ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 鎌倉時代

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 今日は、鎌倉時代の1333年(元弘3)に、新田義貞が上野国で北條氏討伐の旗揚げをした日ですが、新暦では6月20日となります。
 新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉幕府を滅亡させた御家人・武将です。鎌倉時代の1301年(正安3)に、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれましたが、小太郎とも言いました。
 1318年(文保2)に父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となります。1332年(正慶元/元弘2)に河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じましたが、護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国しました。
 翌年討幕の兵を挙げ、関東各地の反幕府勢力を糾合し、鎌倉街道を武蔵に進撃します。小手指原(現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、同年5月22日鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼしました。
 その功により、後醍醐天皇の建武新政では、越後守・上野介などや武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐(のちに左近衛中将)、従四位上の官位を得ます。やがて、足利尊氏と激しく対立するようになり、翌年の中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃しました。
 箱根竹ノ下の戦いには敗れたものの、その直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収めて、一時は尊氏を九州に敗走させます。しかし、1336年(延元元/建武3)に再起した尊氏に兵庫で敗れて、京都を占領されると、恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠ります。
 落城前に脱出して再挙をはかりますが、1338年(暦応元/延元3年閏7月2日)に、斯波高経との藤島の戦い(現在の福井県足羽郡藤島)において、数え年38歳で討ち死にしました。

〇新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>
・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1680年(延宝8)江戸幕府第4代将軍徳川家綱の命日(新暦6月4日)詳細
1904年(明治37)小樽明治37年「稲穂町の火事」で、2,481戸が焼失する詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
山形明治44年「市北の大火」で、1,340戸が全焼する詳細
1968年(昭和43)富山県神通川流域のイタイイタイ病が、政府によって認定された公害病の第1号となる詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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 今日は、鎌倉時代の1326年(嘉暦元)に、北條(赤橋)守時が、鎌倉幕府第15代執権に就任した日ですが、新暦では5月26日となります。
 執権(しっけん)は、元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになりました。
 時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となります。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握しました。
 連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きました。

〇北条守時(ほうじょう もりとき)とは?

 北条一族で六波羅探題北方だった北条(赤橋)久時の長男(母は北条宗頼の娘)として生まれますが、生年は1295年(永仁3年)とされるものの、はっきりしません。1307年(徳治2)に、13歳で従五位下左近衛将監に叙任されますが、父・久時が亡くなっています。
 1311年(応長元)に 引付衆就任を経ずに、幕府の評定衆となりました。1312年(正和元)に従五位上、1315年(正和4)に正五位下と昇叙し、1319年(元応元)には武蔵守となります。
 1326年(嘉暦元)に嘉暦の騒動が起き、北条一門に執権の引き受け手がいない中で、鎌倉幕府第16代執権となりましたが、実権は北条得宗家の北条高時(第14代執権)や内管領・長崎高資らに掌握されていました。同年に相模守に遷任され、1327年(嘉暦2)に従四位下、1331年(元弘元)に従四位上に昇叙します。
 しかし、1333年(元弘3)に配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵すると、討伐に向かった妹婿の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を滅ぼす事態となりました。同じ頃、関東で挙兵した新田義貞軍が鎌倉を攻撃し、守時は幕府軍を率いて、新田義貞軍の将、堀口貞満勢と鎌倉小袋坂で戦います。
 ところが、敗色濃厚となり、数え年39歳で自刃、子の益時も父に殉じて自害しました。その後の22日には、鎌倉幕府の滅亡となります。

☆北条(赤橋)守時関係略年表(日付は旧暦です)

