ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 政治・外交

zenkokufusenrengoukaiketsug
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、普選運動の高まりの中で、政党関係者、労働団体、学生団体、ジャーナリストなどが集まり、全国普選連合会が結成された日です。
 普選運動(ふせんうんどう)は、日本において、「男子普通選挙法」の獲得を目ざし、明治時代後期の1892年(明治25)~大正時代の1925年(大正14)まで行われた社会運動で、普通選挙運動とも言います。その始まりは、1892年(明治25)に大井憲太郎が普通選挙期成同盟会を設立したこととされてきました。
 紆余曲折を経て、1916年(大正5)1月に吉野作造が民本主義を広め、1918年(大正7)半ばの米騒動と11月11日第一次世界大戦休戦による世界的に民主主義の潮流に刺激された、大正デモクラシーの下で最高潮に達します。1920年(大正9)1月31日に、政党関係者、労働団体、学生団体、ジャーナリストなどが集まって全国普選連合会が結成され、2月11日には、東京で111団体、数万人の普選大示威行進が行われました。
 その後、帝国議会にたびたび法案が出されて、否決されたものの、加藤高明内閣により、「治安維持法」と引きかえに、1925年(大正14)に「普通選挙法」が制定されたことで終焉しました。しかし、女性や植民地人民を除外していたので、女性は「完全普選」を要求し、「普選から婦選へ」をスローガンになおも運動を続け、ようやく太平洋戦争後後の1945年(昭和20)12月17日の選挙法改正公布により、完全普通選挙が実現しています。

〇「全国普選連合会決議」 1920年(大正9)2月22日
 
 吾人ハ協力一致本議会ニ於テ普通選挙ノ達成ヲ期ス

  大正九年二月二十二日

   全国普選連合会

☆衆議院選挙の選挙権の推移

<1889年(明治22)>
「衆議院議員選挙法」制定当初、次の資格を満たす者とされる
 ①日本臣民の男子で年齢満25歳以上
 ②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内に本籍を定め居住し引き続き居住している
 ③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その府県内において直接国税15円以上を納め引き続き納めている

<1900年(明治33)>
改正「衆議院議員選挙法」により、次の資格を満たす者となる
 ①帝国臣民たる男子で年齢満25歳以上
 ②選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その選挙区内に住居を有し引き続き有する
 ③選挙人名簿調製の期日より前満1年以上地租10円以上又は満2年以上地租以外の直接国税10円以上若しくは地租とその他の直接国税とを通して10円以上を納め引き続き納めている

<1919年(大正8)> 
改正「衆議院議員選挙法」により、次の資格を満たす者となる
 直接国税3円以上納付の満25歳以上の男子に改められる

<1925年(大正14)> 
改正「衆議院議員選挙法」(通称:普通選挙法)により、次の資格を満たす者となる
 納税資格が撤廃され、満25歳以上の男子となる

<1945年(昭和20)>
改正「衆議院議員選挙法」により、次の資格を満たす者となる
 満20歳以上の男女となる(選挙権が拡大され、婦人参政権が認められる)

<2015年(平成27)>
「公職選挙法等の一部を改正する法律」により、次の資格を満たす者となる
 満18年以上の男女となる(18歳選挙権の実現)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1935年(昭和10)小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎の誕生日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
2007年(平成19)小説家高橋揆一郎の命日詳細
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The-City-of-Tokio01
 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、第1回官約ハワイ移民927名がシティ・オブ・トーキョー号で日本を出発した日です。
 日本からのハワイ移民(にほんからのはわいいみん)は、江戸時代後期の1860年(万延元)に、日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、ハワイ王国のカメハメハ4世が労働者供給を請願する親書を信託したことに始まります。その中で、1868年(慶応4年4月25日)に、ヴァン・リードが、サイオト号で153人の日本人を、無許可でホノルルへ送り出しましたが、翌年日本側は自国民を奪われたとして、上野景範と三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行ない、1870年(明治2)には、少なくとも男性50人、女性6人(計56人)は、「契約と実際の状況が違う」と年季明けを待たずに帰国しました。
 1871年(明治4)には、「日布修好通商条約」が締結され、1884年(明治17)には、最初のハワイ移民600人が公募されて28,000人の応募があり、その中から、翌年1月に、第1回官約ハワイ移民927名が日本からハワイへ渡ります。1886年(明治19)1月28日には、「布哇国渡航条約」が締結(同年6月2日公布)され、次々とハワイへ移民が送り込まれましたが、労働は過酷で、半ば奴隷に近かったとも言われてきました。
 1894年(明治27)の26回目の移民(計約29,000人)をもって官約移民制度は廃止され、「移民保護規則」が公布され、民間移民会社が認可されましたが、1896年(明治29)には、「移民保護法」が制定されます。その中で、日本との移民事業を行う会社が30社以上設立され、特に広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社は五大移民会社と呼ばれ、勢力を誇りました。
 1898年(明治31)に、アメリカ合衆国によって、ハワイ共和国(布哇共和国)が併合され、1908年(明治41)の「日米紳士協約」などにより日系の移民会社は全て消滅します。1924年(大正13)に「排日移民法」が成立し、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となったものの、それまでに約22万人が日本からハワイへ渡ったとされてきました。
 以下に、「布哇国渡航条約」を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇ハワイへの日本人移民関係略年表

