ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 昭和時代

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 今日は、昭和時代前期の敗戦後、1945年〈昭和20〉に、最初の復員船・高砂丸が、中部太平洋メレヨン島からの復員兵1,628人を乗せて別府港に入港した日です。
 復員船〈ふくいんせん〉は、太平洋戦争終結後、海外に残置された日本人を本土に帰還させるために使用された艦船のことで、復員輸送艦または復員輸送船とも言われています。1945年〈昭和20〉の太平洋戦争敗戦後、アジア各地や太平洋の島々には、約600万人以上の軍人、軍属、民間人が残されていて、その日本への帰還は急務の問題となりました。
 しかし、戦争で日本の商船は、壊滅状態だったので、日本海軍の残存艦艇で航行可能なものとアメリカ海軍から供与されたリバティ船やLST等、各100隻が復員船として使用されます。その中で、9月26日に最初の復員船・高砂丸が、中部太平洋メレヨン島からの復員兵1,628人を乗せて別府港に入港しました。
 また、10月7日には、氷川丸が餓死寸前の傷病兵2,000余名を収容し、浦賀港に帰還して、本格化し、翌年の春~8月がピークとなります。その後は、艦船数を徐々に減らしていき、1947年(昭和22)1月には、氷川丸が復員船業務をやめ、夏頃まで続けられました。

〇復員船関係略年表

<1945年〈昭和20〉>
・9月15日 京都府の舞鶴港で終戦を迎えた氷川丸が復員船として、マーシャル諸島ミレ島に向けて出港する
・9月26日 最初の復員船・高砂丸が、中部太平洋メレヨン島からの復員兵1,628人を乗せて別府港に入港する
・9月28日 氷川丸が珊瑚礁に囲まれたマーシャル諸島ミレ島に到着する
・10月 復員船帰国が本格化する
・10月7日 氷川丸が餓死寸前の傷病兵2000余名を収容し、浦賀港に帰還する
・11月29日 有馬山丸がマニラから出発する第2回の復員船として、陸軍軍人329名、海軍軍人102名、民間人71名の合計502名と、3名の遺骨を乗せて、浦賀に到着する

<1946年〈昭和21〉>
・春~8月 復員船帰国がピークとなる

<1947年(昭和22)>
・1月 氷川丸が復員船業務をやめる
・夏 復員船による帰還が終了する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を奉じて入京する(新暦10月16日)詳細
1943年(昭和18)天文学者木村栄の命日詳細
1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
長崎県の福江大火で、家屋604戸が焼失する詳細
1968年(昭和43)厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、永井隆著『この子を残して』が、講談社より刊行された日です。
 『この子を残して』(このこをのこして)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)4月30日脱稿し、9月25日に講談社より刊行されベストセラーとなった、永井隆著の随筆です。その内容は、長崎市の原爆爆心地に近い長崎医科大学での原爆投下直後の状況と自身が重傷を負い、妻を亡くしながらも、被爆者の救護活動に当たる様子を記録した手記でした。
 2人の愛児に書き遺した感動の書で、自分の子供を残して死んでゆく悔しさと、自分の専門にかかわる病気と戦争で死ぬ悔しさを訴えたものです。この本を書いて3年後に、著者は亡くなりました。
 尚、1983年(昭和58)には、木下惠介監督・脚本、松竹配給により映画化されています。

