ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 社会

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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、厚生省が、「児童福祉法」に基づき母子手帖(現在の母子健康手帳)の配布を開始した日です。
 母子健康手帳(ぼしけんこうてちょう)は、「母子保健法」第16条に基づき、妊娠を届け出た者に対して、厚生労働省令の定めによって交付される、妊娠・出産の状況や、乳児の発育状態などを記録するための手帳です。歴史的には、厚生省(現在の厚生労働省)が、太平洋戦争中の1942年(昭和17)に、「妊産婦手帳規定」をつくり、妊娠を届け出た者に配布したのに始まりました。
 敗戦後の1947年(昭和223)に、「児童福祉法」が制定されたのに伴い、翌年5月12日から母子手帖として子どもの記録欄も加えられた24頁の手帳の配布が始まります。その後、1965年(昭和40)に、「母子保健法」が制定されて、母子健康手帳と改称され、医学的記録のほかに妊娠・出産・育児情報が充実され、46頁の手帳となりました。
 妊産婦や乳幼児の保健指導の基礎資料となると共に、乳幼児の保護者に対する育児書の役割も果たしています。手帳の様式の前半部分は妊娠、出産までの記録、出生した子どもについては小学校入学までの定期健康審査、予防接種(ジフテリア、百日咳、破傷風、ポリオ、麻疹など)、歯の検査などの記録欄があり、後半部分は、各市町村の地域特性を生かした内容で作られてきました。

〇「児童福祉法」(じどうふくしほう)とは?

 児童の心身の健全な成長、生活の保障、愛護を理念として、その目的達成のために必要な諸制度を定めた総合的法律で、社会福祉六法の1つとされてきました。
 太平洋戦争後、親や家族、家を失って食べることも儘ならない児童が都市部中心に溢れ、一刻も早く救済・保護することが求められることになります。その中で、1947年(昭和22)5月5日に施行された「日本国憲法」が規定した基本的人権の考え方に基づいて作られました。
 第一特別国会で制定され、1947年(昭和22年)12月12日に法律第164号として公布、翌年4月1日に施行されます。
 「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない。」「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない。」(第1条)とされ、そのための国・地方公共団体の責任、児童福祉司などの専門職員、育成医療の給付等福祉の措置、児童相談所、保育所等の施設、費用問題等について定められました。
 その後の社会変化に応じて、度々改正が繰り返され、1997年(平成9)の改正では、親の希望による保育所の選択、年齢に応じた保育費の均一化、2004年(平成16)の改正では児童虐待に対応するための措置が盛り込まれています。

☆「児童福祉法」(抄文)


第一章 総 則

第一条 すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない。
2 すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない。

第二条 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。

第三条 前二条に規定するところは、児童の福祉を保障するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたつて、常に尊重されなければならない。

第一節 定 義

第四条 この法律で、児童とは、満十八歳に満たない者をいい、児童を左のように分ける。
一 乳児 満一歳に満たない者
二 幼児 満一歳から、小学校就学の始期に達するまでの者
三 少年 小学校就学の始期から、満十八歳に達するまでの者

2 この法律で、障害児とは、身体に障害のある児童、知的障害のある児童、精神に障害のある児童(発達障害者支援法(平成十六年法律第百六十七号)第二条第二項に規定する発達障害児を含む。)又は治療方法が確立していない疾病その他の特殊の疾病であつて障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(平成十七年法律第百二十三号)第四条第一項の政令で定めるものによる障害の程度が同項の厚生労働大臣が定める程度である児童をいう。

第五条 この法律で、妊産婦とは、妊娠中又は出産後一年以内の女子をいう。

第六条 この法律で、保護者とは、第十九条の三、第五十七条の三第二項、第五十七条の三の三第二項及び第五十七条の四第二項を除き、親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護する者をいう。

 (以下略)

