ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 江戸時代

ejimaikushimajiken01
 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸城大奥年寄役・江島(絵島)が俳優生島新五郎らとの宴会により大奥の門限に遅れ、江島生島事件の発端となった日ですが、新暦では2月26日となります。
 江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、江戸城大奥で起こった風紀紊乱事件です。この年の1月14日に、江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が、芝の増上寺へ参詣した帰途、山村座に立寄って芝居見物をし、桟敷および座元の居宅で遊興して帰城し際、大奥の門限に遅れました。
 このことから、役者生島新五郎と密通を疑われ、「風紀の乱れを正す」として江島・生島新五郎の2人をはじめ大奥の女中や出入りの医者・商人など、1,500人近くが処罰されます。江島は、信州高遠藩主内藤清枚に預けられ、山村長太夫・歌舞伎俳優生島新五郎も遠島となり、山村座は解散を命じられました。
 江島は、高遠藩の江島囲屋敷に幽閉されましたが、1722年(享保7年)に、高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年には、月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められます。しかし、1741年(寛保元年4月10日)に、囲屋敷において、数え年61歳で亡くなりました。
 一方、生島新五郎は、三宅島に流刑となりましたが、1742年(寛保2年2月)に、徳川吉宗により赦免され江戸に戻り、翌年1月5日に、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなったとされるものの、1733年(享保18年)に三宅島で亡くなったたという説もあります。

〇江島生島事件関係略年表(日付は旧暦です)

・1671年(寛文11年) 生島新五郎が、大坂で生まれる
・1681年(天和元年) 江島(本名疋田みき)が、三河国において、甲府藩士・疋田彦四郎の娘として、生まれる
・1684年(貞享元年) 生島新五郎が、野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ
・1691年(元禄4年)、野田蔵之丞が生島新五郎と改名し、当時を代表する人気役者となる
・1714年(正徳4年1月12日) 江戸城大奥年寄役・絵島が俳優生島新五郎らとの宴会により大奥の門限に遅れ、絵島生島事件の発端となる
・1714年(正徳4年) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷に幽閉され、生島新五郎が、三宅島に流刑となる
・1722年(享保7年) 高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせる
・1723年(享保8年) 月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあり、高遠城内での起居が比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩が認められる
・1741年(寛保元年4月10日) 江島が、信濃国高遠藩の江島囲屋敷で、数え年61歳で亡くなる
・1742年(寛保2年2月) 生島新五郎が、徳川吉宗により赦免され江戸に戻る
・1743年(寛保3年1月5日) 生島新五郎が、江戸・小網町において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)仏教学者・チベット探検家河口慧海の誕生日(新暦2月26日)詳細
1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1874年(明治7)板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
1926年(大正15)小説家・文化庁長官だった三浦朱門の誕生日詳細
1954年(昭和29)文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始する詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

johnmanjirou01
 今日は、江戸時代後期の1851年(嘉永4)に、ジョン万次郎がアメリカ船に乗って10年ぶりに日本に帰国した日ですが、新暦では2月3日となります。
 ジョン 万次郎(中浜 万次郎)(じょん まんじろう)は、幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家です。江戸時代後期の1827年1月27日(文政10年1月1日)に、土佐国幡多郡中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の貧しい漁師の父・悦介(えつすけ)、母・汐(しお)の次男として生まれました。
 9歳で父親を亡くし、10歳で中浜浦老役を務め、今津太平宅に下働きに出ます。1841年(天保12)に14歳で、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込みますが、遭難して漂流し、伊豆諸島にある無人島の鳥島に同僚4名と共に漂着、143日後にアメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が鳥島に立ち寄った際、発見されて救助されました。
 1842年(天保13)にハワイのホノルルに寄港した折、救助された他の4名はこの地で船を降りましたが、万次郎は捕鯨航海をしながらアメリカへと渡り、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに行き、船長の養子となって一緒に暮らします。翌年からオックスフォード学校、バートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。
 1846年(弘化3)から近代捕鯨の捕鯨船員として生活を始めましたが、1850年(嘉永3年5月)に日本に帰る事を決意、帰国資金調達のため、数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就きます。同年にハワイのホノルルへ渡って漁師仲間と再会、共に上海行きの商船に乗り込みました。
 翌年に薩摩藩に服属していた琉球に、小舟に乗り換えて上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られます。1852年(嘉永5)には、漂流から11年目にして土佐・中浜の故郷に帰り、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されました。
 翌年に江戸幕府に召聘されて江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、中浜の苗字が授けられます。江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。
 しかし、スパイ疑惑によりペリーの通訳をはじめとする重要な通訳、翻訳の仕事から外されてしまいます。それでも、1860年(万延元)には、「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節団の一員として、咸臨丸に乗りアメリカに渡りました。
 その後は、小笠原諸島などの開拓調査、幕府の軍艦操練所教授、小笠原諸島近海での捕鯨などを行います。1866年(慶応2)に土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教え、翌年には薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授しましたが、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻りました。
 明治維新後は、1869年(明治2)に明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命され、翌年には普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されましたが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機し、1871年(明治4)に帰国します。以後悠々自適の生活を送っていたものの、1898年(明治31)11月12日に東京において、72歳で亡くなりました。