〇『この子を残して』の冒頭部分

 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
 この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
 枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
 ――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるようだ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになるまで……なりとも――。
 ――こんなむごい親子の運命は早くから予想されておらぬでもなかった。私が大学を出て放射線医学を専門に選び、ラジウムやレントゲン線などを用いる研究に身を入れようと心に決めたとき、実はすでに多くの先輩の学者がこの研究で毎日とりあつかう放射線によって五体をおかされ、ついに科学の犠牲となって生命をおとしたことを詳しく知っていたので、あるいは私もまた同じ運命におちいるのではあるまいか、という予感があったのである。しかしながら、それは決定的な運命ではなかった。放射線災害予防については、それらの貴い先輩の犠牲のおかげで、次第に有効な方法が考え出されていたし、従事する私らも十分な注意をしていたからである。だが、第一次欧州戦争のとき、多くのレントゲン医学者が余りに多くの患者を診療しなければならなかったため、注意をしたにもかかわらず、身体の堪え得る量以上の放射線を受けて、ついにおかされ、死んだ先例があるので、私も何かの事情のため、そんな目にあわぬともかぎらぬと考えた次第であった。というのは、その当時満州事変が始まったばかりで、どうやら日本が大戦争をひき起こしそうな気配がうかがわれたからであった。それで、この子の母と結婚するときには、前もってこのことを詳しく話し、万事承諾の上で家庭をもった。
 ハンブルグには放射線の犠牲となり、職務による原子病患者として死んだ百余名の世界中の学者の記念碑があって、その人びとの名は真理探求の道に倒れた科学の殉教者として刻んである。しかし、私は命の惜しい普通の人間だから、とにかく死ぬより生きているほうが好きだった。早死にしてその学者たちの仲間に加えられるよりは、一日でも長く生きて、好きな研究を一つでも多く仕上げ、家庭的には孫の顔をみて、わが後をつぐものは大丈夫だと安心をして、よいおじいさんとして、ゆっくり大往生をとげたいと願っていた。そのうえ、原子放射線によってひき起こされる原子病の苦しみは、並み大抵の生やさしいものではなく、生身をちぎるばかりの苦痛があるものと知っていては、なるべくならば、かかりたくないと思うのが人情であろう。だから私は、原子病の予防にはずいぶんと細かく気をつかった。生まれつき気の弱い、びくびくもので、学校時代には落ちるのが怖さに鉄棒体操のできないほどの私であった。原子病を怖がったのは言うまでもない。
 このごろではレントゲン器械も良くなって、発生管球は金属でよく包まれ、小さな窓から必要なレントゲン線の束だけが出るようになっているので、あまり危なくないが、昔は私たちは裸管球を使ったもので、それらは四方へ向かって恐ろしいレントゲン線を放射していた。この放射線は物体に当たると、さらに二次放射線を発生散乱する。この散乱線がまたも物体に当たると、そこからさらに放射線を出す。このために放射線室の中は管球の焦点から出てくる主放射線のほかに、おびただしい二次散乱線が前後左右から、あたかも十字砲火のように、飛び交う。
 この放射線の細胞破壊力はすばらしいもので、一定量ではガンのような病気を治すが、量を過ごすと健康な部分を病気に変えてしまう。こうして起こる原子病を防ぐために、私たちはいつも放射線の量を正確に測定していて、決して量を過ごさぬように気をつけている。だから今では、専門家が取りあつかうかぎり、放射線によって患者に迷惑をかけることはない。
 放射線は鉛のような重い金属でさえぎられるから、防護の目的にはよく鉛が用いられる。患者の体に放射するときには必要以外の部分を鉛板や含鉛ゴム板で被い隠す。放射線室の壁や床や天井に鉛板を張って外部へ漏れないようにする。配電盤の前に鉛ガラスの衝立を置いて技師を護る。患者の傍らについて診療する医師は含鉛ゴム製の前掛、手袋、長靴や鉛ガラス製の眼鏡でものものしく身を護る。しかし、こんな鉛の甲を身につけていては重くて身動きもできないから、完全防衛というわけにはゆかず、背中のほうとか、二の腕とか、もものあたりは普通裸で出ている。管球から出る主放射線のほうはそれで十分防げるが、後ろのほうや横から来る二次散乱線を防ぐことはできない。この二次散乱線の量は主放射線の量に比べたらいちじるしく少ないものではあるけれども、長い時間には大した量に達するわけである。たとい一日の勤務中に受ける放射線量は少なくても、毎日々々連続働いて五年、十年とたつうちには、肉体の組織がいつしか破壊されて、ここに職業病としての原子病が起こってくる。それは皮膚ガン、悪性貧血、慢性白血病、肺硬化、不妊などである。

(以下略)

 「青空文庫」より

☆永井隆(ながい たかし)とは?

