ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 社会

kairekinofukoku01
 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)により、太陽暦が施行され、明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日になった日です。
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(たいいんれきをはいしてたいようれきをはんこうす)」(改暦ノ布告)は、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用することを定めた布告(明治5年太政官布告第337号)でした。それまでの太陰太陽暦は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月間の日付を決め、数年に1回閏月をおいて一年を13ヶ月として、太陽の運行による周期太陽年(回帰年)を考慮して季節を調節していく暦法(旧暦)でしたが、地球が太陽のまわりを一回転する時間を一年とする太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、一年を365日とし、また四年に一度閏年をおいて366日とするように改めたものです。
 この布告は、年も押し迫った時期に急遽公布され、一部に混乱をもたらしたとされるものの、明治新政府の官吏への報酬は月給制に移行していて、太陰太陽暦だと1年間に13回支給しなければならない年が翌年(明治6年)に当たり、当時の財政難の中で考慮されたとされてきました。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11ヶ月分で済ますことができています。
 尚、暦の販売権をもつ弘暦者は、従来の暦が返本され、また急遽新しい暦を作ることになって、甚大な損害をこうむることになりました。その中で、福澤諭吉は、太陽暦施行と同時の1873年(明治6)1月1日付けで慶應義塾蔵版の暦本「改暦辨」を刊行し、忽ち10万部が売れて大ヒットしています。
 以下に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太陰曆ヲ廢シ太陽曆ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告)1872年(明治5年11月9日)発布

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年太政官布告第337号)

今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事

(別紙)

詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ屬シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晚ノ變ナク四歲每ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ依テ自今舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ

  明治五年壬申十一月九日

    ○

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新曆鏤板出來次第頒布候事
 
一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事 
一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱候事 
一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事
 
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 

太陽曆 一年三百六十五日    閏年三百六十六日四年每ニ置之 
一 月 大 三十一日         其一日 卽舊曆 壬申 十二月三日 
二 月 小 二十八日閏年二十九日  其一日 同 癸酉 正月四日 
三 月 大 三十一日         其一日 同   二月三日 
四 月 小 三十日           其一日 同   三月五日 
五 月 大 三十一日         其一日 同   四月五日 
六 月 小 三十日           其一日 同   五月七日 
七 月 大 三十一日         其一日 同   六月七日 
八 月 大 三十一日        其一日 同   閏六月九日 
九 月 小 三十日           其一日 同   七月十日 
十 月 大 三十一日         其一日 同   八月十日 
十一月小 三十日          其一日 同   九月十二日 
十二月大 三十一日         其一日 同   十月十二日 

大小每年替ルヿナシ

時刻表
  
  零時卽午後
  十二時    子刻   一時    子半刻  二時    丑刻  三時     丑半刻 
午 四時     寅刻   五時    寅半刻  六時    卯刻  七時     卯半刻 
前 八時     辰刻   九時    辰半刻  十時    巳刻  十一時    巳半刻 
  十二時    午刻    

午 一時     午半刻  二時    未刻  三時     未半刻  四時    申刻 
後 五時     申半刻  六時    酉刻  七時     酉半刻  八時    戊刻 
  九時     戊半刻  十時    亥刻  十一時    亥半刻  十二時   子刻 

右之通被定候事
  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1041年(長久2)平安時代中期の公卿・歌人藤原公任の命日(新暦2月4日)詳細
1720年(享保5)第115代の天皇とされる桜町天皇の誕生日(新暦2月8日)詳細
1897年(明治30)尾崎紅葉著の『金色夜叉』が読売新聞で連載開始される詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
1950年(昭和25)「年齢のとなえ方に関する法律」が施行され、年齢の表示を満年齢に一本化される詳細
1995年(平成7)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」によって、世界貿易機関(WTO)が発足する詳細
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shinnihonfujinkyoukaisoukai
 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、新婦人協会が内部対立のために解散した日です。
 新婦人協会(しんふじんきょうかい)は、大正時代に日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体でした。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めます。
 1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約(全21条)を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになりました。男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みます。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めました。その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しています。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至りましたが、約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員

<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言

 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領

一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)

