ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 奈良時代

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 今日は、奈良時代の754年(天平勝宝6)に、唐の高僧・鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けた日ですが、新暦では3月2日となります。
 鑑真(がんじん)は、来日して帰化した唐代の高僧・日本律宗の開祖です。688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。
 以下に、鑑真の渡来の顛末を記した『唐大和上東征伝』(淡海三船著)を抜粋して掲載して置きましたので、ご参照下さい。

〇鑑真関係略年表(日付は旧暦です)

・688年(持統天皇2) 唐の揚州江陽県に生まれたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言った
・701年(大宝元) 14歳の時、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家する
・705年(慶雲2) 18歳の時、南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受ける、
・707年(慶雲4) 20歳の時、長安に入り、実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受ける
・733年(天平5) 日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐する
・742年(天平14) 日本僧の栄叡、普照の要請を受けて、来日を決意する
・743年(天平15) 1回目の渡航に失敗する
・748年(天平20) 5回目の渡航で、14日間の漂流の末、南方の海南島へ漂着し失敗する
・751年(天平勝宝3) 鑑真は揚州に戻るため海南島を離れる
・753年(天平勝宝5) 6回目の渡航で、鑑真が薩摩国坊津に到着する
・754年(天平勝宝6年2月4日) 鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受ける
・755年(天平勝宝7) 鑑真は、東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任される
・756年(天平勝宝8) 鑑真は、大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられる
・759年(天平宝字3) 鑑真が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として唐招提寺が創建される
・760年(天平宝字4)頃 平城宮改修の際、平城宮の東朝集殿が移されて唐招提寺講堂が建立される
・763年(天平宝字7年5月6日) 鑑真が、数え年76歳で亡くなる
・781年(天応元年) 鑑真和上の弟子・如宝が唐招提寺金堂を建立したが、この年に伐採されたヒノキが使われていた

☆『唐大和上東征伝』とは? 

 淡海三船著で、鑑真の渡来の顛末を記した書物です。鑑真に随伴して来日した思託の著した『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称「大和上伝」「大和尚伝」)や鑑真の行状を伝聞して、779年(宝亀10)に完成したもので、全1巻からなっていました。
 鑑真の出自や出家から、6回目にようやく渡日に成功して日本に戒律を伝えた経緯、唐招提寺の縁起を述べるとともに、8世紀中期の唐の諸州、都市の見聞記が収められていて、海外交渉史としてもその価値はが高いとされています。  

