ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 飛鳥時代

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 今日は、飛鳥時代の681年(天武天皇10)に、天武天皇が律令の制定(飛鳥浄御原令)を命じた日ですが、新暦では3月19日となります。
 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、飛鳥時代の681年(天武天皇10年2月25日)に、天武天皇が編纂を命じ、689年(持統天皇3年29日)に頒布されたとされる法令(令22巻)です。内容は、701年(大宝元年)施行の「大宝令」とほぼ同じと推定され、戸籍作成や班田収授もこの時から6年ごととなったと考えられてきました。
 しかし、『日本書紀』によって若干推定できる程度で、不明な部分が多いとされています。律については、編纂されず、唐の律をそのまま代用したとの説が有力とされてきました。
 急遽施行されたものなので、完成度は必ずしも高くなかったと言われ、律令の編纂作業は、その後も続けられ、最終的には701年(大宝元年)に完成した「大宝律令」によって、律令整備が完成することになったとされます。
 以下に、『日本書紀』天武天皇10年2月条と持統天皇3年6月条の律令の制定に関する記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』の「飛鳥浄御原律令」関係の記述

<天武天皇10年2月条>

(原文)

二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」
是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。

(読み下し文)

二月庚子朔甲子、天皇[1]、皇后[2]、共に大極殿[3]に居(おは)します、親王、諸王及び諸臣[4]を喚(め)して、詔して曰く、「朕、今更た、律令[5]を定め、法式(のり)を改めむと欲す。故、倶に是の事を修めよ。然れども頓(にはか)に是のみを務(まつりごと)を就(な)さば、公事闕(か)くること有らむ。人を分ちて應(まさ)に行ふべし」と。
是の日、草壁皇子[6]尊を立てて、皇太子[7]と為したまふ。よりて万(よろづ)の機(まつりごと)を摂[8]めしめたまふ。」

【注釈】
[1]天皇:てんのう=ここでは、天武天皇のこと。
[2]皇后:こうごう=ここでは、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のこと。
[3]大極殿:だいごくでん=古代の日本における朝廷の正殿。
[4]諸臣:しょしん=多くの家臣たち。群臣。 
[5]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[6]草壁皇子:くさかべのおうじ=天武天皇の皇子。母は持統天皇。文武・元正両天皇の父。壬申の乱には天武帝とともに戦い、皇太子に立てられたが、即位せずに死去。
[7]皇太子:こうたいし=皇位継承の第一順位にある皇子。東宮。
[8]摂:ふさねおさ=事をあわせ行う。兼ねる。代行する。摂政。

(現代語訳)

(天武10年)2月25日、天武天皇は皇后と共に大極殿に居て、親王・諸王・諸臣に、詔して言った。「我は、今から律令をを定めて、法式を改め改めようと思う。共に、このことを修めなさい。しかし、急にこれだけを実務をすれば、公務が滞るであろうから、手分けして行ってほしい」と。
この日に、草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を立てて皇太子とする。すべての政治の実務に預からせる。

<持統天皇3年6月条>

(原文)

庚戌、班賜諸司令、一部廿二卷。

(読み下し文)

庚戌、諸司[9]に令[10]一部廿二卷を班(わか)ち賜ふ。

(現代語訳)

