ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平安時代

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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、源頼朝と源義經の兄弟が、駿河国の黄瀬川で初めて対面(黄瀬川の対面)した日ですが、新暦では11月10日となります。
 黄瀬川の対面(きせがわのたいめん)は、平安時代後期の1180年(治承4年10月20日)の源平合戦の一つ、富士川の戦いで平氏軍を敗走させた翌日に、源頼朝と源義經の兄弟が、駿河国の黄瀬川で初めての対面を言います。源頼朝は、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしました。
 『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていたと書かれていますが、『平治物語』によれば、頼朝と義経が対面したのは、頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え黄瀬川に向かう途上の大庭野(現在の神奈川県藤沢市大庭)とされています。今も八幡神社の御殿西側には兄弟が対面した記念のため、みずから植えたと伝えられる「ねじり柿」二本とともに、対面石が置かれてきました。
 以下に、『吾妻鏡』第一巻の黄瀬川の対面の部分を現代語訳と共に掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『吾妻鏡』第一巻

(原文)

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。

…(中略)…

今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。

…(後略)…

(読下し文)

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。

…(中略)…

今日弱冠一人御旅舘之砌に彳む[1]。鎌倉殿[2]に謁し奉る可し之由を稱す。實平、宗遠、義實等之を恠み、執啓に不能、尅を移す之處、武衛自ら此の事を聞か令め給ひ、年齡之程を思うに奥州の九郎[3]歟。早く御對面有る可し者り。仍て實平彼の人を請ず。果而、義經主也。即ち御前に參進し、互いに往事[4]を談じ、懷舊之涙を催す[5]。就中に[6]、白河院[7]の御宇[8]、永保三年九月、曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕奥州に於て、將軍三郎武衡、同じき四郎家衡等与合戰を遂ぐ。時于左兵衛尉義光、京都に候て此の事を傳へ聞き、朝廷警衛之當官を辞し、弦袋於殿上に解き置き[9]、潜に[10]奥州へ下向し兄の軍陣于加はる之後、忽ち敵を亡ぼ被訖。今の來臨、尤も彼の佳例[11]に協う之由、感じ仰せ被ると云々。此の主者、去る平治二年正月、襁褓[12]之内に於て父の喪に逢う之後、繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持に依て、出家を爲し、鞍馬[13]に登山す。成人に至る之時、頻りに會稽之思を催し、手づ自り首服[14]を加へ、秀衡之猛勢を恃み、奥州于下向し、多年を歴る也。而して繼信忠信兄弟之勇士を付け奉ると云々。

…(後略)…

(注釈)

[1]砌に彳む:みぎりにたたずむ=軒下にじっと立っている。
[2]鎌倉殿:かまくらどの=源頼朝のこと。
[3]奥州の九郎:おうしゅうのくろう=源義経のこと。
[4]往事:おうじ=過ぎ去った事柄。昔のこと。過去。
[5]懷舊之涙を催す:かいきゅうのなみだわもよおす=懐かしく思って涙を流す。
[6]就中に:なかんづくに=その中でも。とりわけて。
[7]白河院:しらかわいん=平安後期の天皇。後三条天皇の第一皇子で、1072年即位し、摂関勢力の減退に乗じて実権を握り、1086年に堀河天皇に譲位後も、上皇として堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間にわたって政務を執った。
[8]御宇:きょう=君主が天下を治めている期間。天皇の御治世。御代(みよ)。
[9]弦袋於殿上に解き置き:つるぶくろをでんじょうにときおき=勝手に辞職してしまうが、武器の一部である弓弦の袋を置いて行く事で、朝廷に敵対する意志の無いことを表明すること。
[10]潜に:せんに=(朝廷の許可を得ず)身勝手に。
[11]佳例:かれい=めでたい先例。吉例(きちれい)。
[12]襁褓:むつき=おむつ。赤子を包む衣。産着。生まれたばかりの子に着せる衣。
[13]鞍馬:くらま=現在の京都市左京区の鞍馬山麓の鞍馬川沿いにある鞍馬寺のこと。
[14]首服:しゅふく=元服すること。

