ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 社会

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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、大阪明治45年「南の大火」で、死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸を出した日です。
 大阪明治45年「南の大火」(おおさかめいじ45ねんみなみのたいか)は、明治時代後期の1912年(明治45)1月16日未明に、大阪市南区難波新地(現在の中央区難波四丁目付近)を火元とする、明治時代の大阪最後の大火です。この日の午前1時頃、難波新地4番町の湯屋・百草湯の煙筒から噴出した火の粉が、強風によって貸座敷・遊楽館の3階の屋根に引火し、西からの烈風を受けて、一挙に東へ燃え広がり、千日前から日本橋筋をこえ、生国魂神社や谷町九丁目あたりにまで達しました。
 ようやく、10時間後の午前11時になって、第四防火線とした谷町九丁目で、火勢の広がるのを防ぐことができます。これによって、東西1.4km、南北400mに渡って焼失し、罹災面積10,946坪(33.3ha)となり、死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸を出し、劇場・寄席・貸座敷などの他に、生国魂神社、榎神社、明治病院、高津尋常小学校なども被災しました。
 焼け跡には、1914年(大正3)から翌年にかけて、大阪市電九条高津線が敷設され、現在の千日前通の一部区間となっています。尚、1880年(明治13)12月24日には、明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)が起き、1890年(明治23)9月5日には、明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)も起きていました。
 
〇明治・大正時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火・地震によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)
・1914年(大正3)2月20日 東京神田大正2年三崎町の大火(全焼2,376戸、半焼54戸)
・1917年(大正6)5月22日 大正6年米沢大火(死者11名、負傷者80余名、焼失2,294戸)
・1919年(大正8)5月19日 大正8年米沢大火(死者1名、焼失1,071戸)
・1921年(大正10)4月6日 東京の大正浅草大火(全焼1,227戸、半焼73戸)
・1924年(大正13)5月21日 八戸大火(死者4名、被災戸数1,393棟)
・1925年(大正14)3月18日  大正日暮里大火(全半焼約2,100戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20) 細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
日本画家片岡球子の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸城大奥年寄役・江島(絵島)が俳優生島新五郎らとの宴会により大奥の門限に遅れ、江島生島事件の発端となった日ですが、新暦では2月26日となります。
 江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸城大奥で起こった風紀紊乱事件です。この年の1月14日に、江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が、芝の増上寺へ参詣した帰途、山村座に立寄って芝居見物をし、桟敷および座元の居宅で遊興して帰城し際、大奥の門限に遅れました。
 このことから、役者生島新五郎と密通を疑われ、「風紀の乱れを正す」として江島・生島新五郎の2人をはじめ大奥の女中や出入りの医者・商人など、1,500人近くが処罰されます。江島は、信州高遠藩主内藤清枚に預けられ、山村長太夫・歌舞伎俳優生島新五郎も遠島となり、山村座は解散を命じられました。
 江島は、高遠藩の江島囲屋敷に幽閉されましたが、1722年(享保7年)に、高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年には、月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められます。しかし、1741年(寛保元年4月10日)に、囲屋敷において、数え年61歳で亡くなりました。
 一方、生島新五郎は、三宅島に流刑となりましたが、1742年(寛保2年2月)に、徳川吉宗により赦免され江戸に戻り、翌年1月5日に、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなったとされるものの、1733年(享保18年)に三宅島で亡くなったたという説もあります。

〇江島生島事件関係略年表(日付は旧暦です)

・1671年(寛文11年) 生島新五郎が、大坂で生まれる
・1681年(天和元年) 江島(本名疋田みき)が、三河国において、甲府藩士・疋田彦四郎の娘として、生まれる
・1684年(貞享元年) 生島新五郎が、野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ
・1691年(元禄4年)、野田蔵之丞が生島新五郎と改名し、当時を代表する人気役者となる
・1714年(正徳4年1月12日) 江戸城大奥年寄役・絵島が俳優生島新五郎らとの宴会により大奥の門限に遅れ、絵島生島事件の発端となる
・1714年(正徳4年) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷に幽閉され、生島新五郎が、三宅島に流刑となる
・1722年(享保7年) 高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせる
・1723年(享保8年) 月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められる
・1741年(寛保元年4月10日) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷で、数え年61歳で亡くなる
・1742年(寛保2年2月) 生島新五郎が、徳川吉宗により赦免され江戸に戻る
・1743年(寛保3年1月5日) 生島新五郎が、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)仏教学者・チベット探検家河口慧海の誕生日(新暦2月26日)詳細
1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1874年(明治7)板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
1926年(大正15)小説家・文化庁長官だった三浦朱門の誕生日詳細
1954年(昭和29)文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始する詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、鹿児島県大島郡瀬戸内町で古仁屋大火(1,628戸が全焼)が起きた日です。
 古仁屋大火(こにやたいか)は、昭和時代中期の1958年(昭和33)午後11時25分頃、鹿児島県大島郡瀬戸内町古仁屋(現在の春日地区)から出火した大火です。当時は、空気が乾燥していたこともあり、風速15m/sの西風にあおられてまたたく間に燃え広がり、翌日午前6時頃に鎮火するまで、6時間半に渡って、焼失地域が拡大し、古仁屋の約80%が焼野原となりました。
 消防本部は即座に消防ポンプ車等を現場に送り込んだものの、干ばつの影響で、川も渇水しており、あいにくの最大干潮により、岸壁から100m近く出なければ海水に達しないという事態に陥り、自然水利は利用不可能な状態で、思うように水を吸い揚げきれずに、放水活動で延焼を喰い止めることはできなかったとされます。これによって、死者は出なかったものの、負傷者が訳100名、焼失戸数1,628戸、罹災者5,300人余名に及び、町役場をはじめ、古仁屋警察署、古仁屋郵便局、鹿児島銀行古仁屋支店、鹿児島法務局瀬戸内出張所、大島支庁厚生課出張所、県水産試験場大島分場、信用組合、大島電力古仁屋出張所、映画館、病院、旅館など町の中枢となる主要な建物はすべて焼失しました。
 この大火を契機に、古仁屋市街地は区画整理が行われ、災害に強い街に生まれ変わっています。

