ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 江戸時代

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 今日は、江戸時代後期の1796年(寛政8)に、稲村三伯らが、オランダの書籍商・ハルマの蘭仏辞典を訳出した蘭和辞典『ハルマ和解』(江戸ハルマ)を完成させた日ですが、新暦では3月26日となります。
 『ハルマ和解』(はるまわげ)は、江戸時代後期の1796年(寛政8年2月18日)に、江戸において完成された、日本最初の蘭和辞典で、「波留麻和解」とも書かれ、通称「江戸ハルマ」とも呼ばれています。江戸の大槻玄沢の門人稲村三伯が、オランダ人フランソア・ハルマの『蘭仏辞書』(1729年第2版)を玄沢から借り受け、オランダ通詞出身の石井恒右衛門の教示、同門の安岡玄真や岡田甫説の協力を得て、約13年を費やして完成しました。
 1798~99年(寛政10~11)に刊行(刊行部数は30余)されましたが、全13冊本と27冊本の2種があり、約6万語を収録しています。その後、1810年(文化7)に、稲村三伯の弟子の藤林普山により、『ハルマ和解』の収録語から約3万語を選び、簡略版『訳鍵(やくけん)』が刊行されました。
 尚、1816年(文化13)にオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが、幕府からの要請を受け、中山作三郎・吉雄権之助・山時十郎・石橋助十郎ら長崎通詞11人の協力を得て、1833年(天保4)に完成した、全58巻からなる『ドゥーフ・ハルマ』(長崎ハルマ)という、同じフランソア・ハルマの『蘭仏辞書』に基づいた辞典があります。

〇江戸時代の蘭和辞書関係略年表(日付は旧暦です)

・1796年(寛政8年2月18日) 稲村三伯らが、オランダの書籍商・ハルマの蘭仏辞典を訳出した蘭和辞書『ハルマ和解』(江戸ハルマ)が完成(全13巻)する
・1798~99年(寛政10~11年) 『ハルマ和解』(江戸ハルマ)が刊行(刊行部数は30)される
・1810年(文化7年) 稲村三伯の弟子の藤林普山は『ハルマ和解』の収録語から約3万語を選び、簡略版『訳鍵(やくけん)』を刊行する
・1812年(文化9年) 長崎のオランダ商館長であったヘンドリック・ヅーフは、長崎の通詞たちの語学力向上を目的として、フランス人のフランソワ・ハルマの作った蘭仏辞典の第2版を底本にして、蘭和辞典の作成に着手する
・1816年(文化13年) オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは、幕府からの要請を受け、中山作三郎・吉雄権之助・山時十郎・石橋助十郎ら長崎通詞11人の協力を得て、『ドゥーフ・ハルマ』の本格的な編纂が開始される
・1817年(文化14年) オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが帰国するが、通詞たちが編纂作業を引き継ぐ
・1833年(天保4年) 『ドゥーフ・ハルマ』(長崎ハルマ)が完成(全58巻)する
・1855年(安政2年) 『ドゥーフ・ハルマ』(長崎ハルマ)より、約50,000語を抽出した『和蘭字彙』(おらんだじい)前編が校訂刊行される
・1858年(安政5年) 『和蘭字彙』後編が校訂刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1929年(昭和4)写真家田沼武能の誕生日詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細

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 今日は、江戸時代中期の1772年(明和9)に、田沼意次が江戸幕府の老中に就任した日(田沼時代)ですが、新暦では2月18日しなります。
 田沼時代(たぬまじだい)は、江戸時代中期に、田沼意次が側用人・老中として、長男の意知と共に、江戸幕政の実権を掌握していた時期を言います。期間は、意次が側御用人となった明和4年(1767年)から、老中を辞任させられた天明6年(1786年)の間とされてきました。
 その政策は、問屋、株仲間の育成を強化、貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、商品農産物栽培の奨励などで、前代の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があります。しかし、商人と結託して、賄賂が公然と上下に横行し、田沼父子の専横に批判が高まり、天明の大飢饉や百姓一揆・打ちこわし続発の中で、第10代将軍徳川家治が死後に失脚しました。
 一方で、自由な世情の中で、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の発達の機運が高まったともされます。
 
〇田沼意次(たぬま おきつぐ)とは?

