ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 人物

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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、文芸評論家・国文学者中島河太郎の亡くなった日です。
 中島河太郎(なかじま かわたろう)は、大正時代の1917年(大正6)6月5日 鹿児島県鹿児島市平之町において生まれましたが、本名は中嶋馨(なかじま かおる)と言いました。鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て、1939年(昭和14)に旧制第七高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国文学科へ進み、中世説話文学を専攻します。
 1941年(昭和16)に卒業後、中学校教諭となり、旧制東京都立第七中学校から東京都立墨田川高等学校の教諭を勤めました。一方で、1945年(昭和20)に柳田國男の説話会に参加、1947年(昭和22)には、「探偵新聞」に連載した『日本推理小説略史』で江戸川乱歩に注目され、ミステリー小説評論家としての本格的な活動を開始します。
 1949年(昭和24)に個人誌「黄色の部屋」の発行を開始(~1954年)、1952年(昭和27)11月から、『探偵小説辞典』を「宝石」に掲載開始しました。1955年(昭和30)にこれにより、第1回江戸川乱歩賞を受賞、1960年(昭和35)に『推理小説ノート』を刊行、1965年(昭和40)には、『日本推理小説史 第一巻』が第18回日本推理作家協会賞の候補となります。
 1966年(昭和41)に『推理小説展望』で、第19回日本推理作家協会賞を受賞、和洋女子大学および同短期大学部の国文学科講師に着任しました。1968年(昭和43)に助教授、1970年(昭和45)に教授に昇任し、1980年(昭和55)には、同大学文家政学部の学部長となります。
 1985年(昭和60)に日本推理作家協会理事長となり、1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1991年(平成3)には、和洋女子大学学長、和洋女子短期大学学長となりました。1996年(平成8)に同大学学長を退任し、名誉教授となり、1997年(平成9)には、ミステリー文学館の初代館長に就任しています。
 1998年(平成10)に第2回日本ミステリー文学大賞を受賞したものの、翌年5月5日に、腎不全により、81歳で亡くなりました。尚、推理小説研究の第一人者として知られましたが、柳田國男、正宗白鳥の研究でも高く評価されています。

〇中島河太郎の主要な著作

・『推理小説ノート』(1960年)
・『推理小説展望』(1965年)第19回日本推理作家協会賞受賞
・『日本推理小説史』全3巻(1993~96年)
・『探偵小説辞典』(1998年)第1回江戸川乱歩賞受賞
・『柳田國男研究文献目録』