・1295年(永仁3年)? 六波羅探題北方の北条(赤橋)久時の長男(母は北条宗頼の娘)として生まれる
・1307年(徳治2年11月1日) 従五位下左近衛将監に叙任される
・1307年(徳治2年11月28日) 父・久時が亡くなる
・1311年(応長元年6月5日) 幕府の評定衆となる
・1312年(正和元年12月30日) 従五位上に昇叙する
・1313年(正和2年7月26日) 一番引付頭人を兼帯する
・1315年(正和4年12月15日) 正五位下に昇叙し、讃岐守に転任する
・1317年(文保元年12月27日) 二番引付頭人に異動する
・1319年(元応元年2月18日) 武蔵守に転任する
・1319年(元応元年閏7月13日) 一番引付頭人に異動する
・1319年(元応元年) 妹の登子が足利高氏(のちの尊氏)の正室となる
・1326年(嘉暦元年3月) 嘉暦の騒動が起きる
・1326年(嘉暦元年4月24日) 鎌倉幕府第16代執権(最後の執権)となる 
・1326年(嘉暦元年8月) 相模守に遷任される
・1327年(嘉暦2年閏9月2日)、従四位下に昇叙する
・1331年(元弘元年1月5日) 従四位上に昇叙する
・1331年(元弘元年1月5日) 後醍醐天皇が笠置で2度目の挙兵をする(元弘の乱)
・1332年(元弘2年3月) 後醍醐天皇が挙兵に失敗し、隠岐の島へ配流される
・1333年(元弘3年閏2月24日) 後醍醐天皇が隠岐の島を脱出する
・1333年(元弘3年閏2月28日) 後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵する
・1333年(元弘3年4月29日) 足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻す
・1333年(元弘3年5月7日) 足利高氏(のちの尊氏)が六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3年5月) 新田義貞軍が鎌倉を攻撃する
・1333年(元弘3年5月18日) 鎌倉小袋坂の戦いで、数え年39歳で自刃する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1870年(明治3)明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令する(新暦5月24日)詳細
1875年(明治8)飛騨高山明治8年の大火で、死者1名、焼失1,032戸を出す詳細
1908年(明治41)農学者・教育家津田仙の命日詳細
1921年(大正10)日本初の女性による社会主義団体「赤瀾会」が発足する詳細
1934年(昭和9)目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催される詳細
1940年(昭和15)価格形成中央委員会で、日用必需品10品目に配給切符制導入が発表(6月1日以降順次実施)される詳細
1951年(昭和26)国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す詳細
1955年(昭和30)第1回アジア・アフリカ会議最終日、「アジア・アフリカ会議最終コミュニケ」が採択される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1246年(寛元4)に、鎌倉幕府執権・北條經時が重病の為、弟の北条時頼が第5代執権に就任した日ですが、新暦では4月10日となります。
 執権(しっけん)は、元々は、権力を握ることで、政務を執行する者という意味でしたが、鎌倉時代には、鎌倉幕府で将軍を補佐し、幕政を統轄した職名となります。幕府成立期には政所の別当大江広元のことを執権といっていましたが、3代将軍源実朝の時代には、北条時政も政所別当の地位について2人となり、時政の権力が勝ると共に、執権と称して幕府の実権を掌握するようになります。
 時政の後、北条義時がその地位を継承しますが、1213年(建保元)に侍所別当であった和田義盛を滅亡させ、政所と侍所の両別当を兼ねて幕政を統轄するようになり、事実上幕政の最高権力者となりました。これによって、将軍はまったく名目的な存在となり、以後北条氏が独占的に執権の地位を世襲し、権力を掌握します。
 連署、評定衆、引付衆らを率いて幕政を統轄し、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡まで続きました。

〇鎌倉幕府の歴代執権(北条家)一覧

【初代】時政(ときまさ)1203年~1205年(建仁3~元久2)
・1203年(建仁32) 源実朝が第3代将軍となる
・1205年(元久2) 藤原定家らが「新古今和歌集」を編さんする

【2代】義時(よしとき)1205年~1224年(元久2~貞応3)
・1219年(承久元) 鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏が3代で絶える
・このころ、「保元物語」、「平治物語」ができる
・1221年(承久3) 承久の乱が起きる
・1221年(承久3) 京都に六波羅探題をおく
・1224年(貞応3) 親鸞が浄土真宗を広める

