『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明著の随筆で、鎌倉時代の1212年(建暦2)に成立したと考えられてきました。人生の無常、有為転変の相と日野山閑居のさまを描写しています。
また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『方丈記』の冒頭部分
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
(後略)
☆鴨長明(かものちょうめい)とは?
平安時代後期から鎌倉時代に活躍した歌人・随筆家です。1155年(久寿2)頃に、京都下鴨神社禰宜であった父・鴨長継の次男として生まれましたが、名は「ながあきら」と読みました。
1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
585年(敏達天皇14) | 物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日) | 詳細 |
1827年(文政10) | 医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日) | 詳細 |
1946年(昭和21) | 連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される | 詳細 |
1959年(昭和34) | 砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される | 詳細 |
1985年(昭和60) | 小説家・翻訳家野上弥生子の命日 | 詳細 |