ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平成時代

koutsuukeiICcard01
 今日は、平成時代の2013年(平成25)に、全国10種類の交通系ICカードで、交通系ICカード全国相互利用サービスが開始された日です。
 交通系ICカード(こうつうけいあいしーかーど)は、IC(集積回路)チップが埋め込まれたカード型の乗車券で、自動改札機などの読取り部分に近づけるだけで電車やバスなどの公共交通機関の運賃を自動精算できるものです。2001年(平成13)11月18日に、ソニーの ICカード技術 FeliCaを採用したJR東日本の「Suica」が誕生したのが最初で、使い勝手のよさから急速に普及し、導入する交通事業者が急増しました。
 定期券としての利用も可能で、クレジットカード機能を加えて自動入金できるものや電子マネーカードの機能もあり、駅構内の売店のほか、加盟しているコンビニエンスストアや飲食店、自動販売機などの決済にも利用できるようになっています。2013年(平成25)3月23日より、北海道圏のJR北海道「Kitaca」、首都圏のJR東日本「Suica」・PASMO協議会「PASMO」、名古屋圏のJR東海「TOICA」・名古屋市交通局と名古屋鉄道「manaca」、近畿圏のJR西日本「ICOCA」・スルッとKANSAI協議会「PiTaPa」、九州圏のJR九州「SUGOCA」・西日本鉄道「nimoca」・福岡市交通局「はやかけん」の全国10カードが相互利用サービスを開始しましたが、首都圏の「Suica」と「PASMO」、九州圏の「SUGOCA」と「はやかけん」以外は、原則的にエリアをまたいでの利用ができないままとされてきました。
 また、「PiTaPa」を除く、9種類のカードは電子マネーとしても相互利用が可能となり、全国20万店以上の加盟店で決済に利用できます。

〇交通系ICカード全国相互利用サービスへ参加の交通系ICカード(10カード)

・北海道旅客鉄道(JR北海道、Kitaca)
・東日本旅客鉄道(JR東日本、Suica)
・東海旅客鉄道(JR東海、TOICA)
・西日本旅客鉄道(JR西日本、ICOCA)
・九州旅客鉄道(JR九州、SUGOCA)
・パスモ(PASMO)
・名古屋交通開発機構(マナカ)・エムアイシー(manaca)
・スルッとKANSAI(PiTaPa)
・福岡市交通局(はやかけん)
・西日本鉄道(nimoca)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1979年(昭和54)漫画家近藤日出造の命日詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

komachi1
 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、秋田新幹線・盛岡駅~秋田駅間が開業し、「こまち」が運転開始された日です。
 秋田新幹線(あきたしんかんせん)は、いわゆるミニ新幹線の一つ、盛岡駅~秋田駅間を結ぶ JR東日本の鉄道幹線(127.3km)の通称で、東京駅~盛岡駅間の東北新幹線の列車の一部を直通運行しています。1992年(平成4)に、JR東日本が秋田・盛岡間のミニ新幹線化を運輸省が事業認可し、秋田駅前で起工式が挙行され、JR東日本の田沢湖線(盛岡駅~大曲駅間)を標準軌に、奥羽本線(大曲駅~秋田駅間)を標準軌と狭軌の併用に改めました。
 1997年(平成9)3月22日に開業して、東京駅~秋田駅間に「こまち」がE3系5両編成で運行開始しましたが、山形新幹線に次いで2番目にミニ新幹線化された線区です。東京駅~秋田駅間に直通する特急「こまち」は、東北新幹線では特急「はやて」と併結されて、盛岡からは単独で秋田新幹線の区間に入りますが、2014年(平成26)3月15日には、全列車をE6系に置き換え、E3系の定期運用が終了しました。

