ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 江戸時代

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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、長崎奉行所内西役宅を校舎(長崎海軍伝習所)にして、海軍伝習が開始された日ですが、新暦では12月3日となります。
 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、江戸幕府が洋式海軍創設のため、長崎に開設した海軍教育機関でした。1855年(安政2)6月に、オランダ国王がスンビン号(後の観光丸)を幕府に献呈したのを契機として、長崎に海軍伝習所を設置することにし、同年7月29日に、矢田堀景蔵、勝麟太郎らが一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられます。
 その後準備が進められ、長崎奉行所の西役宅を校舎に、オランダ海軍軍人 22名を教官として雇い、同年10月22日に出島のオランダ館にて開所式が行われ、24日に伝習が開始されました。第一期生は、幕臣70名、諸藩から129名で、その中に勝麟太郎(海舟)、矢田堀景蔵らの幕臣のほか、五代友厚、川村純義(薩摩藩)、佐野常民(佐賀藩)ら諸藩士がいました。
 目的が海軍の養成だったので、軍艦の操縦術のみではなく、造船術や医術、語学などの様々な教育が、日課を定め、海陸で行なわれます。翌年3月に一期生が修了、続いて二期生が入り、1857年(安政4)4月に江戸の築地講武所内に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動しました。
 同年8月にヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが来日して教授したりしましたが、財政負担が大きいなどの理由により、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになります。その結果、1859年(安政6)4月16日の最終講義をもって閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げました。
 しかし、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の明治政府海軍創設の基礎となって活躍します。また、併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身ともなりました。

〇長崎海軍伝習所関係略年表(日付は旧暦です)

<1855年(安政2)> 
・6月 オランダ国王がスンビン号(のち観光丸)を幕府に献呈
・7月29日 矢田堀景蔵、勝麟太郎らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる 
・9月3日  昌平丸にて長崎海軍伝習所一期生が品川を出発する 
・10月20日  昌平丸が長崎へ着く 
・10月22日  長崎海軍伝習所の開所式が、出島のオランダ館で行われる 
・10月24日  長崎奉行所内西役宅を校舎に海軍伝習が開始される

<1857年(安政4)> 
・3月1日  長崎海軍伝習所の一期生が修了する 
・3月4日  長崎海軍伝習所一期生が観光丸にて江戸へ帰途に就く 
・3月26日  観光丸が上関・御手洗・鳥羽経由で品川沖に着く 
・4月11日  江戸の築地講武所内に軍艦操練所を設置する 
・5月8日  長崎海軍伝習所一期生が軍艦操練所教授方などへ任命される 
・8月5日  ヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが長崎へ来る

<1858年(安政5)>
・8月 咸臨丸が長崎海軍伝習所休講で築地の軍艦操練所所属になる 

<1859年(安政6)> 
・4月16日  長崎海軍伝習所の最終講義をもって閉鎖となり、その後オランダ人教官は本国へと引き上げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1933年(昭和8)小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の誕生日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
2011年(平成23)小説家・エッセイスト・精神科医北杜夫の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1614年(慶長19)に、江戸幕府が「伴天連追放之文(禁教令)」により、高山右近らキリシタン大名を含む148人をマニラ・マカオに追放した日ですが、新暦では10月27日となります。
 「伴天連追放之文(禁教令)」は、江戸時代前期の1614年2月1日(慶長18年12月23日)に、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠名で発布されたキリスト教禁止を全国に広げた法令です。それ以前の1612年4月21日(慶長17年3月21日)に、江戸幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して「禁教令」を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じ、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行っていました。
 しかし、一方でポルトガル等との貿易は継続していたので、その趣旨は徹底せず、潜伏する者もいて、一部で伝道者たちが残り、依然としてキリスト教の活動は続くこととなります。そこで、「禁教令」の全国への徹底を意図して、徳川家康は金地院崇伝に命じて、「伴天連追放之文」を起草させ、1614年2月1日(慶長18年12月23日)に徳川秀忠の名で公布しました。
 これは南蛮人と日本人たるとを問わず、またイエズス会、フランシスコ会の区別なく、伝道者たちを日本から徹底的に追放することを意図したものとなります。これによって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されました。
 以後、江渡幕府のキリスト教に対する基本法となって継続されていきます。
 以下に、「伴天連追放之文(禁教令)」の原文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇高山右近(たかやま うこん)とは?

