ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 江戸時代

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 今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、久里浜で浦賀奉行がペリーとが会見し、米大統領からの「フェルモアの国書」を受領した日ですが、新暦では7月14日となります。
 フェルモアの国書(ふぇるもあのこくしょ)は、江戸時代後期の1853年(嘉永6年6月3日)の代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊(4隻編成)の浦賀来航(黒船来航)時に、持参されたアメリカ合衆国大統領フィルモアから日本皇帝(将軍)宛の国書(1852年11月13日付)です。その内容は、日本に開国を迫り、友好、貿易、石炭と必需品の供給、遭難者の保護などを求めるものでした。
 江戸幕府は、同年6月9日に浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーとが会見し、大統領フィルモアの国書、提督の信任状、覚書などが手渡されます。しかし、当時幕府側には英語に堪能な通訳がいなかったため、オランダ語を介して、苦労して翻訳された上、返答には時間がかかるとし、1年の猶予を求めたため、ペリー艦隊は一端帰国することとなりました。
 翌1854年(嘉永7年1月16日)に、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航し、幕府側と協議の末、同年3月3日に「日米和親条約」(神奈川条約)が締結されて、開国が実現することとなります。

〇フェルモアの国書 (英語版全文) 1852年(嘉永5)11月13日付

From Millard Fillmore, President of the United States of America,
to His Imperial Majesty, the Emperor of Japan
 November 13, 1852.

GREAT and Good Friend: I send you this public letter by Commodore MatthewC. Perry, anv officer of the highest rank in the navy of the United States,and commander of the squadron now visiting your imperial majesty’s dominions.
I have directed Commodore Perry to assure your imperial majesty that Ientertain the kindest feelings towards your majesty’s person and government,and that I have no other object in sending him to Japan but to proposeto your imperial majesty that the United States and Japan should live infriendship and have commercial intercourse with each other.
The Constitution and laws of the United States forbid all interferencewith the religious or political concerns of other nations. I have particularlycharged Commodore Perry to abstain from every act which could possiblydisturb the tranquility of your imperial majesty’s dominions.
The United States of America reach from ocean to ocean, and our Territoryof Oregon and State of California lie directly opposite to the dominionsof your imperial majesty. Our steamships can go from California to Japanin eighteen days.
Our great State of California produces about sixty millions of dollarsin gold every year, besides silver, quicksilver, precious stones, and manyother valuable articles. Japan is also a rich and fertile country, andproduces many very valuable articles. Your imperial majesty’s subjectsare skilled in many of the arts. I am desirous that our two countries shouldtrade with each other, for the benefit both of Japan and the United States.
We know that the ancient laws of your imperial majesty’s government donot allow of foreign trade, except with the Chinese and the Dutch; butas the state of the world changes and new governments are formed, it seemsto be wise, from time to time, to make new laws. There was a time whenthe ancient laws of your imperial majesty’s government were first made.
About the same time America, which is sometimes called the New World, wasfirst discovered and settled by the Europeans. For a long time there werebut a few people, and they were poor. They have now become quite numerous;their commerce is very extensive; and they think that if your imperialmajesty were so far to change the ancient laws as to allow a free tradebetween the two countries it would be extremely beneficial to both.
If your imperial majesty is not satisfied that it would be safe altogetherto abrogate the ancient laws which forbid foreign trade, they might besuspended for five or ten years, so as to try the experiment. If it doesnot prove as beneficial as was hoped, the ancient laws can be restored.The United States often limit their treaties with foreign states to a fewyears, and then renew them or not, as they please.
 I have directed Commodore Perry to mention another thing to your imperial majesty.
Many of our ships pass every year from California to China; and great numbers of our people pursue the whale fishery near the shores of Japan. It sometimes happens, in stormy weather, that one of our ships is wrecked on your imperial majesty’s shores. In all such cases we ask, and expect, that our unfortunate people should be treated with kindness, and that their property should be protected, till we can send a vessel and bring them away. We are very much in earnest in this. 
Commodore Perry is also directed by me to represent to your imperial majestythat we understand there is a great abundance of coal and provisions inthe Empire of Japan.
Our steamships, in crossing the great ocean, burn a great deal of coal,and it is not convenient to bring it all the way from America. We wishthat our steamships and other vessels should be allowed to stop in Japanand supply themselves with coal, provisions, and water. They will pay forthem in money, or anything else your imperial majesty’s subjects may prefer;and we request your imperial majesty to appoint a convenient port, in thesouthern part of the empire, where our vessels may stop for this purpose.We are very desirous of this.
These are the only objects for which I have sent Commodore Perry, witha powerful squadron, to pay a visit to your imperial majesty’s renownedcity of Edo: friendship, commerce, a supply of coal and provisions, andprotection for our shipwrecked people.
We have directed Commodore Perry to beg your imperial majesty’s acceptanceof a few presents. They are of no great value in themselves; but some ofthem may serve as specimens of the articles manufactured in the UnitedStates, and they are intended as tokens of our sincere and respectful friendship.
May the Almighty have your imperial majesty in His great and holy keeping! 
In witness whereof, I have caused the great seal of the United States tobe hereunto affixed, and have subscribed the same with my name, at thecity of Washington, in America, the seat of my government, on the thirteenthday of the month of November, in the year one thousand eight hundred andfifty‑two.
 [Seal attached]

