ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 人物

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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、評論家・児童文学作家古田足日の生まれた日です。
 古田足日(ふるた たるひ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)11月29日に、愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれました。1940年(昭和15)に川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学したものの、中学4年生の時に戦時下の学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働きます。
 旧制第一高等学校を受験しましたが不合格、翌年旧制松山高等学校も受験しましたが不合格となり、1945年(昭和20)に大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学しました。しかし、1948年(昭和23)に中退し、翌年に上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となります。
 1950年(昭和25)に代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらいました。1951年(昭和26)に早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知り、1953年(昭和28)には、早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚しています。
 1954年(昭和29)に小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊、1955年(昭和30)に日本児童文学者協会常任理事に就任、翌年には、日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務めました。1959年(昭和34)に第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞、1964年(昭和39)には、雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始します。
 1966年(昭和41)に『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞、1968年(昭和43)に『モグラ原っぱのなかまたち』、1970年(昭和45)には、『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行しました。1976年(昭和51)に山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)し、1978年(昭和53)には、『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行しています。
 1980年(昭和55)に『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行、翌年の第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となりました。1993年(平成5)に「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版、1994年(平成6)には、第17回巖谷小波文芸賞を受賞しています。
 1997年(平成9)に日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任、2004年(平成16)には、戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行しました。2008年(平成20)に「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務めましたが、2014年(平成26)6月8日に、東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなっています。

〇古田足日の主要な作品

・評論集『現代児童文学論―近代童話批判』(1959年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『ぬすまれた町』(1961年)
・『宿題ひきうけ株式会社』(1966年)日本児童文学者協会賞受賞
・『モグラ原っぱのなかまたち』(1968年)
・『ロボット・カミイ』(1970年)
・『大きい1年生と小さな2年生』(1970年)
・絵本『おしいれのぼうけん』(1974年)
・『ダンプえんちょうやっつけた』(1978年)
・『さくらんぼクラブにクロがきた』(1980年)第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書

☆古田足日関係略年表

・1927年(昭和2)11月29日 愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれる
・1931年(昭和6) 与謝野晶子夫妻が村を訪問する
・1940年(昭和15) 川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学する
・1943年(昭和18) 学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働き、旧制第一高等学校を受験しましたが不合格となる
・1944年(昭和19) 旧制松山高等学校を受験しましたが不合格となる
・1945年(昭和20) 大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学する
・1948年(昭和23) 大阪外専を中退する
・1949年(昭和24) 上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となる
・1950年(昭和25) 代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらう
・1951年(昭和26) 早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知る
・1953年(昭和28) 早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚する
・1954年(昭和29) 小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊する
・1955年(昭和30) 日本児童文学者協会常任理事に就任する
・1956年(昭和31) 日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務める
・1959年(昭和34) 第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞する
・1960年(昭和35) 東京都豊島区椎名町のアパートに転居する
・1964年(昭和39) 雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始する
・1966年(昭和41) 『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞する
・1967年(昭和42) 雑誌「幼児と保育」(小学館)6月号増刊に『ロボット・カミイ』の原型を発表する
・1968年(昭和43) 『モグラ原っぱのなかまたち』を刊行する
・1970年(昭和45) 『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行する
・1971年(昭和46) 紙芝居『ロボット・カミイ』シリーズ(全4巻)刊行開始(1971~1974年刊行)する
・1974年(昭和49) 『おしいれのぼうけん』刊行。
・1976年(昭和51) 山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)する
・1978年(昭和53) 『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行する
・1980年(昭和55) 『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行する
・1981年(昭和56) 『さくらんぼクラブにクロがきた』 が第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となる
・1993年(平成5) 「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版する
・1994年(平成6) 第17回巖谷小波文芸賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任する
・2002年(平成14) 『ひみつのやくそく』を刊行する
・2004年(平成16) 戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行する
・2008年(平成20) 「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務める
・2011年(平成23) 『現代児童文学を問い続けて』を刊行する
・2014年(平成26)6月8日 東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する詳細
1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1910年(明治43)白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港する詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、医師・細菌学者秦佐八郎が亡くなった日です。
 秦佐八郎(はた さはちろう)は、明治時代前期の1873年(明治6)3月23日に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれましたが、本姓は山根でした。しかし、1887年(明治20)に同村の医家秦徳太・ツタの養子となり、秦姓となっています。
 1895年(明治28)に岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊(東京)に入営しました。1897年(明治30)には、岡山に戻って、岡山県立病院に勤務するようになります。
 1898年(明治31)に、上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事、1903年(明治36)には、国立血清薬院部長を兼任しました。1904年(明治37)に日露戦争に従軍し、南満州(現在の中国東北部)各地に赴いた後、1907年(明治40)には、国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学びます。
 その後、エールリヒ、さらにヤコビーのもとで研究し、1910年(明治43)には、サルバルサンを発見、ドイツ学会に発表後、日本へ帰国しました。1911年(明治44)にサルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受章、1912年(明治45)には、学位論文「螺旋菌病のヘモテラピー」により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与されています。
 1913年(大正2)に国産のサルバルサンを製造することに協力し、日本結核予防協会設立に参画、1914年(大正3)には、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となりました。1915年(大正4)に国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売します。
 1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じ、1926年(大正15)には、ドイツ帝国自然科学院会員に推されました。1931年(昭和6)に恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任、1933年(昭和8)には、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受けます。
 1934年(昭和9)に深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞、1935年(昭和10)には、財団法人保生会創設に参画、常務理事長となったものの、1938年(昭和13)11月22日に、東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなりました。