☆中島河太郎関係略年表

・1917年(大正6)6月5日 鹿児島県鹿児島市平之町において生まれる
・1939年(昭和14) 旧制第七高等学校を卒業する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学文学部国文科を卒業、中学校教諭となる
・1945年(昭和20) 柳田國男の説話会に参加する
・1947年(昭和22) 「探偵新聞」に連載した『日本推理小説略史』で江戸川乱歩に注目される
・1949年(昭和24)10月 個人誌「黄色の部屋」の発行を開始する
・1952年(昭和27)11月 『探偵小説辞典』を「宝石」に掲載開始する
・1954年(昭和29)10月 個人誌「黄色の部屋」発行が終了する
・1955年(昭和30) 『探偵小説辞典』で、第1回江戸川乱歩賞を受賞する
・1959年(昭和34)2月 『探偵小説辞典』の宝石掲載が終了する
・1960年(昭和35) 『推理小説ノート』を刊行する
・1965年(昭和40) 『日本推理小説史 第一巻』が第18回日本推理作家協会賞の候補となる
・1966年(昭和41) 『推理小説展望』で、第19回日本推理作家協会賞を受賞、和洋女子大学および同短期大学部の国文学科講師に着任する
・1968年(昭和43) 和洋女子大学助教授に昇任する
・1970年(昭和45) 和洋女子大学教授に昇任する
・1980年(昭和55) 和洋女子大学文家政学部の学部長となる
・1985年(昭和60) 日本推理作家協会理事長となる
・1988年(昭和63) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1991年(平成3) 和洋女子大学学長、和洋女子短期大学学長となる
・1996年(平成8) 和洋女子大学学長を退任し、和洋女子大学名誉教授となる
・1997年(平成9) ミステリー文学館の初代館長に就任する
・1998年(平成10) 第2回日本ミステリー文学大賞を受賞する
・1999年(平成11)5月5日 腎不全により、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1829年(文政12)囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策の誕生日(新暦6月6日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15)に、日本最初の女帝で、第33代の天皇とされる推古天皇が生まれた日ですが、新暦では5月21日となります。
 推古天皇(すいこてんのう)は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15年4月9日)に、欽明天皇の第三皇女(母は蘇我堅塩媛の娘)として生まれましたが、幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といいました。571年(欽明天皇32年)に、皇太子(後の敏達天皇)妃となり、576年(敏達天皇5年)には、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられます。
 585年(敏達天皇14年8月15日)に敏達天皇が亡くなり、587年(用明天皇2年)には、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立しました。592年(崇峻天皇5年11月15日)に蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺されると、593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)に豊浦宮で、第33代とされる天皇(日本最初の女帝)に即位し、同年4月10日には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、馬子と共に天皇の補佐の体制が確立します。
 その中で、小墾田宮に都を移し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15年)に、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り(第2回遣隋使)、607年(推古天皇15年)には、法隆寺を創建するなどしました。また、620年(推古天皇28年)には、厩戸皇子や馬子に、『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂させています。
 しかし、622年(推古天皇30年)に厩戸皇子が亡くなり、626年(推古天皇34年)に蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる中で、628年(推古天皇36年3月7日)に、皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなりました。その後、竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたものの、後に河内国の磯長山田(しながのやまだ)陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に移されています。

〇推古天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・554年(欽明天皇15年4月9日) 欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれる
・571年(欽明天皇32年) 皇太子(敏達天皇)妃となる
・576年(敏達天皇5年) 前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられる
・585年(敏達天皇14年8月15日) 敏達天皇が亡くなる
・587年(用明天皇2年) 大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立する
・592年(崇峻天皇5年11月15日) 蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺される
・593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日) 第33代とされる天皇となる
・593年(推古天皇元年4月10日) 甥の厩戸皇子が摂政となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る(第2回遣隋使)
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する(第3回遣隋使)
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 厩戸皇子が『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子が馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、厩戸皇子が数え年49歳で亡くなる
・626年(推古天皇34年) 蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる
・628年(推古天皇36年3月7日) 皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

752年(天平勝宝4)奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われる(新暦5月26日)詳細
1584年(天正12)小牧・長久手の戦いの中の長久手の戦いが行われる(新暦5月18日)詳細
1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1911年(明治44)東京の吉原大火で、死者8名、負傷者100名以上、全焼6,189戸、半焼69戸の被害を出す詳細
1921年(大正10)「職業紹介法」(大正10年法律第55号)が公布(同年7月1日施行)される詳細
1922年(大正11)日本最初の農民組合の統一組織である日本農民組合が創立される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、歴史学者・文学博士井上光貞の亡くなった日です。
 井上光貞(いのうえ みつさだ)は、大正時代の1917年(大正6)9月19日に、東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれました。成蹊高等学校を経て、1940年(昭和15)に、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、坂本太郎、和辻哲郎に師事します。
 1942年(昭和17)に卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)しました。1946年(昭和21)に東京帝国大学文学部助手となり、1949年(昭和24)に教養学部講師、1950年(昭和25)に同学部助教授に昇任します。
 1957年(昭和32)にデリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインドを訪問(~1958年6月)、1958年(昭和33)には、インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国しました。1959年(昭和34)に「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得、1961年(昭和36)には、東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任、ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任し、翌年帰国します。
 1964年(昭和39)に、平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となり、1967年(昭和42)には、東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当しました。1968年(昭和43)に東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組み、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長、1969年(昭和44)に多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となり、1974年(昭和49)には、東京大学文学部長に就任しています。
 1978年(昭和53)に東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となり、1980年(昭和55)に紫綬褒章を受章、1981年(昭和56)には、国立歴史民俗博物館初代館長に就任しました。戦後の日本古代史の研究をリードし、古代国家の形成や律令継受の過程などの解明に努めたものの、1983年(昭和58)2月27日に、順天堂大学病院において、肺炎により、65歳で亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈されています。尚、学生時代から短歌を詠み、没後一周忌に歌集『冬の海』が編まれました。