Your good friend,
 Millard Fillmore
 By the President:
Edward Everett, Secretary of State

<江戸幕府による日本語訳>

フェルモアの国書
予、今水師提督「マッテウ、セ、ヘルリ」を以て書を殿下に呈す。此者ハ即合衆国の海軍第一等の将にして、今次殿下の領地に航到せる一隊軍艦の総督なり。予、已に水師提督「ペルリ」に命じて、予が殿下に対し、且貴国の政廷に対し極めて懇切の情を含むことを告明せしめ、又且今次「ヘルリ」を日本に遣はす、他の旨趣あるに非ず、唯我合衆国と日本とは、宜く互に親睦し、且交易すべき所なるを告げ知らしむると欲するに在るのみ。合衆国の基律及び諸律は、固より其各個民人に禁戒を下し、他邦の民の教法・政治 を妨くることを得さらしむ、予、特に水師提督「ペルリ」に命して是等の事を厳禁せしむ、是貴国の安穏を妨げさらんことを欲してなり。
北亜墨利加合衆国は、大西洋より大東洋(太平洋)に達するの国にして、就中其「オレゴン」州及び角里伏爾尼亜(カリホルニア)の地は正に貴国と相対す、我か蒸気船角里伏爾尼亜を発すれは、十八日を経て貴国に達することを得るなり。我か角里伏爾尼亜の大州は、毎歳凡そ金六千万「ドルラル」(本邦の千百五十二万四千五百両に当る)、銀若干、水銀若干、宝石若干種及び其他諸種貴重の物件を産す、日本も亦豊富肥沃の国にして、幾多貴重の物品を出す、貴国の民亦諸般の技芸に長せり、予が志二国の民をして交易を行わしめんと欲す、是以て日本の利益となし、亦兼て合衆国の利益となさむことを欲してなり。
 貴国従来の制度、支那人及び和蘭人を除くの外は、外邦と交易することを禁ずるは、固より予が知る所なり、然れとも、世界中時勢の変換に随ひ、改革の新政行ハるるの時に当っては、其時に随ひて新律を定むるを智と称すべし、蓋し、貴国旧制の法律初めて世上に聞こへし時は、今より是を見れハ既に甚た古りたり。
 此時代に当りて、亜墨利加州始めて見出され、或は是を新世界と名づけ欧羅巴人これに住棲せり、此頃に在てハ亜墨利加は、人民稀少にして、其民皆貧陋なりしか、当今は民口大に蕃息し、交易亦甚弘博となれり、故に殿下、若し舊律を改革し、両国の交易を允准あるに於ては両国の利益極めて大なること疑いなし。然れども殿下若し外邦の交易を禁停せる古来の定律を全く破棄することを欲せさるときハ、五年或は十年を限りて允准し、以て其利害を察し、若し果たして貴国に利なきに於てハ再び舊律を回復して可成り、凡合衆国他邦と盟約を行ふには常に数年を限りて約定す、而して其事便宜なるを知るときは、再び其盟約を尋ぐこととす。
予、更に水師提督に命して一件の事を殿下に告明せしむ、合衆国の舶毎歳角里伏爾尼亜より支那に航するもの甚だ多し、又鯨猟の為、合衆国人日本海岸に近づくもの少なからず、而して若し颶風あるときは、貴国の近海にて往々破船に逢うことあり、若し是等の難に遭うに方ってハ、貴国に於て其難民を撫卹し其財物を保護し、以て本国より一舶を送り其難民を救ひ取るを待たん事、是、予の切に請ふ所なり。
 予、又水師提督「ペルリ」に命して次件を殿下に告げしむ、蓋、日本国に石炭甚だ多く、又食料多き事ハ予か曾て聞知れる所なり、我国用ふる所の蒸気船ハ其大洋を航するに方って石炭を費すこと甚多し、而して其石炭を亜墨利加より搬運せんとすれハ、其不便知るへし、是を以て予願ハくハ、我国の蒸気船及其他の諸舶、石炭、食料及水を得んが為に日本に入ることを許さん事を請ふ、若し其の償ひは、価銀を以てするも、或ひは貴国の民人好む所の物件を以てするも可なり。請ふ、殿下、貴国の南地に於て、一地を択び、以て我が舶の入港を許されんことを。是予が深く願ふ所なり。
  一八五二年十一月十三日 