 昭和時代に活躍した医学者・随筆家です。明治時代後期の1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれました。
 松江中学校を経て、松江高等学校に進み、1928年(昭和3)に卒業後、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学します。1932年(昭和7)に長崎医科大学卒業後、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻、助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。
 1933年(昭和8)に幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍、翌年帰国し、大学の研究室助手に復帰、洗礼を受け、洗礼名をパウロとし、森山緑と結婚します。1937年(昭和12)に長崎医科大学の講師に就任したものの、日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征、1940年(昭和15)に日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章しました。
 1940年(昭和15)に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任、1944年(昭和19)には、「尿石の微細構造」で医学博士号を授与されます。1945年(昭和20)6月に被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受け、同年8月9日の長崎原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たりました。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に長崎医科大学教授に就任しましたが、半年後には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなります。闘病生活を送りながら、1948年(昭和23)に随筆『生命の河』、『この子を残して』、翌年に随筆『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行され、大きな反響を呼びました。
 同年7月には、この書をモチーフとした歌謡曲が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売されて大ヒット、さらに、翌年には、松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画化されます。1949年(昭和24)に長崎市名誉市民の称号を受け、翌年5月14日にローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜されたものの、1951年(昭和26)5月1日に長崎市において、白血病のため43歳で亡くなりました。

<永井隆の主要な著作>

・『生命の河』(1948年)
・『この子を残して』(1948年)
・『長崎の鐘』(1949年)
・『花咲く丘』(1949年)
・『ロザリオの鎖』(1949年)
・『乙女峠』(1951年)

☆永井隆関係略年表

・1908年(明治41)2月3日 島根県松江市において、医師であった父・寛と母・ツネの長男として生まれる
・1908年(明治41)秋 父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現在の雲南市三刀屋町)に移り住む
・1920年(大正9) 飯石小学校を優等で卒業し、島根県立松江中学校へ入学する
・1925年(大正14) 松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学する
・1928年(昭和3) 松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学する
・1931年(昭和6)3月29日 母・ツネが脳溢血で急逝する
・1932年(昭和7) 長崎医科大学を卒業し、同大学物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻する
・1932年(昭和7)11月8日 助教授に就任した末次逸馬の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組む
・1933年(昭和8) 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍する
・1934年(昭和9)2月1日 、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰する
・1934年(昭和9)6月 洗礼を受け、洗礼名をパウロとする
・1934年(昭和9)8月 森山緑と結婚する
・1937年(昭和12) 長崎医科大学の講師に就任する
・1937年(昭和12)7月 日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征する
・1940年(昭和15)2月 日本に帰国し、功績により功五級金鵄勲章を受章する
・1940年(昭和15)4月 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任する
・1944年(昭和19)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される
・1945年(昭和20)6月 被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける
・1945年(昭和20)8月9日 長崎市への原爆投下により、被爆し重傷を負い、妻を亡くすも、被爆者の救護活動に当たる
・1946年(昭和21)1月 長崎医科大学教授に就任する
・1946年(昭和21)7月 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなる
・1946年(昭和21)11月17日 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行なう
・1948年(昭和23)4月30日 随筆『この子を残して』を脱稿する
・1948年(昭和23)9月25日 随筆『この子を残して』が講談社より刊行される
・1948年(昭和23)10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる
・1949年(昭和24)1月30日 『長崎の鐘』が日比谷出版より刊行される
・1949年(昭和24)5月27日 昭和天皇に拝謁する
・1949年(昭和24)7月 歌謡曲『長崎の鐘』が、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌唱で発売される
・1949年(昭和24)9月30日 長崎医科大学教授を退官する
・1949年(昭和24)12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける
・1950年(昭和25)9月23日 『長崎の鐘』が松竹製作・配給、大庭秀雄監督によって映画公開される
・1950年(昭和25)5月14日 ローマ教皇特使として大司教のフルステンベルクが見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される
・1951年(昭和26)5月1日 長崎市において、白血病のため43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

769年(神護景雲3)宇佐八幡宮神託事件が起きる(新暦10月28日)詳細
893年(寛平5)菅原道眞撰と伝えられる『新撰万葉集』上巻が編纂される(新暦11月7日)詳細
1075年(承保2)公卿・関白・太政大臣藤原教通の命日(新暦11月6日)詳細
1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトがシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1936年(昭和11)「帝国在郷軍人会令」が公布され、私的機関だった帝国在郷軍人会が陸海軍所管の公的機関となる詳細
1954年(昭和29)日本中央競馬会(JRA)による中央競馬が、東京競馬場、京都競馬場において開催される詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細
2015年(平成27)第70回国連総会で「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、伊豆諸島南部のベヨネーズ岩礁で海底噴火(明神礁)に、第五海洋丸が巻き込まれ沈没、乗組員31名全員が死亡(第五海洋丸遭難事故)した日です。
 第五海洋丸遭難事故(だいごかいようまるそうなんじこ)は、1952年(昭和27)9月24日に起きた、海上保安庁の海洋測量船「第五海洋丸」の海難事故です。9月17日に、ベヨネーズ列岩の北北東に海底火山が爆発し新島が出現したと漁船「第十一明神丸」から報告があり、18日6時55分に現場に到着した巡視船「しきね」により、新島は東西100m、南北150m、高さ30mと確認されました。
 そこで、同月23日午前、調査のために海上保安庁の海洋測量船「第五海洋丸」が東京港を出港、同日20時30分の「異常なし」の無線を最後に消息を絶ちます。その後、発見された漂流物などから、24日12時21分の噴火に巻き込まれて沈没したことが判明しました。
 地質学者の田山利三郎や河田喜代助を含む、調査員9名と乗組員22名の計31名全員が犠牲となり、世界の測量史上未曽有の大事件とされています。

