
『平家納経』(へいけのうきょう)は、平清盛が平家一門の繁栄を祈願して、安芸国の厳島神社に奉納した装飾経(装飾した写経)でした。1164年(長寛2年9月)の供養願文を持ち、『法華経』 28品、開経『無量義経』、結経『観普賢経』、さらに『阿弥陀経』、『般若心経』各1巻の32巻に願文を合せた、計33巻から成っています。
平家の繁栄を祈り一族32人が一品一巻を分担して写経・製作したもので、各巻意匠を異にし、当代工芸技術の粋を集めていて、1167年(仁安2)には、全てが完成し、厳島神社への奉納が完了しました。平安時代に流行した装飾経の最高峰をなすものであり、大和絵の史料としても貴重であるとされています。
1897年(明治30)に旧国宝指定され、1954年(昭和29)には、付属の経箱、経箱を納める唐櫃(からびつ)と共に、「平家納経 一具」として国宝に指定されました。
平家の繁栄を祈り一族32人が一品一巻を分担して写経・製作したもので、各巻意匠を異にし、当代工芸技術の粋を集めていて、1167年(仁安2)には、全てが完成し、厳島神社への奉納が完了しました。平安時代に流行した装飾経の最高峰をなすものであり、大和絵の史料としても貴重であるとされています。
1897年(明治30)に旧国宝指定され、1954年(昭和29)には、付属の経箱、経箱を納める唐櫃(からびつ)と共に、「平家納経 一具」として国宝に指定されました。
〇平清盛(たいら の きよもり)とは?
平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。
1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。
☆『平家納経』関係略年表
・1164年(長寛2年9月) 厳島神社に一部が奉納される
・1167年(仁安2年) 全てが完成し、厳島神社への奉納が完了する
・1602年(慶長7年) 福島正則が願主となって修理が行われる
・1648年(慶安元年) 浅野長晟が『平家納経』を重修(唐櫃蓋裏銘)する
・1882年(明治15年)10月 第1回内国絵画共進会にて、出展目録「廣島縣下安芸國 嚴島神社出品」に「古寫經及ヒ願文 丗三巻」名義で出品され、この機会に帝室学芸員の手で2年をかけて模写される
・1897年(明治30年)12月28日 旧国宝指定される
・1920年(大正9年)4月18日 大師会にて、厳島神社の高山昇宮司が高橋義雄と益田孝に『平家納経』副本制作を訴え、大倉喜八郎らがその場で協力を約束する
・1925年(大正14年) 田中親美が5年半をかけて副本2組を完成させ、1組を奉納、1組をさらなる副本制作の見本とする
・1954年(昭和29年)3月20日 法華経等33巻、金銀荘雲龍文銅製経箱、蔦蒔絵唐櫃が「平家納経 一具」として国宝に指定される
・1959年(昭和34年) 『薬草喩品』の表紙と見返しが安田靫彦による彩絵(だみえ)に改められる
・1985年(昭和60年) 松井正光らによる装飾金具の修復が始まる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1576年(天正4) | 織田信長が岐阜から近江の安土城へ移る(新暦3月23日) | 詳細 |
1784年(天明4) | 筑前志賀島の百姓甚兵衛により、「漢倭奴國王」の金印発見される(新暦4月12日) | 詳細 |
1904年(明治37) | 「日韓議定書」に調印する | 詳細 |
1942年(昭和17) | 第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)目指し、翼賛政治体制協議会が結成される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 陸軍省が「撃ちてし止まむ」の戦時標語ポスター5万枚を全国に配布する | 詳細 |
1944年(昭和19) | 太平洋戦争下の言論弾圧(竹槍事件)の原因となる、「毎日新聞」朝刊の戦局解説記事が掲載される | 詳細 |