・1860年(万延元) 日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託する
・1868年(慶応4年4月25日) ヴァン・リードは、サイオト号で153人の日本人を、無許可でホノルルへ送り出す
・1869年(明治2) 日本側は自国民を奪われたとして、上野景範と三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行なう
・1870年(明治2) 153人のうち、少なくとも男性50人、女性6人は、「契約と実際の状況が違う」と年季明けを待たずに帰国する
・1871年(明治4) 「日布修好通商条約」が締結される
・1884年(明治17) 最初のハワイ移民600人が公募される
・1885年(明治18)1月 第1回官約ハワイ移民927名がシティ・オブ・トーキョー号で日本からハワイへ渡る
・1886年(明治19)1月28日 「布哇国渡航条約」が締結(同年6月2日公布)される
・1894年(明治27) 26回目の移民をもって官約移民制度は廃止され、「移民保護規則」が公布され、民間移民会社が認可される
・1896年(明治29) 「移民保護規則」が「移民保護法」となる
・1898年(明治31) アメリカ合衆国によって、ハワイ共和国(布哇共和国)が併合される
・1903年(明治36) 日中移民のほかに、韓国人の移民を推進する
・1908年(明治41) 「日米紳士協約」などにより日系の移民会社は全て消滅する
・1924年(大正13) 「排日移民法」が成立し、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となる

☆「布哇国渡航条約」(はわいこくとこうじょうやく)とは?

 ハワイに労働移民した日本人の人権を守ることを目的として締結された、日本とハワイ王国との間の二国間条約で、「日布移民条約」とも呼ばれてきました。
 1885年(明治18)1月に、両政府の取扱いによる移民が開始され、先ず956人が甘蔗(サトウキビ)園労働者として渡航します。それを踏まえて、この条約が、1886年(明治19)1月28日に、東京において日本側全権委員の井上馨と駐日ハワイ代理公使のアーウィン(Robert Walker Irwin)との間で調印され、3月6日にハワイ国外務省において批准書交換、6月2日に公布されます。その主な内容は、「渡航ハ橫濵及ヒ「ホノルル」ノ兩港間ニ限リ之ヲ行フ」(第3条)、「渡航ハ總テ契󠄅約ニ因ルヘク又󠄂其契󠄅約ハ何年間以下ヲ期限トシ」(第4条)、「渡航人原告、被告、告訴人若クハ被告訴人ト成リ布哇國法廳ニ出訴スルトキハ布哇國政府ハ右通󠄃辯人ヲシテ右渡航人ヨリ別ニ謝金ヲ要セス其職ヲ勤メシムヘシ」(第6条)、「日本醫師ヲ應分󠄃ニ傭入レ之ニ官醫ノ資󠄄格ヲ與ヘ又󠄂之ヲシテ渡航人ノ治療ニ時々必要ト成ルヘキ地方ニ住󠄃居セシムヘシ」(第7条)などとなっていました。
 この条約に基づいてハワイに渡った移民は、「官約移民」とも呼ばれ、以後1894年(明治27)までの間に計26回行われ、約3万人が渡航しています。その後、1894年(明治27)に「移民保護規則」が公布され、さらに1896年(明治29)に、これが「移民保護法」となりました。
 以下に、「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)1886年(明治19)1月28日調印、同年6月2日公布

