ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 社会

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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、「警防団令」が公布(施行は同年4月1日)された日です。
 「警防団令」(けいぼうだんれい)は、昭和時代前期の1939年(昭和14)1月25日に公布(施行は同年4月1日)された、主に空襲或いは災害から市民を守るために警防団を作るための勅令(昭和14年勅令第20号)です。1937年(昭和12)に「防空法」が制定され、国際情勢が悪化してゆく中、国防体制の整備が急がれるようになり、1938年(昭和13)には、内務次官名で消防組、防護団の統一について両団体統合要綱案が通牒され、勅令制定の基礎となる両団体統合の要綱が決定されました。
 そして、本勅令により、消防団と防護団を統合し新たな警防組織である警防団が設けられることになります。これにより、「警防団ハ防空、水火消防其ノ他ノ警防ニ従事ス」(第1条)と定められ、水火災の予防と鎮圧、天災地変等の災害警備、灯火管制・防空監視・交通整理・避難救護・警護・防毒・配給・工作等幅広いものになりました。警防団の指揮監督権は所轄の警察署長が有し、市町村長には指揮権はなく、警察の補助機関としての役割を果たします。
 しかし、太平洋戦争敗戦後、米国調査団の報告により、警察と消防の分離が勧告され、連合国最高司令官総司令部(GHQ)からの警察制度の改革について指示が出されました。これにより、1947年(昭和22)4月30日に、「消防団令」が公布されて従来の警防団は解消され、新たに全国の市町村に自主的な消防団が組織されることとなります。
 以下に、「警防団令」(昭和14年勅令第20号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「警防団令」(昭和14年勅令第20号) 1939年(昭和14)1月25日公布、同年4月1日施行

第一条 警防団ハ防空、水火消防其ノ他ノ警防ニ従事ス

第二条 地方長官(東京府ニ在リテハ警視総監以下之ニ同ジ)ハ職権又ハ市町村長ノ申請ニ依リ警防団ヲ設置スルモノトス

第三条 前条ノ警防団ニ非ザレバ警防団ノ名称ヲ用フルコトヲ得ズ

第四条 警防団ノ区域ハ市町村ノ区域ニ依ル但シ土地ノ状況ニ依リ市町村內ニ於テ適宜区域ヲ定ムルコトヲ得

第五条 警防団ハ団長、副団長、分団長、部長、班長及警防員ヲ以テ之ヲ組織ス但シ分団長、部長又ハ班長ハ之ヲ置カザルコトヲ得

第六条 団長及副団長ハ地方長官、其ノ他ノ団員ハ警察署長之ヲ命免ス

第七条 団長ハ団員ヲ統率シ団務ヲ掌理ス
 副団長ハ団長ヲ補佐シ団長事故アルトキハ之ヲ代理ス
 分団長、部長及班長ハ上長ノ命ヲ承ケ団員ヲ指揮シテ業務ニ従事ス

第八条 警防団ハ地方長官之ヲ監督ス
 警察署長ハ地方長官ノ命ヲ承ケ警防団ヲ指揮監督ス

第九条 警防団ハ警察部長(警視庁ニ在リテハ警務部長但シ水火消防ニ関シテハ消防部長以下之ニ同ジ)又ハ警察署長ノ指揮ニ従ヒ行動スベシ但シ緊急已ムヲ得ザル場合ニ於テハ市町村長又ハ団長ノ指揮ニ従ヒ行動スルヲ妨ゲズ
市町村長ハ其ノ担当スル防空業務ニ付警察署長ニ協議シ警防団ニ指示スルコトヲ得