〇太平洋戦争後の日本の大火(400棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
 死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1947年(昭和22)4月29日 - 那珂湊大火(茨城県那珂郡那珂湊町)
 焼失戸数1,210戸、焼失家屋1,508棟、被災人口6,080名
・1947年(昭和22年)5月16日 - 空知炭鉱大規模火災(北海道歌志内市)
 開墾で野焼きをしていた火が燃え広がり付近の住宅地へ類焼、977戸488棟が全半焼。
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
 死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1950年(昭和25)4月13日 - 熱海大火(静岡県熱海市)
 死者なし、負傷者979名、全焼戸数979棟、延焼面積約13ha、罹災世帯1,461世帯5,745名、被害総額54億7千万円
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
 死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
 死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
 行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
 死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
 死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1958年(昭和33年)12月27日 - 古仁屋大火(鹿児島県大島郡瀬戸内町)
 焼失戸数1,628戸、罹災者5,300人余名
・1961年(昭和36年)5月29日 - 白銀大火(青森県八戸市)
 焼失家屋700棟、焼失面積約30ha、被災人口5,000人、被害総額約25億円
・1962年(昭和37年)9月26日 - 福江大火(長崎県福江市)
 死者なし、焼失家屋604戸、焼失面積約13.2ha、被災人口3,936人、被害総額約40億円
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
 死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1966年(昭和41年)1月11日 - 三沢大火(青森県三沢市)
 死者なし、負傷者26名、焼失家屋450棟、焼失面積約10.8ha、被災人口2,352名、被害総額15億6千万円強
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
 死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円した日です。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

966年(康保3)三蹟の一人とされる能書家・歌人小野道風の命日(新暦967年2月9日)詳細
1278年(弘安元)藤原為氏が『続拾遺和歌集』(二十一代集の12番目)を撰上する(新暦1279年2月9日)詳細
1945年(昭和20)国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)設立の為の「ブレトン・ウッズ協定」が発効する詳細
1959年(昭和34)文京公会堂で第1回日本レコード大賞が開催される詳細
1960年(昭和35)池田隼人内閣で「国民所得倍増計画」が閣議決定される詳細
1980年(昭和55)経済学者山田盛太郎の命日詳細
「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(昭和55年法律第111号)が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)小説家・児童文学者椋鳩十の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、和歌山県東牟婁郡太地(現在の太地町)で大規模な海難事故「大背美流れ」(死者8人、行方不明者107人)が発生した日です。
 大背美流れ(おおせみながれ)は、1878年(明治11)12月24日に、和歌山県東牟婁郡太地(現在の太地町)沖で起きた捕鯨船の海難事故です。不漁続きで悪天候の中、沖合まで出漁した捕鯨船団が壊滅し、漁師から死者8人、行方不明者107人を出し、日本の捕鯨史上最大の惨事とされてきました。
 燈明崎山見の責任者であった和田金右衛門頼芳が残した記録『脊美流れの控え』によると、出漁から3日が過ぎた12月27日以降に数10名が帰還し、沖で何が起きたかを報告しています。この大惨事を後世に伝えるため、太地港を見下ろす道路協に「漂流人紀念碑」が建てられました。また、順心寺には、鯨組宰領の子孫によって1954年(昭和29)12月24日に建立された「太地浦鯨方漂流殉難供養碑」があります。

〇和田金右衛門頼芳著『背美流れの控え』(現代語抄訳)

明治11年(1878) 24日、雨天、北東風
午後2時前頃に三輪崎の網舟がやってきて、太地の勢子舟も旗をあげてクジラの発見を知らせた。やがて三輪崎の舟が網を掛けたがクジラは南へ逃げた。
クジラは太地の網に当たって太地湾の方へ逃げた。そのうち潮が速くなり、網が切れた。さらに網を掛けたが外れてしまった。親クジラに銛を打ち込んだが、夜になって沖の方が見え難くなった。舟の篝火が見えるが、だんだんと沖へ離れて行き、やがて見えなくなった。

25日、晴天、弱い西風、穏やかな海
燈明崎から船団が見えないので、高山へ行ったがやはり見えない。そこで小文次、林蔵、次郎平を樫の上へ派遣したところ船団が見えた。しかし沖へ流されているので、さらに高いところに登ると、ずっと沖に船団が見えた。暗くなってきたので皆で心配した。
夕方、直大夫の舟が戻ってきた。「今朝10時頃にクジラを仕留めたが、米と水がなくなったので補給するため帰ってきた」と報告した。伊豆のマグロ船などに頼んで米と水を届けてもらうことにした。

26日、晴天、強い西風
今朝も樫の上に行ったが船団は見えない。小文次、栄治、林蔵、魚切の粂八を妙法山へ、佐与平、友蔵を八郎ヶ峰へ、多喜平、林七、次郎平を樫崎へ派遣した。大騒ぎになってきた。

