ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 明治時代

manshyuuzengojyouyaku01
 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、「日露講和条約(ポーツマス条約)」締結後のロシアの利権の引継ぎなどについて、日本と清国が「満洲善後条約」に調印した日です。
 「満洲善後条約」(まんしゅうぜんごじょうやく)は、明治時代後期の1905年(明治38)9月5日に締結された「日露講和条約(ポーツマス条約)」により、中国東北部(満州)のロシア利権が日本に譲渡されたことに対し、それを清国に承認させたもので、「北京条約」とも呼ばれますが、正式には、「日清間満州ニ関スル条約」といいます。中国の北京において、日本側は特派全権大使小村寿太郎(外務大臣)及び特派全権公使内田康哉と清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻及び瞿鴻禨・袁世凱の間で調印され、本文(全3条)と付属協定(12ヶ条)、付属取決(16項目)から構成されていました。
 この条約で、南満洲鉄道の吉林までの延伸と同鉄道を守備するための日本陸軍の常駐権と沿線鉱山の採掘権保障、安奉鉄道の使用権継続と両国共同事業化、営口・安東・奉天における日本人居留地の設置の許可、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などが盛り込まれ、その後の満洲経営の基礎となります。
 以下に、「満洲善後条約」の日本語版を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「満洲善後条約(日清間満州ニ関スル条約)・附属議定書」(北京条約) 1905年(明治38)12月22日調印、1906年(明治39)1月31日国内公布

日清間満州ニ関スル条約

前文

大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下ハ均シク明治三十八年九月五日即光緖三十一年八月七日調印セラレタル日露両国講和条約ヨリ生スル共同関係ノ事項ヲ協定セムコトヲ欲シ右ノ目的ヲ以テ条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為メニ大日本国皇帝陛下ハ特派全権大使外務大臣従三位勳一等男爵小村寿太郞及特命全権公使従四位勳二等內田康哉ヲ大清国皇帝陛下ハ欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務和碩慶親王欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣瞿鴻禨及欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督袁世凱ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ其ノ良好妥当ナルヲ認メ以テ左ノ条項ヲ協議決定セリ

  第一条

日露講和条約第五条及第六条ニ依ル讓渡ノ承認

清国政府ハ露国カ日露講和条約第五条及第六条ニヨリ日本国ニ対シテ為シタル一切ノ讓渡ヲ承諾ス

  第二条

清露条約規定ノ遵行

日本国政府ハ清露両国間ニ締結セラレタル租借地並鉄道敷設ニ関スル原条約ニ照シ努メテ遵行スへキコトヲ承諾ス将来何等案件ノ生シタル場合ニハ隨時清国政府ト協議ノ上之ヲ定ムヘシ

  第三条

効力発生及批准書交換

本条約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下ニ於テ之ヲ批准セラルヘシ該批准書ハ本条約調印ノ日ヨリ二箇月以內ニ成ルヘク速ニ北京ニ於テ之ヲ交換スヘシ

本文

右証拠トシテ両国全権委員ハ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本条約ニ署名調印スルモノナリ
明治三十八年十二月二十二日即光緖三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
   大日本帝国特派全権大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村寿太郞(記名)印
   大日本帝国特命全権公使從四位勳二等 內田康哉(記名)印
   大清国欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務 慶親王(記名)印
   大清国欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣 瞿鴻禨(記名)印
   大清国欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督 袁世凱(記名)印

附属協定

  明治三八年(一九〇五年)一二月二二日北京ニ於テ調印
  明治三九年(一九〇六年)一月九日批准
  明治三九年(一九〇六年)一月二三日北京ニ於テ批准書交換
  明治三九年(一九〇六年)一月三一日公布

前文

日清両国政府ハ満州ニ於テ双方共ニ関係ヲ有スル他ノ事項ヲ決定シ以テ遵守ニ便ナラシムル為メ左ノ条項ヲ協定セリ

  第一条

開放スヘキ都市

清国政府ハ日露軍隊撤退ノ後成ルヘク速ニ外国人ノ居住及貿易ノ為メ自ラ進ミテ満州ニ於ケル左ノ都市ヲ開クへキコトヲ約ス
 盛京省 鳳凰城 遼陽 新民屯 鐵嶺 通江子 法庫門
 吉林省 長春(寛城子) 吉林 哈爾賓 寧古塔 琿春 三姓
 黑龍江省 齊齊哈爾 海拉爾 愛琿 滿洲里

  第二条

鉄道守備兵撤退ノ条件

清国政府ハ満州ニ於ケル日露両国軍隊兵ニ鉄道守備兵ノ成ルヘク速ニ撤退セラレムコトヲ切望スル旨ヲ言明シタルニ因リ日本国政府ハ清国政府ノ希望ニ応セムコトヲ欲シ若シ露国ニ於テ其ノ鉄道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ清露両国間ニ別ニ適当ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本国政府モ同樣ニ照弁スヘキコトヲ承諾ス若シ満州地方平靖ニ帰シ外国人ノ生命財產ヲ清国自ラ完全ニ保護シ得ルニ至リタル時ハ日本国モ亦露国ト同時ニ鉄道守備兵ヲ撤退スヘシ

