ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 古墳時代

ingyoutennou01
 今日は、古墳時代の允恭天皇42年に第19代の天皇とされる允恭天皇の亡くなった日です。
 允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、仁徳天皇64年?に大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子(母は葛城襲津彦の女・磐之媛命)として生まれたとされ、名は『日本書紀』によると雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)と言いました。反正天皇5年1月に、瑞歯別天皇(反正天皇)が皇太子を定めずして崩御したため、同母弟であったため、群臣達に天皇として推挙され、即位元年12月に第19代とされる天皇として即位します。
 即位3年に新羅から医者を招聘して天皇の病気を治療させ、即位4年には、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施しました。即位5年に葛城玉田宿禰の叛意が露顕してこれを誅殺し、即位7年に皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮(現在の奈良県橿原市)に住まわせたものの、翌年には、衣通郎姫が茅渟宮(現在の大阪府泉佐野市)へ移っています。
 即位9年に茅渟宮へ頻繁に行幸しましたが、翌年には皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になりました。即位23年に木梨軽皇子を立太子したものの、翌年には木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚しています。
 『日本書紀』では、即位42年1月14日に亡くなったとされるものの、その年齢については諸説存在してきました。陵墓は、河内長野原陵(大阪府藤井寺市)とされ、新羅王から弔使が送られています。
 尚、『宋書倭国伝』の倭の五王のうち、済(せい)にあてるのが定説とされ、済は太祖元嘉20年(443年)に宋に奉献し、済が没したのち、世子興(安康)が貢献したとあることから、五世紀前半に在位したと考えられてきました。
 以下に、『宋書倭国伝』 を全文、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』による允恭天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・仁徳天皇64年? 大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子(母は葛城襲津彦の女・磐之媛命)として生まれる
・反正天皇5年1月 群臣達に天皇として推挙される
・即位元年12月 第19代とされる天皇として即位する
・即位3年8月 新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療
・即位4年9月 諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施
・即位5年7月 葛城玉田宿禰の叛意が露顕、これを誅殺する
・即位7年12月 皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮に住まわせる
・即位8年2月 衣通郎姫が茅渟宮へ移る
・即位9年 茅渟宮へ頻繁に行幸
・即位10年 皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になる
・即位23年3月 木梨軽皇子を立太子
・即位24年6月 木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚
・即位42年1月 崩御。78歳(『古事記』『旧事紀』)、80歳(『愚管抄』『神皇正統記』)、81歳(北野本『日本書紀』)、68歳(『日本書紀』一本)
・即位42年10月 河内長野原陵に葬られる
・即位42年11月 新羅王から弔使が送られる

☆『宋書倭国伝』 (全文) 457年(永明5)成立 

倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽 
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王 
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻 
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王 
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬?甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無?前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

『宋書』倭国伝より

*縦書きの原文を横書きに改めてあります。
 
<読み下し文>

倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。 
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。 
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。 讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。 
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。 
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。 
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。 
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。
 
【注釈】

[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。 
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。 
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。 
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。 
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。 
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。 
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。 
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。 
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。 
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。 
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。 
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。 
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。 
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。 
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。 
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。 
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。 
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。 
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。 
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。 
[21]世子:せし=跡継ぎ。 
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。 
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。 
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。 
[25]藩:はん=領域のこと。 
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。 
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。 
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。 
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。 
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。 
[31]外に作す:そとになす=外側を形成する。 
[32]祖禰:そでい=祖先。 
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。 
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。 
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か? 
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部の熊襲等か? 
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か? 
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。 
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。 
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。 
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点、または北極星のことだが、ここでは中国を指す。 
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。 
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。 
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。 
[45]句驪:くり=高句麗のこと。 
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。 
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。 
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。 
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。 
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。 
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。 
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。 
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。 
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。 
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。 
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。 
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。 
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。 
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。 
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。 
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。  

<現代語訳>  宋書倭国伝

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。 
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。 
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。 讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。 
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。 
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。 
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。 
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1906年(明治39)分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の誕生日詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

yuuryakutennou01

 今日は、古墳時代の雄略天皇23年(479年?)に、第21代の天皇とされる雄略天皇の亡くなった日(『日本書紀』による)です。
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、生年は不詳ですが、父は允恭天皇の第五皇子(母は忍坂大中姫命)とされ、名は『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)、『古事記』では大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)とされてきました。記紀によれば、同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し、さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して、泊瀬朝倉宮に即位したとされています。
 平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に、大伴連室屋と物部連目を大連とし、秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重用して王権を強化、諸氏族の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の乱れに乗じて、百済や新羅、高麗への影響力強化を画策するなど、対外関係においても注目すべきことが伝えられてきました。また、『宋書』倭国伝にみえる倭王武は雄略天皇に比定され、478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命され、『南斉書』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記されています。
 そして、『日本書紀』によれば、雄略天皇22年1月1日に白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とし、翌年8月7日に病いのために数え年62歳で亡くなり、陵墓は丹比高鷲原陵(現在の大阪府羽曳野市島泉)とされてきました。尚、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」と熊本県江田船山古墳出土大刀銘「獲〇〇〇鹵大王」は、雄略天皇に比定されています。
 以下に、参考のため『宋書』倭国伝を掲載しておきましたので、御参照下さい。

〇『宋書』倭国伝とは?