 江戸時代中期の幕臣・大名・老中です。1719年(享保4年7月27日)に、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)で、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。
 1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。
 1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城し、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至ります。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出しました。
 しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まります。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されました。
 これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。

☆田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)

・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1899年(明治32)雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足する詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1961年(昭和36)横浜マリンタワーが開館する詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、説教僧・茶人・文人安楽庵策伝が亡くなった日ですが、新暦では2月7日となります。
 安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は、戦国時代の1554年(天文23)に、金森定近(土岐可頼)の子(兄は戦国大名金森長近)として、美濃国(現在の岐阜市山県)で生まれたとされてきました。1560年(永禄3)の7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家し、1567年(永禄7年)の11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行します。
 1578年(天正6)の25歳の時、山陽地方へと布教の旅に出て、1592年(文禄元)の39歳の時、和楽に入り、1594年(文禄3年)の41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となりました。1596年(慶長元)の43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となり、1609年(慶長14)の56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かり、1613年(慶長18)の60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となります。
 1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始め、1623年(元和9)には、全8巻が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居しました。1624年(寛永元)に茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始め、1628年(寛永5年3月17日)には、京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈しています。
 1630年(寛永7)の77歳の時、『百椿集』1巻を上梓しましたが、1642年(寛永19年1月8日)に、京都において、数え年89歳で亡くなり、所は京都誓願寺とされました。説教僧として知られ、滑稽な落し噺を説教の高座で実演し,その話材を『醒睡笑(せいすいしょう)』に集録して後世に残したので、落語の元祖とも言われています。
 以下に、『醒睡笑』の構成と序文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇安楽庵策伝の主要な著作

・笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』全8巻(1623年完成)
・記録『百椿集(ひやくちんしゆう)』(1630年)
・交友録『策伝和尚送答控(さくでんおしょうそうとうひかえ)』

〇『醒睡笑』(せいすいしょう)とは?

 京の僧侶である安樂菴策傳著の笑話集で、全8巻からなり、42項に分類された1,039話を収録しています。江戸時代前期の1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって執筆を始め、1623年(元和9)頃に完成し、1628年(寛永5年3月17日)に板倉重宗に献呈されるたと考えられています。庶民の間に広く流行した話を集め、様々な滑稽話、人情話で構成されており、「睡り(ねむり)を醒まして笑う」という、本の中に出てくる文章から題名を名付けたとされ、落語の元になったとも言われてきました。