  第三条

安寧秩序ヲ維持スル為ノ清国軍隊派遣

日本国政府ハ満州ニ於テ撤兵ヲ了シタル地方ハ直チニ之ヲ清国政府ニ通知スヘク清国政府ハ日露講和条約追加約款ニ規定セル撤兵期限內ト雖既ニ上記ノ如ク撤兵完了ノ通知ヲ得タル各地方ニハ自ラ其ノ安寧秩序ヲ維持スル為メ必要ノ軍隊ヲ派遣スルコトヲ得ルモノトス日本国軍隊ノ未タ撤退セサル地方ニ於テ若シ土匪ノ村落ヲ擾害スルコトアル時ハ清国地方官モ亦相当ノ兵隊ヲ派遣シ之ヲ勦捕スルコト得但シ日本国軍隊駐屯地界ヨリ二十清里以內ニ進入スルコト得サルモノトス

  第四条

收容公私財產ノ還附

日本国政府ハ軍事上ノ必要ニヨリ満州ニ於テ占領又ハ收用セル清国公私財産ハ撤兵ノ際悉ク清国官民ニ還附シ又不用ニ帰スルモノハ撤兵前卜雖之ヲ還附スルコトヲ承諾ス

  第五条

日本軍戦死者ノ墳墓等ノ保護

清国政府ハ満州ニ於ケル日本軍戦死者ノ墳墓及忠魂碑所在地ヲ完全ニ保護スル為メ総テ必要ノ処置ヲ執ルヘキコトヲ約ス

  第六条

安泰線ノ改築及清国軍隊等ノ取扱

清国政府ハ安東縣奉天間ニ敷設セル軍用鉄道ヲ日本国政府ニ於テ各国商工業ノ貨物運搬用ニ改メ引続キ経営スルコトヲ承諾ス該鉄道ハ改良工事完成ノ日ヨリ起算シ(但シ軍隊送還ノ為メ遅延スへキ期間十二箇月ヲ除キ二箇年ヲ以テ改良工事完成ノ期限トス)十五箇年ヲ以テ期限ト為シ即光緖四十九年ニ至リテ止ム右期限ニ至ラハ双方ニ於テ他国ノ評価人一名ヲ選ミ該鉄道ノ各物件ヲ評價セシメテ清国ニ売渡スヘシ其ノ売渡前ニ在リテ清国政府ノ軍隊並兵器糧食ヲ輸送スル場合ニハ東清鉄道条約ニ準拠シテ取扱フヘク又該鉄道改良ノ方法ニ至テハ日本国ノ経営担当者ニ於テ清国ヨリ特派スル委員ト切実ニ商議スヘキモノトス該鉄道ニ関スル事務ハ東清鉄道条約ニ準シ清国政府ヨリ委員ヲ派シ査察経理セシムヘク又該鉄道ニ由リ清国公私貨物ヲ運搬スル運賃ニ関シテハ別ニ詳細ナル規程ヲ設クヘキモノトス

  第七条

鉄道接続業務ニ関スル別約

日清両国政府ハ交通及運輸ヲ増進シ且之ヲ便易ナラシムルノ目的ヲ以テ南満州鉄道ト清国各鉄道トノ接続業務ヲ規定セムカ為メ成ルヘク速ニ別約ヲ締結スヘシ

  第八条

南満州鉄道用材料ニ對スル免税

清国政府ハ南満州鉄道ニ要スル諸般ノ材料ニ対シ各種ノ税金及釐金ヲ免スヘキコトヲ承諾ス

  第九条

日本居留地画定方法

盛京省內ニ於テ既ニ通商場ヲ開設シタル営口及通商場トナスヘク約定シアルモ未タ開カレサル安東県並奉天府各地方ニ於テ日本居留地ヲ画定スル方法ハ日清両国官吏ニ於テ別ニ協議決定スヘシ

  第十条

日清合同材木会社ノ設立

清国政府ハ日清合同材木会社ヲ設立シ鴨綠江右岸地方ニ於テ森林截伐ニ従事スルコト其ノ地区ノ広狭年限ノ長短及会社設立ノ方法並合同経営ニ関スル一切ノ章程ハ別ニ詳細ナル約束ヲ取極ムヘキコトヲ承諾ス日清両国株主ノ利権ハ均等分配ヲ期スヘシ

  第十一条

満韓国境貿易ニ関スル最惠国待遇

満韓国境貿易ニ関シテハ相互ニ最惠国ノ待遇ヲ与フヘキモノトス

  第十二条

一切ノ規定ニ関スル最優待遇

日清両国政府ハ本日調印シタル条約及附属協約ノ各条ニ記載セル一切ノ事項ニ関シ相互ニ最優ノ待遇ヲ与フルコトヲ承諾ス

効力

本協約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且本日調印ノ条約批准セラレタル時ハ本協約モ亦同時ニ批准セラレタルモノト看做スヘシ

本文

右証拠トシテ下名ハ各其本国政府ヨリ相当ノ委任ヲ受ケ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本協約ニ記名調印スルモノナリ

明治三十八年十二月二十二日即光緖三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
   大日本帝国特派全権大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村寿太郞(記名)印
   大日本帝国特命全権公使從四位勳二等 內田康哉(記名)印
   大淸国欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務 慶親王(記名)印
   大淸国欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣 瞿鴻禨(記名)印
   大淸国欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督 袁世凱(記名)印