 武将・キリシタン大名です。戦国時代の1552年(天文21)に、摂津国(現在の大阪府)高山で、大和国沢城主高山飛騨守図書の長子として生まれましたが、幼名は彦五郎と言いました。
 父・飛騨守がキリシタンへ入信、それに連れて、1564年(永禄7)に受洗し、霊名をジュストと称します。1568年(永禄11)に和田惟政に従い摂津国高槻を預かりましたが、1571年(元亀2)に荒木村重が和田氏を討つと、1573年(天正元)には、荒木村重の下で高槻城主(2万石)となりました。
 1578年(天正6)に荒木村重が織田信長に叛した際、和平工作を進め、かえって高槻領を安堵された上、4万石に加増され、1580年(天正8)には、織田信長が安土城城下に新たに建築した邸宅の一つが授与されます。1582年(天正10)の本能寺の変で織田信長が討たれると、山崎合戦では豊臣秀吉に属し先陣を務め、翌年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉に属して戦いました。
 その後も紀州根来征伐、四国征伐に参加し、1585年(天正13)には、明石6万石に移封されます。しかし、1587年(天正15)に秀吉は九州出兵の途次、「バテレン追放令」を発布、棄教を迫られたものの拒否して領地を没収され、1588年(天正16)には、前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。
 1590年(天正18)の小田原征伐にも前田軍に属して従軍、その後も加賀で客将として暮らしていましたが、1614年(慶長19)に江戸幕府の「伴天連追放之文(禁教令)」でマニラ追放されます。マニラでは歓迎されましたが、熱病に罹り、1615年(慶長20年1月8日)に数え年64歳で亡くなりました。

☆「伴天連追放之文(禁教令)」 (全文)  1614年2月1日(慶長18年12月23日)発布

乾為父坤為母、人生於其中間、三才於是定矣、夫日本者、元是神国也、陰陽不測、名之謂神、聖之為聖、霊之為霊、誰不尊崇、況人之得生、悉陰陽之所感成、五体六塵、起居動静、須臾不離神、神非求乎他、人々具足、介々円成、廼是神之体也。又称仏国、不無據、文云、惟神明垂迹国、而大日之本国矣、法華曰、諸仏救世者、住於大神通、為悦衆生故、現無量神力、此金口妙文、神與仏其名異、而其趣一者、恰如合符節、上古緇素、各蒙神助、航大洋而遠入震旦、求仏家之法、求仁道之教、孜孜矻矻、而内外之典籍負将来、後来之末学、師々相承的々伝受、仏法之昌盛、超越於異朝、豈是非仏法東漸乎、爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資材、叨欲弘邪法惑正宗、以改域中之政号、作己有、是大禍之萌也、不可有不制矣、日本者神国仏国、而尊神敬仏、専仁義之道、匡善悪之法、有過犯之輩、随其軽重、行墨劓剕宮大辟之五刑、礼云、喪多而服五、罪多而刑五、有罪之疑者、乃以神為證誓、定罪罰之条目、犯不犯之区別、繊毫不差、五逆十悪之罪人者、是仏神三宝、人天大衆之所弃捐也、積悪之余殃難逃、或斬罪、或炮烙、獲罪如是、勧善懲悪之道也、欲制悪悪易積、欲進善害難保、豈不加炳誡乎、現世猶如此、後世冥道閣老之呵責、三世諸仏難救、歴代列祖不奈、可畏、可畏、彼伴天連徒党、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正方、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝自礼、以是為宗之本懐、非邪法何哉、実神敵仏敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司号令不制之、却蒙天譴矣、日本国之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、強有違命者、可刑罰之、今幸受天之詔命、主于日域、乗国柄者、有年於茲、外顕五常之至徳、内帰一大之蔵教、是故国豊民安、経曰、現世安穏、後世善処、孔子亦日、身体髪膚、受于父母、不敢毀傷、孝之始也、全其身乃是敬神也、早斥彼邪法、弥昌吾正法、世既雖及繞季、益神道仏法紹隆之善政也、一天四海、宜承知、莫敢遺失矣。
    慶長十八龍集癸丑臘月日
      御朱印

