ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 飛鳥時代

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 今日は、飛鳥時代の614年(推古天皇22)に、最後の遣隋使として犬上御田鍬らが隋へ出発した日ですが、新暦では7月24日となります。
 遣隋使(けんずいし)は、飛鳥時代の推古天皇の時に、大和朝廷が隋に派遣した公式の使節です。『日本書紀』と『隋書』では、記録が一致しない部分がありますが、600年(推古天皇8)以後3回~4回派遣されたとされ、614年(推古天皇22)に最後の遣隋使として犬上御田鍬らが送られたと考えられてきました。
 その中で、607年(推古天皇15)~608年(推古16年)の遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させたとされます。608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年)の遣隋使では、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わし、『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参、学生高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠ら8人を随行し、彼ら留学僧は帰朝後に、大化改新に貢献しました。
 この中国への派遣事業は、隋の滅亡後は、遣唐使に継承されていくことになります。

〇遣隋使関係略年表

・600年(推古天皇8) 第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
・607年(推古天皇15)~608年(推古16年) 第2回遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させる。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
・608年(推古天皇16)~ ? (『隋書』煬帝紀)
・608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年) 第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わす。『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参。この時、学生・学問僧として8人が、隋へ留学する。
・610年(推古天皇18)~?  第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)他に記録がなく、第3回の年次誤りとする説が多い。
・614年(推古天皇22)~615年(推古23年) 第5回(又は第4回)遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)隋側に記録がない。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1798年(寛政10)本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成する(新暦7月26日)詳細
1910年(明治43)長塚節著の小説『土』が「東京朝日新聞」に連載開始される詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1953年(昭和28)石川県河北郡内灘村の米軍試射場の無期限使用に反対して村民と支援団体が坐り込みを行う(内灘闘争)詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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 今日は、飛鳥時代の708年(和銅元)に、「和同開珎」の銀銭が使用開始された日ですが、新暦では6月3日となります。
 和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、日本で鋳造・発行されたと考えられる銭貨で、皇朝十二銭のうちで最も古いものです。飛鳥時代の708年(和同元)に発行され、銀銭と銅銭がありましたが、銀銭は翌年廃止されたものの、銅銭は、天平宝字年間(757~765年)頃までの長期間鋳造されました。
 708年(和銅元)1月11日に、武蔵国秩父郡から和銅が献上され、元号を和銅と改元したのを受けて、同年2月11日に、催鋳銭司(銭貨の鋳造を監督する役人)が置かれ、5月11日に、はじめて銀銭を使用させ、7月28日に、近江国に銅銭を鋳造させ、8月10日に、はじめて銅銭を使用させたと『続日本紀』に記述されています。直径24mm前後の円形で、中央には、一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式で、全国数ヶ所(近江国、山城国、長門国、播磨国など)で鋳造され、主に畿内およびその周辺で流通したとされます。

〇皇朝十二銭一覧

・「和同開珎」708年(和銅元)鋳造
・「万年通宝(萬年通寳)」760年(天平宝字4)鋳造
・「神功開宝(神功開寳)」765年(天平神護元)鋳造
・「隆平永宝(隆平永寳)」796年(延暦15)鋳造
・「富寿神宝(富壽神寳)」818年(弘仁9)鋳造
・「承和昌宝(承和昌寳)」835年(承和2)鋳造
・「長年大宝(長年大寳)」848年(嘉祥元)鋳造
・「饒益神宝(饒益神寳)」859年(貞観元)鋳造
・「貞観永宝(貞観永寳)」870年(貞観12)鋳造
・「寛平大宝(寛平大寳)」890年(寛平2)鋳造
・「延喜通宝(延喜通寳)」907年(延喜7)鋳造
・「乾元大宝(乹元大寳)」958年(天徳2)鋳造