(現代語訳)

治承4年(1180年)10月小21日庚子。

…(中略)…

 今日、一人の若者が宿泊所の軒下にじっと立っていて、源頼朝殿にお会いしたいと申しました。土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実は、怪しく思って取り次ぐことをしません。時間が経過していく中で、頼朝様がこの話を聞いて、年齢を考慮すると奥州の義経かも知れない。早く対面したいと云いました。そこで、土肥実平はかの人を招き入れました。その通り義経でした。直ぐに御前へ進んでお互いに過ぎ去った昔のこと語り、懐かしく思って涙を流すのでした。その中でも、白河上皇の御代の永保3年(1083年)9月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で征夷将軍清原三郎武衡・清原四郎家衡と合戦をしていた時、弟の左兵衛尉新羅三郎義光は京都に在住していて、このことを聞き知り、朝廷警護の官職を勝手に辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出し、朝廷に敵対する意志の無いことを表明して、朝廷には内緒で奥州へ出向し、兄の軍隊に加わったので、まもなく敵を滅ぼすことが出来ました。今日この地へ来たのは、そのめでたい先例に似ていると感動しておっしゃられたとのこと。この義経殿は、平治2年正月に、まだ産着の中にいる内に父の死に遭遇後、継父の一条長成に育てられ出家をさせるため鞍馬寺に預けられました。成人に至った時、すごく父の仇討ちをしたいとの思いを増し、自ら元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ下向し、年月を積み重ねました。そこで、秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれたとのこと。

…(後略)…

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1684年(貞享元)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の誕生日(新暦11月27日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が180日間の第1次測量(奥州街道・蝦夷地太平洋岸)を終え、江戸に帰着する(新暦12月7日)詳細
1818年(文政元)洋風画家・蘭学者・随筆家司馬江漢の命日(新暦11月19日)詳細
1943年(昭和18)学徒出陣のため、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれる詳細
1946年(昭和21)「農地調整法」改正、「自作農創設特別措置法」公布により、第二次農地改革が開始される詳細
1965年(昭和40)物理学者朝永振一郎にノーベル賞(物理学賞)が贈られることが決定する詳細
1971年(昭和46)小説家志賀直哉の命日(直哉忌)詳細
1973年(昭和48)民法学者我妻栄の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、石橋山の戦いで敗れ、安房に逃れた源朝頼が、千葉常胤らの助勢を得て鎌倉に入った日ですが、新暦では10月26日となります。
 石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代後期の源平合戦の一つで、石橋山(神奈川県小田原市)一帯が戦場となりました。1180年(治承4)8月に、伊豆に流されていた源頼朝と平氏方の大庭景親らとが戦ったところです。
 小田原市南部にあり、この周辺で源頼朝軍300騎と大庭景親ら3,000余騎が刃を交えたのですが、多勢に無勢で源頼朝軍の大敗に終わり、敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びることになりました。戦いのあった場所に石橋山古戦場の碑が立ち、近くにこの戦いで死んだ佐奈田与一を祀る佐奈田霊社と与一塚や同じく戦死した陶山文三家康を祀る文三堂などがあります。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
 有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月6日 源朝頼が、千葉常胤らの助勢を得て鎌倉に入る
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

☆源頼朝(みなもと の よりとも)とは?