第十条 警防団ハ警察部長又ハ警察署長ノ命ニ依リ其ノ区域外ノ警防ニ応援スベシ

第十一条 地方長官及警察署長ハ警防団ノ訓練ヲ行フベシ

第十二条 警視庁官制及特設消防署規程ニ依リ設置スル消防署ノ管轄区域ニ於テハ本令中水火消防ニ関スル警察署長ノ職務ハ消防署長之ヲ行フ

第十三条 警防団員ノ服務紀律及懲戒ニ関スル規程ハ地方長官之ヲ定ム

第十四条 警防団員ノ定員及給与並ニ警防団ニ必要ナル設備資材ハ市町村会ニ諮問シ地方長官之ヲ定ム
 前項ノ設備資材ハ市町村ニ於テ之ヲ備フベシ

第十五条 警防団ニ関スル費用ハ市町村ノ負担トス

第十六条 市町村長ハ地方長官又ハ警察署長ノ諮問ニ応ジ警防団ニ関シ意見ヲ答申スベシ

第十七条 町村組合ニシテ町村ノ事務ノ全部又ハ役場事務ヲ共同処理スルモノハ本令ノ適用ニ付テハ之ヲ一町村、其ノ組合管理者ハ之ヲ町村長ト看做ス
 町村制ヲ施行セザル地ニ於テハ本令中町村ニ関スル規定ハ町村ニ準ズベキモノニ、町村長ニ関スル規定ハ町村長ニ準ズベキ者ニ之ヲ適用ス

第十八条 內務大臣ノ指定スル市ニ於テハ警防団ノ外地方長官ノ認可ヲ受ケ市長ハ其ノ担当スル防空業務ニシテ地方長官ノ指定スルモノニ従事セシムル団体ヲ設置スルコトヲ得

第十九条 第四条乃至第十一条及第十五条ノ規定ハ前条ノ団体ニ之ヲ準用ス但シ地方長官又ハ警察部長トアルハ市長、警察署長トアルハ市長ノ定ムル者トス

第二十条 地方長官警防業務ノ統制上必要アリト認ムルトキハ第十八条ノ団体コトヲ得

第二十一条 第十八条ノ団体ノ名称及組織並ニ条員ノ定員、服務方法、服務紀律、懲戒、服裝及給与ニ関スル事項ハ地方長官ノ認可ヲ受ケ市長之ヲ定ム

附 則

 本令ハ昭和十四年四月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ警防団及第十八条ノ団体ノ設置ニ必要ナル手続ニ関スル規定ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
 消防組規則ハ之ヲ廃止ス

            「法令全書」より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
1960年(昭和35)三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入する詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)により、太陽暦が施行され、明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日になった日です。
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(たいいんれきをはいしてたいようれきをはんこうす)」(改暦ノ布告)は、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用することを定めた布告(明治5年太政官布告第337号)でした。それまでの太陰太陽暦は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月間の日付を決め、数年に1回閏月をおいて一年を13ヶ月として、太陽の運行による周期太陽年(回帰年)を考慮して季節を調節していく暦法(旧暦)でしたが、地球が太陽のまわりを一回転する時間を一年とする太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、一年を365日とし、また四年に一度閏年をおいて366日とするように改めたものです。
 この布告は、年も押し迫った時期に急遽公布され、一部に混乱をもたらしたとされるものの、明治新政府の官吏への報酬は月給制に移行していて、太陰太陽暦だと1年間に13回支給しなければならない年が翌年(明治6年)に当たり、当時の財政難の中で考慮されたとされてきました。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11ヶ月分で済ますことができています。
 尚、暦の販売権をもつ弘暦者は、従来の暦が返本され、また急遽新しい暦を作ることになって、甚大な損害をこうむることになりました。その中で、福澤諭吉は、太陽暦施行と同時の1873年(明治6)1月1日付けで慶應義塾蔵版の暦本「改暦辨」を刊行し、忽ち10万部が売れて大ヒットしています。
 以下に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太陰曆ヲ廢シ太陽曆ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告)1872年(明治5年11月9日)発布

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年太政官布告第337号)

今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事

(別紙)

詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ屬シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晚ノ變ナク四歲每ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ依テ自今舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ

  明治五年壬申十一月九日

    ○

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新曆鏤板出來次第頒布候事
 
一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事 
一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱候事 
一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事
 
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 

太陽曆 一年三百六十五日    閏年三百六十六日四年每ニ置之 
一 月 大 三十一日         其一日 卽舊曆 壬申 十二月三日 
二 月 小 二十八日閏年二十九日  其一日 同 癸酉 正月四日 
三 月 大 三十一日         其一日 同   二月三日 
四 月 小 三十日           其一日 同   三月五日 
五 月 大 三十一日         其一日 同   四月五日 
六 月 小 三十日           其一日 同   五月七日 
七 月 大 三十一日         其一日 同   六月七日 
八 月 大 三十一日        其一日 同   閏六月九日 
九 月 小 三十日           其一日 同   七月十日 
十 月 大 三十一日         其一日 同   八月十日 
十一月小 三十日          其一日 同   九月十二日 
十二月大 三十一日         其一日 同   十月十二日 