二十九日、中央の諸々の役人に、令一部二十二巻を分け下し賜った。

【注釈】
[9]諸司:しょし=多くの役所。また、その役人。百司。
[10]令:りょう=政治・経済など一般行政に関する規定。ここでは、「飛鳥浄御原律令」のこと。

☆日本の律令関係略年表

・天智天皇10年(668年) 「近江律令」が施行される
・天武天皇10年(681年)2月25日 「飛鳥浄御原律令」の編纂が開始される
・持統天皇3年(689年)6月29日 「飛鳥浄御原律令」(22巻)が発布される
・文武天皇4年(700年) 「大宝律令」の編纂が開始される
・大宝元年(701年) 「大宝律令」が完成する
・大宝2年(702年) 「大宝律令」の律が施行される
・養老2年(718年) 「養老律令」の編纂が行われる
・天平宝字元年(757年) 「養老律令」(律10巻13編、令10巻30編)が施行される
・神護景雲3年(769年) 「養老律令」の 修正・追加を目的に「刪定律令」(全24条)編纂される
・延暦10年(791年) 「養老律令」の「刪定律令」が施行される
・延暦16年(797年) 「養老律令」の刪定令格全45条が編纂され、同年施行される
・弘仁11年(820年) 「弘仁格式」が完成する
・天長7年(830年) 「弘仁格式」が施行される
・承和7年(840年) 「弘仁格式」が改訂施行される
・貞観11年(869年) 「貞観格式」の格が施行される
・貞観13年(871年) 「貞観格式」の式が施行される
・延長5年(907年) 「延喜格式」の格が施行される
・延長5年(927年) 「養老律令」細則「式」が完成する
・康保4年(967年) 「養老律令」細則「式」が改訂施行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1902年(明治35)数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の誕生日詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
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 今日は、飛鳥時代の702年(大宝2)に、前年に制定された「大宝律令」を諸国に頒布した日ですが、新暦では3月3日となります。
 「大宝律令」(たいほうりつりょう)は、飛鳥時代の701年(大宝元年8月3日)に完成した日本古代の基本法典です。律(刑法)6巻と令(行政法など)11巻の全17巻からなっていました。
 それまでも、668年(天智天皇7)成立の「近江令」 22巻(疑問視する意見もある)、 682年(天武 11)成立の「飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)」(律もあったという説もある)がありましたが、それにかえて作成されます。持統上皇・文武天皇の命令で編纂が始まり、刑部親王、藤原不比等、粟田真人(まひと)、下毛野古麻呂(しもつけぬのこまろ)らにより、700年(文武天皇4)に令がほぼ完成、701年(大宝元年8月3日)に大宝律令として完成、翌年に施行されました。
 律は6巻で約500条、令は11巻で約1000条と伝えられますが現存せず、「続日本紀」、「令集解(りょうのしゅうげ)」などに逸文があり、718年(養老2)頃、「大宝律令」を修訂して成立した「養老律令」から復元が試みられています。唐の律令を参考にしたと考えられていますが、この完成によって官僚制度が整い、中央集権の政治体制ができあがりました。

〇復元「大宝令」(復元の一例)

「大宝令」と「養老令」の編目の順序は異なっていたと考えられているが、「大宝令」の編目順序は明らかでない。

・官位令
・官員令(「養老令」では職員令)
・後宮官員令(「養老令」では後宮職員令)
・東宮家令官員令(「養老令」では東宮職員令・家令職員令)
・神祇令
・僧尼令
・戸令
・田令
・賦役令
・学令
・選任令(「養老令」では選叙令)
・継嗣令
・考仕令(「養老令」では考課令)
・禄令
・軍防令(「養老令」では宮衛令・軍防令)
・儀制令
・衣服令
・公式令
・医疾令
・営繕令
・関市令
・倉庫令
・厩牧令
・仮寧令
・喪葬令
・捕亡令
・獄令
・雑令

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす詳細
1895年(明治28)京都市(塩小路東洞院通~伏見町下油掛間)で日本初の路面電車が営業開始する詳細
1903年(明治36)当時日本一の長さの鉄道トンネルだった、中央本線笹子トンネル(単線)が開通する詳細
1911年(明治44)徳富蘆花が旧制第一高等学校弁論部大会で「謀反論」を講演しする詳細
1922年(大正10)軍人・政治家で元老の筆頭格山県有朋の命日詳細
1938年(昭和13)有沢広巳、大内兵衛、美濃部亮吉ら教授陣や佐々木更三を含む38人が検挙される(第二次人民戦線事件)詳細
1984年(昭和59)国鉄が「エキゾチック・ジャパン」キャンペーンを開始する詳細
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 今日は、飛鳥時代の672年(弘文天皇元)に、大津宮が陥落し、大友皇子(弘文天皇)が自決して、壬申の乱が終わった日ですが、新暦では8月24日となります。
 壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇が亡くなった後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、皇位継承をめぐって争われた内乱でした。
 大化改新を指導(大海人皇子が補佐)し、668年(天智天皇7) に即位した天智天皇は、671年(天智天皇10)正月に、大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出しました。同年10月大海人皇子は病床の天皇に招かれ、後事を託されましたが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して、妻(後の持統天皇)子やわずかの従者とともに吉野宮に引退します。
 同年12月に天智天皇が近江大津宮で病死し、大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となりました。672年(弘文天皇元年6月24日)に、近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かい、野上(現在の岐阜県関ヶ原町)に行宮を置き、本拠とします。東国の兵を集め、大和で呼応した豪族らとともに、同年7月2日に近江京へ進撃し、7月22日最後の一線であった瀬田川の戦いに勝利しました。
 その結果、大津宮は陥落し、大友皇子は自害、右大臣中臣金は斬刑、左大臣蘇我赤兄は流刑となります。勝利した大海人皇子は、翌年2月に飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
 以後大化の改新が一層強力に推進されて律令体制が整備され、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形成されていきます。