〇秦佐八郎の主要な著作

・エールリッヒ共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』(1910年)
・『化学療法ノ研究』(1911年)
・『サルヴァルサン療法』(1913年)
・『黴毒ノ診断 黴毒ノ療法』(1915年)

☆秦佐八郎関係略年表

・1873年(明治6)3月23日 島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれる
・1887年(明治20) 同村医家 秦徳太・ツタの養子となる
・1891年(明治24) 岡山第三高等中学校医学部に入学する
・1895年(明治28) 岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚する
・1897年(明治30) 岡山県立病院に勤務する
・1898年(明治31) 上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事する
・1903年(明治36) 国立血清薬院部長を兼任する
・1904年(明治37) 日露戦争従軍・南満州(現中国)各地に赴く
・1907年(明治40) 国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学ぶ
・1910年(明治43) ドイツ国立実験治療研究所でエールリッヒ博士を扶けてサルバルサンを発見、ドイツ学会に発表、日本へ帰国する
・1911年(明治44) サルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受ける
・1912年(明治45) 学位論文『螺旋菌病のヘモテラピー』により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与される
・1913年(大正2) 国産のサルバルサンを製造することになり、協力し、日本結核予防協会設立に参画する
・1914年(大正3) 伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となる
・1915年(大正4) 国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売する
・1920年(大正9) 慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じる
・1921年(大正10) 極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張する
・1923年(大正12) アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察する
・1926年(大正15) ドイツ帝国自然科学院会員に推される
・1928年(昭和3) ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席する
・1931年(昭和6) 恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任する
・1933年(昭和8) 帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける
・1934年(昭和9) 深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞する
・1935年(昭和10) 財団法人保生会創設に参画、常務理事長となる
・1938年(昭和13)11月22日 東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1724年(享保9)浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日)詳細
1917年(大正6)江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第5条に基づいて、「国民勤労報国協力令」が交布(施行は同年12月1日)される詳細
1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細
1945年(昭和20)「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される詳細
GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」が指令される詳細
1969年(昭和44)「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が出される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1982年(昭和57)に、地球物理学者・随筆家坪井忠二の亡くなった日です。
 坪井忠二(つぼい ちゅうじ)は、明治時代後期の1902年(明治35)9月9日に、東京府において、人類学者だった父・坪井正五郎、母・直子の次男として生まれました。東京高等師範学校附属小学校・中学校、旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に、東京帝国大学理学部物理学科に入学します。寺田寅彦に師事し、1926年(大正15)に卒業後、同大学地震研究所の助手となりました。1929年(昭和4)に東京帝国大学理学部助教授に昇任し、「地震は重力異常の場所で起こる」との新説を発表します。1933年(昭和18)に理学部地球物理学教室へ移り、翌年には、「精密測量に依りて見出サレタル地殻変動の研究」で、東京帝国大学より理学博士号を取得しました。1935年(昭和10)から翌年にかけて、欧米各国へ出張し、1941年(昭和16)には、東京帝国大学理学部教授に昇任します。1943年(昭和18)に理学部地球物理学第二講座を担当、1947年(昭和22)に測地審議会会長となり、1951年(昭和26)から日本全国約4500地点の重力測定を開始(~1954年)しました。1952年(昭和27)に「地殻の物理的性状に関する研究」で、日本学士院賞、1954年(昭和30)には、「重力測定に基く地下構造の研究」で、朝日文化賞を受賞しています。1960年(昭和35)に地震予知計画研究グループを結成、日本学士院会員となり、1961年(昭和36)には、東京大学理学部長(~1963年)となりました。1962年(昭和37)に和達清夫、萩原尊禮らと「地震予知研究計画」を取りまとめましたが、1963年(昭和38)には、東京大学を退官しています。その後、岩波新書『新・地震の話』(1967年)、岩波書店『数理のめがね』(1968年)、岩波書店『力学物語』(1970年)などの啓蒙書を刊行しました。1972年(昭和47)に勲二等授旭日重光章を受章したものの、1982年(昭和57)11月19日に、東京都において、80歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇坪井忠二の主要な著作