27日、晴天、弱い西風、穏やかな海
夜12時頃、要大夫の舟に乗った11人が大引のマグロ船に助けられ帰ってきた。要大夫が言うには、25日の夕方にクジラを捨て、陸に上がろうとするうちに夜になり、西風が強くなった。夜が明けても陸は見えず、綱で舟を結んだ。風に流されるうち、要大夫、富大夫、次郎大夫の舟が離れて、陸に打ち上げられた。富大夫の舟は櫓が折れたので他の舟に乗り移り、要大夫の舟も壊れたが、マグロ船が来て助けられた。他の舟がどうなったかは分からない。(後略)

  「太地町観光協会のWebサイト」より

☆明治・大正時代に日本近海で起きた重大海難事故一覧(死者・行方不明者100人以上)

・1878年(明治11)12月24日 - 和歌山県太地村でセミクジラを捕獲するため19隻・総勢184名で出漁、荒天による集団遭難事故(大背美流れ)<死者・行方不明者115人>
・1890年(明治23)9月16日 - 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没(エルトゥールル号遭難事件)<乗員約600人中、死者・行方不明者587人>
・1891年(明治24)7月11日 - 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸」と「三吉丸」が衝突し「瓊江丸」が沈没<死者・行方不明者261人>
・1905年(明治38)8月22日 - 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没<死者・行方不明者165人>
・1908年(明治41)3月23日 - 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没<死者・行方不明者212人>
・1922年(大正11)8月26日 - カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆<死者・行方不明者327人>
・1926年(大正15)4月26日 - 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没<死者・行方不明者182人>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)言語学者・国語学者橋本進吉の誕生日詳細
1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1920年(大正9)小説家阿川弘之の誕生日詳細
1933年(昭和8)東京都千代田区有楽町に日本劇場が開館し、開場披露式が挙行される詳細
1943年(昭和18)「徴兵適齢臨時特例」が公布・施行され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳になる詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細
2014年(平成26)通常兵器の国際移転(移譲)を規制する「武器貿易条約(ATT)」が発効する詳細
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nakanoinugoya
 今日は、江戸時代中期の1695年(元禄8)に、「生類憐れみの令」により武蔵・中野村に野犬を収容するための16万坪の「お犬小屋」を設置した日ですが、新暦では12月18日となります。
 「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代中期に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉によって、1685年(貞享2)~1709年(宝永6)まで実施された、極端な動物愛護令です。「生類を憐れむ」ことを趣旨とした諸法令の通称で、憐みの対象は牛馬・犬・鳥類をはじめあらゆる生類に及びました。
 鷹狩・狩猟にも制限が加えられましたが、特に犬に関しては重視され、1695年 (元禄8) に、江戸中野、四谷、大久保などに犬小屋を建てて犬を養い、その費用を江戸町民に課しています。違反者は死罪・遠島などに処せられたので、世の不満を買い、悪政の評判が高く、綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と揶揄されました。
 しかし、1709年(宝永6)に、綱吉が亡くなると、第6代将軍徳川家宣によって、廃止されています。

〇「生類憐れみの令」(抜粋)

  (一)覚
馬の筋のへ(延べ)候儀、第一用方に不宜、其上不仁なる儀にて、御厩(うまや)に立候御馬共、先年より御停止(ちょうじ)被仰付候えとも、今以世上にてハ拵馬在之由候、向後堅御制禁被仰出者也、
 貞享二年丑九月十八日

  (二)覚 御台所張紙写
鳥類貝類海老、向後於御台所つかひ申間敷(もうすまじき)旨被仰渡候、乍然公家衆御馳走其外御振舞之節は可為各別事(かくべつたるべきこと)以上、
 貞享二年丑十一月七日

  (三)覚
惣て人宿又ハ牛馬宿其外にも生類煩(わずらい)重く候えハ、未死内(いまだしなざるうち)に捨候様粗(あらあら)相聞候、右之不届(ふとどき)之族有之は、急度(きっと)可被仰付候、密々左様成儀有之候ハヽ、訴人に出へし、同類たりといふとも、其科(とが)をゆるし、御褒美(ほうび)可被下者也、
 (貞享四年)卯正月日

  (四)口上之覚
今度書付出候上ハ、身体かろ(軽)きものハ、はこくみ(育み)かね(兼ね)可申候間、町人ハ町奉行、地方(じかた)ハ御代官、道中筋ハ*高木伊勢守、給所は地頭え訴可申者也、
 (貞享四年)卯正月日
     *高木守勝。大目付、道中奉行兼任

  (五)覚
 一 捨子有之候ハヽ、早速不及届(とどけるにおよばず)、其所之者いたハリ置、直ニ養候か、又ハ望之者有之候ハヽ、可遣(つかわすべく)候、急度不及付届候事、
 一 鳥類畜類人の疵付(きずつけ)候様成ハ、唯今迄之通可相届候、其外友くひ(共食い)又ハおのれと痛煩候計にてハ不及届候、随分致養育、主有之候ハヽ、返可申事、
 一 無主犬頃日は食物給させ不申候様に相聞候、畢竟食物給させ候えハ、其人之犬之様に罷成、以後迄六ヶ敷(むつかしき)事と存、いたハり不申と相聞、不届候、向後左様無之様可相心得(あいこころうべき)事、
 一 飼置候犬死候えハ、支配方え届候様相聞候、於無別条は、向後ヶ様之届無用事、
 一 犬計に不限、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、あハれミ候儀肝要事、
    以上
 (貞享四年)卯四月日

