ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 平安時代

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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、源平合戦に関わって、木曽の源義仲が平家討伐の兵を挙げた日ですが、新暦では9月27日となります。
 源義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将で、「木曽義仲」とも呼ばれています。1154年(久寿元年)に、清和源氏の嫡流源為義の次子義賢の次男として東国に生まれましたが、幼名は駒王丸と言いました。
 1155年(久寿2)に上野・北武蔵に威勢を張っていた父・義賢が鎌倉を本拠とする源義平に武蔵国大倉館で討たれましたが、遁れて信濃国へかくまわれたとされています。木曽谷で成長し、1180年(治承4)に以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出すと、伊豆の源頼朝の挙兵後約1ヶ月で平氏討伐の旗を木曽谷に上げました。
 その年の内に、信濃国を手中にして、亡父の故地上野まで進出、1181年(養和元年)には、平氏側の越後の城助茂の大軍を千曲川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れます。1183年(寿永2年)に長子義高を鎌倉に送って頼朝と和睦し、北陸道を進攻してきた平維盛らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅峠の戦いで破りました。
 安宅・篠原の戦いにも勝利して、北陸を支配下に収め、越前国から近江国へ進軍します。その後、比叡山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛を果たしました。
 西海に走った平氏、東海道諸国を押さえた頼朝と並んで「天下三分の形勢」を示し、従五位下左馬頭兼越後守、次いで伊予守に任じられます。しかし、軍隊の統制がとれずに京都の人心を失い、後白河法皇に平氏追討の院宣を受け平家追討を命じられて西下したものの、備中水島の戦いで敗れ、帰洛してからは、法皇との対立を深めました。
 ついに、クーデタを断行し、法皇を幽閉、近臣を追放して独裁権を握り、1184年(元暦元)には従四位下征夷大将軍となり「旭将軍」と称されます。ところが、頼朝の命を受けて京都へ向かってきた、源義経・範頼軍との決戦に敗れ、同年1月20日に北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津において、数え年31歳で討ち死にしました。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出し、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、(治承・寿永の乱)とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。 

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)> 
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する 
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される 

<平治元年(1159年)> 
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する 
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する 
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される 

<永暦元年(1160年)> 

・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される 

<仁安2年(1167年)> 
・2月 平清盛が太政大臣に就任する 

<嘉応2年(1170年)> 
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
 
<承安2年(1172年)> 
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる
 
<治承元年(1177年)> 
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する 

<治承3年(1179年)> 
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる 

<治承4年(1180年)> 
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す 
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する 
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する 
・6月22日 平家、福原遷都を強行する 
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する 
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる 
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる 
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する 
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する 
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する 
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く 

<養和元年(1181年)> 
・閏2月4日 平清盛が病没する 

<寿永2年(1183年)> 
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る 
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る 
・10月14日日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する 

<寿永3年/元暦元年(1184年)> 
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ 
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する 
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する 

<元暦2年/文治元年(1185年)> 
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る 
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する 
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる 
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許) 

<文治3年(1187年)> 
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる 
・10月29日 藤原秀衡が病没する  

<文治5年(1189年)> 
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ 
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する 
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する 
・9月3日 藤原泰衡が殺害される 
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1275年(建治元)鎌倉幕府執権北条時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺し、第2回元寇の要因となる(新暦9月27日)詳細
1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)安政の大獄で、尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛される(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1908年(明治41)建築家吉村順三の誕生日詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
1973年(昭和48)長沼ナイキ訴訟で、第1審の札幌地裁が「自衛隊は違憲」との初の判断を示す詳細
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 今日は、平安時代後期の1156年(保元元)に、源平合戦の端緒となる保元の乱で敗れた源為朝が捕えられ、伊豆大島に流された日ですが、新暦では9月12日となります。
 保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代後期の1156年(保元元)に、京都で起こった内乱で、源平合戦の端緒となります。鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・為朝と平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝と平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。
 半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死し、源為義は出家(後に斬首)、源為朝は伊豆大島に流刑とされたのです。この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
 有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される
・7月30日 源義朝の手で、為義が斬首される
・8月26日 源為朝が捕えられ伊豆大島に流される

