ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平成時代

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 今日は、平成時代の2016年(平成28)に、小説家高井有一の亡くなった日です。
 高井有一(たかい ゆういち)は、1932年(昭和7)4月27日に、東京府北豊島郡長崎町(現在の東京都豊島区)において、画家の父・田口省吾と母・信子の長男として生まれましたが、本名は田口掬汀(たぐち きくてい)と言いました。1943年(昭和8)に祖父、父があいついで亡くなり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下において、母・妹と共に秋田県へ疎開しています。
 成蹊高等学校へ入学して、中村草田男の授業を受け、1951年(昭和26)に成蹊大学に進学したものの、翌年に早稲田大学第二文学部英文学科に編入しました。文学サークル「現代文学会」で活動、かたわら大学の広報誌「早稲田学報」の編集助手を務め、1955年(昭和30)に卒業し、共同通信社文化部記者となります。
 1964年(昭和39)に同人雑誌「犀」の創刊に参加、翌年に『夏の日の影』を発表、1966年(昭和41)に発表した『北の河』で、第54回芥川龍之介賞を受賞しました。1975年(昭和50) 共同通信社を退社し、作家専業となり、1977年(昭和52)には、季刊誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務め、祖父の田口掬汀の生涯を描いた『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1984年(昭和59)に共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚、『この国の空』で谷崎潤一郎賞、1990年(平成2)には、『夜の蟻』で読売文学賞を受賞しました。1992年(平成4)に立原正秋の生涯を描いた『立原正秋(せいしゅう)』で毎日芸術賞を受賞、1996年(平成8)には、日本芸術院会員となります。
 1999年(平成11)に『高らかな挽歌』で大佛次郎賞を受賞、2000年(平成12)には、日本文芸家協会理事長(~2002年)となりました。2015年(平成27)には、『この国の空』が映画化されたものの、2016年(平成28)10月26日に、東京都内の病院において、心不全のため84歳で亡くなっています。

<高井有一の主要な著作>

・『北の河』(1964年)第54回芥川賞受賞
・『少年たちの戦場』(1968年)
・『雪の涯(はて)の風葬』(1970年)
・『蟲たちの棲家』(1973年)
・『夢の碑』(1976年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・『真実の学校』(1980年)
・『青梅』(1980年)
・『この国の空』(1983年)谷崎潤一郎賞受賞
・『俄瀧』(1984年)
・『塵の都に』(1988年)
・『夜の蟻』(1989年)読売文学賞受賞
・評伝『立原正秋』(1991年)毎日芸術賞受賞
・『愛日』(1994年)
・エッセイ集『作家の生き死(しに)』(1997年)
・『高らかな挽歌』(1999年)大佛次郎賞受賞
・『時の潮』(2002年)野間文芸賞受賞

