ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平安時代

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 今日は、平安時代前期の823年(弘仁14)に、嵯峨天皇の勅により比叡山寺の寺号を「延暦寺」に改めた日ですが、新暦では4月10日となります。
 延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市にある天台宗の総本山で、山号は比叡山といい、山門とも呼びます。奈良時代の788年(延暦7)に最澄が創建した一乗止観院に始まり、823年(弘仁14)には、嵯峨天皇による大乗戒壇の勅許とともに延暦寺の寺号を賜りました。
 993年(正暦4)に円珍(智証大師)の門徒が園城寺(寺門)に移ってからは寺門と対立し、このころから僧兵をたくわえ、意に満たないことがあれば強訴し、朝廷に恐れられるようになります。次第に堂や伽藍が整備されていき、平安時代後期には一山三千余坊といわれるほど栄えました。
 鎌倉時代以降も寺勢を保持しましたが、たびだひ武家勢力と対峙したため、何度か火災にあって建物を焼失したものの、その都度復興されています。しかし、1571年(元亀2)に、浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となって、織田信長によって「比叡山の焼き討ち」が起こり、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰したとされてきました。
 その後、豊臣秀吉から山門再興の許可を得、秀吉、徳川家康より領地を与えられて復興します。昭和時代になっても、1934年(昭和9年)に、室戸台風の暴風雨により本坊、文殊楼、無動寺、大剰寺、山麓の宿院などが倒壊する被害を受け、1956年(昭和31)には、賽銭泥棒が放火し、大講堂、本尊の大日如来像などが焼失しました。
 現在も、根本中堂 (国宝) をはじめ,大講堂、戒壇院、釈迦堂、山麓の滋賀院などの百有余の堂や塔があり、寺宝として、金銅経箱(国宝)、宝相華蒔絵経箱(国宝)、七条刺納袈裟・刺納衣(国宝)、伝教大師将来目録(国宝)、羯磨金剛目録(国宝)、六祖恵能伝(国宝)などを多数所蔵しています。尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

〇延暦寺関係略年表

・785年(延暦4) 最澄が「願文(がんもん)」をつくり、堅い修行の決意をもって比叡山へ入り、草庵をつくる
・788年(延暦7) 最澄が一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を安置する
・806年(大同元) 年分度者(ねんぶんどしゃ)(毎年天台宗の僧として得度・受戒すべき僧)の割当て2名を得て、天台宗が独立した宗派として公認される
・818年(弘仁9) 南都の小戒を捨てて比叡山に大乗戒壇を建立することを申請して南都の旧宗と対決する
・822年(弘仁13) 嵯峨天皇による大乗戒壇の勅許を賜る
・823年(弘仁14) 延暦寺の寺号を賜る
・824年(天長1) 義真が初代天台座主に任ぜられ、三綱が置かれ、講堂建立される
・825年(天長2) 戒壇院が建立され、堂舎が整う
・829年(天長6) 円仁が首楞厳(しゆりようごん)院を開く
・834年(承和1) 円澄が西塔院を開創する
・866年(貞観8) 清和天皇より、最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」という諡号を賜る
・905年(延喜5) 宇多法皇が登山受戒する
・966年(康保3) 山上の諸堂が焼失する
・993年(正暦4) 慶祚以下の智証派1000余人は下山して園城寺(三井寺)に拠り、山門と寺門(三井寺)の対立が始まる
・1095年(嘉保2) 強訴のとき日吉の神輿をかつぎ出すことが例となる
・1571年(元亀2) 浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となって、織田信長による「比叡山の焼き討ち」が起こり、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰す
・1584年(天正12) 豊臣秀吉が、復興の許可を出す
・1595年(文禄4) 豊臣秀吉は、坂本と葛川の1,573石を施入する
・1640年(寛永17) 江戸幕府の援助により、根本中堂が旧規にならい再興される
・1868年(明治元) 神仏分離令が出されると、延暦寺の鎮守社であった日吉社は独立して日吉大社と名称を改める
・1934年(昭和9年) 室戸台風の暴風雨により本坊、文殊楼、無動寺、大剰寺、山麓の宿院などが倒壊する被害を受ける
・1956年(昭和31) 比叡山延暦寺に賽銭泥棒が放火し、大講堂、本尊の大日如来像などが焼失する
・1994年(平成6) 「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録される
・2015年(平成27) 「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1844年(天保15)探検家・測量家間宮林蔵の命日(新暦4月13日)詳細
1858年(安政5)越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1188年(文治4)に、源平合戦に関わって、源頼朝が藤原泰衡らに源義経追捕の宣旨を下した日ですが、新暦では3月20日となります。
 源頼朝(みなもと の よりとも)は、武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

〇源義経(みなもと の よしつね)とは?