大小每年替ルヿナシ

時刻表
  
  零時卽午後
  十二時    子刻   一時    子半刻  二時    丑刻  三時     丑半刻 
午 四時     寅刻   五時    寅半刻  六時    卯刻  七時     卯半刻 
前 八時     辰刻   九時    辰半刻  十時    巳刻  十一時    巳半刻 
  十二時    午刻    

午 一時     午半刻  二時    未刻  三時     未半刻  四時    申刻 
後 五時     申半刻  六時    酉刻  七時     酉半刻  八時    戊刻 
  九時     戊半刻  十時    亥刻  十一時    亥半刻  十二時   子刻 

右之通被定候事
  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1041年(長久2)平安時代中期の公卿・歌人藤原公任の命日(新暦2月4日)詳細
1720年(享保5)第115代の天皇とされる桜町天皇の誕生日(新暦2月8日)詳細
1897年(明治30)尾崎紅葉著の『金色夜叉』が読売新聞で連載開始される詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
1950年(昭和25)「年齢のとなえ方に関する法律」が施行され、年齢の表示を満年齢に一本化される詳細
1995年(平成7)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」によって、世界貿易機関(WTO)が発足する詳細
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shinnihonfujinkyoukaisoukai
 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、新婦人協会が内部対立のために解散した日です。
 新婦人協会(しんふじんきょうかい)は、大正時代に日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体でした。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めます。
 1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約(全21条)を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになりました。男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みます。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めました。その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しています。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至りましたが、約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員

<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言

 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領

一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)

一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より

☆平塚らいてふ(ひらつか らいちょう)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した評論家・婦人解放運動家です。明治時代前期の1886年(明治19)2月10日に、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)で、会計検査院高官だった父・平塚定二郎と母・光沢の3女として生まれましたが、本名は明(はる)と言いました。
 知的で裕福な家庭で、ハイカラで自由な環境で育ち、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を経て、1903年(明治36)に日本女子大学校家政学部へ入学しました。しかし、良妻賢母教育に失望して、文学、哲学、宗教などの本を読み、参禅し自我を追求、1906年(明治39)に卒業します。
 その後、英語を学びましたが、1908年(明治41)に森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)を起こしました。1911年(明治44)に生田長江にすすめられ、母から資金提供を受け、婦人文芸集団青鞜社を興し、雑誌『青鞜』を発刊以後、編集と経営にあたります。
 その創刊の辞「元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――」は、「新しい女」の出現を主張し、今日に至る女権宣言となりました。1914年(大正3)には、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけています。
 1920年(大正9)に、市川房枝、奥むめおらと新婦人協会を発足させ、婦人参政権運動に取り組みました。1930年(昭和5)に高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加して『婦人戦線』に関与、また協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立しています。
 太平洋戦争後は、反戦・平和運動に力を注ぎ、1953年(昭和28)に日本婦人団体連合会会長、1962年(昭和37)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成しました。晩年まで、安保条約廃棄やベトナム反戦運動に関わりましたが、1971年(昭和46)5月24日に、東京において、85歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥の命日詳細
1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、東京タワーの公開が開始(正式営業開始は23日)された日です。
 東京タワー(とうきょうたわー)は、昭和時代中期の1958年(昭和33)12月23日に竣工した、東京都港区にある総合電波塔で、正式名称は「日本電波塔」といい、各種電波の送受信に用いられていました。しかし、2012年(平成24)の東京スカイツリー開業に伴い、翌年5月からは、放送大学以外の地上デジタルテレビ放送7局の送信所が東京スカイツリーに移転し、予備電波塔となとなり、“日本一高いタワー”の地位も譲っています。
 設計は、内藤多仲により、正方形の断面をもった立体トラスの鋼構造で、高さは333mあり、150mと250mのところにある展望台からは、関東平野が一望できます。以前は、東京へ旅行した時に必ず立ち寄る観光名所の一つでした。
 尚、2013年(平成25)には、国の登録有形文化財となっています。また、全国の有名なタワー20で構成される「全日本タワー協議会」というのがあり、東京タワーも加盟していて、「スタンプラリー」を実施しています。スタンプを集めると認定証と記念品がもらえますので、チャレンジしてみても面白いのではないでしょうか。