・『地球』(鉄塔書院 鉄塔科学叢書 1933年)
・『重力』(岩波書店 岩波全書 1935年)
・『地球の形』(日本数学物理学会 最新科学叢書1 1936年)
・『岩波講座 物理学及ビ化学・重力の測定』(岩波書店 1939年)
・『物理学実験12・地球物理及び天文学』(河出書房 1940年)
・『地震の話』(岩波新書 1941年)
・『新 地震の話』(岩波新書 1967年)
・『数理のめがね』(岩波書店 1968年/ちくま学芸文庫 2020年)
・『自然地理学・重力の測定』(地人書館 1970年)
・『力学物語』(岩波書店 1970年)
・『右と左』(サイエンス社 サイエンス叢書 1980年)

☆坪井忠二関係略年表

・1902年(明治35)9月9日 東京府において、人類学者だった父・坪井正五郎、母・直子の次男として生まれる
・1915年(大正4) 東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業する
・1920年(大正9) 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校に入学する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、同大学地震研究所の助手となる
・1929年(昭和4) 東京帝国大学理学部助教授となり、「地震は重力異常の場所で起こる」との新説を発表する
・1933年(昭和18) 理学部地球物理学教室へ移る
・1934年(昭和19) 「精密測量に依りて見出サレタル地殻変動の研究」で、東京帝国大学より理学博士を得る
・1935年(昭和10) 欧米各国の出張に出発する
・1936年(昭和11) 欧米各国より帰国する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学理学部教授となる
・1943年(昭和18) 理学部地球物理学第二講座を担当する
・1947年(昭和22) 測地審議会会長となる
・1951年(昭和26) 日本全国約4500地点の重力測定を開始する(~1954年)
・1952年(昭和27) 「地殻の物理的性状に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1954年(昭和30) 「重力測定に基く地下構造の研究」で、朝日文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 地震予知計画研究グループを結成、日本学士院会員となる
・1961年(昭和36) 東京大学理学部長(~1963年)となる
・1962年(昭和37) 和達清夫・萩原尊禮らと「地震予知研究計画」を取りまとめる
・1963年(昭和38) 東京大学を退官する
・1967年(昭和42) 岩波新書『新・地震の話』を刊行する
・1968年(昭和43) 岩波書店『数理のめがね』を刊行する
・1970年(昭和45) 岩波書店『力学物語』を刊行する
・1972年(昭和47) 勲二等授旭日重光章を受章する
・1982年(昭和57)11月19日 東京都において、80歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1975年(昭和50)MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の命日詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
1998年(平成10)気象学者藤田哲也の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、日本画家橋本関雪が生まれた日です。
 橋本関雪(はしもと かんせつ)は、明治時代前期の1883年(明治16)11月10日に、兵庫県神戸市の坂本村(現在の神戸市中央区楠木町)において、旧明石藩の儒者であった父・橋本海関、母・フジの長男として生まれましたが、本名は関一と言いました。1895年(明治28)に、湊川尋常高等小学校を中退、絵画に対する興味を持つようになり、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門、傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示します。
 1898年(明治31)に絵画修行を志して上京したものの、翌年には、神戸に戻りました。1903年(明治36)に京都市に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入り、1905年(明治38)には、東京美術研精会主催展覧会に「四面楚歌の声」を出品し、研精賞を受け、満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍しています。
 1906年(明治39)に神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行、1907年(明治40)には、神戸花隈にて従軍記念絵画展を開きました。1908年(明治41)の第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」が入選、上京して谷中清水町に住み、1910年(明治43)には、漢詩集『関雪詩稿』を出版しています。
 1913年(大正2)の第7回文展から3回連続で二等賞、1916年(大正5)の第10回文展から3回連続で特選を受賞しました。1919年(大正8)の第1回帝展から審査委員を歴任し、1931年(昭和6)にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与され、1934年(昭和9)に帝室技芸員、翌年には帝国美術院会員となります。
 1937年(昭和12)に帝国芸術院が成立し、会員に任命され、第一回新文展に「赴征」を出品しました。1939年(昭和14)にニュ-ヨーク万国博に「霜猿」を出品、第1回聖戦美術展の審査員を勤め、「江上雨来る」を出品、橋本関雪聖戦記念画展で「軍馬二題」が朝日賞を受賞、1940年(昭和15)の紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会の審査委員を務めています。
 四条派の画風に南画などの技法を加味した画風で、関西日本画壇に重きをなしましたが、1945年(昭和20)2月26日 京都府京都市において、狭心症の発作により61歳で亡くなりました。尚、中国古典に精通し、詩文も巧みで『南画への道程』(1924年)、『関雪随筆』(1925年)などの著書も残しています。

<橋本関雪代表的作品>

・「琵琶行」(1910年)白沙村荘橋本関雪記念館蔵 
・「遅日」(1913年)第7回文展二科二等賞・足立美術館蔵
・「南国」(1914年)第8回文展二等賞・姫路市立美術館蔵
・「桃源郷」(1914年)大正博覧会銀賞
・「猟」(1915年)第9回文展二等賞・白沙村荘橋本関雪記念館蔵
・「寒山拾得」(1916年)第10回文展特選・林原美術館蔵
・「睨雲林」(1917年)第11回文展特選
・「木蘭」(1918年)第12回文展特選・白沙村荘橋本関雪記念館蔵
・「意馬心猿」(1928年)京都国立近代美術館蔵
・「長恨歌」(1929年)京都市美術館蔵
・「玄猿」(1933年)東京芸術大学大学美術館蔵
・「暮韻」(1934年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・「唐犬図」(1936年)大阪市立美術館蔵
・「軍馬二題」(1939年)橋本関雪聖戦記念画展朝日賞
・「防空壕」(1942年)東京国立近代美術館蔵
・「香妃戎装」(1944年)衆議院蔵

〇橋本関雪の主要な著作

・漢詩集『関雪詩稿』(1910年)
・『南画への道程』(1924年)
・『関雪随筆』(1925年)
・『支那(しな)山水随縁(ずいえん)』(1940年)
・『白沙村人随筆』(1957年)