  『御当家令条』巻33より

   覚
一、生類あはれみ候儀に付、最前書付を以て仰出され候所、今度武州寺尾村、 同国代場村の者、病馬これを捨て不届の至に候。死罪にも仰付けらるべく候 得共、今度は先ず命御たすけ、流罪に仰付けられ候。向後相背くに於ては、 急度曲事に仰付けらるべく候。御料は御代官、私領は領主地頭より、前方仰 出され候趣、弥堅く相守り候様に急度申付くべき者なり。
  貞享四年四月

   覚
本所相生町三町目大工善次郎弟子
   犬を切殺し候者市兵衛
右市兵衛犬切殺し候由、本所相生町弐町目左官嘉兵衛と申す者の娘しもと申す小女申し候に付、御□議相知れ候間、御褒美として金子五拾両しもに下され候。
  子八月
右の通仰付けられ候間、町中家持は申すに及ばず、借家店かり出居州召仕等迄、残らず申聞くべく候。以上。
  元禄九年子八月六日

 元禄十年丑四月廿五日迄書上高
一、三年以前元禄八年亥五月廿五日より四谷御囲え人に荒き犬納る、同年十一 月廿四日より中野御囲え納ね候事。
一、町方犬、中野大久保両御囲え納め候犬数、同亥十月書上高四万弐千百八疋、 其外出生書落。
一、同新御支配御囲え納高、去子六月書上高千九百疋。
 右の外出生犬弐千八百八拾壱疋、残り犬拾五疋、三口合納高四万八千七百四 拾八疋。残り犬百五拾壱疋

  『正宝事録』より 

☆生類憐みの令関係略年表(日付は旧暦です)

<天和3年(1683年)>
・2月3日:生類、高級織物などぜいたく品の輸入を禁止する。
・2月29日:「辻番ハ道路ノ病人、酒酔イヲ介抱スヘシ」。

<貞享元年(1684年)>
・会津藩に対し、「生類を憐れむ」ためとして、鷹の献上を禁じる。
・4月6日:上総国市場村の惣右衛門、御鷹場で鳥を捕まえ、老中指図により牢屋斬罪。ただしこれは、幕府の狩場での勝手な猟はそもそも禁止であり、生類憐みの令とは深い関係は無い。
・8月28日:生類憐みの令に反対の立場であった大老の堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に刺殺された。

<貞享2年(1685年)>
・2月12日:高札立つ。「近ごろ江戸近辺でみだりに鉄砲を撃つ者がいる。捕まえた者、訴えた者に賞金を出す」。
・4月14日:駿河国上柚野村の佐野藤兵衛、武州羽生領下之村の伝兵衛の案内で鶴2匹を撃つ。2人とも品川獄門(鈴ヶ森刑場にて晒し首)。
・5月21日:上総国神納村の弥五兵衛、御法度の場所で鉄砲を使い鳥を撃ち、牢屋斬罪。首は神納村で獄門。
・7月14日:将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放しておいて構わない
・7月14日:御成り道に犬が出ないよう門前の犬数十匹を捕まえ、俵に詰めて隅田川に沈めた浅草観音の手代、遠島になる。「僧侶の法にそむいた」と浅草観音別当知楽院忠運と代官閉門。8月6日忠運は追放。
・9月18日:以前からの禁止である馬の筋を延ばさないこと
・11月7日:江戸城において、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じる。
・12月16日:旗本清水権之助(清水政広)組の三郎左衛門、新吉原で網を張り鴨を捕る。翌年1月18日牢死。死骸取り捨て。
・12月25日:鷹匠頭の間宮左衛門の同心2人精進日に鶴を捕獲し死罪、鷹師切腹。間宮は職を奪われ閉門。

<貞享3年(1686年)>
・2月3日:「馬の尾を巻くのは雨天の時、縄二重までならよい。馬喰の馬は拵え馬と紛らわしく一切禁止」。
・2月7日:「馬の尾先を焼くのは養生(治療)のためならよい。尾ぐきを切り、焼きごてをあてるのは禁止」。
・6月6日:御小姓の伊東基祐(伊東淡路守)、服忌令を守らず、頬にとまった蚊を手で打ち殺し供奉したため、閉門処分。
・7月19日:大八車でイヌや猫を轢かないように注意することと、最前からの通達のように、野犬に餌をやらないことと、生類のやり取りをしない風潮があるとして、「生類あわれみ」の志をもって対応するように申し付けた法令。
・9月1日:伊予国西条藩主松平頼純(松平左京大夫)使用人の加左衛門、酒を飲み前後不覚、南青山で米を積んだ馬の尻を小刀で刺す。牢舎、追放。
・9月5日:芝車町(港区高輪)長蔵の大八車が船町(日本橋室町)で犬をひき殺す。長蔵は牢舎入り、8日後に赦免される。
・12月16日:永井直敬(永井伊賀守)家来召使、長谷川町(日本橋堀留町)で犬を突き殺す。酒狂い、揚屋(武士などが入る牢屋)入り、同24日赦免。

