ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 経済

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、日本で初めて、公害メーデーが全国で開かれた日です。
 公害メーデー(こうがいめーでー)は、労働組合の全国・地方組織と幅広い公害団体・市民団体がいっしょになって取り組まれた統一行動です。1970年(昭和45)には、経済成長のひずみとして爆発したさまざまな公害を告発する住民の動きが急速に高まり、この統一行動に結実しました。
 この日には、全国64会場で農漁民、地域住民、労働者など広範な人々が参加して「公害を絶滅しよう」と、全国統一行動が行われ、「青空と緑を取り返し、国民の命と健康を守ろう」というスローガンが掲げられます。このような取り組みが背景となり、「公害国会」(1970年11月25日に召集された臨時国会)開催と1971年(昭和46)の環境庁の発足や1973年(昭和48)の「公害健康被害補償法」の成立へと繋がりました。

〇日本の公害関係略年表

・1885年頃 東京市深川区(現・東京都江東区)の浅野セメント(現・太平洋セメント)深川工場の煙突からの降灰が問題化する
・1890年頃 足尾鉱毒事件 - 原因企業:古河鉱業(現・古河機械金属)
・1893年 別子銅山(愛媛県)で、銅の精錬排ガスによる煙害により被害を受けた農民と精錬所の間で紛争が発生する
・1910年代頃~昭和戦後期 イタイイタイ病(四大公害病の一つ) - 原因企業:三井金属鉱業
・1903年 大阪アルカリ事件 - 肥料工場から発生した亜硫酸ガスによって農作物の被害が発生する
・1907年 日立鉱山(茨城県) - 製錬時に発生する亜硫酸ガスの煙害が深刻化する
・1937年頃 安中公害訴訟 - 原因企業:東邦亜鉛
・1956年頃 水俣病(四大公害病の一つ) - 原因企業:チッソ
・1958年 江戸川漁業被害 - 原因企業:本州製紙(現・王子製紙)
・1960年代~1972年 四日市ぜんそく(四大公害病の一つ)
・1965年 新潟水俣病(四大公害病の一つ) - 原因企業:昭和電工
・1969年 大阪空港訴訟 - 大阪国際空港(伊丹空港)の航空機騒音をめぐって近隣住民が国を相手取って訴訟を提起する
・1970年 光化学スモッグが東京で初めて確認され、以降、注目されるようになる
・1970年 田子の浦港ヘドロ公害 - 製紙会社からの排水によるヘドロ公害。地元住民、沿岸漁業組合による製紙会社4社への告発する
・1970年代 スパイクタイヤによる粉塵公害が問題となる(1988年に製造・販売が中止される)
・1970年代 西名阪道路公害訴訟 道路高架橋からの低周波音による健康影響(めまい,頭痛,睡眠障害など)が近傍住民に多発する
・1971年 土呂久砒素公害 - 宮崎県高千穂町土呂久地区の砒素焼きをしていた鉱山の周囲に砒素公害が発生していることが告発される
・1974年 名古屋新幹線訴訟 - 新幹線の走行による騒音・振動に対し沿線住民が新幹線の運行差止を請求した訴訟が起きる(1986年に和解成立)
・1975年 東京都江戸川区六価クロム廃棄事件
・1975~90年 豊島事件 - 香川県豊島で産業廃棄物処理業者が有害物質を含んだ廃棄物を不法に埋め立て、悪臭、水質汚濁、土壌汚染などを引き起こす(2000年公害調停成立)
・1982~90年代 川崎公害訴訟(1999年に和解成立)
・1988年 尼崎公害訴訟 - 1999年企業との間で和解が成立、2000年国・道路公団との間で和解が成立する
・1989年 名古屋南部大気汚染公害訴訟(2001年国・企業との和解が成立)
・1996年 東京大気汚染訴訟(2007年国・都・道路公団・自動車メーカー7社と和解が成立)
・2000年 荏原製作所(藤沢工場)引地川ダイオキシン汚染事件が起きる
・2003年 神栖ヒ素事件 - 茨城県神栖町(現・神栖市)で井戸水を上水道として使用していた家庭でヒ素中毒が発生する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する詳細
1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1910年(明治43)白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港する詳細
1927年(昭和2)評論家・児童文学作家古田足日の誕生日詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、雑炊食堂に代って、都内13ヵ所に都民食堂が登場した日です。
 都民食堂(とみんしょくどう)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)11月25日に、雑炊食堂に代って、都内に設置された食堂です。1942年(昭和17)、戦時下において、食糧事情が逼迫すると、市中の食堂は外食券を持つ者だけに食事を提供する外食券食堂が中心となりましたが、この制度外で外食券を持たない者に食事を提供する場として、1944年(昭和19年)4月10日からは雑炊食堂が制度化されました。
 東京都内では上野松坂屋、浅草松屋などのデパートや百貨店の食堂も雑炊食堂に衣替えするなど、約150軒を数えます。提供される雑炊は規格化され、米5勺(約50mL)に野菜や魚介類を3~4品を煮込み、出来上がり量2合5勺(約25mL)、120~130匁(450~487.5g)を基準とし、定価は場所により変動したものの、20~30銭とされました。
 1944年(昭和19)11月25日に、雑炊食堂は都民食堂となり、1945年(昭和20)に、外食券食堂に切り変わりました。しかし、1951年(昭和26)に、外食券制度は廃止され、都内では民生食堂の制度が開始されています。