満州ニ関スル条約議事録中ニ記載セラレタル合意及声明

明治三八年(一九〇五年)一一月二三日‐一二月八日北京ニ於テ
昭和七年(一九三二年)一月一四日公表

明治三十八年満州ニ関スル条約及同上附屬協定締結ノ際我方ヨリ一定ノ約束事項ヲ条約文中ニ挿入セムコトヲ主張シタル拠清国側ニ於テ対内関係上之ヲ条約文トシテ公ニスルコトヲ困難トスル事情アリタルニ依リ日清両国全権委員ノ記名調印セル日清両国文ノ会議録中ニ記入スルニ止メ之ヲ公表セサリシモノ合計十六箇条アリ尚右会議録所載ノ取極十六箇条ノ要領英訳文ハ明治三十九年二月帝国政府ヨリ英米両国政府ニ対シ極祕トシテ內報セリ然ルニ坊間本件会議録所載ノ取極十六箇条ノ存否等ニ付種々誤解ヲ抱クモノアルヤニ認メラルルノミナラス従来支那要人等ニシテ明ニ之ヲ否定セルモノ尠ナカラス又最近支那新聞ハ支那外交当局ニ於テ正式ニ本件会議録ノ存在ヲ否認セル旨報シ居ル関係モアルニ付茲ニ右十六箇条日本文支那文及前記英米両国政府ニ内報セラレタル要領英訳文ヲ公表スルモノナリ

吉長鉄道借款

一、長春吉林間鉄道ハ清国自ラ資金ヲ調ヘテ築造スヘク不足ノ額ハ日本国ヨリ借入ルコトヲ承諾ス其金額ハ資金ノ約半額ナリトス借款弁法ハ時ニ及テ清国山海関內外鉄道局ト清英組合トノ借款契約ニ仿照シテ参酌商訂スヘク二十五箇年ヲ以テ年賦完済ノ期ト為ス

吉林地方ニ於テ鉄道敷設權ヲ別国人ニ付与スルコトナシ

清国政府ハ吉林地方ニ於テ別国人ニ鉄道敷設権ヲ与へ若クハ別国人ト共同シテ鉄道ヲ敷設スルコトハ断シテ之ナシ

新奉鉄道ノ売渡及借款

二、奉天府新民屯間ニ日本国ノ敷設セル軍用鉄道ハ両国政府ヨリ委員ヲ派遣シ公平ニ代價ヲ協議シテ清国ニ売渡スヘシ清国ハ之ヲ改築シテ自営鉄道ト為シ遼河以東ニ要スル資金ハ日本ノ会社ヨリ其半額ヲ借入レ十八箇年ヲ以テ年賦完済ノ期ト為シ其借款弁法ハ清国山海関關內外鉄道局ト清英組合トノ借款契約ニ仿照シ参酌商訂スヘキコトヲ承諾ス此他各地ニ於ケル軍用鉄道ハ撤兵ノ際総テ取除クヘキモノトス

満鉄鐵併行線ノ建設ヲ禁ズ

三、清国政府ハ南滿洲鉄道ノ利益ヲ保護スルノ目的ヲ以テ該鉄道ヲ未タ回収セサル以前ニ於テハ該鉄道附近ニ之ト併行スル幹線又ハ該鉄道ノ利益ヲ害スヘキ支線ヲ敷設セサルコトヲ承諾ス

北満鉄道ニ対スル措置

四、清国ハ満州北部ニ於テ露国カ引続キ所有スル鉄道ニ関シ露国ヲシテ清露条約ニ照シ努メテ遵行セシムルタメ充分ノ措置ヲ執リ若シ露国ニシテ上約ニ違反セル行動ヲナサハ清国ヨリ露国ニ厳重ニ照会シテ之ヲ匡サシムヘキ精神ナルコトヲ声明ス

日露接続業務規定商議ニ対スル清国ノ参与

五、将来日露両国ニ於テ接続鉄道業務規定ノ為商議スル時機ニ至ラハ日本国ハ予メ之ヲ清国ニ通知スヘシ清国ハ其時機ニ至リ委員ヲ派遣シテ該商議ニ加ハラント欲スルノ意ヲ露国ニ通牒ノ上同時ニ該商議ニ参与スヘシ

奉天省鉱物採掘章程

六、鉄道ニ附属スル奉天省內ノ鉱物ハ既ニ採掘ニ着手シタルト否トニ拘ハラス公平且詳細ノ章程ヲ取極メ以テ相互遵守ニ便ナラシムヘシ

奉天省陸上電信線及旅順烟台海底線接続事務

七、奉天省內テ於ケル陸上電信線及旅順烟台間海底電信線ニ関スル接続交涉事務ハ隨時必要ニ従ヒ両国協議シテ処置スヘシ

開市場設立規則制定ハ帝国公使ノ承諾ヲ要ス

八、開市場設立ニ関スル規則ハ清国ニ於テ自カラ定ムヘシ但シ北京駐在日本公使ト協議スルヲ要ス

松花江航行権

九、松花江航行ノ件ニ関シ露国ニ於テ異議ナキトキハ清国ニ於テモ之ヲ商議ノ上承諾スヘキコト

満州ニ於ケル治安ノ維持及內外臣民保護ノ声明

十、清国全権委員ハ満州ヨリ日露両国撤兵ノ後直ニ進ンテ該地方ニ於テ其主権ニヨリ完全ナル経営ヲ為シ以テ治安ヲ期シ且其主権ニヨリ同地方ニ於テ利ヲ興シ弊ヲ除キ着実ニ整頓ヲ行ヒ内外臣民ヲシテ生活及営業ノ安全ヲ得テ等シク清国政府ヨリ完全ノ保護ヲ享ケシムヘキコトヲ声明ス其整頓ノ方法ニ就テハ総テ清国政府自ラ適宜ノ措置ヲ行フヘキモノトス