 武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1559年(永禄2)戦国時代の絵師狩野元信の命日(新暦11月5日)詳細
1831年(天保2)棋士・将棋十二世名人小野五平の誕生日(新暦11月9日)詳細
1920年(大正9)小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリスト黒岩涙香の命日詳細
1933年(昭和8)「社会政策ニ関スル具体的方策案」が閣議決定される詳細
1938年(昭和13)北炭夕張炭鉱(天龍坑)で炭塵爆発が起こり、死者161人、負傷者21人が出る詳細
1940年(昭和15)「奢侈品等製造販売制限規則」実践のため、大阪で女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う詳細
1942年(昭和17)「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)文部省が「教育漢字」881字を発表(翌年2月16日に内閣告示)する詳細
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 今日は、平安時代前期の893年(寛平5)に、菅原道眞撰と伝えられる『新撰万葉集』上巻が編纂された日ですが、新暦では11月7日となります。
 『新撰万葉集』(しんせんまんようしゅう)は、平安時代前期の菅原道真撰と伝えられ、歌合の歌をすべて万葉仮名で抄録し、それに訳詩を加えた私撰の詩歌集です。上巻は、893年(寛平5年9月25日)、下巻は、913年(延喜13年8月21日)の序があり、その頃の成立とされてきました。
 宇多天皇の時代(887~897年)の「寛平御時后宮歌合」歌を主体として、「是貞親王家歌合」などを加えて上・下両巻に分かち、それぞれ春・夏・秋・冬・恋(思)の五部立に編集してあり、242首を万葉仮名(真名体)で書き、左傍に七言絶句を配しています。『万葉集』から『古今和歌集』までの間の唯一の撰集で、仮名遣いに平安初期の古態を残し、和歌と漢詩の表出方法の異同を考える好資料とされてきました。
 以下に、『新撰万葉集』序を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ。幼少の頃より詩歌に才能があったと言われてきました。
 862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶元)には、文章博士となります。以後、宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止しました。
 899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されます。そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなりました。
 著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

☆『新撰万葉集』序

<原文>

夫萬葉集者、古歌之流也。非未嘗稱警策之名焉、況復不屑鄭衛之音乎。
聞説、古者、飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之時、玄冬之節、隨見而興既作、觸聆而感自生。凡、厥所草稿、不知幾千。漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。装其要妙、韞匱待價。唯、媿非凡眼之所可及。
當今寬平聖主、萬機餘暇、舉宮而方、有事合歌。後進之詞人、近習之才子、各獻四時之歌、初成九重之宴。又有餘興、同加恋思之二詠。倩見歌體、雖誠見古知今、而以今比古。新作花也、舊製實也。以花比實、今人情彩剪錦、多述可憐之句、古人心緒織素、少綴不整之艶。仍左右上下両軸、惣二百有首、號曰、新撰萬葉集。先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。
庶幾使、家家好事、常有梁塵之動、處處遊客、鎮作行雲之遏。
于時寬平五載秋九月廿五日、偷盡前視之美、而解後世之願云爾。