 『異国日記』より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

乾[1]は父と爲し、坤[2]は母と爲す。人其の中間[3]に生まる。三才[4]是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。陰陽[5]測られず、これを名づけて神と謂う。聖の聖為る、霊の霊為る、誰か尊崇[6]せざらん。況人の生を得る、悉く陰陽[5]の感ずる所成り。五体[7]六塵[8]、起居動静[9]、須臾[10]も神を離れず、神は他に求むるにあらず。人々具足[11]、介々円成[12]、廼ち是神の体也。又仏国と称する、據る[13]無からず。文に云わく、惟神明[14]垂迹[15]の国、而して大日[16]の本国たりと。法華[17]に曰く、諸仏の救世[18]は、大神通[19]に住す、衆生[20]を悦ばすが為の故に、無量[21]の神力を現す。此の金口[22]妙文[23]、神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節[24]を合するが如し。上古緇素[25]、各神助[26]を蒙り、大洋を航して遠く震旦[27]に入り、仏家の法を求め、仁道[28]の教を求めて、孜孜矻矻[29]たり。而して内外の典籍[30]負て将来[31]し、後来の末学[32]、師々相承け的々伝受[33]し、仏法の昌盛、異朝[34]に超越す。豈是仏法の東漸[35]に非ずや。爰に吉利支丹の徒黨[36]、適日本に來り、啻に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨るに、邪法[37]を弘め、正宗[38]を惑はさんと欲し、以つて域中の政號[39]を改めて、己が有と作さんとす。是れ、大禍の萠[40]なり。制せずんば有るべからず。日本は神国・佛国にして、神を尊び、佛を敬す。仁義[41]の道を専らにし、善悪の法を匡し、過犯[42]の輩有らば、其軽重に随い、墨劓剕宮大辟[43]の五刑を行う。礼に云く、喪多くして服五[44]、罪多くして刑五[45]、罪の疑有る者は、乃ち神を以て證誓[46]と為し、罪罰の条目を定め、犯不犯の区別、繊毫[47]も差わず、五逆十悪[48]の罪人は、是仏神三宝、人天大衆の弃捐[49]する所なり。積悪の余殃[50]逃れ難し、或は斬罪に、或は炮烙[51]に、罪を獲る是の如し、勧善懲悪[52]の道なり、悪を制せんと欲して悪積み易く、善を進めんと欲して害保ち難し、豈炳誡[53]を加えざらんや。現世猶此の如し、後世冥道[54]閣老[55]の呵責[56]、三世諸仏[57]も救い難く、歴代の列祖[58]奈ともせず、畏るべし、畏るべし。彼の伴天連[59]の徒党、皆件の政令[60]に反し、神道を嫌疑し、正法[61]を誹謗し、義を残ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載ち欣び載ち奔り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐[62]と爲す。邪法[37]に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴[63]を蒙らん。日本国の内、寸土の尺地[64]、手足を措く所無し[65]。強いて 違命[66]有らば、之れを刑罰すべし。今幸に天の詔命[67]を受け、日域[68]に主となり、国柄[69]を乗る者、茲に年有り。外五常[70]の至徳を顕し、内一大の蔵教[71]に帰す。是故に国豊にして民安し、経に曰く、現世安穏[72]、後世善処[73]と、孔夫子亦曰く、身躰髪膚[74]、父母に受く、放て毀傷[75]せざるは孝の始也と。全きその身乃ちこれ敬神也。早く彼の邪法[37]を斥けば、弥々吾が正法[61]昌んならん。世既に澆季[76]と雖も、益々神道仏法紹隆[77]の善政也。一天四海[78]宜しく承知すべし。敢て違失[79]するなかれ。
 慶長十八年龍集癸丑臘月日
      御朱印

