ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 鎌倉時代

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 今日は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、鎌倉幕府第8代執権北条時宗が、入貢を要求した元の使者5人を斬殺し、第2回元寇(弘安の役)の要因となった日ですが、新暦では9月27日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を鎌倉幕府第8代執権北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1751年(寛延4)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の命日(新暦10月25日)詳細
1816年(文化13)浮世絵師・戯作者山東京伝の命日(新暦10月27日)詳細
1858年(安政5)尊攘派の小浜藩士・梅田雲濱が京都で捕縛され、安政の大獄が始まる(新暦10月13日)詳細
1871年(明治4)「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」が出され、田畑勝手作許可がされる(新暦10月2日)詳細
1901年(明治34)清朝と日本を含む諸外国間で、義和団事件収拾のための最終議定書「北京議定書」に調印する詳細
1908年(明治41)建築家吉村順三の誕生日詳細
1939年(昭和14)小説家泉鏡花の命日(泉鏡花忌)詳細
1973年(昭和48)長沼ナイキ訴訟で、第1審の札幌地裁が「自衛隊は違憲」との初の判断を示す詳細
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 今日は、鎌倉時代の1281年(弘安4)に、翌日にかけて激しい風雨(台風)があり、第2回元寇(弘安の役)の蒙古軍が壊滅した日ですが、新暦では8月15日となります。
 弘安の役(こうあんのえき)は、鎌倉時代の1281年(弘安4)にあった、元寇の第2回目のことです。第1回目(文永の役)は、1274年(文永11)にあり、激戦の末に蒙古軍を撃退しました。
 しかし、その6年半後に第2回目(弘安の役)があり、再び対馬(現在の長崎県)への来襲に始まります。この時、蒙古軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸しましたが、日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死しました。
 また、5月26日に蒙古軍は壱岐に襲来、6月8日には志賀島にも上陸したものの、日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走します。さらに、6月14日に蒙古軍が長門に襲来、6月29日には、壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃、7月2日にも再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却しました。
 その後、7月27日に鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃、7月30日には、台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊します。そこで、閏7月5日に蒙古軍は撤退を決定、同月7日には鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅して、弘安の役が終わりました。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係の年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1958年(昭和33)冶金学者俵国一の命日詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)内閣が「人名用漢字追加表」を告示し、「人名用漢字別表」に28字を追加する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1195年(建久6)に、後鳥羽天皇・源頼朝・北条政子らの臨席のもとで、東大寺再建により、大仏殿の落慶法要が行われた日ですが、新暦では4月23日となります。
 東大寺(とうだいじ)は、奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
 特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
 以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇東大寺大仏関係略年表

・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年3月12日) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される

☆『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述

<原文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。

<読み下し文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽る。午以後雨頻りに降る。又地震。
今日東大寺供養也。雨師風伯[1]之降臨[2]、天衆地類[3]之影向[4]、其の瑞[5]揚焉[6]。
寅一點[7]、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、數万騎の壯士[8]を催し具し、寺の四面の近郭[9]を警固す。
日出以後、將軍家御參堂、御乘車[10]也。

【注釈】

[1]雨師風伯:うしふうはく=雨の神、風の神の意味。
[2]降臨:こうりん=天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。
[3]天衆地類:てんしゅじるい=天上界・地上界の神仏たち。天地の神仏。平家物語の巻第四「山門牒状」に「天衆地類も影向を垂れ」と出てくる。
[4]影向:ようごう=神仏の本体が一時応現すること。神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。神仏が来臨すること。また、姿を見せないで現われること。
[5]其の瑞:そのずい=その縁起の良い効験は、
[6]揚焉:けちえん=著しいさま。きわだっているさま。目だつさま。あきらか。
[7]寅一點:とらのいってん=寅は1時00分~3時00分で、その2時間を5等分したのが点。1時00分~1時24分を一点、1時24分~1都48分を二点、1時48分~2時12分を三点、2時12分~2時36分を四点、2時36分~3時00分を五点。
[8]壯士:そうし=意気の豪壮なる者。勇壮な男子。血気のさかんな男。
[9]近郭:きんかく=近くの外回り。
[10]御乘車:ごじょうしゃ=牛車に乗車すること。