<貞享4年(1687年)>
・1月1日:病馬を捨てることを禁止
・1月28日:諸藩に初めて生類憐みの令が発令される。「生類の病気が重ければ死なないうちに捨てるように聞いている。不届きである。ひそかに捨てる者がいれば訴え出なさい。褒美を下される」。
・2月4日:江戸城台所頭の天野五郎太夫、八丈島に遠島。本丸の井戸に蓋を忘れ、猫が2匹落ちて死んだ。さらにそれを知らずに井戸水を使って料理を行ったため。
・2月11日:「町内の犬の毛色などを記しておきなさい。いなくなったら犬は探さなくてよい」。
・2月16日:「鷹場での殺生を禁じる。ひそかに鷹を使う者がいれば訴え出なさい」。
・2月21日:「老中に心得違いがあった。養い置いた犬が見えなくなったら尋ねて探しなさい。犬がいなくなった時、よそから別の犬を連れてきて数合わせをしてはならない」。
・2月21日:「(将軍、老臣への)鳥類献上は年に1度、少量。生きた魚、貝類は禁止」と諸大名に命じる。
・2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)
・2月28日:「御触れが出て急に鳥を絞め殺すのはいけない。生きた魚、生いけすの魚、貝類のほか鯉、鮒、海老など生きたものの商売は禁止」貝採り漁民困窮の訴えでひな祭りのハマグリ解禁。
・3月26日:「鳥類(食用)飼育禁止。鶏、アヒル、唐鳥などは餌がないと飢えるので飼ってもよい」。
・3月28日:新銀町(神田司町)の奥平、板橋で犬を切り捕まる。酒酔い記録なし。4月6日江戸追放。
・4月:捨て子を養育すること、人が傷つけた鳥類・畜類は届け出るように通達。
・4月7日:駿河国田中藩主土屋政直(土屋相模守)中間、数寄屋町(中央区銀座)で犬7、8匹に吠えかけられ衣類にかみつかれ、脇差を抜き払い、犬を傷つける。揚屋入り。不意のことにつき、6月4日赦免。
・4月9日:病馬を捨てた武蔵国神流川領寺尾村(横浜市)の3人が三宅島へ遠流に処される。同領代場村の7人も流罪。(武蔵国村民10人)。
・4月10日:小石川御殿番・保泉市右衛門の奴僕角右衛門、喧嘩していた犬を脇差で切り逃走。のち出頭した。八丈島に流罪となる。主人の保泉は俸禄を召上げられる。
・4月11日:「捨て子は届けなくてよい。望むものにあげてよい。金銭は不要」「鳥類、畜類を人が傷つけたら届けなさい。とも食い、自ら痛みわずらう時は届けなくてよい」「主なき犬、居つかないように食べ物をやらないのは不届き。左様にしてはならない」「飼い置いた犬が死んでも別条なければ届けなくてよい」「犬に限らず、生類、人々、慈悲の心を元としてあわれむことが肝要である」。
同日:師匠の弔い帰りの権兵衛、神田鍋町(千代田区鍛冶町)で犬3匹が師匠女房の駕籠に吠えかかり、脇差を抜き追い払い、犬の耳を傷つける。「不届き」と揚屋入り後、6月24日江戸十里四方追放。
・4月21日:「犬猫が死んだら捨ててはいけない。埋めておきなさい」。
・4月23日:「町中で生きたイモリ、黒焼き商売を禁じる」。
・4月30日:江戸城中門を警護する持筒組与力、同心遠慮を命じられる。門上の鳩に小石を投げ追い払ったため。
・5月12日:岡部隠岐守六尺(駕籠かき)角左衛門、当月11日西ノ久保(港区神田町付近)で犬を切り殺す。辻番が捕え、牢舎入り。10月20日牢死。
・6月10日:大八車で味噌を運ぶ召使2人、宇田川町(港区浜松町)でアヒルをひき殺す。牢舎後同24日赦免。
・6月23日:宇田川町(港区)の文四郎、駄馬馬を脇差で切る。馬と百姓けが。酒で記憶なし。7月16日赦免。
・6月26日:多々越甚大夫(旗本秋田季品の家臣)が、徳川家綱の命日である6月8日に、吹矢で燕を撃ち、5歳児の病気養生に食わせたため死罪。これを見ていた同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。
・7月2日:「(江戸の町)どこでも生類売買禁止。虫を飼うこともいけない」。同日、京橋の虫売りが牢舎処分。桧物町(中央区日本橋)の三助、井戸の樋を転んで落とし、これが犬に当たり死んだ。牢舎後、同6日赦免。
・7月3日:馬を引いていた九兵衛、下舟町(日本橋小舟町)で鶏を踏み殺す。牢舎後、8月15日赦免。
・9月13日:「辻番人は生類を傷つけた往来の者がいれば人を同行させ、居所を確かめ、目付に申し出なさい」。
・9月29日:倒れた馬を放って帰り、死なせた武蔵国下仙川村(調布市)の次郎兵衛が牢舎。12月29日八丈島流罪。
・12月9日:「鹿猪の害があれば玉を込めずに鉄砲でおどしなさい」。
・12月12日:「最近も捨て馬する者がいる。この度も流罪を仰せ付けた。今後も重科とする」。
・12月23日:「捨て馬御慈悲をもって今度も流罪とした。理由によっては御代官、地頭の責任とする」。
 月不明:常陸国下館藩主増山正弥(増山兵部)の家来、犬にかまれ、その犬を切り殺した罪で切腹。土屋大和守の家来、犬にかまれ少し犬を切り江戸追放。大和守も遠慮を命じられる。土井信濃守[35]中間、犬をたたいた罪で扶持を奪われる。