〇秋田新幹線関係略年表

・1992年(平成4)1月30日 JR東日本が秋田・盛岡間のミニ新幹線化を運輸省が事業認可する
・1992年(平成4)3月13日 秋田駅前で起工式が挙行される
・1995年(平成7)4月19日 線区愛称を「秋田新幹線」に決定する
・1996年(平成8)7月30日 列車愛称を「こまち」に決定する
・1997年(平成9)3月22日 開業して、東京駅~秋田駅間に「こまち」がE3系5両編成で運行開始する
・1998年(平成10)12月8日 全列車が6両編成に増結される
・2001年(平成13)9月16日 乗車累計1,000万人を達成する
・2002年(平成14)12月1日 全列車を全席指定席化する
・2006年(平成18)3月11日 乗車累計2,000万人を達成する
・2007年(平成19)3月18日 全車両を禁煙とする
・2010年(平成22)8月15日 乗車累計3,000万人を達成する
・2014年(平成26)3月15日 「スーパーこまち」を廃止、列車名を「こまち」に統一し、秋田新幹線全列車をE6系に置き換え、E3系の定期運用が終了する
・2015年(平成27)6月12日 乗車累計4,000万人を達成する
・2019年(令和元)10月11日 乗車累計5,000万人を達成する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)「薄葬令」が発布される(新暦4月12日)詳細
1898年(明治31)『時事新報』に、福沢諭吉が執筆したとされる、社説「支那人親しむ可し」が掲載される詳細
1925年(大正14)東京放送局(現在のNHK東京放送局)がラジオ仮放送を開始する(放送記念日)詳細
1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
1997年(平成9)新潟県の北越急行ほくほく線(六日町駅~犀潟駅)が開業し、北陸と東京を結ぶ最短ルートになる詳細
2005年(平成17)建築家・都市計画家・工学博士丹下健三の命日詳細
2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ukourenrakusenshiokaze01
 今日は、平成時代の1991年(平成3)に、前年3月31日をもって休止していたJR宇高連絡船(宇野~高松間)が正式に廃止された日です。
 宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、明治時代後期から昭和時代にかけて、日本国有鉄道(国鉄)、分割民営化後は四国旅客鉄道(JR四国)が運行していた鉄道連絡船です。前身としては、1903年(明治36)に山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、岡山港~高松港間と多尾連絡船(多度津港~尾道港間)があり、1906年(明治39)3月31日に公布された「鉄道国有法」によって、国鉄の航路になりました。
 1910年(明治41)6月12日の宇野線開通と共に、鉄道連絡船(営業キロ18.0km)となり、玉藻丸、児島丸(客船)の2隻で営業を開始します。1921年(大正10)から曳航艀による貨車航送が始められ、1930年(昭和5)には、最初の自走貨車航送船(線路から直接貨車を積み込む船)が就航しました。
 1950年(昭和25)には、客載貨車航送船により、乗り換えなしで航送出来るようになります。しかし、1955年(昭和30)5月11日に、連絡船紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し、168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故)、その後安全性を考慮して、客載貨車航送は廃止されました。
 1972年(昭和47)にはホバークラフトが就航、通常の連絡船では1時間かかる所要時間を23分で運航、さらに1985年(昭和60)からは高速艇も就航します。1987年(昭和62)の国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)の管理となったものの、1988年(昭和63)4月10日の瀬戸大橋の完成により、瀬戸大橋線が開通して陸路で結ばれるようになり、鉄道連絡船の運航は高速艇を除き廃止されました。
 その高速艇も、1990年(平成2)3月31日に利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、1991年(平成3)3月16日に、前日て終わって、正式に廃止されています。