     『幕末外国関係文書』より
 
<現代語訳> 

フェルモアの国書

アメリカ合衆国の大統領、ミラード・フィルモアから、日本皇帝(将軍)へ
1852年11月13日

偉大なる善き友人へ
アメリカ海軍で最高ランクの担当将校であり、現在、貴国の陛下の臣下を訪れている戦隊の司令官であるマシューC.ペリー提督からのこの公文書をお送りします。
私はペリー提督に、陛下と政府に親愛な気持ちを抱かせることを保証し、彼を日本に派遣することは、米国と日本が友好関係を築き、お互いに商業的な交流をする他に目的はないことを、陛下に提案することを指示しました。
米国の憲法および法律は、他の国の宗教的または政治的懸念への干渉をすべて禁じています。私は特に、ペリー提督に、貴国の領土の静けさを乱す可能性のあるあらゆる行為を控えるよう要求しました。
米国は海から海へと広がっており、オレゴン州とカリフォルニア州は貴国の領土の真向かいにあります。私たちの蒸気船は、カリフォルニアから日本に18日で行くことができます。
私たちの偉大なカリフォルニア州は、銀、水銀、宝石、その他の多くの貴重な産物に加えて、毎年約6000万ドルの金を生産しています。日本も肥沃で豊かな国であり、非常に貴重な品々を数多く産出しています。貴国の人々は、多くの技芸に熟練しています。日米両国の利益のために、両国が相互に貿易することを望んでいます。
 貴国の今までの法律では、中国人とオランダ人を除き、外国貿易は許可されていません。 しかし、世界の情勢が変化し、新しい政府が形成されるにつれ、新しい法律を制定することは賢明なことです。貴国の今までの法律が最初に作られた時は時宜を得ていました。
 同じ頃、新世界と呼ばれたアメリカが最初に発見されて、ヨーロッパ人が定住しました。長い間、ほんのわずかな人口でしたが、貧しい人々でした。それらは今や非常に増大し、その商取引は非常に広範囲に及んでいます。そして、もし貴国が今までの法律を変えて、二国間の自由貿易を許すなら、それは両方にとって非常に有益であると考えています。 
 貴国が、外国貿易を禁ずる今までの法律を完全に廃止することが安全であることに満足していない場合、試行することにより、それらを5年または10年間停止される可能性はいかがでしょう。それが期待したほど有益でないことが証明されれば、今までの法律を復活することもできます。米国は、しばしば、外国との条約を数年に制限し、その後、彼らが望むようにそれらを更新するかどうかを決めます。
 私はペリー提督に貴国に別のことも言及するように指示しました。
 私たちの船の多くは、カリフォルニアから中国まで毎年航行しています。そして、私たちの多くの人々が日本の海岸近くで捕鯨を行っています。荒天時に、私たちの船が貴国のある海岸で難破することも時々起こります。そのようなすべての場合において、私たちは、遭難者が親切に扱われるべきであり、私たちが船を送って彼らを救出することができるまで、彼らの財産が保護されるべきであることを願い、期待します。 私たちはこれに非常に真剣に取り組んでいます。
ペリー提督も私から、貴国に豊富な石炭と食料が存在することを理解していることを皇帝陛下に表明するよう指示されています。
私たちの蒸気船は、大海を渡る際に大量の石炭を消費します。アメリカから遠くまでこれを積載していくのは大変です。私たちは、蒸気船や他の船舶が日本に立ち寄って、石炭、食料、水を供されることを許可されることを願っています。彼らはお金、または貴国の人が望む他の適当な物でそれらを支払います。そして、私たちは帝国陛下に、私たちの船がこの目的のために停泊することができる、貴国の南部にある便利な港を指定することを要求します。私たちはこれを非常に望んでいます。
 友好、貿易、石炭と食料の供給、そして難破した人々の保護は、私が強力な戦隊と共にペリー提督を貴国の名高い江戸の街へ向けて派遣した唯一の目的です。
 私たちは、ペリー提督に、いくつかの贈呈品を貴国に受け入れてもらうように指示しました。それら自体には大きな価値はありませんが、それらのいくつかは、米国で製造された製品の見本として機能する可能性があり、私たちの誠実で敬意のある友情の証として意図されています。
 皇帝陛下に神のご加護あらんことを!
その証として、私の政府の所在地であるアメリカのワシントン市において、米国の印璽をここに押し、私の署名をしました。 1858年11月13日。
 【印璽】