(現代語訳)  伴天連追放之文

天は父となり、地は母となる。人間はその二つの間に生まれたものだ。天・地・人すべてはこの道理によっている。そもそも日本は、元来神国である。陰陽の働きは人智を超えたものがあって測り知れず、これを名づけて神という。聖の中の聖であり、霊の中の霊であり、誰か尊崇しないものはいない。まして人の生を得ること、ことごとく陰陽の感ずる所である。体のすべて、煩悩のすべて、起きていても寝ていても、一瞬も神は離れず、神は他に求めるものではない。人にはそれぞれみな仏性が備わっていて、助け合って円満に成就している。すなわちこれが神の姿である。また仏の国と称するのは、よりどころがないわけではない。書に言うことには、「よく考えてみると仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために神々の姿となって示現する国である、それに加えて大日如来の本国である。」と。『法華経』に言うことには、「諸仏の救世は、偉大で無礙自在で超人的な不思議な力に定まる、いきとしいけるものを悦ばすがためによって、はかりしれないの神力の霊験を示す。」と。この尊い言葉と霊妙な経典、神と仏はその名前は異なっているがその目的とするところは同じであたかも勘合符がぴったりと合うようなものだ。大昔から僧侶と俗人、各々が神の慈悲の力による助けをいただいて、大洋を航海して遠く中国に入って、仏家の法を求め、仁道の教を求めて、たゆまず熱心に励んだ。そのようにして仏教と儒教の典籍を背負って持ち来たり、行く末の学者が、師から弟子へ引き継いでその正しきを伝授し、仏法が昌盛し、外国に勝った。まさにこれは仏法の東方への進出に他ならない。ここにキリシタンの一団がたまたま日本にやったて来た。彼らは、ただ、商船を遣わして貿易するだけでなく、勝手に邪悪な教え(キリスト教)を布教して神仏を惑わし、日本の政治を改め、自分の領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかに大きな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない。日本は神の国・仏の国であり、これらを敬っている。仁義の道を専らにし、善悪の法を正しくし、犯罪を犯す者が有れば、その重さに従って、墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)の五刑を行う。『礼記』に言うことには、「喪服は多くても五つ、罪人に対する刑罰は多くても五つ」と、罪の疑いが有る者は、すなわち神をもって誓いの証とし、罪罰の条目を定め、罪を犯したか犯していないかの区別は、極めてわずかでも違わず、五逆十悪を犯す罪人は、これ仏教・神教の本尊・布教者・経典においても、人と天そして大衆の捨てて顧みないものである。積み重なった悪事の災禍から逃れることはできない、あるいは首切りの刑に、あるいは火あぶりの刑に、罪を判断すればこのとおりで、善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめる道である、悪を制止しようと欲しても悪を積みやすく、善を進めようと欲しても害を保ち難いもので、どうしてあきらかな戒めを加えないでおかれようか。現世でもなおこのようであり、後の世の死後世界の高官の厳しいとがめ、過去・現在・未来の三世にわたって存在する一切の仏も救い難く、歴代の先祖もどうしようもない、畏るべきこと、畏るべきこと。あのバテレンの集団がみな幕府の政令に違反し、神道を疑い仏法を非難し、義や善い行いまで否定している。罪人として死刑になったものをみては、かえって喜び、走り回り、これを拝んでいる。これがこの宗教の正体である。これが邪悪な教えでなくてなんであろうか。まさに、神道の敵・仏法の敵である。急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍になるであろう。わざわざ命令してこれを禁止しなければさらなる天の災いを被るであろう。日本国の内、わずかな土地でも、彼らが安心して身をおく場所は存在しない。強いて命令に背くことが有るならば、これに刑罰を課すべきである。今幸なことに天皇の命令を受け、天下の主となり、政権をつかさどる者、ここに年月が経過する。儒教の仁・義・礼・智・信の最高の徳を明らかにし、仏教で非常に重要な三蔵教に帰依する。これによって豊かな国となって、人々は心穏やかである。『法華経』に言うことには、「現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれる」と、孔子がまた言うことには、「わが身体は両手・両足を始め毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から戴いたものであり、これを傷つけないようすることが孝行の始めである。」と。完全であるその身体すなわちこれは神を尊び敬うことである。一刻も早くこの邪宗教(キリスト教)を退け、われらが仏の御教えを盛んにしなければならない。世の中はすでに末法の世であるが神様の道、仏の道を開いていくよき政令である。天下の人々はこのことをしっかりと承知すべきである。決して間違ってはならない。