一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より

☆平塚らいてふ(ひらつか らいちょう)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した評論家・婦人解放運動家です。明治時代前期の1886年(明治19)2月10日に、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)で、会計検査院高官だった父・平塚定二郎と母・光沢の3女として生まれましたが、本名は明(はる)と言いました。
 知的で裕福な家庭で、ハイカラで自由な環境で育ち、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を経て、1903年(明治36)に日本女子大学校家政学部へ入学しました。しかし、良妻賢母教育に失望して、文学、哲学、宗教などの本を読み、参禅し自我を追求、1906年(明治39)に卒業します。
 その後、英語を学びましたが、1908年(明治41)に森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)を起こしました。1911年(明治44)に生田長江にすすめられ、母から資金提供を受け、婦人文芸集団青鞜社を興し、雑誌『青鞜』を発刊以後、編集と経営にあたります。
 その創刊の辞「元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――」は、「新しい女」の出現を主張し、今日に至る女権宣言となりました。1914年(大正3)には、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけています。
 1920年(大正9)に、市川房枝、奥むめおらと新婦人協会を発足させ、婦人参政権運動に取り組みました。1930年(昭和5)に高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加して『婦人戦線』に関与、また協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立しています。
 太平洋戦争後は、反戦・平和運動に力を注ぎ、1953年(昭和28)に日本婦人団体連合会会長、1962年(昭和37)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成しました。晩年まで、安保条約廃棄やベトナム反戦運動に関わりましたが、1971年(昭和46)5月24日に、東京において、85歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥の命日詳細
1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、東京タワーの公開が開始(正式営業開始は23日)された日です。
 東京タワー(とうきょうたわー)は、昭和時代中期の1958年(昭和33)12月23日に竣工した、東京都港区にある総合電波塔で、正式名称は「日本電波塔」といい、各種電波の送受信に用いられていました。しかし、2012年(平成24)の東京スカイツリー開業に伴い、翌年5月からは、放送大学以外の地上デジタルテレビ放送7局の送信所が東京スカイツリーに移転し、予備電波塔となとなり、“日本一高いタワー”の地位も譲っています。
 設計は、内藤多仲により、正方形の断面をもった立体トラスの鋼構造で、高さは333mあり、150mと250mのところにある展望台からは、関東平野が一望できます。以前は、東京へ旅行した時に必ず立ち寄る観光名所の一つでした。
 尚、2013年(平成25)には、国の登録有形文化財となっています。また、全国の有名なタワー20で構成される「全日本タワー協議会」というのがあり、東京タワーも加盟していて、「スタンプラリー」を実施しています。スタンプを集めると認定証と記念品がもらえますので、チャレンジしてみても面白いのではないでしょうか。

〇東京タワー関係略年表

・1957年(昭和32)5月8日  日本電波塔株式会社を設立される
・1957年(昭和32)6月29日 地鎮祭が執り行われ着工する
・1958年(昭和33)10月9日 審査会において愛称「東京タワー」を決定する
・1958年(昭和33)12月7日 公開開始(プレオープン)する
・1958年(昭和33)12月23日 完工式挙行、正式オープンする
・1959年(昭和34) NHK教育テレビジョン、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)、フジテレビジョンが本放送を開始する
・1960年(昭和35) ラジオ東京(現・TBSテレビ)が赤坂の自社敷地から主送信所を移転する
・1964年(昭和39) 日本科学技術振興財団テレビ事業本部(現・テレビ東京)が本放送を開始する
・1966年(昭和41)1月2日 来塔者数が3,000万人となる
・1967年(昭和42)7月28 特別展望台がオープンする。
・1970年(昭和45)3月20日 東京タワー蝋人形館が3階にオープンする
・1971年(昭和46)8月18日 来塔者数が5,000万人となる
・1978年(昭和53)4月28日 東京タワー水族館がオープン(世界初の観賞魚水族館)する
・1989年(平成元)7月25日 来塔者数が1億人となる
・1994年(平成6) 「東京タワートリックアートギャラリー」がタワービル4階に登場する
・1995年(平成7)1月 来塔者数が1億2,000万人となり、日本の総人口に相当する人数が来塔したことを記念してキャンペーンを行う
・1995年(平成7)11月1日 東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ、TOKYO MX)が本放送を開始する
・2002年(平成14)3月19日 特別展望台・大展望台がリニューアルオープンする
・2006年(平成18)9月29日 来塔者数が1億5,000万人となる
・2009年(平成21)12月31日 開業以来営業してきた、タワー大食堂(タワーレストラン)が営業終了する
・2011年(平成23)7月24日 地上アナログテレビ放送がこの日の正午で終了し、24時で地上アナログテレビ放送の送信が停止された
・2013年(平成25)6月21日 国の登録有形文化財に登録される
・2018年(平成30)1月25日 来塔者が1億8,000万人突破する
・2019年(令和元)10月1日 運営会社の商号を「株式会社東京タワー」から「株式会社TOKYO TOWER」に変更する

〇「全日本タワー協議会」とは?