☆橋本関雪関係略年表

・1883年(明治16)11月10日 兵庫県神戸市の坂本村(現神戸市中央区楠木町)において、旧明石藩の儒者であった父・橋本海関、母・フジの長男として生まれる
・1890年(明治23) 神戸市湊川尋常高等小学校に入学し、傍ら父より家学(漢詩・書画など)を受ける
・1895年(明治28) 湊川尋常高等小学校を中退、絵画に対する興味を持つようになり、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門、傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示す
・1898年(明治31) 絵画修行を志して上京する
・1899年(明治32) 神戸に帰るが、父・海関は経済上の理由により兵庫県尾上村に隠棲し、関雪は自活を余儀なくされる
・1900年(明治33) 神戸美術協会主催で東宮御慶事記念展覧会が催され、「王昭君」を出品し、御前揮毫を仰せつかることとなる
・1901年(明治34) 曽根神社(高砂市)へ「管公図」絵馬を奉納、吉野へ旅行する
・1903年(明治36) 京都に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入る
・1904年(明治37) 岩見ヨネと結婚する
・1905年(明治38) 東京美術研精会主催展覧会に「四面楚歌の声」を出品し、研精賞を受け、満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍する
・1906年(明治39) 神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行、水曜会展覧会(於京都倶楽部)に出品する
・1907年(明治40) 神戸花隈にて従軍記念絵画展を開く
・1908年(明治41) 第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」が入選、上京して谷中清水町に住む
・1909年(明治42) 第3回文展に「失意」を出品、褒状を受ける
・1910年(明治43) 漢詩集『関雪詩稿』を出版、第4回文展に「琵琶行」を出品、褒状を受ける
・1911年(明治44) 第5回文展に「片岡山のほとり」「異見王達磨を送る」を出品、前者は褒状を受ける
・1912年(明治45) 第6回文展一科に「松下煎茗」を、二科に「五醍醐帝」を出品し、共に褒状を受ける
・1913年(大正2) 初めて中国大陸を遊行、船で揚子江を溯り重慶に至り、さらに上海、浙江省、蘇州、北京、満州、朝鮮などを経て6月末に帰国、京都に移り岡崎徳成橋畔に住み、第7回文展二科に「遅日」を出品、二等賞を得る
・1914年(大正3) 大正博覧会に「桃源郷」を出品、銀賞を得、第8回文展に無鑑査で「南国」と「後苑」を出品、前者は二等賞を得る
・1915年(大正4) 第9回文展に無鑑査で「猟」「狭江の六月」を出品、前者は二等賞を得、文展画稿展に「猟(画稿)」を出品、南禅寺山内金地院に移る
・1916年(大正5) 第10回文展に無鑑査で「寒山拾得図」「煉丹」を出品、前者は初めて特選となり、京都市左京区浄土寺石橋町に白沙村荘が完成し移り住む
・1917年(大正6) 第11回文展に無鑑査で「睨雲林」を出品、特選となり、金島桂華らと共に中国を旅行する
・1918年(大正7) 第12回文展に無鑑査で「木蘭」を出品、特選となり、本年より永久無鑑査の"推薦"となる
・1919年(大正8) 栖鳳門下小品展に「松下弾琴」「桃果」などを出品、橋本関雪小品展が開催され、第1回帝展の審査委員をつとめ、「郭巨」「遊踪四題」を出品する
・1920年(大正9) 第2回帝展の審査委員をつとめ、「木蘭詩」「林和靖」を出品、東京博覧会の審査委員をつとめ、「木蘭詩巻」を出品する
・1921年(大正10) 長男節哉を伴って、神戸より北野丸にてヨーロッパ旅行に出発、フランス、ドイツ、オランダ、イタリアなどを巡って帰国する
