ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 鎌倉時代

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 今日は、鎌倉時代の1212年(建暦2)に、鴨長明が随筆『方丈記』を書き上げた日ですが、新暦では4月22日となります。
 『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明著の随筆で、鎌倉時代の1212年(建暦2)に成立したと考えられてきました。人生の無常、有為転変の相と日野山閑居のさまを描写しています。
 また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
 吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
 以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』の冒頭部分

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
 (後略)

☆鴨長明(かものちょうめい)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代に活躍した歌人・随筆家です。1155年(久寿2)頃に、京都下鴨神社禰宜であった父・鴨長継の次男として生まれましたが、名は「ながあきら」と読みました。
 1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
 勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
 しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
 歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1238年(暦仁元)に、僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始した日ですが、新暦では5月8日となります。
 鎌倉大仏(かまくらだいぶつ)は、鎌倉時代に建立された、神奈川県鎌倉市長谷の高徳院にある金銅の阿弥陀如来坐像でした。高さ三丈五尺(約11.39m)、重量約121tの金銅像(銅68.0%,スズ8.64%,鉛22.0%)で、力強い鎌倉彫刻に宋風を取入れた様式を持ち、奈良大仏と並び称されます。
 最初は、1238年 (暦仁元年3月23日) に、勧進上人浄光が大仏殿造営に取り掛かり、5年後の1243年(寛元元年6月16日)に、八丈余の木造阿弥陀坐像を安置したことが、『吾妻鏡』に記されました。しかし、この像は1247年(宝治元年)に大風で倒壊、次いで1252年(建長4年8月17日)に、「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたことが、『吾妻鏡』にあり、それが現在のものだとされています。
 大仏殿は、1305年(嘉元3)頃に倒壊し、1329年(元徳元)には、翌年の関東大仏造営唐船の発遣が決まり、再建が図られたものの、1334年(建武元)に大風で倒壊したと『太平記』に見え、1369年(応安2)にも大風で倒壊してからは露仏となりました。南北朝期頃~江戸前期にかけて建長寺の管理下に置かれていましたが、1703年(元禄16)の大地震で破損、1712年(正徳2)に江戸浅草の豪商、野島新左衛門から寺地屋敷等の寄進を受けた増上寺祐天上人によって復興され、別当寺は新左衛門の法名から高徳院と命名されています。
 1733年(享保18)に養国上人が高徳院初代住職となり、1737年(元文2)に大仏修理が行われました。1897年(明治30)に、「古社寺保存法」により国宝(旧国宝)に指定、1950年(昭和25)の「文化財保護法」により重要文化財に指定替えされ、1958年(昭和33)には、国宝(新国宝)に昇格しています。また、2004年(平成16)には、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されました。

〇『吾妻鏡』の鎌倉大仏に関する記述

・暦仁元年(1238年)の条
 3月23日 戊戌 雨降る
 (前略)今日、相模の国深澤里の大仏堂事始めなり。僧浄光尊卑の緇素を勧進せしめ、この営作を企つと。

・寛元元年(1243年)の条
 6月16日 辛酉 未の刻小雨・雷電
 深澤村建立の一宇の精舎、八丈余の阿弥陀像を安じ、今日供養を展ぶ。導師は卿僧正良信、讃衆十人。勧進聖人浄光房、この六年の間勧進す。都鄙の卑尊奉加せざると云うこと莫し。

・建長4年(1252年)の条
 8月17日 己巳 晴
 (前略)今日彼岸の第七日に当たり、深澤里の金銅八丈の釈迦如来像を鋳始め奉る。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1293年(永仁元)に、鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置した日ですが、新暦では4月14日となります。
 鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代の2回の元寇後、3回目が計画されている中で、1293年(永仁元)に、九州の御家人の統率と訴訟裁断を目的に博多に置かれた、鎌倉幕府の出先機関または、その長の職名でした。九州の御家人を異国警固番役に専念させるために鎌倉へ行っての訴訟を禁止し、現地において処理できるようにしたものです。
 そのために、代々北条氏一族がこの職に任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付衆がいて、訴訟を裁決しました。しかし、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡とともに消滅しています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来による蒙古軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は3回目の襲来に備えて、博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 蒙古軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
 
☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
 
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する 

<1268年(文永5)>
 
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
 
<1269年(文永6)>
  
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した 
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる 

<1271年(文永8)>
  
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した 

<1272年(文永9)>
  
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した 

<1274年(文永11)>
  
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する 
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する 
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了) 

