ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 明治時代

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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、三浦半島南東端(神奈川県三浦市)に立つ、日本7番目の洋式灯台である劔埼灯台が初点灯した日ですが、新暦では3月1日となります。
 剱埼灯台(つるぎさきとうだい)は、三浦半島の剱崎の突端に立つ白亜八角形の大型灯台です。幕末の1866年(慶応2)5月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ「改税約書」(別名「江戸条約」)によって建設することを約束した8ヶ所の灯台の一つでした。
 これらを条約灯台とも呼んでいますが、1871年(明治4)3月1日<旧暦では1月11日>に、「灯台の父」と呼ばれるR・H・ブラントンの設計によって設置、初点灯されています。日本の洋式灯台としては、第7番目のもので、建設当初は、石造でしたが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災により、倒壊してしまいました。
 1924年(大正14)7月4日に再建されたのが、現在の灯台で、白色塔形(八角形)コンクリート造です。その後、1991年(平成3)には、無人化され、1996年(平成8)4月には、レーマークビーコン局が併設されました。
 現在の灯塔高(地上から塔頂まで)は16.9m、標高(平均海面~灯火)は41.1mで、第2等フレネル式レンズを使い、光度は45万カンデラ(実効光度)、光達距離は白光17海里(約31km)、緑光18海里(約33km)です。また、無線方位信号所(中波標識局、レーマークビーコン)も併設されました。
 周辺は、岩礁が発達し、浦賀水道や房総半島を望む風光明媚の地となっています。

〇R・H・ブラントンとは?

 日本の「灯台の父」とも呼ばれ、明治初期に主要灯台の建設にたずさわったイギリス人技師です。本名をリチャード・ヘンリー・ブラントンといい、1841年(天保12)12月26日に、イギリスのスコットランド・アバディーン洲キンカーデン郡に生まれました。
 もともと鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に従事していましたが、1868年(明治元)2月24日に、明治政府の雇い灯台技師として採用されました。
 短期間に灯台建設や光学等の灯台技術に関する知識を習得後、その年の8月8日、2人の助手と共に来日しましたが、当時はまだ26歳の青年でした。滞在していた8年ほどの間に、灯台26(下記の一覧参照)、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを建設し、灯台技術者養成の「修技校」を設置するなどして、灯台技術の継承にも力を尽くしました。
 また、灯台以外にも、日本最初の電信工事(明治2年・横浜)、鉄橋建設(横浜・伊勢佐木町の吉田橋)、港湾改修工事計画策定(大阪港・新潟港)、横浜外人墓地の下水道工事の設計など数多くの功績を残し、1876年(明治9)3月10日離日して、イギリスへ帰国しました。
 帰国後のブラントンは、「日本の灯台(Japan Lights)」という論文を英国土木学会で発表、テルフォード賞を受賞しました。その後は、ヤング・パラフィン・オイル会社支配人、建築装飾品製造工場の共同経営、土木建築業の自営など、建築家として多くの建物の設計・建築に携わりました。そして、仕事の合間に書きためてあったものを『ある国家の目覚め-日本の国際社会加入についての叙述と、その国民性についての個人的体験記』という原稿にまとめ終えてまもなく、1901年(明治34)4月24日に、59歳で亡くなっています。

<R・H・ブラントンが日本で建設に携わった灯台>

・樫野埼灯台 [和歌山県串本町] 初点灯1870年7月8日(旧暦:明治3年6月10日) 石造
・神子元島灯台 [静岡県下田市] 初点灯1871年1月1日(旧暦:明治3年11月11日) 石造
・剱埼灯台 [神奈川県三浦市] 初点灯1871年3月1日(旧暦:明治4年1月11日) 石造
・江埼灯台 [兵庫県淡路市] 初点灯1871年6月14日(旧暦:明治4年4月27日) 石造
・伊王島灯台 [長崎県長崎市] 初点灯1871年9月14日(旧暦:明治4年7月30日) 鉄造
・石廊崎灯台 [静岡県南伊豆町] 初点灯1871年10月5日(旧暦:明治4年8月21日) 木造
・佐多岬灯台 [鹿児島県南大隅町] 初点灯1871年11月30日(旧暦:明治4年10月18日) 鉄造
・六連島灯台 [山口県下関市] 初点灯1872年1月1日(旧暦:明治4年11月21日) 石造
・部埼灯台 [福岡県北九州市] 初点灯1872年3月1日(旧暦:明治5年1月22日) 石造
・友ヶ島灯台 [和歌山県和歌山市] 初点灯1872年8月1日(旧暦:明治5年6月27日) 石造
・納沙布岬灯台 [北海道根室市] 初点灯1872年8月15日(旧暦:明治5年7月12日) 木造
・和田岬灯台 [兵庫県神戸市] 初点灯1872年10月1日(旧暦:明治5年8月29日) 木造
・天保山灯台 [大阪府大阪市] 初点灯1872年10月1日(旧暦:明治5年8月29日) 木造
・鍋島灯台 [香川県坂出市] 初点灯1872年12月15日(旧暦:明治5年11月15日) 石造
・安乗埼灯台 [三重県志摩市] 初点灯1873年(明治6)4月1日 木造
・釣島灯台 [愛媛県松山市] 初点灯1873年(明治6)6月15日 石造
・菅島灯台 [三重県鳥羽市] 初点灯1873年(明治6)7月1日 レンガ造
・白洲灯台 [福岡県北九州市] 初点灯1873年(明治6)9月1日 木造
・潮岬灯台 [和歌山県串本町] 初点灯1873年(明治6)9月15日 木造
・御前埼灯台 [静岡県御前崎市] 初点灯1874年(明治7)5月1日 レンガ造
・犬吠埼灯台 [千葉県銚子市] 初点灯1874年(明治7)11月15日 レンガ造
・羽田灯台 [東京都] 初点灯1875年(明治8)3月15日 鉄造
・烏帽子島灯台 [福岡県糸島市] 1875年(明治8)8月1日 鉄造
・角島灯台 [山口県下関市] 初点灯1876年(明治9)3月1日 石造
・尻屋埼灯台 [青森県東通村] 初点灯1876年(明治9)10月20日 レンガ造
・金華山灯台 [宮城県石巻市] 初点灯1876年(明治9)11月1日 石造