〇高井有一関係略年表

・1932年(昭和7)4月27日 東京府北豊島郡長崎町(現在の東京都豊島区)において、画家の父・田口省吾と母・信子の長男として生まれる
・1943年(昭和8) 祖父、父があいついで亡くなる
・1945年(昭和20) 母・妹と共に秋田県へ疎開する
・1951年(昭和26) 成蹊高等学校から成蹊大学に進学する
・1952年(昭和27) 早稲田大学第二文学部英文学科に編入する
・1955年(昭和30) 早稲田大学第二文学部英文学科を卒業し、共同通信社文化部記者となる
・1964年(昭和39) 同人雑誌「犀」の創刊に参加する
・1965年(昭和40) 同人雑誌「犀」に『夏の日の影』を発表する
・1966年(昭和41) 同人雑誌「犀」に発表した『北の河』で、第54回芥川龍之介賞を受賞する
・1975年(昭和50) 共同通信社を退社し、作家専業となる
・1977年(昭和52) 季刊誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務め、祖父の田口掬汀の生涯を描いた『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1984年(昭和59) 共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚、『この国の空』で谷崎潤一郎賞を受賞する
・1990年(平成2) 『夜の蟻』で読売文学賞を受賞する
・1992年(平成4) 立原正秋の生涯を描いた『立原正秋(せいしゅう)』で毎日芸術賞を受賞する
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1999年(平成11) 『高らかな挽歌』で大佛次郎賞を受賞する
・2000年(平成12) 日本文芸家協会理事長(~2002年)となる
・2002年(平成14) 『時の潮』で野間文芸賞を受賞する
・2008年(平成20) 日本近代文学館理事長となる
・2015年(平成27) 『この国の空』が映画化される
・2016年(平成28)10月26日 東京都内の病院において、心不全のため84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1919年(大正8)経済学者篠原三代平の誕生日詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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ogatasadako01
 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、国際政治学者緒方貞子が亡くなった日です。
 緒方貞子(おがた さだこ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)9月16日に、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、外交官・元フィンランド特命全権公使の父・中村豊一と母・恒子の長女として生まれました。1951年(昭和26)に聖心女子大学英文科を卒業し、ロータリー国際親善奨学生として渡米、1953年(昭和28)に、ジョージタウン大学国際関係論修士課程、1963年(昭和38)には、カリフォルニア大学バークレー校政治学博士課程を修了します。
 1965年(昭和40)に、国際基督教大学非常勤講師となり、1968年(昭和43)に、国連総会日本政府代表顧問、1974年(昭和49)には、国際基督教大学准教授となりました。1976年(昭和51) 国連日本政府代表部公使、1978年(昭和53)に、国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長、1979年(昭和54)には、外務省参与、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長となります。
 1980年(昭和55)に上智大学国際関係研究所教授、1981年(昭和56)に婦人問題企画推進会議委員、1982年(昭和57)に国連人権委員会日本政府代表、1983年(昭和58)には、国際人道問題独立委員会委員となりました。1987年(昭和62)に上智大学国際関係研究所長、1989年(平成元)に上智大学外国語学部長、1990年(平成2)には、国連人権委員会ビルマ人権状況専門官となります。
 1991年(平成3)に第8代国連難民高等弁務官に就任、1993年(平成5)にイタリア金の鳩平和賞、1994年(平成6)に自由賞、欠乏からの自由賞、1995年(平成7)にフィラデルフィア自由賞、1996年(平成8)にフェリックス・ウーフェ=ボワニ平和賞、1997年(平成9)にマグサイサイ賞平和・国際理解部門を受賞しました。2000年(平成12)に難民教育基金を設立、国連難民高等弁務官を退任、ソウル平和賞、2001年(平成13)に人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援政府特別代表となり、フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章、文化功労者となります。
 2002年(平成14)にアフガニスタン復興支援国際会議共同議長となり、フルブライト賞を受賞、2003年(平成15)に文化勲章を受章、2004年(平成16)には、東京都名誉都民となりました。2005年(平成17)に世界市民賞、2006年(平成18)にフィリピンのラカンドゥラ勲章、2008年(平成20)にオランダのオラニエ・ナッサウ勲章を受章、2009年(平成21)には、後藤新平賞を受賞します。2011年(平成23)に人間の安全保障諮問委員会議長を退任し、人間の安全保障諮問委員会名誉議長に就任、聖マイケル・聖ジョージ勲章(DCMG)、キルギスの国家友好章を受章、2012年(平成24)には、国際協力機構 (JICA) 理事長を退任し、国際協力機構 (JICA) 特別顧問に就任、地球市民賞を受賞しました。
 2013年(平成25)にアステカ鷲勲章、シカツナ勲章を受章したものの、2019年(平成31)10月22日に、東京において、92歳で亡くなり、従三位を追贈されます。

<主要な著書>

・『満州事変と政策の形成過程』(1966年)
・『日本における国際組織研究』(1982年)
・『難民つくらぬ世界へ』(1996年)
・『私の仕事――国連難民高等弁務官の十年と平和の構築』(2002年)
・『紛争と難民――緒方貞子の回想』(2006年)
・『満州事変――政策の形成過程』(2011年)
・『共に生きるということ――be humane』(2013年)