<元禄元年(1688年)>
・1月29日:「屋号、人名などに鶴の字、鶴の紋の使用禁止する」。
・2月18日:トビとカラスの巣払い令を出す。江戸町人地を除く。(元禄6年2月から江戸町人地にも発令)。
・4月12日:餌差の弥兵衛、前夜浅草たんぼで網を張り鴨を獲る。揚屋入り後、翌年8月12日隠岐島に流罪。
・5月29日:1月20日に鶏2羽を売った飴売り伊右衛門、品川で獄門。仲介した増上寺門前町(港区)与四兵衛は4月8日に牢死。鳥を買った新堀同朋町与兵衛は5月10日に牢死。岩井町(千代田区岩本町)の清兵衛、品川などで鳥を獲ったと白状し、本所三つ目横堀で獄門。芝金杉(港区)の作右衛門、本所三つ目横堀で獄門。1月26日に同所八兵衛ら茶船を借り、もち縄を使い押上村(墨田区)で白雁4羽を捕らえる。八兵衛は牢中で患い病死。6月19日囚人待遇改善。
・5月30日:鳩をおびき寄せるための鳩笛が役に立たず小細工奉行大類次郎衛と手代ら3人追放、町大工1人手鎖。御城中門で鳩に小石を投げた御小人新右衛門を江戸から追放。
・6月19日:牢死が多く、囚獄(小伝馬町)の待遇改善を命じる。冬に風が吹き抜けないよう所々に格子を設け、行水は月に5度ずつ、宿無しには雑紙をやり、秋には布子を1枚増やして2枚与えるようにした。
・8月22日:餌差頭の内田市郎右衛門父子が佐渡島へ、子弟6人が薩摩国へ流罪。鳥銃を隠していた罪。
・8月27日:留守居番与力の山田伊右衛門、門外に子犬が捨ててあったのを養わなかったため追放。
・10月3日:武蔵国新羽村(横浜市港北区)の西方寺、コウノトリが巣を掛けた木を切り閉門処分。村人も罪を蒙る。
・10月9日:道中奉行御触れ「病牛馬捨ててはいけない。病気の旅人には薬をやり面倒を見なさい」。
・12月25日:武蔵国上忍田村で鳥を捕まえていた百姓の安左衛門、犬が吠えかかるので鎌を投げつけた。犬は左前足に少々けが。名主より訴えがあり、牢舎。翌年2月27日に神津島へ流罪。

<元禄2年(1689年)>
・1月9日:神田鍛冶町の久兵衛、鶏をしめ、毛をむしり捕まる。約2年間牢舎、のち赦免。
・1月16日:芝金杉(港区)の山伏法光院、犬2匹を切り怪我をさせた。酒で記憶なし。牢舎後、2月6日追放。
・2月2日:側用人で犬支配役喜多見重政が罷免され改易。
・2月27日:病馬を捨てた武士14人、農民25人、神津島に流罪。
・3月6日:湯島広小路辻番3人、水路内に犬の死体があり、番を申し付けられたが、近くを立ち回るうちに上流の堰板が外されて増水、犬の死体は押し流されて見えなくなった。3人は牢舎後、江戸五里四方追放処分。
・5月11日:生類憐みの令以前のことが罪に問われた。貞享3年(1686年)9月から同4年(1687年)2月まで持弓頭(城警備担当)の中根正和(中根主税)に捕えられ、牢舎入り。中根の交代[注釈 3]で身柄が後任に引き渡され、以下全員死罪となる。清兵衛・五郎左衛門・鮒屋市郎兵衛・善兵衛・勘兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪。八兵衛、お堀の鯉鮒買い取り、牢屋死罪。安左衛門・仁左衛門・久兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪後、獄門[37]。
・6月28日:「猪鹿狼は害になる時のみ銃で撃ってよい。死骸はそこに埋め、売ること食べることを禁止する」。
・10月4日:評定所目安読の坂井伯隆、閉門。評定所で犬が喧嘩をしているのを止めず、犬が死んだため]。
・10月9日:白金台(港区)の安右衛門ら6人、3月14日猪狩り。薩摩国の島へ流罪。ほか1人、隠岐島へ流罪。
・10月10日:病気の犬にも餌を与えるよう通達。

<元禄3年(1690年)4月18日:常陸国作屋村(つくば市)の酒屋平兵衛、馬を打ち殺し江戸十里四方と在所追放。
・10月25日:捨て子禁止令。「捨て子はいよいよ御禁制である。養育できなければ申し出なさい」。
・11月3日:7歳までの子供の届け出制。「子供の出生、死亡、奉公、養子、引越、名主方の帳面につけ置くこと」。

<元禄4年(1691年)8月12日:小野吉兵衛組の餌差弥五兵衛、隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)4月12日浅草たんぼで鴨を獲り揚屋入り。
・8月11日:「公方様に糞を落しカラス八丈島に島流し」。
・8月12日:上餌差町(文京区小石川)の忠兵衛、揚屋入り約3年半ののち隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)2月放し雀(寺社参りの人が放生する雀)売りの権七に雀50羽を売る。
・8月13日:小石川源覚寺前(文京区)、放し雀売りの権七、揚屋入り約3年半ののち薩摩へ流罪。甲州秋元摂津守領の百姓権左衛門、薩摩へ流罪。鉄砲で鳥打ちした。摂津守家来が召し連れ7年前に揚屋入り。牢内で患い、いったん外に出たが、回復し再度揚屋入り後、流罪。
・10月21日:蛇を使って客を集め、薬を売った南小田原(中央区築地)の藤兵衛、蛇を貸した市右衛門の2人捕まる、市右衛門は11月16日牢死、死骸取り捨て。藤兵衛は翌年2月江戸追放。
・10月24日:蛇使いの興行と、犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
・11月22日:旗本鳥居久大夫の召使三助ら3人死罪。11月11日門前にいた鷺を殺して食べる。

<元禄5年(1692年)>
・1月:喜多見(世田谷区)に病犬を収容する犬小屋を建設する。病馬も収容した。
・2月6日:1年前まで蛇を使い薬売りしていた又兵衛、半年前にやめた次兵衛、牢舎。6月6日江戸追放。
・8月石田坂村(青森県五所川原市)の次兵衛、熊を殺して食し津軽藩より老中に報告。牢舎11か月、新島に流罪。