〇ジョン万次郎(中浜万次郎)の主要な著作

・『漂客(ひょうかく)語録』
・英会話書『英米対話捷径(しょうけい)』
・翻訳『ボーディッチ航海術書』

☆ジョン万次郎(中浜万次郎)関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1827年1月27日(文政10年1月1日)に、土佐国幡多郡中ノ浜村の貧しい漁師の父・悦介(えつすけ)、母・汐(しお)の次男として生まれる
・1835年(天保6年) 9歳で父親を亡くす
・1836年(天保7年) 10歳で中浜浦老役を務め、今津太平宅に下働きに出る
・1841年(天保12年1月) 14歳で、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込むが、遭難して漂流し、伊豆諸島にある無人島の鳥島に同僚4名と共に漂着する
・1841年(天保12年5月9日) アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が鳥島に立ち寄った際、発見されて同僚4名と共に救助される
・1842年(天保13年) ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名はこの地で船を降りる
・1842年(天保13年) 捕鯨航海を終え、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港し、船長の養子となって一緒に暮らす
・1843年(天保14年) オックスフォード学校で英語などを学ぶ
・1844年(弘化元年) バートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ
・1846年(弘化3年) 近代捕鯨の捕鯨船員として生活を始める
・1850年(嘉永3年5月) 日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く
・1850年(嘉永3年) ボイド号でホノルルから帰国の途につき、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込む
・1851年(嘉永4年2月2日) 薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られる
・1852年(嘉永5年) 漂流から11年目にして土佐・中浜の故郷に帰り、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命される
・1853年(嘉永6年) 江戸幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、中浜の苗字が授けられる
・1854年(安政元年) 幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚する
・1859年(安政6年3月) 西洋式帆船の君沢形で、品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となる
・1860年(万延元年) 「日米修好通商条約」の批准書交換のため、遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る
・1861年(文久元年) 外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行なう
・1862年(文久2年) 幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される
・1863年(文久3年) 帆船「一番丸」で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う
・1866年(慶応2年) 土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える
・1867年(慶応3年) 薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授する
・1867年(慶応3年12月) 武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻る
・1869年(明治2年) 明治新政府により開成学校(現在の東京大学)の英語教授に任命される
・1870年(明治3年) 普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機する
・1871年(明治4年) 病気のために帰国する
・1898年(明治31年)11月12日 東京において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1669年(寛文9)国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の誕生日(新暦2月3日)詳細
1740年(元文5)俳人で蕉門十哲の一人志太野坡の命日(新暦1月31日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
1951年(昭和26)日本放送協会(NHK)の歌謡番組「第1回NHK紅白歌合戦」がラジオで放送される詳細
1976年(昭和51)多国間条約である「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」が発効する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

bunkyuukenoushisetsu02
 今日は、江戸時代後期の文久元年に、開市・開港延期交渉の為、外国奉行・竹内保徳を正使とした遣欧使節団36名が品川港を出港した日ですが、新暦では、1862年1月21日となります。
 文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)は、江戸幕府が、オランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(安政五カ国条約)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団です。江戸時代後期の1858年(安政5)に、江戸幕府は開国を迫る欧米列強と相次いで修好通商条約(安政五カ国条約)を結び、江戸・大阪(両都)の開市、新潟・兵庫(両港)の開港を約束していましたが、国内の経済問題や尊王攘夷運動の激化によって期限内の履行が厳しくなり、これら開市開港の延期を各国に求めることとなりました。
 江戸幕府は、1862年1月21日(文久元年12月22日)に、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の文久遣欧使節を英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣します。最初にフランスに赴き、仏外相と交渉するものの、不調に終わり、その後、イギリスへと渡って英外相ラッセルとの交渉の末、1862年6月6日(文久2年5月9日)に、開市開港の延期を定めた「英國倫敦覺書」(ロンドン覚書)を締結しました。
 さらに、使節団は、イギリスの働きかけもあって、他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月30日(文久2年12月11日)に、帰国しました。