☆『続日本紀』(巻第四)和銅元年の和銅に関する記述抜粋

・「和銅改元」に関する記述

和銅元年春正月乙巳。
 武藏國秩父郡獻和銅。
 詔曰。「現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻氐尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。」故、改慶雲五年而和銅元年為而、御世年号止定賜。

<読み下し文>

和銅元年春正月乙巳。
 武蔵国秩父郡[1]、和銅[2]を献ず。
 詔して日く。「現神[3]と御宇倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆聞きたまへと宣る。高天原[4]ゆ天降り[5]坐しし。天皇が御世を始めて、中・今に至めまでに。天皇が御世御世、天つ日嗣[6]高御座[7]に坐して治め賜ひ慈しび賜ひ來る食國[8]天下の業となも。神ながら念し行さくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。如是治め賜ひ慈しび賜ひ來る天つ日嗣[6]の業と。今皇朕御世に當りて坐せば。天地の心を勞しみ重しみ辱み恐み坐すに聞し看す食國[8]の中の東方武蔵国に自然に作成る和銅[2]出でたりと奏して献れりと。此の物は天に坐す神・地に坐す祗の相うづなひ奉る事に依りて、顯し[9]く出でたる寳に在るらしともな。神ながら念し行す。是をもちて、天地の神の顕し[9]奉れる瑞寳[10]によって、御世の年号を改め賜ひ換へ賜はく詔りたまふ命をもろもろ聞しめさへと宣る。」故、慶雲五年を改めて和銅元年と為て、御世の年号と定め賜ふ。

【注釈】

[1]武蔵国秩父郡:むさしのくにちちぶぐん=現在の埼玉県秩父郡。
[2]和銅:わどう/にぎあかがね=製錬を要しない自然銅。
[3]現神:あきつみかみ=現に姿をあらわしている神の意で多く天皇に用いられる。
[4]高天原:たかまがはら=日本神話における天上の国。
[5]天降り:あまくだり=天上から地上におりること。
[6]天つ日嗣:あまつひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[7]高御座:たかみくら=大極殿または紫宸殿の中央に設けられていた天皇の席。
[8]食國:おすくに=天皇の統治なさる国。天下。
[9]顯し:うつし=姿が見えている。実在する。この世に生きている。
[10]瑞寳:ずいほう=めでたい宝物。

<現代語訳>

和銅元年(708年)春正月乙巳(1月11日)。
 武蔵国秩父郡が和銅を献上してきた。
 (元明天皇は)次のような詔を下した。「現御神として天下を統治する天皇が詔として宣べられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人々等、天下公民はみな聞き賜れと申し述べる。高天原から降臨されて、天皇の御世が始まり、中ごろから今に至るまでに、天皇の治世ごとに、皇位継承者として高御座に坐して治められて、人々を慈しんで来られ、天下統治のつとめとして、神ながらに思うというお言葉をみな聞き賜れと申し述べる。このように統治して慈しまれてきた皇位継承者の勤めとして、今は私が治世を担当しているので、天地の心を大切にし重く受け止めて畏み、恐れ多く思っていたところ、統治しているこの国の東方にある武蔵国に自然に生じた和銅が出たと奏上して献上してきた。この物は、天に鎮座する神と地に鎮座する神がともに愛でられ祝福されることによって、現出した宝物であるらしいと、神として思うのである。そこで、天地の神の現されためでたい宝物によって、御世の年号を新しく改元されると詔りたまうお言葉をみな聞き賜れと申し述べる。」そのため、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号を定められた。