〇宇高連絡船関係略年表

・1903年(明治36)3月18日 身となる山陽汽船商社の岡山港~高松港間および多尾連絡船(多度津港~尾道港間)が就航する
・1906年(明治39)12月1日 「鉄道国有法」に伴い、山陽汽船商社の航路が国有化される
・1910年(明治43)6月12日 官設鉄道宇野線 岡山~宇野間が開通し、岡山港~高松港間と多尾連絡船の両航路を統合し、宇野~高松間の航路を開設し、玉藻丸・児嶋丸が就航する
・1917年(大正6)5月15日 水島丸が就航し、常時2船運航となる
・1921年(大正10)10月10日 貨車渡艀曳航による貨車航送を開始する
・1923年(大正12)6月29日 陽丸が就航し、玉藻丸は高松港に係船となる
・1923年(大正12)7月3日 南海丸が就航する
・1924年(大正13)3月1日 玉藻丸・児嶋丸を瀬戸内連絡急行汽船会社に売却される
・1929年(昭和4)11月23日 第一宇高丸が就航し、陸上設備の完成まで貨車渡艀曳航による貨車航送を続ける
・1930年(昭和5)4月1日 陸上設備の完成により第一宇高丸が貨車航送を開始する
・1934年(昭和9)7月12日 二宇高丸が就航する
・1937年(昭和12)8月12日 一宇高丸が聖川丸(川崎丸株式会社所属)と衝突し、沈没する
・1942年(昭和17)9月26日 関門トンネル開通に伴い、第三・第四・第五関門丸が下関~小森江航路より転属する
・1942年(昭和17)11月4日 第一関門丸が、下関~小森江航路より転属する
・1943年(昭和18)5月12日 南海丸が、座礁し沈没する
・1943年(昭和18)5月21日 第二関門丸が下関~小森江航路より転属する
・1947年(昭和22)7月6日 紫雲丸が就航する
・1947年(昭和22)10月14日 二宇高丸が、第三関門丸と衝突し沈没する
・1948年(昭和23)2月26日 眉山丸が就航する
・1948年(昭和23)6月25日 鷲羽丸が就航する
・1948年(昭和23)12月27日 山陽丸・南海丸・第一~第五関門丸の運航が廃止される
・1949年(昭和24)3月1日 宇野・高松港の第2バース完成により使用開始。同日、紫雲丸型3隻により車両航送開始する
・1949年(昭和24)6月1日 「日本国有鉄道法」施行に伴い、公共企業体日本国有鉄道(国鉄)に移管する
・1950年(昭和25)3月25日 紫雲丸、直島水道にて鷲羽丸と衝突し1度目の沈没をする
・1950年(昭和25)5月10日 第一 - 第五関門丸を日本自動車航送株式会社に売却。
・1950年(昭和25)10月1日 大阪駅~松山駅・須崎駅間に直通準急列車を設定、宇高連絡船では客車を積み込んで航送。乗客が乗った客車の車両航送が開始される
・1955年(昭和30)5月11日 紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故・国鉄戦後五大事故の一つ)する
・1972年(昭和47)11月8日 ホーバークラフトが就航する
・1980年(昭和55)10月1日 夜行急行列車「鷲羽」[注釈 1]と接続した高松0時台発及び宇野2時台発の便が廃止される
・1985年(昭和60)3月14日 夜行急行列車「いよ2号」及び窪川駅始発の夜行快速列車と接続する、高松4時頃発の便を臨時運航化する
・1985年(昭和60)12月 多客期、またホーバークラフトが定期検査で休航となる際に、臨時便として高速艇が就航する
・1987年(昭和62)4月1日 国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)に移管される
・1988年(昭和63)4月9日 本四備讃線(瀬戸大橋線)の翌日開業に伴い、連絡船とホーバークラフトが終航となり、高速艇は存続する
・1990年(平成2)3月31日 利用者の大幅減により高速艇の運航を休止し、事実上の終航となる
・1991年(平成3)3月16日 JR宇高航路が前日て終わり、廃止される
・2010年(平成22)6月12日 宇高航路100周年を記念し、JR四国の主催で、四国フェリーの船をチャーターし「宇高連絡船メモリアルクルーズ」を開催する
・2019年(令和元)12月16日 四国フェリーが運航を休止し、宇野・高松間の直行航路が109年の歴史に幕を下ろす

☆鉄道連絡船(てつどうれんらくせん)とは?