       「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破る(新暦6月24日)詳細
1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1787年(天明7)天明大飢饉で大坂の庶民が米屋を襲撃し、天明の打ちこわしが始まる(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1948年(昭和23)太宰治が 『人間失格』を脱稿する詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、国民精神総動員運動の一環として節米運動が開始され、週1日の「節米デー」が定められた日です。
 節米運動(せつまいうんどう)は、日中戦争以降の戦時体制下で、物資が不足の中において、食糧確保のために主食の米をできるだけ節約する運動です。1937年(昭和12)10月12日 挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まりました。
 その中で、1939年(昭和14)11月に、先鞭をつけ、京都府で駅弁の代用として焼き芋が用いられましす。1939年(昭和14年)12月1日に、「白米禁止令」(正式名:米穀搗精等制限令)が施行され、7分づき以上の米(種皮や胚芽を7割以上除去した米)の販売が禁止されました。
 1939年(昭和14)8月に、興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、日の丸弁当が推奨されるようになります。同年11月に、節米運動の先鞭をつけ、京都府で駅弁の代用として焼き芋が用いられ、1939年(昭和14)12月1日には、「白米禁止令」(正式名:米穀搗精等制限令)が施行され、7分づき以上の米(種皮や胚芽を7割以上除去した米)の販売が禁止されました。
 1940年(昭和15)1月に、昼食を時々代用食とする旨が記述されるようになり、1940年(昭和15)5月10日から、国民精神総動員運動の一環としての節米運動が開始され、週に1度の「節米デー」が設定されます。1940年(昭和15)7月に、3日に1食は代用食をとること、飯に米以外の具材を1割以上混ぜることを「必ず実行しませう」と、語気が強調され、1940年(昭和15)8月には、東京市の食堂で米飯が全廃され、うどんやパン類のメニューが登場しました。
 1941年(昭和16)4月1日に、六大都市では「米穀割当配給制実施要綱」に基づき、米穀配給通帳が導入され、入手可能な米の量が制限され、節米は必須となり、1942年(昭和17)4月1日から、米穀配給通帳の導入が全国的に開始され、米の販売は完全に統制されることとなります。

〇節枚運動関係略年表

・1918年(大正7) 全国に米騒動が広がり、原内閣はパンの代用食運動を推進する
・1919年(大正8) 白米の節食運動の一環として、医師による日本主食改良会が発足する
・1937年(昭和12)8月24日 「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定される
・1937年(昭和12)10月12日 挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まる
・1939年(昭和14)8月 興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、日の丸弁当が推奨される
・1939年(昭和14)11月 節米運動の先鞭をつけ、京都府で駅弁の代用として焼き芋が用いられる
・1939年(昭和14)12月1日、「白米禁止令」(正式名:米穀搗精等制限令)が施行され、7分づき以上の米(種皮や胚芽を7割以上除去した米)の販売が禁止される
・1940年(昭和15)1月 昼食を時々代用食とする旨が記述されるようになる
・1940年(昭和15)5月10日 国民精神総動員運動の一環として節米運動が開始され、週に1度の「節米デー」が設定される
・1940年(昭和15)7月 3日に1食は代用食をとること、飯に米以外の具材を1割以上混ぜることを「必ず実行しませう」と、語気が強調される
・1940年(昭和15)8月 東京市の食堂で米飯が全廃され、うどんやパン類のメニューが登場する
・1941年(昭和16)4月1日 六大都市では「米穀割当配給制実施要綱」に基づき、米穀配給通帳が導入され、入手可能な米の量が制限され、節米は必須となる
・1941年(昭和16)7月 文部省が発行した冊子『臣民の道』にも、物資の輸入は外米よりも軍需品を優先するよう記述がなされる
・1942年(昭和17)4月1日 米穀配給通帳の導入が全国的に開始される

☆国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まり、翌日から、第1回国民精神総動員強調週間(~19日)が開始されます。
 「ぜいたくは敵だ!」などの標語を街頭・新聞などで掲げ、パンフレットや教育映画・ラジオなど、メディアを使った宣伝に努めました。また、子供向けには、銃後支援、軍事援護、国民貯蓄奨励などを題材にした国策紙芝居が製作され、小学校を中心に上演されます。
 その中で、翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。
 1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