 陛下の善き友人、ミラード・フィルモア。
 大統領に侍して、エドワード・エベレット、国務長官。 

 *筆者が英語の原文より訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1488年(長享2)加賀一向宗門徒が対立していた守護富樫政親を攻めて自刃(長享一揆)させる(新暦7月17日)詳細
1767年(明和4)読本・合巻作者滝沢馬琴の誕生日(新暦7月4日)詳細
1896年(明治29)「山縣・ロバノフ協定」(朝鮮問題に関する日露間議定書)が締結される詳細
1923年(大正12)小説家有島武郎の命日(武郎忌)詳細
1938年(昭和13)文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」により集団勤労作業が始まり、学徒勤労動員の魁となる詳細
1947年(昭和22)「朝日新聞」で石坂洋次郎著の小説『青い山脈』の連載が開始される詳細
1952年(昭和27)「日本国とインドとの間の平和条約」(通称:日印平和条約)が調印される詳細
1995年(平成7)衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(戦後50年決議)」が採択される詳細

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、上野・寛永寺に立て籠った彰義隊が新政府軍の総攻撃(上野戦争)により敗走し、新政府が江戸を掌握した日ですが、新暦では7月4日となります。
 上野戦争(うえのせんそう)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、幕末明治維新期の1868年(慶応4年5月15日)に、江戸城無血開城を不満として江戸・上野の寛永寺(現在の東京・上野公園)に立て籠って抵抗する彰義隊を新政府軍が壊滅させた戦いです。1868年(慶応4年2月)に徳川慶喜の護衛を名目に旧幕臣を中心に彰義隊が結成され、4月の江戸開城後は、しばしば新政府軍と衝突、慶喜の水戸退去後も解隊勧告に従わず輪王寺宮をたてて抵抗しました。
 寛永寺に集結した旧幕府側の彰義隊などの抵抗勢力に対し、西郷隆盛らの薩摩藩兵のほか、長州藩兵などの新政府軍が攻撃し、本郷から佐賀藩が砲撃、1日で決着がつき、新政府軍の勝利となります。彰義隊は壊滅しますが、一部は輪王寺宮と共に、奥羽地方に逃れ、関東地方での新政府の支配権が確立しました。

〇彰義隊(しょうぎたい)とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4年2月23日)に結成された、佐幕派の部隊です。戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、新政府に対する恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居しました。
 しかし、これに反対し、東征軍 (官軍) に対する徹底抗戦を唱える旧幕臣の渋沢成一郎(頭取)、天野八郎(副頭取)らが彰義隊を結成、その勢力は3,000人に達し、浅草本願寺を屯所とします。徳川家がこれを認め、江戸市中警衛を任されると、慶喜護衛を名目に上野寛永寺に移転しました。
 同年4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜が水戸へと退去しても、そのまま抵抗を続けるものが多く、5月15日に東征軍 (官軍) の大村益次郎指揮の部隊と戦い(上野戦争)ます。しかし、敗北して部隊としては壊滅しますが、一部は奥州に逃れて、奥羽越列藩同盟の諸藩と共に、東征軍 (官軍) との戦いを続けました。

