ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 江戸時代

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 今日は、江戸時代後期の1834年(天保5)に、水野忠邦(天保の改革を推進)が、江戸幕府の老中に就任した日ですが、新暦では4月9日となります。
 水野忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代の大名・老中で天保の改革の主導者です。江戸時代後期の1794年(寛政6年6月23日)に、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれましたが、幼名は於菟五郎と言いました。
 1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
 1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
 1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
 しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
 そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。

〇天保の改革(てんぽうのかいかく)とは?

 江戸時代後期の1841年(天保12)から、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の厚い信任を受け、老中首座の水野忠邦が主導した幕政改革で、享保の改革、寛政の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。
 内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。

<天保の改革の主要政策>

【経済政策】

・「倹約令」
 ぜいたくや初物の禁止
・「株仲間解散令」
 物価引き下げと在郷商人の直接統制を意図する
・「人返し令」
 都市に流入した農民を帰村させる
・「上知令」
 江戸と大坂周辺を直轄地とする
・印旛沼干拓工事
・御料所改革
・貨幣改革
 貨幣を改鋳して質を落とす

【文教政策】

・出版統制
 人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰する
・江戸の歌舞伎三座を場末の浅草に移転する
・日光社参

【外交政策】

・「天保の薪水給与令」
 「異国船打ち払い令」の緩和

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病の流行が原因が仏教崇拝にあると奏上する(新暦4月5日)詳細
1871年(明治4)郵便制度が新設され、郵便物の取扱、最初の切手(竜文切手)の発行が始まる(新暦4月20日)詳細
1912年(明治45)余部鉄橋の完成により、山陰鉄道の香住駅~浜坂駅間が開業し、京都駅~出雲今市駅間が全通する詳細
1941年(昭和16)国民学校令」が公布される詳細
1952年(昭和27)小説家・劇作家・俳人久米正雄の命日(三汀忌)詳細
1954年(昭和29)第五福竜丸が太平洋のビキニ環礁のアメリカ水爆実験で被曝する(ビキニデー)詳細
1982年(昭和57)当時の日本国有鉄道が「青春18きっぷ」の前身にあたる「青春18のびのびきっぷ」の発売を開始する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、探検家・測量家間宮林蔵が亡くなった日ですが、新暦では4月13日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

〇間宮林蔵主要な著作

・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

☆間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著『日本』で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1858年(安政5)越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)「日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、寛政の改革の一つとして、長谷川平蔵の建議により、江戸隅田川河口に無宿人の厚生施設「人足寄場」設置が認められた日ですが、新暦では4月3日となります。
 人足寄場(にんそくよせば)は、江戸幕府の寛政の改革の中で、幕臣長谷川平蔵の献策により設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設で、正式には、加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)と言います。享保時代(1716~36年)の頃より、住居も確保できない無宿者達が増加の一途を辿っており、犯罪の根源ともなっていた中で、無宿人、刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させたり、普請人足として働かせたりして、その更生を図りました。
 常陸国筑波郡上郷村や長崎、箱館、横須賀などにも設置されましたが、明治維新によって、廃止されています。

〇寛政の改革(かんせいのかいかく)とは?

 江戸時代後期の1787年(天明7)から1793年(寛政5)にかけて、江戸幕府11代将軍徳川家斉のもとで、老中松平定信が主導して行った幕政改革で、享保の改革、天保の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。天明の大飢饉による農村の疲弊により、一揆や打ちこわしが続発し、田沼時代の腐敗・失政による幕藩体制の危機的状況の回復を図ったものでした。
 享保の改革を理想として行われ、商業重視の政策を改め、農業を主とする政策を実施、士風を刷新し、思想統制・文武奨励による幕府威信の回復を特徴としています。主な内容は、倹約、備荒貯蓄の奨励の「七分金積立法」、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐令」、「風俗匡正令」、「物価引下令」、「人足寄場設置令」、「寛政異学の禁」、文武両道を奨励などでした。
 一時的に幕政は引き締まりましたが、当初期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に定信は老中を辞すことになり、頓挫します。その後もこの改革方針は、松平信明などの遺老たちにより、幕政に引き継がれることにはなりました。
 庶民は、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄しています。

<寛政の改革の主要政策>

【経済政策】

・「囲米の制」
 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に社倉・義倉を築かせ、1万石につき50石の穀物の備蓄を命じる
・「旧里帰農奨励令」
 江戸へ流入していた地方出身の農民達に旅費を支給し帰農を奨励する
・「棄捐令」
 旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じる
・猿屋町会所
 「棄捐令」によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済する
・「人足寄場設置令」
 無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した人足寄場で職業指導する
・勘定所御用達の登用
 江戸の豪商10名を登用する
・「七分金積立法」
 町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金とする
・「倹約令」
 贅沢品を取り締まる倹約の徹底を強いた

【文教政策】

・「寛政異学の禁」
 朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止する
・「処士横議の禁」
 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止し、海防学者の林子平などが処罰される
・「出版統制令」
 洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰される