<文久遣欧使節一行>

正使・竹内下野守(56歳)
副使・松平石見守(33歳)
目付・京極能登守(39歳)
組頭・柴田貞太郎(46歳)
勘定・日高圭三郎(33歳) - もしくは26歳 - 日高胖の父
勘定格徒目付・福田作太郎(36歳) - 高島茂徳の兄
目見持格調役並・水品楽太郎(32歳) - 水品梅処
同・岡崎藤左衛門(27歳)
医師・高島祐啓(31歳)
雇医・川崎道民(31歳)
普請役・益頭駿次郎(36歳[3])
定役元締助・上田友助(45歳) - 上田敏の母方祖父
定役・森鉢太郎(29歳)
定役通弁御用・福地源一郎(22歳)
定役並通弁御用・立広作(22歳) - 立作太郎の叔父
同・太田源三郎
同心・斉藤大之進(39歳) - 前年東禅寺事件の警護により英政府より褒賞された
小人目付・高松彦三郎(44歳)
同・山田八郎(41歳)
翻訳方御雇・松木弘安(35歳)
同・箕作秋坪(36歳)
同・福澤諭吉(29歳)
そのほか三使節の家来が2名ずつと柴田の従者1名

竹内下野守家来・長尾条介
同・高間応輔
松平石見守家来・野沢伊久太
同・市川渡(市川清流)
京極能登守家来・黒沢新左衛門
同・岩崎豊太夫
柴田貞太郎従者・永持五郎次
賄方並小使雇人として7人いたが、各藩の藩士も含まれていた。

佐賀藩士の石黒寛次
杵築藩士の佐藤恒蔵
加賀藩士の佐野鼎
長州藩士の杉徳輔(杉孫七郎)
阿波藩士の原覚蔵
伊勢屋八兵衛手代の十兵衛

〇文久遣欧使節の旅程

<文久元年(1861年)>
・12月22日(1862年1月21日) 一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発する

<文久2年(1862年)>
・3月5日 マルセイユに入る
・3月9日 パリに到着する
・4月2日 イギリス・ロンドンに到着する
・5月9日 日本国内の事情に鑑み(すなわち攘夷熱の高まり)、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とする「ロンドン覚書」が調印される
・5月16日 オランダに到着する
・6月21日 プロイセン・ベルリンに到着する
・7月12日 ロシア・サンクトペテルブルクに入る
・9月14日 ポルトガルに到着する
・12月11日 約1年間の旅を終え一行は帰国する

☆「ロンドン覚書」(ロンドンおぼえがき)とは?

 江戸幕府とイギリスとの間で結ばれた日本の開市・開港を延期するための協定でした。1858年(安政5)に、江戸幕府は開国を迫る欧米列強と相次いで修好通商条約(安政五カ国条約)を結び、江戸・大阪(両都)の開市、新潟・兵庫(両港)の開港を約束していましたが、国内の経済問題や尊王攘夷運動の激化によって期限内の履行が厳しくなり、これら開市開港の延期を各国に求めることとなります。
 江戸幕府は、1862年1月21日(文久元年12月22日)に、竹内下野守(保徳)を正使、松平石見守(康直)を副使、京極能登守(高朗)を目付(監察使)とする全36名(のちに2名加わる)の文久遣欧使節を英国軍艦オーディン(Odin)号に乗ってヨーロッパの締約国(英国のほかにフランス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガル)へと派遣しました。最初にフランスに赴き、仏外相と交渉するものの、不調に終わり、その後、イギリスへと渡って英外相ラッセルとの交渉の末、1862年6月6日(文久2年5月9日)に、開市開港の延期を定めた「英國倫敦覺書」(ロンドン覚書)を締結します。
 さらに、使節団は、イギリスの働きかけもあって、他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年間に及ぶ旅程を終え、1863年1月(文久2年12月)、帰国しました。この「ロンドン覚書」では、新潟、兵庫の開港、江戸、大阪の開市を5年間延期すること、開港、開市延期の代償として、①安政条約に決められたとおり、貿易品の数量・価格の制限を撤廃する、②労役者(大工、船頭、教師、人夫、従僕など)の雇い入れに関する制限を撤廃する、③大名が直接外国人と取引することを妨げない、④定められた関税以外の手数料を徴収しない、⑤開港場において外国人と取引する日本商人の身分を制限しない、⑥外国人と日本人の自由な交際を阻止しない。こととしています。
 また、使節が帰国後、(1)対馬の開港を建議する、(2)現行の酒税35%を低減する、(3)現行のガラス製品の関税20%を5%とする、(4)横浜、長崎に保税倉庫を設ける、ことも約しました。そして、これら代償が履行されない場合には延期の取り消しも定められる厳しいものとなります。
 以下に、「英国倫敦覚書」(ロンドン覚書)の英語版と日本語版と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。 

☆「英國倫敦覺書」(ロンドン覚書)1862年6月6日(文久2年5月9日)

<英語版>

Memorandum (London Protocol) 

Signed at London, June 6, 1862. (9th day, 5th month, 2nd year of Bunkiu). 