朕󠄁本邦󠄈人民布哇國ヘ隨意渡航ノ件ニ關シ同國政府ト締結󠄂シタル渡航條約ヲ批准シ玆ニ之ヲ公󠄃布セシム

御名 御璽

明治十九年五月三十一日

          內閣總理大臣伯爵󠄄伊藤博󠄃文󠄃
          外󠄂務大臣伯爵󠄄井上 馨

渡航條約

日本皇帝陛下ノ臣民ニシテ既ニ布哇諸島ヘ渡航シタル者𢿙多アリ又󠄂本條約ヲ以テ確認󠄃セントスル從前󠄃ノ隨意渡航方法ニ因リ向後渡航セントスル者アルヘク又󠄂日本皇帝陛下及布哇國皇帝陛下ハ右渡航人ヘ布哇國ノ憲󠄄法法律ニ遵ヒ最モ完全󠄃且有効ノ保護ヲ與ヘントノ希望󠄉アルヲ以テ右重要ノ事件ニ付條約ヲ締結󠄂センコトヲ決定セリ因テ渡航條約ヲ協議締結󠄂セシメンカ爲メ日本皇帝陛下ハ外󠄂務大臣從三位勳一等伯爵󠄄井上馨ヲ其全󠄃權委員ニ又󠄂布哇皇帝陛下ハ其代理公󠄃使󠄃兼總領事ナイト、コンマンドル、ヲフ、カラカハ勳章「ロベルト、ウヲルカー、アルウヰン」ヲ其全󠄃權委員ニ命シ雙方互ニ委任ノ書ヲ示シ其誠實適󠄃當ナルヲ認󠄃メ以テ左ノ條々ヲ合議決定セリ

第一條 本條約ノ條欵中既ニ布哇諸島ヘ渡航シタル日本皇帝陛下ノ臣民ヘ適󠄃用シ得ヘキモノハ向後渡航セントスル臣民同樣ニ之ヲ適󠄃用スヘキコトヲ雙方互ニ結󠄂約セリ

第二條 本條約ノ効カヲ存スル間其條欵ニ因リ日本皇帝陛下ノ政府ハ其臣民ノ隨意ニ布哇島ヘ渡航スルヲ許可スヘシト雖モ其國家ノ緊急󠄃若クハ臣民ノ安寧如何ニ因リ必要ト認󠄃ムルトキハ右渡航ノ都度之ヲ禁止シ又󠄂日本政府ノ獨斷ヲ以テ右渡航ヲ一般ニ制限停止シ若クハ禁止スルコトアルヘシ但日本皇帝陛下ノ政府ハ此權利ヲ猥リニ執行スヘカラス又󠄂本條約第三條ノ許可ヲ受ケ將ニ渡航セントスル者ニ對シテハ之ヲ施行セサルヘシ

第三條 本條約ヲ以テ取極タル渡航ハ橫濵及ヒ「ホノルル」ノ兩港間ニ限リ之ヲ行フヘク而シテ神奈川縣令ハ日本政府ノ名義ヲ以テ右ニ關スル諸般ノ事項ヲ處分󠄃スヘシ又󠄂布哇皇帝陛下ノ政府ニ於テハ其移住󠄃民事務局ノ特派委員ヲ任命シ之ヲ橫濵ニ在留セシムヘシ但右委員ノ任命ハ日本政府ノ認󠄃可ヲ經ヘキモノトス
右委員ハ布哇諸島ヘ渡航スヘキ日本臣民ニ關スル諸般ノ事項ニ付神奈川縣令ト通󠄃信協議スヘク加之右渡航人ヲ搭載迴送󠄃スルニ必要ノ處分󠄃ハ總テ之ヲ施行スヘシ又󠄂若シ渡航人ヲ要スルトキハ右委員ハ其都度少クモ一箇月前󠄃其旨ヲ右縣令ヘ通󠄃知シ其人員及ヒ其職業ノ種類ヲ申出ツヘク而シテ右縣令ハ其通󠄃知ニ對シ猶豫ナク日本政府ノ諾否如何ヲ囘答スヘシ但右通󠄃知ヲ缺クカ又󠄂ハ右縣令ヨリ其請󠄃求ヲ承諾スルノ囘答ナキニ於テハ前󠄃條末項ヲ適󠄃用セサルモノトス

第四條 本條約ヲ以テ取極タル渡航ハ總テ契󠄅約ニ因ルヘク又󠄂其契󠄅約ハ何年間以下ヲ期限トシ兩國政府ノ認󠄃可シタル式ニ從フヘシ
右契󠄅約ハ布哇政府ノ名義ヲ以テ其移住󠄃民事務局特派委員橫濵ニ於テ渡航人ト締結󠄂スヘク而シテ神奈川縣令ノ認󠄃可ヲ經ヘシ
右契󠄅約繼續中布哇政府ハ渡航人ニ對シ傭主ノ義務ヲ負󠄅擔スヘキヲ以テ其諸條欵ヲ正當誠實ニ履行スルノ責ニ任スヘク而シテ同政府ハ其法律ニ因リ渡航者タル日本人ヲ充分󠄃ニ保護シ且時勢ノ如何ニ係ハラス常ニ渡航人ノ幸福安寧ヲ計ルヘシ