 1961年(昭和36)に、東京タワー、通天閣、名古屋テレビ塔の3つで発足しましたが、現在は、日本国内の20のタワーで運営されている協議会で、全国を4つのブロックに分けて活動しています。
 2006年(平成18)から、10月1日を「展望の日」と定め、各加盟タワーにおいて、来場者へ特典プレゼントを贈呈するなどのイベントが行われるようになりました。
 また、2010年(平成22)の「展望の日」から、「All-Japan20タワーズスタンプラリー」を実施していて、各加盟タワーを訪問してスタンプを集め、ブロック全てのスタンプを集めた来場者にはブロック認定証と記念品が、20タワー全てのスタンプを集めた来場者には完全制覇認定証と特別記念品が贈られています。

☆全日本タワー協議会加盟タワー一覧

<イースト>
・さっぽろテレビ塔(北海道)
・五稜郭タワー(北海道)
・銚子ポートタワー(千葉県)
・千葉ポートタワー(千葉県)
・東京タワー(東京都)
・横浜マリンタワー(神奈川県)

<セントラル>
・名古屋テレビ塔(愛知県)
・東山スカイタワー(愛知県)
・東尋坊タワー(福井県)
・ツインアーチ138(愛知県)
・クロスランドタワー(富山県)

<カンサイ>
・通天閣(大阪府)
・京都タワー(京都府)
・神戸ポートタワー(兵庫県)
・空中庭園展望台(大阪府)

<ウエスト>
・福岡タワー(福岡県)
・ゴールドタワー(香川県)
・海峡ゆめタワー(山口県)
・夢みなとタワー(鳥取県)
・別府タワー(大分県)

☆日本のタワーの高さベスト10(一般に登れるもの限定)

1.東京スカイツリー(634m) 東京都墨田区―2012年完成
2.東京タワー(333m) 東京都港区―1958年完成
3.福岡タワー(234m) 福岡県福岡市早良区―1989年完成
4.スカイタワー西東京(195m) 東京都西東京市―1988年完成
5.名古屋テレビ塔(180m) 愛知県名古屋市中区―1954年完成
6.ゴールドタワー(158m) 香川県綾歌郡宇多津町―1988年完成
7.海峡ゆめタワー(153m) 山口県下関市―1996年完成
8.さっぽろテレビ塔(147.2m) 北海道札幌市中央区―1957年完成
9.セリオン[秋田市ポートタワー](143m) 秋田県秋田市―1994年完成
10.ツインアーチ138[木曾三川公園] (138m) 愛知県一宮市―1995年完成

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

721年(養老5)第43代の天皇とされる元明天皇の命日(新暦12月29日)詳細
1367年(正平22/貞治6)室町幕府第2代将軍足利義詮の命日(新暦12月28日)詳細
1867年(慶応3)神戸港が外国船に向けて開港した日(神戸開港記念日)です(新暦1868年1月1日)詳細
1944年(昭和19)昭和東南海地震(M7.9)が起き、死者1,223人を出す詳細
1948年(昭和23)警視庁が昭和電工事件で、芦田均前首相を逮捕する詳細
1995年(平成7)白川郷・五箇山の合掌造り集落(岐阜県・富山県)が世界遺産(文化遺産)に登録される詳細
2001年(平成13)「文化芸術振興基本法」(平成13年法律第148号)が公布・施行される詳細
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kairekinofukoku01
 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)により、翌日が太陽暦の1月1日となり、太陰暦での最後の日となった日ですが、新暦では12月31日となります。
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(たいいんれきをはいしてたいようれきをはんこうす)」(改暦ノ布告)は、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用することを定めた布告(明治5年太政官布告第337号)でした。それまでの太陰太陽暦は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月間の日付を決め、数年に1回閏月をおいて一年を13ヶ月として、太陽の運行による周期太陽年(回帰年)を考慮して季節を調節していく暦法(旧暦)でしたが、地球が太陽のまわりを一回転する時間を一年とする太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、一年を365日とし、また四年に一度閏年をおいて366日とするように改めたものです。
 この布告は、年も押し迫った時期に急遽公布され、一部に混乱をもたらしたとされるものの、明治新政府の官吏への報酬は月給制に移行していて、太陰太陽暦だと1年間に13回支給しなければならない年が翌年(明治6年)に当たり、当時の財政難の中で考慮されたとされてきました。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11ヶ月分で済ますことができています。
 尚、暦の販売権をもつ弘暦者は、従来の暦が返本され、また急遽新しい暦を作ることになって、甚大な損害をこうむることになりました。その中で、福澤諭吉は、太陽暦施行と同時の1873年(明治6)1月1日付けで慶應義塾蔵版の暦本「改暦辨」を刊行し、忽ち10万部が売れて大ヒットしています。
 以下に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太陰曆ヲ廢シ太陽曆ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告)1872年(明治5年11月9日)発布