在奉天省帝国臣民ノ取締

十一、清国ト日本国トハ素ヨリ友誼敦厚ナリ今囘日両国不幸ニシテ和ヲ失シ清国領土ニ於テ交戦スルニ至リタルモ今ヤ既ニ平和成立シ満州ニ於テハ戦争ナキニ至レリ而シテ撤退以前ノ日本軍隊ハ依然占領ノ権アリト雖近来日本国臣民カ満州ニ在リテ時々清国地方官ノ行政ニ干預シ又ハ清国公私財產ヲ毀損スルコトアル旨ヲ清国政府ニ於テ声明ス日本国全権委員モ亦若シ果シテ軍事必要以外ニ於テ此ノ如キコトアラハ至当ノ行為ニアラスト認ムルヲ以テ此ノ声明ノ意思ヲ日本国政府ニ伝達シテ速ニ相当ノ処置ヲ執リ奉天省ニ在ル日本国臣民ヲ取締リ益々交誼ヲ敦クシ軍事必要以外ニ於テ再ヒ清国ノ行政ニ干預シ又ハ公私ノ財產ヲ毀損スルコトナカラシムヘキ旨ヲ声明ス

清国公私財產ノ破壞又ハ使用ニ対スル帝国臣民ノ義務

十二、軍事用以外ニ於テ日本国臣民カ故意ニ破壞シ若クハ使用セル清国公私ノ各種財產ニ対シテハ両国政府ニ於テ夫レ々調査ノ上公平ニ償還セシムヘシ

清国地方官ノ土匪討伐ニ対スル措置

十三、清国地方官未タ日本軍隊ノ撤兵ヲ了セサル地方ニ於テ兵ヲ派シ土匪ヲ討伐スルトキハ必ス予メ其地方駐在日本軍司令官ト協議シ以テ誤解ヲ免レシムヘシ

鉄道守備隊ニ関スル声明

十四、日本国全權委員ハ長春ヨリ旅順大連租借地境界ニ至ル鉄道守備兵ハ其撤退以前ニ在リテ漫ニ清国地方行政権ニ牽礙セス又擅ニ鉄道区域外ニ出テサルヘキコトヲ声明ス

清国地方官ノ営口赴任及執務

十五、営口ニ駐在スヘキ清国地方官ハ日本軍隊該地撤退以前ト雖モ本条約確定ノ後北京駐在日本国公使清国外務部ト協議シテ可成速ニ赴任ノ期日ヲ定メ該地ニ赴キ事務ヲ執ラシムヘシ該地ニハ尚多数ノ日本軍隊アルヲ以テ検疫及防疫規則ヲ両国ニ於テ協議制定シ以テ疫病ノ伝染ヲ免レシムヘシ{「事務ヲ執ラシムヘシ・・・日本軍隊アルヲ」の行の上に「衞生事務」とあり}

営口海関收入等ノ交付

十六、営口海関收入ハ正金銀行ニ保管シ置キ撤兵ノ時清国地方官ニ交付スルコト営口常関收入及其他各地ノ收税ハ凡テ地方公共ノ費用ニ充テラルルモノニシテ撤兵ノ時其收支計算表ヲ清国地方官ニ交付スルコト

明治三八年(一九〇五年) 一一月二三日‐ 北京ニ於テ
一二月八日

  「條約彙纂、第一卷改訂版」外務省條約局編

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1572年(元亀3)三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破る(新暦1573年1月25日)詳細
1891年(明治22)第2回帝国議会で、樺山資紀の蛮勇演説が行われる詳細
1902年(明治35)「年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を出す詳細
1941年(昭和16)東条英機内閣が、「逓信緊急政策要綱」を閣議決定する詳細
1945年(昭和20)「労働組合法」が制定される詳細
1973年(昭和48)「国民生活安定緊急措置法」(昭和48年法律第121号)が公布・施行される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nishimuraseibou01
 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、彫刻家北村西望の生まれた日です。
 北村西望(きたむら せいぼう)は、明治時代前期の1884年(明治17)12月16日に、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれましたが、本名は「にしも」と読みます。。1900年(明治33)に、有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)されましたが、1901年(明治34)に母校の白木野小学校に転じて、代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめ、1902年(明治35)に、長崎師範学校に入学したものの、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養します。
 1903年(明治36)に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学しましたが、1907年(明治40)に卒業後、上京して東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。在学中の1908年(明治41)に第2回文展への出品作「憤闘」が初入選し、以来毎年出品するようになりました。
 1912年(明治45)に東京美術学校を首席で卒業、1915年(大正4)に第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められます。1916年(大正5)の第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成、翌年の第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめるようになりました。
 1919年(大正8)の第1回帝展以降審査員を務め、曠原社を結成、1921年(大正10)に東京美術学校塑造部教授となり、1922年(大正11)には、彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設します。1925年(大正14)に帝国美術院会員となり、1931年(昭和6)には、京都市立美術工芸学校教諭となりました。
 1944年(昭和19)の敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行ないます。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本芸術院会員、1949年(昭和24)に日展理事となり、1953年(昭和28)には、東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設しました。
 1955年(昭和30)に5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品し、1958年(昭和33)には、文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となります。1962年(昭和37)に武蔵野市名誉市民、日本彫塑会名誉会長となり、1969年(昭和44)に紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任、1972年(昭和47)には、島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設されました。
 1980年(昭和55)に東京都名誉都民、1981年(昭和56)に東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となったものの、1987年(昭和62)3月4日に、東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなっています。