<元禄6年(1693年)>
・4月30日:「遠国で猪鹿狼の害がある時はまず空砲、害がやまないなら鉄砲で打ち鎮め、下々が難儀しないよう後日大目付に書付を出せばよい。生類憐みは人々に仁心が備わるようにとの思し召しである」。
・8月9日:高田馬場(新宿区)で埋めた猪を掘り出し隠した非人3人、死罪。
・8月、趣味としての釣りを禁止する禁令が通達される

<元禄7年(1694年)>
・3月11日:「馬のもの言い」事件で浪人の筑紫団右衛門、斬罪。流罪を言い渡された八百屋の惣右衛門牢死。とばっちりで落語家の鹿野武左衛門、伊豆大島に流罪。この事件に関して口書(調書)を取られた江戸町民35万3588人。
・7月4日:霊岸島(中央区)の七左衛門、鶏のひなを食った家主の猫を殺す。牢舎後、同12日江戸十里四方追放。
・8月2日:歩行頭佐野内蔵丞の知行所の上飯田村(横浜市泉区)で猪狩りが行われ、内蔵丞は職を奪われ、逼塞処分。
・8月6日:上飯田村の百姓に猪狩りを命じた内蔵丞家来の酒井井伝左衛門、品川(鈴ヶ森刑場)で獄門。猪肉を切り取った百姓5人、隠岐島へ流罪。正直に話さなかった百姓4人追放。訴状を差し出した上飯田村百姓の忠兵衛、江戸市中引き回し品川で磔。息子は遠島。
・11月16日:江戸市中の金魚(赤色)・銀魚(白色)を清浄光寺の放生池に放つことを許可する。ただし放つときにはその数を目付に報告するよう求めている

<元禄8年(1695年)>
・2月10日:このころ千住で磔にされた犬2匹見つかる。「犬公方の威を借りて諸民を悩ます」と捨文。8月9日旗本次男で大番の河村甚右衛門が「無作法の体をなし、その上捨文いたした」罪で斬罪に処せられた。
・6月1日:四谷、大久保の犬小屋落成。同3日「町中の人に荒き犬」は四谷へ送るよう町触れ。「町中の牝犬残らずこの小屋(四谷)に入れ置かれる」と『加賀藩史料』に記されている。
・10月16日:大坂定番で三河国大給藩主松平乗成(松平縫殿頭)組の与力三浦伝之丞と同心8人、同心の子1人の計10人,鳥銃で殺生し鳥を売っていたとして切腹。ほかに浪人1人が死罪獄門、その子は遠島。同組の同心5人遠島、町人2人追放。
・10月25日:本郷菊坂(文京区)の旗本屋敷辻番の八兵衛、溝に捨てられた子犬を別の屋敷脇に捨てる。「母犬が来る所に置いた」と弁明したが、「養わず不届き」と牢舎。11月25日、浅草で斬罪獄門。辻番4人追放。
・11月13日:武蔵・中野村に野犬を収容するための16万坪の「お犬小屋」が設置される
・11月14日:中野犬小屋へ江戸町内の犬の送り込みが始まる。「不日に(すぐに)十万頭に及ぶ」(『徳川実紀』、「おおよそ犬拾金万疋なり」『年録』『柳営日次記』)。

<元禄9年(1696年)
・犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。
・2月7日:新材木町(日本橋堀留町)の半兵衛、子犬を絞め殺し、大伝馬町の孫右衛門の手代2人の名を書いて捨て捕まる。半兵衛の、孫右衛門への恨みによる犯行であった。半兵衛は26日に浅草にて磔。
・5月18日:犬小屋の犬を養うため御犬上げ金を徴収する、と江戸の町々に御触れがあった。7月4日に、御犬上げ金、小間一間(20坪)につき年に金3分を課すと通告。
・5月19日:小石川の水戸家上屋敷前で矢の刺った鴨の死体発見。8月21日小普請奉行の飯田次郎衛門、虚説を申し大島へ流罪、2人追放。犯人不明。
・7月6日:本所相生町3丁目(墨田区)で犬が殺された。大工善次郎の弟子市兵衛が捕えられ、磔となった。通報した娘しもに「ご褒美50両」と町触れが出る。西ノ久保(港区神谷町付近)で切り傷のある犬が見つかった。8月9日、村山長古の召使が掴まり、遠島となる。村山に遠慮仰せつけられる。
・8月17日:大酒飲み禁止令。「酒に酔い、心ならずも不届きする者がいる」。
・8月22日:「捨て子はいけない。妊娠、出産、傷産、流産、3歳までに死亡かなど大家、地主に知らせなさい」。

<元禄10年(1697年)>
・5月18日:御犬上げ金、小間一間につき年金3分を金1分に減額する。
・5月25日:旗本渥美友延(渥美九郎兵衛)召使の折茂小兵衛、死罪。2月24日、渥美家屋敷内で鳩を射殺したため。
・7月4日:芝で犬が切り殺された件で、筑後国久留米藩主有馬中務大輔(有馬頼元)の掃除人2人が牢舎となった。処罰不明。8月13日、有馬頼元、遠慮を命じられる。
・7月27日:銃で殺生をした男、大坂で斬刑。息子の遠島刑猶予を河内国通法寺が隆光を通じ嘆願し、認められる。
・10月9日:全国の造り酒屋に運上金(酒の値段の五割)上納を命じる。
・10月13日:青山宿での捨て犬の件で近藤德用(近藤登之介)組の同心2人、伊東出羽守の辻番人追放。
・10月26日:青山久保町の喜三郎、子馬3匹捨てた罪で、江戸市中引き回し品川鈴ヶ森刑場で獄門。

