ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 安土桃山時代

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 今日は、安土桃山時代の1568年(永禄11)に、織田信長に支援された足利義昭が室町幕府第1
5代将軍に就任した日ですが、新暦では11月7日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代将軍です。戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。
 1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。
 その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。
 しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。
 翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。
 以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。
 1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる

☆室町幕府(むろまちばくふ)とは?

 1336年(建武3)に、足利尊氏が建武式目を制定して武家政権開設の方向を示し、1338年(建武5)に征夷大将軍の宣下を受けて、名実ともに室町幕府の発足となりました。しかし、南北朝の対立が起こって、不安定だったものの、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となります。
 しかし、守護の台頭により動揺が絶えず、1441年(嘉吉元)赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害する事件(嘉吉の乱)も起こりました。その後も、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱以降戦乱が続いて、著しく幕府は弱体化します。
 そして、1573年(天正16)に織田信長によって、15代将軍足利義昭が追放されて、室町幕府は滅ぶことになりました。

☆室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

・初代 尊氏(たかうじ)在職年:1338年(建武5)~1358年(延文3)
・2代 義詮(よしあきら)在職年:1358年(延文3)~1367年(貞治6)
・3代 義満(よしみつ)在職年:1368年(応安元)~1394年(応永元)
・4代 義持(よしもち)在職年:1394年(応永元)~1423年(応永30)
・5代 義量(よしかず)在職年:1423年(応永30)~1425年(応永32)
・空白 4代義持が代理 在職年:1425年(応永32)~1428年(応永35)
・6代 義教(よしのり)在職年:1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・7代 義勝(よしかつ)在職年:1442年(嘉吉2)~1443年(嘉吉3)
・8代 義政(よしまさ)在職年:1449年(文安6)~1473年(文明5)
・9代 義尚(よしひさ)在職年:1473年(文明5)~1489年(長享3)
・空白 8代義政が代理 在職年:1489年(長享3)~1490年(延徳2)
・10代 義稙(よしたね)在職年:1490年(延徳2)~1493年(明応2)
・11代 義澄(よしずみ)在職年:1494年(明応3)~1508年(永正5)
・(再) 義稙(よしたね)在職年:1508年(永正5)~1521年(大永元)
・12代 義晴(よしはる)在職年:1521年(大永元)~1546年(天文15)
・13代 義輝(よしてる)在職年:1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・14代 義栄(よしひで)在職年:1568年(永禄11)~1568年(永禄11)
・15代 義昭(よしあき)在職年:1568年(永禄11)~1573年(天正16)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)日本初の全国政党「自由党」の結成大会が行われる詳細
1898年(明治31)安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する詳細
1939年(昭和14)「価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される詳細
1943年(昭和18)財団法人大日本育英会(後の日本育英会)が創立される詳細
1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細
1980年(昭和55)遺伝学者・植物細胞学者・生理学者・教育者坂村徹の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1570年(永禄13)に、織田信長が殿中御掟追加5か条を室町幕府第15代将軍足利義昭に示した日ですが、新暦では2月27日となります。
 「殿中御掟」(でんちゅうおんおきて)は、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭に承認させた掟であり、1569年(永禄12年1月14日)に9か条、2日後の16日に追加7か条が出されましたが、制定した後も義昭はこれを守ることをしなかったので、新たに、1570年(永禄13年1月23日)に5か条が追加され、計21か条となりました。これによって、義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないようにして、必ず信長の副状をつけることや義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し、再検討すべきことなどを定め、将軍としての権限を大幅に制約するものとなります。
 しかし、その後も義昭がこれらの殿中御掟を遵守した形跡もありませんでした。
 以下に、「殿中御掟」の追加を含めた21か条を現代語訳付で掲載しておきますからご参照下さい。

〇「殿中御掟9か条」 1569年(永禄12年1月14日)

・不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
・公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
・惣番衆、面々可有祗候事
・各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
・公事篇内奏御停事之事
・奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
・公事可被聞召式目、可為如前々事
・閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
・諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りとする。
・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
・訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・奉公衆が出した結論を将軍が一存で決めてはならない(従来のやり方の通りとする)。
・訴訟規定は従来通りとする。
・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

〇「殿中御掟追加7か条」 1569年(永禄12年1月16日)

・寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
・請取沙汰停止事
・喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
・理不尽入催促儀堅停止事
・直訴訟停止事
・訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
・於当知行之地者、以請文上可被成御下知事

    「仁和寺文書」

<現代語訳>

・(幕臣が)寺社本所領を押領することを停止すること。
・請取沙汰を停止する事。
・喧嘩口論の禁止、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものは同罪。
・理不尽に催促する事の禁止。
・将軍が訴訟を直接取り扱う事を禁止。
・もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと。
・占有地については関係を把握して差配すること。

〇「殿中御掟追加5か条」1570年(永禄13年1月23日)

・諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
・御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
・公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
・天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
・天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

<現代語訳>

・諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。
・これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。
・天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(天下静謐のための軍事的行動について信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
・天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。

  「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1914年(大正3)第31帝国議会で島田三郎議員がシーメンス社の日本海軍への贈賄を追及する(シーメンス事件)詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1587年(天正18)に、天正遣欧使節がローマから長崎に帰港した日ですが、新暦では7月21日となります。
 天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)は、宣教師バリニャーノの勧めによって、九州のキリシタン大名大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代としてローマ教皇のもとに派遣された少年使節団です。織田信長の晩年に来日したイエズス会日本巡察師アレッサンドロ・バリニャーノは、インド、ローマへの帰還に当たり、日本人少年をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを勧めました。
 島原半島の有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名(14~15歳)が選ばれ、正使には大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信と大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じます。1582年(天正10)1月28日に、長崎港を出帆し、中国のマカオ、インドのゴア、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのフィレンツェを経て、1585年(天正13)2月にローマ入りしました。
 同年3月23日に、使節らはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられるなど大歓迎を受け、援助を得ることに成功します。その後、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て、翌年2月25日にリスボンを出港し、帰途に着きました。
 1587年(天正18)6月20日に使節団が帰国し、長崎港に到着します。前年には、大友宗麟、大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布するなどキリスト教に関する風向きが変わってきていました。
 しかし、翌年閏1月に一行はゴアから再来したバリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏しています。正副4使節はイエズス会に入りましたが、キリスト教に対する圧力が強まる中で、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったものの、伊東マンショは病死、中浦ジュリアンは殉教死、原マルティノは追放先のマカオで死去しました。
 この使節によって、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめた功績は大きく、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれています。

〇天正遣欧使節関係略年表

<1579年(天正7)>
・7月25日(新暦8月17日) アレッサンドロ・バリニャーノが口之津港へ来日する

<1581年(天正9)>
・2月23日(新暦3月27日) アレッサンドロ・バリニャーノとルイス・フロイスが織田信長に謁見する

<1582年(天正10)>
・1月28日(新暦2月20日) 天正遣欧使節が長崎港を出港する
・2月15日(新暦3月9日) マカオに到着し、風を待つ

<1583年(天正11)>
・11月7日(12月20日) マラッカ・コチンをへてインドのゴアに到着する

<1584年(天正12)>
・7月5日 (新暦8月10日) ポルトガルの首都リスボンに到着し、サン・ロッケ教会が宿舎となる
・10月23日(新暦11月25日) スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける

<1585年(天正13)>
・1月30日(新暦3月1日) スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
・2月1日(新暦3月2日) ピサに到着し、ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見する
・2月5日(新暦3月6日) カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する
・2月6日(新暦3月7日) フィレンツェに到着し、シニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する
・2月10日(新暦3月11日) フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフで過ごす
・2月22日(新暦3月23日) ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられる
・4月2日(新暦5月1日) グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席する
・5月6日(新暦6月3日) ローマを出発し、以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問する

<1586年(天正14)>
・2月25日(新暦4月13日) ポルトガルのリスボンを出港し、帰途につく

<1587年(天正15)>
・4月23日(新暦5月29日) インドのゴアに到着し、ヴァリニャーノに再会、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる
・5月6日(新暦6月11日) 豊後において大友宗麟が死去する
・5月18日(新暦6月23日) 長崎で大村純忠が死去する
・6月19日(新暦7月24日) 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布する