【注釈】
[1]乾:けん=そら。天。あめ。
[2]坤:こん=土地。大地。つち。
[3]中間:ちゅうげん=二つのものの間にあるもの、間に考えられるもの。
[4]三才:さんさい=世界を形成するものとしての天・地・人の称。三元。三儀。三極。
[5]陰陽:おんよう=易で、相対する概念。陰(いん)と陽。いんよう。
[6]尊崇:そんすう=尊びあがめること。尊敬。
[7]五体:ごたい=身体の五つの部分。筋、脈、肉、骨、毛皮の称。
[8]六塵:ろくじん=色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせるのでいう。
[9]起居動静:きこどうじょう=起きること、居ること、働くこと、静かにしていること。日常の動作、生活をいう。
[10]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。
[11]人々具足:にんにんぐそく=人には、それぞれみな仏性(ぶっしょう)がそなわっているということ。
[12]介々円成:かいかいえんじょう=助け合って円満に成就すること。
[13]據る:よる=よりどころ。
[14]神明:しんめい=神。神祇(じんぎ)。
[15]垂迹:すいじゃく=仏教と神道とが結びついて生れた思想で,仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために,かりに神々の姿となって示現すること。
[16]大日:だいにち=密教の中心本尊である大日如来のこと。
[17]法華:ほっけ=大乗仏教の最も重要な経典の一つである法華経のこと。
[18]救世:きゅうせい=乱れた世の人々を救うこと。特に、宗教の力でこの世の苦しみや罪悪から人々を救うこと。
[19]神通:じんつう=無礙自在で超人的な不思議な力。また、そのはたらき。霊妙ではかり知れず、自由自在にどんな事をもなしうる働きや力。
[20]衆生:しゅじょう=迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。いきとしいけるもの。
[21]無量:むりょう=はかりしれなく大きいこと。限りもなく多いこと。莫大であること。
[22]金口:きんこう=仏を尊んでその口をいう語。仏の金色の口。転じて、仏の言説。尊い言葉。
[23]妙文:みょうぶん=霊妙な経典。特に、法華経。
[24]符節:ふせつ=割符(わりふ)のこと。
[25]緇素:しそ=僧侶と俗人。僧俗。
[26]神助:しんじょ=神の慈悲の力によるたすけ。天佑。
[27]震旦:しんたん=振旦,真丹とも書く。中国の古称。
[28]仁道:じんどう=仁の道。人としてふみ行なうべき道。
[29]孜孜矻矻:ししこつこつ=たゆまず熱心に励む。
[30]典籍:てんせき=書物。書籍。本。
[31]将来:しょうらい=引き連れてくること。特に、外国など他の土地から持ってくること。
[32]末学:まつがく=学者が自分のことをへりくだっていう語。浅学。
[33]伝受:でんじゅ=伝え受けること。伝授されること。
[34]異朝:いちょう=外国。異国。
[35]東漸:とうぜん=勢力がしだいしだいに東方へと移り進むこと。
[36]吉利支丹の徒黨:きりしたんのととう=キリスト教の一団。
[37]邪法:じゃほう=人を惑わし、世間に害を与えるような教え。邪道。ここでは、キリスト教のこと。
[38]正宗:しょうしゅう=正しい肝腎の本旨。ここでは日本本来の宗教つまり、仏教・神教のこと。
[39]域中の政號:いきちゅうのせいごう=天下の政治。
[40]大禍の萠:たいかのきざし=大きなわざわいのきざし。大きな災難の前兆。
[41]仁義:じんぎ=儒教道徳の根本理念で、ひろく人や物を愛し、物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと。
[42]過犯:かはん=罪科を犯すこと。また、犯した罪科。犯罪。
[43]墨劓剕宮大辟:ぼくぎひきゅうたいへき=罪人に対する五つの刑罰。古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。
[44]喪多くして服五:もおおくしてふくご=喪服は多くても五つ。
[45]罪多くして刑五:つみおおくしてけいご=罪人に対する刑罰は多くても五つ。
[46]證誓:しょうせい=誓いの証とすること。
[47]繊毫:せんごう=細かい毛。きわめてわずかなこと、非常に小さなこと、ささいなことのたとえとされる。
[48]五逆十悪:ごぎゃくじゅうあく=父・母・仏道修行者を殺す、僧団の和合を壊す、仏の身体を傷つけるの「五逆」と殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の「十悪」のこと。
[49]弃捐:きそん=捨てて用いないこと。捨ててかえりみないこと。
[50]余殃:よおう=悪事のむくいとして起こる災禍。先祖の行なった悪事のむくい。余慶に対していう。
[51]炮烙:ほうらく=あぶり焼くこと。
[52]勧善懲悪:かんぜんちょうあく=善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめること。
[53]炳誡:へいかい=あきらかないましめ。炯戒(けいかい)。
[54]冥道:みょうどう=死後の世界。特に閻魔王のいるところ。地獄。冥界。冥府。
[55]閣老:かくろう=宮廷の高官。江戸幕府の役職、老中の異称。
[56]呵責:かしゃく=厳しくとがめてしかること。責めさいなむこと。
[57]三世諸仏:さんぜしょぶつ=過去・現在・未来の3世にわたって存在する一切の仏。
[58]列祖:れっそ=代々の祖先。歴代の先祖。列宗。
[59]伴天連:ばてれん=キリシタン宣教師のうちの司祭。
[60]件の政令:くだんのせいれい=江戸幕府の法令のこと。
[61]正法:しょうぼう=正しい教法。仏教のこと。
[62]本懐:ほんかい=かねてからの願い。本意。本望。本願。
[63]天譴:てんけん=天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。
[64]寸土の尺地:すんどのせきち=わずかな土地。せまい土地。
[65]手足を措く所無し:しゅそくをおくところなし=安心して身をおく場所がない。安んじて生活できる所がない。
[66]違命:いめい=言い付けにそむくこと。命令に背くこと。
[67]詔命:しょうめい=天子の命令。みことのり。
[68]日域:じちいき=日が照らす域内。転じて、天下。
[69]国柄:こくへい=国家を統治する権力。政権。国権。
[70]五常:ごじょう=儒教で、人が常に行なうべき五種の正しい道をいう。通例、仁、義、礼、智(知)、信。
[71]蔵教:ぞうきょう=天台教学で釈迦一代の教説を分類した四教の一つ。三蔵教の略称。
[72]現世安穏:げんせあんおん=現世では安穏に生活できるということ。
[73]後世善処:ごしょうぜんしょ=後生ではよい世界に生まれるということ。
[74]身躰髪膚:しんたいはっぷ=肉体と髪と皮膚、すなわち、からだ全体。
[75]毀傷:きしょう=そこない傷つけること。傷つけ、こわすこと。損傷。
[76]澆季:ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世。末世。
[77]紹隆:しょうりゅう=先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。
[78]一天四海:いってんしかい=天の下と四方の海。天下全体。全世界。
[79]違失:いしつ=まちがうこと。しくじり。過失。落度。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1744年(延享元)江戸時代中期の思想家・石門心学の祖石田梅岩の命日(新暦10月29日)詳細
1877年(明治10)薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃する詳細
1901年(明治34)歴史学者服部之総の誕生日詳細
1931年(昭和6)若槻礼次郎内閣が満州事変の不拡大方針を示す「満州事変に関する政府第一次声明」を出す詳細
1945年(昭和20)GHQが「政府からの報道の分離の件」(SCAPIN-51)を出す詳細
1966年(昭和41)熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日詳細
1971年(昭和46)「廃棄物処理法」(昭和45年12月25日公布)が施行される(清掃の日)詳細
1996年(平成8)国連総会で9月10日に採択された「包括的核実験禁止条約(CTBT)」に日本等71ヶ国が署名する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1708年(宝永5)に、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチが屋久島に上陸したのを発見された日ですが、新暦では10月13日となります。
 ジョバンニ・シドッチ(じょぱんに・しどっち)は、イタリアのイエズス会宣教師で、キリシタン禁制下の日本に潜入した最後の宣教師です。江戸時代前期の1668年(寛文8)8月22日に、イタリアのシチリア島に生れました。
 特定の修道会に所属しない教区司祭で、ローマ教皇庁の法律顧問を務めていましたが、東アジアに派遣された宣教師らの報告によって日本における宣教師や現地の信徒(切支丹)の殉教を知り、日本への渡航を決意します。ローマ教皇クレメンス11世(在位1700~1721年)の命を受け、東洋にキリスト教伝道を企てて、1704年(宝永元)に、マニラに渡り日本語を習得しました。
 1708年(宝永5)8月にマニラから、シドッティのためだけに建造された船に乗り、鎖国下の日本へ出発、10月13日(旧暦8月29日)に、大隅国屋久島(現在の鹿児島県屋久島町)に上陸したのを発見され、ただちに捕らえられて長崎に送られます。長崎で1年ほど入牢の後、1709年(宝永6)秋に、江戸に送られて小石川のキリシタン屋敷に監禁されました。
 その後、新井白石はシドッチを尋問し、彼から得た世界情勢、天文、地理などの情報をもとに『西洋紀聞』、『采覧異言(さいらんいげん)』などを執筆し、鎖国下の世界知識の源となり、洋学の基となります。しかし、1715年(正徳4年10月21日)11月27日に、江戸小石川の切支丹屋敷において、46歳で牢死しました。