〇戦時下から戦後占領期の食糧・外食政策の推移

<1941年(昭和16)>
・1月 農林省は「米穀割当配給制実施要綱(案)」をまとめる
・4月1日 六大都市で米穀割当配給制度(米穀配給通帳制)と外食券制(1日2合3勺)が実施される

<1942年(昭和17)> 
・2月21日 「食糧管理法」が公布される
・3月13日 「食糧管理法」施行によって、米穀配給通帳制は六大都市に限らず消費地全体で実施されることとなる

<1944年(昭和19)>
・4月10日 規制が強化され、外食券食堂は外食者専用食堂として外食券を持たない者は締め出し、食券無しでも食事がとれる雑炊食堂の制度が残される
・11月25日 雑炊食堂に代って、都民食堂が登場する

<1945年(昭和20)> 
・都民食堂は、外食券食堂に切り変わる

<1947年(昭和22)>
・7月1日 「飲食営業緊急措置令」(政令第118号)が公布され、外食券食堂、旅館、喫茶店を除く料飲店は営業は停止となる

<1949年(昭和24)>
・5月7日 食糧事情に改善の兆しが見えると「飲食営業緊急措置令」が廃止され、「飲食営業臨時規整法」が公布され、外食券食堂以外の飲食店も都道府県知事の許可を受ければ営業できるようになる

<1950年(昭和25)>
・5月1日 コメ以外のパン、うどんなどが統制から外れ、外食券なしで食べられるようになる

<1951年(昭和26)>
・外食券制度が廃止され、都内では、民生食堂の制度を開始する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国連総会で定められた「女性に対する暴力撤廃の国際デー」の日詳細
1253年(建長5)鎌倉幕府第5代執権北條時頼が建長寺を創建し落慶法要を挙行(新暦12月24日)詳細
1557年(弘治3)戦国武将毛利元就が子の隆元・元春・隆景に「三子教訓状(十四箇条の遺訓)」を記す(新暦12月15日)詳細
1819年(文政2)江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の誕生日(新暦1820年1月10日)詳細
1876年(明治9)福澤諭吉著『学問のすゝめ』の最終刊・第17篇が刊行される詳細
1931年(昭和6)平凡社が『大百科事典』の刊行を開始する詳細
1936年(昭和11)ドイツのベルリンで「日独防共協定」が調印される詳細
1970年(昭和45)小説家三島由紀夫の命日(憂国忌)詳細
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 今日は、江戸時代前期の承応2年に、玉川上水の羽村~四谷大木戸間の掘鑿が完工した日ですが、新暦では1654年1月4日となります。
 玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた用水路で、神田上水、千川上水と共に江戸三上水の一つでした。江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代の1653年 (承応2) に、町人・清右衛門の建議を受けて、同年4月4日に庄右衛門・清右衛門兄弟が、多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工します。
 2度の失敗を経て、同年11月16日に、羽村~四谷大木戸間の掘鑿が完工します。総奉行松平信綱のもとに1654年(承応3年6月20日)に、この区間が竣工し、江戸市中への通水が開始され、翌年に四谷大木戸~江戸城虎ノ門前までが完成しました。
 これ以後は、配水路が次々に延長されていって、江戸の南部方面に配水されます。多摩川の水を羽村(現在の東京都羽村市)で取水し、拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の東京都新宿区)間の約43kmは、自然流下により導水する開渠で、ここからは、石樋や木管で江戸城・武家屋敷・庶民の居住地等に給水されました。
 その後、野火止(のびどめ)、青山、三田、千川の各分水が設けられ、飲料水あるいは灌漑用水として利用されます。庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられ、その経営を請け負って、玉川両家で世襲されました。
 しかし、1739年(元文4)両家とも役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となります。明治時代になっても使用され、1898年(明治31)に東京に改良水道が完成した後も、1965年(昭和40)まで淀橋浄水場への導水路として利用され、現在は立川市砂川から東村山市浄水場へ送水されるようになりました。
 これに伴い、小平地点より下流部分は流水がとだえましたが、東京都の施策により1986年(昭和61)に清流が復活し、開渠部分の約30.4kmが、2003年(平成15)に国の史跡に指定されています。
 以下に、1895年(明治28)4月建立の「水道碑記」(所在地:東京都新宿区内藤町87)の原文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「水道碑記」1895年(明治28)建立(所在地:東京都新宿区内藤町87)