 平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将です。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言いました。同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死します。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けました。1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たします。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京しました。1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになります。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みました。同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻ります。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させました。奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされます。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなりました。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
 有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

799年(延暦18)奈良時代から平安時代初期の貴族和気清麻呂の命日(新暦4月4日)詳細
1800年(寛政12)第120代の天皇とされる仁孝天皇の誕生日(新暦3月16日)詳細
1911年(明治44)関税自主権を完全に回復するように改正された「日米通商航海条約」が調印(4月4日公布)される詳細
1936年(昭和13)「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉が右翼に襲撃され重傷を負った、「天皇機関説テロ事件」が起きる詳細
1942年(昭和17)「食糧管理法」公布される詳細
1951年(昭和26)東ドイツの東ベルリンで世界平和評議会第1回総会が始まる詳細
1988年(昭和63)内科学者・第10代東北大学学長黒川利雄の命日詳細
1990年(平成2)新交通システムである神戸新交通六甲アイランド線[通称:六甲ライナー]が開業する詳細
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 今日は、平安時代後期の1184年(寿永3)に、源平合戦に関して、源頼朝が、後白河法皇からの平氏追討の正式な命令を受けた日ですが、新暦では3月5日となります。
 源平合戦(げんぺいかっせん)は、平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源頼朝(みなもと の よりとも)とは?

 武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

☆源平合戦関係年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1月26日 源頼朝が、後白河法皇からの平氏追討の正式な命令を受ける
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)神田松枝町大火が起き、10,673戸を焼失し、36,542人の被災者を出す詳細
1933年(昭和8)小説家・放送作家藤本義一の誕生日詳細
1944年(昭和19)内務省が「(改正)防空法」により、東京と名古屋に初の建物疎開の命令を出す詳細
1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、菅原道真が左遷され、大宰府へ向け京を出発した日ですが、新暦では2月16日となります。
 菅原道真(すがわら の みちざね)は、平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12年6月25日)に、参議・菅原是善の3男として生まれ、幼少の頃より詩歌に才能があったと言われてきました。
 862年(貞観4年)に式部省試を受けて及第し、数え年18歳で文章生となり、867年(貞観9年)には、文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらます。870年(貞観12年)に対策に及第し、正六位上に叙され、翌年には、玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜられました。
 874年(貞観16年)に従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜられ、877年(元慶元)には、式部少輔に任ぜられ、文章博士となります。879年(元慶3年)に従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草しました。
 宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、893年(寛平5年)に参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官そして春宮亮を兼ね、翌年には、遣唐使に任ぜられたものの建議して、これを中止します。895年(寛平7年)に、近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ね、896年(寛平8年)には、民部卿を兼ね、長女が入内して女御となりました。
 897年(寛平9年)に権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ね、899年(昌泰2年)には、右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かります。しかし、901年(延喜元年)に従二位に叙されるも、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。
 そして、903年(延喜3年2月25日)に、失意のうちに、大宰府において、数え年59歳で亡くなっています。著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがありました。
 尚、923年(延喜23年4月20日)に贈右大臣、正二位、993年(正暦4年5月20日)に正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈されています。

〇菅原道真関係略年表(日付は旧暦です)