<1275年(建治元)>

・2月 クビライは日本再侵攻の準備を進めると共に、日本を服属させるため、第7回の蒙古の使節団を派遣する
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる 
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する 

<1281年(弘安4)>
  
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する 
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける 
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する 
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する 
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する 
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する 
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する 
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する 
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する 
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する 
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

<1283年(弘安6)>

・8月 クビライは第三次日本侵攻計画(1283年~)を推進する一方で、9回目となる使節団を日本に派遣する

<1284年(弘安7)>

・10月 クビライは正使・王積翁と補陀禅寺の長老・如智ら10回目となる使節団を日本に派遣する

<1292年(正応5)>

・クビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣する
 
<1293年(永仁元)>

・3月7日 鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1908年(明治41)青森~函館間の鉄道連絡船として、青函連絡船が運航を開始する詳細
1927年(昭和2)京都府北部の丹後半島で北丹後地震(M7.3)が起き、死者2,925人・負傷者7,806人を出す詳細
1940年(昭和15)民政党斎藤孝夫が反軍演説(日中戦争の処理を厳しく追及)で議員除名される詳細
1941年(昭和16)「国防保安法」が公布される詳細
1949年(昭和24)ジョゼフ・ドッジが会見で「ドッジ声明」を発表し、日本の経済安定策(ドッジ・ライン)を示す詳細
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 今日は、鎌倉時代の1231年(寛喜3)に、第87代の天皇とされる四条天皇が生まれた日ですが、新暦では3月17日となります。
 四条天皇(しじょうてんのう)は、京都の一条室町邸において、後堀河天皇の第一皇子(母は藤原竴子)として生まれましたが、名は秀仁(みつひと)と言いました。同年4月11日に親王宣下され、10月28日には、後堀河天皇の皇太子に立てられます。
 1232年(貞永元)に鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まった時で、同年に数え年2歳で、第87代とされる天皇として即位し、九条教実が摂政となり、父・後堀河上皇が院政を敷きました。1233年(天福元)に母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなり、翌年には父・後堀河上皇も亡くなります。
 1235年(文暦2)に外祖父の九条道家が摂政となり、その舅の西園寺公経と共に、事実上の政務を行うこととなりました。1237年(嘉禎3)に近衛兼経が摂政となりましたが、1241年(仁治2に)に天皇が元服すると、近衛兼経が太政大臣となります。
 同年に、九条彦子(九条道家の孫娘)を女御としたものの、1242年(仁治3年1月9日)に、京都において、数え年12歳で亡くなり、陵墓は京都の月輪陵(京都市東山区今熊野)とされました。

〇四条天皇関係略年表

・1231年(寛喜3年2月12日) 京都の一条室町邸において、後堀河天皇の第一皇子(母は藤原竴子)として生まれる
・1231年(寛喜3年4月11日) 親王宣下される
・1231年(寛喜3年10月28日) 後堀河天皇の皇太子に立てられる
・1232年(貞永元年8月10日) 鎌倉幕府により「御成敗式目」が制定され、朝廷監視が強まる
・1232年(貞永元年10月4日) 2歳の時、父・後堀河天皇の譲位に伴って践祚、九条教実が摂政となる
・1232年(貞永元年12月5日) 第87代とされる天皇として即位したが、父・後堀河上皇が院政を敷く
・1233年(天福元年9月18日) 母の藤原竴子(藻璧門院)が亡くなる
・1234年(天福2年8月6日) 父・後堀河上皇が亡くなる
・1235年(文暦2年3月28日) 九条道家が摂政となる
・1237年(嘉禎3年) 近衛兼経が摂政となる
・1241年(仁治2年1月5日) 元服し、近衛兼経が太政大臣となる
・1241年(仁治2年12月13日) 九条彦子を納れて女御とする
・1242年(仁治3年1月9日) 京都において、数え年12歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、蒙古の使者が来朝し、大宰府の鎮西奉行・少弐資能が「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」と「高麗国王書状」、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取った日ですが、新暦では1月17日となります。
 蒙古国牒状(もうここくちょうじょう)は、鎌倉時代の1274年(文永11年/至元11年10月)の元寇(文永の役)に先立つ、1266年(文永3年/至元3年8月)の日付のモンゴル皇帝フビライから日本に対して送られた、通好を求める国書(日本側は牒状と呼ぶ)でした。1266年(文永3年/至元3年)に、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団に国書を持たせて日本へ派遣したのですが、朝鮮半島の南端まで来て、対馬海峡の海の荒れ方を見せて航海が危険であるとして、帰国してしまいます。
 しかし、皇帝フビライは納得せず、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、1268年(文永5年/至元5年1月)に、高麗使節団が大宰府に到着しました。この時、大宰府の鎮西奉行・少弐資能は国書と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達します。
 その文面は、中国側の史料の『元史』「外夷伝日本伝」至元三年八月条と日本側の史料の『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)によって、伝えられてきました。『元史』載録の国書には、『東大寺尊勝院臓本』の「蒙古國牒状」と違い、冒頭の「上天眷命」および結びの「不宣」は記録されていないなどの相違が見られますが、内容は同じで、両文とも至元3年8月に発令されたことも一致しています。これに対して、日本側は返牒をしないという態度をとりました。
 以下に、「蒙古国牒状」のことを記した『東大寺尊勝院臓本』と『元史』「外夷伝日本伝」、及び「高麗国王書状」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『東大寺尊勝院臓本』