 中国の『宋書』夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝のことです。『宋書』は、中国南朝の宋(420 ~ 479年)について書かれた歴史書、本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体のもので、沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂しました。夷蛮伝は、宋朝と諸国の交渉記事中心に記述されていて、倭国伝には、“倭の五王”(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが書かれています。その中で、讃は応神・仁徳・履中のいずれか、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇に比定されてきました。ここに記された武(雄略天皇)の上表文は有名です。

☆『宋書』倭国伝

<原文>

倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

<読み下し文>

倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。
讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。
珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。

【注釈】

[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。
[21]世子:せし=跡継ぎ。
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。
[25]藩:はん=領域のこと。
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。
[31]外に作す:そとになす=遠いところにある。
[32]祖禰:そでい=祖先。
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か?
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部か?
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か?
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点。北極星。
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。
[45]句驪:くり=高句麗のこと。
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。

<現代語訳>

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。
讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。
珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1831年(天保2)戯作者十返舎一九の命日(新暦9月12日)詳細
1953年(昭和28)スト規制法」が公布・施行され、電気・石炭事業のストが規制される詳細
1977年(昭和52)北海道の有珠山が32年ぶりに噴火する(有珠山1977年噴火詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、古墳時代の571年(欽明天皇32)に、第29代の天皇とされる欽明天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月24日となります。
 欽明天皇(きんめいてんのう)は、509年(継体天皇3)頃?に、父・継体天皇の皇子(母は皇后手白香皇女)として生まれたとされますが、名は、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)と言いました。
 『日本書紀』によれば、宣化天皇が亡くなった後、539年に即位し、都を大和磯城嶋金刺宮(やまとしきしまのかなさしのみや)に遷したとされますが、531年即位したとも言われています。治世の初めは、大伴金村と物部尾輿が大連、蘇我稲目が大臣でしたが、まもなく金村が朝鮮政策の失敗を攻撃されて失脚しました。
 その後、百済の聖明王が仏像経論を献じ、公式にはこれが仏教の最初の渡来とされていますが、この年を『日本書紀』が壬申年(552年)とするのに対し、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は戊午年(538年)としていて食い違いがあり、安閑・宣化2天皇の治世の有無をめぐり論争となってきました。また、国内では崇仏の是非をめぐって蘇我・物部両氏の対立が起こりますが、崇仏をすすめる大臣の蘇我稲目が力を強めます。
 対外的には、朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず、562年(欽明天皇23)には任那の日本府が滅亡する事態となりました。欽明天皇はこのことを遺憾とし、その回復を遺詔して、571年(欽明天皇32年4月15日)に、病死したとされます。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻第19 欽明天皇32年(571年)の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第19 欽明天皇32年(571年)の条

<原文>

卅二年春三月戊申朔壬子、遣坂田耳子郎君、使於新羅、問任那滅由。是月、高麗、獻物幷表、未得呈奏、經歷數旬、占待良日。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。
五月、殯于河內古市。秋八月丙子朔、新羅遣弔使未叱子失消等、奉哀於殯。是月、未叱子失消等罷。九月、葬于檜隈坂合陵。