<現代語訳>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝の内は、雨だったものの晴れた。しかし、午後はまた雨が激しく降った。また地震があった。
今日は、東大寺大仏殿の落慶法要の日だ。雨の神、風の神が地上に来臨し、天上界・地上界の神仏たちが、この世に現われ、その縁起の良い効験はあきらかだ。
寅の一点(1時00分~1時24分)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万騎の意気の豪壮なる者を指揮して、東大寺の四方の近くの外回りを警備している。
日の出以後に、将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ、牛車に乗って、参上した。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲で中心街が消失し、105,093人が罹災、死者519人人、負傷者734人を出す詳細
1946年(昭和21)日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の命日詳細
将棋棋士・十三世名人関根金次郎の命日詳細
1989年(平成元)建築家・建築構造学者武藤清の命日詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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 今日は、鎌倉時代の1308年(徳治3)に、第94代の天皇とされる後二條天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月10日となります。
 後二条天皇(ごにじょうてんのう)は、鎌倉時代の1285年(弘安8年2月2日)に、京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇(大覚寺統)の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれました。1286年(弘安9年10月)に親王宣下され、1298年(永仁6年)には、冷泉万里小路殿で元服、両統(持明院統・大覚寺統)迭立により、後伏見天皇の皇太子に立てられます。
 1300年(正安2年)に徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれました。1301年(正安3年)に鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位しましたが、父・後宇多院が院政を敷きます。
 1302年(正安4年)に五辻宗子を母として第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催しました。1303年(嘉元元年)に徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召します。
 1305年(嘉元3年)に自撰の御集『後二条院御集』を撰集しましたが、1308年(徳治3年8月25日)に、京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で急死し、墓所は北白河陵(現在の京都市左京区)とされました。尚、歌を能くし、宮中で歌合を何度か催し、新後撰集初出で、勅撰入集は、計百首に及んでいます。

<代表的な和歌>

・「人としていかでか世にもありふべき五(いつつ)の常のみちはなれては」(後二条院御百首)
・「ながき日をふりくらしたる春雨はさびしきことのかぎりなりけり」(後二条院御百首)
・「志賀の山風をさまれる春にあひて君が御幸を花も待ちけり」(新拾遺和歌集)
・「うづら鳴く野原の浅茅うちなびき夕露もろく秋風ぞふく」(新後撰和歌集)
・「白露のをかべの薄はつ尾花ほのかになびく時は来にけり」(続後拾遺和歌集)
・「もみぢ葉の深山にふかく散りしくは秋のかへりし道にやあるらん」(風雅和歌集)
・「恋しさの寝てや忘るると思へどもまた名残そふ夢の面影」(玉葉和歌集)

〇後二条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1285年(弘安8年2月2日) 京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれる
・1286年(弘安9年10月) 親王宣下される
・1298年(永仁6年) 冷泉万里小路殿で元服、両統迭立により後伏見天皇の皇太子に立てられる
・1300年(正安2年) 徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれる
・1301年(正安3年) 鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位するが、父・後宇多院が院政を敷く
・1302年(正安4年) 第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催す
・1303年(嘉元元年) 徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召す
・1305年(嘉元3年) 自撰の御集『後二条院御集』を撰集する
・1308年(徳治3年8月25日) 京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1498年(明応7)東海道沖で明応地震が起きる(新暦9月20日)詳細
1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1757年(宝暦7)柄井川柳が最初の川柳評万句合を行った日(川柳発祥の日)です(新暦10月7日)詳細
1907年(明治40)明治40年函館大火で、死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸の被害を出す詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1276年(建治2)に、鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に元寇防塁(石築地)を築かせるように指示した日ですが、新暦では3月26日となります。
 元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた防塁で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名でした。1274年(文永11)に、第1回元寇(文永の役)にあった鎌倉幕府は、翌年、少弐経資に命じて、3月10日に異国警護のために元寇防塁(石築地)の築造を指示し、8月に至ってほぼ完成したとされます。
 築造は、九州の地頭御家人だけでなく、公領や荘園にも平均に割り当てられ、鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなりました。総延長は約20kmに及んだとされ、1281年(弘安4)の第2回元寇(弘安の役)の際には、役に立ったということです。
 年代を経て風化が進み、地中に埋もれているところもありますが、今津地区(西区)、西新地区(早良区)、地行地区(中央区)、地蔵松原地区(東区)をはじめ、9地区に防塁が残されてきました。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ、1931年(昭和6)に国の史跡に指定、1981年(昭和56)に追加指定がなされています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)>
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1742年(寛保2)医者・俳人井上士朗の誕生日(新暦4月14日)詳細
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1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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