・銭貨の鋳造を監督する役人の任命に関する記述

<原文>

二月甲戌。始置催鋳銭司。以従五位上多治比眞人三宅麻呂任之。

<読み下し文>

二月甲戌。始めて、催鋳銭司を置く。以従五位上多治比眞人三宅麻呂を以て、之に任ず。

<現代語訳>

二月十一日、はじめて催鋳銭司(銭貨の鋳造を監督する役人)を置いた。従五位上多治比眞人三宅麻呂をこれに任じた。

・銀銭使用に関する記述

<原文>

五月壬寅。始行銀銭。

<読み下し文>

五月壬寅。始めて銀銭を行ふ。

<現代語訳>

五月十一日、はじめて和同開珎の銀銭を使用させた。

・銅銭鋳造に関する記述

<原文>

七月丙辰。令近江国鋳銅銭。

<読み下し文>

七月丙辰。近江国に銅銭を鋳せしむ。

<現代語訳>

七月二十八日、近江国に銅銭を鋳造させた。

・銅銭使用に関する記述

<原文>

八月己巳。始行銅錢。

<読み下し文>

八月己巳。始めて銅銭を行ふ。

<現代語訳>

八月十日、はじめて銅銭を使用させた。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1333年(元弘3)小手指原の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破る(新暦6月23日)詳細
1473年(文明5)武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の命日(新暦6月6日)詳細
1925年(大正14)有機化学者中西香爾の誕生日詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)詳細
1955年(昭和30)宇高連絡船の紫雲丸と第3宇高丸が衝突し紫雲丸が沈没して死者167名を出す(紫雲丸事故)詳細
1974年(昭和49)古河鉱業が被害者971人に補償金15億5千万円を支払う調停案受諾で足尾鉱毒事件が決着する詳細
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 今日は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15)に、日本最初の女帝で、第33代の天皇とされる推古天皇が生まれた日ですが、新暦では5月21日となります。
 推古天皇(すいこてんのう)は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15年4月9日)に、欽明天皇の第三皇女(母は蘇我堅塩媛の娘)として生まれましたが、幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といいました。571年(欽明天皇32年)に、皇太子(後の敏達天皇)妃となり、576年(敏達天皇5年)には、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられます。
 585年(敏達天皇14年8月15日)に敏達天皇が亡くなり、587年(用明天皇2年)には、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立しました。592年(崇峻天皇5年11月15日)に蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺されると、593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)に豊浦宮で、第33代とされる天皇(日本最初の女帝)に即位し、同年4月10日には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、馬子と共に天皇の補佐の体制が確立します。
 その中で、小墾田宮に都を移し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15年)に、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り(第2回遣隋使)、607年(推古天皇15年)には、法隆寺を創建するなどしました。また、620年(推古天皇28年)には、厩戸皇子や馬子に、『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂させています。
 しかし、622年(推古天皇30年)に厩戸皇子が亡くなり、626年(推古天皇34年)に蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる中で、628年(推古天皇36年3月7日)に、皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなりました。その後、竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたものの、後に河内国の磯長山田(しながのやまだ)陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に移されています。

〇推古天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・554年(欽明天皇15年4月9日) 欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれる
・571年(欽明天皇32年) 皇太子(敏達天皇)妃となる
・576年(敏達天皇5年) 前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられる
・585年(敏達天皇14年8月15日) 敏達天皇が亡くなる
・587年(用明天皇2年) 大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立する
・592年(崇峻天皇5年11月15日) 蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺される
・593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日) 第33代とされる天皇となる
・593年(推古天皇元年4月10日) 甥の厩戸皇子が摂政となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る(第2回遣隋使)
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する(第3回遣隋使)
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 厩戸皇子が『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子が馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、厩戸皇子が数え年49歳で亡くなる
・626年(推古天皇34年) 蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる
・628年(推古天皇36年3月7日) 皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