第五條 布哇皇帝陛下ノ政府ハ本條約ニ因リ渡航スル者ヲ上等ノ乘客汽船󠄄ニ搭載シ之ニ相當ノ食󠄃物ヲ給與シ下等船󠄄客トナシ橫濵ヨリ「ホノルル」マテ無賃ニテ渡航セシムヘシ但右渡航人ノ迴送󠄃ニ供スル汽船󠄄ハ神奈川縣令ノ至當ト認󠄃ムルモノニ限ルヘシ

第六條 布哇國移住󠄃民事務局ト渡航者タル日本人ト締結󠄂シタル契󠄅約ノ條欵ヲ相當ニ履行センカ爲メ及ヒ布哇國ノ法律ニ因リ右渡航人ノ權利ヲ充分󠄃ニ保護センカ爲メ布哇皇帝陛下ノ政府ハ右契󠄅約繼續中日本語及ヒ英語ヲ談話通󠄃辯シ得ル監督人及ヒ通󠄃辯人ヲ應分󠄃ニ雇入ルヘク而シテ右契󠄅約ノ事件ニ付右渡航人原告、被告、告訴人若クハ被告訴人ト成リ布哇國法廳ニ出訴スルトキハ布哇國政府ハ右通󠄃辯人ヲシテ右渡航人ヨリ別ニ謝金ヲ要セス其職ヲ勤メシムヘシ

第七條 布哇皇帝陛下ノ政府ハ本條約ニ因リ締結󠄂シタル契󠄅約ノ繼續中渡航人ヲ治療セシメンカ爲メ日本醫師ヲ應分󠄃ニ傭入レ之ニ官醫ノ資󠄄格ヲ與ヘ又󠄂之ヲシテ渡航人ノ治療ニ時々必要ト成ルヘキ地方ニ住󠄃居セシムヘシ

第八條 布哇皇帝陛下ノ政府ハ在布哇日本外󠄂交官及其領事ヲシテ何時タリトモ故障ナク自由ニ渡航者タル日本人ト接近󠄃スルヲ得セシムヘシ而シテ右外󠄂交官及領事官ハ契󠄅約ノ誠實ニ履行セラルヽヤ否ヤヲ視察スルニ充分󠄃ノ便利ヲ得ルト其契󠄅約違󠄄背ノ場合ニ於テハ布哇國ノ法律及其地方廳ノ保護ヲ請󠄃求シ得ルトノ權利アルヘシ

第九條 布哇國ニ渡航スル日本臣民ノ安寧幸福及ヒ繁榮ハ兩政府ノ等シク希望󠄉スル所󠄃タリ故ニ不良不善無賴ノ日本人布哇國ニ到リ渡航人ノ中ニ紛󠄃議騷擾ヲ釀シ又󠄂ハ之ヲ放蕩ニ誘引シ若クハ布哇政府ノ負󠄅擔トナルヘキ者ハ同政府ニ於テ之ヲ日本ヘ送󠄃還󠄃スルハ日本政府ノ承諾スル所󠄃ナリ

第十條 本條約ハ批准ヲ經ヘク而シテ其批准書ハ成ルヘク速󠄃ニ「ホノルル」府ニ於テ交換スヘシ

第十一條 本條約ハ批准變換ノ日ヨリ直ニ執行シ五年間有効ノモノタルヘシ而シテ其後ト雖モ此條約國ノ一方ニ於テ六箇月前󠄃ノ通󠄃知ヲ以テ之ヲ廢止セントスルノ意ヲ表スルニ非サレハ尙ホ其効力ヲ存スルモノトス

右證據トシテ雙方ノ全󠄃權委員和文󠄃及ヒ英文󠄃ヲ以テ本條約ヲ調製シ玆ニ記名調印スルモノナリ

明治十九年一月二十八日西曆千八百八十六年一月二十八日於東京

                  井上   馨
                  アールダヴリユー、アーウヰン

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝阼ヲ踐ミタル日本國皇帝御名明治十九年即チ西曆一千八百八十六年一月二十八日東京ニ於テ日本國人民布哇國ヘ隨意出稼ノ件雙方全󠄃權委員ノ記名シタル條約書ヲ朕󠄁親ヲ閱覽點檢セシニ能ク朕󠄁カ意ニ適󠄃シ間然スル所󠄃ナキヲ以テ之ヲ嘉納󠄃批推ス