〇北村西望の主要な作品

<彫刻>
・「憤闘」(1908年)第2回文展入選
・「怒濤」(1915年)第9回文展二等賞
・「晩鐘」(1916年)第10回文展特選 東京国立近代美術館蔵
・「燈臺」(1931年)東京銀座・数寄屋橋公園
・巨像「長崎平和祈念像」(1955年)長崎平和公園

<著作>
・『百歳のかたつむり』

☆北村西望関係略年表

・1884年(明治17)12月16日 長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれる
・1892年(明治25) 白木野尋常小学校に入学する
・1896年(明治29) 有馬尋常高等小学校に進む
・1900年(明治33) 有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)される
・1901年(明治34) 母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると
・1902年(明治35) 長崎師範学校に入学したが、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養する
・1903年(明治36) 京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学する
・1907年(明治40) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する
・1908年(明治41) 第2回文展への出品作「憤闘」が初入選する
・1909年(明治42) 第3回文展で「雄風」が褒状を受賞する
・1911年(明治44) 第5回文展で「壮者」も褒状を受賞する
・1912年(明治45) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業する
・1915年(大正4) 第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められる
・1916年(大正5) 第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成する
・1917年(大正6) 第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめる
・1919年(大正8) 第1回帝展以降審査員を務め、曠原社(こうげんしゃ)を結成する
・1921年(大正10) 東京美術学校塑造部教授となる
・1922年(大正11) 彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設する
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となる
・1931年(昭和6) 京都市立美術工芸学校教諭となる
・1932年(昭和7) ロサンゼルスオリンピック芸術競技に「The Repose (Boxing)」を出品する
・1933年(昭和8) 2年前の1931年第12回帝展に出品した作品『燈臺』を震災記念碑として東京銀座・数寄屋橋公園に設置、東邦彫塑院顧問を務める
・1944年(昭和19) 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行なう
・1947年(昭和22) 日本芸術院会員となる
・1949年(昭和24) 日展理事となる
・1953年(昭和28) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設する
・1955年(昭和30) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となる
・1962年(昭和37) 武蔵野市名誉市民となり、日本彫塑会名誉会長となる
・1969年(昭和44) 紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任する
・1972年(昭和47) 島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設される
・1974年(昭和49) 日展名誉会長となる。
・1979年(昭和54) 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された
・1980年(昭和55) 東京都名誉都民となる
・1981年(昭和56) 東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となる
・1986年(昭和61) 12月より風邪を患い自宅静養となる
・1987年(昭和62)3月4日 東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始する(電話創業の日)詳細
1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1966年(昭和41)国際連合総会で「国際人権規約」が採択される詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
1988年(昭和63)洋画家小磯良平の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

Pannokai
 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、北原白秋、木下杢太郎らが青年文芸・美術家の懇談会「パンの会」を結成した日です。
 パンの会(ぱんのかい)は、明治時代末期に、反自然主義を掲げ、耽美的傾向の新しい芸術運動を起こした青年文芸・美術家の懇談会で、会の名称のパン(Pān)はギリシア神話の神の名からとっています。明治時代後期の1908年(明治41)12月12日に、新詩社を脱退して『スバル』に拠った木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らに、美術雑誌『方寸』に拠る山本鼎、石井柏亭、森田恒友らの青年画家を交えて結成されました。
 自然主義に反対し、美術と文学の交流の上にたった新しい文芸をめざし、月に数回、隅田河畔の西洋料理店に集まり、美と酒との饗宴を繰り広げます。機関誌として発行された『屋上庭園』(1909~10年)は発売禁止にあって2号で廃刊したものの、会自体は1912年(明治45)頃まで続きました。
 北原白秋の『東京景物詩』、木下杢太郎の『食後の唄』はこの会から生まれた、記念的作品です。会そのものは短命に終わりましたが、自然主義に対抗するロマン主義的な運動として文化史上にその名を残し、大正文学の一つの母体となりました。
 以下に、木下杢太郎著「パンの会の回想」を掲載しておきますのでご参照下さい。