〇壬申の乱関係略年表(日付は旧暦です)

・668年(天智天皇7年1月3日) 天智天皇が即位する
・671年(天智天皇10年正月) 大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出す
・671年(天智天皇10年9月) 天智天皇が病の床に就く
・671年(天智天皇10年10月17日) 大海人皇子は病床の天智天皇に招かれ、後事を託されるが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して吉野宮に引退する
・671年(天智天皇10年12月3日) 天智天皇が近江大津宮で病死する
・671年(弘文天皇元年12月5日) 大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となる
・672年(弘文天皇元年6月22日) 大海人皇子は使者を美濃国へ向かわせる
・672年(弘文天皇元年6月24日) 近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かう
・672年(弘文天皇元年7月2日) 軍勢を二手にわけて、近江京へ進撃を始める
・672年(弘文天皇元年7月7日) 息長の横河で戦端を開く
・672年(弘文天皇元年7月22日) 瀬田川の戦いに大海人皇子方が勝利する
・672年(弘文天皇元年7月23日) 大津宮は陥落し、大友皇子(弘文天皇)は自害する
・672年(天武天皇元年8月25日) 右大臣中臣金らが斬刑に処せられる
・672年(天武天皇元年9月) 大海人皇子は大和の飛鳥へ帰り、浄御原の新宮に入る
・673年(天武天皇2年2月27日) 大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1651年(慶安4)兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画(慶安の変)が発覚する(新暦9月7日)詳細
1793年(寛政5)国学者塙保己一が江戸麹町に和学講談所を創立する(新暦8月29日)詳細
1842年(天保13)江戸幕府によって、「天保の薪水給与令」が出される(新暦8月28日)詳細
1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1939年(昭和14)小説家・教育評論家本庄陸男の命日詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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 今日は、飛鳥時代の670年(天智天皇9)に、法隆寺が落雷により全焼した日です。
 法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山(元は法相宗)で、正式名称は法隆学問寺と言い、推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つで、南都七大寺の一つでもあります。飛鳥時代に聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ、薬師三尊像を安置したのに始まり、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされますが、670年(天智天皇9)に落雷によって全焼し、7世紀後半に再建されました。
 金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、境内の広さは約18万7千㎡です。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群などがあり、東院伽藍には、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、夢違観音、玉虫厨子、橘夫人念持仏厨子、百万塔陀羅尼などがあり、全体で38件もの国宝と151件の国の重要文化財が残されてきました。
 残念ながら、金堂の壁画は1949年(昭和24)の火災で損傷したものの、のち復元されています。また、1934年(昭和9)に法隆寺国宝保存事業の開始と共に、次々と根本的修理が行われ、1954年(昭和29)の金堂の修理落成でほぼ終了しました。
 尚、1993年(平成5)には、法起寺と共に、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇法隆寺関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・574年(敏達3年) 聖徳大子が生まれる
・586年(用明元年) 聖徳太子が法隆寺および薬師仏の造立を発願する
・607年(推古15年) 法隆寺が完成し、用明天皇のために金堂薬師如来像を造願する
・622年(推古30年2月22日) 聖徳太子が亡くなり、橘大郎女が聖徳太子のために、天寿国曼荼羅繍帳を作成する
・623年(推古31年) 止利仏師により金堂釈迦三尊像が完成する
・643年(皇極2年11月) 蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子山背大兄王らを斑鳩宮に襲い、山背大兄王ら一族25人が自害し、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡する
・670年(天智9年4月30日) 夜半に法隆寺が全焼する
・708年(和銅元年) 詔により法隆寺を再建する
・711年(和銅4年) 五重塔内塑像および中門金剛力士像を造る
・737年(天平9年) 行信が聖徳太子の遺品を集める
・739年(天平11年4月10日) 行信、上宮王院(東院)夢殿を造立する
・767年(神護景雲元年9月5日) 行信発願の大般若経など2,700巻の写経事業が、法資孝仁によって完成する
・859年(貞観元年9月19日) 道詮奏上して夢殿を修理する
・1023年(治安3年10月26日) 藤原道長、法隆寺および上宮王院に参詣する
・1069年(治暦5年2月5日) 仏師僧円快、秦到真、聖徳太子像を造る
・1114年(永久2年) 勝賢、法隆寺一切経写経事業を発願する
・1118年(元永元年) 写経事業が完成する
・1121年(保安2年) 東室を新造、南面を改造して聖霊院とし、院内に聖徳太子および侍者像5体を奉安する
・1126年(大治元年7月19日) 源義、開浦三昧堂を改めて三経院を造立する