〇井上光貞の主要な著作

・『日本古代史の諸問題 大化前代の国家と社会』(1949年)
・『日本史』(1952年)
・『大化改新』(1954年)
・『日本史の人びと 1 とおい昔花の都』(1956年)
・『日本浄土教成立史の研究』(1956年)
・『日本国家の起源』(1960年)
・『日本史提要』(1961年)
・『日本古代国家の研究』(1965年)
・『日本古代の国家と仏教』(1971年)
・『日本の歴史3 飛鳥の朝廷』(1974年)
・『古代史研究の世界』(1975年)
・『日本古代仏教の展開』(1975年)
・『東大三十余年』(1978年)
・『日本古代思想史の研究』(1982年)
・『わたくしの古代史学』(1982年)
・『日本古代の王権と祭祀』(1984年)
・『天皇と古代王権』(2000年)

☆井上光貞関係略年表

・1917年(大正6)9月19日 東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれる
・1924年(大正13) 学習院初等科に入学する
・1930年(昭和5) 成蹊高等学校尋常科へ入学する
・1934年(昭和9) 成蹊高校高等科(のちの成蹊大学)理科乙類へ入学する
・1935年(昭和10) 腎臓炎に罹る
・1937年(昭和12) 成蹊高校高等科文科乙類2年に編入、夏に再び腎臓炎に罹る
・1940年(昭和15) 成蹊高校高等科文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科へ入学する
・1942年(昭和17) 卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学文学部助手となる
・1948年(昭和23) 教員適格判定審査に合格する
・1949年(昭和24) 東京大学教養学部講師となる
・1950年(昭和25) 東京大学教養学部助教授に昇任する
・1957年(昭和32) デリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインド訪問(~1958年6月)する
・1958年(昭和33) インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国する
・1959年(昭和34) 「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得する
・1961年(昭和36) 東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任。 8月 ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任(1962年7月帰国)する
・1964年(昭和39) 平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となる
・1967年(昭和42) 東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当する
・1968年(昭和43) 東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組む、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長となる
・1969年(昭和44) 多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となる
・1974年(昭和49) 東京大学文学部長に就任する
・1976年(昭和51) 心臓発作に倒れ、順天堂大学附属病院に入院(3月退院)する
・1977年(昭和52) 順天堂大学病院再入院、心臓バイパス手術を受け、4月退院する
・1978年(昭和53) 東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となる
・1980年(昭和55) 紫綬褒章を受章する
・1981年(昭和56) 国立歴史民俗博物館初代館長に就任する
・1983年(昭和58)2月27日 順天堂大学病院において、肺炎により、65歳て゜亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、探検家・測量家間宮林蔵が亡くなった日ですが、新暦では4月13日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

〇間宮林蔵主要な著作

・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

☆間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著『日本』で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1858年(安政5)越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)「日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、建築家・工学博士内井昭蔵が生まれた日です。
 内井昭蔵(うちい しょうぞう)は、1933年(昭和8)2月20日に、東京市神田区において、建築家の父・内井進の子として生まれ、旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の県立熊谷高校)を経て、1956年(昭和31)に、早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業し、工学研究科修士課程に進みました。1958年(昭和33)に修士課程修了後、菊竹清訓建築設計事務所に勤務したものの、1967年(昭和42には辞めて独立し、内井昭蔵建築設計事務所を設立しています。
 1971年(昭和46)に、「桜台コートビレッジ」で、第22回日本建築学会賞作品賞、翌年には、神奈川県建築コンクール優秀賞を受賞、また、「宮崎台ビレジ」で、神奈川県建築コンクール佳作賞を受賞、日本建築家協会理事(~1974年)となりました。1979年(昭和54)に日本建築家協会副会長(~1981年)となり、1982年(昭和57)には、アメリカ建築家協会名誉会員となっています。
 1988年(昭和63)に新日本建築家協会副会長・広報委員長(~1990年)となり、1989年(平成元)には、第45回日本芸術院賞(世田谷美術館)を受賞しました。1993年(平成5)に京都大学工学部教授に就任、1996年(平成8)に退官後は、滋賀県立大学環境科学部教授となります。
 戦後の日本建築史を代表する建築家の一人とされ、数々の賞を受賞しましたが、2002年(平成14)8月3日に、東京都大田区の病院において、69歳で亡くなり、勲三等旭日章を受章しました。尚、著書には、『健康な建築 - イマジネイティブな生活空間を求めて』(1985年)、『内井昭蔵のディテール 生活空間としての美術館・世田谷美術館』(1987年)、『ロシアビザンチン - 黄金の環を訪ねて(建築巡礼)』(1991年)などがあります。