<構成>
(巻の一)
・謂えば謂われる物の由来(よくも謂えたものだというこじつけばなし)
・落書(風刺を含んだ匿名の投書)
・ふわとのる(「ふわっ」と乗る:煽てに乗ること)
・鈍副子(どんふうす:鈍物の副司。つまり血の巡りの悪い禅寺の会計係)
・無知の僧(お経もろくに読めない坊主のはなし)
・祝い過ぎるも異なること(縁起の担ぎすぎの失敗談)
(巻の二)
・名付親方(変な名前をつける名付親)
・貴人の行跡(身分の高い人の笑いのエピソード)
・空(愚か者の笑い)
・吝太郎(けちんぼの笑い)
・賢だて(利巧ぶる人の間抜け話)
(巻の三)
・文字知り顔(知ったかぶりの間抜けさ)
・不文字(文盲なのにそれを気が付かないふりをする。おかしさ)
・文のしなじな(機知にとんだ手紙の数々)
・自堕落(ふしだら者の犯す失敗談)
・清僧(女性と交わる罪を犯さない坊主の話)
(巻の四)
・聞こえた批判(頓智裁判)
・いやな批判(不合理な裁判)
・そでない合点(見当はずれ・早合点)
・唯あり(味のある話)
(巻の五)
・きしゃごころ(やさしい風流ごころ)
・上戸(酒飲みの珍談・奇談・失敗談)
・人はそだち(育ちの悪さから来る失敗談。「氏より育ち」の逆)
(巻の六)
・稚児のうわさ(稚児から聞いた内緒ばなし)
・若道知らず(男色のおかしさ)
・恋の道(夫婦間の笑い)
・吝気(やきもちばなし)
・詮無い秘密(くだらない秘密)
・推は違うた(推理がはずれてがっかりした話)
・うそつき(ほら話)
(巻の七)
・思いの色をほかにいう(心に思っていることは態度に出てしまうという笑い話)
・言い損ないはなおらぬ(失言を何とか取り繕うとするおかしさ)
・似合うたのぞみ(たかのぞみは失敗するという話)
・廃忘(失敗するとあわてるという話、蒙昧すること)
・うたい(謡曲の文句に題材をとった笑い話)
・舞(舞の台本を聞きかじった無知な人の話)
(巻の八)
・頓作(即席頓智話)
・平家(平家物語を詠う琵琶法師にまつわる滑稽談)
・かすり(語呂合わせや駄洒落)
・秀句(秀でた詩文をもとにした言葉遊び)
・茶の湯(茶道の心得が無いために起こすしくじり話)
・祝い済まいた(めでたし、めでたしで終わる話)

〇『醒睡笑』(序)

ころはいつ、元和(げんな)九癸亥(みづのとのゐ)の稔(とし)、天下泰平、人民豊楽の折から、策伝某、小僧の時より耳にふれて、おもしろくをかしかりつる事を、反故(ほうご)の端にとめ置きたり。
是(こ)の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵と云ふ、柴の扉の明暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)をさましてわらふ。
さるまゝにや是を醒睡笑と名付け、かたはらいたき草紙を八巻となして残すのみ。

☆安楽庵策伝関係略年表

・1554年(天文23年) 金森定近(土岐可頼)の子として、現在の岐阜市山県で生まれる
・1560年(永禄3年) 7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家する
・1567年(永禄7年) 11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行する
・1578年(天正6年) 25歳の時、山陽・近畿地方へと布教の旅にでる
・1592年(文禄元年) 39歳の時、和楽に入る
・1594年(文禄3年) 41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となる
・1596年(慶長元年) 43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となる
・1609年(慶長14年) 56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かる
・1613年(慶長18年) 60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となる
・1615年(慶長20年) 京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始める
・1623年(元和9年) 『醒睡笑』(全8巻)が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居する
・1624年(寛永元年) 茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始める
・1628年(寛永5年3月17日) 京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈する
・1630年(寛永7年) 77歳の時、『百椿集』1巻を上梓する
・1642年(寛永19年1月8日) 京都において、数え年89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1920年(大正9)医師・生化学者・分子生物学者早石修の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保10年に、蛮社の獄で、江戸幕府が渡辺崋山に蟄居、高野長英に永牢を命じた日ですが、新暦では1840年1月22日となります。
 蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月18日に、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山(わたなべ かざん)とは?

 江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれます。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となり、藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、モリソン号事件に関わって、「慎機論」を著し、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で高野長英らと共に捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応する(モリソン号事件)といううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。
 その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