〇「改税約書」(別名「江戸条約」)とは?

 幕末の1866年(慶応2年5月13日)に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国との間で結ばれた「安政五か国条約付属貿易章程」の改訂協約で、江戸において締結されたので、別名「江戸条約」とも呼ばれていました。
 1863年(文久3)に長州藩がアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃した下関事件に関連して、1865年(慶応元年9月)に、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英・仏・米・蘭) の威嚇により、4ヶ国は、上京していた第14代将軍徳川家茂に対し、長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに、1858年(安政5)に結んだ「修好通商条約」の勅許、兵庫開港、関税率低減を要求します。これに対し、幕府は兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ要求に応じるほかなくなりました。
 そして、輸入税に関して、「修好通商条約」の5~35%の従価税を廃止し、4ヵ年平均価格を原価とする一律5%を基準とする従量税とされ、きわめて不利な関税率となります。これによって、安価な外国商品が日本市場に流入し、産業資本の発達が厳しく阻害されることとなりました。その他、無税倉庫の設置や外国向け輸出品の国内運送非課税、貿易制限の撤去などがあわせて規定されます。
 この後、明治時代における条約改正の主目標となり、ようやく1894年(明治27)に廃棄されました。
 尚、この条約第11条「日本政府は外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明台浮木瀬印木等を備ふへし」(灯明台規定)により、灯台を建設することを約束させられ、日本で初となる洋式灯台が8ヶ所(観音埼灯台、野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剱埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台)建設されることとなります。

☆「改税約書」(江戸条約)により建設された灯台(条約灯台)一覧 

・観音埼灯台(神奈川県横須賀市)初点灯:1869年2月11日(旧暦:明治2年1月1日) 
・野島埼灯台(千葉県南房総市)初点灯:1870年1月19日(旧暦:明治2年12月18日) 
・樫野埼灯台(和歌山県串本町)初点灯:初点灯:1870年7月8日(旧暦:明治3年6月10日) 
・神子元島灯台(静岡県下田市)初点灯:1871年1月1日(旧暦:明治3年11月11日)  
・剱埼灯台(神奈川県三浦市)初点灯:1871年3月1日(旧暦:明治4年1月11日) 
・伊王島灯台(長崎県長崎市)初点灯:1871年9月14日(旧暦:明治4年7月30日) 
・佐多岬灯台(鹿児島県佐多町)初点灯:1871年11月30日(旧暦:明治4年10月18日) 
・潮岬灯台(和歌山県串本町)初点灯:1873年(明治6)9月15日 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)武蔵国秩父郡から朝廷に銅が献上され、記念して和銅改元がされる(新暦2月7日)詳細
1938年(昭和13)御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定される詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第20条に基づき、「新聞紙等掲載制限令」が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)植物学者・遺伝学者藤井健次郎の命日詳細
1964年(昭和39)伊豆大島大火で584棟418戸が焼失する詳細
1966年(昭和41)青森県三沢市で三沢大火が起きる詳細
1974年(昭和49)劇作家・小説家山本有三の命日(1.11忌)詳細
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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、詩人・童謡作家中村雨紅の生まれた日(戸籍上は2月6日)です。
 中村雨紅(なかむら うこう)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日>に、東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれましたが、本名は高井宮吉(たかい みやきち)と言いました。1909年(明治42)に上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進み、1911年(明治44)に卒業後、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学します。
 1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
 1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
 1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
 1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。