・1922年(大正11) 平和記念東京博覧会の日本画の審査委員をつとめ、第4回帝展(於竹之台10・14~11・20)の審査委員をつとめ、「聖地の旅」 を出品、個展に「閑庭春色」「留園一角」「小院春夕」など44点を出品する
・1923年(大正12) 日本美術展の審査委員を務め、竹内栖鳳の竹杖会を脱会する
・1924年(大正13) 帝展美術院委員となり、第5回帝展の審査委員を務め、個展に「船」「連甍吐月」「春江惜別」「楊妃酔酒」「荒村薄暮」「春暖」などを出品する
・1925年(大正14) 第5回中央美術展の鑑査員を務め、関雪自撰30題展を開催、中央美術10周年記念展に「採蓴」を出品、第6回帝展に「相牛」「摘瓜図」を出品する
・1926年(大正15) 第7回中央美術展の鑑査員を務め、8人の日中画家で古画の研究と鑑賞を目的として"解衣社"を結成、第1回聖徳太子奉讃展に日本画の代表委員として、「僊女図」を出品、郷土美絵画展に「漁樵問答」を出品、解衣社第1回展に「湘江煙雨」「看馬」、金冬心筆『墨竹図』を出品、個展を開催、西村五雲、西山翠嶂、堂本印象、福田平八郎、菊池契月と6人で『六合会』を創立し、第1回帝展に、「長安一片月」を出品する
・1927年(昭和2) 婦人と娘を伴って二度目のヨーロッパ旅行に行きヨーロッパ数カ国を巡り、明治大正名作展に「遅日」「木蘭詩」が出品され、第9回帝展に「意馬心猿」を出品する
・1928年(昭和3) パリ日本美術展に「木蘭詩」「瀟湘」を出品し、後者はフランス政府買い上げとなり、美之国五周年記念展に「闌春」を出品、第10回帝展の審査委員を務め、「長恨歌」を出品する
・1929年(昭和4) 第2回聖徳太子奉讃展に「波ニ鷲」(久邇宮家襖)を出品、ローマ日本美術展に「猿猴図」「暖日の図」を出品、第11回帝展に「訪隠図」を出品する
・1930年(昭和5) 夫人同伴で中国に旅行し、西湖、鎮江を経て天台山に登り、「トレド-市、ニューヨーク市日本美術展」に「木蘭詩巻」を出品する
・1931年(昭和6) 個展に「談山論水」「想思」「仙山採薬」「赤壁之図」「観音の図」など20数点を出品、竹内栖鳳、横山大観、松岡映丘らと共にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与される
・1932年(昭和7) 妻・ヨネが東京において亡くなり、満州国皇帝に『老松鷲の図』を献上する
・1933年(昭和8) 鄭考胥満州国総理が白沙村荘に、関雪の父海関を訪ね「細雨春帆」を贈り、大礼記念京都美術館開館記念に「夕月」を出品する
・1934年(昭和9) 個展を開催、近代美術館建設期成会の発起人に参加、第15回帝展に「暮韻」を出品、宮内省買い上げとなり、帝室技芸員に任命される
・1935年(昭和10) 川路柳虹讃詩画展に「山鳩」を出品、東京府美術館開館一〇周年記念展に「長恨歌」を出品、第1回京都市美術展の展覧会委員を務め、帝国美術院会員に任命され、個展を開催、父・海関が亡くなる
・1936年(昭和11) 改組第1回帝展に「唐犬図」を出品、6人で『興遊会』を結成し、その第1回展を開き、冨田渓仙、横山大観、鏑木清方、川合玉堂ら14人の会員とともに帝国美術院に辞表を提出、、大倉集古館創立20周年記念店に「暖日」が出品される
・1937年(昭和12) 盲腸炎を患い、個展を開催、第2回京都市美術展に「夏草」を出品、帝国芸術院が成立し、会員に任命され、第一回新文展に「赴征」を出品する
・1938年(昭和13) 第3回京都市美術展の審査委員をつとめ、第17回朝鮮美術展の日本画の審査委員をつとめ、個展を開催、新篁会展に「兎」を出品する
・1939年(昭和14) 紐育(ニューヨーク)万国博国内展示に『霜猿』を出品、ニュ-ヨーク万国博に「霜猿」を出品、第1回聖戦美術展の審査員をつとめ「江上雨来る」を出品、橋本関雪聖戦記念画展で「軍馬二題」が朝日賞を受賞する
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会の審査委員をつとめ、「柳蔭馬を洗ふ」を出品、紀元二千六百年奉祝美術展覧会の展覧会委員をつとめる
・1941年(昭和16) 個展を開催、第6回京都市美術展の審査委員をつとめ、第2回聖戦美術展の審査員をつとめ、第4回新文展に「夏夕」を出品する