892年(寛平4)菅原道真が『類聚国史』を撰進する(新暦6月2日)詳細
1863年(文久3)長州藩が下関海峡に碇泊中のアメリカ商船に砲撃し、下関事件が始まる(新暦6月25日)詳細
1871年(明治4)「新貨条例」が公布され、「円・銭・厘」の十進法が採用される(新暦6月27日)詳細
1895年(明治28)三国干渉により遼東半島を清に返還する旨の「遼東半島還付の詔勅」が出される詳細
1900年(明治33)『鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行される詳細
1930年(昭和5)日本画家下村観山の命日詳細
1949年(昭和24)シヤウプ使節団のシャウプ博士、ヴィックリ一博士、ハットフィールド氏が来日する詳細
1964年(昭和39)国鉄柳ヶ瀬線(長浜~柳ヶ瀬)がこの日限りで廃止され、柳ヶ瀬トンネルの鉄道利用が終了する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1683年(天和3)に、八百屋お七が鈴ヶ森刑場で火炙りの極刑に処せられた日ですが、新暦では4月25日となります。
 八百屋お七(やおやおしち)は、江戸時代前期の1668(寛文8)に、江戸・本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘として生まれたとされています。1682年 (天和2年12月28日) の天和の大火で円乗寺に避難の際、寺小姓山田佐兵衛と情を通じました。
 家に戻った後、吉祥寺門前に住むならず者吉三郎にそそのかされ、火事があれば庄之助と会えると思い込み、翌年3月2日夜放火して捕らえられました。その結果、火付の大罪人として、1683年(天和33月29日)に、鈴ヶ森刑場で火炙りの極刑に処せられます。
 事件後3年目の1686年(天和6)に、井原西鶴の『好色五人女』に書かれて以後、元禄年間(1688~1704年)には歌祭文にうたわれて有名になり、広く劇化されるようになり、浄瑠璃・歌舞伎で上演・脚色されました。

<八百屋お七を取り上げた作品>

・浮世草子『好色五人女』(1686年)井原西鶴著
・浄瑠璃『八百屋お七歌祭文』(1704年)紀海音(きのかいおん)作
・歌舞伎『お七歌祭文』(1706年春)大坂嵐三右衛門座、吾妻三八作
・浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜(こいのひざくら)』(1717年)
・浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』(1773年)
・歌舞伎『其往昔(そのむかし)恋江戸染』(1809年3月)森田座、福森久助作

〇天和の大火(てんなのたいか)とは?

 江戸時代前期の1683年1月25日(天和2年12月28日)正午頃に江戸・駒込の大円寺(現在の東京都文京区向丘一丁目)から出火した大火です。その後、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がり、加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。
 続いて、本郷から湯島・神田方面から、柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火します。そして、回向院もまもなく焼失、さらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日の午前5時頃に鎮火しました。
 この大火によって、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95にも及び、死者は最大3,500名余と言われ、江戸の十大火事の一つとされています。これにより、両国橋も焼け、本所の開発は中止となり、深川芭蕉庵も焼けて、俳聖・松尾芭蕉は水に潜ってかろうじて助かりました。
 また、井原西鶴著『好色五人女』でも取り上げられ、その登場人物で八百屋の娘お七の名を取って、「お七火事」とも称されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

730年(天平2)奈良・薬師寺の三重塔(東塔)が建立されたとされる(新暦4月20日)詳細
1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1909年〈明治42〉文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の誕生日詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、新潟市内で大火「若狭屋火事」が起き、1,198戸が焼失した日です。
 明治41年3月の新潟大火「若狭屋火事」は、明治時代後期の1912年(明治45)3月8日に、新潟県新潟市で起きた大火です。この日の午前6時半頃に、新潟市古町通8番町の芸者置屋「若狭屋」から出火して、信濃川方面に燃え広がりましたが、木造家屋が多く、消火設備や耐火建築が進んでいなかったために、東堀7番町、東堀通7・8番町、本町通6~8番町、上大川前通1~3番町など、下町の繁華街一帯が類焼しました。
 これによって、市内中心部の西三分の二にあたる1,198戸が焼失し、市役所、警察署、郵便局、電話局なども焼け、その余波を受けて萬代橋も類焼しています。このため、二代目萬代橋が完成するまで仮つり橋を掛けて不便をしのぎました。
 また、同年、9月4日にも、再度の大火があり、全焼2,071戸、半焼18戸を出し、この2回の大火にこりて、新潟市は、上水道を整備したと言われています。その後、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、昭和新潟大火が起こり、行方不明者1名、負傷者235名、焼失家屋892棟を出しました。