〇戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係略年表

<1868年(慶応4/明治元)>

・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>

・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3)幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日)詳細
1615年(慶長20)武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日)詳細
1884年(明治17)群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件)詳細
1889年(明治22)大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典『言海』第一冊が発刊される詳細
1891年(明治25)建築家村野藤吾の誕生日詳細
1912年(明治45)長塚節著の『土』が春陽堂から刊行される詳細
1932年(昭和7)五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される詳細
1972年(昭和47) 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1841年(天保12)に、江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原洋式軍事演習を行なった日ですが、新暦では6月27日となります。
 徳丸ヶ原洋式軍事演習(とくまるがはらようしきぐんじえんしゅう)は、江戸時代後期の1841年(天保12年5月9日)に、江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で実施した、日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習です。1840年(天保11年9月)に高島秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言しました。
 それにより、翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原洋式軍事演習(洋式砲術と洋式銃陣の公開演習)を実施することになります。当日は、老中以下の諸役人が見守る中で、長崎から連れてきた門人のほか江戸で入門した者も加えて総勢129名で、二つの歩兵部隊を編成したうえに騎兵3騎、野戦砲3門の操演をも加えた本格的な調練を行いました。
 その内容は、①モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)、②モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)、③ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)、④ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)、⑤馬上筒の操練(1往復3挺使用)、⑥ゲベール銃備打(97名が一斉射撃)、⑦野戦筒の操練(3門の砲を使用)、⑧剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)というものでした。その結果、幕府は、高島流砲術を採用することとし、輸入砲をすべて買い上げ、併せて、代官江川英竜(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じています。
 尚、1922年(大正11)に、陸軍を中心に高島秋帆を顕彰する動きがあり、当時の徳丸原の弁天塚に徳丸原遺跡碑(その後、徳丸ヶ原公園へ異説)、松月院に紀功碑がそれぞれ建立されました。

〇高島秋帆(たかしま しゅうはん)とは?

 江戸時代後期の兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者です。1798年(寛政10年8月15日)に、長崎において、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれましたが、名は茂敦(通称四郎太夫)と言いました。父から荻野流、天山流砲術を学び、1814年(文化11)には、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となります。
 通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島に来たオランダ人から直接に兵学・西洋砲術を学び、大砲の購入・鋳造に努め、1834年(天保5年)には高島流砲術を完成させ、教授するようになりました。翌年には、入門して学んでいた肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上しています。
 1840年(天保11年)のアヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言しました。翌年幕命で出府し、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ない、幕府に高島流砲術が採用され、幕臣江川太郎左衛門、下曾根金三郎の二人に高島流を皆伝して長崎に帰ります。
 しかし、幕府町奉行鳥居耀蔵の讒言にあい、1842年(天保13)に謀反の罪を着せられ、お家断絶となって投獄されました。その後、幽囚10年の1853年(嘉永6)にペリー来航など世情も大きく変化したこともあって、赦免されて出獄、江川太郎左衛門の許に身を寄せます。
 1855年(安政2)に、幕府の普請役に取り立てられ、翌年には具足奉行格となり、さらに講武所砲術師範役も勤めるようになりました。1864年(元治元)に『歩操新式』等の教練書を編纂、「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残したものの、1866年(慶応2年1月14日)に、江戸において、数え年69歳で亡くなっています。

☆高島秋帆関係略年表(日付は旧暦です)