☆『唐大和上東征伝』の抜粋 

「日本国天平五年歳は癸酉に次る、沙門栄叡・普照等、遣唐大使丹比真人広成に随ひて唐国に至り、留りて学ぶ。…天平六載歳冬十月、時に大和上楊州大明寺にあり、衆のために律を講ず。 栄叡・普照師大明寺に至り、大和上の足下に頂礼し、具さに本意を述べて日く、『仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖も伝うる人無し。本国に昔聖徳太子有り。日く二百年の後、聖教日本に興らんと。今此の運に鍾る。願はくは和上、東遊して化を興せ』と。大和上答えて日く、『昔聞く。南岳恵思禅師、遷化の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆し、衆生を済度すと。(中略)此を以て思量っっするに、誠に是れ仏法興隆有縁の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請に応え、日本国に向いて法を伝える者有らんか』と。時に衆黙然として一の対うる者無し。良久しくして僧祥彦有り。進みて日く。『彼の国は太遠く、性命存し難し。滄波□漫、百に一も至る無し(中略)』と。和上日く、『これ法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。諸人去らざれば、我すなわち去るのみ』と。祥彦日く。『和上若し去かば、祥彦も亦随いて去かん』と。
   …天平七載十月十六日…岸を去ること漸く遠く、風は急に波は峻く、水の黒きこと墨の如し。沸浪一たび透らば、高山に上がる如し。怒涛再び至らば、深谷に入るに似たり。人皆荒酔し、ただ観音を唱ふ。…舟上に水なし、米を嚼めども喉乾き、咽めども入らず、吐けども出でず、鹹水を飲めば腹すなわち脹れ、一生の辛苦、何ぞこれより劇しからん。…和上頻りに炎熱を経て、眼光暗昧たり。ここに胡人あり。能く目を治すといふ。遂に療治を加ふるも、眼遂に失明せり。…和上天平十二載十月廿九日戊の時に於て、龍興寺より出でて江の頭に至り…船に乗りて下り、蘇州黄泗に至る。…十二月廿日乙酉午の時、第二舟薩摩国阿多郡秋妻屋浦に著く」 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1181年(養和元)平安時代末期の武将・公卿平清盛の命日(新暦3月20日)詳細
1482年(文明14)室町幕府第8代将軍足利義政が、東山に慈照寺観音殿(銀閣寺)の造営を開始する(新暦2月21日)詳細
1604年(慶長9)江戸幕府が街道に日本橋を起点とした一里塚の設置を命ずる(新暦3月4日)詳細
1898年(明治31)日本画家・版画家伊東深水の誕生日詳細
1904年(明治37)明治天皇臨席の御前会議で、日露戦争の開戦が決定される詳細
1933年(昭和8)長野県で多数の学校教員などが「治安維持法」違反として検挙(二・四事件)され始める詳細
1966年(昭和41)全日空機羽田沖墜落事故が起こり、乗員・乗客133名全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)米上院多国籍企業小委員会公聴会でロッキード社の日本政府高官への贈賄が発覚(ロッキード事件の発端)詳細
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 今日は、奈良時代の745年(天平17)に、民間僧・行基が大僧正になった日ですが、新暦では2月26日となります。
 行基(ぎょうき)は、社会事業に尽力した法相宗の僧です。飛鳥時代の668年(天智天皇7)に、河内国(後に和泉国に分立)大鳥郡(現在の大阪府)において、渡来した王仁の子孫にあたる父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれました。
 682年(天武天皇11)に大官大寺で得度を受け出家し、法行と称し、691年(持統天皇5年)には、戒師の葛城山高宮寺徳光禅師のもとで受戒、『瑜伽師地論』、『成唯識論』などの経典を学び、たちまち理解したと伝えられています。その後、薬師寺で義淵らについて法相を学び、名を行基と改め、8世紀初め頃までは山林修行に力を注ぎました。
 704年(大宝4年)に、生家を家原寺に改め、母と大和国の佐紀堂で暮らすものの、43歳で母を亡くします。3年間の忌服を終え、諸国を遊歴して、民衆の教化と社会事業に専念し、弟子を連れて民衆と共に道路・堤防・橋や寺院の建設にあたりました。
 また、旅の途上で餓死する人を救うため布施屋(旅人の休息所)を多数造立したとされます。しかし、717年(養老元)に、その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されたものの、後に許されました。
 738年(天平10年)に、朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられ、740年(天平12年)には、聖武天皇に依頼され東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力します。743年(天平15年)に、絶大な民衆への影響力により、大仏造営費の勧進に起用され、その功もあって、745年(天平17)には、朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を授与されました。
 749年(天平21年2月2日)に、奈良の菅原寺において、82歳で亡くなりましたが、生前から菩薩と仰がれ,死後は行基信仰が生まれたとされます。

〇行基の主要な社会事業とされるもの

<貯水池>
・久米田池(大阪府岸和田市) 
・狭山池(大阪狭山市)
・永寿池(大阪府貝塚市)
・鶴田池(大阪府堺市)
・蓮の池(兵庫県神戸市長田区)
・香盤池(兵庫県明石市)
・昆陽池(兵庫県伊丹市)

<橋>
・泉橋(木津川)
・山崎橋(淀川)
・高瀬橋(淀川)
・行基橋(福岡県沖端川)

<港>

・河尻泊(兵庫県尼崎市神崎町)
・大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)
・魚住泊(兵庫県明石市大久保町)
・韓泊(兵庫県姫路市的形町)
・室生泊(兵庫県たつの市御津町室津)

<布施屋>
・泉寺布施屋(京都府木津川市)
・大江布施屋(京都府京都市)
・垂氷布施屋(大阪府吹田市)
・樟葉布施屋(大阪府枚方市)
・大鳥布施屋(大阪府堺市)
・野中布施屋(大阪府堺市)
・石原布施屋(大阪府堺市)
・度布施屋(大阪府大阪市)
・昆陽布施屋(兵庫県伊丹市)

☆行基関係略年表(日付は旧暦です)