神武天皇即位紀󠄄元二千五百四十六年明治十九年一月二十九日東京帝宮ニ於テ親ラ名ヲ署シ璽ヲ鈐セシム

御名 國璽

奉勅    外󠄂務大臣伯爵󠄄井上 馨

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1770年(明和7)商人・随筆家・文人鈴木牧之の誕生日(新暦2月22日)詳細
1870年(明治3)「郵船商船規則」を布告、日本の商船は日章旗を掲揚するとし、日章旗規格を定める(新暦2月27日)詳細
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1998年(平成10)小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1184年(寿永3)に、源平合戦に関して、源頼朝が、後白河法皇からの平氏追討の正式な命令を受けた日ですが、新暦では3月5日となります。
 源平合戦(げんぺいかっせん)は、平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源頼朝(みなもと の よりとも)とは?

 武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

☆源平合戦関係年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1月26日 源頼朝が、後白河法皇からの平氏追討の正式な命令を受ける
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)神田松枝町大火が起き、10,673戸を焼失し、36,542人の被災者を出す詳細
1933年(昭和8)小説家・放送作家藤本義一の誕生日詳細
1944年(昭和19)内務省が「(改正)防空法」により、東京と名古屋に初の建物疎開の命令を出す詳細
1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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sugawaranomichizane01
 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、菅原道真が左遷され、大宰府へ向け京を出発した日ですが、新暦では2月16日となります。
 菅原道真(すがわら の みちざね)は、平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12年6月25日)に、参議・菅原是善の3男として生まれ、幼少の頃より詩歌に才能があったと言われてきました。
 862年(貞観4年)に式部省試を受けて及第し、数え年18歳で文章生となり、867年(貞観9年)には、文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらます。870年(貞観12年)に対策に及第し、正六位上に叙され、翌年には、玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜられました。
 874年(貞観16年)に従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜられ、877年(元慶元)には、式部少輔に任ぜられ、文章博士となります。879年(元慶3年)に従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草しました。
 宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、893年(寛平5年)に参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官そして春宮亮を兼ね、翌年には、遣唐使に任ぜられたものの建議して、これを中止します。895年(寛平7年)に、近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ね、896年(寛平8年)には、民部卿を兼ね、長女が入内して女御となりました。
 897年(寛平9年)に権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ね、899年(昌泰2年)には、右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かります。しかし、901年(延喜元年)に従二位に叙されるも、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。
 そして、903年(延喜3年2月25日)に、失意のうちに、大宰府において、数え年59歳で亡くなっています。著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがありました。
 尚、923年(延喜23年4月20日)に贈右大臣、正二位、993年(正暦4年5月20日)に正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈されています。

〇菅原道真関係略年表(日付は旧暦です)

・845年(承和12年6月25日) 参議・菅原是善の三男として生まれる
・855年(斉衡2年) 初めて詩を詠む
・862年(貞観4年) 式部省試を受け、及第し文章生となる
・867年(貞観9年) 文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらる
・870年(貞観12年) 対策に及第し、正六位上に叙さる
・871年(貞観13年) 玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜらる
・872年(貞観14年) 母の喪により解官されるものの、本官に復し渤海国王に答うる勅書を草する
・874年(貞観16年) 従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜらる
・877年(元慶元年) 式部少輔に任ぜられ、文章博士となる
・879年(元慶3年) 従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草す
・883年(元慶7年) 加賀権守を兼ねる
・886年(仁和2年) 讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任する
・888年(仁和4年) 阿衡事件につき関白藤原基経に書を呈す
・890年(寛平2年) 春に国司の任が終わって帰京する
・891年(寛平3年) 蔵人頭に補され、式部少輔に任ぜられ、左中弁を兼ねる
・892年(寛平4年) 従四位下に叙され、『三代実録』の撰修にあずかり、左京大夫を兼ねる
・893年(寛平5年) 参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官を兼ね、春宮亮を兼ねる
・894年(寛平6年) 遣唐大使に任ぜらるものの、遣唐使派遣中止を進言し、侍従を兼ねる
・895年(寛平7年) 近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ねる
・896年(寛平8年) 民部卿を兼ね、長女が入内して女御となる
・897年(寛平9年) 権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ねる
・899年(昌泰2年) 右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かる
・900年(昌泰3年) 『菅家文草』、『菅相公集』、『菅家集』を献上する
・901年(延喜元年) 従二位に叙されるも、大宰権帥に左遷され、『三代実録』完成奏上、『延喜格』撰進、『去年今夜』の詩を詠む
・903年(延喜3年) 『菅家後集』を紀長谷雄に贈るが、2月25日に、大宰府にて59歳で亡くなる
・923年(延喜23年4月20日) 贈右大臣、正二位を追贈される
・993年(正暦4年5月20日) 正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1939年(昭和14)「警防団令」(昭和14年勅令第20号)が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
1960年(昭和35)三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入する詳細
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sakuradamongainohen01
 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、「暗殺禁止令」が、明治新政府より太政官布告された日ですが、新暦では2月16日となります。
 「暗殺禁止令」(あんさつきんしれい)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年1月23日)に、明治新政府より、太政官布告された「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」のことです。幕末明治維新期には、佐幕派と尊王攘夷派の対立などにより、江戸や京都などで、多くの人々が暗殺されましたが、新政府の誕生を機に、暗殺を戒め、法によって裁くものとしたものでした。
 以下に、「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」(暗殺禁止令)を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」(暗殺禁止令)1868年2月16日(明治元年1月23日)発布