<元禄11年(1698年)>
・2月15日:本郷3丁目(文京区)の谷口与右衛門、犬を切り殺し千住小塚原刑場で磔。加賀藩屋敷脇で犬に囲まれ、脇差で1匹の頭を傷つけた。母は息子の死を嘆き鈴ヶ森刑場と小塚原刑場に石塔を立てた(『江戸真砂六十帖』)。
・8月8日:出羽国庄内藩の足軽が江戸に向かう途中、野間村(栃木県那須塩原市)で駄賃馬を切り殺した。酒に酔い前後不覚だったため幕府評定所、江戸十里四方と在所追放とする。
画家で芸人の英一蝶、三宅島に流罪となった。流罪に至った理由は諸説あるが、正式採用されたのは「釣りを行った罪」であるとされる。この年、釣り道具の販売禁止が追加で通達されている。

<元禄12年(1699年)
・10月2日:世田谷の20ヵ村に対し、中野犬小屋の犬の養育が提案された。1匹につき年に金3分の養育費を支払う。犬を養育する村はその後増え、宝永3年(1706年から5年(1708年)までに幕府が近郊の百姓に支払った養育金の合計は3万5430両になった(『竹橋余筆』)。1年平均で1万1810両。計算上、犬は1万5747匹養われていたことになる。

<元禄15年(1702年)>
・10月13日:伯楽(馬医)の橋本権之助、飼っていたアヒルを襲った犬を殺し、切腹を仰せ付けられた。

<元禄16年(1703年)>
・2月4日:幕領南山代官所管内(福島県)、南会津西沢村の馬喰彦八、捨て馬により磔。
・12月7日:火事地震につき(11月の「元禄の大火」と同月の「元禄地震」)、当年の犬扶持(御犬上げ金)が免除された。同18日、半年分返却。翌年も赦免。

<元禄17/宝永元年(1704年)>、改元して三月以降は年(1704年)
・2月18日:「生類憐みの志、いよいよ大事である。捨て子、捨て牛馬、捨て犬は堅く禁じる」。
・3月13日:宝永に改元。大地震後も天変地異、大火災、綱吉の肉親の死が続いた。綱吉は祈祷に頼り、生類憐みの令を連発したとされる。
・6月14日:大地震被害が甚大であったため、御犬上げ金赦免。翌年も赦免。

<宝永2年(1705年)>
・6月3日:「牛馬に重荷あるいは嵩高のあるものを負わせてはならない」。
・9月7日:漁師以外の釣り禁止。同20日、愛玩としての鳥の飼育禁止、同28日牛馬犬猫以外の獣類の飼育禁止、など新規項目の御触れが続々追加された。
・11月6日:「鳥方の者、鵜を捕えるのにモチ竿を投げつけるは生類憐みに背く」と追放、押込となる。
・11月25日:切手門番の肥田十郎左衛門の家人が鳥を獲り、肥田も飼育したため職を奪われ閉門。

<宝永3年(1706年)>
・8月18日:中野犬小屋へ犬移しの立ち会いに行った徒目付2人、犬をよく見ていなかったとして追放になる。
・8月21日:旗本岡野宗明(岡野孫市郎)の中間庄兵衛、庭掃除中に鶏と餌の奪い合いをするアヒルを箒で手荒に追い払い死なせた。庄兵衛は遠島。餌詰まりで死亡と検分した徒目付の石黒太夫、北条平七の両名遠島。
・8月30日:「鳥商売、ウナギ、ドジョウの商売禁止。牛馬に重荷だけでなく、かさの張る物も積んではいけない」。

<宝永4年(1707年)>
・2月22日:「雑説流言を申し触れる者がいる。落書捨文はいけない。牛馬に重荷、飼鳥、鳥獣商売一切禁止」。
・8月11日:「鳥商売厳禁。所々の茶屋でアナゴと称しウナギ蒲焼を売ると聞く。その者は召し捕り牢舎する」。
・8月27日:小石川御殿で放し飼いにされていた鶴が死に、御殿の鳥飼番4人が重追放処分を受けた。

<宝永5年(1708年)>
・7月19日:「前々より触れている通り漁師以外釣り、鳥商売、茶屋でのウナギ、ドジョウ料理は禁止である」。
・9月29日:小姓組の仙石左門、馬が途中で患い出したが、粗末に扱い、閉門を仰せ付けられる。
・10月27日:寄り合い番3人が酔って馬に傷をつけ、1人追放、2人は遠慮。
・12月16日:最後の生類憐みの令。「馬持ちの者、1人で2、3匹引き歩く者がいると聞く。万一馬が病気になったり、けがをしたりした時によろしくない。1人1匹にしなさい」。

<宝永6年(1709年)>
・1月10日:綱吉、はしかで死去。
・1月20日:生類憐みの禁が解かれた。町奉行御触れ「生類の儀、今後は(幕府から)おかまいはない。もっとも憐れむことは憐れみなさい」。小石川・鳥屋敷に飼い置いていたトビ、カラスを放す。
・2月1日:鳥獣が死んだ時の検死をやめ、将軍家の食材の禁制を廃止した。
・2月2日:小石川の野鶴畜養所を廃止し、野鶴を放す。
・3月1日:老中列座に仰せ。「鼠は衣類を害するので猫を飼い、鼠を捕らせなさい。鹿猪は田畑を荒らし人が困るので殺し、その皮は売り買い致し、肉は食べるものである」。
・3月2日:酒運上金を廃止。鳥、ウナギ、ドジョウの商売を解禁し、囚獄に入れられていた者(人数不明)を釈放する。

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