<読み下し文>

卅二年春三月戊申朔壬子、坂田耳子郎君を遣して、新羅に使して、任那の滅びし由を問はしむ。是の月、高麗獻物幷に表、未だ呈奏すことを得ず、數の旬を經歷て、良き日を占へ待つ。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫、皇太子外に向きて在りまさず。驛馬はせて召し到り、臥內に引入れ、其の手を執り詔して曰く「朕れ疾甚し、後事を以て汝に屬く。汝、須らく新羅を打ち、任那を封し建て、更に夫婦を造し、惟れ舊曰の如くならしむべし、死るとも恨むこと無し。」是の月、天皇遂に內寢に崩りましぬ、時に年若干。
五月、河內の古市に殯す。秋八月丙子朔、新羅、弔使未叱子、失消等を遣して、殯に奉哀る。是の月、未叱子、失消等罷る。九月、檜隈坂合陵に葬めまつる。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、古墳時代の585年(敏達天皇14)に、仏教排斥を唱える物部守屋が、仏像・寺院等を焼打ちにした日ですが、新暦では5月4日となります。
 仏教は、欽明天皇の時代に伝来したと言われていますが、敏達天皇の御代になって、585年(敏達天皇14)2月に、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めました。天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行し出します。
 同年3月1日に守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めました。天皇は仏法を止めるよう詔し、3月30日に、守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵しました。その上で、使者(佐伯造御室)を派遣して、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって、海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑に処するという事件が起こります。
 しかし、疫病は更にひどくなって、天皇も病に伏すことになりました。馬子は、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許すことになります。
 しばらくして敏達天皇が亡くなった後も、仏教を広めようとする蘇我氏と旧来の神々を崇める物部氏との対立は続き、とうとう、2年後の587年(用明天皇2)7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めました。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて守屋の館を攻め、守屋は射殺されます。これ以後、蘇我氏の勢力が増大しました。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻20の渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)14年の条の該当部分を抜粋し、注釈と現代語訳を付けておきましたので、ご参照下さい。

〇「日本書紀」巻第二十 渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)十四年の条

<原文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
是日、無雲風雨。大連、被雨衣、訶責馬子宿禰與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室更名、於閭礙、喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。

 「岩波古典文学大系本」(卜部兼方・兼右本)より

<読み下し文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰く、「何の故にか肯て臣が言を用いたまはぬ。考天皇[1]より陛下に及び、疫疾[2]流く行はれて、國の民絶えつ可し。豈に專に蘇我臣が佛法を興し行ふに由るに非ずや。」詔して曰く、「灼然なり[3]、宜しく佛法を斷めよ。」丙戌、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡床[4]に踞坐り[5]、其の塔を斫倒し、火を縱けて之を燔く、幷せて佛像と佛殿とを燒く。既にして燒けし所の餘りの佛像を取りて、難波[6]の堀江に棄てしむ。
是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣[7]して、馬子宿禰と從ひて法を行へる侶とを訶責[8]して、毀り辱かしむるの心を生さしむ。乃ち佐伯造御室(更の名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰の供る所の善信等の尼を喚さしむ。是に由りて、馬子宿禰、敢て命に違はず、惻み愴き啼泣つヽ、尼等を喚し出して、御室に付く。有司[9]、便ち尼等の三衣[10]を奪ひて、海石榴市[11]の亭[12]に禁錮へ[13]、楚撻ちき[14]。

【注釈】
[1]考天皇:かぞのみかど=欽明天皇のこと。
[2]疫疾:えやみ=疫病。
[3]灼然なり:いやちこなり=明白となること。とてもはっきりすること。非常に明らかになること。
[4]胡床:あぐら=腰を掛ける座具の一種。床几のこと。
[5]踞坐り:しりうたげをすわり=うずくまること。しゃがむこと。あぐらをかくこと。
[6]難波:なには=現在の大阪市およびその周辺地域の古称。
[7]被雨衣:あまよそい=雨具を付けること。
[8]訶責:かしゃく=しかり責めること。責めさいなむこと。
[9]有司:つかさ=役人。
[10]三衣:さんえ=僧の着る大衣、七条、五条の三種の袈裟のこと。僧衣。
[11]海石榴市:つばきいち=現在の奈良県桜井市付近にあった。
[12]亭:うまやたち=駅舎。駅家。大和政権が運営した交通施設で、馬や人員を常備した。
[13]禁錮へ:からめとらえへ=受刑者を監獄に拘置すること。
[14]楚撻ちき:しりかたうちき=鞭打ちの刑にする。

<現代語訳>

3月1日、大連の物部弓削守屋と大夫の中臣勝海が奏上するのには、「どうして私どもの進言を用いられないのですか。欽明天皇より陛下の御代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうです。これは専ら、蘇我氏が仏法を広めたことによるのに間違えありません。」天皇が詔して、「これは明白である。すぐに仏法を止めるように。」と言われた。30日に大連の物部弓削守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、火を着けた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼損した仏像を集めて、難波の堀江に投げ込ませた。
この日、雲も見えないのに風雨となり、大連(物部弓削守屋)は雨具をつけた。馬子宿禰やこれに従っていた仏法信者を面罵し、人々の信頼がなくなるようにした。その上で、佐伯造御室(別名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰に従っている善信等の尼を召喚させた。これについては、馬子宿禰はあえて命令には逆らわず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して、使者の御室に託した。役人たちは、尼達の三衣を剥ぎとって、捕縛して海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑にした。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