・668年(天智天皇7年) 河内国(後に和泉国に分立)大鳥郡(現在の大阪府)において、渡来した王仁の子孫にあたる父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる
・682年(天武天皇11年) 15歳で、大官大寺で得度を受け出家し、法行と称する
・691年(持統天皇5年) 24歳で、戒師の葛城山高宮寺徳光禅師のもとで受戒する
・704年(大宝4年) 生家を家原寺に改め、母と大和国の佐紀堂で暮らす
・717年(養老元年4月23日) 行基の活動は百姓をまどわすとして一時禁圧される
・730年(天平2年9月)、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き、数千人から多い時には1万人を集めて説教し、民衆を惑わしているとされる
・738年(天平10年) 朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられる
・740年(天平12年) 聖武天皇に依頼され東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力する
・741年(天平13年3月) 聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見する
・743年(天平15年) 東大寺の大仏像造営の勧進に起用される
・745年(天平17年1月21日) 朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を授与される
・749年(天平21年2月2日) 奈良の菅原寺において、82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

927年(延長5)律令政治の基本細則「延喜式」を藤原忠平が撰進する(新暦2月25日)詳細
1530年(享禄3)武将・戦国大名上杉謙信の誕生日(新暦2月18日)詳細
1866年(慶応2)坂本龍馬らの斡旋により薩長同盟が成立する(新暦3月7日)詳細
1922年(大正11)中国現代史学者・慶應義塾塾長石川忠雄の誕生日詳細
1930年(昭和5)海軍軍備制限のためのロンドン海軍軍縮会議が始まる(~4月22日)詳細
1946年(昭和21)GHQが「公娼廃止の指令」(SCAPIN-642)を出す詳細
1951年(昭和26)小説家宮本百合子の命日詳細
1983年(昭和58)小説家里見弴の命日詳細
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 今日は、奈良時代の730年(天平2)に、奈良・薬師寺の三重塔(東塔)が建立されたとされる日ですが、新暦では4月20日となります。
 薬師寺(やくしじ)は、飛鳥時代の680年(天武天皇9)に天武天皇が、皇后の病気平癒を祈念して発願し、698年(文武天皇2)に藤原京に創建されたものです。しかし、710年(和銅3)の平城京遷都に伴い、718年(養老2)に現在地(奈良県奈良市西ノ京町)に移転されました。
 南都七大寺の一つであり、興福寺と共に法相宗の大本山でもあります。たびたびの火災などで諸堂を失いましたが、東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、いずれも国宝に指定されています。境内にある薬師三尊像、聖観音菩薩立像、吉祥天画像、仏足石および仏足石歌碑も国宝になっていて、白鳳・天平文化を代表するものです。
 1976年(昭和51)に金堂、1980年(昭和55)に西塔、1984年(昭和59)に中門、2003年(平成15)に大講堂が再建され、薬師寺式伽藍配置がよみがえりました。また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇薬師寺関係略年表

・680年(天武天皇9) 天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京の地に造営が開始される
・688年(持統天皇2) 無遮大会(かぎりなきおがみ)という行事が行われる
・698年(文武天皇2) 寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせる
・718年(養老2) 平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転する
・730年(天平2) 東塔(国宝)が完成する
・973年(天禄4) 火災によって金堂、東塔、西塔を残し、講堂、僧坊、南大門など多くの建物が焼失する
・1285年(弘安8) 東院堂(国宝)が再建される
・1528年(享禄元) 興福寺の衆徒・筒井順興による兵火で、東塔や東院堂を残し全山焼失する
・1600年(慶長5) 金堂が郡山城主の増田長盛によって再建される
・1852年(嘉永5) 大講堂が再建される
・1968年(昭和43) 百万巻お写経勧進による白鳳伽藍復興事業が開始される
・1976年(昭和51) それまでの建物が移転され、金堂が再建される
・1981年(昭和56) 西塔が再建される
・1984年(昭和59) 中門が再建される
・1995年(平成7) 東西回廊の一部が再建される
・1998年(平成10) 「古都奈良の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録される
・2003年(平成15) それまでの建物が解体され、大講堂が再建される
・2017年(平成29) 食堂(じきどう)が再建される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1909年〈明治42〉文芸評論家・小説家・劇作家花田清輝の誕生日詳細
1911年(明治44)「工場法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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 今日は、奈良時代の784年(延暦3)に、桓武天皇が人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した日ですが、新暦では12月27日となります。
 長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)にあった桓武天皇が造営させた都でした。奈良時代の784年(延暦3年11月11日)に、平城京より遷都されましたが、785年(延暦4)に、造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死などがあり、造営工事はついに中止され、約10年間存在しただけで、794年(延暦13年10月22日)には、新京(平安京)に遷されています。
 南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられ、碁盤の目のような街並みが造営され、長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれ、東西方向の大路は、九条まで造られており、それぞれの大路に囲まれたなかは小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられました。1964年(昭和39)に、宮跡の一部は国史跡に指定され、周辺の発掘調査によって、1,000枚を超える木簡が出土、墨書土器とともに重要な資料を提供しています。