〇東京タワー関係略年表

・1957年(昭和32)5月8日  日本電波塔株式会社を設立される
・1957年(昭和32)6月29日 地鎮祭が執り行われ着工する
・1958年(昭和33)10月9日 審査会において愛称「東京タワー」を決定する
・1958年(昭和33)12月7日 公開開始(プレオープン)する
・1958年(昭和33)12月23日 完工式挙行、正式オープンする
・1959年(昭和34) NHK教育テレビジョン、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)、フジテレビジョンが本放送を開始する
・1960年(昭和35) ラジオ東京(現・TBSテレビ)が赤坂の自社敷地から主送信所を移転する
・1964年(昭和39) 日本科学技術振興財団テレビ事業本部(現・テレビ東京)が本放送を開始する
・1966年(昭和41)1月2日 来塔者数が3,000万人となる
・1967年(昭和42)7月28 特別展望台がオープンする。
・1970年(昭和45)3月20日 東京タワー蝋人形館が3階にオープンする
・1971年(昭和46)8月18日 来塔者数が5,000万人となる
・1978年(昭和53)4月28日 東京タワー水族館がオープン(世界初の観賞魚水族館)する
・1989年(平成元)7月25日 来塔者数が1億人となる
・1994年(平成6) 「東京タワートリックアートギャラリー」がタワービル4階に登場する
・1995年(平成7)1月 来塔者数が1億2,000万人となり、日本の総人口に相当する人数が来塔したことを記念してキャンペーンを行う
・1995年(平成7)11月1日 東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ、TOKYO MX)が本放送を開始する
・2002年(平成14)3月19日 特別展望台・大展望台がリニューアルオープンする
・2006年(平成18)9月29日 来塔者数が1億5,000万人となる
・2009年(平成21)12月31日 開業以来営業してきた、タワー大食堂(タワーレストラン)が営業終了する
・2011年(平成23)7月24日 地上アナログテレビ放送がこの日の正午で終了し、24時で地上アナログテレビ放送の送信が停止された
・2013年(平成25)6月21日 国の登録有形文化財に登録される
・2018年(平成30)1月25日 来塔者が1億8,000万人突破する
・2019年(令和元)10月1日 運営会社の商号を「株式会社東京タワー」から「株式会社TOKYO TOWER」に変更する

〇「全日本タワー協議会」とは?

 1961年(昭和36)に、東京タワー、通天閣、名古屋テレビ塔の3つで発足しましたが、現在は、日本国内の20のタワーで運営されている協議会で、全国を4つのブロックに分けて活動しています。
 2006年(平成18)から、10月1日を「展望の日」と定め、各加盟タワーにおいて、来場者へ特典プレゼントを贈呈するなどのイベントが行われるようになりました。
 また、2010年(平成22)の「展望の日」から、「All-Japan20タワーズスタンプラリー」を実施していて、各加盟タワーを訪問してスタンプを集め、ブロック全てのスタンプを集めた来場者にはブロック認定証と記念品が、20タワー全てのスタンプを集めた来場者には完全制覇認定証と特別記念品が贈られています。

☆全日本タワー協議会加盟タワー一覧

<イースト>
・さっぽろテレビ塔(北海道)
・五稜郭タワー(北海道)
・銚子ポートタワー(千葉県)
・千葉ポートタワー(千葉県)
・東京タワー(東京都)
・横浜マリンタワー(神奈川県)

<セントラル>
・名古屋テレビ塔(愛知県)
・東山スカイタワー(愛知県)
・東尋坊タワー(福井県)
・ツインアーチ138(愛知県)
・クロスランドタワー(富山県)

<カンサイ>
・通天閣(大阪府)
・京都タワー(京都府)
・神戸ポートタワー(兵庫県)
・空中庭園展望台(大阪府)

<ウエスト>
・福岡タワー(福岡県)
・ゴールドタワー(香川県)
・海峡ゆめタワー(山口県)
・夢みなとタワー(鳥取県)
・別府タワー(大分県)

☆日本のタワーの高さベスト10(一般に登れるもの限定)