〇内井昭蔵の主要な建築設計作品・著書

<建築設計>
・「桜台コートビレッジ」(1971年)第22回日本建築学会賞作品賞、神奈川県建築コンクール優秀賞、第1回BELCA賞LLB部門、第4回横浜まちなみ景観賞受
・「宮崎台ビレジ」(1972年)神奈川県建築コンクール佳作賞受賞
・「川島テキスタイルスクール」(1975年)第16回BCS賞受賞
・「銀座対鶴館ビル」(1976年)日本サインデザイン協会賞銀賞受賞
・「身延山久遠寺宝蔵」(1977年)第18回BCS賞、第24回レイノルズ賞 (A.I.A)受賞
・「東京YMCA野辺山青少年センター」(1978年)第3回吉田五十八賞受賞
・「西谷の家 小倉邸」(1978年)神奈川県建築コンクール優秀賞受賞
・「新発田市民文化会館・公民館」(1981年)第22回BCS賞受賞
・「世田谷美術館」(1986年)第27回毎日芸術賞、第18回BCS賞、第45回日本芸術院賞受賞
・「修養団捧誠会御霊所」(1986年)第27回毎日芸術賞受賞
・「浦添市立図書館」(1988年)第4回日本図書館協会建築賞特定賞受賞
・「一宮市博物館」(1988年)第20回中部建築賞、一宮市建築賞、第4回公共建築賞中部地区優秀賞受賞
・「栄四郎瓦本社屋」(1990年)第1回へきなん都市デザイン文化賞大賞受賞
・「浦添市美術館」(1990年)全建賞受賞
・「福野文化創造センターヘリオス」(1991年)第22回富山県建築賞受賞
・「熊本県テクノポリスセンター」(1992年)第3回公共建築賞行政施設部門受賞
・「桂坂の住宅 東CED・中央CED」(1992年)第16回ひろば作品賞受賞
・「石川県金沢港大野からくり記念館」(1996年)金沢都市美文化賞、第18回石川県建築賞、第8回公共建築賞/北陸地区優秀賞受賞
・「国際日本文化研究センター」(2000年)第7回公共建築賞/近畿地区優秀賞受賞
・「大分市美術館」(2001年)第3回大分市建築大賞受賞
・「森の詩幼稚園」(2002年)彩の国さいたま景観賞受賞

<著書>
・『健康な建築 - イマジネイティブな生活空間を求めて』(1985年)
・『内井昭蔵のディテール 生活空間としての美術館・世田谷美術館』(1987年)
・『ロシアビザンチン - 黄金の環を訪ねて(建築巡礼)』(1991年)
・『建築家のドローイング1 世田谷美術館』(1993年)
・『モダニズム建築の軌跡 - 60年代のアヴァンギャルド』(2000年)
・仙田満との共著『続モダニズム建築の軌跡 - 環境へ』(2003年)
・『装飾の復権 - 空間に人間性を』(2003年)
・『再び健康な建築 - 生活空間に倫理を求めて』(2003年)
・『装飾の復権 - 空間に人間性を』(2003年)