(前略)
今我が四周渺然[1]の海、天下拠る所の堺にして、我にありて世に不備の所[2]多く、彼が来る、本より一所に限ること能はず。一旦事あるに至ては、全国の力を以てすといへども、鞭の短くして、馬の腹に及ばざる[3]を恐るるなり。況んや西洋膻睲の徒[4]、四方[5]明かにして、万国を治め、世々擾乱[6]の驕徒[7]、海船火技[8]に長ずるを以て、我短にあたり、方に海運を妨げ、不備をおびやかさば、逸を以て労を攻む、百事反戻して、手を措く所なかるべし[9]。維昔[10]唐山[11]滉洋[12]恣肆[13]の風轉し、高明[14]空虚[15]の学盛なるより、終に其光明[16]蔀障[17]せられ、自ら井蛙の管見[18]にをつるを不知也。況や明末曲雅[19]風流[20]を尚ひ、兵戈[21]日々警むと云ども、苟も酣歌[22]皷舞[23]め士気益猥薄に陥り、終に国を亡せるが如し。嗚呼今夫れこれを在上[24]の大臣に責んと欲すれども、固より紈袴[25]の子弟、要路[26]の権臣[27]を責んと欲すれども、賄賂[28]の倖臣[29]、唯これ心有る者は儒臣[30]、儒臣[30]亦望浅ふして大を措き、小を取り、一々[31]皆不痛不癢[32]の世界と成れり。今夫此の如く束手[33]して寇[34]を待んか。
              田原藩  崋山邊誌

【注釈】

[1]渺然:びょうぜん=果てしなく広々としているさま。
[2]不備の所:ふびのところ=必要なものが完全にはそろっていない場所のこと。ここでは、海岸防備が手薄な場所。
[3]鞭の短くして、馬の腹に及ばざる:むちのみじかくして、うまのはらにおよばざる=鞭が短くて馬の腹に届かないことから、勢力が不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるという意味。
[4]西洋膻睲の徒:せいようせんせいのと=西洋の生臭い連中。
[5]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[6]擾乱:じょうらん=入り乱れて騒ぐこと。また、秩序をかき乱すこと。騒乱。
[7]驕徒:きょうと=驕り高ぶった連中。
[8]火技:かぎ=小銃・大砲などを操作する技術。
[9]逸を以て労を攻む。百事反戻して、手を措く所なかるべし:いつをもってろうをおさむ、ひゃくじはんれいして、てをおくところなかるべし=十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つ。この戦法に全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。(孫子の兵法)
[10]維昔:いせき=むかし。
[11]唐山:とうざん=中国のこと。
[12]滉洋:こうよう=広くて深い海。
[13]恣肆:しし=自分の思うままにすること。また、そのさま。わがまま。放縦。
[14]高明:こうめい=立派ですぐれた見識、考え。
[15]空虚:くうきょ=実質的な内容や価値がないこと。
[16]光明:こうみょう=明るい見通し。希望。
[17]蔀障:ぶしょう=遮られること。遮断されること。
[18]井蛙の管見:せいあのかんけん=狭い見識。見識の狭さ。
[19]曲雅:きょくが=格調が高く上品な音楽。王侯貴族の歌。
[20]風流:ふうりゅう=上品で優美な趣のあること。優雅なおもむき。
[21]兵戈:へいか=戦争。いくさ。
[22]酣歌:かんか=心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌う。
[23]皷舞:こぶ=鼓を打って舞わせること。
[24]在上:ざいじょう=上にあること。上の階層にあること。
[25]紈袴:がんこ=貴族の子弟。特に、柔弱な者をいう。
[26]要路:ようろ=重要な地位や職務。権力威勢ある役。
[27]権臣:ごんしん=権勢のある家来。
[28]賄賂:わいろ=自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。
[29]倖臣:こうしん=お気に入りの家来。
[30]儒臣:じゅしん=儒学をもって仕える臣下。
[31]一々:いちいち=一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。
[32]不痛不癢:ふつうふよう=痛くもかゆくもない。通り一遍である。いい加減でおざなりである。何ら問題とするに足りない。
[33]束手:そくしゅ=手をつかねること。手出しをしないこと。反抗しないで傍観すること。手をこまねいて。
[34]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。