〇ジョバンニ・シドッチ関係略年表

・1668年(寛文8)8月22日 イタリアのシチリア島に生れる
・1704年(宝永元) マニラに渡り日本語を習得する
・1708年(宝永5)8月 マニラから、シドッティのためだけに建造された船に乗り、鎖国下の日本へ出発する
・1708年(宝永5)10月13日 大隅国屋久島(現在の鹿児島県)に上陸したのを発見される
・1709年(宝永6)秋 江戸に送られて小石川のキリシタン屋敷に監禁される
・1715年(正徳4年10月21日)11月27日 江戸小石川の切支丹屋敷において、46歳で牢死する

〇『西洋紀聞』(せいようきぶん)とは?

 江戸時代中期の1715年(正徳5)に成立した、新井白石著の西洋の研究書です。1708年(宝永5年8月29日)に、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチが屋久島に上陸しましたが、すぐに捕えられて江戸に送られ、新井白石が訊問に当たって、この書を著述しました。
 全3巻で、上巻はシドッティ渡来の事情と訊問から獄死に至る経緯、中巻はシドッティが語った五大州の地理・歴史・風俗・物産および国内事情、下巻はキリスト教の教義と布教についてのシドッティの解説とそれへの白石の批判から成っています。秘本とされ、公刊されたのは1882年(明治15)ですが、1793年(寛政5)に、幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていました。

☆新井白石(あらい はくせき)とは?