・1261年(弘長元年9月4日) 後嵯峨太上天皇、行幸する
・1574年(天正2年正月) 織田信長、法隆寺境内へ陣取などを禁止する掟を作る
・1600年(慶長5年) 豊臣秀頼が、この頃から法隆寺全伽藍の修理を開始する
・1606年(慶長11年) 豊臣秀頼による法隆寺全伽藍を修理が完了する
・1614年(慶長19年10月16日) 徳川家康、大阪冬の陣に赴く途上、法隆寺で太子尊像を拝し、阿弥陀院で一泊する
・1868年(明治元年3月) 「神仏分離令」により、廃仏棄釈運動が起こる
・1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜される
・1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉される(異説あり)
・1903年(明治36年) 佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する
・1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始される
・1939年(昭和14年) 「若草伽藍」を発掘する
・1944年(昭和19年) 太平洋戦争下の爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現・安堵町)などに疎開させる
・1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見する
・1949年(昭和24年)1月26日 金堂より失火し、壁画を焼損する
・1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く
・1951年(昭和26年)6月9日、法隆寺境内、史跡に指定される。
・1954年(昭和29年) 「昭和の大修理」が金堂の修理落成でほぼ終了する
・1967年(昭和42年)10月20日 法隆寺境内が、歴史的特別保存地区に指定される
・1969年(昭和44年)4月 金堂内陣上部小壁天人壁画再現事業を開始。
・1971年(昭和46年)3月31日 金堂内陣上部小壁再現事業完成。4月2日~4日の3日間、聖徳太子1350年御聖諱法要が厳修される。
・1985年(昭和60年)6月30日 昭和の大修理完成し、法隆寺昭和大修理完成法要が厳修される
・1993年(平成5年)12月9日 「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される
・2013年(平成25年)12月9日 大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結し、境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する
・2015年(平成27年)11月11日 1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表される
・2023年(令和5年)9月7日 斑鳩町教育委員会が、「舟塚古墳」と呼称していた観光バス駐車場にある円形の植え込みで、奈良大学との共同発掘調査にて石室と副葬品を発見したと報じられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(文治5)源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い、源義経が自害する(新暦6月15日)詳細
1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、飛鳥時代の585年(敏達天皇14)に、仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病流行の原因が仏教崇拝にあると奏上(物部守屋の仏教排斥)した日ですが、新暦では4月5日となります。
 物部守屋の仏教排斥(もののべもりやのぶっきょうはいせき)は、守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)が蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求め、敏達天皇が仏法を止めるよう詔したことでした。仏教は、欽明天皇の時代に伝来したと言われていますが、敏達天皇の御代になって、585年(敏達天皇14)2月に、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めます。
 敏達天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行し出しましたので、同年3月1日に守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めます。敏達天皇は仏法を止めるよう詔し、3月30日に、守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵します。
 その上で、使者(佐伯造御室)を派遣して、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって、海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑に処するという事件が起こりました。しかし、疫病は更にひどくなって、天皇も病に伏すことになりましたので、馬子は、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達天皇は馬子に限り許すことになります。
 しばらくして敏達天皇が亡くなった後も、仏教を広めようとする蘇我氏と旧来の神々を崇める物部氏との対立は続き、とうとう、2年後の587年(用明天皇2)7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めました。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて守屋の館を攻め、守屋は射殺され、これ以後、蘇我氏の勢力が増大します。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻20の渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)14年の条の該当部分を抜粋し、注釈と現代語訳を付けておきましたので、ご参照下さい。