<現代語訳>

(前略)
 今我が国の周囲は広くて深い海に囲まれ、世界の諸国との国境となしているものの、我が国においては海岸防備が手薄な場所が多く、外国が来寇するとすれば、もとより一ヶ所とは限らない。一旦危急のことがあるならば、全国の兵力を集めても不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるのではと心配になる。まして西洋の生臭い連中、諸国の情勢に明るく、万国を支配し、世界の秩序をかき乱す驕り高ぶった連中なのだ。航海術や小銃・大砲などを操作する技術に長けているので、我が国の短所に付け入り、まさに海運を妨害して、海岸防備の手薄を突かれれば、「十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つという戦法に、全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。」(孫子の兵法)であろう。昔、中国が広くて深い海をほしいままにして風のように転じたのに、立派ですぐれた見識だが内容や価値がない学問が盛んになるにつれ、ついにその明るい見通しが遮られ、自ら狭い見識に落ち込んでいったことがわからなかった。まして、明時代末期には格調が高く上品で優美な趣が久しくなり、戦争を日々警戒していたと言っても、不相応にも心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌い、鼓を打って舞わせたりして、士気はますます淫らで軽薄に陥り、終に国を亡してしまった如くである。
 ああ、今この事を(朝廷の)上層の大臣に訴えようとしても、もとより育ちのよい軟弱者であり、(幕府の)重責を持つ権勢のある者に訴えようとしても、賄賂を使うお気に入りの者ばかりなのだ。ただ心有るのは儒学をもって仕えている者ではあるが、その者でさえ志が浅く、大事を捨てて、小事に走り、どれもこれも皆、いい加減でおざなりであるという世界となっているのだ。今このように手をこまねいていて、外敵を待てというのか。
          田原藩   渡辺崋山記す

〇高野長英(たかの ちょうえい)とは?

 江戸時代後期の医師・蘭学者です。1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を受け、投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英著『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。
 内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする「異国船打払令」がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

☆『戊戌夢物語』抜粋

(前略)
西洋ノ風俗[1]ハタトヘ敵船ニ候モ、自国ノ者其内ニアルトキハ、放砲不仕事ニ候。然処、イキリスハ日本ニ対シ敵国ニモ之無ク、イハゝ付合モナキ他人ニ候處、今漂流人[2]ヲ憐ミ、仁義[3]ヲ名トシ、態々送来候モノヲ、何事モ取合不申、直ニ打払ニ相成[4]候テハ、日本ハ民ヲ不燐不仁[5]ノ国ト存シ。若万一其不仁[5]不義[6]ヲ憤テ、日本近海ニハイキリスノ属島夥シク之在、始終通行致候得ハ、後来、海上ノ寇[7]ヲ相ナシテ、海運ノ邪魔[8]相成候モ難計、左候得自然[9]国ノ大患[10]ニモ相成可申ヤ。譬右等ノ儀コレ無トモ、右打拂ニ相成候ハゝ、理非[11]モ分リ不申異国ヘ対シ不義[6]ノ国ト申觸レ、義国ノ名ヲ失ヒ、是ヨリ如何ナル患害[12]、萌生[13]仕候ヤモ難計、或ハ頻ニイキリスヲ恐候ヤウニモ考付ラレ候ハゝ、国内衰微仕候ヤウニ推察仕候、恐ナカラ、御武威[14]ヲ損シ候ヤウニモ相成候ハント、考ラレ候。
(後略)

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=習慣。
[2]漂流人:ひょうりゅうにん=アメリカのモリソン号が伴ってきた日本人の漂流漁師7名のこと。
[3]仁義:じんぎ=仁と義。道徳上守るべき筋道。
[4]直ニ打払ニ相成:ただちにうちはらいにあいなり=1837年に「異国船打払令」でモリソン号を砲撃して追い返したこと。
[5]不仁:ふじん=仁義のない。
[6]不義:ふぎ=人として守るべき道にはずれること。また、その行い。
[7]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。
[8]海運ノ邪魔:かいうんのじゃま=沿岸航路による物資輸送の障害になること。
[9]自然:しぜん=当然。
[10]大患:たいかん=大きな心配事。大きなわざわい。
[11]理非:りひ= 理と非。道理に合っていることとそむいていること。是非。理否。
[12]患害:かんがい=これからどうなるかという心配。また、他に迷惑を及ぼす悪事。
[13]萌生:ほうせい=草木がもえ出ること。転じて、物事が起こり始まること。
[14]頻ニ:しきに=何度も何度も。しきりに。
[15]武威:ぶい=たけだけしい威力。武力の威勢。また、武家の威光。