・1798年(寛政10年8月15日) 長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれる
・1814年(文化11年) 父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となる
・1823年(文政6年) 26歳の時、出島に来たオランダ商館長スチュルレルから近代洋式砲術を学ぶ
・1834年(天保5年) 私費で銃器等を揃え、高島流砲術を完成させる
・1834年(天保5年) 肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門する
・1835年(天保6年) 鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上する
・1838年(天保9年) 長崎の大火で、大村町(現在の万才町)の高島邸が類焼する
・1840年(天保11年) アヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言する
・1841年(天保12年5月9日) 武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なう
・1842年(天保13年) 長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となる
・1853年(嘉永6年) ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄する
・1855年(安政2年) 幕府の普請役に任ぜられる
・1856年(安政3年) 幕府の講武所砲術師範役、具足奉行格となる
・1857年(安政4年) 富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤める
・1864年(元治元年) 『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂する
・1866年(慶応2年1月14日) 数え年69歳で死去する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1906年(明治39)書家金子鷗亭の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細
1942年(昭和17)「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1865年(慶応元)に、坂本龍馬が長州の桂小五郎と会談し、薩長同盟が始動した日(閏5月)ですが、新暦では6月28日となります。
 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した、江戸幕府を倒すための政治的・軍事的密約で、薩長盟約または薩長連合とも呼ばれてきました。薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。
 しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし,薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。
 これにより、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
 以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「薩長六ケ条盟約」1866年(慶応2年1月21日)

木戸孝允(桂小五郎)が会談内容を六ケ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)による

(表書)

一、戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華[1]へも千程は差置[2]、京・坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度[3]尽力之次第有之候との事

一、万一負色[4]に有之候とも、一年や半年に決て潰滅[5]致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度[3]有之候との事

一、是なり[6]にて幕兵東帰[7]せしときは、屹度[3]朝廷へ申上、直様冤罪[8]は従朝廷御免[9]に相成候都合に、屹度[3]尽力との事

一、兵士をも上国[10]之上、橋・会・桑[11]等も如只今次第にて、勿体なくも[12]朝廷を擁し奉り、正義を抗み[13]、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外は、無之との事

一、冤罪[7]も御免[9]之上は、双方誠心[15]以相合し、皇国之御為に砕身[16]尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても、今日より双方皇国之御為皇威[17]相暉き、御回復に立至り候を目途[18]に誠心[15]を尽し、屹度[3]尽力可仕との事

(裏書)

表に御記被成候六条ハ、小・西両氏[19]及老兄・龍等も御同席ニて談論[20]セし所ニて毛も[21]相違無之候、後来[22]といへとも決して変わり候事無之ハ神明[23]の知る所ニ御座候、
丙寅 二月五日 坂本龍

    『史義史料』四より

【注釈】

[1]浪華:なにわ=大阪(大坂)のこと。
[2]差置:さしおく=人や物をある位置・場所にとどめる。
[3]屹度:きっと=確かに。必ず。
[4]負色:まけいろ=戦いに、負けそうな様子。敗色。
[5]潰滅:かいめつ=ひどくこわれてだめになること。
[6]是なり:これなり=物事が、そこに示されているままの状態、様子でこれきり変わらないさま。現在の状態。今のまま。このまま。
[7]東帰:とうき=東の地に戻ること。この場合は、江戸へ戻ること。
[8]冤罪:えんざい=罪がないのに疑われ、または罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。
[9]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[10]上国:じょうこく=都へ上ること。上京。
[11]橋・会・桑:きょう・かい・そう=一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)のこと。
[12]勿体なくも:もったいなくも=申すも畏れ多いことに。畏れ多くも。
[13]抗み:こばみ=張り合う。手向かう。さからう。
[14]周旋:しゅうせん=当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋。
[15]誠心:せいしん=心に偽りのないこと。真実の心。また、そのさま。まごころ。
[16]砕身:さいしん=身をくだくほど献身的につとめること。献身的に働くこと。
[17]皇威:こうい=天皇の威光。皇帝の威勢。
[18]目途:もくと=めあて。目的。
[19]小・西両氏:こ・さいりょうし=小松帯刀・西郷隆盛両氏のこと。
[20]談論:だんろん=談話と議論。また、談話し議論すること。論談。
[21]毛も:けも=非常にわずかなことのたとえ。ほんの少しも。
[22]後来:こうらい=この後。ゆくすえ。将来。
[23]神明:しんめい=神。神祇。

<現代語訳>

(表書)

一、(幕府と長州藩の間で)戦となった時は、すぐに2,000余の兵を急いで上京させ、現在在京の兵と合わせて、浪華(大坂)へも1,000程は駐留させて、京都・大坂の両所を守備させること。