〇中村雨紅の主要な作品

<作詞>
・『夕焼小焼』作曲:草川信
・『ふる里と母と』作曲:山本正夫
・『お舟の三日月』作曲:山本正夫
・『こんこん小兎』作曲:山本正夫
・『早春』作曲:山本正夫
・『花吹雪』作曲:山本正夫
・『花の夕ぐれ』作曲:山本正夫
・『坊やのお家』作曲:山本正夫
・『赤いものなあに』作曲:山本正夫
・『かくれんぼ』作曲:林松木
・『父さん恋しろ』作曲:林松木
・『ギッコンバッタン』作曲:井上武士
・『紅緒のぽっくり』作曲:井上武士
・『秋空』作曲:石島正博
・『海が逃げたか』作曲:星出敏一
・『荻野音頭』作曲:細川潤一
・『カタツムリの遠足』作曲:吉田政治
・『こほろぎ』作曲:黒沢隆朝
・『子猫の小鈴』作曲:守安省
・『ねんねのお里』作曲:杉山長谷夫
・『ばあやのお里』作曲:寺内昭
・『星の子』作曲:黒沢孝三郎
・『みかんとお星さま』作曲:斎藤六三郎

<著書>
・『夕やけ小やけ 中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『抒情短篇集 若かりし日』(1975年)
・『中村雨紅 お伽童話 第1集 - 第3集』(1985年)
・『中村雨紅 青春譜』(1994年)

☆中村雨紅関係略年表

・1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日> 東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれる 
・1909年(明治42) 上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進む
・1911年(明治44) 恩方村報恩高等小学校を卒業し、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学する
・1916年(大正5) 東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤める
・1917年(大正6) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる
・1918年(大正7) 日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始める
・1919年(大正8) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載される
・1923年(大正12) 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたが、関東大震災のため、多くの楽譜が失われ、おば中村家との養子縁組が解消し、漢学者本城間停の次女千代子と結婚する
・1924年(大正13) 日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、長男・喬(たかし)が誕生する
・1926年(大正15) 日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任する
・1927年(昭和2) 長女・緑(みどり)が誕生する
・1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職する
・1956年(昭和31) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立される
・1965年(昭和40) 望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞する
・1970年(昭和45) 雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立する
・1971年(昭和46) 神奈川県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院する
・1972年(昭和47)5月8日 神奈川県厚木市の県立厚木病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなる
・1993年(平成5) 雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立される
・2005年(平成17) JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1868年(慶応4)新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、船舶工学者山県昌夫が生まれた日です。
 山県昌夫(やまがた まさお)は、明治時代後期の1898年(明治31)1月4日に、東京において生まれ、東京府立第一中学、旧制第一高校を経て、東京帝国大学工学部船舶工学科へ入学し、船型学を専攻しました。1921年(大正10)に卒業し、逓信省に入って、逓信技師となります。
 運輸省に移り、1933年(昭和8)に日本造船学会論文賞を受賞、1937年(昭和12)に『船型試験法』を刊行し、1941年(昭和16)には、船舶試験所所長となりました。1943年(昭和18)に、運輸通信省船舶局長となり、『戦争と造船』を刊行し、太平洋戦争後の1947年(昭和22)にらは、東京大学工学部教授に就任します。
 1950年(昭和25) 運輸技術研究所の設立に携わり、1952年(昭和27)に『船型学 推進編』を刊行、1953年(昭和28)には、社団法人日本造船研究協会を設立に関わり、『船型学 抵抗編』を刊行するなど、船舶の設計に新分野を開き、日本の造船技術の進歩に大きな貢献をしました。1958年(昭和33)に東京大学工学部教授を辞め、名誉教授となり、1961年(昭和36)に日本学士院会員となり、1963年(昭和38)には、船舶技術研究所の設立に携わります。
 造船協会長、原子力委員会参与、日本海事協会長、日本造船技術センター会長などを歴任し、1967年(昭和42)には、造船工学界では初めての文化勲章を受章しました。1972年(昭和47)に勲一等旭日大綬章を受章、日本の学術、技術、行政面へも寄与してきたものの、1981年(昭和56)3月3日に、東京都内の東京大学附属病院において、83歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇山県昌夫の主要な著作

・『船型試験法』(1937年)
・『戦争と造船』(1943年)
・『船型学 推進編』(1952年)
・『船型学 抵抗編』(1953年)