・1942年(昭和17) 朝日新聞社の委託により、吉川英治とともに南方の空を飛び、第5回新文展に「防空壕」を出品する
・1943年(昭和18) 第6回新文展に「霧」を出品する
・1944年(昭和19) 第2回大東亜戦争美術展に「黄浦江の朝」を出品、平安神宮御鎮座五十年平安遷都千百五十年奉祝京都市美術展の審査員をつとめ、陸軍献納画展に「霜鷹」を出品、戦時特別文展に「香妃戎装」を出品する
・1945年(昭和20)2月26日 京都府京都市に於て、狭心症の発作により61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1920年(大正9)日本画家福王寺法林の誕生日詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1945年(昭和20)角川源義が角川書店を設立する詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、昭和時代の1968年(昭和43)に、化学者で日本で2番めの女性理学博士だった黒田チカが亡くなった日です。
 黒田チカ(くろだ ちか)は、明治時代前期の1884年(明治17)3月24日に、佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれました。1901年(明治34)に、佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就きましたが、翌年には、上京して女子高等師範学校理科へ進みます。
 1906年(明治39)に同校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得ましたが、翌年には、女子高等師範学校の研究科に入学し、1909年(明治39)に研究科を修了し、同校の助教授となりました。1913年(大正2)に、女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究します。
 1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得て、翌年に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となりました。1918年(大正7)に天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表、1921年(大正10)には、英国オックスフォード大学へ国費留学します。
 1923年(大正12)に2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始めました。1929年(昭和4)に「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与され、1936年(昭和11)には、第1回真島賞 (日本化学会) を受賞します。
 大平洋戦争後の1949年(昭和24)に新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任しました。1952年(昭和27)にタマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となり、翌年(昭和28)には、特許を得てケルチンCとして市販されます。
 1958年(昭和33)に日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任し、1959年(昭和34)には、紫綬褒章を受章しました。1965年(昭和40)には、勲三等宝冠章を受章したものの、1968年(昭和43)11月8日に、福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙されています。
 尚、1999年(平成11)には、東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設されました。