〇明神礁(みょうじんしょう)とは?

 伊豆諸島南部、須美寿島の北約50km、ベヨネース列岩の東約10kmに位置する海底火山でです。1870年(明治3)と1946年(昭和21)に新島が出現しましたが水没し、1952年(昭和27)9月17日に、大噴火して再び新島を形成し、漁船第十一明神丸が発見し、名称の由来となりました。
 同月24日には、海上保安庁水路部の調査船第五海洋丸が当礁を調査中に海中爆発に遭い、31名が殉職しています。翌年の大爆発で水没し、海面下の岩礁となりました。
 1970年(昭和45)にも数回海底爆発が認められ、波浪礁をなし、以後も1986年(昭和61)までに、4回海底火山活動によるらしい海水変色が視認されています。ベヨネース列岩を含む直径約10kmのカルデラの東縁付近に形成された後カルデラ丘と考えられてきました。
 尚、付近の海域はカツオの好漁場として知られています。

☆明神礁関係略年表

<1869年(明治2)>
・海中噴火

<1870年(明治3)>
・海中噴火、新島形成

<1871年(明治4)>
・海中噴火

<1896年(明治29)>
・新島出現

<1906年(明治39)>
・4月14日:噴煙が上がる、軽石漂流

<1915年(大正4)>
・4月-7月:浅瀬を形成、海中噴火

<1934年(昭和9)>
・海中噴火

<1946年(昭和21)>
・2月:島が複数形成される
・12月:島が破壊され波浪礁になる

<1952年(昭和27)>
・9月17日:爆発と共に島が形成される
・9月23日:島が再び破壊され消滅する
・9月24日:第五海洋丸が噴火に巻き込まれ沈没、乗組員31名全員死亡(第五海洋丸の遭難)
・10月11日:島が形成される

<1953年(昭和28)>
・3月11日:大爆発多数・島が消滅する
・4月5日:島が再び形成される
・9月1日:青ヶ島から土砂を噴き上げる姿が見える規模の爆発が発生[3]
・9月3日:島が海面下に消滅