☆山県昌夫関係略年表

・1898年(明治31)1月4日 東京において生まれる
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、逓信省に入る
・1933年(昭和8) 日本造船学会論文賞を受賞する
・1937年(昭和12) 『船型試験法』を刊行する
・1941年(昭和16) 船舶試験所所長となる
・1943年(昭和18) 運輸通信省船舶局長となり、『戦争と造船』を刊行する
・1947年(昭和22) 東京大学工学部教授となる
・1950年(昭和25) 運輸技術研究所の設立に携わる
・1952年(昭和27) 『船型学 推進編』を刊行する
・1953年(昭和28) 社団法人日本造船研究協会を設立、『船型学 抵抗編』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京大学工学部教授を辞め、名誉教授となる
・1961年(昭和36) 日本学士院会員となる
・1963年(昭和38) 船舶技術研究所の設立に携わる
・1967年(昭和42) 文化勲章を受章する
・1972年(昭和47) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1981年(昭和56)3月3日 東京都内の東京大学附属病院において、83歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1882年(明治15)「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」(軍人勅諭)が発布される詳細
1888年(明治21)三井財閥、藤田伝三郎などの出資により、山陽鉄道会社(現在の山陽本線)が設立される詳細
1912年(明治45)公家・政治家・伯爵東久世通禧の命日詳細
1922年(大正11)小説家山田風太郎の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「超国家主義団体の解体の指令」(SCAPIN-548)を出す詳細
GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)により、太陽暦が施行され、明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日になった日です。
 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(たいいんれきをはいしてたいようれきをはんこうす)」(改暦ノ布告)は、明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌・明治6年(1873年)から太陽暦を採用することを定めた布告(明治5年太政官布告第337号)でした。それまでの太陰太陽暦は、月の満ち欠けに合わせて1ヶ月間の日付を決め、数年に1回閏月をおいて一年を13ヶ月として、太陽の運行による周期太陽年(回帰年)を考慮して季節を調節していく暦法(旧暦)でしたが、地球が太陽のまわりを一回転する時間を一年とする太陽暦(グレゴリオ暦)を採用し、一年を365日とし、また四年に一度閏年をおいて366日とするように改めたものです。
 この布告は、年も押し迫った時期に急遽公布され、一部に混乱をもたらしたとされるものの、明治新政府の官吏への報酬は月給制に移行していて、太陰太陽暦だと1年間に13回支給しなければならない年が翌年(明治6年)に当たり、当時の財政難の中で考慮されたとされてきました。また、明治5年12月は2日しかないことを理由に支給を免れ、結局月給の支給は11ヶ月分で済ますことができています。
 尚、暦の販売権をもつ弘暦者は、従来の暦が返本され、また急遽新しい暦を作ることになって、甚大な損害をこうむることになりました。その中で、福澤諭吉は、太陽暦施行と同時の1873年(明治6)1月1日付けで慶應義塾蔵版の暦本「改暦辨」を刊行し、忽ち10万部が売れて大ヒットしています。
 以下に、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太陰曆ヲ廢シ太陽曆ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告)1872年(明治5年11月9日)発布

太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(明治5年太政官布告第337号)

今般改曆ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事

(別紙)

詔書寫

朕惟フニ我邦通行ノ曆タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晚アリ終ニ推步ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ揭ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ屬シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽曆ハ太陽ノ躔度ニ從テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晚ノ變ナク四歲每ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰曆ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ挨タサルナリ依テ自今舊曆ヲ廢シ太陽曆ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ體セヨ

  明治五年壬申十一月九日

    ○

一 今般太陰曆ヲ廢シ太陽曆御頒行相成候ニ付來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新曆鏤板出來次第頒布候事
 
一 一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年每ニ一日ノ閏ヲ置候事 
一 時刻ノ儀是迄晝夜長短ニ隨ヒ十二時ニ相分チ候處今後改テ時辰儀時刻晝夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト稱シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト稱候事 
一 時鐘ノ儀來ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱來候處以後何時ト可稱事
 
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事 

太陽曆 一年三百六十五日    閏年三百六十六日四年每ニ置之 
一 月 大 三十一日         其一日 卽舊曆 壬申 十二月三日 
二 月 小 二十八日閏年二十九日  其一日 同 癸酉 正月四日 
三 月 大 三十一日         其一日 同   二月三日 
四 月 小 三十日           其一日 同   三月五日 
五 月 大 三十一日         其一日 同   四月五日 
六 月 小 三十日           其一日 同   五月七日 
七 月 大 三十一日         其一日 同   六月七日 
八 月 大 三十一日        其一日 同   閏六月九日 
九 月 小 三十日           其一日 同   七月十日 
十 月 大 三十一日         其一日 同   八月十日 
十一月小 三十日          其一日 同   九月十二日 
十二月大 三十一日         其一日 同   十月十二日 

大小每年替ルヿナシ

時刻表
  
  零時卽午後
  十二時    子刻   一時    子半刻  二時    丑刻  三時     丑半刻 
午 四時     寅刻   五時    寅半刻  六時    卯刻  七時     卯半刻 
前 八時     辰刻   九時    辰半刻  十時    巳刻  十一時    巳半刻 
  十二時    午刻    

午 一時     午半刻  二時    未刻  三時     未半刻  四時    申刻 
後 五時     申半刻  六時    酉刻  七時     酉半刻  八時    戊刻 
  九時     戊半刻  十時    亥刻  十一時    亥半刻  十二時   子刻 