一、戦局が自然に我らの勝利と成りそうなとき、その時は(薩摩藩は)朝廷へ上申して、きっと(長州藩のため)尽力するようにすること。

一、万が一敗戦濃厚になったときも、一年や半年では決して壊滅することはないので、その間には必ず尽力するべきようにしてほしいこと。

一、勝負がつかなくて、幕府兵が江戸へ帰還したときは、きっと朝廷へ上申し、すぐに冤罪は朝廷より許してもらえるように、必ず尽力してほしいこと。

一、兵士をも上京の上、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)等も今のような状態では、畏れ多くも朝廷を擁し奉って、正義に抗い、周旋尽力の道を遮断されたときは、ついに(薩摩藩も)決戦におよぶ他ないこと。

一、(長州藩の)冤罪も晴れたならば、薩長双方が真心を以て一緒になり、皇国のために献身的に力を尽くすことは言うに及ばず、いづれの道にしても、今日より薩長双方が皇国のため、皇威を発揚し、その回復が出来ることを目標に真心を尽し、きっと尽力するべきこと。

(裏書)

表にお記しになった六ケ条は、小松帯刀・西郷隆盛両氏および老兄・龍馬なども同席した上で、談話・議論した結果であり、ほんの少しも相違のないものです。この後と言っても、決してこれが変わる事がない事は、神様の知る所であります。

慶応二年二月五日 坂本龍馬

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 今日は、江戸時代中期の1730年(享保15)に、江戸幕府が上げ米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻した日ですが、新暦では5月31日となります。
 上げ米の制(あげまいのせい)は、江戸時代中期に幕府の財政窮乏を救うため享保の改革の一つとして、1722年(享保7年7月3日)に八代将軍徳川吉宗が諸大名に「上げ米の令」を出して課した制度です。諸藩に1万石につき 100石の割合で上納させ、その代償として、諸大名の参勤交代で江戸に在府する期間を半分にし、負担軽減を図りました。
 反対する意見も多かったので、幕府財政が一応安定した1730年(享保15年4月15日)に廃止され、参勤交代制も以前に戻りました。
 以下に、「上げ米の令」の原文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「上げ米の令」 (全文) 1722年(享保7年7月3日)発布

 上げ米の令

 御旗本[1]ニ召し置かれ候御家人[2]、御代々[3]段々相増し候。御蔵入高[4]も先規[5]よりハ多く候得共、御切米[6]御扶持[7]方、其外表立候[8]御用筋[9]渡方[10]ニ引合[11]候ては、畢竟[12]年々不足之事ニ候。然共只今迄は所々の御城米[13]を廻され、或ひは御城金[14]ヲ以て急を弁ぜられ、彼是漸く御取続の事[15]ニ候得共、今年ニ至て御切米[8]等も相渡し難く、御仕置筋之御用[16]も御手支[17]之事ニ候。それニ付、御代々[3]御沙汰[18]之無き事ニ候得共、万石以上の面々[19]より八木[20]差上げ候様ニ仰付らるべしと思召し、左候ハねば御家人[2]之内数百人、御扶持[7]召放さるべくより外は之無く候故、御耻辱[21]をも顧みられず仰せ出され候。高壱万石ニ付八木百石積り[22]差上げらるべく候。且又此の間和泉守[23]ニ仰付られ、随分詮議[24]を遂げ、納り方の品、或ひハ新田等取立の儀申付け候様ニとの御事ニ候得共、近年の内ニ相調へがたく之有るべく候条、其の内年々上り米仰付らるる之有るべく候。之ニ依り、在江戸半年充御免成され候[25]間、緩々[26]休息いたし候様ニ仰せ出され候。