〇木下杢太郎著「パンの会の回想」

 北原君。折角の御頼みだが、僕は十数年来の日記帳手帳の大半を東京の震災で失つたからパンの会の詳しいことはいま確実に思ひ出すことが出来なくなつた。それでも丁度明治四十二年と、四十三年との日記が残つてゐたから、そのうちに記されてゐる分だけを拾ひ出して見よう、尤も日記もあまりていねいには附けてないから脱けてゐるところが多い。
 四五年前まではあの時代を懐しいことに思ひ、時々回想したが、今はもうあまり時が隔つてしまひ、大して興味を感じない。
 何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
 是れと同時に浮世絵などを通じ、江戸趣味がしきりに我々の心を動かした。で畢竟パンの会は、江戸情調的異国情調的憧憬の産物であつたのである。
 当時カフエエらしい家を探すのには難儀した。東京のどこにもそんな家はなかつた。それで僕は或日曜一日東京中を歩いて(尤も下町でなるべくは大河が見えるやうな処といふのが註文であつた。河岸になければ、下町情調の濃厚なところで我慢しようといふのであつた。)とに角両国橋手前に一西洋料理屋を探した。最初の二三回はそこでしたが、その家があまり貧弱で、且つ少しも情趣のない家であつたから、早く倦きてしまつて、その後に探しあてたのは、小伝馬町の三州屋といふ西洋料理屋だつた。ここはきつすゐの下町情調の街区で古風な問屋が軒を並べてゐる処で、其家はまた幾分第一国立銀行時代の建築の面影を伝へてゐる西洋館であつたから、我々は大に気に入つた。おかみさんが江戸つ子で、或る大会の時には葭町の一流の芸者などを呼んでくれて、我々は美術学校に保存してある「長崎遊宴の図」を思ひ出して、喜んだものである。
 その後深川の永代橋際の永代亭が、大河の眺めがあるのでしばしば会場になつたのである。
 また遥か後になつて小網町に鴻の巣が出来「メエゾン、コオノス」と称して異国がつた。
 わかいと云ふものは好いもので、その頃は皆有頂天になり而もこの少し放逸な会合に、大に文化的意義などを附して得意がつたものである。
 次に日記にのつてゐるだけの会合を抜萃して見よう。

 明治四十二年(一九〇九)一月九日、土。パンの会があつた。どこか処は忘れた。その夜森博士邸に観潮楼歌会があつて、パンに出席した二三人の人がそこに行つた。
 夜になつて雪が降つた。
(その月の十三日には上野の精養軒で青揚会が開かれた。上田敏氏が何か演説せられたと見え、予の日記には「上田氏怪気焔」と書いてある。)
(予はその月の十八日に、手こずつてゐた南蛮寺門前がやつと出来上つた。それで急いでそれを美濃紙に清書して、夜森博士邸を訪ね博士に之を示すと、それを閲読したあとで博士がはははははと笑れた。)

 同年二月十三日、土。パンの会があつた。処は分らぬ。伊上凡骨の処で木板を習つてゐるルンプといふ独逸人を神田の安田旅館に尋ね、それを一緒につれて行つた。

 同年三月十三日、土。パンの会。多分両国のこちら側の何とかいふ西洋料理の二階だつたであらう。ルンプも出席した。又珍らしいことに荻原守衛も来会した。また遅くなつてから島村盛助も来た。
 此夜は遅くなつて皆で万世橋の近くの佐々木旅館といふのに宿泊した。倉田白羊が「京都の浅井忠先生の弟子たちで、先生の法事の帰りで遅くなつたからとめて下さい」と頼んで宿めて貰つた。予は今迄他家に宿泊したことがなかつたからこの一夜不安であつた。

 同年三月廿七日、土。パンの会。場処は不明。やはり同じ西洋料理であつたらう。「赤と緑の硝子より公園を見る」といふことが書いてあるから、或は誤かも知れない。石井柏亭の曰く「如何に巴里に於て遊楽するか」(何でも英語の本であつた)を東京で行らう。云々。たしかにさういふのがこの頃のパン会の気分であつた。
(この月の五日には観潮楼歌会があつて、佐々木博士、吉井、北原、與謝野、伊藤、古泉、斎藤、平野、上田、諸氏が集つた。この歌会の最も盛んであつた時である。)

 同年四月十日。深川永代橋畔永代亭でパンの大会を開く。此日には上田敏氏も上京中で出席せられ、皆で酒を強ひ是非巴里の歌を聴かせて下さいと云ひ、上田氏も余儀なく立つて何か短い仏蘭西語の歌一曲を歌はれた。また演説もされた。予は氏の口から南蛮寺に対する言葉を聞いて大に感激した。
 永井氏の「フランス物語」の話、湯浅氏の模写のベラスケスなどについてみんなが話しあつたと記録せられてゐる。
 この時のパンの有様は今もよく記憶に残つてゐるが、詳しく書くのはめんどくさい。なんでも予は女の首を三つ大きく描いたアフイシユを用意して行つて、入口のつき当りの衝立に貼つた。出口清三郎氏といふ画家が当日出席せられたやうに覚えてゐるが、今はどうしてゐられるか。
 この日パンの会を社会主義の会と誤認して刑事が二人来たといふ噂も立つて、今でも皆本当だと考へてゐる。たしかにそんな人二人がゐて隣の日本室で酒を飲んでゐたが、果して噂の通りであつたかどうかは疑はしい。
 このかへりに、酒に酔つた山本鼎と倉田白羊とが永代橋の欄干からアアチのてつぺんへ攀ぢ登りそこから河へ小便をしたりして皆をはらはらさせた。

 同年四月十日。パンの会。多分小人数の会であつたらう。
(同年五月二十一日。北原われわれの雑誌に「屋上庭園」といふ名を付ける。)