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年太政官布告第337号)

今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事

(別紙)

詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ屬シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晚ノ變ナク四歲每ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ依テ自今舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ

  明治五年壬申十一月九日

    ○

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新曆鏤板出來次第頒布候事
 
一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事 
一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱候事 
一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事
 
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 

太陽曆 一年三百六十五日    閏年三百六十六日四年每ニ置之 
一 月 大 三十一日         其一日 卽舊曆 壬申 十二月三日 
二 月 小 二十八日閏年二十九日  其一日 同 癸酉 正月四日 
三 月 大 三十一日         其一日 同   二月三日 
四 月 小 三十日           其一日 同   三月五日 
五 月 大 三十一日         其一日 同   四月五日 
六 月 小 三十日           其一日 同   五月七日 
七 月 大 三十一日         其一日 同   六月七日 
八 月 大 三十一日        其一日 同   閏六月九日 
九 月 小 三十日           其一日 同   七月十日 
十 月 大 三十一日         其一日 同   八月十日 
十一月小 三十日          其一日 同   九月十二日 
十二月大 三十一日         其一日 同   十月十二日 

大小每年替ルヿナシ

時刻表
  
  零時卽午後
  十二時    子刻   一時    子半刻  二時    丑刻  三時     丑半刻 
午 四時     寅刻   五時    寅半刻  六時    卯刻  七時     卯半刻 
前 八時     辰刻   九時    辰半刻  十時    巳刻  十一時    巳半刻 
  十二時    午刻    

午 一時     午半刻  二時    未刻  三時     未半刻  四時    申刻 
後 五時     申半刻  六時    酉刻  七時     酉半刻  八時    戊刻 
  九時     戊半刻  十時    亥刻  十一時    亥半刻  十二時   子刻 

右之通被定候事
  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)お雇い外国人であるフランス人技師F・L・ヴェルニーの誕生日詳細
1898年(明治31)挿絵画家・詩人蕗谷虹児の誕生日詳細
1900年(明治33)小説家・芥川賞作家由起しげ子の誕生日詳細
1949年(昭和24)国際連合総会で、「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が決議される詳細
1984年(昭和59)映画監督森谷司郎の命日詳細
2000年(平成12)沖縄県の「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産(文化遺産)に登録される詳細
2009年(平成21)日本画家・教育者平山郁夫の命日詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、北海道の新夕張炭鉱若鍋第二斜坑でガス炭塵爆発が起き、死者・行方不明者423人を出した日です。
 新夕張炭鉱若鍋坑ガス炭塵爆発事故(しんゆうばりたんこうわかなべこうがすたんじんばくはつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)11月28日に、石狩石炭株式会社が経営する新夕張炭鉱若鍋第二斜坑で起きたガス炭塵爆発事故です。この炭鉱は、石炭の産出が急拡大する一方で、炭鉱の坑道からのガスの発生が多いという特徴も持っていて、札幌鉱務署から度々ガス爆発の災害の危険性の指摘があり、炭鉱側も坑道に風穴を開けたり、常に扇風機で風を送るなど、危険を未然に防ごうと注意を払っていました。
 約600人の人間が若鍋炭坑内で作業中だった、午後3時30分に、ガス炭塵爆発が起き、炭鉱全体を揺るがすような大音響が轟きわたります。坑内全域で大規模に落盤も発生、火焔も走り、多くの者が即死しました。二日後の30日から救援活動が行われ、坑内に充満していたガスが一気に爆発し燃え尽きたので、救援隊員は落盤を排除しながら奥まで進むことが出来たものの、四日後の12月2日午後9時になって、斜坑坑口より約900mの個所で火災が発生したため、遺体の3分の2を残したまま密閉、水没させています。
 この事故は、死者・行方不明者423人、負傷者25人という大惨事となり、北海道の炭鉱史上最悪のものとなりました。