<現代語訳>

(前略)
西洋の習慣では、たとえ敵船であっても、自国の者が乗船している時には、鉄砲を打ちかけたりはしない。しかし、イキリスは日本に対し敵国ではなく、いってみれば、付合もない他人であるから、今、日本人の漂流民を憐れんで、道徳上守るべき筋道として、わざわざ送り届けてくれたものを、何も取り合わずに、ただちに「異国船打払令」によって打払ってしまえば、日本は人民を憐れまない仁義のない国となってしまう。もし、万一その仁義がなく、人として守るべき道にはずれていることを憤れば、日本近海にはイキリスの属島を多く所有し、始終艦船が通行しているので、後に、海上の敵となって、沿岸航路による物資輸送の障害にもなるかもしれない、そうなれば、当然国の大きなわざわいともなるであろう。たとえ右のようなことがなかったとしても、打払いを行えば、道理がわからないとして、異国ヘ対し人として守るべき道にはずれた国だと言いふらし、仁義の国という名を失い、これよりどのような迷惑を及ぼす悪事が、起こり始まるか計り知れない、あるいは、しきりにイキリスを恐れるように思いこまされると、国内が衰微するようにも推察され、恐れながら、武力の威勢を損なうことになりはしないかと、考える次第である。
(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)日本2番目の洋式灯台である野島埼灯台が初点灯する(新暦1870年1月19日)詳細
1914年(大正3)東京駅の開業式が行われる(東京駅完成記念日)詳細
1917年(大正6)相模鉄道株式会社が創立総会を開催する詳細
1947年(昭和22)「過度経済力集中排除法」が公布施行される詳細
1948年(昭和23)連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本経済自立復興の為の「経済安定9原則」を指令する詳細
1997年(平成9)東京湾横断道路(愛称:東京湾アクアライン)が開通する詳細
2002年(平成14)「東京地下鉄株式会社法」が公布・施行される詳細
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shinjyuutennoamishima01
 今日は、江戸時代中期の享保5年に、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春との心中をモデルに、近松門左衞門が『心中天網島』を脚色し、大坂・竹本座で、人形浄瑠璃として初演された日ですが、新暦では1721年1月3日となります。
 心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の世話物浄瑠璃で3巻から成っています。1720年(享保5年10月14日)に、大坂天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が、恋と義理のために網島大長寺で、夜明けの鐘とともに心中をとげた当時の事件を脚色した世話物でした。
 同年12月6日に、大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演となり、大きく成功し、近松世話物の最高傑作とされています。翌年からは、歌舞伎でも上演され、以後浄瑠璃・歌舞伎ともに影響しあって、近松半二ら合作「心中紙屋治兵衛」やその増補「天網島時雨炬燵(しぐれのこたつ)」などの改作物が生まれ、上演されました。
 その中で、治兵衛の女房おさんの頼みで、小春が泣く泣く縁を切ろうとする「河庄」の場が有名となっています。

〇近松門左衛門】(ちかまつ もんざえもん)とは?

 江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者です。江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。
 父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。
 京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。
 一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書きました。1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きます。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなりました。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになります。

<近松門左衛門の主要な作品>

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20) 幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日 詳細
1890年(明治23) 第1回帝国議会で山形有朋の施政方針演説が行われる 詳細
1912年(大正元) 「朝日新聞」において、夏目漱石著の『行人』が連載開始される 詳細
1918年(大正7) 「大学令」が公布される 詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される 詳細
1927年(昭和2) 政治雑誌「労農」が創刊される 詳細
1957年(昭和32) 「日ソ通商条約」が調印される 詳細
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