    『御触書寛保集成』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<現代語訳>

 将軍直属の旗本として任用された御家人(家臣)は、将軍の代ごとにだんだん数が増えてきた。天領の貢租収入も以前よりは多くなっているが、切米・扶持などの俸禄米やその他主要な経常支出の支払高と比較すると、結局毎年不足なのである。しかしながら、現在までは軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した米や金を使って急場をしのぎ、彼是しばらく財政収支を取り繕ってきたけれど、今年に至っては、切米なども渡すことが難しく、政治向きの費用にも支障が出てきた。そのため、代々の将軍からこのような命令はなかったことなのだが、一万石以上の大名たちより米を上納するよう命じようと将軍がお考えになった。そうしなければ御家人の内数百人を辞めさせるより他はないので、恥を忍ばれてお命じになったものである。石高一万石について米100石の割合で上納せよ。かつまた、この間水野和泉守に命じられて、随分吟味をして、年貢納入の増強、あるいは新田開発のことを申し付けるようにとのことではあるけれど、近年の内にきちんとした状態になるのは難しい状況であり、その間毎年上げ米を命じられることである。この代わりとして参勤交代の江戸滞在を半年ずつ免除されるので、(国元で)ゆっくり休息するようにと命令された。

【注釈】
 [1]御旗本:おんはたもと=本来は、お目見以上の将軍直属の家臣のことだが、ここでは、将軍直属の家臣のこと。
 [2]御家人:ごけにん=本来は、お目見以下の将軍直属の家臣のことだが、ここでは、将軍家の家来という意味。
 [3]御代々:おんだいだい=将軍の代が替わること。
 [4]御蔵入高:おくらいりだか=天領からの貢租収入。
 [5]先規:せんき=以前。
 [6]御切米:おきりまい=春に1/4、夏に4/1、冬に1/2ずつ3期に分けて支給される旗本・御家人への俸禄のこと。
 [7]御扶持:おふち=月々支給された俸禄で、何人扶持(1人扶持持は1日玄米5合)という基準になっていた。
 [8]表立候:おもてだちそうろう=主要な。
 [9]御用筋:ごようすじ=経常支出のこと。
 [10]渡方:わたしかた=支出。
 [11]引合:ひきあい=比較すること。
 [12]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
 [13]御城米:ごじょうまい=軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した米のこと。
 [14]御城金:ごじょうきん=軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した金のこと。
 [15]御取続の事:おんとりつづきのこと=財政収支を取り繕ってきたこと。
 [16]御仕置筋之御用:おしおきすじのごよう=政治向きの費用。行政費。
 [17]御手支:おてつかえ=さしつかえること。支障をきたすこと。
 [18]御沙汰:おんさた=将軍の命令、指示、決定のこと。
 [19]万石以上の面々:まんごくいじょうのめんめん=大名のこと。
 [20]八木:はちぼく=米のこと。米の字を分解すると“八木”となることから来ている。
 [21]御耻辱:おんちじょく=はじ。はずかしめ。恥辱。
 [22]高壱万石に付米百石の積り:たかいちまんごくにつきひゃっこくのつもり=1万石に付き、米100石の割合で。
 [23]和泉守:いずみのかみ=勝手掛老中だった水野忠之のこと。
 [24]詮議:せんぎ=吟味。
 [25]在江戸半年充御免成され候:ざいえどはんとしあてごめんなされそうろう=参勤交代の江戸滞在を半年免除する。
 [26]緩々:ゆるゆる=ゆっくりと。

☆「享保の改革」とは?

 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、江戸時代中期に、その在任期間(1716~1745年)を通じて行なった諸改革で、寛政の改革、天保の改革と共に、江戸幕府の三大改革の一つと言われ、その最初に行われたものです。内容は、幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制などで、具体的には以下の主要な政策が実施されました。

<享保の改革の主要政策>

【経済政策】

・質素倹約の奨励
・定免制を施行
 年貢収納の強化をはかる
・「足高の制」
 各地位ごとに授与される給与を定め、地位についている時に元の禄高に足されて支給した
・「上げ米の制」
 1万石につき100石を上納させる
・「相対済令」
 金銭貸借についての訴訟を認めず当事者間の話し合いによる解決を命じたもの
・元文の改鋳
 貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳策
・新田開発の奨励
 商人など民間による新田開発を奨励

【文教政策】

・キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入の緩和
・武芸奨励

【社会政策】

・町火消の制
 江戸「いろは」47組を結成させる
・目安箱の設置
 施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言を集めるための投書箱
・堂島米市場の公認

【法制整備】

・「公事方御定書」
 幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集
・「御触書寛保集成」
 幕府法令の集大成

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1900年(明治33)日本画家山本丘人の誕生日詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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