 パンの会も段々認められて来て同年十一月廿七日、土曜日の有楽座の自由劇場(多分ボルクマンの初演)のはねた後東洋軒で「渋谷村の連中、岩野氏、蒲原氏、島崎氏、」それにわれわれのパン会の一部とが、総勢廿五人ばかり、岩村氏の音頭にてシヤンパンを抜いたりなどした。

 明治四十三(一九一〇)年、二月七日。パンの会。山崎来り二人にてアフイシユをかく。予は異国情調にてかく。山崎は会には行かず。又パンの大提灯を作る。
 会場は三州屋。定連のほかには藤島氏、鈴木鼓村氏、與謝野氏、水野葉舟、安成、その他ずゐぶん大勢であつたが詳しく日記にしるされてゐない。

 同年二月廿七日、パン例会。集まるものは高村、石井、小山内、北原、吉井、長田の少人数であつた。
 此日屋上庭園の二号が発売禁止になつたといふ知らせを得る。

 同年十一月廿日。パン大会、三州屋。長田、柳、吉井、猿之助、南、高村、永井、山崎、谷崎、武者小路、小宮、島村、柏亭、青山、一平其他大勢。
 此会は黒わく事件といふので有名であつた。それは「長田秀雄君の入営を祝す」と大書したびらに黒わくを附けたのを高村君が持つて来て壁にかけた。萬朝報の記者が唯一人来て居た。誰も知人がなく相手にされなかつたものだから憤慨して、翌日の同新聞の論説欄にこの事を掲げてひどくこの会を攻撃したのである。
 パンの会も此時最高潮に達したのであつた。その後段々と衰へた。

(その時代の空気を示す為めに一寸追記する。十一月廿六日、神田青柳にて古書即売会。北斎絵本東遊、六円五十銭。吉原青楼年中行事、四十五円。駿河舞、五円。西鶴好色一代男、三冊、百円。元禄十六年板(?)松の葉、帙入美本、十四円。哥麿七変人、三枚百円。豊広浮絵、五円。
 見物一浮世絵を見ながら連れの人に曰ふのには「あの似顔なざあ、子供のおもちやになつてたのでさあねえ。」
黒田清輝のまだ盛に活飛した時代で、白馬会には其「荒苑斜陽」など出た。)

 明治四十四年(一九一一)にはパンの会は段々落寞なものになつてしまつた。
 二月の十二日には浅草のヨカロウで開き、そこのかみさんが演説などした。

 同年六月五日、月。神田の新しく出来た(都とか云つた)西洋料理屋でパンの会を催した。この日には内田魯庵氏も出席せられた。ドストウエフスキイの事、甎のことなどに就いて語られたと記されてある。小山内君がどこかで酔つて来て大元気であつた。生田、島村、喜熨斗、平出、萱野の諸氏が御定連でない出席であつた。黒田、島崎両氏からはしやんと断りの葉書が来た、この二人はいつもきちやうめんだと皆で話し合つた。
 萱野が内田氏をつかまへてオスカア・ワイルドのエツセイのことを論ずる調子はわきから見ると少しきざであつたなどと書かれてゐる。
 何とかいふ遊人風の人が入つて来て、知る人もないのに卓上演説を始めるといふやうなこともあつたらしい。
 当時日本に来てゐた独逸のグラアザア氏が、自分たちは出席は出来ないがと言つて百合の花籠を贈つてよこした。

 予はパンの会の為めにしばしば案内状の板下を作つた。それだの貴君や吉井の詩集の挿絵の板下など皆火事にやけてしまつたから、もし持つてゐるならくれ給へ。
 (一九二六、一二、二)

  「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まる(新暦12月30日)詳細
1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
1994年(平成6)小説家・歌人中河与一の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kairekinofukoku01
 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)により、翌日が太陽暦の1月1日となり、太陰暦での最後の日となった日ですが、新暦では12月31日となります。
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(たいいんれきをはいしてたいようれきをはんこうす)」(改暦ノ布告)は、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用することを定めた布告(明治5年太政官布告第337号)でした。それまでの太陰太陽暦は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月間の日付を決め、数年に1回閏月をおいて一年を13ヶ月として、太陽の運行による周期太陽年(回帰年)を考慮して季節を調節していく暦法(旧暦)でしたが、地球が太陽のまわりを一回転する時間を一年とする太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、一年を365日とし、また四年に一度閏年をおいて366日とするように改めたものです。
 この布告は、年も押し迫った時期に急遽公布され、一部に混乱をもたらしたとされるものの、明治新政府の官吏への報酬は月給制に移行していて、太陰太陽暦だと1年間に13回支給しなければならない年が翌年(明治6年)に当たり、当時の財政難の中で考慮されたとされてきました。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11ヶ月分で済ますことができています。
 尚、暦の販売権をもつ弘暦者は、従来の暦が返本され、また急遽新しい暦を作ることになって、甚大な損害をこうむることになりました。その中で、福澤諭吉は、太陽暦施行と同時の1873年(明治6)1月1日付けで慶應義塾蔵版の暦本「改暦辨」を刊行し、忽ち10万部が売れて大ヒットしています。
 以下に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太陰曆ヲ廢シ太陽曆ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告)1872年(明治5年11月9日)発布