<読み下し文>

夫れ萬葉集は、古歌の流(いずるところ)なり。未だ嘗って警策(けいさく)の名を稱えざるにあらざり、況(いはん)や復、鄭衛(ていえい)の音を屑(いさぎよ)しとせず。
説を聞くに、「古には、飛文染翰の士、興詠吟嘯の客、青春の時、玄冬の節、見るに隨(したが)ひて既に作を興し、聆(き)くを觸れるに感(おもひ)は自(おのづ)から生まれる。凡そ、厥(そ)の草稿は、幾千を知らず。漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯乱、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖(ただ)、入るに悟り難き。所謂、彌高(いやたか)を仰ぎ、鑽(きわめ)るに彌(いやいや)堅き者か。然而(しかるに)、意有る者は進み、智無き者は退き已(や)む。是に於いて綸を奉じ、綍鎍(ふつさく)綜緝(そうしゅう)の外、更に人の口に在るを、盡(ことごと)く以つて撰集し、數十卷と成す。其の要妙(ようみょう)を装ひ、匱(ひつ)に韞(おさ)め價(ひょうか)を待たん。唯、凡眼の及ぶべき所に非ずを媿(とがめ)む」と。
當今(とうきん)の寬平聖主、萬機(まんき)餘暇(よか)、宮の方を舉げ、事有るに歌を合す。後進の詞人、近習の才子、各(おのおの)、四時の歌を獻じ、初めて九重の宴を成す。又、餘興の有りて、同(ひと)しく恋と思の二詠を加ふ。倩(つらつら)、歌體(かたい)を見るに、雖(ただ)、誠(まこと)は古(いにしへ)に見み、今に知る。而して今を以ちて古(いにしへ)に比(なぞ)ふ。新(あらた)は花を作り、舊(ふるき)は實(み)を製(な)す。花を以ちて實に比ふ。今の人は情(こころ)を彩(いろ)り錦を剪(き)り、可憐の句を多述し、古(いにしへ)の人は心緒(こころを)を素(すなお)に織り、不整の艶を少綴す。仍ち、左右上下の両軸、惣ち二百有首、號して曰はく「新撰萬葉集」と。先生、啻(ただ)、倭歌の佳麗を賞(めで)るのみにあらず、兼ねて亦(また)一絶の詩を綴り、數首を左に插(はさ)む。
庶幾(しょき)をして家家の好事を使(なさ)しめ、常に梁塵の動有りて、處處の遊客、行雲の遏(しりぞ)き作すを鎮(とど)めむ。
于時(とき)、寬平五載秋九月廿五日、愈(いよいよ)、前視の美を盡(つく)し、而して後世の願ひを解(ひら)くと、云爾(しかいふ)。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

769年(神護景雲3)宇佐八幡宮神託事件が起きる(新暦10月28日)詳細
1075年(承保2)公卿・関白・太政大臣藤原教通の命日(新暦11月6日)詳細
1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトがシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1936年(昭和11)「帝国在郷軍人会令」が公布され、私的機関だった帝国在郷軍人会が陸海軍所管の公的機関となる詳細
1954年(昭和29)日本中央競馬会(JRA)による中央競馬が、東京競馬場、京都競馬場において開催される詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細
2015年(平成27)第70回国連総会で「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択される詳細
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 今日は、平安時代の前期の806年(大同元)に、空海(弘法大師)が、唐からの帰国の途中、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を講釈したとされる日ですが、新暦では10月7日となります。
 空海(弘法大師)(くうかい)は、平安時代前期の僧・真言宗の開祖です。奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。
 788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。
 阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、長安へ入りました。
 805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。
 809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。
 821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。
 835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。
 尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)(閏)参勤交代を緩和、妻子の帰国を許し3年に1度の出府となり、事実上廃止される(新暦10月15日)詳細
1869年(明治2)彫刻家米原雲海の誕生日(新暦9月27日)詳細
1903年(明治36)東京電車鉄道(電鉄)が、品川~新橋間を開業(東京初の路面電車)する詳細
1904年(明治37)日本と大韓帝国との間で、「第一次日韓協約」が調印される詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が調印される詳細
1941年(昭和16)劇作家・小説家長谷川時雨の命日詳細
1943年(昭和18)詩人・小説家島崎藤村の命日(藤村忌)詳細
1944年(昭和19)沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)詳細
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ninnajikondou01
 今日は、平安時代前期の888年(仁和4)に、京都の仁和寺が落成した日ですが、新暦では9月26日となります。
 仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室大内町にある真言宗御室派の総本山です。平安時代前期の886年(仁和2)に、光孝天皇の勅願で、建てられ始め、888年(仁和4年8月17日)に、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によってに落成(初代別当は天台宗の幽仙)しました。
 899年(昌泰2年10月)に、宇多法皇が別当を真言宗の観賢に交替させ、904年(延喜4)には、伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて、宇多法皇が住みます。952年(天暦6)に朱雀法皇が移り住み、当寺で亡くなり、1010年(寛弘7)には、藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立されました。
 1119年(元永2)に、金堂、東西回廊、鐘楼、経蔵、三面僧房、観音院、潅項院等が焼亡したものの、1122年(保安2)には、観音院、潅項院が再建されています。1144年(天養元)に、鳥羽法皇の発願によって、孔雀明王堂が建立されましたが、1467~77年(応仁元~文明9)の応仁の乱で堂宇が全焼し、荒廃しました。
 1591年(天正19)に、関白豊臣秀吉によって860石の朱印地を得、1617年(元和3)には、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠によって1,500石の朱印地を得ています。1634年(寛永11)に、仁和寺第21世覚深法親王は上洛していた第3代将軍徳川家光に仁和寺の再興を申し入れ、承諾され、1624年~45年(寛永年間)に、御所(現在の京都御所)建て替えに伴い、御所の紫宸殿(現在の金堂)、清涼殿(現在の御影堂)、常御殿などが当寺に下賜されて境内に移築、五重塔、二王門や諸堂舎も完成して、1646年(正保3年)には、落慶法要が行われました。
 1867年(慶応3)に、第30世純仁法親王が還俗して小松宮彰仁親王となり、1887年(明治20)に、宸殿などの御殿が焼失してしまったものの、1914年(大正3年)に、亀岡末吉の設計によりに再建されています。1946年(昭和21年)に、真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、その総本山となりました。
 現在、金堂(国宝)、御影堂、仁王門、五重塔、観音堂、中門、鐘楼、茶室の飛濤亭、遼廓亭(以上、国指定重要文化財)などの建造物があり、阿弥陀・観音・勢至の三尊像(国宝)、増長天・多聞天立像、吉祥天立像、愛染明王坐像(以上、国指定重要文化財)などの仏像があり、絹本着色孔雀明王像(国宝)、同聖徳太子像(国指定重要文化財)などの絵画、『三十帖冊子』、『医心方』、『御室相承記』(いずれも国宝)などの文書典籍ほか、多くの文化財を蔵しています。尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。