右之通被定候事
  「ウィキソース」より

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1720年(享保5)第115代の天皇とされる桜町天皇の誕生日(新暦2月8日)詳細
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1950年(昭和25)「年齢のとなえ方に関する法律」が施行され、年齢の表示を満年齢に一本化される詳細
1995年(平成7)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」によって、世界貿易機関(WTO)が発足する詳細
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 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、「日露講和条約(ポーツマス条約)」締結後のロシアの利権の引継ぎなどについて、日本と清国が「満洲善後条約」に調印した日です。
 「満洲善後条約」(まんしゅうぜんごじょうやく)は、明治時代後期の1905年(明治38)9月5日に締結された「日露講和条約(ポーツマス条約)」により、中国東北部(満州)のロシア利権が日本に譲渡されたことに対し、それを清国に承認させたもので、「北京条約」とも呼ばれますが、正式には、「日清間満州ニ関スル条約」といいます。中国の北京において、日本側は特派全権大使小村寿太郎(外務大臣)及び特派全権公使内田康哉と清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻及び瞿鴻禨・袁世凱の間で調印され、本文(全3条)と付属協定(12ヶ条)、付属取決(16項目)から構成されていました。
 この条約で、南満洲鉄道の吉林までの延伸と同鉄道を守備するための日本陸軍の常駐権と沿線鉱山の採掘権保障、安奉鉄道の使用権継続と両国共同事業化、営口・安東・奉天における日本人居留地の設置の許可、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などが盛り込まれ、その後の満洲経営の基礎となります。
 以下に、「満洲善後条約」の日本語版を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「満洲善後条約(日清間満州ニ関スル条約)・附属議定書」(北京条約) 1905年(明治38)12月22日調印、1906年(明治39)1月31日国内公布

日清間満州ニ関スル条約

前文

大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下ハ均シク明治三十八年九月五日即光緖三十一年八月七日調印セラレタル日露両国講和条約ヨリ生スル共同関係ノ事項ヲ協定セムコトヲ欲シ右ノ目的ヲ以テ条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為メニ大日本国皇帝陛下ハ特派全権大使外務大臣従三位勳一等男爵小村寿太郞及特命全権公使従四位勳二等內田康哉ヲ大清国皇帝陛下ハ欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務和碩慶親王欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣瞿鴻禨及欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督袁世凱ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ其ノ良好妥当ナルヲ認メ以テ左ノ条項ヲ協議決定セリ

  第一条

日露講和条約第五条及第六条ニ依ル讓渡ノ承認

清国政府ハ露国カ日露講和条約第五条及第六条ニヨリ日本国ニ対シテ為シタル一切ノ讓渡ヲ承諾ス

  第二条

清露条約規定ノ遵行

日本国政府ハ清露両国間ニ締結セラレタル租借地並鉄道敷設ニ関スル原条約ニ照シ努メテ遵行スへキコトヲ承諾ス将来何等案件ノ生シタル場合ニハ隨時清国政府ト協議ノ上之ヲ定ムヘシ

  第三条

効力発生及批准書交換

本条約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下ニ於テ之ヲ批准セラルヘシ該批准書ハ本条約調印ノ日ヨリ二箇月以內ニ成ルヘク速ニ北京ニ於テ之ヲ交換スヘシ

本文

右証拠トシテ両国全権委員ハ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本条約ニ署名調印スルモノナリ
明治三十八年十二月二十二日即光緖三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
   大日本帝国特派全権大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村寿太郞(記名)印
   大日本帝国特命全権公使從四位勳二等 內田康哉(記名)印
   大清国欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務 慶親王(記名)印
   大清国欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣 瞿鴻禨(記名)印
   大清国欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督 袁世凱(記名)印

附属協定

  明治三八年(一九〇五年)一二月二二日北京ニ於テ調印
  明治三九年(一九〇六年)一月九日批准
  明治三九年(一九〇六年)一月二三日北京ニ於テ批准書交換
  明治三九年(一九〇六年)一月三一日公布

前文

日清両国政府ハ満州ニ於テ双方共ニ関係ヲ有スル他ノ事項ヲ決定シ以テ遵守ニ便ナラシムル為メ左ノ条項ヲ協定セリ

  第一条

開放スヘキ都市

清国政府ハ日露軍隊撤退ノ後成ルヘク速ニ外国人ノ居住及貿易ノ為メ自ラ進ミテ満州ニ於ケル左ノ都市ヲ開クへキコトヲ約ス
 盛京省 鳳凰城 遼陽 新民屯 鐵嶺 通江子 法庫門
 吉林省 長春(寛城子) 吉林 哈爾賓 寧古塔 琿春 三姓
 黑龍江省 齊齊哈爾 海拉爾 愛琿 滿洲里

  第二条

鉄道守備兵撤退ノ条件

清国政府ハ満州ニ於ケル日露両国軍隊兵ニ鉄道守備兵ノ成ルヘク速ニ撤退セラレムコトヲ切望スル旨ヲ言明シタルニ因リ日本国政府ハ清国政府ノ希望ニ応セムコトヲ欲シ若シ露国ニ於テ其ノ鉄道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ清露両国間ニ別ニ適当ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本国政府モ同樣ニ照弁スヘキコトヲ承諾ス若シ満州地方平靖ニ帰シ外国人ノ生命財產ヲ清国自ラ完全ニ保護シ得ルニ至リタル時ハ日本国モ亦露国ト同時ニ鉄道守備兵ヲ撤退スヘシ