 鉄道を敷設することができない海洋や湖沼などの水上の部分に、鉄道の一線区に相当するものとしての航路を開き、両岸の鉄道線を連絡する船舶のことです。
 日本では、1884年(明治17)に福井県の金ヶ崎(敦賀港)~滋賀県長浜まで全通した鉄道路線と、兵庫県神戸~滋賀県大津間の鉄道路線とを琵琶湖の湖上経由(太湖汽船会社の第一・第二太湖丸による)で結んだのが最初でした。しかし、この航路は、1989年(明治22)に、東海道線と長浜~米原間の鉄道の開通によって、陸路で結ばれたために役割を終えます。
 その後、1908年(明治39)に本州と北海道を結ぶ青函航路(青森駅~函館桟橋駅・函館駅)、1910年(明治41)に本州と四国を結ぶ宇高航路(宇野駅~高松桟橋駅・高松駅)、1911年(明治42)に本州と九州を結ぶ関門航路(下関駅~小森江駅)などが開設されましたが、いずれも海底トンネルや海峡橋の建設により鉄道路線として結ばれるなどにより、廃止されました。
 尚、本州と宮島を結ぶ宮島航路は、JR西日本宮島フェリーの航路(鉄道連絡船)として現存していますが、当初から鉄道線を挟んだ輸送を担うものではありません。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)福沢諭吉が執筆したとされる「脱亜論」が『時事新報』に掲載される詳細
1900年(明治33)「私設鐵道法」(明治33年法律第64号)が公布(施行は同年10月1日)される詳細
「鉄道営業法」(明治33年法律第65号)が公布(施行は同年10月1日)される詳細
1934年(昭和9)初めて国立公園(.瀬戸内海国立公園・霧島国立公園・雲仙国立公園)が誕生する詳細
1983年(昭和58)千葉県佐倉市に「国立歴史民俗博物館」が開館する詳細
2005年(平成17)財団法人ダム水源地環境整備センター(現在の水源地環境センター)が「ダム湖百選」を選定する詳細
2006年(平成18)福岡県に新北九州空港(現在の北九州空港)が開港する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ichikawakon01
 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、映画監督市川崑の亡くなった日です。
 市川崑(いちかわ こん)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれましたが、幼名は儀一(ぎいち)と言いました。父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳の時に大阪に移住し、大阪市立市岡商業を病気中退しています。
 1933年(昭和8)に京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事、1937年(昭和12)にJOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になりました。1944年(昭和19)と翌年に2度召集令状が来ましたが、身体検査で引っかかり、入隊はしていません。
 大平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に20分ほどの短編人形劇である『娘道成寺』を東宝第三撮影所で作り上げました。1947年(昭和22)に第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督し、1948年(昭和23)に、新東宝の長編「花ひらく」で監督デビューを果たしています。
 1951年(昭和26)に東宝へ、1956年(昭和31)に日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞しました。1959年(昭和34)に「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞、翌年(昭和35)に「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞、翌々年に「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞しています。
 1962年(昭和37)に「私は二歳」でアジア映画祭監督賞、1965年(昭和40)に「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞しました。1969年(昭和44)に黒澤明、木下惠介、小林正樹と共に「四騎の会」を結成、1972年(昭和47)に時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博し、翌年には、ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導きます。
 1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1983年(昭和58)に「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞、1984年(昭和59)には、「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞しました。1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1994年(平成6)に「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となり、2000年(平成12)には、ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞しています。
 2001年(平成13)にモントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞、2007年(平成19)には、東京国際映画祭黒澤明賞を受賞しました。戦後の日本映画の隆盛を担った名監督の一人とされましたが、2008年(平成20年)2月13日に、東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈されています。

〇市川崑監督作品一覧

・「花ひらく」(1948)
・「三百六十五夜 東京篇・大阪篇」(1948年)
・「人間模様」(1949年)
・「果てしなき情熱」(1949年)
・「銀座三四郎」(1950年)
・「熱泥池」(1950年)
・「暁の追跡」(1950年)
・「夜来香」(1951年)
・「恋人」(1951年)
・「無国籍者(1951年)
・「盗まれた恋」(1951年)
・「ブンガワンソロ」(1951年)
・「結婚行進曲」(1951年)
・「ラッキーさん」(1952年)
・「若い人」(1952年)
・「足にさわった女」(1952年)
・「あの手この手」(1952年)
・「プーサン」(1953年)
・「青色革命」(1953年)
・「天晴れ一番手柄 青春銭形平次」(1953年)
・「愛人」(1953年)
・「わたしの凡(すべ)てを」(1954年)
・「億万長者」(1954年)
・「女性に関する十二章」(1954年)
・「青春怪談」(1955年)
・「こころ」(1955年)
・「ビルマの竪琴」(1956年)
・「処刑の部屋」(1956年)
・「日本橋」(1956年)
・「満員電車」(1957年)
・「東北の神武たち」(1957年)
・「穴」(1957年)
・「炎上」(1958年)
・「あなたと私の合言葉 さようなら、今日は」(1959年)
・「鍵」(1959年)
・「野火」(1959年)
・「女経~第二話「物を高く売りつける女」」[増村保造、吉村公三郎とのオムニバス](1960年)
・「ぼんち」(1960年)
・「おとうと」(1960年)
・「黒い十人の女」(1961年)
・「破戒」(1962年)
・「私は二歳」(1962年)
・「雪之丞変化」(1963年)
・「太平洋ひとりぼっち」(1963年)
・「ど根性物語 銭の踊り」(1964年)
・「東京オリンピック」(1965年)
・「トッポ・ジージョのボタン戦争」(1967年)
・「京」(1967年)
・「青春」(1968年)
・「愛ふたたび」(1971年)
・「股旅」(1973年)
・「時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日~「最も速く」」(1973年)
・「吾輩は猫である」(1975年)
・「妻と女の間」[豊田四郎との共同監督](1976年)
・「犬神家の一族」(1976年)
・「悪魔の手毬唄」(1977年)
・「獄門島」(1977年)
・「女王蜂」(1978年)
・「火の鳥」(1978年)
・「病院坂の首縊(くく)りの家」(1979年)
・「古都」(1980年)
・「幸福」(1981年)
・「長江」(1981年)
・「細雪」(1983年)
・「おはん」(1984年)
・「ビルマの竪琴」(1985年)
・「子猫物語」(1986年)
・「鹿鳴館」(1986年)
・「映画女優」(1987年)
・「竹取物語」(1987年)
・「つる 鶴」(1988年)
・「天河伝説殺人事件」(1991年)
・「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)
・「その木戸を通って」(1993年)
・「四十七人の刺客」(1994年)
・「八つ墓村」(1996年)
・「新撰組」(2000年)
・「どら平太」(2000年)
・「かあちゃん」(2001年)
・「ユメ十夜 第二夜」(2006年)
・「犬神家の一族」(2006年)