〇緒方貞子関係略年表

・1927年(昭和2)9月16日 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、外交官・元フィンランド特命全権公使の父・中村豊一と母・恒子の長女として生まれる
・1951年(昭和26) 聖心女子大学英文科を卒業し、ロータリー国際親善奨学生として渡米する
・1953年(昭和28) ジョージタウン大学国際関係論修士課程を修了する
・1963年(昭和38) カリフォルニア大学バークレー校政治学博士課程を修了する
・1965年(昭和40) 国際基督教大学非常勤講師となる
・1968年(昭和43) 国連総会日本政府代表顧問となる
・1974年(昭和49) 国際基督教大学准教授となる
・1976年(昭和51) 国連日本政府代表部公使となる
・1978年(昭和53) 国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長となる
・1979年(昭和54) 外務省参与、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長となる
・1980年(昭和55) 上智大学国際関係研究所教授となる
・1981年(昭和56) 婦人問題企画推進会議委員となる
・1982年(昭和57) 国連人権委員会日本政府代表となる
・1983年(昭和58) 国際人道問題独立委員会委員となる
・1987年(昭和62) 上智大学国際関係研究所長となる
・1989年(平成元) 上智大学外国語学部長となる
・1990年(平成2) 国連人権委員会ビルマ人権状況専門官(ビルマは現在のミャンマー)となる
・1991年(平成3) 第8代国連難民高等弁務官に就任する
・1993年(平成5) イタリア金の鳩平和賞を受賞する
・1994年(平成6) 国連難民高等弁務官に再任(任期5年)され、自由賞、欠乏からの自由賞を受賞する
・1995年(平成7) フィラデルフィア自由賞を受賞する
・1996年(平成8) フェリックス・ウーフェ=ボワニ平和賞を受賞する
・1997年(平成9) マグサイサイ賞平和・国際理解部門を受賞する
・1999年(平成11) 国連難民高等弁務官に再任(任期2年)され、朝日賞特別賞を受賞する
・2000年(平成12) 難民教育基金を設立、国連難民高等弁務官を退任、ソウル平和賞を受賞する
・2001年(平成13) 人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援政府特別代表となり、フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章、文化功労者となる
・2002年(平成14) アフガニスタン復興支援国際会議共同議長となり、フルブライト賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) 東京都名誉都民となる
・2005年(平成17) 世界市民賞を受賞する
・2006年(平成18) フィリピンの旗ラカンドゥラ勲章を受章する
・2008年(平成20) オランダの旗オラニエ・ナッサウ勲章を受章する
・2009年(平成21) 後藤新平賞を受賞する
・2011年(平成23) 人間の安全保障諮問委員会議長を退任し、人間の安全保障諮問委員会名誉議長に就任、聖マイケル・聖ジョージ勲章(DCMG)、キルギスの国家友好章を受章する
・2012年(平成24) 国際協力機構 (JICA) 理事長を退任し、国際協力機構 (JICA) 特別顧問に就任、地球市民賞を受賞する
・2013年(平成25) アステカ鷲勲章、シカツナ勲章を受章する
・2019年(平成31)10月22日 東京において、92歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1940年(昭和15)社会主義者西川光二郎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
2010年(平成22)囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) の命日詳細
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sagaramorio01
 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、ドイツ文学者相良守峯が亡くなった日です。
 相良守峯(さがら もりお)は、明治時代後期の1895年(明治28)4月14日に、山形県鶴岡市若葉町において、相良守一の長男として生まれましたが、幼名は鈇太郎(おのたろう)と言いました。荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1917年(大正6)に、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部ドイツ文学科へ進みます。
 在学中の1919年(大正8)に坪田譲治、亀尾英四郎らと『地上の子』を発刊し、この頃に郡長の許可を得て守峯(もりお)と改名しました。1921年(大正10)に、東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業し、早稲田大学理工科講師となり、翌年には、旧制水戸高等学校の教授となります。
 1924年(大正13)に、旧制第一高等学校教授に転任し、1930年(昭和5)には、文部省在外研究員としてドイツ・イタリア・アメリカに留学しました。帰国後、1933年(昭和8)に、東京帝国大学助教授となり、1940年(昭和15)には、木村謹治共編の『木村・相良独和辞典』を刊行します。
 1945年(昭和20)に、「独逸中世叙事詩研究」で、東京帝国大学より文学博士を得て、1947年(昭和22)には、東京大学教授に昇任し、日本独文学会創設とともに理事長(~1957年)に就任しました。1948年(昭和23)に、『ドイツ中世叙事詩研究』を刊行、1955年(昭和30)に、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章を受章、1956年(昭和31)には、東京大学を定年退官し名誉教授となり、慶應義塾大学教授に就任しています。
 1958年(昭和33)に、日本ゲーテ協会を再建し会長となり、1967年(昭和42)に勲二等瑞宝章を受章、1968年(昭和43)には、西ドイツゲーテ協会「ゲーテ賞碑金章」を受賞、文化功労者となりました。1969年(昭和44)に、京都外国語大学教授(~1976年)に就任し、鶴岡市名誉市民(第1号)となります。
 日本における中世ドイツ文学研究の基盤をつくった業績などにより、1985年(昭和60)に文化勲章を受章しましたが、1989年(平成元)10月16日に、東京都において、94歳で亡くなり、従三位と勲一等瑞宝章を追贈されました。