<平治元年(1159年)
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

887年(仁和3)第58代天皇とされる光孝天皇の命日(新暦9月17日)詳細
1617年(元和3)第107代の天皇とされる後陽成天皇の命日(新暦9月25日)詳細
1896年(明治29)北海道函館区の明治29年箱館大火「テコ婆火事」で、2,280戸が焼失する詳細
1931年(昭和6)官僚・政治家・総理大臣濱口雄幸の命日詳細
1945年(昭和20)占領軍用の慰安施設のために、特殊慰安施設協会(RAA)が設立される詳細
1950年(昭和25)黒澤明監督の映画『羅生門』が封切りされる詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)が始まる詳細
1988年(昭和63)奈良そごう建設予定地で大量の木簡が発見され、長屋王邸跡であることが判明する詳細
1993年(平成5)東京港連絡橋(レインボーブリッジ)が開通する詳細
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 今日は、平安時代前期の913年(延喜13)に、菅原道眞撰と伝えられる『新撰万葉集』下巻が編纂された日ですが、新暦では9月19日となります。
 『新撰万葉集』(しんせんまんようしゅう)は、平安時代前期の菅原道真撰と伝えられ、歌合の歌をすべて万葉仮名で抄録し、それに訳詩を加えた私撰の詩歌集です。上巻は、893年(寛平5年9月25日)、下巻は、913年(延喜13年8月21日)の序があり、その頃の成立とされてきました。
 宇多天皇の時代(887~897年)の「寛平御時后宮歌合」歌を主体として、「是貞親王家歌合」などを加えて上・下両巻に分かち、それぞれ春・夏・秋・冬・恋(思)の五部立に編集してあり、242首を万葉仮名(真名体)で書き、左傍に七言絶句を配しています。『万葉集』から『古今和歌集』までの間の唯一の撰集で、仮名遣いに平安初期の古態を残し、和歌と漢詩の表出方法の異同を考える好資料とされてきました。
 以下に、『新撰万葉集』序を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期のの学者・政治家です。845年(承和12年6月25日)に、参議・菅原是善の3男として生まれ、幼少の頃より詩歌に才能があったと言われてきました。
 862年(貞観4年)に式部省試を受けて及第し、数え年18歳で文章生となり、867年(貞観9年)には、文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらます。870年(貞観12年)に対策に及第し、正六位上に叙され、翌年には、玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜられました。
 874年(貞観16年)に従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜられ、877年(元慶元)には、式部少輔に任ぜられ、文章博士となります。879年(元慶3年)に従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草しました。
 宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、893年(寛平5年)に参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官そして春宮亮を兼ね、翌年には、遣唐使に任ぜられたものの建議して、これを中止します。895年(寛平7年)に、近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ね、896年(寛平8年)には、民部卿を兼ね、長女が入内して女御となりました。
 897年(寛平9年)に権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ね、899年(昌泰2年)には、右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かります。しかし、901年(延喜元年)に従二位に叙されるも、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。
 そして、903年(延喜3年2月25日)に、失意のうちに、大宰府において、数え年59歳で亡くなっています。著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがありました。
 尚、923年(延喜23年4月20日)に贈右大臣、正二位、993年(正暦4年5月20日)に正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈されています。

〇菅原道真関係略年表(日付は旧暦です)

・845年(承和12年6月25日) 参議・菅原是善の3男として生まれる
・862年(貞観4年) 式部省試を受けて及第し、数え年18歳で文章生となる
・867年(貞観9年) 文章得業生となり、正六位下に叙され、下野権少掾に任ぜらる
・870年(貞観12年) 対策に及第し、正六位上に叙される
・871年(貞観13年) 玄蕃助に任ぜられ、次に少内記に任ぜられる
・874年(貞観16年) 従五位下に叙され、ついで兵部少輔に任ぜられる
・877年(元慶元) 式部少輔に任ぜられ、文章博士となる
・879年(元慶3年) 従五位上に叙され、藤原基経ら撰進の『文徳実録』の序を草する
・893年(寛平5年) 参議に任じ、式部大輔を兼ね、左大弁に転じ、勘解由長官そして春宮亮を兼ねる
・894年(寛平6年) 遣唐使に任ぜられたものの建議して、これを中止する
・895年(寛平7年) 近江守を兼ね、紀長谷雄と渤海客使を鴻臚館に応接し、詩を賦す、従三位に叙し、中納言に任じ、春宮権大夫を兼ねる
・896年(寛平8年) 民部卿を兼ね、長女が入内して女御となる
・897年(寛平9年) 権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ね、正三位に叙され、中宮大夫を兼ねる
・899年(昌泰2年) 右大臣に任ぜられ、嫡室島田宣来子が従五位下を授かる
・901年(延喜元年) 従二位に叙されるも、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷される
・903年(延喜3年2月25日) 失意のうちに、大宰府において、数え年59歳で亡くなる
・923年(延喜23年4月20日) 贈右大臣、正二位を追贈される
・993年(正暦4年5月20日) 正一位左大臣、続いて太政大臣を追贈される