It has been represented to Her Britannic Majesty's Minister in Japan by the Ministers of the Tycoon, and to Her Majesty's Government by the Envoys who have been sent to England by the Tycoon, that difficulties are experienced by the Tycoon and his Ministers in giving effect to their engagements with foreign Powers having Treaties with Japan, in consequence of the opposition offered by a party in Japan which is hostile to all intercourse with foreigners. 

Her Majesty's Government having taken those representations into consideration, are prepared, on the conditions hereinafter specified, to consent to defer for a period of five years, to commence from the 1st of January, 1863, the fulfillment of those portions of the IIIrd Article of the Treaty between Great Britain and Japan of the 26th of August, 1858, which provide for the opening to British subjects of the port of Ni-igata or some other convenient port on the West Coast of Nipon on the 1st day of January, 1860, and of the port of Hiogo on the 1st day of January, 1863, and for the residence of British subjects in the city of Yedo from the 1st day of January, 1862, and in the city of Osaka from the 1st day of January, 1863. 

Her Majesty's Government, in order to give to the Japanese Ministers the time those Ministers consider necessary to enable them to overcome the opposition now existing, are willing to make these large concessions of their rights under Treaty; but they expect that the Tycoon and his Ministers will in all other respects strictly execute at the ports of Nagasaki, Hakodate, and Kanagawa, all the other stipulations of the Treaty; that they will publicly revoke the old law outlawing foreigners; and that they will specifically abolish and do away with; 

1.-- All restrictions, whether as regards quantity or price, on the sale by Japanese to foreigners of all kinds of merchandise according to Article XVI. of the Treaty of the 26th of August, 1858. 

2.-- All restrictions on labour, and more particularly on the hire of carpenters, boatmen, boats, and coolies, teachers, and servants of whatever denomination. 

3.-- All restrictions whereby Daimios are prevented from sending their produce to market, and from selling the same directly by their own agents. 

4.-- All restrictions resulting from attempts on the part of the Custom-house authorities and other officials to obtain fees. 

5.-- All restrictions limiting the classes of persons who shall be allowed to trade with foreigners at the ports of Nagasaki, Hakodate, and Kanagawa. 

6.-- All restrictions imposed on free intercourse of a social kind between foreigners and the people of Japan. 

In default of the strict fulfilment by the Tycoon and his Ministers of these conditions, which, indeed, are no other than those which they are already bound by Treaty to fulfil, Her Majesty's Government will, at any time within the aforesaid period of five years, commencing from the 1st of January, 1863, be entitled to withdraw the concessions in regard to the ports and cities made by this Memorandum, and to call upon the Tycoon and his Ministers to carry out, without delay, the whole of the provisions of the Treaty of August 26th, 1858, and specifically to open the aforesaid ports and cities for the trade and residence of British subjects. 

The Envoys of the Tycoon accredited to Her Britannic Majesty announce their intention, on their return to Japan, to submit to the Tycoon and his Ministers the policy and expediency of opening to foreign commerce the port of Tsushima in Japan, as a measure by which the interests of Japan will be materially promoted; and they engage to suggest to the Tycoon and his Ministers to evince their goodwill to the nations of Europe, and their desire to extend commerce between Japan and Europe, by reducing the duties on wines and spirits imported into Japan, and by permitting glass-ware to be inserted in the list of articles on which an import duty of 5 per cent. is levied, and thereby remedying an omission inadvertently made on the conclusion of the Treaty; and they further engage to recommend to the Tycoon and his Ministers to make arrangements for the establishment at Yokohama and Nagasaki of warehouse in which goods coming from abroad may be deposited, under the control of Japanese officers, without payment of duties, until such time as the importers shall obtain purchasers for such goods, and be prepared to remove them on payment of the import duties. 

Her Britannic Majesty's Principal Secretary of State for Foreign Affairs and Envoys of the Tycoon have accordingly signed this Memorandum, which will be transmitted by the former to Her Majesty's Representative in Japan, and by the latter to the Tycoon and his Ministers, as an evidence of the arrangement made between them on this 6th day of June, 1862. 