〇黒田チカ関係略年表

・1884年(明治17)3月24日 佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれる
・1901年(明治34) 佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就く
・1902年(明治35) 上京して女子高等師範学校理科へ進む
・1906年(明治39) 女子高等師範学校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得る
・1907年(明治40) 女子高等師範学校の研究科に入学する
・1909年(明治39) 女子高等師範学校研究科を修了し、東京女子高等師範学校の助教授となる
・1913年(大正2) 女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究する
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得る
・1917年(大正6) 東京駒込に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となる
・1918年(大正7) 天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表する
・1921年(大正10) 英国オックスフォード大学へ国費留学する
・1923年(大正12) 2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める
・1929年(昭和4) 「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与される
・1936年(昭和11) 第1回真島賞 (日本化学会) を受賞する
・1949年(昭和24) 新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任する
・1952年(昭和27) タマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となる
・1953年(昭和28) 特許を得てケルチンCとして市販される
・1958年(昭和33) 日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任する
・1959年(昭和34) 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39) 黒田を主人公とするNHKの子供向けドラマは「たまねぎおばさん」が放送される
・1965年(昭和40) 勲三等宝冠章を受章する
・1968年(昭和43)11月8日 福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙される
・1999年(平成11) 東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設される
・2013年(平成25) 日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日)詳細
1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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