☆内井昭蔵関係略年表

・1933年(昭和8)2月20日 東京市神田区において、建築家の父・内井進の子として生まれる
・1956年(昭和31) 早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する
・1958年(昭和33) 早稲田大学大学院工学研究科修士課程を修了、菊竹清訓建築設計事務所に勤務する
・1967年(昭和42) 菊竹清訓建築設計事務所を辞めて独立し、内井昭蔵建築設計事務所を設立する
・1971年(昭和46) 第22回日本建築学会賞作品賞(桜台コートビレッジ)
・1972年(昭和47) 日本建築家協会理事(~1974年)となり、神奈川県建築コンクール優秀賞(桜台ビレジ)、神奈川県建築コンクール佳作賞(宮崎台ビレジ)を受賞する
・1975年(昭和50) 第16回BCS賞(川島テキスタイルスクール)を受賞する
・1976年(昭和51) 日本サインデザイン協会賞銀賞(銀座対鶴館ビル)を受賞する
・1977年(昭和52) 第18回BCS賞(身延山久遠寺宝蔵)を受賞する
・1978年(昭和53) 第3回吉田五十八賞(東京YMCA野辺山青少年センター)・神奈川県建築コンクール優秀賞(西谷の家 小倉邸)を受賞する
・1979年(昭和54) 日本建築家協会副会長(~1981年)となる
・1980年(昭和55) 第24回レイノルズ賞 (A.I.A)(身延山久遠寺宝蔵)を受賞する
・1981年(昭和56) 第22回BCS賞(新発田市民文化会館・公民館)を受賞する
・1982年(昭和57) アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1986年(昭和61) 第27回毎日芸術賞(修養団捧誠会御霊所・世田谷美術館)・第18回BCS賞(世田谷美術館)を受賞、昭和60年度横浜市優良建築設計者となる
・1988年(昭和63) 新日本建築家協会副会長・広報委員長(~1990年)となり、第4回日本図書館協会建築賞特定賞(浦添市立図書館)・第20回中部建築賞(一宮市博物館)を受賞する
・1989年(平成元) 第45回日本芸術院賞(世田谷美術館)を受賞する
・1990年(平成2) 第1回へきなん都市デザイン文化賞大賞(栄四郎瓦本社屋)・全建賞(浦添市美術館)を受賞する
・1991年(平成3) 一宮市建築賞(一宮市博物館)・第22回富山県建築賞(福野文化創造センターヘリオス)を受賞する
・1992年(平成4) 学位論文「住宅の集合形態に関する実践的研究」で、京都大学より工学博士を得る、第1回BELCA賞LLB部門(桜台コートビレッジ)・第4回横浜まちなみ景観賞(桜台コートビレッジ)・第3回公共建築賞行政施設部門(熊本県テクノポリスセンター)・第16回ひろば作品賞(桂坂の住宅 東CED・中央CED)を受賞する
・1993年(平成5) 京都大学工学部教授に就任、第4回公共建築賞中部地区優秀賞(一宮市博物館)を受賞する
・1995年(平成7) 第13回京都府文化賞を受賞する
・1996年(平成8) 京都大学工学部教授を退官し、滋賀県立大学環境科学部教授となり、金沢都市美文化賞(石川県金沢港大野からくり記念館)を受賞する
・1997年(平成9) 第18回石川県建築賞(石川県金沢港大野からくり記念館)、平成9年度京都新聞五大賞 第41回文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 公共建築百選(世田谷美術館・滋賀県立大学・世田谷美術館・高岡市美術館・富山県産業創造センター・蕗谷虹児記念館)を受賞する
・2000年(平成12) 第7回公共建築賞/近畿地区優秀賞(国際日本文化研究センター)を受賞、京都市文化功労者となる
・2001年(平成13) 第3回大分市建築大賞( 大分市美術館)を受賞する
・2002年(平成14) 滋賀県立大学環境科学部教授を辞め、第8回公共建築賞/北陸地区優秀賞(石川県金沢港大野からくり記念館)・彩の国さいたま景観賞(森の詩幼稚園)を受賞する
・2002年(平成14)8月3日 東京都大田区の病院において、69歳で亡くなり、勲三等旭日章を受章する
・2006年(平成18)  DOCOMOMO Japan「日本におけるモダン・ムーブメントの建築2005年度選定建築物15選」(桜台コートビレッジ)に選定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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