☆『新撰万葉集』上序

<原文>

夫萬葉集者、古歌之流也。非未嘗稱警策之名焉、況復不屑鄭衛之音乎。
聞説、古者、飛文染翰之士、興詠吟嘯之客、青春之時、玄冬之節、隨見而興既作、觸聆而感自生。凡、厥所草稿、不知幾千。漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。然而、有意者進、無智者退而已。於是奉綸、綍鎍綜緝之外、更在人口、盡以撰集、成數十卷。装其要妙、韞匱待價。唯、媿非凡眼之所可及。
當今寬平聖主、萬機餘暇、舉宮而方、有事合歌。後進之詞人、近習之才子、各獻四時之歌、初成九重之宴。又有餘興、同加恋思之二詠。倩見歌體、雖誠見古知今、而以今比古。新作花也、舊製實也。以花比實、今人情彩剪錦、多述可憐之句、古人心緒織素、少綴不整之艶。仍左右上下両軸、惣二百有首、號曰、新撰萬葉集。先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。
庶幾使、家家好事、常有梁塵之動、處處遊客、鎮作行雲之遏。
于時寬平五載秋九月廿五日、偷盡前視之美、而解後世之願云爾。

<読み下し文>

夫れ萬葉集は、古歌の流(いずるところ)なり。未だ嘗って警策(けいさく)の名を稱えざるにあらざり、況(いはん)や復、鄭衛(ていえい)の音を屑(いさぎよ)しとせず。
説を聞くに、「古には、飛文染翰の士、興詠吟嘯の客、青春の時、玄冬の節、見るに隨(したが)ひて既に作を興し、聆(き)くを觸れるに感(おもひ)は自(おのづ)から生まれる。凡そ、厥(そ)の草稿は、幾千を知らず。漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯乱、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖(ただ)、入るに悟り難き。所謂、彌高(いやたか)を仰ぎ、鑽(きわめ)るに彌(いやいや)堅き者か。然而(しかるに)、意有る者は進み、智無き者は退き已(や)む。是に於いて綸を奉じ、綍鎍(ふつさく)綜緝(そうしゅう)の外、更に人の口に在るを、盡(ことごと)く以つて撰集し、數十卷と成す。其の要妙(ようみょう)を装ひ、匱(ひつ)に韞(おさ)め價(ひょうか)を待たん。唯、凡眼の及ぶべき所に非ずを媿(とがめ)む」と。
當今(とうきん)の寬平聖主、萬機(まんき)餘暇(よか)、宮の方を舉げ、事有るに歌を合す。後進の詞人、近習の才子、各(おのおの)、四時の歌を獻じ、初めて九重の宴を成す。又、餘興の有りて、同(ひと)しく恋と思の二詠を加ふ。倩(つらつら)、歌體(かたい)を見るに、雖(ただ)、誠(まこと)は古(いにしへ)に見み、今に知る。而して今を以ちて古(いにしへ)に比(なぞ)ふ。新(あらた)は花を作り、舊(ふるき)は實(み)を製(な)す。花を以ちて實に比ふ。今の人は情(こころ)を彩(いろ)り錦を剪(き)り、可憐の句を多述し、古(いにしへ)の人は心緒(こころを)を素(すなお)に織り、不整の艶を少綴す。仍ち、左右上下の両軸、惣ち二百有首、號して曰はく「新撰萬葉集」と。先生、啻(ただ)、倭歌の佳麗を賞(めで)るのみにあらず、兼ねて亦(また)一絶の詩を綴り、數首を左に插(はさ)む。
庶幾(しょき)をして家家の好事を使(なさ)しめ、常に梁塵の動有りて、處處の遊客、行雲の遏(しりぞ)き作すを鎮(とど)めむ。
于時(とき)、寬平五載秋九月廿五日、愈(いよいよ)、前視の美を盡(つく)し、而して後世の願ひを解(ひら)くと、云爾(しかいふ)。