【3代】泰時(やすとき)1224年~1242年(貞応3~仁治3)
・1225年(嘉禄元) 評定衆が設置される
・1227年(安貞元) 道元が宋より帰り、曹洞宗を伝える
・1232年(貞永元) 御成敗式目(貞永式目)がつくられる
・このころ、「平家物語」「小倉百人一首」「源平盛衰記」などが著される

【4代】経時(つねとき)1242年~1246年(仁治3~寛元4)

【5代】時頼(ときより)1246年~1256年(寛元4~康元元)
・1247年(宝治元) 宝治合戦が起きる
・1249年(建長元) 引付衆が設置される
・1252年(建長4) 鎌倉に大仏ができる
・1253年(建長5) 南宋より蘭渓道隆を招いて鎌倉に建長寺を建てる
・このころ、日蓮が法華経(日蓮宗)を広める

【6代】長時(ながとき)1256年~1264年(康元元~文永元)
・1260年(文応元) 日蓮が「立正安国論」を著す
・1261年(弘長元) 日蓮が伊豆に流される

【7代】政村(まさむら)1264年~1268年(文永元~文永5)

【8代】時宗(ときむね)1268年~1284年(文永5~弘安7)
・1268年(文永5) 元の使者を追い返す
・1274年(文永11) 第1回元寇(文永の役)が起きる
・1275年(文永12)  異国警固番役が設置される
・1279年(弘安2) 一遍が踊念仏を始める
・1281年(弘安4) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1282年(弘安5) このころ、阿仏尼が「十六夜日記」を著す

【9代】貞時(さだとき)1284年~1301年(弘安7~正安3)
・1285年(弘安8) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元) 鎮西探題が設置される
・1297年(永仁5) 幕府が徳政令を出し、御家人の困苦を救う(永仁の徳政令)

【10代】師時(もろとき)1301年~1311年(正安3~応長元)

【11代】宗宣(むねのぶ)1311年~1312年(応長元~応長2)

【12代】煕時(ひろとき)1312年~1315年(応長2~正和4)

【13代】基時(もととき)1315年~1316年(正和4~正和5)

【14代】高時(たかとき)1316年~1326年(正和5~正中3)
・1317年(文保元) 文保の和談が行われる
・1318年(文保2) 後醍醐天皇が即位する
・1324年(正中元) 正中の変が起きる

【15代】貞顕(さだあき)1326年(正中3)

【16代】守時(もりとき)1326年~1333年(正中3~元弘3)
・1331年(元弘元) 元弘の変が起きる
・1332年(元弘2) 後醍醐天皇が隠岐に流される
・1333年(元弘3) 鎌倉幕府が滅びる

☆北条時頼(ほうじょう ときより)とは?

 鎌倉幕府第5代執権です。鎌倉時代の1227年(安貞元年5月14日)に、鎌倉において、六波羅探題北方に任じられた父・北条時氏(鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男)の次男(母は安達景盛の娘)として生まれましたが、幼名は戒寿と言いました。
 1230年(寛喜2)に3歳で父が亡くなったため、祖父・北条泰時に養育されることになります。1237年(嘉禎3)に11歳で元服して、五郎時頼を名乗り、左兵衛少尉に任官しました。
 1243年(寛元元)に左近将監従五位下となり、1246年(寛元4)には兄経時の病気隠退のあとを受け、第5代執権に就任しました。その直後、同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放、翌年には、安達氏と協力して、光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼします(宝治合戦)。
 さらに、1252年(建長4)に第5代将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎える(親王将軍の始まり)など、北条氏の権力確立に努めました。1249年(建長元)に相模守となり、引付衆を置き裁判の迅速公平を図るなど、幕政の刷新を図ります。
 一方、1253年(建長5)には、13ヶ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど善政を敷いたとされてきました。また、禅宗にも深い関心を抱き、同年に宋僧蘭渓道隆を招いて、鎌倉に建長寺を建てています。
 1256年(康元元)に病により、家督を6歳の時宗に譲り、最明寺で出家、法名を覚了房道崇としたものの、出家後も幕政に参与しました。その後、諸国を回り民政を視察したという伝説が生じましたが、1263年(弘長3年11月22日)に、鎌倉の最明寺北亭において、数え年37歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1979年(昭和54)漫画家近藤日出造の命日詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
2013年(平成25)全国10種類の交通系ICカードで、交通系ICカード全国相互利用サービスが開始される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じた日ですが、新暦では4月10日となります。
 元寇(げんこう)は、鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