<原文>

上天眷命大蒙古國皇帝奉書日本國王、朕惟自古小國之君境土相接、尚務講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣
   至元三年八月 日

<読み下し文> 
 
上天[1]眷命[2]、大蒙古国皇帝[3]、書を日本国王に奉る。朕[4]惟ふに、古より小国の君境土相接すれば、尚ほ講信修睦[5]に務む、況んや我が祖宗、天の明命[6]を受け、区夏[7]を奄有[8]す。遐方[9]異域、威を畏れ徳に懐く者、悉く数うべからず。朕[4]即位の初め、高麗の无辜[10]の民が久しく鋒鏑[11]に疲るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆域[12]を還し、その旄倪[13]を反す。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣。またすでに之を知らん。高麗は朕[4]の東藩[14]なり。日本は高麗に密迩[15]し、開国以来、また時に中国に通ぜり。朕[4]が躬に至りては、一乗[16]の使も以って和好を通ずること無し。尚ほ王の国之を知ること未だ審[17]ならざるを恐る。故に特に使を遣はし書を持して朕[4]の志を布告せしむ。冀くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且つ聖人は四海[18]を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理[19]ならんや。兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。王其れ之を図れ。不宣[20]
  至元三年八月 日

【注釈】

[1]上天:しょうてん=天帝。造物主。
[2]眷命:けんめい=慈しみ思う。
[3]大蒙古国皇帝:だいもうここくこうてい=皇帝フビライのこと。
[4]朕:ちん=皇帝フビライの自称。
[5]修睦:しゅうぼく=よしみを修める、国と国とのよしみを通ずる。音信を交わし合い仲良くする。
[6]明命:めいめい=帝王となるべき天の命令。
[7]区夏:くか=天下。中国全土。
[8]奄有:えんゆう=すべての土地の所有者となる。土地を悉く有して主となること。
[9]遐方:かほう=遠方。
[10]无辜:むこ=罪がない。無辜である。
[11]鋒鏑:ほうてき=ほこさきとやじり。転じて、武器。兵器。戦争。戦乱。
[12]疆域:きょういき=土地の境目。境界。また、境界内の地。領域。国の範囲。
[13]旄倪:ぼうげい=老人と小児。
[14]東藩:とうはん=かきね。塀。東方の従属国。
[15]密迩:みつじ=まぢかに接する。
[16]一乘:いちじょう=車一両。馬四匹。
[17]審:つまびらか=物事を詳しく調べて明らかにする。はっきりとよしあしを見分ける。
[18]四海:しかい=四方の海の内。天下。
[19]理:ことわり=すじみち。道理。
[20]不宣:ふせん=述べ尽くしていないの意味で、友人間の手紙の末尾に使う語。