<1587年(天正18)>
・6月20日(新暦7月21日) 天正遣欧使節が帰国し、長崎港に到着する

<1587年(天正19)>
・閏1月8日(新暦3月3日) 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1495年(明応4)飯尾宗祇ら編集による『新撰菟玖波集』が完成する(新暦7月12日)詳細
1654年(承応3)江戸市中に水を供給する玉川上水が完成する(新暦7月21日)詳細
1730年(享保15)京都で「西陣焼け」が起こり、134町、3,810軒を焼失する(新暦8月3日)詳細
1887年(明治20)二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行される詳細
1947年(昭和22)片山哲内閣によって、「新日本建設国民運動要領」が閣議決定される詳細
1963年(昭和38)「観光基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、安土桃山時代の1585年(天正13)に、天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に公式謁見した日ですが、新暦では3月23日となります。
 天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)は、宣教師バリニャーノの勧めによって、九州のキリシタン大名大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代としてローマ教皇のもとに派遣された少年使節団でした。織田信長の晩年に来日したイエズス会日本巡察師アレッサンドロ・バリニャーノは、インド、ローマへの帰還に当たり、日本人少年をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを勧めます。
 島原半島の有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名(14~15歳)が選ばれ、正使には大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信と大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じました。1582年(天正10)1月28日に、長崎港を出帆し、中国のマカオ、インドのゴア、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのフィレンツェを経て、1585年(天正13)2月にローマ入りします。
 同年3月23日(天正13年2月22日)に、使節らはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられるなど大歓迎を受け、援助を得ることに成功しました。その後、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て、翌年2月25日にリスボンを出港し、帰途に着きます。
 1587年(天正18)6月20日に使節団が帰国し、長崎港に到着しました。前年には、大友宗麟、大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布するなどキリスト教に関する風向きが変わってきています。
 しかし、翌年閏1月に一行はゴアから再来したバリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏しました。正副4使節はイエズス会に入りましたが、キリスト教に対する圧力が強まる中で、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったものの、伊東マンショは病死、中浦ジュリアンは殉教死、原マルティノは追放先のマカオで死去します。
 この使節によって、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめた功績は大きく、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれてきました。

〇天正遣欧使節関係略年表

<1579年(天正7)>
・7月25日(新暦8月17日) アレッサンドロ・バリニャーノが口之津港へ来日する

<1581年(天正9)>
・2月23日(新暦3月27日) アレッサンドロ・バリニャーノとルイス・フロイスが織田信長に謁見する

<1582年(天正10)>
・1月28日(新暦2月20日) 天正遣欧使節が長崎港を出港する
・2月15日(新暦3月9日) マカオに到着し、風を待つ

<1583年(天正11)>
・11月7日(12月20日) マラッカ・コチンをへてインドのゴアに到着する

<1584年(天正12)>
・7月5日 (新暦8月10日) ポルトガルの首都リスボンに到着し、サン・ロッケ教会が宿舎となる
・10月23日(新暦11月25日) スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける

<1585年(天正13)>
・1月30日(新暦3月1日) スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
・2月1日(新暦3月2日) ピサに到着し、ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見する
・2月5日(新暦3月6日) カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する
・2月6日(新暦3月7日) フィレンツェに到着し、シニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する
・2月10日(新暦3月11日) フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフで過ごす
・2月22日(新暦3月23日) ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられる
・4月2日(新暦5月1日) グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席する
・5月6日(新暦6月3日) ローマを出発し、以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問する

<1586年(天正14)>
・2月25日(新暦4月13日) ポルトガルのリスボンを出港し、帰途につく

<1587年(天正15)>
・4月23日(新暦5月29日) インドのゴアに到着し、ヴァリニャーノに再会、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる
・5月6日(新暦6月11日) 豊後において大友宗麟が死去する
・5月18日(新暦6月23日) 長崎で大村純忠が死去する
・6月19日(新暦7月24日) 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布する

<1587年(天正18)>
・6月20日(新暦7月21日) 天正遣欧使節が帰国し、長崎港に到着する

<1587年(天正19)>
・閏1月8日(新暦3月3日) 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する