【外交政策】

・ロシアの使節アダム・ラクスマンに対し、即時の通商開始を拒絶し、江戸湾、蝦夷地の海防強化を命令する

【その他】

・大奥改革に着手
 8人の上臈御年寄の老女のなかで5人が交代となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細
1877年(明治10)日本が郵便の国際機関・万国郵便連合(UPU)に加盟する(万国郵便連合加盟記念日)詳細
1917年(大正6)詩人峠三吉の誕生日詳細
1934年(昭和9)経済学者・社会運動家野呂栄太郎の命日詳細
1942年(昭和17)婦人標準服と活動衣が決定される(モンペ姿流行)詳細
1946年(昭和21)GHQより「刑事裁判権行使に関する覚書」 (SCAPIN-756) が出される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1796年(寛政8)に、稲村三伯らが、オランダの書籍商・ハルマの蘭仏辞典を訳出した蘭和辞典『ハルマ和解』(江戸ハルマ)を完成させた日ですが、新暦では3月26日となります。
 『ハルマ和解』(はるまわげ)は、江戸時代後期の1796年(寛政8年2月18日)に、江戸において完成された、日本最初の蘭和辞典で、「波留麻和解」とも書かれ、通称「江戸ハルマ」とも呼ばれています。江戸の大槻玄沢の門人稲村三伯が、オランダ人フランソア・ハルマの『蘭仏辞書』(1729年第2版)を玄沢から借り受け、オランダ通詞出身の石井恒右衛門の教示、同門の安岡玄真や岡田甫説の協力を得て、約13年を費やして完成しました。
 1798~99年(寛政10~11)に刊行(刊行部数は30余)されましたが、全13冊本と27冊本の2種があり、約6万語を収録しています。その後、1810年(文化7)に、稲村三伯の弟子の藤林普山により、『ハルマ和解』の収録語から約3万語を選び、簡略版『訳鍵(やくけん)』が刊行されました。
 尚、1816年(文化13)にオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが、幕府からの要請を受け、中山作三郎・吉雄権之助・山時十郎・石橋助十郎ら長崎通詞11人の協力を得て、1833年(天保4)に完成した、全58巻からなる『ドゥーフ・ハルマ』(長崎ハルマ)という、同じフランソア・ハルマの『蘭仏辞書』に基づいた辞典があります。

〇江戸時代の蘭和辞書関係略年表(日付は旧暦です)

・1796年(寛政8年2月18日) 稲村三伯らが、オランダの書籍商・ハルマの蘭仏辞典を訳出した蘭和辞書『ハルマ和解』(江戸ハルマ)が完成(全13巻)する
・1798~99年(寛政10~11年) 『ハルマ和解』(江戸ハルマ)が刊行(刊行部数は30)される
・1810年(文化7年) 稲村三伯の弟子の藤林普山は『ハルマ和解』の収録語から約3万語を選び、簡略版『訳鍵(やくけん)』を刊行する
・1812年(文化9年) 長崎のオランダ商館長であったヘンドリック・ヅーフは、長崎の通詞たちの語学力向上を目的として、フランス人のフランソワ・ハルマの作った蘭仏辞典の第2版を底本にして、蘭和辞典の作成に着手する
・1816年(文化13年) オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは、幕府からの要請を受け、中山作三郎・吉雄権之助・山時十郎・石橋助十郎ら長崎通詞11人の協力を得て、『ドゥーフ・ハルマ』の本格的な編纂が開始される
・1817年(文化14年) オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが帰国するが、通詞たちが編纂作業を引き継ぐ
・1833年(天保4年) 『ドゥーフ・ハルマ』(長崎ハルマ)が完成(全58巻)する
・1855年(安政2年) 『ドゥーフ・ハルマ』(長崎ハルマ)より、約50,000語を抽出した『和蘭字彙』(おらんだじい)前編が校訂刊行される
・1858年(安政5年) 『和蘭字彙』後編が校訂刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1212年(建暦2)第86代の天皇とされる後堀河天皇の誕生日(新暦3月22日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
1889年(明治22)日本画家奥村土牛の誕生日詳細
1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1929年(昭和4)写真家田沼武能の誕生日詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細

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 今日は、江戸時代中期の1772年(明和9)に、田沼意次が江戸幕府の老中に就任した日(田沼時代)ですが、新暦では2月18日しなります。
 田沼時代(たぬまじだい)は、江戸時代中期に、田沼意次が側用人・老中として、長男の意知と共に、江戸幕政の実権を掌握していた時期を言います。期間は、意次が側御用人となった明和4年(1767年)から、老中を辞任させられた天明6年(1786年)の間とされてきました。
 その政策は、問屋、株仲間の育成を強化、貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、商品農産物栽培の奨励などで、前代の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があります。しかし、商人と結託して、賄賂が公然と上下に横行し、田沼父子の専横に批判が高まり、天明の大飢饉や百姓一揆・打ちこわし続発の中で、第10代将軍徳川家治が死後に失脚しました。
 一方で、自由な世情の中で、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の発達の機運が高まったともされます。
 
〇田沼意次(たぬま おきつぐ)とは?

 江戸時代中期の幕臣・大名・老中です。1719年(享保4年7月27日)に、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)で、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。
 1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。
 1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城し、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至ります。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出しました。
 しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まります。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されました。
 これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。

☆田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)

・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1899年(明治32)雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足する詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1961年(昭和36)横浜マリンタワーが開館する詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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