<現代語訳>

天帝が慈しみ思う、大蒙古国皇帝(フビライ)は、書を日本国王に送る。私(フビライ)が考えるに、昔から小国の王は国境を接していれば、久しく交信して国と国とのよしみを通ずことに務めてきた、まして私の先祖は、天の命令を受け、天下を領有している。遠方や異国でも、威勢を畏れ、徳に従う者が、数え切れないほどだ。私(フビライ)が即位した初めは、高麗の罪のない民が久しく戦乱に疲れていたので、すぐに兵を止めさせ、その領域を還し、その老人と小児を返した。高麗の君臣は、ありがたくおしいただいて使者を派遣してきた。道理では君臣の関係といっても、よしみとしては父子のようでもある。おもんばかれば王の君臣もまたすでにこれを知っているではあろう。高麗は私(フビライ)の東方の従属国であるが、日本は高麗に間近に接し、建国以来、時には中国とも通交してきた。私(フビライ)の治世になってからは、一度も使者を派遣して友好を通じたことがない。久しく王の国がこれを知ることがいまだに無理解であることを恐れている。従って特に使者派遣し書簡を持たせて、私(フビライ)の意向を告げ知らせる。願わくば今から後は、お互いに使者を交わし、友好を結び、もって親睦を結ぼうではないか。また、聖人は四方の海の内を一家とするものである。互いに親交を結ばないでは、どうして一家の道理にかなうであろうか。兵力を用いるに至るのは、誰が好むものであろうか。王はそのことをよく考えなさい。不宣。
  至元3年(1266年)8月 日

  東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』より

〇『元史』「外夷伝日本伝」より

元世祖之至元二年、以高麗人趙彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的、給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。書曰:
大蒙古國皇帝、奉書日本國王。朕惟、自古小國之君、境土相接、尚務講信修睦。況我祖宗、受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷德者、不可悉數。朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其疆域、反其旄倪。高麗君臣、感戴來朝。義雖君臣、歡若父子。計王之君臣亦已知之。高麗朕之東藩也。日本密邇高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好。尚恐王國知之未審。故特遣使持書、布告朕志。冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家。不相通好、豈一家之理哉。以至用兵、夫孰所好。王其圖之。

<読み下し文> 

元の世祖の至元二年、高麗人趙彝等、日本国通すべしと言うを以って、奉使すべき者を擇ぶ。
三年八月、兵部侍郎黑的に命じ、虎符を給して、国信使に充て、禮部侍郎殷弘に金符を給して、国信副使に充て、国書を持して日本へ使せしむ。書に曰く、「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕惟ふに、古より小国の君境土相接すれば、尚ほ講信修睦に務む、況んや我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有す。遐方異域、威を畏れ徳に懐く者、悉く数うべからず。朕即位の初め、高麗の无辜の民が久しく鋒鏑に疲るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣。またすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密迩し、開国以来、また時に中国に通ぜり。朕が躬に至りては、一乗の使も以って和好を通ずること無し。尚ほ王の国之を知ること未だ審ならざるを恐る。故に特に使を遣はし書を持して朕の志を布告せしむ。冀くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且つ聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理ならんや。兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。王其れ之を図れ。」と。

<現代語訳>

元の世祖の至元二年(1265年)、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、元の世祖・フビライに日本国との通交を勧めたのに従って、使者として遣わすべき者を選ぶ。
至元3年(1266年)8月、兵部侍郎黑的に命じ、信任状を与えて、国信使に任命し、禮部侍郎殷弘に金符を与えて、国信副使に任命し、国書を持たせて日本へ遣わした。国書でいうことには、「大蒙古国皇帝(フビライ)は、書を日本国王に送る。私(フビライ)が考えるに、昔から小国の王は国境を接していれば、久しく交信して国と国とのよしみを通ずことに務めてきた、まして私の先祖は、天の命令を受け、天下を領有している。遠方や異国でも、威勢を畏れ、徳に従う者が、数え切れないほどだ。私(フビライ)が即位した初めは、高麗の罪のない民が久しく戦乱に疲れていたので、すぐに兵を止めさせ、その領域を還し、その老人と小児を返した。高麗の君臣は、ありがたくおしいただいて使者を派遣してきた。道理では君臣の関係といっても、よしみとしては父子のようでもある。おもんばかれば王の君臣もまたすでにこれを知っているではあろう。高麗は私(フビライ)の東方の従属国であるが、日本は高麗に間近に接し、建国以来、時には中国とも通交してきた。私(フビライ)の治世になってからは、一度も使者を派遣して友好を通じたことがない。久しく王の国がこれを知ることがいまだに無理解であることを恐れている。従って特に使者派遣し書簡を持たせて、私(フビライ)の意向を告げ知らせる。願わくば今から後は、お互いに使者を交わし、友好を結び、もって親睦を結ぼうではないか。また、聖人は四方の海の内を一家とするものである。互いに親交を結ばないでは、どうして一家の道理にかなうであろうか。兵力を用いるに至るのは、誰が好むものであろうか。王はそのことをよく考えなさい。」と。

〇「高麗国王書状」

高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。

  『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

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