752年(天平勝宝4)奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われる(新暦5月26日)詳細
1584年(天正12)小牧・長久手の戦いの中の長久手の戦いが行われる(新暦5月18日)詳細
1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1911年(明治44)東京の吉原大火で、死者8名、負傷者100名以上、全焼6,189戸、半焼69戸の被害を出す詳細
1921年(大正10)「職業紹介法」(大正10年法律第55号)が公布(同年7月1日施行)される詳細
1922年(大正11)日本最初の農民組合の統一組織である日本農民組合が創立される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
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 今日は、飛鳥時代の681年(天武天皇10)に、天武天皇が律令の制定(飛鳥浄御原令)を命じた日ですが、新暦では3月19日となります。
 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、飛鳥時代の681年(天武天皇10年2月25日)に、天武天皇が編纂を命じ、689年(持統天皇3年29日)に頒布されたとされる法令(令22巻)です。内容は、701年(大宝元年)施行の「大宝令」とほぼ同じと推定され、戸籍作成や班田収授もこの時から6年ごととなったと考えられてきました。
 しかし、『日本書紀』によって若干推定できる程度で、不明な部分が多いとされています。律については、編纂されず、唐の律をそのまま代用したとの説が有力とされてきました。
 急遽施行されたものなので、完成度は必ずしも高くなかったと言われ、律令の編纂作業は、その後も続けられ、最終的には701年(大宝元年)に完成した「大宝律令」によって、律令整備が完成することになったとされます。
 以下に、『日本書紀』天武天皇10年2月条と持統天皇3年6月条の律令の制定に関する記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』の「飛鳥浄御原律令」関係の記述

<天武天皇10年2月条>

(原文)

二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」
是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。

(読み下し文)

二月庚子朔甲子、天皇[1]、皇后[2]、共に大極殿[3]に居(おは)します、親王、諸王及び諸臣[4]を喚(め)して、詔して曰く、「朕、今更た、律令[5]を定め、法式(のり)を改めむと欲す。故、倶に是の事を修めよ。然れども頓(にはか)に是のみを務(まつりごと)を就(な)さば、公事闕(か)くること有らむ。人を分ちて應(まさ)に行ふべし」と。
是の日、草壁皇子[6]尊を立てて、皇太子[7]と為したまふ。よりて万(よろづ)の機(まつりごと)を摂[8]めしめたまふ。」

【注釈】
[1]天皇:てんのう=ここでは、天武天皇のこと。
[2]皇后:こうごう=ここでは、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のこと。
[3]大極殿:だいごくでん=古代の日本における朝廷の正殿。
[4]諸臣:しょしん=多くの家臣たち。群臣。 
[5]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[6]草壁皇子:くさかべのおうじ=天武天皇の皇子。母は持統天皇。文武・元正両天皇の父。壬申の乱には天武帝とともに戦い、皇太子に立てられたが、即位せずに死去。
[7]皇太子:こうたいし=皇位継承の第一順位にある皇子。東宮。
[8]摂:ふさねおさ=事をあわせ行う。兼ねる。代行する。摂政。

(現代語訳)

(天武10年)2月25日、天武天皇は皇后と共に大極殿に居て、親王・諸王・諸臣に、詔して言った。「我は、今から律令をを定めて、法式を改め改めようと思う。共に、このことを修めなさい。しかし、急にこれだけを実務をすれば、公務が滞るであろうから、手分けして行ってほしい」と。
この日に、草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を立てて皇太子とする。すべての政治の実務に預からせる。

<持統天皇3年6月条>

(原文)

庚戌、班賜諸司令、一部廿二卷。

(読み下し文)

庚戌、諸司[9]に令[10]一部廿二卷を班(わか)ち賜ふ。

(現代語訳)