(Signed) Earl Russell. 

    "    Takenouchi Shimotsukeno Kami. 

    "    Matsudaira Yewamino Kami. 

    "    Kiogoku Notono Kami. 

<日本語版>

英國倫敦覺書

文久二年壬戍五月九日(西曆千八百六十二年第六月六日)於倫敦調印

日本國內に外國との交際を害せる一黨あり其逆意の爲め大君及其執政は日本と條約を結ひし外國との交誼を保護し難しと思へは是を日本在留の英國女王のミニストルヘは大君の執政より告け女王の政府へは大君より英國へ遣せる使節より報告したり女王の政府は此報告を熟考し下に記したる取極を以て千八百五十八年第八月二十六日大不列顚と日本と取締たる條約の第三箇條中の事を施行するを千八百六十三年第一月一日より算し五年の間延す事を承諾せんと預定せり各條約第三箇條中に不列顚人の爲千八百六十年第一月一日より新潟或は日本の西岸に在る他の相當の一港を開き千八百六十三年第一月一日より兵庫を開き且不列顚人居留の爲千八百六十二年第一月一日より江戶府を開き千八百六十三年第一月一日より大坂府を開く事を定めしなり 

英國政府日本の執政に現今其國に在る逆意の者を鎭むる爲め要せる時限を得せしめんか爲條約上當然の理を枉て此大事を容允せんと思へり然れ共英國政府は大君及其執政に長崎箱館神奈川港に於て右の外條約中の取極を嚴重に施行し且外國人を擯斥する古法を廢し就中左の件々を取除くへし 

第一 千八百五十八年第八月二十六日の條約第十四箇條に基き商物の諸種を日本人より外國人に賣渡すに員數價の事に付是を拒む事 

第二 諸職人殊に工匠船夫船艇傭夫事を指南する人及從僕等其名に拘らす是を傭ふ事に付是を拒む事 

第三 諸大名其產物を市場に送り及其自家の人を以て直に是を賣るを拒む事 

第四 運上所の役人及他の士人の中賞を取る存意ありて彼是事に付拒む事 

第五 長崎箱館神奈川港に於て外國人と交易する人に身分の限程を立て之を許すを拒む事 

第六 日本人と外國人の間に懇親の徒勝手に交るを拒む事 

右の取極は素より條約に於て大君及執政の遵守すへき所なれは若此取極めを嚴密に遵守せさる時は英國政府上に述たる千八百六十三年第一月一日より算したる五年の期限中何時にても此書附に載る港都の事に付たる允諾を止め千八百五十八年第八月二十六日の條約に在る箇條を遲延せす盡く施行し上に云る所の港都を英人の交易居留の爲に開くへき事を大君及其執政に促すの理あるへし 

英國女王へ差遣されたる大君の使節は日本歸國の上外國交易の爲に對馬の港を開くの處置且利益ある趣意を大君及執政に述へし此處置は日本の利益を現に進步せしむるの擧なり且使節より說述し大君及執政に其厚意を歐羅巴人民に示し日本に輸入せる酒類の稅を減し玻璃器を五分稅を收る諸品中に加入するを許して日本と歐羅巴との交易を盛にせんと欲する意あるを示さしむへし此擧に由て條約取結の節失念せしを補ふへし使節尙大君及執政に横濱長崎に納屋を取建るの處置を上告すへし此納屋は陸揚する荷物を日本士官の取締にて預り置輸入主其荷物の買請人を得輸入稅を拂ひ之を他所に移すの用意ある迄は稅を拂ふ事なく入置爲なり英國女王の外國事務セクレタリー大君の使節共に此覺書に手記し此書をセクレタリーよりは日本在留の英國女王の公使に送り使節よりは大君及執政に送り千八百六十二年第六月六日雙方にて協議せる證とす 

 竹內下野守 花押 

 松平石見守 花押 

 京極能登守 花押 

 イール、ルッセル 手記 

   「舊條約彙纂 第一卷第二部」外務省條約局編より

<現代語訳>

ロンドン覚書

 1862年6月6日(文久2年5月9日)於:ロンドン調印

外国人とのすべての交際関係に敵対する日本の一党による反対の結果として、大君とその執政が日本と条約を結んでいる諸外国との関係について、条約を履行しがたいと日本在留の英国女王陛下の大臣には大君の執政によって、そして陛下の政府には大君によってイギリスに派遣された使節によって報告された。

