)2月 日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章する
・1940年(昭和15)4月 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任する
・1944年(昭和19)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される
・1945年(昭和20)6月 被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける
・1945年(昭和20)8月9日 長崎市への原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たる
・1946年(昭和21)1月 長崎医科大学教授に就任する
・1946年(昭和21)7月 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなる
・1946年(昭和21)11月17日 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行なう
・1948年(昭和23)4月30日 随筆『この子を残して』を脱稿する
・1948年(昭和23)9月25日 随筆『この子を残して』が講談社より刊行される
・1948年(昭和23)10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる
・1949年(昭和24)1月30日 『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行される
・1949年(昭和24)5月27日 昭和天皇に拝謁する
・1949年(昭和24)7月 歌謡曲『長崎の鐘』が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売される
・1949年(昭和24)9月30日 長崎医科大学教授を退官する
・1949年(昭和24)12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける
・1950年(昭和25)9月23日 『長崎の鐘』が松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開される
・1950年(昭和25)5月14日 ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される
・1951年(昭和26)5月1日 長崎市において、白血病のため43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

769年(神護景雲3)宇佐八幡宮神託事件が起きる(新暦10月28日)詳細
893年(寛平5)菅原道眞撰と伝えられる『新撰万葉集』上巻が編纂される(新暦11月7日)詳細
1075年(承保2)公卿・関白・太政大臣藤原教通の命日(新暦11月6日)詳細
1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトがシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1936年(昭和11)「帝国在郷軍人会令」が公布され、私的機関だった帝国在郷軍人会が陸海軍所管の公的機関となる詳細
1954年(昭和29)日本中央競馬会(JRA)による中央競馬が、東京競馬場、京都競馬場において開催される詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細
2015年(平成27)第70回国連総会で「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択される詳細
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beikokudai2jikyouikushisets
 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、第2次米国教育使節団が報告書を提出した日です。
 米国教育使節団(べいこくきょういくしせつだん)は、昭和時代中期の連合国軍占領下、1946年(昭和21)と1950年(昭和25)に、日本の教育再建のため、連合国最高司令部(GHQ)の要請に基づいて、アメリカ政府から派遣された教育使節団です。第1次教育使節団は、1946年(昭和21)の3月5日と7日に分けて、アメリカのG. D.ストッダードを団長とした27名が来日し、日本の教育事情を調査研究したのち、3月30日に連合国最高司令官に第1次報告書を提出し、4月7日に連合国最高司令部(GHQ)から全文が公表されました。
 その報告書序論で、「教師の最善の能力は、自由の空気のなかにおいてのみ十分に現される。この空気をつくりだすことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。子供のもつ測り知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。」と、アメリカ自由主義の教育理念を中心に据え、教育の近代化についての諸提案を行なっています。その内容は、6年制小学校と3年制下級中等学校における9か年の無月謝制義務教育および男女共学制、3年制上級中等学校における無月謝制、男女共学制、希望者全員入学制の実現、修身・歴史教科書の改訂、保健体育や職業教育の重視、ローマ字の採用、教育行政制度として地方分権型の公選制教育委員会、教師養成の水準向上、成人教育の充実、高等教育の拡大などとなっていました。
 この報告書は、戦前の国家主義教育を批判すると共に、戦後の教育改革の方向を指示し、改革の基本となります。また、1950年(昭和25)8月27日には、第2次アメリカ教育使節団5名が来日し、新しい国際情勢に基づいて、9月22日に第2次報告書を提出しました。

〇米国教育魔使節団関係略年表

<1946年(昭和21)>
・3月5日 第1次教育使節団の先発組が来日する
・3月7日 第1次教育使節団の後発組が来日し、計27名となる
・3月30日 連合国最高司令官に第一次報告書を提出する
・4月7日 連合国最高司令部(GHQ)から全文が公表される
・8月 教育刷新委員会が、内閣直属の諮問機関として設置される

<1950年(昭和25)>
・8月27日 第2次アメリカ教育使節団5名が来日する
・9月22日 第2次報告書を提出する

☆教育使節団のメンバー

<第1次教育使節団>(27名)