<相良守峯の主要な著作>

・訳書『グリム童話傑作集』3巻(1946~48年)
・『ドイツ中世叙事詩研究』(1948年)
・『ワーグナーの思想と芸術』(1948年)
・木村謹治共編、『木村・相良独和辞典』(1948年)
・『ゲーテ事典』(1950年)
・『ドイツ文法』(1951年)
・『ドイツ文学史』3巻(1954~62年)
・訳書『ファウスト』(1955年)
・訳書『ニーベルンゲンの歌』(1955年)
・編集『大独和辞典』(1958年)
・エッセイ集『茫々(ぼうぼう)わが歳月』(1978年)

〇相良守峯関係略年表

・1895年(明治28)4月14日 山形県鶴岡市若葉町において、相良守一の長男として生まれる
・1913年(大正2) 荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)を卒業する
・1917年(大正6) 第四高等学校 (旧制)を卒業する
・1919年(大正8) 坪田譲治、亀尾英四郎らと『地上の子』を発刊する
・1921年(大正10) 東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業し、早稲田大学理工科講師となる
・1922年(大正11) 水戸高等学校 (旧制)教授となり、従七位となる
・1923年(大正12) 正七位となる
・1924年(大正13) 第一高等学校 (旧制)教授となる
・1926年(大正15) 従六位となる
・1928年(昭和3) 正六位となる
・1930年(昭和5) 文部省在外研究員としてドイツ・イタリア・アメリカに留学する
・1931年(昭和6) 従五位となる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学助教授となる
・1934年(昭和9) 勲六等瑞宝章を受章する
・1936年(昭和11) 正五位となる
・1938年(昭和13) 勲五等瑞宝章を受章する
・1940年(昭和15) 「木村・相良独和辞典」を刊行、紀元二千六百年祝典記念章を受章する
・1941年(昭和16) 従四位となる
・1944年(昭和19) 勲四等瑞宝章を受章する
・1945年(昭和20) 「独逸中世叙事詩研究」で、東京帝国大学より文学博士を得る
・1947年(昭和22) 東京大学教授、日本独文学会創設とともに理事長に就任する
・1948年(昭和23) 『ドイツ中世叙事詩研究』を刊行する
・1955年(昭和30) ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章を受章する
・1956年(昭和31) 東京大学を定年退官し名誉教授となり、慶應義塾大学教授となる
・1957年(昭和32) 日本独文学会理事長を退任する
・1958年(昭和33) 日本ゲーテ協会を再建し会長となる
・1967年(昭和42) 勲二等瑞宝章を受章する
・1968年(昭和43) 西ドイツゲーテ協会「ゲーテ賞碑金章」を受賞、文化功労者となる
・1969年(昭和44) 京都外国語大学教授となり、鶴岡市名誉市民(第1号)となる
・1976年(昭和51) 京都外国語大学を退職する
・1985年(昭和60) 文化勲章を受章する
・1989年(平成元)10月16日 東京都において、94歳で亡くなり、従三位と勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