<原文>

(表面)
                従三位侯爵徳川家達篆額
詩曰瞻彼洛矣維水泱泱聖人之設都也以水為急蓋以人須水不可一日欠也徳川氏之開府
于江戸也諸侯会同工商簇聚者殆一百万地窄不能尽容乃塡海為陸而地無清泉民龥渇将
軍秀忠深患之乃親騎旁索四郊多摩郡有一沼水觱沸嘗之味甘大悦乃命工人浚汚泥鑿田
畝東導四里有半至関口村置閘築堰導至小石川埋石地下作闇溝踰神田川至小川街分為
両岐一過東神田瀉柳原溝一至神田橋分注城内百邸本流踰竜閑橋過常盤橋外到京橋此
間分二派一注銀街馬喰街入浅草溝一注本街折至堀留過小舟小網街至箱崎入大河人民
各捐私金自引地下闇溝如布網千区百街無処不注是為神田水道将軍自命曰井頭謂市井
之源也而水猶未足将軍家綱更開玉川水道玉川発源甲斐山梨郡東流三十八里入海家綱
擢市尹神尾備前幹事備前挙川傍富民荘左門清右門二人不別設官吏二人精工事測道遠
近度地高低預算経費六千五百両備器具傭役夫承応三年四月既肇羽村鑿渠八尺広十二
尺設閘若干以備暴溢之虞東導十余里至四谷費用不足二人以私金継之不復稟求埋木桶
作闇溝一如井頭水道至麴街分四流一下赤阪至虎門外分之三方東者入桜田門注西城外
諸区瀉呉服橋南者泝京橋滙八町堀木挽街入大河西者注芝百街入金杉海第二流注平河
永田霞関数街第三第四流入半蔵門一注西城一入大城為官園瀑布風光添趣余流環為城
溝十一月工事告竣闇溝長若干埋木桶若干無一所欠家綱嘉賞賜二人姓玉川給禄二百石
列之士伍云嗚呼水道之益于都下実莫大旱不枯雨不溢源源混混灕然不止三百年于今民
不病一日之渇且此水流遠性和百万人民不病癩疾疥癬為恵也大如玉川二氏尽力于此不
少為労亦捐金無吝色其事為後法其利及百世可謂偉也若神田水道雖有粗記之者不悉費
金多寡及役夫之数不可得而審為可惜焉余閲旧志略知其顚末恐歳月之久功績湮没後人
無可考因不顧不文乃記其大概与同志者合力刻石以垂不朽云
明治十八年四月              薩摩   肝付兼武撰
              内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書
                             井亀泉刻字


(裏面)
 水道記念碑之裏銘
此碑成矣碑之告成原是所
出於良人西座真治之発起
也真治徇業而不惜斡旋多
年支出不貲有志之醵金不
充真治資力尽不董業而逝
焉真治臨死無他事遺妾以
此一事妾感奮鏤肺醵私財
以建設之時在明治廿八年
臘之某日嗚呼妾之微衷慰
霊於九泉之下併記発起之
誰何云爾
  未亡西座ふく識之

☆玉川上水関係略年表(日付は旧暦です)