・845年(承和12年6月25日) 参議・菅原是善の三男として生まれる
・855年(斉衡2年) 初めて詩を詠む
・862年(貞観4年) 式部省試を受け、及第し文章生となる
・867年(貞観9年) 文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらる
・870年(貞観12年) 対策に及第し、正六位上に叙さる
・871年(貞観13年) 玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜらる
・872年(貞観14年) 母の喪により解官されるものの、本官に復し渤海国王に答うる勅書を草する
・874年(貞観16年) 従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜらる
・877年(元慶元年) 式部少輔に任ぜられ、文章博士となる
・879年(元慶3年) 従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草す
・883年(元慶7年) 加賀権守を兼ねる
・886年(仁和2年) 讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任する
・888年(仁和4年) 阿衡事件につき関白藤原基経に書を呈す
・890年(寛平2年) 春に国司の任が終わって帰京する
・891年(寛平3年) 蔵人頭に補され、式部少輔に任ぜられ、左中弁を兼ねる
・892年(寛平4年) 従四位下に叙され、『三代実録』の撰修にあずかり、左京大夫を兼ねる
・893年(寛平5年) 参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官を兼ね、春宮亮を兼ねる
・894年(寛平6年) 遣唐大使に任ぜらるものの、遣唐使派遣中止を進言し、侍従を兼ねる
・895年(寛平7年) 近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ねる
・896年(寛平8年) 民部卿を兼ね、長女が入内して女御となる
・897年(寛平9年) 権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ねる
・899年(昌泰2年) 右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かる
・900年(昌泰3年) 『菅家文草』、『菅相公集』、『菅家集』を献上する
・901年(延喜元年) 従二位に叙されるも、大宰権帥に左遷され、『三代実録』完成奏上、『延喜格』撰進、『去年今夜』の詩を詠む
・903年(延喜3年) 『菅家後集』を紀長谷雄に贈るが、2月25日に、大宰府にて59歳で亡くなる
・923年(延喜23年4月20日) 贈右大臣、正二位を追贈される
・993年(正暦4年5月20日) 正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1939年(昭和14)「警防団令」(昭和14年勅令第20号)が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1947年(昭和22)国文学者・作詞家・文学博士高野辰之の命日詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
1960年(昭和35)三井鉱山が三井三池炭鉱をロックアウトし、全山の労組が無期限スト(三井三池争議)に突入する詳細
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 今日は、平安時代後期の1181年(養和元)に、平家により幽閉されていた後白河法皇が、平清盛の死去に伴い院政を再開した日ですが、新暦では2月2日となります。
 院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)や法皇(太上法皇)が院庁で政務を行う政治形態のことです。広義には、白河上皇に始まり、江戸時代の光格上皇まで断続するとされますが、狭義には、平安時代後期~鎌倉時代初期に至る白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇による政治を指すとされてきました。
 特に、白河院の応徳3年から平家滅亡の寿永3年頃までの約100年間を院政時代といい、院宣が詔勅・宣旨よりも重んじられたとされます。応徳3年に、白河上皇が後三条天皇の遺志を受け継ぎ、摂関政治を抑制するために、荘園整理と公領の確保を要求する受領層を院近臣 として創始しましたが、保元の乱・平治の乱後は、武家政治と対抗することとなりました。
 しかし、1221年(承久3)の承久の乱で決定的な打撃を受けて、武家政治の優位が確立したとされます。鎌倉時代後期にも、後高倉院,後嵯峨院や大覚寺、持明院両統迭立などにより院政が行われたものの、1322 年(元亨2)の後醍醐天皇の時に院政が廃止され、天皇親政となりました。
 南北朝時代にも院政が行われたものの、室町時代には行われず、江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活します。その後、後水尾、霊元、光格上皇が行ないましたが、1840年(天保11)に光格上皇が亡くなってからは、消滅しました。

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇平清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。

☆院政を実施した上皇・法皇(鎌倉時代まで)

<平安時代後期~鎌倉時代初期>
・白河上皇
・鳥羽上皇
・後白河上皇
・後鳥羽上皇

<鎌倉時代後期>
・後高倉上皇
・後嵯峨上皇
・後宇多上皇

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)民撰議院設立建白書が出される詳細
1885年(明治18)思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日詳細
1943年(昭和18)戦費捻出目的でたばこが大幅値上げ(金鵄10銭→15銭、ひかり18銭→30銭、朝日25銭→45銭)される詳細
1944年(昭和19)「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される詳細
1988年(昭和63)西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の愛媛県今治市の伯方島と大島を結ぶ、伯方・大島大橋が供用開始する詳細
1995年(平成7)兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す詳細
2017年(平成29)発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の命日詳細
2019年(平成31)物理学者米沢富美子の命日詳細
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