<原文>

近來於所々致暗殺候內ニ者罪狀相認死骸ニ添有之候モ不少何レモ陰惡陰謀等ヲ憤リ候而之所業ニ可有之全體不埒之者共ハ得ト吟味之上刑典ヲ以嚴重之御裁許被 仰付事ニ付太政御一新之折柄猶更御爲筋ヲ心掛公然ト可申出之處其儀無之私ニ致殺害候ハ 朝廷ヲ不憚致方ニ付右等之者有之ニ於テハ吟味之上屹度嚴刑ニ可被處候問心得違無之樣可致事

  「ウィキソース」より

<現代語訳>

最近いろいろなところで起きている暗殺事件の中には、罪状を書いて死体に添えているものも多い。どれも悪業や陰謀を憤ってのことであろう。もともと悪人はきちんと調査したうえで法律をもとに裁かれるものであるし、政治が変わったのだからなおのこと道理を守り、公に訴えなければいけないというのに、それをせず自分で殺害するのは、朝廷をおそれないやりかたである。よって、そういったことを行う者は調査したうえで間違いなく厳刑に処せられるので、間違った考えを抱かないようにすること。

☆幕末に暗殺された主要な人物

・1860年(安政7年3月3日) 江戸幕府大老・井伊直弼(桜田門外の変)
・1861年(安政7年12月4日) アメリカ人通訳・ヘンリー・ヒュースケン
・1862年(文久2年1月15日) 江戸幕府老中・安藤信正負傷(坂下門外の変)
・1862年(文久2年4月8日) 土佐藩参政・吉田東洋
・1862年(文久2年7月20日) 九条家の家士・島田正辰
・1862年(文久2年7月25日) 対馬藩江戸家老・佐須伊織
・1862年(文久2年9月2日) フランス士官・カミュ(井土ヶ谷事件)
・1863年(文久2年12月22日) 壬生藩家老・鳥居志摩
・1863年(文久3年1月22日) 儒学者・池内大学
・1863年(文久3年4月13日) 清河八郎
・1863年(文久3年5月18日) 儒学者・家里新太郎
・1863年(文久3年5月20日) 尊攘派公卿・姉小路公知(朔平門外の変)
・1863年(文久3年9月18日) 新選組局長・芹沢鴨
・1864年(元治元年7月11日) 佐久間象山
・1865年(元治元年12月8日) 尊攘派公卿・中山忠光
・1866年(慶応2年5月2日) 対馬藩佐幕派の巨頭・勝井五八郎
・1867年(慶応3年9月3日) 赤松小三郎
・1867年(慶応3年11月15日) 坂本龍馬と中岡慎太郎(近江屋事件)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1570年(永禄13)織田信長が「殿中御掟」追加5か条を室町幕府第15代将軍足利義昭に示す(新暦2月27日)詳細
1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1914年(大正3)第31帝国議会で島田三郎議員がシーメンス社の日本海軍への贈賄を追及する(シーメンス事件)詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1963年(昭和38)強い寒気の南下により北陸を中心に日本海側で猛烈な降雪があり、三八豪雪が本格化する詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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