1.東京スカイツリー(634m) 東京都墨田区―2012年完成
2.東京タワー(333m) 東京都港区―1958年完成
3.福岡タワー(234m) 福岡県福岡市早良区―1989年完成
4.スカイタワー西東京(195m) 東京都西東京市―1988年完成
5.名古屋テレビ塔(180m) 愛知県名古屋市中区―1954年完成
6.ゴールドタワー(158m) 香川県綾歌郡宇多津町―1988年完成
7.海峡ゆめタワー(153m) 山口県下関市―1996年完成
8.さっぽろテレビ塔(147.2m) 北海道札幌市中央区―1957年完成
9.セリオン[秋田市ポートタワー](143m) 秋田県秋田市―1994年完成
10.ツインアーチ138[木曾三川公園] (138m) 愛知県一宮市―1995年完成

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

721年(養老5)第43代の天皇とされる元明天皇の命日(新暦12月29日)詳細
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1995年(平成7)白川郷・五箇山の合掌造り集落(岐阜県・富山県)が世界遺産(文化遺産)に登録される詳細
2001年(平成13)「文化芸術振興基本法」(平成13年法律第148号)が公布・施行される詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)により、翌日が太陽暦の1月1日となり、太陰暦での最後の日となった日ですが、新暦では12月31日となります。
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(たいいんれきをはいしてたいようれきをはんこうす)」(改暦ノ布告)は、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用することを定めた布告(明治5年太政官布告第337号)でした。それまでの太陰太陽暦は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月間の日付を決め、数年に1回閏月をおいて一年を13ヶ月として、太陽の運行による周期太陽年(回帰年)を考慮して季節を調節していく暦法(旧暦)でしたが、地球が太陽のまわりを一回転する時間を一年とする太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、一年を365日とし、また四年に一度閏年をおいて366日とするように改めたものです。
 この布告は、年も押し迫った時期に急遽公布され、一部に混乱をもたらしたとされるものの、明治新政府の官吏への報酬は月給制に移行していて、太陰太陽暦だと1年間に13回支給しなければならない年が翌年(明治6年)に当たり、当時の財政難の中で考慮されたとされてきました。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11ヶ月分で済ますことができています。
 尚、暦の販売権をもつ弘暦者は、従来の暦が返本され、また急遽新しい暦を作ることになって、甚大な損害をこうむることになりました。その中で、福澤諭吉は、太陽暦施行と同時の1873年(明治6)1月1日付けで慶應義塾蔵版の暦本「改暦辨」を刊行し、忽ち10万部が売れて大ヒットしています。
 以下に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太陰曆ヲ廢シ太陽曆ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告)1872年(明治5年11月9日)発布

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年太政官布告第337号)

今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事

(別紙)

詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ屬シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晚ノ變ナク四歲每ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ依テ自今舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ

  明治五年壬申十一月九日

    ○

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新曆鏤板出來次第頒布候事
 
一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事 
一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱候事 
一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事
 
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 

太陽曆 一年三百六十五日    閏年三百六十六日四年每ニ置之 
一 月 大 三十一日         其一日 卽舊曆 壬申 十二月三日 
二 月 小 二十八日閏年二十九日  其一日 同 癸酉 正月四日 
三 月 大 三十一日         其一日 同   二月三日 
四 月 小 三十日           其一日 同   三月五日 
五 月 大 三十一日         其一日 同   四月五日 
六 月 小 三十日           其一日 同   五月七日 
七 月 大 三十一日         其一日 同   六月七日 
八 月 大 三十一日        其一日 同   閏六月九日 
九 月 小 三十日           其一日 同   七月十日 
十 月 大 三十一日         其一日 同   八月十日 
十一月小 三十日          其一日 同   九月十二日 
十二月大 三十一日         其一日 同   十月十二日 

大小每年替ルヿナシ

時刻表
  
  零時卽午後
  十二時    子刻   一時    子半刻  二時    丑刻  三時     丑半刻 
午 四時     寅刻   五時    寅半刻  六時    卯刻  七時     卯半刻 
前 八時     辰刻   九時    辰半刻  十時    巳刻  十一時    巳半刻 
  十二時    午刻    

午 一時     午半刻  二時    未刻  三時     未半刻  四時    申刻 
後 五時     申半刻  六時    酉刻  七時     酉半刻  八時    戊刻 
  九時     戊半刻  十時    亥刻  十一時    亥半刻  十二時   子刻 

右之通被定候事
  「ウィキソース」より

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