669年(天智天皇8)政治家・藤原氏の祖藤原鎌足の命日(新暦11月14日)詳細
1279年(弘安2)『十六夜日記』の著者阿仏尼が鎌倉に向けて京を出立する(新暦11月21日)詳細
1878年(明治11)札幌市時計台が、旧札幌農学校(現在の北海道大学)の演武場として建設される詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣により、「国内防衛方策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)GHQが「映画企業に対する日本政府の統制の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-146)を出す詳細
国連食糧農業機関(FAO)が設立される詳細
1970年(昭和45)物理学者坂田昌一の命日詳細
1981年(昭和56)北炭夕張炭鉱(夕張新鉱)でガス噴出事故が起こり、死者93人、負傷者39人を出す詳細
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touhokushinkansen01
 今日は、1991年(平成3)に、東北新幹線の盛岡~青森間の起工式が行われた日です。
 東北新幹線(とうほくしんかんせん)は、東京駅~新青森駅(全長713.7km)を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)が運営する高速鉄道路線(新幹線)です。昭和時代後期の1970年(昭和45)5月18日に成立した「全国新幹線鉄道整備法」に基づき、1971年(昭和46)には、「昭和46年運輸省告示第17号」により、東北新幹線(東京都~盛岡市)を含む3路線の基本計画が公示され、日本国有鉄道の路線として、工事に着手しました。
 さらに、1973年(昭和48)11月13日に東北新幹線(盛岡市~青森市)を含む整備新幹線5路線の一つとして、建設計画が決定します。その後、1982年(昭和57)6月23日に、東北新幹線初の大宮駅~盛岡駅間 (495.2 km) が開業、1985年(昭和60)3月14日には、上野駅~大宮駅間(27.7 km)が延伸開業しました。
 1987年(昭和62)4月1日に、国鉄分割民営化に伴い、JR各社が発足し、東北新幹線の営業主体および東北新幹線(盛岡市~青森市)の建設主体は東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継されます。1991年(平成3)6月20日に東京駅~上野駅間(3.6 km)が延伸開業、同年に盛岡~青森間の工事実施計画認可され、起工式が行われました。
 1992年(平成4)7月1日に、山形新幹線の福島駅~山形駅間開業、同線との直通列車として「つばさ」が運転開始し、1997年(平成9)3月22日には、秋田新幹線の盛岡駅~秋田駅間が開業、同線との直通列車として「こまち」運転開始されます。1998年(平成10)に八戸~新青森間の工事実施計画(フル規格)が追加認可され、起工式が行われ、2002年(平成14)12月1日には、盛岡駅~八戸駅間 (96.6 km) が延伸開業しました。
 そして、2010年(平成22)12月4日に、八戸駅~新青森駅間(81.8 km)が延伸開業し、東北新幹線は全線開業となります。尚、2016年(平成28)3月26日に、北海道新幹線の新青森駅~新函館北斗駅間開業に伴い、「はやて」「はやぶさ」の一部列車が北海道新幹線と直通運転を開始しました。