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年太政官布告第337号)

今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事

(別紙)

詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ屬シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晚ノ變ナク四歲每ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ依テ自今舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ

  明治五年壬申十一月九日

    ○

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新曆鏤板出來次第頒布候事
 
一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事 
一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱候事 
一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事
 
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 

太陽曆 一年三百六十五日    閏年三百六十六日四年每ニ置之 
一 月 大 三十一日         其一日 卽舊曆 壬申 十二月三日 
二 月 小 二十八日閏年二十九日  其一日 同 癸酉 正月四日 
三 月 大 三十一日         其一日 同   二月三日 
四 月 小 三十日           其一日 同   三月五日 
五 月 大 三十一日         其一日 同   四月五日 
六 月 小 三十日           其一日 同   五月七日 
七 月 大 三十一日         其一日 同   六月七日 
八 月 大 三十一日        其一日 同   閏六月九日 
九 月 小 三十日           其一日 同   七月十日 
十 月 大 三十一日         其一日 同   八月十日 
十一月小 三十日          其一日 同   九月十二日 
十二月大 三十一日         其一日 同   十月十二日 

大小每年替ルヿナシ

時刻表
  
  零時卽午後
  十二時    子刻   一時    子半刻  二時    丑刻  三時     丑半刻 
午 四時     寅刻   五時    寅半刻  六時    卯刻  七時     卯半刻 
前 八時     辰刻   九時    辰半刻  十時    巳刻  十一時    巳半刻 
  十二時    午刻    

午 一時     午半刻  二時    未刻  三時     未半刻  四時    申刻 
後 五時     申半刻  六時    酉刻  七時     酉半刻  八時    戊刻 
  九時     戊半刻  十時    亥刻  十一時    亥半刻  十二時   子刻 

右之通被定候事
  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)お雇い外国人であるフランス人技師F・L・ヴェルニーの誕生日詳細
1898年(明治31)挿絵画家・詩人蕗谷虹児の誕生日詳細
1900年(明治33)小説家・芥川賞作家由起しげ子の誕生日詳細
1949年(昭和24)国際連合総会で、「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が決議される詳細
1984年(昭和59)映画監督森谷司郎の命日詳細
2000年(平成12)沖縄県の「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産(文化遺産)に登録される詳細
2009年(平成21)日本画家・教育者平山郁夫の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ichiakunosuna01
 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、石川啄木著の第一歌集『一握の砂』が東雲堂書店より刊行された日です。
 『一握の砂』(いちあくのすな)は、石川啄木の第一歌集で、明治時代後期の1908~10年の作品551首を、テーマ別に5章(「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」)に編集していて、1910年(明治43)に東雲堂書店より刊行されました。東京時代の都会生活の哀歓を歌った作品と故郷追懐(渋民村、盛岡、北海道)の歌で構成され、1首3行書きという独特な表記法を初めて示し、歌人としての名声を得ます。
 口語的発想へ接近、新しいリズムと視覚の目新しさを生じさせ、国民のより広い層に親しまれることとなりました。尚、岩手県盛岡市にある「石川啄木記念館」に関連する資料が展示されています。

<収載されている代表的な歌>
・「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」
・「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」
・「石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」
・「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」
・「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ」
・「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きに ゆく」
・「友がみな 我よりえらく みゆる日よ 花を買いきて 妻としたしむ」

〇『一握の砂』の冒頭部分

+目次

函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君

この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
著者

明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するところ相邇ちかきをたづねて仮にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。

  「青空文庫より」

☆石川啄木(いしかわ たくぼく)とは?

 明治時代後期の歌人で、本名は、石川一といい、1886年(明治19)2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市)の常光寺で生まれました。その後、渋民村に移住し、宝徳寺で育ち、岩手県盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に学びます。
 中学中退後は、明星派の詩人として出発し、20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として将来を期待されるようになりました。しかし、生活は厳しく、郷里の岩手県渋民村の代用教員や北海道の地方新聞の記者などを転々とした後で、1908年(明治41)上京し、東京朝日新聞の校正係の職に就きます。
 1910年(明治43)に、歌集「一握の砂」を出版し注目されました。大逆事件で社会主義思想に接近しますが、1912年(明治45)4月13日、困窮のうちに結核により、26歳の若さで死去しています。
 代表作に、評論「時代閉塞の現状」、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』、小説「雲は天才である」などがあります。

<代表的な歌>
・「呼吸すれば、/胸の中にて鳴る音あり。/凩よりもさびしきその音!」
・「眼閉づれど、/心にうかぶ何もなし。/さびしくもまた、眼をあけるかな」
・「新しき明日の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど――」
・「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1267年(文永4)第91代の天皇とされる後宇多天皇の誕生日(新暦12月17日)詳細
1903年(明治36)小説家小林多喜二の誕生日詳細
1934年(昭和9)東海道本線の丹那トンネル(熱海~函南)が開通する詳細
1941年(昭和16)昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定する詳細
1952年(昭和27)石橋正二郎より寄贈を受けて、国立近代美術館(現在の東京国立近代美術館)が中央区京橋に開館する詳細
1959年(昭和34)南極の非軍事利用を取り決めた「南極条約」に、日・英・米など12ヶ国が調印する詳細
1977年(昭和52)小説家海音寺潮五郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