〇「日本書紀」巻第二十 渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)十四年の条

<原文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
是日、無雲風雨。大連、被雨衣、訶責馬子宿禰與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室更名、於閭礙、喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。

 「岩波古典文学大系本」(卜部兼方・兼右本)より

<読み下し文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰く、「何の故にか肯て臣が言を用いたまはぬ。考天皇[1]より陛下に及び、疫疾[2]流く行はれて、國の民絶えつ可し。豈に專に蘇我臣が佛法を興し行ふに由るに非ずや。」詔して曰く、「灼然なり[3]、宜しく佛法を斷めよ。」丙戌、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡床[4]に踞坐り[5]、其の塔を斫倒し、火を縱けて之を燔く、幷せて佛像と佛殿とを燒く。既にして燒けし所の餘りの佛像を取りて、難波[6]の堀江に棄てしむ。
是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣[7]して、馬子宿禰と從ひて法を行へる侶とを訶責[8]して、毀り辱かしむるの心を生さしむ。乃ち佐伯造御室(更の名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰の供る所の善信等の尼を喚さしむ。是に由りて、馬子宿禰、敢て命に違はず、惻み愴き啼泣つヽ、尼等を喚し出して、御室に付く。有司[9]、便ち尼等の三衣[10]を奪ひて、海石榴市[11]の亭[12]に禁錮へ[13]、楚撻ちき[14]。

【注釈】
[1]考天皇:かぞのみかど=欽明天皇のこと。
[2]疫疾:えやみ=疫病。
[3]灼然なり:いやちこなり=明白となること。とてもはっきりすること。非常に明らかになること。
[4]胡床:あぐら=腰を掛ける座具の一種。床几のこと。
[5]踞坐り:しりうたげをすわり=うずくまること。しゃがむこと。あぐらをかくこと。
[6]難波:なには=現在の大阪市およびその周辺地域の古称。
[7]被雨衣:あまよそい=雨具を付けること。
[8]訶責:かしゃく=しかり責めること。責めさいなむこと。
[9]有司:つかさ=役人。
[10]三衣:さんえ=僧の着る大衣、七条、五条の三種の袈裟のこと。僧衣。
[11]海石榴市:つばきいち=現在の奈良県桜井市付近にあった。
[12]亭:うまやたち=駅舎。駅家。大和政権が運営した交通施設で、馬や人員を常備した。
[13]禁錮へ:からめとらえへ=受刑者を監獄に拘置すること。
[14]楚撻ちき:しりかたうちき=鞭打ちの刑にする。

<現代語訳>

3月1日、大連の物部弓削守屋と大夫の中臣勝海が奏上するのには、「どうして私どもの進言を用いられないのですか。欽明天皇より陛下の御代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうです。これは専ら、蘇我氏が仏法を広めたことによるのに間違えありません。」天皇が詔して、「これは明白である。すぐに仏法を止めるように。」と言われた。30日に大連の物部弓削守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、火を着けた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼損した仏像を集めて、難波の堀江に投げ込ませた。
この日、雲も見えないのに風雨となり、大連(物部弓削守屋)は雨具をつけた。馬子宿禰やこれに従っていた仏法信者を面罵し、人々の信頼がなくなるようにした。その上で、佐伯造御室(別名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰に従っている善信等の尼を召喚させた。これについては、馬子宿禰はあえて命令には逆らわず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して、使者の御室に託した。役人たちは、尼達の三衣を剥ぎとって、捕縛して海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑にした。

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