☆『新撰万葉集』下序

<原文>

 余以倩見古人之留歌、易覺難知、隨時有興也。偷擇時人之歌練、學詩書、狀批陳、氣節在樂乎。然則或有識之人撰文書之艷句、詠當時之美憐。或秀才之者、取詩章之麗言、讚梅柳之可怜。遂使文花開於翰林、綾字就於辭林。凡以在在、處處歌曲、儛家家宴、宴聳聞也。何況乎光華繽紛、才藝霞飛翔。【疑有脫文。】等閑仙窟、抽集為卷。則以使視歌興詩詠之者、庶幾使諸家之有、以留聆餌脣、試傳後代乎。將多點字。手疏卷舌、鉗口無那。頗加以述意之序、增別絕句之仄也。歲次延喜十三年八月廿一日、謹進序句之。前人雖興和顯、未詠詩序、仍序句。但憚愕上人丹心、凡人不興歟。雖然迂筆爾云。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(宝亀元)皇太子の白壁王により、道鏡が造下野国薬師寺別当に左遷される(新暦9月14日)詳細
1264年(文永元)鎌倉幕府第6代執権北条長時の命日(新暦9月12日)詳細
1611年(慶長16)慶長会津地震が起き、若松城下などで寺社・家屋が倒壊し死者3,700余人を出す(新暦9月27日)詳細
1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂が亡くなったので、孝明天皇が第二次長州征討中止を勅命する(新暦9月29日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1893年(明治26)洋画家・随筆家・版画家木村荘八の誕生日詳細
1898年(明治31)尾崎行雄が「日本で共和制が実施されれば三井・三菱は大統領候補となろう」と演説する(共和演説事件)詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細
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 今日は、平安時代後期の1183年(寿永2)に、源平合戦の中で、平宗盛ら平家一族が、安徳天皇と神器を奉じて都より西国へ落ちた日ですが、新暦では8月14日となります。
 源平合戦(げんぺいかっせん)は、平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源平合戦関係略年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月25日 平宗盛ら平家一族が、安徳天皇と神器を奉じて都より西国へ落ちる(平家の都落ち)
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1629年(寛永6)紫衣事件に抗議した沢庵らを東北へ流罪にする(新暦9月12日)詳細
1683年(天和3)江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(天和令)15ヶ条を発布し、「諸士法度」と統合する(新暦8月26日)詳細
1894年(明治27)朝鮮半島の豊島沖で、日本艦隊が清国艦隊を攻撃し、日清戦争が勃発(宣戦布告は8月1日)する詳細
1929年(昭和4)映画監督・映画製作者で、「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の命日詳細
1933年(昭和8)フェーン現象により山形県山形市で40.8℃を記録する詳細
1946年(昭和21)吉田茂内閣において、「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」が閣議決定される詳細
1955年(昭和30)日本住宅公団が設立される詳細
1960年(昭和35)「身体障害者雇用促進法」(昭和35年法律第123号)が公布・施行される詳細
1985年(昭和60)「女子差別撤廃条約」を日本が批准し、日本において発効する詳細

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 今日は、平安時代前期の794年(延暦13)に、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発した日ですが、新暦では7月14日となります。
 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、奈良時代から平安時代前期の武将・征夷大将軍です。758年(天平宝字2年)に、阿知使主を祖先とした東漢氏の一族であった、左京大夫・坂上苅田麻呂の子(母は畝火浄永の娘とも)として生まれました。
 武術に秀で、780年(宝亀11)に近衛将監、785年(延暦4)に従五位下、787年(延暦6)に近衛少将となり、791年(延暦10)には征夷副使となり、793年(延暦12)に征夷大将軍大伴弟麻呂に従って東北へ向かいます。翌年蝦夷を討ち、796年(延暦15)に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、鎮守将軍も兼任しました。
 797年(延暦16)に征夷大将軍に任命され、801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向い、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢の地を攻略し、10月に平安京に凱旋して、節刀を返上します。802年(延暦21)に胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣され、鎮守府を多賀城から移しました。
 さらに、803年(延暦22)にも造志波城使として、陸奥国に派遣され北進して、同年4月には、夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼を500余人を率いて降伏させました。翌年には再び征夷大将軍に任命され、蝦夷地経略の多大な功績によって、805年(延暦24)には参議となって公卿に列します。
 その後、中納言を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至りましたが、この間の810年(弘仁元)に起きた薬子の変でも、美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努めました。京都清水寺の草創にも関わりましたが、811年(弘仁2)に平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなり、従二位を追贈されています。

〇坂上田村麻呂関係略年表(日付は旧暦です)