 江戸時代中期に活躍した儒学者・政治家です。江戸時代前期の1657年(明暦3年2月10日)に、上総久留里藩士新井正済と妻千代の子として江戸神田柳原に生まれましたが名は君美(きんみ)といいました。
 初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
 ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で、甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。
 1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、7代家継も補佐します。その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われました。
 8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わしています。朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなりました。

<新井白石の主要な著書>

・『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701年)
・『采覧異言』 (1708年)
・『読史余論』 (1712年)
・『采覧 (さいらん) 異言』 (1713年)
・『西洋紀聞』 (1715年)
・『古史通』 (1716年)
・『古史通或問』(1716年)
・『折たく柴の記』 (1716年起筆)
・『東雅』 (1719年)
・『南島志』 (1719年)
・『蝦夷志』(1720年)
・『東音譜』
・『同文通考』
・『白石詩草』
・『本朝軍器考』
・『白石手簡』
・『新井白石日記』
・『先哲像伝』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1863年(文久3)江戸幕府が洋書調所を開成所と改称する(新暦10月11日)詳細
1888年(明治21)経済学者・財政学者で、法政大学総長だった大内兵衛の誕生日詳細
1900年(明治33)洋画家牛島憲之の誕生日詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細
1959年(昭和34)三井鉱山が「第二次企業整備案」を提示し、三井三池争議が始まる詳細
1997年(平成9)家永教科書裁判の第3次訴訟で、最高裁が原告の“一部勝訴”判決を出し、一連の裁判が終結する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、黒船から江戸湾を防衛するために、品川沖に沿岸砲台(品川台場)の築城を開始した日ですが、新暦では9月30日となります。
 品川台場(しながわだいば)は、江戸時代後期に、江戸幕府が江戸湾防備のため品川沖に建設した砲台で、「御台場」とも呼ばれています。1853年(嘉永6年6月3日)のペリー来航を契機に、江川太郎左衛門の献策により11ヶ所に設置を予定し、1年4ヵ月の間に5ヶ所が完成しました。
 西洋の軍事技術を応用しながら、伝統的石積技術を用いた、日本最初の大規模海上構造物です。台場は、要塞の一種で、海岸や河岸に築かれるものが多かったものの、幕末明治維新期に起きた戊辰戦争や西南戦争においては、海岸線に限らず、峠・高台・交通の要衝に築かれてきました。
 品川台場は、日本の技術水準の高さを示す貴重な土木遺産であり、幕末の国際関係を知る上で重要なものとして、1926年(大正15)に、国の史跡に指定されて、第三、第六台場だけが残されています。この内、第三台場は、台場公園として開放されていて、内側の平坦な窪地には、陣屋、弾薬庫跡などが残されてきました。
 尚、2017年(平成29)には、続日本100名城(124番)に「品川台場」として選定されています。