☆市川崑関係略年表

・1915年(大正4)11月20日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれる
・1933年(昭和8) 京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事する
・1937年(昭和12) JOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になる
・1947年(昭和22) 第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督する
・1948年(昭和23) 新東宝の「花ひらく」で長編監督デビューを果たす
・1951年(昭和26) 東宝へ移籍する
・1956年(昭和31) 日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞する
・1959年(昭和34) 「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞する
・1961年(昭和36) 「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞する
・1962年(昭和37) 「私は二歳」でアジア映画祭監督賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞する
・1969年(昭和44) 黒澤明、木下惠介、小林正樹とともに「四騎の会」を結成する
・1972年(昭和47) 時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博する
・1973年(昭和48) ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導く
・1982年(昭和57) 紫綬褒章を受章する
・1983年(昭和58) 「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞する
・1988年(昭和63) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1994年(平成6) 「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となる
・2000年(平成12) ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞する
・2001年(平成13) モントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞を受賞する
・2007年(平成19) 東京国際映画祭黒澤明賞を受賞する
・2008年(平成20年)2月13日 東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

797年(延暦16)六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上される(新暦3月15日)詳細
807年(大同2)斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される(新暦3月25日)詳細
1875年(明治8)「平民苗字必称義務令」が出され国民に姓を名乗ることを義務附ける(苗字制定記念日)詳細
1900年(明治33)足尾鉱毒事件被害民二千余名が請願のため上京する途中、警官隊・憲兵と衝突した川俣事件が起きる詳細
1946年(昭和21)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「改正憲法草案(マッカーサー草案)」を日本側に手交する詳細
1989年(平成元)リクルート事件で、東京地検特捜部がリクルート前会長江副浩正ら4人を逮捕する詳細
2006年(平成18)財団法人日本城郭協会が「日本100名城」を発表する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