〇東北新幹線関係略年表

・1969年(昭和44) 新全国総合開発計画が閣議決定される
・1970年(昭和45) 「全国新幹線鉄道整備法」が公布される
・1971年(昭和46) 「昭和46年運輸省告示第17号」により、東北新幹線(東京都~盛岡市)を含む3路線の基本計画が公示され、工事に着手する
・1972年(昭和47) 「昭和47年運輸省告示第242号」により東北新幹線(東京都~青森市)に基本計画が変更される
・1973年(昭和48) 東北新幹線(盛岡市~青森市)を含む5路線の整備計画決定および建設が指示される
・1977年(昭和52) 小山総合試験線(石橋~鷲宮間42.8 km)のレール敷設が完了、東京~盛岡間の工事実施計画変更(その2)が認可される
・1979年(昭和54) 小山駅付近に建設された東北新幹線総合試験線にて、試作車両の走行試験を開始、仙台試験線管理所が開設される
・1981年(昭和56) 「全国新幹線鉄道整備法」が改正され、建設費の地元負担が可能とされ、列車愛称を「やまびこ」「あおば」と発表される
・1982年(昭和57)6月23日 大宮駅~盛岡駅間 (495.2 km) が開業する
・1985年(昭和60)3月14日 上野駅~大宮駅間(27.7 km)が開業する
・1987年(昭和62)4月1日 国鉄分割民営化に伴い、JR各社が発足し、東北新幹線の営業主体および東北新幹線(盛岡市~青森市)の建設主体は東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継される
・1988年(昭和63) 政府・与党申し合わせ「整備新幹線の取扱について」において整備新幹線着工優先順位を決定し、東北新幹線は運輸省案で第2位となる
・1989年(平成元) 整備新幹線難工事推進事業計画(岩手トンネル)が認可される
・1990年(平成2) 東京駅延伸工事中に第1上野トンネル(通称「御徒町トンネル」)の建設現場で土砂が噴出し、地上の道路が陥没する事故が発生する
・1991年(平成3)6月20日 東京駅~上野駅間(3.6 km)が開業する
・1991年(平成3)9月4日 盛岡~青森間の工事実施計画認可され、起工式が行われる
・1992年(平成4)7月1日 山形新幹線の福島駅~山形駅間開業。同線との直通列車として「つばさ」が運転開始する
・1994年(平成6) E1系"Max"が営業運転を開始、「Maxやまびこ」「Maxあおば」が新設する
・1995年(平成7) 盛岡~沼宮内間の工事実施計画(フル規格)が追加認可される
・1996年(平成8) 八戸~新青森(石江)間のフル規格化および着工が決定する
・1997年(平成9)3月22日 秋田新幹線の盛岡駅~秋田駅間が開業、同線との直通列車として「こまち」運転開始される
・1998年(平成10) 八戸~新青森間の工事実施計画(フル規格)が追加認可され、起工式が行われる
・1999年(平成11)12月4日 山形新幹線の山形駅~新庄駅間が延伸開業する
・2002年(平成14)12月1日 盛岡駅~八戸駅間 (96.6 km) が開業する
・2003年(平成15) 運輸施設整備事業団と日本鉄道建設公団が統合し、鉄道建設・運輸施設整備支援機構設立される
・2010年(平成22)12月4日 八戸駅~新青森駅間(81.8 km)が開業し、東北新幹線は全線開業となる
・2016年(平成28)3月26日 北海道新幹線の新青森駅~新函館北斗駅間開業に伴い、「はやて」「はやぶさ」の一部列車が北海道新幹線と直通運転を開始する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1702年(元禄15)武士・尾張藩士・国学者・俳人横井也有の誕生日(新暦10月24日)詳細
1820年(文政3)備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の命日で(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)政治家田中正造の命日詳細
1943年(昭和18)上野動物園で、空襲に備えて戦時猛獣処分になった猛獣の慰霊法要が実施される詳細
1951年(昭和26)アメリカのサンフランシスコにおいて、サンフランシスコ講和会議が開幕する詳細
1975年(昭和50)詩人壺井繁治の命日詳細
1987年(昭和62)日本航空を完全民営化する「日本航空株式会社法を廃止する等の法律」が可決成立(施行は10月1日)する詳細
1994年(平成6)関西国際空港が開港する(関西国際空港開港記念日)詳細
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 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、家永教科書裁判の第3次訴訟で、最高裁が原告の主張を一部認める判決を出し、一連の家永教科書裁判が終結した日です。
 家永教科書裁判(いえながきょうかしょさいばん)は、歴史学者家永三郎(当時は東京教育大学教授)が執筆した、高等学校用日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)に対する教科書検定に関して、昭和時代後期に日本国政府を相手に起こした3つの裁判のことです。1965年(昭和40)提訴の第一次訴訟(教科書検定被害に対する国家賠償を請求)、1967年(昭和42)提訴の第二次訴訟(不当な教科書検定行政処分取り消しを請求)、1984年(昭和59)提訴の第三次訴訟(正誤訂正申請不受理処分を対象に国家賠償を請求)がありました。
 これに至る経緯は、1962年度の文部省教科書検定において、『新日本史』が不合格とされ、1963年度には条件つき合格となったものの大量の改善・修正意見がついたことによるものです。これは、「日本国憲法」 21条の表現の自由、検閲の禁止、23条の学問の自由、26条の教育を受ける権利に違反し、また、「教育基本法」 10条に定める教育行政の裁量権を逸脱した不当行為として、提訴したものでした。
 しかし、最高裁は「検閲にはあたらない」とし、教科書検定制度を合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、原告の実質的敗訴が確定したのです。一方、検定内容の適否については、1993年(平成5)東京高裁は「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」の3ヶ所の記述削除を違法とし、1997年(平成9)に、最高裁はさらに「731部隊」を加えた計 4ヵ所の記述削除を「国の裁量権逸脱」として違法とし、計40万円の支払いを国に命じました。
 この一連の裁判は、教科書検定制度の問題点を世間に明らかにし、公教育の在り方を広く問うものとなったのです。