〇長岡京関係略年表

<延暦3年(784年)>
・5月7日 がま2万匹ばかり、難波の市の南道より四天王寺の内に入る(長岡遷都の前ぶれ)
・5月16日 中納言藤原小黒麻呂、同藤原種継、左大弁佐伯今毛人らを派遣、遷都のため山背国乙訓郡長岡村を視る
・6月10日 造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡宮・京を造り始める

<延暦3年(784年)>
・6月13日 遷都を山背国の賀茂大神社に告げ、今年の調・庸税と宮を造る人夫の必要物資を諸国に命じて新京の長岡宮へ運ばせる
・6月23日 新京に邸宅を造るため、 正税68万束を右大臣以下の政府要人に与える
・6月28日 長岡村の百姓宅で宮内に入るもの57町に立のき料として正税約4万3千束を与える
・7月4日 阿波・讃岐・伊豫の3国に命じて、山崎橋を造る料材を出させる
・11月11日 長岡京に遷都する
・11月20日 遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位。
・11月28日 賀茂上・下社、松尾・乙訓神の4社を修理する
・12月2日、18日、29日 宮城を築いた山背国葛野郡の秦足長ら、宮を造る功労者にそれぞれ叙位と賜爵を与える

<延暦3年(784年)>
・12月13日 王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する

<延暦4年(785年)>
・1月1日 長岡新京の大極殿で初めて朝賀式。五位以上の貴族、内裏で祝宴をする
・1月14日 摂津国神下・梓江・鯵生野に堀を作り、三国川に結ぼうとする(京へ資材運搬のため)
・3月3日 嶋院で天皇と貴族、曲水の宴をする
・5月19日 4月末に皇后宮に瑞兆の赤雀が現われたのを祝い、賜爵・叙位・免租等を行う
・5月24日 諸国貢進の調・庸税の粗悪について、国司・郡司の責任を明確にする
・7月20日 宮を造る人夫に諸国の百姓31万4千人を雇う
・7月24日 国司の正税流用を禁止する
・8月23日 太政官院の垣を築いた大秦宅守に叙位する
・9月23日 藤原種継暗殺される。
・9月24日 藤原種継暗殺の犯人大伴氏ら数十人逮捕される
・9月28日 早良皇太子廃し、乙訓寺へ幽閉される
・10月4日 班田収授のため、五畿内に使を派遣し、検田する
・11月25日 安殿親王(のちの平城天皇)立太子する

<延暦5年(786年)>
・1月21日 近江国滋賀郡にはじめて梵釈寺を造る
・4月11日 諸国の調・庸等の税の未納について、国司・郡司の怠慢を責める
・5月3日 左・右京および東・西の市人に物を賜う
・6月1日 諸国の正倉の火災について、国司の責任を明確にする
・7月19日 太政官院が完成する。百官はじめて朝座につく
・8月8日 蝦夷を攻めるため、この時より約2年間、東国にて兵士・武器・物資の準備を進める
・9月18日 渤海国の使、船一隻に乗って出羽国に漂着する
・9月29日 五畿内の班田長官を任命する

<延暦6年(787年)>
・閏5月11日 左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする
・10月8日 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔あり。また賑給・減税・賜爵を行う
・11月5日 天神を河内国の交野に祀る

<延暦7年(788年)>
・9月26日 「水陸の便あって都市を長岡に建つ。しかも宮室未だ就らず、興作いよいよ多くして徴発の苦すこぶる百姓にあり」を詔して、減税を行う
・12月7日 征東大将軍紀古佐美、節刀を賜わり蝦夷へ出征する

<延暦8年(789年)>
・1月6日 五位以上、南院で節会。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される
・1月17日 この頃「造東大宮所」が東大宮(第2次内裏)を造る(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
・2月27日 天皇、西宮(第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る
・3月1日 造宮使、お酒食等を献上して祝う
・3月9日 軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める
・3月16日 造東大寺司を廃止する
・7月14日 伊勢・美濃・越前の三関を廃止する
・11月9日 造宮大工物部建麻呂に叙位する
・12月28日 桓武天皇の母高野新笠没する