  第三条

安寧秩序ヲ維持スル為ノ清国軍隊派遣

日本国政府ハ満州ニ於テ撤兵ヲ了シタル地方ハ直チニ之ヲ清国政府ニ通知スヘク清国政府ハ日露講和条約追加約款ニ規定セル撤兵期限內ト雖既ニ上記ノ如ク撤兵完了ノ通知ヲ得タル各地方ニハ自ラ其ノ安寧秩序ヲ維持スル為メ必要ノ軍隊ヲ派遣スルコトヲ得ルモノトス日本国軍隊ノ未タ撤退セサル地方ニ於テ若シ土匪ノ村落ヲ擾害スルコトアル時ハ清国地方官モ亦相当ノ兵隊ヲ派遣シ之ヲ勦捕スルコト得但シ日本国軍隊駐屯地界ヨリ二十清里以內ニ進入スルコト得サルモノトス

  第四条

收容公私財產ノ還附

日本国政府ハ軍事上ノ必要ニヨリ満州ニ於テ占領又ハ收用セル清国公私財産ハ撤兵ノ際悉ク清国官民ニ還附シ又不用ニ帰スルモノハ撤兵前卜雖之ヲ還附スルコトヲ承諾ス

  第五条

日本軍戦死者ノ墳墓等ノ保護

清国政府ハ満州ニ於ケル日本軍戦死者ノ墳墓及忠魂碑所在地ヲ完全ニ保護スル為メ総テ必要ノ処置ヲ執ルヘキコトヲ約ス

  第六条

安泰線ノ改築及清国軍隊等ノ取扱

清国政府ハ安東縣奉天間ニ敷設セル軍用鉄道ヲ日本国政府ニ於テ各国商工業ノ貨物運搬用ニ改メ引続キ経営スルコトヲ承諾ス該鉄道ハ改良工事完成ノ日ヨリ起算シ(但シ軍隊送還ノ為メ遅延スへキ期間十二箇月ヲ除キ二箇年ヲ以テ改良工事完成ノ期限トス)十五箇年ヲ以テ期限ト為シ即光緖四十九年ニ至リテ止ム右期限ニ至ラハ双方ニ於テ他国ノ評価人一名ヲ選ミ該鉄道ノ各物件ヲ評價セシメテ清国ニ売渡スヘシ其ノ売渡前ニ在リテ清国政府ノ軍隊並兵器糧食ヲ輸送スル場合ニハ東清鉄道条約ニ準拠シテ取扱フヘク又該鉄道改良ノ方法ニ至テハ日本国ノ経営担当者ニ於テ清国ヨリ特派スル委員ト切実ニ商議スヘキモノトス該鉄道ニ関スル事務ハ東清鉄道条約ニ準シ清国政府ヨリ委員ヲ派シ査察経理セシムヘク又該鉄道ニ由リ清国公私貨物ヲ運搬スル運賃ニ関シテハ別ニ詳細ナル規程ヲ設クヘキモノトス

  第七条

鉄道接続業務ニ関スル別約

日清両国政府ハ交通及運輸ヲ増進シ且之ヲ便易ナラシムルノ目的ヲ以テ南満州鉄道ト清国各鉄道トノ接続業務ヲ規定セムカ為メ成ルヘク速ニ別約ヲ締結スヘシ

  第八条

南満州鉄道用材料ニ對スル免税

清国政府ハ南満州鉄道ニ要スル諸般ノ材料ニ対シ各種ノ税金及釐金ヲ免スヘキコトヲ承諾ス

  第九条

日本居留地画定方法

盛京省內ニ於テ既ニ通商場ヲ開設シタル営口及通商場トナスヘク約定シアルモ未タ開カレサル安東県並奉天府各地方ニ於テ日本居留地ヲ画定スル方法ハ日清両国官吏ニ於テ別ニ協議決定スヘシ

  第十条

日清合同材木会社ノ設立

清国政府ハ日清合同材木会社ヲ設立シ鴨綠江右岸地方ニ於テ森林截伐ニ従事スルコト其ノ地区ノ広狭年限ノ長短及会社設立ノ方法並合同経営ニ関スル一切ノ章程ハ別ニ詳細ナル約束ヲ取極ムヘキコトヲ承諾ス日清両国株主ノ利権ハ均等分配ヲ期スヘシ

  第十一条

満韓国境貿易ニ関スル最惠国待遇

満韓国境貿易ニ関シテハ相互ニ最惠国ノ待遇ヲ与フヘキモノトス

  第十二条

一切ノ規定ニ関スル最優待遇

日清両国政府ハ本日調印シタル条約及附属協約ノ各条ニ記載セル一切ノ事項ニ関シ相互ニ最優ノ待遇ヲ与フルコトヲ承諾ス

効力

本協約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且本日調印ノ条約批准セラレタル時ハ本協約モ亦同時ニ批准セラレタルモノト看做スヘシ

本文

右証拠トシテ下名ハ各其本国政府ヨリ相当ノ委任ヲ受ケ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本協約ニ記名調印スルモノナリ