〇家永教科書裁判関係略年表

・1952年(昭和27) 家永三郎が高校教科書「新日本史」(三省堂)の執筆を始める
・1955年(昭和30) 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立する
・1957年(昭和32) 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出する
・1963年(昭和38) 「新日本史」第五版が一旦検定不合格となる
・1964年(昭和39) 「新日本史」第五版が条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強める
・1965年(昭和40)6月12日 国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起する
・1967年(昭和42)6月23日 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起する
・1970年(昭和45)7月17日 第2次訴訟で東京地裁が、「教科書検定は教育への国の不当な介入で違憲である」として、検定不合格取消の判決(杉本判決)を出す
・1984年(昭和59)1月19日 再び国家賠償請求訴訟(第3次)を提起する
・1989年(平成元)6月27日 第2次訴訟は、東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下される
・1993年(平成5)3月16日 第1次訴訟は、最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持される
・1997年(平成9)8月20日 第3次訴訟は、最高裁で1ヵ所の書き換え処分が違法とされ、国側に40万円の支払いを命ずる“一部勝訴”判決が出る(一連の教科書裁判終結)

☆家永三郎(いえなが さぶろう)とは?

 昭和から平成時代に活躍した歴史学者・一連の教科書裁判の原告です。大正時代の1913年(大正2)9月3日に、後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれましたが、1921年(大正10)に東京に転居しました。
 1934年(昭和9)に東京高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、1937年(昭和12)に卒業します。教学局日本文化大観編纂助手を経て、1941年(昭和16)に新潟高等学校教授となり、1944年(昭和19)には、東京高等師範学校教授に転じました。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に仙台へ疎開したものの、戦後は東京に戻り、1946年(昭和21)には、文部省教科書編纂委員嘱託として、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆します。初めは実証主義の史家として知られ、やまと絵の研究に関わる『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、1948年(昭和23)に日本学士院恩賜賞を受賞しました。
 1949年(昭和24)に、学制改革により、東京教育大学文学部史学科教授となり、1950年(昭和25)には、学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』により、東京大学より文学博士を得ます。1952年(昭和27)に高校教科書「新日本史」(三省堂発行)の執筆を始め、1954年(昭和29)には、「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加しました。
 1955年(昭和30)に高校教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立、1957年(昭和32)には、第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出します。1959年(昭和34)の東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこない、1963年(昭和38)に「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強めました。
 1965年(昭和40)に国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起、1967年(昭和42)に「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起します。1977年(昭和52)に東京教育大学定年退官後、中央大学法学部教授に就任、1984年(昭和59)に中央大学を定年退職、再び1980年代の教科書検定を対象に国家賠償請求訴訟(第3次)を提起しました。
 1989年(平成元)に第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下され、1993年(平成5)に第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持されましたが、第3次訴訟では、検定制度自体は合憲としながらも1審で1ヶ所、控訴審理で3ヶ所、上告審で4ヶ所の検定意見の違法が認められ、国側に40万円の支払いを命ずる判決が、1997年(平成9)に最高裁で出され、“一部勝訴”となって、一連の教科書裁判は終結します。これによって、当時の文部省は検定制度見直しを迫られ、簡素化を中心にした1989年(平成元)の制度の全面改定につながりました。
 古代から近代にいたる日本思想史の研究、3次にわたる教科書裁判で注目を浴びたものの、2002年(平成14)11月29日に東京において、89歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1241年(仁治2)公家・歌人藤原定家の命日(新暦9月26日)詳細
1573年(天正元)織田信長との一乗谷城の戦いに敗れた朝倉義景が自決する(新暦9月16日)詳細
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1905年(明治38)映画監督成瀬巳喜男の誕生日詳細
1926年(大正15)社団法人日本放送協会(NHK)が設立される詳細
1941年(昭和16)高村光太郎が、妻智恵子を偲んで編纂された詩集『智恵子抄』が刊行される詳細
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