〇元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
・2月27日 鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じる

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1983年(昭和58)歴史学者・文学博士井上光貞の命日詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1207年(承元元)に、鎌倉幕府が、法然を土佐に、親鸞を佐渡に流し、専修念仏を禁止した日ですが、新暦では3月18日となります。
 専修念仏(せんしゅうねんぶつ)は、他の行をせず、極楽に往生するためにひたすら念仏を称えることです。主として、法然やその門流の宗教的立場を示す語で、法然流の念仏をさすことが多く、「南無阿弥陀仏」とただひたすらに念仏を唱えることとされてきました。
 鎌倉時代の1204年(元久元)に、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主に訴え、1205年(元久2)には、興福寺衆徒が八宗の人々とともに念仏の禁断を後鳥羽院に訴えています。1207年(建永2)には、諸宗の嫉視により、鎌倉幕府は、法然を土佐国、親鸞を佐渡国へ流罪としました。
 その後、法然は、1211年(建暦元)に許されて、吉水の禅房に帰ったものの、翌年1月25日に、京都において78歳で亡くなります。親鸞は、1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に帰らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努めました。

〇法然(ほうねん)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した僧侶で、浄土宗の開祖です。1133年(長承2年4月7日)に、美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)に、押領使の父・漆間時国、母・秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれましたが、本名は源空と言いました。
 稲岡荘の預所明石定明の夜襲を受けて父が亡くなり、菩提寺にいた叔父の観覚にひきとられて剃髪します。1147年(久安3)に比叡山に登り源光、皇円、叡空に師事し、天台および諸宗を学び、黒谷で法然房源空と称しました。
 1175年(安元元)に称名念仏に専念する立場を確立し、比叡山を下り、浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えますが、これが浄土宗開宗の年とされています。1186年(文治2)に、勝林院で浄土の法義を談論(大原問答)しました。
 信者の増加に伴って迫害され、1207年(建永2)に諸宗の嫉視により、土佐国への流罪となります。その後、許されて1211年(建暦元)に吉水の禅房に帰りましたが、翌1212年(建暦2年1月25日)に、京都において78歳で亡くなりました。

〇親鸞(しんらん)とは?

 鎌倉時代に活躍した僧侶・浄土真宗の開祖です。平安時代後期の1173年(承安3)4月1日に、京都の日野(現在の京都市伏見区日野)において、父・皇太后宮大進日野有範の長男として生まれましたが、幼名は松若磨(松若丸とも)と呼ばれました。
 幼時に母を失い、1181年(治承5)に数え年9歳で出家して、京都青蓮院に入り、慈円について得度し、範宴(はんえん)と号したとされます。その後、比叡山で堂僧として20年ほど天台宗などを学びましたが、安心が得られず、1201年(建仁元)には、源空(法然)の門にはいり、専修念仏(浄土教)に帰依しました。
 1207年(建永2)に旧仏教の讒訴によって、念仏停止の法難に遭い、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、現地の豪族の娘恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけたとされます。4年後の1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に帰らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努め、『教行信証』 (6巻) をまとめて、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説きました。
 数え年62,3歳の頃京都に戻り、著作活動に重きを置き、『三帖和讃』、『唯信鈔文意』などを著わします。また、門弟の指導にも注力し、門下に真仏・性信・唯円などを輩出しましたが、1262年(弘長2年11月28日)に、京都において、数え年90歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1796年(寛政8)稲村三伯らが、日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』(江戸ハルマ)を完成する(新暦3月26日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1929年(昭和4)写真家田沼武能の誕生日詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細
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