・1653年 (承応2年1月13日) 江戸幕府が、町人・清右衛門が建議した多摩川からの江戸への導水路(玉川上水)の着工を許可する
・1653年 (承応2年4月4日) 庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工する
・1954年(承応2年11月16日) 羽村~四谷大木戸間の掘鑿が完工する
・1654年(承応3年6月20日) 総奉行松平信綱のもとにに、羽村~四谷大木戸間が竣工し、江戸市中への通水が開始される
・1655年(明暦元年) 四谷大木戸~江戸城虎ノ門前までが完成する
・1655年(明暦元年) 分水の一つ、野火止用水が開削される
・1659年(万治2年) 維持管理費用として水上修復料銀の徴収が始まる
・1660年(万治3年) 分水の一つ、青山上水が開設される
・1664年(寛文4年) 分水の一つ、三田上水が開削される
・1696年(元禄9年) 分水の一つ、千川上水が完工する
・1739年(元文4年) 玉川両家が共に玉川上水役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となる
・1898年(明治31年) 東京に改良水道が完成する
・1901年(明治34年) 東京の上水用としては廃止される
・1965年(昭和40年) 淀橋浄水場廃止まで、導水路として利用される
・1986年(昭和61年) 東京都の施策により、小平地点より下流部分の清流が復活する
・2003年(平成15年) 開渠部分の約30.4kmが国の史跡に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1638年(寛永14)第111代の天皇とされる後西天皇の誕生日(新暦1638年1月1日)詳細
1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1937年(昭和12)「愛国国債」が発行され、郵便局窓口で売り出される詳細
1945年(昭和20)「ユネスコ憲章」が採択(翌年11月4日発効)され、際連合教育科学文化機関(ユネスコ)設置が決まる詳細
1946年(昭和21)「当用漢字表」が内閣告示される詳細
「現代かなづかい」が内閣告示される詳細
1962年(昭和37)日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰の命日詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により、産業報国会の全国連合組織としての大日本産業報国会が解散した日です。
 大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)は、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設けられた官民共同の勤労者統制組織でした。日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まります。
 連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きました。その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達します。
 1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至りました。同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指します。
 また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行しました。1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきます。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しました。
 以下に、大日本産業報国会の創立宣言と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇大日本産業報国会創立宣言

 今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
 然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
 凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
 皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
 職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
 右宣言す。

 紀元二千六百年十一月二十三日

〇大日本産業報国会綱領

一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス

   国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1921年(大正10)「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」が国際連盟で採択・署名される詳細
1943年(昭和18)御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定が決定され、「絶対国防圏」が定められる詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細
1978年(昭和53)小説家山岡荘八の命日詳細
1992年(平成4)「世界遺産条約」が日本国内で発効する詳細
2006年(平成18)国産旅客機YS-11(日本航空機製造製)が日本エアコミューター(JAC)により、最後の旅客飛行を行う詳細

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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、 第1回国際度量衡総会が開かれ、キログラムが国際キログラム原器(IPK)の質量を基準として定義され、国際メートル原器も承認された日です。
 国際度量衡総会(こくさいどりょうこうそうかい)は、「メートル条約」に基づいて開催される、世界共通の国際単位系(SI)の定義・承認・維持を目的とする会議です。この会議の開催は4年(当初は6年)に1度、フランスのパリで行われ、他の2つの機関(国際度量衡委員会〈CIPM〉及び国際度量衡局〈BIPM〉)の上位機関と位置づけられてきました。
 会議の決定事項は、国際度量衡委員会が理事機関として執行しています。1889年(明治22)9月28日に、第1回総会が開催され、キログラムを白金とイリジウムの合金である国際キログラム原器の質量と定義し、国際キログラム原器を国際度量衡局 (BIPM) が保管することが決定され、国際メートル原器も承認されました。
 2019年(平成31)2月現在、加盟国は59か国、准加盟国/経済圏は42か国となっています。

