
遣隋使(けんずいし)は、飛鳥時代の推古天皇の時に、大和朝廷が隋に派遣した公式の使節です。『日本書紀』と『隋書』では、記録が一致しない部分がありますが、600年(推古天皇8)以後3回~4回派遣されたとされ、614年(推古天皇22)に最後の遣隋使として犬上御田鍬らが送られたと考えられてきました。
その中で、607年(推古天皇15)~608年(推古16年)の遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させたとされます。608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年)の遣隋使では、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わし、『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参、学生高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠ら8人を随行し、彼ら留学僧は帰朝後に、大化改新に貢献しました。
この中国への派遣事業は、隋の滅亡後は、遣唐使に継承されていくことになります。
その中で、607年(推古天皇15)~608年(推古16年)の遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させたとされます。608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年)の遣隋使では、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わし、『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参、学生高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠ら8人を随行し、彼ら留学僧は帰朝後に、大化改新に貢献しました。
この中国への派遣事業は、隋の滅亡後は、遣唐使に継承されていくことになります。
〇遣隋使関係略年表
・600年(推古天皇8) 第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
・607年(推古天皇15)~608年(推古16年) 第2回遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させる。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
・608年(推古天皇16)~ ? (『隋書』煬帝紀)
・608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年) 第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わす。『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参。この時、学生・学問僧として8人が、隋へ留学する。
・610年(推古天皇18)~? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)他に記録がなく、第3回の年次誤りとする説が多い。
・614年(推古天皇22)~615年(推古23年) 第5回(又は第4回)遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)隋側に記録がない。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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