・ジョン・N・アンドルウス(John N. Andrews) - 使節団軍部渉外関係官
・ハロルド・ベンジャミン(Harold Benjamin) - 連邦教育局事務官。第二次使節団にも参加
・ゴードン・T・ボウルス(Gordon T. Bowles) - 下院議員
・レオン・カルノフスキー(Leon Carnovsky) - シカゴ大学主事
・ウィルソン・コムプトン(Wilson Compton) - ワシントン州立大学総長
・ジョージ・S・カウンツ(Geroge S. Counts) - コロンビア大学教授、米国教育連盟副会長
・ロイ・J・デフェラリー(Roy J. Deferrari) - アメリカカトリック大学(英語版)事務総長
・ジョージ・W・ディーマ(George W. Diemer) - ミズーリ州立師範大学長。第二次使節団にも参加
・カーミット・イービー(Kermit Eby) - 米国産業別組織会議研究教育部長
・フランク・N・フリーマン(Frank N. Freeman) - カリフォルニア大学教育学部長
・ヴァージニア・C・ギルダースリーヴ(Virginia C. Gildersleeve) - バーナード・カレッジ主席教授
・ウィラード・E・ギヴンス(Willard E. Givens) - 全国教育連盟書記長。第二次使節団団長
・アーネスト・R・ヒルガード(Ernest R. Hilgard) - スタンフォード大学心理学部長
・フレデリック・G・ホックウォルト(Frederick G. Hochwalt) - 全国カトリック教育連盟委員長。第二次使節団にも参加
・ミルドレッド・マカフィー・ホートン(Mildred McAfee Horton) - ウェルズリー大学長
・チャールズ・S・ジョンソン(Charles S. Johnson) - テネシー州フィスク大学心理学教授
・アイザック・L・カンデル(Issac L. Kandel) - コロンビア大学比較教育学教授
・チャールズ・H・マックロイ(Charles H. McCloy) - アイオワ大学教育学部長
・E・B・ノートン(E. B. Norton) - アラバマ州教育局長
・T・V・スミス(T. V. Smith) - シカゴ大学哲学教授・中佐
・デイヴィット・ハリソン・スティーヴンス(David Harrison Stevens) - ロックフェラー財団慈善部長
・ポール・B・スチュアート(Paul B. Stewart)
・アレクサンダー・J・ストダード(Alexander J. Stoddard) - フィラデルフィア督学官
・ジョージ・D・ストッダード(団長)(George D. Stoddard, Chm.) - イリノイ大学名誉総長、ニューヨーク州教育長官
・W・クラーク・トロウ(W. Clark Trow) - ミシガン大学心理学教授
・パール・A・ワナメーカー(Pearl A. Wanamaker) - ワシントン公立学校督学官。第二次使節団にも参加
・エミリー・ウッドワード(Emily Woodward) - ジョージア州教育局員