<1954年(昭和29)>
・11月4日:海中噴火

<1955年(昭和30)>
・6月25日:海中噴火

<1960年(昭和35)>
・7月21日:海中噴火、噴煙確認

<1970年(昭和45)>
・1月~4月:海中噴火、軽石漂流

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1614年(慶長19)江戸幕府が「伴天連追放之文」により、高山右近ら148人をマニラ・マカオに追放する(新暦10月27日)詳細
1744年(延享元)江戸時代中期の思想家・石門心学の祖石田梅岩の命日(新暦10月29日)詳細
1877年(明治10)薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃する詳細
1901年(明治34)歴史学者服部之総の誕生日詳細
1931年(昭和6)若槻礼次郎内閣が満州事変の不拡大方針を示す「満州事変に関する政府第一次声明」を出す詳細
1945年(昭和20)GHQが「政府からの報道の分離の件」(SCAPIN-51)を出す詳細
1966年(昭和41)熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日詳細
1971年(昭和46)「廃棄物処理法」(昭和45年12月25日公布)が施行される(清掃の日)詳細
1996年(平成8)国連総会で9月10日に採択された「包括的核実験禁止条約(CTBT)」に日本等71ヶ国が署名する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、日本軍が北部仏印 (フランス領インドシナ北部) に進駐(仏印進駐)を強行した日です。
 仏印進駐(ふついんしんちゅう)は、昭和時代前期の1940年(昭和15)から、日本軍がフランス領インドシナ連邦(仏印)へ進駐した事件です。泥沼化した日中戦争の打開策として日本軍がフランス領インドシナ連邦(仏印)進出をねらい、1940年(昭和15)5月にナチスドイツの進撃によりフランスが降伏したことを受けて、第2次近衛文麿内閣の下で、まず同年9月に北部へ軍隊を派遣(進駐)し、9月27日には「日独伊三国同盟」を締結しました。
 さらに、翌年の大本営政府連絡会議で南部進駐の方針が決定され、7月2日の昭和天皇臨席の第5回御前会議でこれを確認、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が出され、「本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス」とします。その中で、日本軍はフランスのヴィシー政府に強要して「インドシナ共同防衛」を名目とする軍隊派遣を同月21日はほぼ認めさせ、23日の現地で細目の話合い成立を受けて、28日に日本軍第25軍はフランス領インドシナ南部(ベトナム南部のサイゴン=現在のホーチミン市を含むメコンデルタ地帯)に上陸を開始し、翌日には、「仏印共同防衛に関する日仏議定書」が調印されました。
 さらに、カンボジア・ラオス全域に展開し、アメリカ、イギリス、オランダ3国との対立が決定的となります。同月25日にアメリカのF.ルーズベルト大統領は在米日本の資産凍結令を公布し、イギリス、オランダもそれに追随、8月にはアメリカは対日石油全面的禁輸に踏切ったことにより、この進駐は太平洋戦争開戦の直接的な契機となりました。

〇仏印進駐関係略年表

<1940年(昭和115)>
・5月 ナチスドイツの進撃によりフランスが降伏する
・7月22日 第2次近衛内閣が成立し、積極的に南進政策の路線を推進する
・7月27日 大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定し、南方問題解決のためには状況によって武力行使もあるとする
・9月23日 日本軍が北部仏印 (フランス領インドシナ北部) に進駐を強行する
・9月24日 アメリカは鉄輸出禁止の措置をとる
・9月27日 「日独伊三国同盟」を締結する

<1941年(昭和16)>
・6月28日 大本営政府連絡会議で、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定され、南部進駐の方針が決まる
・7月2日 昭和天皇臨席の第5回御前会議で南部進駐の方針が確認され、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が出され、「本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス」とする
・7月21日 日本軍はフランスのヴィシー政府に強要して「インドシナ共同防衛」を名目とする軍隊派遣ほぼ認めさせる
・7月23日 現地で細目の話合いが成立する
・7月28日 日本軍第25軍はフランス領インドシナ南部(ベトナム南部のサイゴン=現在のホーチミン市を含むメコンデルタ地帯)に上陸を開始する
・7月29日 「仏印共同防衛に関する日仏議定書」が調印される
・8月 アメリカが対日石油全面的禁輸に踏切る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

785年(延暦4)長岡京造営中に、藤原種継暗殺事件が起きる(新暦10月30日)詳細
1557年(天正5)手取川の戦いで、上杉謙信軍が織田信長軍に大勝する(新暦11月3日)詳細
1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細
1884年(明治17)自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる詳細
1913年(大正2)音楽評論家・随筆家吉田秀和の誕生日詳細
1943年(昭和18)「国内必勝勤労対策」が閣議決定され、17職種の男子就業禁止で、女子が動員されることとなる詳細
1950年(昭和25)松竹より、大庭秀雄監督の映画『長崎の鐘』(原作:永井隆)が封切られる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、第2次米国教育使節団が報告書を提出した日です。
 米国教育使節団(べいこくきょういくしせつだん)は、昭和時代中期の連合国軍占領下、1946年(昭和21)と1950年(昭和25)に、日本の教育再建のため、連合国最高司令部(GHQ)の要請に基づいて、アメリカ政府から派遣された教育使節団です。第1次教育使節団は、1946年(昭和21)の3月5日と7日に分けて、アメリカのG. D.ストッダードを団長とした27名が来日し、日本の教育事情を調査研究したのち、3月30日に連合国最高司令官に第1次報告書を提出し、4月7日に連合国最高司令部(GHQ)から全文が公表されました。
 その報告書序論で、「教師の最善の能力は、自由の空気のなかにおいてのみ十分に現される。この空気をつくりだすことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。子供のもつ測り知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。」と、アメリカ自由主義の教育理念を中心に据え、教育の近代化についての諸提案を行なっています。その内容は、6年制小学校と3年制下級中等学校における9か年の無月謝制義務教育および男女共学制、3年制上級中等学校における無月謝制、男女共学制、希望者全員入学制の実現、修身・歴史教科書の改訂、保健体育や職業教育の重視、ローマ字の採用、教育行政制度として地方分権型の公選制教育委員会、教師養成の水準向上、成人教育の充実、高等教育の拡大などとなっていました。
 この報告書は、戦前の国家主義教育を批判すると共に、戦後の教育改革の方向を指示し、改革の基本となります。また、1950年(昭和25)8月27日には、第2次アメリカ教育使節団5名が来日し、新しい国際情勢に基づいて、9月22日に第2次報告書を提出しました。