・758年(天平宝字2年) 左京大夫・坂上苅田麻呂の子として生まれる
・780年(宝亀11年) 近衛将監となる
・785年(延暦4年) 従五位下に叙せられる
・787年(延暦6年) 近衛少将となる
・791年(延暦10年) 征東副使に任命される
・793年(延暦12年) 東北へ向かって軍を進発させる
・794年(延暦13年) 征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討つ
・795年(延暦14年) 従四位下に叙せられる
・796年(延暦15年1月25日) 陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命される
・796年(延暦15年10月27日) 鎮守将軍を兼任する
・797年(延暦16年11月5日) 征夷大将軍に任命される
・798年(延暦17年閏5月24日) 従四位上に叙せられる
・799年(延暦18年5月) 近衛権中将となる
・801年(延暦20年2月14日) 第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向う
・801年(延暦20年10月28日) 平安京に凱旋して、節刀を返上する
・801年(延暦20年11月7日) 従三位に叙せられる
・801年(延暦20年12月) 近衛中将となる
・802年(延暦21年1月9日) 胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年3月6日) 造志波城使として、陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年4月15日) 夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼が500余人を率いて降伏する
・804年(延暦23年1月28日) 4度目の蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命される
・805年(延暦24年) 参議となって公卿に列する
・806年(大同元年3月18日) 中納言となる 
・806年(大同元年3月21日) 中衛大将となる
・807年(大同2年4月12日) 右近衛大将となる
・807年(大同2年8月14日) 侍従も兼任する
・807年(大同2年11月16日) 兵部卿を兼任する
・809年(大同4年3月30日) 正三位に叙せられる
・810年(弘仁元) 平城上皇の平城遷都に擬し造宮使となる
・810年(弘仁元年9月6日) 薬子の変が起る
・810年(弘仁元年9月10日) 大納言に昇進する
・810年(弘仁元年9月12日) 美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努める
・811年(弘仁2年5月23日) 平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなる

☆桓武天皇(かんむてんのう)とは?

 奈良時代から平安時代前期に活躍した第50代の天皇です。737年(天平9)に、京都において白壁王(後の光仁天皇)の長男(母・高野新笠)として生まれましたが、名は日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)と言いました。
 770年(宝亀元年10月1日)に、父の白壁王が第49代の光仁天皇として即位すると、四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、母が渡来人の出身だったため第一皇子でしたが、皇太子となれないでいます。しかし、772年(宝亀3)に、皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后とされ、翌年にその子他戸親王も廃太子されると、773年(宝亀4)に皇太子となりました。
 781年(天応元年4月3日)に父・光仁天皇から譲位されて、数え年48歳で第50代の天皇となるとすぐに、同母弟の早良親王を皇太子と定めます。782年(延暦元)に、勘解由使を設置し、784年(延暦3)には、奈良寺院勢力の抑制も意図し、それまでの平城京から、山背国(現在の京都府)の長岡京への遷都を断行しました。
 しかし、翌年藤原種継暗殺の廉により、早良親王を廃太子の上で流罪に処し、死に至らしめる事件が起きます。その後、皇后乙牟漏、夫人旅子など近親の死亡が相次ぎ、早良親王の怨霊の所為とされたため、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、長岡京造営を中止し、794年(延暦13)に、山背の葛野に遷都し、平安京と命名するとともに、山背国を山城国と改めました。一方、律令国家としての強化・拡大をはかって、789年(延暦8)に、紀古佐美を征東大使とする最初の東北への遠征軍を送りますが惨敗しました。
 792年(延暦11)には、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布き、794年(延暦13)の東北への2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が活躍します。795年(延暦14年)に、公出挙を5割から3割に減税したり、雑徭の日限を30日に半減するなど農民の負担軽減を図り、797年(延暦16)には、2番目の官撰国史『続日本紀』が完成し、奏上されました。
 また、801年(延暦20)には、東北への3度目の遠征で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送り、翌年に胆沢城(現在の岩手県)を築かせるなどして、東北地方へ朝廷権力を拡大します。尚、804年(延暦23)に、遣唐使により、最澄と空海を唐に渡らせ、奈良時代の仏教政治の弊害を除くために、新宗派(天台宗・真言宗)の設立を助けました。
 しかし、晩年に政策は行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年3月17日に、京都において数え年70歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

614年(推古天皇22)最後の遣隋使として犬上御田鍬らが隋へ出発する(新暦7月24日)詳細
1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1798年(寛政10)本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成する(新暦7月26日)詳細
1910年(明治43)長塚節著の小説『土』が「東京朝日新聞」に連載開始される詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1953年(昭和28)石川県河北郡内灘村の米軍試射場の無期限使用に反対して村民と支援団体が坐り込みを行う(内灘闘争)詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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