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 今日は、安土桃山時代の1557年(天正5)に、手取川の戦いで、上杉謙信軍が織田信長軍に大勝した日ですが、新暦では11月3日となります。
 手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、上杉謙信軍と織田信長軍による加賀国・手取川周辺(現在の石川県白山市湊町)で起きた戦いのことでした。この当時、越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)を統治していたのは、織田信長の重臣・柴田勝家でしたが、1576年(天正4)に、勝家は加賀国(現在の石川県)へ「加賀一向一揆衆」の鎮圧のため侵攻を開始します。
 この動きに呼応して、上杉謙信は、織田軍を迎撃するため、越中国から進軍しました。能登国と越中国を結ぶ要所にある七尾城主・畠山氏の重臣だった長続連は、1557年(天正5)閏7月に、使者として三男長連龍をを安土城に派遣して織田信長に援軍を要請、信長は柴田勝家を総大将とする4万の軍勢の派遣を決定し、8月8日に織田軍は北国に向けて出陣します。
 しかし、9月15日には、七尾城において長続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城してしまいました。9月17日に上杉方は加賀と能登間に立地する末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配します。
 柴田勝家率いる織田軍は七尾城落城を知らないまま進軍を続け、9月23日には、織田軍が手取川を渡河したところで、上杉謙信軍と激突し、織田軍は1,000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出して大敗を喫しました。その後、上杉謙信は越前丸岡城下坂井郡に進出し、9月26日には七尾城に帰陣し普請に着したとされます。
 10月3日に、柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還しました。

〇上杉謙信(うえすぎ けんしん)とは?

 戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将・戦国大名です。1530年(享禄3)1月21日に、越後守護代の父・長尾為景の四男(母・長尾顕吉の娘)として生まれましたが、幼名は虎千代と言いました。1536年(天文5)に、父・為景が隠居し、兄・晴景が家督を継ぎましたが、1542年(天文11)には、父・為景が亡くなっています。
 1543年(天文12)8月15日 元服して長尾景虎と名乗り、9月には兄・晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入りました。1548年(天文17)に、守護上杉定実の仲介で、兄・晴景の養子となる形で春日山城主となり、1551年(天文20)には、義兄の長尾政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現します。
 1552年(天文21)、関東管領上杉憲政は北条氏康に攻められ、景虎を頼って、越後国へ逃亡してきたので、それを助けて関東に出兵しました。1553年(天文22)に、武田信玄との第一次川中島の戦いが起こりますが、その後11年にわたり好敵手として、第五次まで断続して戦います。
 一方、1553年(天文22)に、初めて上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍足利義輝に拝謁し、翌年には、北条氏康・今川義元と甲相駿三国同盟が結ばれました。1559年(永禄2)に再度上洛し、将軍足利義輝に謁見、正親町天皇から従五位下弾正少弼に任ぜられ、翌年には、北陸にも進出し、一向一揆との戦いが始まります。
 1561年(永禄4)に、北条氏を小田原の本城まで追い詰めますが破れず撤退するものの、翌年には上杉憲政から譲られて関東管領となり、上杉氏を名乗りました。1569年(永禄12)に、北条氏康に請われて上野一国の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣を条件に講和、翌年には入道して謙信と名乗ります。
 1572年(元亀3)に、織田信長との同盟を機に越中を平定、1577年(天正5)には、七尾城を陥落させ、能登を手中とし、手取川の戦いでも織田軍を破りました。しかし、1578年(天正6)3月13日に、越後春日山城内で、数え年49歳で亡くなっています。

☆手取川の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<1577年(天正5)>

・5月 畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた冨木・熊木の両城が落とされる
・7月18日 畠山氏の重臣だった長綱連が穴水城を攻め、乙ヶ崎合戦で大勝する
・閏7月 謙信は再び能登に侵攻したため、長綱連は七尾城に撤退する
・閏7月23日 織田信長は長続連の使者が安土城に派遣されて、援軍の派遣を決定、柴田勝家を総大将とする4万の軍勢とする
・8月8日 織田軍は北国に向けて出陣する
・9月15日 長続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城する
・9月17日 上杉方は加賀と能登間に立地する末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配する
・9月23日 手取川の戦いにおいて上杉謙信軍と織田信長軍が激突し、織田軍は1,000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出して大敗を喫する
・9月26日 上杉謙信は七尾城に帰陣し普請に着く
・9月25日 能登珠洲郡の松波城将の松波義親、上杉謙信と戦って死ぬ
・10月3日 柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還する
・10月25日 謙信は、能登各城に鰺坂長実・遊佐盛光連署による、十三箇条の制札を掲げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
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1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細
1884年(明治17)自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる詳細
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