〇米国教育魔使節団関係略年表

<1946年(昭和21)>
・3月5日 第1次教育使節団の先発組が来日する
・3月7日 第1次教育使節団の後発組が来日し、計27名となる
・3月30日 連合国最高司令官に第一次報告書を提出する
・4月7日 連合国最高司令部(GHQ)から全文が公表される
・8月 教育刷新委員会が、内閣直属の諮問機関として設置される

<1950年(昭和25)>
・8月27日 第2次アメリカ教育使節団5名が来日する
・9月22日 第2次報告書を提出する

☆教育使節団のメンバー

<第1次教育使節団>(27名)

・ジョン・N・アンドルウス(John N. Andrews) - 使節団軍部渉外関係官
・ハロルド・ベンジャミン(Harold Benjamin) - 連邦教育局事務官。第二次使節団にも参加
・ゴードン・T・ボウルス(Gordon T. Bowles) - 下院議員
・レオン・カルノフスキー(Leon Carnovsky) - シカゴ大学主事
・ウィルソン・コムプトン(Wilson Compton) - ワシントン州立大学総長
・ジョージ・S・カウンツ(Geroge S. Counts) - コロンビア大学教授、米国教育連盟副会長
・ロイ・J・デフェラリー(Roy J. Deferrari) - アメリカカトリック大学(英語版)事務総長
・ジョージ・W・ディーマ(George W. Diemer) - ミズーリ州立師範大学長。第二次使節団にも参加
・カーミット・イービー(Kermit Eby) - 米国産業別組織会議研究教育部長
・フランク・N・フリーマン(Frank N. Freeman) - カリフォルニア大学教育学部長
・ヴァージニア・C・ギルダースリーヴ(Virginia C. Gildersleeve) - バーナード・カレッジ主席教授
・ウィラード・E・ギヴンス(Willard E. Givens) - 全国教育連盟書記長。第二次使節団団長
・アーネスト・R・ヒルガード(Ernest R. Hilgard) - スタンフォード大学心理学部長
・フレデリック・G・ホックウォルト(Frederick G. Hochwalt) - 全国カトリック教育連盟委員長。第二次使節団にも参加
・ミルドレッド・マカフィー・ホートン(Mildred McAfee Horton) - ウェルズリー大学長
・チャールズ・S・ジョンソン(Charles S. Johnson) - テネシー州フィスク大学心理学教授
・アイザック・L・カンデル(Issac L. Kandel) - コロンビア大学比較教育学教授
・チャールズ・H・マックロイ(Charles H. McCloy) - アイオワ大学教育学部長
・E・B・ノートン(E. B. Norton) - アラバマ州教育局長
・T・V・スミス(T. V. Smith) - シカゴ大学哲学教授・中佐
・デイヴィット・ハリソン・スティーヴンス(David Harrison Stevens) - ロックフェラー財団慈善部長
・ポール・B・スチュアート(Paul B. Stewart)
・アレクサンダー・J・ストダード(Alexander J. Stoddard) - フィラデルフィア督学官
・ジョージ・D・ストッダード(団長)(George D. Stoddard, Chm.) - イリノイ大学名誉総長、ニューヨーク州教育長官
・W・クラーク・トロウ(W. Clark Trow) - ミシガン大学心理学教授
・パール・A・ワナメーカー(Pearl A. Wanamaker) - ワシントン公立学校督学官。第二次使節団にも参加
・エミリー・ウッドワード(Emily Woodward) - ジョージア州教育局員

<第2次教育使節団>(5名)
・ハロルド・ベンジャミン
・ジョージ・W・ディーマ
・フレデリック・G・ホックウォルト
・パール・A・ワナメーカー
・ウイラード・E・ギヴンス(団長)

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