これらの表明を考慮した女王陛下の政府は、以下に指定された条件の下で、1858年8月26日のイギリスと日本の間の条約の第3条項の施行する1860年1月1日、新潟港または日本西海岸のその他の相当する港の英国のへの開港、1863年1月1日からの兵庫港開港、またイギリス人居留地として、1862年1月1日から江戸市、1863年1月1日から大阪市を開く事を規定していることに対し、1863年1月1日から開始する5年間の延期に同意する準備があることを示す。

英国政府は、日本の執政に、彼らが現在存在する反対を克服することを可能にするために必要であると考える時間を与えるために、快く条約の下のそれらの権利に対し大きい譲歩を示す。しかし、英国政府は大君とその執政が、他のすべての点で、長崎、箱館、神奈川の港で、条約の他のすべての規定を厳格に執行し、外国人を非合法化する今までの法律を公的に取り消すために、具体的には左の規定を撤廃すること。

1.--1858年8月26日の条約の第16条に従い、日本人によるあらゆる種類の商品の外国人への販売に関する、数量または価格に関するすべての制限。

2.--労働に関するすべての制限、特に大工、船頭、船艇、および人夫(指南者とあらゆる名称の使用人でも)の雇用に関するすべての制限。

3.--諸大名が農産物を市場に送ること、および自家の代理人が直接販売することを禁止するすべての制限。

4.--税関当局およびその他の当局者が(関税以外の)手数料を取得しようとする試みに起因するすべての制限。

5.--長崎、箱館、神奈川の港で外国人との貿易を許可される人の身分を規定するすべての制限。

6.--外国人と日本の人々との間の社会的な種類の自由な交際関係に課せられたすべての制限。

大君とその執政によるこれらの条件の厳格な既定の履行については、実際、それらはすでに条約によって履行するように拘束されているものに他ならないが、女王陛下の英国政府は、前述の5年の期間内のいつでも 、1863年1月1日から、この覚書によって作成された港と都市に関する譲歩を撤回し、大君とその執政に、1858年8月26日の条約の規定の全体を遅滞なく、特に英国のための貿易と居留地のために前述の港と都市を開くことを求めるものとする。

英国女王陛下に派遣された大君の使節は、日本へ帰国した上で、日本の利益が物質的に進められる処置として、日本の対馬の港を開港することを上申し、かつ日本に輸入されたワインとスピリッツへの税を減らし、ガラス製品が5%の輸入関税が課されるリストに挿入されることを許し、日本とヨーロッパの間の商取引を拡大する意思を示し、それによって誤って条約の締結時に省略されたことを補填するものとする。また、輸入業者が商品の購入者を得て、それらを移動する用意ができる時まで、輸入税の納付に関して、税を支払わずに、日本の担当者の影響力の下で、外国から来る商品が預けられうる倉庫を横浜と長崎に設けることを約束することとする。

それに応じて、英国女王陛下の外務大臣および大君の使節は、共にこの覚書に署名し、この覚書は、1862年6月6日に、双方で行われた取り決めの証拠として、前者によって日本の陛下の代表に、後者によって大君とその執政に送られる。

 イール、ラッセル 署名

 竹內下野守 花押 

 松平石見守 花押 

 京極能登守 花押 

    *英語の原文より筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1572年(元亀3)三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破る(新暦1573年1月25日)詳細
1891年(明治22)第2回帝国議会で、樺山資紀の蛮勇演説が行われる詳細
1902年(明治35)「年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1905年(明治38)「ポーツマス条約」締結後のロシアの利権の引継ぎについて、日本と清国が「満洲善後条約」に調印する詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を出す詳細
1941年(昭和16)東条英機内閣が、「逓信緊急政策要綱」を閣議決定する詳細
1945年(昭和20)「労働組合法」が制定される詳細
1973年(昭和48)「国民生活安定緊急措置法」(昭和48年法律第121号)が公布・施行される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