明治三十八年十二月二十二日即光緖三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
   大日本帝国特派全権大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村寿太郞(記名)印
   大日本帝国特命全権公使從四位勳二等 內田康哉(記名)印
   大淸国欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務 慶親王(記名)印
   大淸国欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣 瞿鴻禨(記名)印
   大淸国欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督 袁世凱(記名)印

満州ニ関スル条約議事録中ニ記載セラレタル合意及声明

明治三八年(一九〇五年)一一月二三日‐一二月八日北京ニ於テ
昭和七年(一九三二年)一月一四日公表

明治三十八年満州ニ関スル条約及同上附屬協定締結ノ際我方ヨリ一定ノ約束事項ヲ条約文中ニ挿入セムコトヲ主張シタル拠清国側ニ於テ対内関係上之ヲ条約文トシテ公ニスルコトヲ困難トスル事情アリタルニ依リ日清両国全権委員ノ記名調印セル日清両国文ノ会議録中ニ記入スルニ止メ之ヲ公表セサリシモノ合計十六箇条アリ尚右会議録所載ノ取極十六箇条ノ要領英訳文ハ明治三十九年二月帝国政府ヨリ英米両国政府ニ対シ極祕トシテ內報セリ然ルニ坊間本件会議録所載ノ取極十六箇条ノ存否等ニ付種々誤解ヲ抱クモノアルヤニ認メラルルノミナラス従来支那要人等ニシテ明ニ之ヲ否定セルモノ尠ナカラス又最近支那新聞ハ支那外交当局ニ於テ正式ニ本件会議録ノ存在ヲ否認セル旨報シ居ル関係モアルニ付茲ニ右十六箇条日本文支那文及前記英米両国政府ニ内報セラレタル要領英訳文ヲ公表スルモノナリ

吉長鉄道借款

一、長春吉林間鉄道ハ清国自ラ資金ヲ調ヘテ築造スヘク不足ノ額ハ日本国ヨリ借入ルコトヲ承諾ス其金額ハ資金ノ約半額ナリトス借款弁法ハ時ニ及テ清国山海関內外鉄道局ト清英組合トノ借款契約ニ仿照シテ参酌商訂スヘク二十五箇年ヲ以テ年賦完済ノ期ト為ス

吉林地方ニ於テ鉄道敷設權ヲ別国人ニ付与スルコトナシ

清国政府ハ吉林地方ニ於テ別国人ニ鉄道敷設権ヲ与へ若クハ別国人ト共同シテ鉄道ヲ敷設スルコトハ断シテ之ナシ

新奉鉄道ノ売渡及借款

二、奉天府新民屯間ニ日本国ノ敷設セル軍用鉄道ハ両国政府ヨリ委員ヲ派遣シ公平ニ代價ヲ協議シテ清国ニ売渡スヘシ清国ハ之ヲ改築シテ自営鉄道ト為シ遼河以東ニ要スル資金ハ日本ノ会社ヨリ其半額ヲ借入レ十八箇年ヲ以テ年賦完済ノ期ト為シ其借款弁法ハ清国山海関關內外鉄道局ト清英組合トノ借款契約ニ仿照シ参酌商訂スヘキコトヲ承諾ス此他各地ニ於ケル軍用鉄道ハ撤兵ノ際総テ取除クヘキモノトス

満鉄鐵併行線ノ建設ヲ禁ズ

三、清国政府ハ南滿洲鉄道ノ利益ヲ保護スルノ目的ヲ以テ該鉄道ヲ未タ回収セサル以前ニ於テハ該鉄道附近ニ之ト併行スル幹線又ハ該鉄道ノ利益ヲ害スヘキ支線ヲ敷設セサルコトヲ承諾ス

北満鉄道ニ対スル措置

四、清国ハ満州北部ニ於テ露国カ引続キ所有スル鉄道ニ関シ露国ヲシテ清露条約ニ照シ努メテ遵行セシムルタメ充分ノ措置ヲ執リ若シ露国ニシテ上約ニ違反セル行動ヲナサハ清国ヨリ露国ニ厳重ニ照会シテ之ヲ匡サシムヘキ精神ナルコトヲ声明ス

日露接続業務規定商議ニ対スル清国ノ参与

五、将来日露両国ニ於テ接続鉄道業務規定ノ為商議スル時機ニ至ラハ日本国ハ予メ之ヲ清国ニ通知スヘシ清国ハ其時機ニ至リ委員ヲ派遣シテ該商議ニ加ハラント欲スルノ意ヲ露国ニ通牒ノ上同時ニ該商議ニ参与スヘシ