〇品川台場関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1853年(嘉永6年6月3日):アメリカ合衆国のマシュー・ペリー艦隊が第13代アメリカ合衆国大統領のミラード・フィルモアによる日本開国の任務の為、来航して幕府に開国要求を迫る
・1853年(嘉永6年8月28日):黒船から江戸湾を防衛するために、品川沖に沿岸砲台(品川台場)の築城を開始する
・1854年(嘉永7):ペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれる
・1875年(明治8):海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。明治中期には東京湾要塞の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられることとなる
・1878年(明治11):芝区の成立に伴い、海上の7つの台場(第一 ~第七台場)は芝区に所属し、それぞれ東京府芝区大字品川沖1 - 7番地となる。大正の初めまでに町名の品川沖は品海砲台に変更となる
・1912年(大正元):第四台場が民間人に払い下げられ、造船所となる
・1915年(大正4):第三台場・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備されることになる
・1917年(大正6):第一台場が民間人に払い下げられる
・1926年(大正15):第三、第六台場だけが国の史跡に指定される
・1928年(昭和3):第三台場が東京市により整備され、台場公園として市民に開放される
・1934年(昭和9):第二台場・第五台場が東京市に払い下げられる
・1939年(昭和14):第四台場が新しく完成した埋立地(品川区天王洲町・現在の品川区東品川)に埋没して消滅する
・1941年(昭和16):東京港が開港する。
・1947年(昭和22)3月15日:芝区・麻布区・赤坂区が合併して港区が成立し、台場地区は東京都港区芝品海砲台となる
・1955年(昭和30):品川区と地続きになっていた旧第四台場の土地が、港区より品川区に割譲される
・1957年(昭和32):8つの台場のうち唯一陸上に造られた御殿山下台場が撤去され、跡地に品川区立台場小学校が開校する
・1961年(昭和36):東京港の開港に伴い船舶が増加したため、航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場が撤去される
・1962年(昭和37):第五台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する
・1963年(昭和38):第一台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する
・1965年(昭和40):第七台場が撤去される。これにより、現存する第三台場と第六台場以外のすべての台場が消滅する。なお、第七台場は最初から未完成のまま海面下に水没した状態で残されていた
・1965年(昭和40)3月1日:台場地区に住居表示が実施され、港区芝品海砲台(第三・第六台場)が町名変更により港南五丁目となる
・1974年(昭和49)6月:品川区東八潮に船の科学館が開館する。お台場で最初の大規模建築物である
・1975年(昭和50)12月1日:13号地海浜公園(後のお台場海浜公園)、13号地緑道公園(後の東八潮緑道公園、青海緑道公園)が開園する
・1976年(昭和51)8月12日:首都高速湾岸線の大井 - 13号地(当時)間の開通により、東京港トンネルが供用開始される
・1978年(昭和53)7月16日~1979年(昭和54年)1月15日:船の科学館周辺で宇宙科学博覧会の第一期が開催される
・1979年(昭和54)3月24日~9月2日:宇宙科学博覧会の第二期が開催される
・1979年(昭和54):東京港の海底を掘削した際の残土により埋立が進められ、13号埋立地が完成する
・1995年(平成7):世界都市博覧会の中止が決定される。また、企業の進出や移転のキャンセルが相次ぎ、13号地は空き地だらけとなったため、発展に暗雲が垂れ込めた。11月1日、ゆりかもめの新橋駅 - 有明駅間が開業する
・1996年(平成8):臨海副都心開発により新たに港区台場が13号地北部に成立する。これに伴い、第三台場・第六台場が港区港南五丁目から港区台場一丁目に変更される
・1997年(平成9):フジテレビの本社が新宿区河田町からFCGビルに移転、同局のテレビドラマ『踊る大捜査線』の舞台になったり、FCGビルが観光地となるなど、お台場の知名度が上がる
・2007年(平成19):首都高速湾岸線の13号地出入口が臨海副都心出入口に改称される
・2007年(平成19):乃村工藝社本社ビルと台場ガーデンシティビルの竣工をもって港区台場の開発が完了する
・2013年(平成25):青海・台場クロスウォークの供用が開始される
・2017年(平成29):続日本100名城(124番)に「品川台場」として選定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
1886年(明治19)医学者で名古屋大学総長だった勝沼精蔵の誕生日詳細
1899年(明治32)台風による別子大水害が起き、別子銅山で死者513人を出し、大量の鉱毒水が流出する詳細
1923年(大正12)「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍の先遣隊が厚木基地に上陸し、横浜に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)本部を置く詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)において大きな被害が出る詳細
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 今日は、江戸時代中期の1769年(明和6)に、江戸幕府第10代将軍徳川家治の側用人・田沼意次が侍従に就任し、老中格になった日ですが、新暦では9月17日となります。
 田沼意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の1719年(享保4)7月27日に、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)において、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。
 1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城します。
 1769年(明和6)には侍従に就任して老中格となり、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至りました。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出します。
 しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山の天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まりました。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されます。
 これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。

〇田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)

・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる

☆田沼時代(たぬまじだい)とは?

 江戸時代中期に、田沼意次が側用人・老中として、長男の意知と共に、江戸幕政の実権を掌握していた時期を言います。期間は、意次が側御用人となった1767年(明和4)から、老中を辞任させられた1786年(天明6)の間とされてきました。
 この時代は、幕藩体制を解体に導く要因が一斉に展開した時代で、幕藩体制の転換期とも、維新変革の起点の時期とも言われています。その政策は、享保の改革の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があるとされきました。
 具体的には、運上・冥加金収入を目的に、問屋、株仲間の育成を強化し、さらに貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、蝦夷地の開発、商品農産物栽培の奨励などの積極策を打出したものの、賄賂政治に堕するなどの弊害もみられます。一方で、自由な世情のなかで、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化の発達の機運が高まりました。
 文化的には江戸時代の中で最も自由な時代といわれ、『解体新書』の訳出、平賀源内の活動、三浦梅園の哲学探究や江戸庶民文学(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の成立期でもあります。その中で、膨張した貨幣経済は武士を一層困窮させ、うちつづく凶作や飢饉に対する解決策もなく、百姓一揆が続発し、江戸の打ちこわしも起きました。
 このような政治に対する不信が意次に対する反感となり、1784年(天明4)4月2日に、子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に第10代将軍徳川家治が死去すると、老中を辞任させられて、田沼時代は終わります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1598年(慶長3)武将・大名・天下人豊臣秀吉の命日(新暦9月18日)詳細
1863年(文久3)公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した八月十八日の政変が勃発(新暦9月30日)詳細
1876年(明治9)日本画家松林桂月の誕生日詳細
1888年(明治21)官営事業(官営模範工場)の一つ三池炭鉱(福岡県)が競争入札の結果、三井財閥に払い下げが決まる詳細
1902年(明治35)啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員西村茂樹の命日詳細
1925年(大正14)小説家細井和喜蔵の命日詳細
1968年(昭和43)飛騨川バス転落事故が起き、死者104人を出す詳細
1987年(昭和62)小説家・ギター奏者深沢七郎の命日詳細
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