<第2次教育使節団>(5名)
・ハロルド・ベンジャミン
・ジョージ・W・ディーマ
・フレデリック・G・ホックウォルト
・パール・A・ワナメーカー
・ウイラード・E・ギヴンス(団長)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1939年(昭和14)登山家で女性初のエベレスト登頂者田部井淳子の誕生日詳細
1945年(昭和20) GHQが「日本に与うる放送遵則(ラジオコード)」(SCAPIN-43)を出す詳細
GHQが「公衆衛生対策に関する覚書」(SCAPIN-48)を出す詳細
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1968年(昭和43)第3宮古島台風により宮古島で最大瞬間風速79.8mを記録する詳細
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1986年(昭和61)安中公害訴訟の和解で、東邦亜鉛が住民に4億5,000万円を賠償することと「公害防止協定書」が成立する詳細
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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、津田梅子が女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立し、塾長となった日です。
 津田梅子(つだ うめこ)は、日本最初の女子留学生で、女子教育家、女子英学塾(現在の津田塾大学)の設立者です。幕末明治維新期の1864年(元治元年12月3日)に、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)において、佐倉藩士・津田仙の二女として生れましたが、本名はむめ(後に梅子と改名)と言いました。
 1871年(明治4)に、岩倉具視遣外使節一行に加わり、日本初の女子留学生5人の一人として渡米、翌年には、ワシントンDCのチャールズ・ランマン家に預けられ、コレジエト・インスティチュート(私立の初等教育機関)に通い英語やピアノを学びます。1873年(明治6)に自分の意志でキリスト教の洗礼を受け、1877年(明治10)には、コレジエト・インスティチュートを卒業し、アーチャー・インスティチュート(私立女学校)へ進学、ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学びました。
 1882年(明治15)に同校を卒業し日本へ帰国、伊藤博文邸で住み込みの家庭教師として約半年働き、1883年(明治16)には、築地海岸女学校(青山学院大学の前身)で英語を教えます。1885年(明治18)に伊藤博文の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師となり、1886年(明治19)には、同校教授となりました。
 1889年(明治22)に2度目のアメリカ留学をし、ブリンマーカレッジで生物学を専攻、1892年(明治25)には、修学を終え帰国、華族女学校に復職しています。1893年(明治26)にトーマス・ハント・モーガン博士との共同執筆者の論文「蛙の卵の定位」がイギリスの学術雑誌に掲載され、梅子は欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性となり、明治女学院講師も務め、1898年(明治31)には、女子高等師範学校(後の東京女子高等師範学校、現在のお茶の水女子大学)教授を兼任、万国婦人連合大会日本婦人代表として出席し、ロンドン、パリ、米国を経て帰国しました。
 1900年(明治33)に女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立、塾長となり、梅子と改名、1901年(明治34)に「英学新報」を創刊、1903年(明治36)には、「専門学校令」が公布され、女子英学塾が「社団法人女子英学塾」となります。1905年(明治38)に日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立され初代会長に就任、1913年(大正2)に世界キリスト教学生大会出席のため渡米、1915年(大正4)には、勲六等宝冠章を受章しました。
 1917年(大正6)に発病し、聖路加病院入院、塾長を辞任、1927年(昭和2)に勲五等瑞宝章を受章したものの、1929年〈昭和4〉8月16日に、神奈川県鎌倉郡鎌倉町において、脳出血のため、64歳で亡くなっています。

〇津田梅子関係略年表(明治5年までの日付は旧暦です)

・1864年(元治元年12月3日) 江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)において、佐倉藩士・津田仙の二女として生れる
・1871年(明治4) 岩倉具視遣外使節一行に加わり、日本初の女子留学生5人の一人として渡米する
・1872年(明治5) ワシントンDCのチャールズ・ランマン家に預けられ、コレジエト・インスティチュート(私立の初等教育機関)に通い英語やピアノを学ぶ
・1873年(明治6) 自分の意志でキリスト教の洗礼を受ける
・1877年(明治10) コレジエト・インスティチュートを卒業し、アーチャー・インスティチュート(私立女学校)へ進学、ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ
・1882年(明治15) アーチャー・インスティチュートを卒業し日本へ帰国し、伊藤博文邸で住み込みの家庭教師として約半年働く
・1883年(明治16) 築地海岸女学校(青山学院大学の前身)で英語を教える
・1885年(明治18) 伊藤博文の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師となる
・1886年(明治19) 華族女学校教授となる
・1889年(明治22) 2度目のアメリカ留学をし、ブリンマーカレッジで生物学を専攻する
・1892年(明治25) プリンマー・カレッジ(米国)選科での修学を終え帰国、華族女学校に復職する
・1893年(明治26) トーマス・ハント・モーガン博士との共同執筆者の論文「蛙の卵の定位」がイギリスの学術雑誌に掲載され、梅子は欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性となり、明治女学院講師も務める
・1898年(明治31) 女子高等師範学校(後の東京女子高等師範学校、現在のお茶の水女子大学)教授を兼任、万国婦人連合大会日本婦人代表として出席し、ロンドン、パリ、米国を経て帰国する
・1900年(明治33) 女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立、塾長となり、梅子と改名する
・1901年(明治34) 「英学新報」を創刊する
・1903年(明治36) 「専門学校令」が公布され、女子英学塾が「社団法人女子英学塾」となる
・1905年(明治38) 日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立され初代会長に就任する
・1913年(大正2) 世界キリスト教学生大会出席のため渡米する
・1915年(大正4) 勲六等宝冠章を受章する
・1917年(大正6) 発病し、聖路加病院入院、塾長を辞任する
・1927年(昭和2) 勲五等瑞宝章を受章する
・1929年〈昭和4〉8月16日 神奈川県鎌倉市において、脳出血のため、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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