〇仁和寺関係略年表(日付は旧暦です)

・886年(仁和2)に、光孝天皇の勅願で、建てられ始める
・888年(仁和4年8月17日) その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によってに落成(初代別当は天台宗の幽仙)する
・899年(昌泰2年10月) 宇多法皇が別当を真言宗の観賢に交替させる
・904年(延喜4年) 伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて、宇多法皇が住む
・952年(天暦6年) 朱雀法皇が移り住み、当寺で亡くなる
・1010年(寛弘7年) 藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立される
・1119年(元永2年)4月 金堂、東西回廊、鐘楼、経蔵、三面僧房、観音院、潅項院等が焼亡する
・1122年(保安2年) 観音院、潅項院が再建される
・1144年(天養元年) 鳥羽法皇の発願によって、孔雀明王堂が建立される
・1467~77年(応仁元~文明9年) 応仁の乱で堂宇が全焼し、荒廃する
・1591年(天正19年) 関白豊臣秀吉によって860石の朱印地を得る
・1617年(元和3年) 江戸幕府将軍徳川秀忠によって1,500石の朱印地を得る
・1634年(寛永11年7月24日) 仁和寺第21世覚深法親王は上洛していた将軍徳川家光に仁和寺の再興を申し入れ、承諾される
・1624年~45年(寛永年間) 御所(現在の京都御所)建て替えに伴い、御所の紫宸殿(現在の金堂)、清涼殿(現在の御影堂)、常御殿などが当寺に下賜されて境内に移築、五重塔、二王門や諸堂舎も完成する
・1646年(正保3年) 伽藍の再建が完了し、落慶法要が行われる
・1867年(慶応3年) 第30世純仁法親王が還俗して小松宮彰仁親王となる
・1887年(明治20年) 宸殿などの御殿が焼失してしまう
・1914年(大正3年) 亀岡末吉の設計によりに再建される
・1946年(昭和21年) 真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、その総本山となる
・1994年(平成6) 「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を受けて挙兵し、山木館を襲撃する(新暦9月8日)詳細
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