〇明治・大正時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火・地震によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火「若狭屋火事」(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)
・1914年(大正3)2月20日 東京神田大正2年三崎町の大火(全焼2,376戸、半焼54戸)
・1917年(大正6)5月22日 大正6年米沢大火(死者11名、負傷者80余名、焼失2,294戸)
・1919年(大正8)5月19日 大正8年米沢大火(死者1名、焼失1,071戸)
・1921年(大正10)4月6日 東京の大正浅草大火(全焼1,227戸、半焼73戸)
・1924年(大正13)5月21日 八戸大火(死者4名、被災戸数1,393棟)
・1925年(大正14)3月18日  大正日暮里大火(全半焼約2,100戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

702年(大宝2)文武天皇が初めて全国的に統一された度量(物差しと枡)を定め、諸国に頒布する(新暦4月9日)詳細
1708年(宝永5)京都で「宝永の大火」が起こり、1万軒以上を焼失する(新暦4月28日)詳細
1842年(天保13)日本画家川端玉章の誕生日(新暦4月18日)詳細
1919年(大正8)小説家水上勉の誕生日詳細
1922年(大正11)「史蹟名勝天然紀念物保存法」で、初の国の名勝として天橋立、三保松原、偕楽園等9件が指定される詳細
1923年(大正12)赤瀾会が東京・神田で日本初の国際婦人デー集会を開催する詳細
1940年(昭和15)津田事件によって、津田左右吉・岩波茂雄が出版法違反で起訴される詳細
1954年(昭和29)「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」(MSA協定)が締結される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、大奥年寄の絵島が「絵島生島事件」の処分で信州高遠へ追放された日ですが、新暦では4月18日となります。
 江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸城大奥で起こった風紀紊乱事件です。この年の1月14日に、江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が、芝の増上寺へ参詣した帰途、山村座に立寄って芝居見物をし、桟敷および座元の居宅で遊興して帰城し際、大奥の門限に遅れました。
 このことから、役者生島新五郎と密通を疑われ、「風紀の乱れを正す」として江島・生島新五郎の2人をはじめ大奥の女中や出入りの医者・商人など、1,500人近くが処罰されます。江島は、同年3月5日に信州高遠藩主内藤清枚に預けられ、山村長太夫・歌舞伎俳優生島新五郎も遠島となり、山村座は解散を命じられました。
 江島は、高遠藩の江島囲屋敷に幽閉されましたが、1722年(享保7年)に、高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年には、月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められます。しかし、1741年(寛保元年4月10日)に、囲屋敷において、数え年61歳で亡くなりました。
 一方、生島新五郎は、三宅島に流刑となりましたが、1742年(寛保2年2月)に、徳川吉宗により赦免され江戸に戻り、翌年1月5日に、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなったとされるものの、1733年(享保18年)に三宅島で亡くなったたという説もあります。

〇江島生島事件関係略年表(日付は旧暦です)

・1671年(寛文11年) 生島新五郎が、大坂で生まれる
・1681年(天和元年) 江島(本名疋田みき)が、三河国において、甲府藩士・疋田彦四郎の娘として、生まれる
・1684年(貞享元年) 生島新五郎が、野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ
・1691年(元禄4年)、野田蔵之丞が生島新五郎と改名し、当時を代表する人気役者となる
・1714年(正徳4年1月12日) 江戸城大奥年寄役・絵島が俳優生島新五郎らとの宴会により大奥の門限に遅れ、絵島生島事件の発端となる
・1714年(正徳4年) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷に幽閉され、生島新五郎が、三宅島に流刑となる
・1722年(享保7年) 高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせる
・1723年(享保8年) 月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められる
・1741年(寛保元年4月10日) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷で、数え年61歳で亡くなる
・1742年(寛保2年2月) 生島新五郎が、徳川吉宗により赦免され江戸に戻る
・1743年(寛保3年1月5日) 生島新五郎が、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

765年(天平神護元)称徳天皇が「墾田永年私財法」の停止(加墾禁止令)を勅する(新暦3月30日)詳細
1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1897年(明治30)法学者・中国現代史研究者・平和運動家平野義太郎の誕生日詳細
1926年(大正15)「労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
1951年(昭和26)無着成恭編『山びこ学校』が刊行される詳細
1966年(昭和41)英国海外航空(BOAC)911便が富士山上空で山岳波により空中分解(英国海外航空機空中分解事故)する詳細
1970年(昭和45)「核拡散防止条約」(略称:NPT)が発効する詳細
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