〇国際度量衡総会年譜

・第1回(1889年) - キログラムを、白金とイリジウムの合金である国際キログラム原器の質量と定義し、国際キログラム原器を国際度量衡局(BIPM)が保管することが決定され、国際メートル原器も承認される
・第2回(1897年)
・第3回(1901年) - リットルが1キログラムの水の体積と再定義され、キログラムが質量の単位であることを明確にし、「標準重量」と標準重力加速度を定義し、重力の単位にはグラム重(重量グラム)を使用すべきとして、その定義を明確にされる
・第4回(1907年) - カラットを200ミリグラムとすることが承認される
・第5回(1913年) - 国際温度目盛が提案される
・第6回(1921年) - 「メートル条約」が改正される
・第7回(1927年) - 電気・磁気諮問委員会(CCE)が創設される
・第8回(1933年) - 電気の絶対単位の必要性が確認される
・第9回(1948年) - 「国際実用計量単位系(後の国際単位系〈SI〉)の設立が決定され、アンペア、クーロン、ファラド、ヘンリー、ジュール、ニュートン、オーム、ボルト、ワット、ウェーバが定義される
・第11回(1960年) - メートルが、光の波長に基づいて再定義され、ヘルツ、ルーメン、ルクス、テスラが採択され、新しい国際的な単位系の略称をSIとし、SI接頭語のピコ、ナノ、マイクロ、メガ、ギガ、テラが承認される
・第12回(1964年) - リットルの定義が元の1 dm3に戻され、SI接頭語のアト、フェムトが承認される
・第13回(1967年) - 秒がセシウム原子の振動に基づいて再定義され、ケルビン度をケルビンに改称し、カンデラが再定義される
・第14回(1971年) - 新しいSI基本単位であるモルを定義し、パスカル、ジーメンスを採択する
・第15回(1975年) - SI接頭語のペタ、エクサが承認された。グレイ、ベクレルが採択される
・第16回(1979年) - シーベルトが定義された。リットルの記号としてlに加えて、Lが許容される
・第17回(1983年) - メートルが光速度に基づいて再定義される
・第18回(1987年) - ジョセフソン定数KJとフォン・クリッツィング定数RKの協定値が採択された。これにより、アンペアとキログラムの新たな定義法への道が開かれる
・第19回(1991年) - SI接頭語のヨクト、ゼプト、ゼタ、ヨタが承認される
・第20回(1995年) - 補助単位とされていたラジアンとステラジアンが組立単位とされる
・第21回(1999年) - 新しいSI組立単位としてカタールが採択される
・第22回(2003年) - 小数点の表記としてコンマとピリオドの両方が同等であることが再確認される
・第23回(2007年) - ケルビンの定義が明確化される
・第24回(2011年) - プランク定数によるキログラムの定義が提案される
・第25回(2014年) - 1年前倒しで開催された。SIの再定義は、プランク定数その他の必要な定数の精度が不十分として、延期される
・第26回(2018年) - 秒、メートル、キログラム、アンペア、ケルビン、モル、カンデラの再定義が決議され、国際単位系(SI)の定義が根本的に改訂される
・第27回(2022年) - SI接頭語のロナ、ロント、クエタ、クエクトが承認され、閏秒を2035年までに廃止することを決議する

☆「メートル条約」(めーとるじょうやく)とは?

 メートル(長さ)およびキログラム(重さ)を基とする度量衡の普及統一を目的とし、1875年(明治8)5月20日に17ヶ国の代表により、フランスのパリで締結された国際条約です。14ヶ条の本文と 22ヶ条の付則と6ヶ条の過渡規定から成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度量衡委員会、国際度量衡総会(条約の議決機関、少なくとも6年に1回パリで開く)の組織・権限、原器に関する事項、条約の加入・脱退、経費の負担などを規定していました。
 1921年(大正10)の改訂により事業の拡大をはかり、電気・光・温度・時間などの諸単位をも含むことになります。さらに、1960年(昭和35)には、電離放射線も加えられました。
 日本は、1875年(明治8)5月20日に調印し、1885年(明治18)10月9日に加入しましたが、国内で公布されたのは、1886年(明治19)4月20日となり、1889年(明治22)に原器を交付されています。尚、国際メートル原器は、1960年(昭和35)にメートルの定義がクリプトン86の発光スペクトルが示す波長に基づいて変更されるまで国際標準として使用され、国際キログラム原器は、2019年(平成31)に施行されたSI基本単位の再定義により廃止されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1500年(明応9)第103代の天皇とされる後土御門天皇の命日(新暦10月21日)詳細
1629年(寛永6)江戸水戸藩屋敷に初代藩主徳川頼房による作庭(小石川後楽園)が終了、ほぼ完成する(新暦11月13日)詳細
1902年(明治35)「足尾台風」が襲来し、主に関東地方から東北地方南部にかけて大きな被害をもたらす詳細
1912年(大正元)小説家大原富枝の誕生日詳細
1926年(大正15)免疫学者石坂照子の誕生日詳細
1943年(昭和18)「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる詳細
1964年(昭和39)琵琶湖を初めて横断する琵琶湖大橋が開通する詳細
1967年(昭和42)上越線の新清水トンネルが開通する詳細
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