tengutounoran01
 今日は、江戸時代後期の元治元年に、天狗党の乱が、追討軍に追われて敦賀で降伏して終結した日ですが、新暦では1865年1月14日となります。
 天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、幕末期に、水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った一連の争乱のことで、元治甲子の乱(げんじかっしのらん)とも呼ばれています。1863年(文久3年8月18日)の八月十八日政変を機に、水戸藩では、保守派の諸生(しょせい)党が実権を握りますが、これと対立する天狗党はついに朝廷の攘夷延期不満を掲げて、1864年(元治元年3月27日)に、藤田小四郎をはじめとする尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人ら60余人は、徳川斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵しました。
 この天狗党には、全国から尊攘運動有志が集まり、1000人以上を数えたといわれていますが、当初は攘夷祈願のため日光に向います。その後、下野国太平山に屯集し、5月には再び筑波山に戻りましたが、軍資金不足から、近在の諸藩や豪農商に金穀を強要して嫌われました。
 幕府が諸藩に追討を命ずると、諸生党の天狗党攻撃も激化し、水戸藩内の党争が泥沼化したものの、それに敗北します。窮地に陥った天狗党は、在洛中の一橋慶喜を頼って、武田耕雲斎を総大将として大挙西上したものの、中山道を経て、越前国敦賀で、同年12月17日に、金沢藩に降伏して、終結しました。
 その後、敦賀の鯡倉に監禁されましたが、翌年2月4日、幕命によって武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首され、2月23日までに、天狗党の乱関係者計324名が斬刑に処せられています。

〇天狗党の乱関係略年表

<安政五年(1858年)>
・7月 水戸藩前藩主徳川斉昭が将軍継嗣・通商条約調印の二問題をめぐって大老井伊直弼と対立し、謹慎処分を受ける
・8月8日 孝明天皇から戊午の密勅が水戸藩に降下される

<万延元年(1860年)>
・3月 桜田門外の変が起きる

<文久元年(1861年)>
・5月 東禅寺事件が起きる

<文久2年(1862年)>
・1月 坂下門外の変が起きる

<文久3年(1863年)>
・5月 藤田小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻る
・8月18日 八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かう

<元治元年(1864年)>
・3月27日 藤田小四郎をはじめとする尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人ら60余人は、斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵し、天狗党と呼ばれる
・4月3日 天狗党が野州日光山へ向かって出発する
・5月30日 太平山を下り、再び筑波山に戻る
・6月 真鍋宿をはじめ、足利・桐生・大間々・結城などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成し、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員する
・7月7日 幕軍・諸藩軍・諸生党は、高道祖(たかさい)村(現在の茨城県下妻市)、下妻多宝院などで、天狗党と交戦したが敗退する
・7月24日 水戸に向かったが城下に入れなかった
・7月25日 茨城郡鯉淵村(現在の水戸市鯉淵)など近隣四十数か村が幕府軍に呼応して挙兵する
・月26日 諸生党が激派追討のため水戸城周辺の村々へ足軽の動員をかけると、領民が続々と参加を願い出る
・7月29日 幕府軍と諸生党は合流してに茨城郡下土師(現在の茨城町下土師)で田中愿蔵の部隊を攻撃し、これを撃破する
・8月4日 水戸藩主徳川慶篤は、争乱鎮静化のため、連枝の宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に遣わす
・10月5日 幕命により、松平頼徳が切腹する
・10月23日 那珂湊の合戦で榊原ら千人余が投降する
・11月1日 天狗党は、武田耕雲斎を総大将として京都に上るため、大子を出発する
・11月11日 武蔵国岡部藩は、天狗党の接近を察し、藩兵数十人および大砲二門を配備して領内に本陣を構える
・11月13日 中瀬村(現在の深谷市中瀬)に渡河してきた天狗党に対し、岡部藩は夜襲を仕掛けて撃退し、佐藤長次郎を捕縛し数名を討取る
・11月14日 この日の戦闘も岡部藩が勝利し、天狗党は逃走する
・11月16日 上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦し、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走する(下仁田戦争)
・11月20日 信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利する(和田峠の戦い)
・12月2日 圓勝寺(現在の岐阜県本巣市金原)に宿泊した際には、薩摩藩士の中村半次郎と面会する
・12月11日 天狗党一行は越前国新保宿(現在の福井県敦賀市)に至る
・12月17日 追討軍に追われて敦賀で武装解除して降伏し、天狗党の乱は終結する

<慶応元年(1865年)>
・1月 敦賀の鯡倉に監禁される
・2月4日 武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首される
・2月23日 天狗党の乱関係の斬首が終わる(計324名)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1164年(長寛2)後白河院が平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要が行なわれる(新暦1165年1月30日)詳細
1701年(元禄14)第114代の天皇とされる中御門天皇の誕生日(新暦1702年1月14日)詳細
1709年(宝永6)第113代の天皇とされる東山天皇の命日(新暦1710年1月16日)詳細
1902年(明治35)小学校教科書の採定をめぐる府県担当官と教科書会社の贈収賄事件(教科書疑獄事件)が発覚する詳細
1938年(昭和13)日本画家小川芋銭の命日詳細
1945年(昭和20)「衆議院議員選挙法」改正の公布により、日本で国政への女性参政権が認められる詳細
1947年(昭和22)国家地方警察と自治体警察を設置する「旧警察法」が公布(施行は翌年3月6日)される詳細
1957年(昭和32)恩賜上野動物園内に常設では日本初のモノレールが開業する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