takahashikiichirou01
 今日は、平成時代の2007年(平成19)に、小説家高橋揆一郎が亡くなった日です。
 高橋揆一郎(たかはし きいちろう)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)4月10日に、北海道歌志内市上唄の炭鉱長屋で生まれましたが、本名は良雄(よしお)と言いました。歌志内小学校卒業後、北海道庁の給仕をしながら、庁職員養成を目標とした札幌市の私立昭和中学校(夜間中学)を1946年(昭和21)に卒業し、歌志内国民学校の代用教員となります。
 1948年(昭和23)に、代用教員を辞して、北海道第一師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)入学したものの、中退して住友石炭鉱業上歌志内砿に入社しました。社内報の編集等の仕事に携わりながら、1950年(昭和25)に上歌砿の文学サークル「上歌文学会セナクール」を結成したほか、さまざまな同人誌を発刊、執筆し、『仮寓の半生』で炭労文学小説部門で入選しています。
 1958年(昭和33)に赤平と上歌両地区の文学愛好者15人が集い「住友赤平文学会」を結成、雑誌『赤い崖』を創刊しましたが、1965年(昭和40)に札幌の住友石炭北海道支店に転勤、同人誌活動を中断される状況となりました。1970年(昭和45)に住友石炭鉱業を退職し、フリーのイラストレーターとなり、「財界さっぽろ」に時事漫画を連載、1971年(昭和46)には、「くりまの会」同人となり、文学活動を本格化します。
 1973年(昭和48)に『ぽぷらと軍神』で第37回文學界新人賞を受賞、1975年(昭和50)に『清吉の暦』で第73回芥川賞候補となりました。1977年(昭和52)に『観音力疾走』で第11回北海道新聞文学賞を受賞、第77回芥川賞候補となり、『日蔭の椅子』で第78回芥川賞候補となりましたが、1978年(昭和53)には、『伸予』で第79回芥川賞、札幌市民芸術賞を受賞しています。
 1987年(昭和62)に札幌歌志内会が設立され、会長を務め(~2001年度まで)、1991年(平成3)に北海道文化賞、1992年(平成4)には、『友子』で第11回新田次郎文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に歌志内市内に「高橋揆一郎文学碑」が建立され、1997年(平成9)には、歌志内市名誉市民となり、歌志内市郷土館「ゆめつむぎ」の名誉館長となったものの、2007年(平成19)1月31日に、北海道札幌市内の病院において、肺炎のため78歳で亡くなっています。

〇高橋揆一郎の主要な著作

・『ぽぷらと軍神』(1973年)第37回文學界新人賞受賞
・『観音力疾走 木偶おがみ』(1977年) 第11回北海道新聞文学賞受賞、第77回芥川賞候補
・『伸予』(1978年)第79回芥川賞受賞
・『狐沢夢幻』(1979年)
・『友子』(1992年)第11回新田次郎文学賞受賞

〇高橋揆一郎関係略年表

・1928年(昭和3)4月10日 北海道歌志内市上唄の炭鉱長屋で生まれる 
・1946年(昭和21) 札幌の夜間中学(旧制)を卒業後、歌志内国民学校の助教諭となり、国民学校の教師たちによって同人雑誌「白楊」が発刊される
・1948年(昭和23) 北海道第一師範学校入学のため退職したものの、わずかな期間で中退し、再び歌志内へ戻り、住友鉱業所上歌志内砿に入社、社内報の編集等の仕事に携わる
・1950年(昭和25) 上歌砿の文学サークル「上歌文学会セナクール」を結成したほか、さまざまな同人誌を発刊、執筆し、『仮寓の半生』で炭労文学小説部門で入選する
・1958年(昭和33) 赤平と上歌両地区の文学愛好者15人が集い「住友赤平文学会」を結成、雑誌『赤い崖』を創刊する
・1965年(昭和40) 札幌の住友石炭北海道支店に転勤、同人誌活動を中断される状況となる
・1970年(昭和45) 住友石炭鉱業を退職し、フリーのイラストレーターとなり、「財界さっぽろ」に時事漫画を連載する
・1971年(昭和46) 渡辺淳一を輩出した「くりまの会」同人となり、文学活動を本格化する
・1973年(昭和48) 『ぽぷらと軍神』で第37回文學界新人賞を受賞する
・1975年(昭和50) 『清吉の暦』で第73回芥川賞候補となる
・1977年(昭和52) 『観音力疾走』で第11回北海道新聞文学賞を受賞、第77回芥川賞候補となり、『日蔭の椅子』で第78回芥川賞候補となる
・1978年(昭和53) 『伸予』で第79回芥川賞、札幌市民芸術賞を受賞する
・1987年(昭和62) 札幌歌志内会が設立され、会長を務める(~2001年度まで)
・1991年(平成3) 北海道文化賞を受賞する
・1992年(平成4) 『友子』で第11回新田次郎文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 歌志内市内3つ目の文学碑として「高橋揆一郎文学碑」が建立される
・1997年(平成9) 歌志内市名誉市民となり、歌志内市郷土館「ゆめつむぎ」の名誉館長となる
・2007年(平成19)1月31日 北海道札幌市内の病院において、肺炎のため78歳で亡くなる
・2008年(平成20) 常設展示コーナーが新設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1935年(昭和10)小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎の誕生日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