<延暦9年(790年)>
・1月15日 桓武天皇の母高野新笠を大枝山陵に葬る
・閏3月4日 蝦夷を攻めるため、これより約2年間、諸国に命じて武器・軍糧を準備させる
・閏3月10日 皇后藤原乙牟漏没する
・10月2日 再び鋳銭司を設置する
・11月3日 税の欠負未納を補塡する公廨稲の割合を設定する

<延暦10年(791年)>
・3月6日 吉備真備・大和長岡らによる刪定律令24条を施行する
・4月18日 山背国内の諸寺の塔を修理する
・5月29日 翌年の班田に備え、国司・王臣家・殷富百姓が下田を上田に換える等の不法を改める
・6月25日 再び山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる
・8月5日 畿内の班田使を任じる。
・9月16日 平城宮の諸門を壊し運んで長岡宮に移し造らせる

<延暦11年(792年)>
・1月9日 天皇、諸院を巡行し、猪隈院にて五位以上に弓を射さす
・6月7日 諸国の兵士制を廃止する
・6月14日 健児の制を設ける
・6月10日 皇太子の病を占い、「早良親王の崇り」とでる
・6月22日 式部省の南門、激しい雷雨で倒れる
・8月9日 大雨・洪水で桂川等あふれる
・8月11日 天皇、紀伊郡赤目崎にて洪水を視る
・10月28日 京畿に限って班田を実施し、細則を一部修正する
・閏11月1日 新弾例83条を施行する

<延暦12年(793年)>
・1月15日 大納言藤原小黒痳呂、左大弁紀古佐美らを遣し、遷都のため山背国葛野郡宇太村を視る
・1月21日 宮を壊体するため天皇東院に移る
・2月2日 遷都を賀茂大神に告げる
・3月1日 葛野の行幸し、はじめて新京を巡行する
・3月12日 新京の宮城を築かせる
・6月23日 新宮の諸門を造らせる
・7月7日 馬埒殿で節会の相撲あり
・9月2日 新京の宅地を班給する

<延暦13年(794年)>
・6月13日 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を坆めて勝利を得る
・7月1日 東・西の市を新京に移。
・8月13日 右大臣藤原継縄ら「続日本紀」を撰修する
・10月22日 新京(平安京)に遷る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(貞和4)第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の命日(新暦12月2日)詳細
1477年(文明9)大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する(新暦12月16日)詳細
1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
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 今日は、奈良時代の759年(天平宝字3)に、鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立した日ですが、新暦では8月29日となります。
 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。
 その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。
 また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇鑑真(がんじん)とは?

 来日して帰化した唐代の高僧・日本律宗の開祖です。688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。

☆唐招提寺関係略年表(日付は旧暦です)

・753年(天平勝宝5) 鑑真が薩摩国坊津に到着する
・754年(天平勝宝6) 鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受ける
・755年(天平勝宝7) 鑑真は、東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任される
・756年(天平勝宝8) 鑑真は、大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられる
・759年(天平宝字3) 鑑真が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として創建される
・760年(天平宝字4)頃 平城宮改修の際、平城宮の東朝集殿が移されて講堂が建立される
・763年(天平宝字7年5月6日) 鑑真が、数え年76歳で亡くなる
・781年(天応元年) 鑑真和上の弟子・如宝が金堂を建立しましたが、この年に伐採されたヒノキが使われていた
・810年(弘仁元) 『日本紀略』によると東塔が建立されたする
・1140年(保延6) 金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などの伽藍が建立されていた
・1243年(寛元元) 中興の祖・覚盛が舎利会を創設する
・1244年(寛元2) 覚盛が入寺して再興を始める
・1249年(建長元) 覚盛が亡くなると法華寺の尼僧が遺徳を偲んで、団扇、宝扇を供えたことから覚盛の命日にうちわまきが行われるようになる
・1698年(元禄11) 戒壇院が再興される
・1802年(享和2) 火災によって東塔・五重塔など重要な伽藍が焼失する
・1900年(明治33) 独立して律宗総本山となる
・1998年(平成10) ユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

701年(大宝元)藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了する(新暦9月9日)詳細
1872年(明治5)「学制」が公布される(新暦9月5日)詳細
1935年(昭和10)岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第1次国体明徴声明)が出される詳細
1937年(昭和12)豊田正子が小学生の時に書いた作文をまとめた『綴方教室』が刊行される詳細
1967年(昭和42)「公害対策基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)建設省が「日本の道100選」を選定し、前年分と合わせて104本となる詳細
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