akerakankou01
 今日は、江戸時代後期の寛政10年に、戯作者・狂歌師で狂歌三大家の一人とされた朱楽菅江が亡くなった日ですが、新暦では、1799年1月17日となります。
 朱楽菅江(あけら かんこう)は、江戸時代中期の1740年(元文5年10月24日)に、江戸において、幕臣の家に生まれた(元文3年生まれの異説あり)とされますが、本名は山崎景基(後に景貫と改名)と言いました。江戸幕府の与力として市谷(現在の東京都新宿区)に居を構えますが、内山賀邸に学び、和歌と雑俳に親しんだとされます。
 安永年間(1772~1781年)の初め頃に、同門の四方赤良(太田南畝)、唐衣橘洲らに誘われて狂歌を始め、しだいに普及流行するとともに、天明狂歌壇の中心的人物となり、赤良、橘洲と並ぶ狂歌三大家の一人とされるようになりました。その中で、洒落本も出筆し、1777年(安永6年)に『売花新駅(ばいかしんえき)』、1779年(安永8年)に『大抵御覧(たいていごらん)』、『雑文穿袋(ざつもんせんてい)』を刊行しています。
 1780年(安永9年)に、牛込蓬莱連に所属するようになり『川傍柳』の編纂に協力し、1783年(天明3年)には、『万載狂歌集』を大田南畝とともに編纂し、天明狂歌ブームの火付け役となりました。1785年(天明5年)には、狂歌集『故混馬鹿集(ここんばかしゅう)』を刊行、妻の「節松嫁々」(ふしまつのかか)とともに狂歌集団「朱楽連」(しゅらくれん)を結成し、江戸狂歌界の中心的人物として活動します。
 寛政年間(1789~1801年)に入ると、『狂歌大体』を著し、狂歌の作風を和歌に近いものへと変化させました。1791年(寛政3年)には、不忍池のほとりに隠居し、芬陀利華庵と号したものの、1799年(寛政11年12月12日)に、この場所において、数え年59歳で亡くなっています。

<朱楽菅江の代表的な狂歌>

・「立て見し 柱暦も 寝転んで 読めるばかりに 年は暮れにき」(古今狂歌袋)
・「借金も 今はつゝむに つゝまれず やぶれかぶれの ふんどしの暮」(万載狂歌集)
・「執着の 心や娑婆に 残るらん 吉野の桜 さらしなの月」(辞世の句)

〇朱楽菅江の主要な著作

・洒落本『売花新駅』朱楽舘主人作、桃江(1777年)
・洒落本『雑文穿袋』(1779年)
・洒落本『大抵御覧』(1779年)
・狂歌集『万載狂歌集』四方赤良(太田南畝)共撰(1783年)
・『鸚鵡盃』(1788年)
・『八重垣縁結』(1788年)
・狂歌集『故混馬鹿集』(1785年)
・『狂言鶯蛙集』(1785年)
・『絵本江戸爵』朱楽館主人著、蔦唐丸編、喜多川歌麿画(1786年)
・『潮干のつと』あけら菅江編、喜多川歌麿画(1790年)
・『狂歌大体』朱楽菅江編(1791年)

☆朱楽菅江関係略年表

・1740年(元文5年10月24日)? 江戸に生まれる
・1772年(安永5年)頃 四方赤良(太田南畝)、唐衣橘洲らとともに狂歌を始める
・1777年(安永6年) 洒落本『売花新駅(ばいかしんえき)』を刊行する
・1779年(安永8年) 洒落本『大抵御覧(たいていごらん)』、「雑文穿袋(ざつもんせんてい)」を刊行する
・1780年(安永9年) 牛込蓬莱連に所属するようになり、『川傍柳』の編纂に協力する
・1783年(天明3年) 『万載狂歌集』を大田南畝とともに編纂し、天明狂歌ブームの火付け役となる
・1785年(天明5年) 狂歌撰集『故混馬鹿集』を刊行する
・1791年(寛政3年) 不忍池のほとりに隠居し、芬陀利華庵と号する
・1799年(寛政11年12月12日) 江戸・池之端の芬陀利華庵において、数え年59歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まる(新暦12月30日)詳細
1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1908年(明治41)北原白秋、木下杢太郎らが青年文芸・美術家の懇談会「パンの会」を結成する詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
1994年(平成6)小説家・歌人中河与一の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