二十九日、中央の諸々の役人に、令一部二十二巻を分け下し賜った。

【注釈】
[9]諸司:しょし=多くの役所。また、その役人。百司。
[10]令:りょう=政治・経済など一般行政に関する規定。ここでは、「飛鳥浄御原律令」のこと。

☆日本の律令関係略年表

・天智天皇10年(668年) 「近江律令」が施行される
・天武天皇10年(681年)2月25日 「飛鳥浄御原律令」の編纂が開始される
・持統天皇3年(689年)6月29日 「飛鳥浄御原律令」(22巻)が発布される
・文武天皇4年(700年) 「大宝律令」の編纂が開始される
・大宝元年(701年) 「大宝律令」が完成する
・大宝2年(702年) 「大宝律令」の律が施行される
・養老2年(718年) 「養老律令」の編纂が行われる
・天平宝字元年(757年) 「養老律令」(律10巻13編、令10巻30編)が施行される
・神護景雲3年(769年) 「養老律令」の 修正・追加を目的に「刪定律令」(全24条)編纂される
・延暦10年(791年) 「養老律令」の「刪定律令」が施行される
・延暦16年(797年) 「養老律令」の刪定令格全45条が編纂され、同年施行される
・弘仁11年(820年) 「弘仁格式」が完成する
・天長7年(830年) 「弘仁格式」が施行される
・承和7年(840年) 「弘仁格式」が改訂施行される
・貞観11年(869年) 「貞観格式」の格が施行される
・貞観13年(871年) 「貞観格式」の式が施行される
・延長5年(907年) 「延喜格式」の格が施行される
・延長5年(927年) 「養老律令」細則「式」が完成する
・康保4年(967年) 「養老律令」細則「式」が改訂施行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1902年(明治35)数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の誕生日詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
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 今日は、飛鳥時代の702年(大宝2)に、前年に制定された「大宝律令」を諸国に頒布した日ですが、新暦では3月3日となります。
 「大宝律令」(たいほうりつりょう)は、飛鳥時代の701年(大宝元年8月3日)に完成した日本古代の基本法典です。律(刑法)6巻と令(行政法など)11巻の全17巻からなっていました。
 それまでも、668年(天智天皇7)成立の「近江令」 22巻(疑問視する意見もある)、 682年(天武 11)成立の「飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)」(律もあったという説もある)がありましたが、それにかえて作成されます。持統上皇・文武天皇の命令で編纂が始まり、刑部親王、藤原不比等、粟田真人(まひと)、下毛野古麻呂(しもつけぬのこまろ)らにより、700年(文武天皇4)に令がほぼ完成、701年(大宝元年8月3日)に大宝律令として完成、翌年に施行されました。
 律は6巻で約500条、令は11巻で約1000条と伝えられますが現存せず、「続日本紀」、「令集解(りょうのしゅうげ)」などに逸文があり、718年(養老2)頃、「大宝律令」を修訂して成立した「養老律令」から復元が試みられています。唐の律令を参考にしたと考えられていますが、この完成によって官僚制度が整い、中央集権の政治体制ができあがりました。

〇復元「大宝令」(復元の一例)

「大宝令」と「養老令」の編目の順序は異なっていたと考えられているが、「大宝令」の編目順序は明らかでない。

・官位令
・官員令(「養老令」では職員令)
・後宮官員令(「養老令」では後宮職員令)
・東宮家令官員令(「養老令」では東宮職員令・家令職員令)
・神祇令
・僧尼令
・戸令
・田令
・賦役令
・学令
・選任令(「養老令」では選叙令)
・継嗣令
・考仕令(「養老令」では考課令)
・禄令
・軍防令(「養老令」では宮衛令・軍防令)
・儀制令
・衣服令
・公式令
・医疾令
・営繕令
・関市令
・倉庫令
・厩牧令
・仮寧令
・喪葬令
・捕亡令
・獄令
・雑令

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす詳細
1895年(明治28)京都市(塩小路東洞院通~伏見町下油掛間)で日本初の路面電車が営業開始する詳細
1903年(明治36)当時日本一の長さの鉄道トンネルだった、中央本線笹子トンネル(単線)が開通する詳細
1911年(明治44)徳富蘆花が旧制第一高等学校弁論部大会で「謀反論」を講演しする詳細
1922年(大正10)軍人・政治家で元老の筆頭格山県有朋の命日詳細
1938年(昭和13)有沢広巳、大内兵衛、美濃部亮吉ら教授陣や佐々木更三を含む38人が検挙される(第二次人民戦線事件)詳細
1984年(昭和59)国鉄が「エキゾチック・ジャパン」キャンペーンを開始する詳細
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