奉天省鉱物採掘章程

六、鉄道ニ附属スル奉天省內ノ鉱物ハ既ニ採掘ニ着手シタルト否トニ拘ハラス公平且詳細ノ章程ヲ取極メ以テ相互遵守ニ便ナラシムヘシ

奉天省陸上電信線及旅順烟台海底線接続事務

七、奉天省內テ於ケル陸上電信線及旅順烟台間海底電信線ニ関スル接続交涉事務ハ隨時必要ニ従ヒ両国協議シテ処置スヘシ

開市場設立規則制定ハ帝国公使ノ承諾ヲ要ス

八、開市場設立ニ関スル規則ハ清国ニ於テ自カラ定ムヘシ但シ北京駐在日本公使ト協議スルヲ要ス

松花江航行権

九、松花江航行ノ件ニ関シ露国ニ於テ異議ナキトキハ清国ニ於テモ之ヲ商議ノ上承諾スヘキコト

満州ニ於ケル治安ノ維持及內外臣民保護ノ声明

十、清国全権委員ハ満州ヨリ日露両国撤兵ノ後直ニ進ンテ該地方ニ於テ其主権ニヨリ完全ナル経営ヲ為シ以テ治安ヲ期シ且其主権ニヨリ同地方ニ於テ利ヲ興シ弊ヲ除キ着実ニ整頓ヲ行ヒ内外臣民ヲシテ生活及営業ノ安全ヲ得テ等シク清国政府ヨリ完全ノ保護ヲ享ケシムヘキコトヲ声明ス其整頓ノ方法ニ就テハ総テ清国政府自ラ適宜ノ措置ヲ行フヘキモノトス

在奉天省帝国臣民ノ取締

十一、清国ト日本国トハ素ヨリ友誼敦厚ナリ今囘日両国不幸ニシテ和ヲ失シ清国領土ニ於テ交戦スルニ至リタルモ今ヤ既ニ平和成立シ満州ニ於テハ戦争ナキニ至レリ而シテ撤退以前ノ日本軍隊ハ依然占領ノ権アリト雖近来日本国臣民カ満州ニ在リテ時々清国地方官ノ行政ニ干預シ又ハ清国公私財產ヲ毀損スルコトアル旨ヲ清国政府ニ於テ声明ス日本国全権委員モ亦若シ果シテ軍事必要以外ニ於テ此ノ如キコトアラハ至当ノ行為ニアラスト認ムルヲ以テ此ノ声明ノ意思ヲ日本国政府ニ伝達シテ速ニ相当ノ処置ヲ執リ奉天省ニ在ル日本国臣民ヲ取締リ益々交誼ヲ敦クシ軍事必要以外ニ於テ再ヒ清国ノ行政ニ干預シ又ハ公私ノ財產ヲ毀損スルコトナカラシムヘキ旨ヲ声明ス

清国公私財產ノ破壞又ハ使用ニ対スル帝国臣民ノ義務

十二、軍事用以外ニ於テ日本国臣民カ故意ニ破壞シ若クハ使用セル清国公私ノ各種財產ニ対シテハ両国政府ニ於テ夫レ々調査ノ上公平ニ償還セシムヘシ

清国地方官ノ土匪討伐ニ対スル措置

十三、清国地方官未タ日本軍隊ノ撤兵ヲ了セサル地方ニ於テ兵ヲ派シ土匪ヲ討伐スルトキハ必ス予メ其地方駐在日本軍司令官ト協議シ以テ誤解ヲ免レシムヘシ

鉄道守備隊ニ関スル声明

十四、日本国全權委員ハ長春ヨリ旅順大連租借地境界ニ至ル鉄道守備兵ハ其撤退以前ニ在リテ漫ニ清国地方行政権ニ牽礙セス又擅ニ鉄道区域外ニ出テサルヘキコトヲ声明ス

清国地方官ノ営口赴任及執務

十五、営口ニ駐在スヘキ清国地方官ハ日本軍隊該地撤退以前ト雖モ本条約確定ノ後北京駐在日本国公使清国外務部ト協議シテ可成速ニ赴任ノ期日ヲ定メ該地ニ赴キ事務ヲ執ラシムヘシ該地ニハ尚多数ノ日本軍隊アルヲ以テ検疫及防疫規則ヲ両国ニ於テ協議制定シ以テ疫病ノ伝染ヲ免レシムヘシ{「事務ヲ執ラシムヘシ・・・日本軍隊アルヲ」の行の上に「衞生事務」とあり}

営口海関收入等ノ交付

十六、営口海関收入ハ正金銀行ニ保管シ置キ撤兵ノ時清国地方官ニ交付スルコト営口常関收入及其他各地ノ收税ハ凡テ地方公共ノ費用ニ充テラルルモノニシテ撤兵ノ時其收支計算表ヲ清国地方官ニ交付スルコト

明治三八年(一九〇五年) 一一月二三日‐ 北京ニ於テ
一二月八日

  「條約彙纂、第一卷改訂版」外務省條約局編

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1572年(元亀3)三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破る(新暦1573年1月25日)詳細
1891年(明治22)第2回帝国議会で、樺山資紀の蛮勇演説が行われる詳細
1902年(明治35)「年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を出す詳細
1941年(昭和16)東条英機内閣が、「逓信緊急政策要綱」を閣議決定する詳細
1945年(昭和20)「労働組合法」が制定される詳細
1973年(昭和48)「国民生活安定緊急措置法」(昭和48年法律第121号)が公布・施行される詳細
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