〇1914年(大正3)12月2日付「北海タイムス記事」

慄然惻然措く能ず

会社にては 既報の如く 死体引取人に対し 死者一人に付 埋葬料十円 香典十円を與へ 遺族には労働賃金一日分の百倍を交付すると予め会社対坑夫間に於ける契約として成立し居るものなるが故に 会社は之等の金円を與ふれば 遺族保護の責任を脱し得るに似たるも 保護の実を締め山には未だ遠し
今回の変災たるや 未だ嘗て見ざる惨状を呈し 一家数人の死者を出したる者 少なからず 両親共に死して 五歳 八歳の東西をも弁(わきま)へ難き幼児のみなるあり 六十歳以上の老人のみ残れるもあり
扶助を受けたる金額のみを以て 今後の生計を支え難き 其数 甚少にあらざるべし
之等に対しては契約上の金円を與ふる以外 亦 別に適切の手段を巡らして 同情の実を現はすべきなり
尚 彼らは初めより危険なる坑内の労働に従事する者なり雖も 此の変災なかりせば 尚 幾多の星霜を迎えて 快く天寿を全うし 人生の幸福を享受するを得べかりしに哀れや惨禍 身に及びて 忽ち焦熱の間に悶死し 人としての取扱いを受けずして 一片の煙と化す
一度 位 地を転じて 遺族の心に同化すれば 誰れが慄然として人世の無常を嘆せざるあらむや
彼等は今 生計を支ゆる爲に金円を求むる
夫れよりも尚 渇仰するは 社会人心の同情なり
渾然として暖かき情味に浴せんと欲するは痛切なる彼らの希望なり
実情を目撃する者にして 此の感 切なり
而して会社は先づ 其路に当たるべき責任重大なり

〇新夕張炭鉱(しんゆうばりたんこう)とは?             

 1899年(明治32)に北海道庁の地理調査班が発見、持田辰之助が鉱業権を獲得し、中野四郎を経て谷七太郎が谷新夕張炭山の第二鉱として1906年(明治39)に開削されます。その後、石狩石炭が事業を継承し、1907年(明治40)に琴平坑(西一番坑・西二番坑・西二番斜坑)と八坂坑(東二番坑・東二番斜坑)を開坑、1913年(大正2)には18万トンの石炭を算出、さらに、1914年(大正3)に平安坑(南坑又は三坑)が開坑し、数千人の坑夫・雑夫が働き、毎日約700人が坑内作業にあたっていました。
 しかし、同年11月28日に、西一番坑及び西二番斜坑において、死者・行方不明者423人を出す大事故が発生、1916年(大正5)に住吉坑(西新坑)が開坑したものの経営は悪化し、石狩石炭は最終的に1920年(大正9)に北炭に合併します。それからもガス爆発の死傷事故が相次ぎ、ガスの処理の問題が解決されず、1930年(昭和5)に一度閉山に至りました。
 その後、1937年(昭和12)に北炭平和炭鉱が旧若鍋炭鉱の鉱区にに開鉱します。戦後の1948年(昭和23)に平和第二炭鉱(第二斜坑)が開鉱、1954年(昭和29)に平和炭鉱、平和第二炭鉱を一鉱、二鉱と改称、1957年(昭和32)に一区、二区とさらに改称されました。
 一区は1964年(昭和39)に終掘しましたが、二区は1964年(昭和39)に北部第二立坑が完成します。1966年(昭和41)には、生産量が106万トンと一度100万tを越えましたが、1968年(昭和43)に坑内火災で31人の方が亡くなる事故が発生してました。1969年(昭和44)には、第二立坑が完成したものの、1975年(昭和50)に閉山に至っています。

☆日本の主な炭鉱事故

<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]

<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]

<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1835年(天保6)幕末の志士・政治家井上馨の誕生日(新暦では1836年1月16日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
1951年(昭和26)「旅券法」(昭和26年法律第267号)が公布(施行は同年12月1日)される詳細
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