ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 昭和時代

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、西成線列車脱線火災事故が起き、死者189人・負傷者89人を出した日です。
 西成線列車脱線火災事故(にしなりせんれっしゃだっせんかさいじこ)は、昭和時代前期の1940年(昭和15)1月29日午前6時56分に、大阪府大阪市此花区の鉄道省西成線(現在のJR西日本桜島線)安治川口駅構内において発生した列車脱線転覆火災事故です。駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員のガソリン動車(ガソリンカー)3両編成のうち最後尾の1両(キハ42000形42056号車)が2対のレールにまたがったまま走行し、踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆しました。
 これにより、燃料のガソリンへの引火で、火災が発生して満員のまま横転し、車両から乗客らの脱出が困難になり、死者189人、重軽傷者69人を出す大惨事となります。通常は、ポイントを列車が通過中は切り替えが出来ないように鎖錠装置が付いていますが、当時の西成線(現桜島線)には取り付けられていませんでした。
 この事故が契機となって、気動車の動力がガソリンエンジンからディーゼルエンジンへと切り替えが進められることとなります。尚、1963年(昭和38)4月15日に、安治川口駅前の道路際に、「南無阿弥陀仏慰霊碑」が建立されました。

〇昭和・平成時代の列車大事故(死者100人以上)

・1940年(昭和15)1月29日 西成線列車脱線火災事故(死者189人・負傷者89人)
・1943年(昭和18)10月26日 常磐線土浦駅列車衝突事故(死者110人・負傷者107人)
・1944年(昭和19)12月11日 沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故(死者約220人)
・1945年(昭和20)8月24日 八高線列車正面衝突事故(死者105人・負傷者約150人)
・1947年(昭和22)2月25日 八高線列車脱線転覆事故(死者184人・負傷者495人)
・1951年(昭和26)4月24日 桜木町電車火災事故(死者106人・負傷者92人)
・1962年(昭和37)5月3日 三河島三重衝突事故(死者160人・負傷者296人)
・1963年(昭和38)11月9日 鶴見三重衝突事故(死者161人・負傷者120人)
・2005年(平成17)4月25日 宝塚線(福知山線)脱線転覆事故(死者107人・負傷者562人)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消設置する(新暦2月26日)詳細
1879年(明治12)日本が国際電信連合(現在の国際電気通信連合)に加盟する詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
2019年(平成31)小説家・評論家・随筆家橋本治の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、「暗殺禁止令」が、明治新政府より太政官布告された日ですが、新暦では2月16日となります。
 「暗殺禁止令」(あんさつきんしれい)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年1月23日)に、明治新政府より、太政官布告された「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」のことです。幕末明治維新期には、佐幕派と尊王攘夷派の対立などにより、江戸や京都などで、多くの人々が暗殺されましたが、新政府の誕生を機に、暗殺を戒め、法によって裁くものとしたものでした。
 以下に、「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」(暗殺禁止令)を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇「暗殺ヲ爲スヲ嚴禁ス」(暗殺禁止令)1868年2月16日(明治元年1月23日)発布

<原文>

近來於所々致暗殺候內ニ者罪狀相認死骸ニ添有之候モ不少何レモ陰惡陰謀等ヲ憤リ候而之所業ニ可有之全體不埒之者共ハ得ト吟味之上刑典ヲ以嚴重之御裁許被 仰付事ニ付太政御一新之折柄猶更御爲筋ヲ心掛公然ト可申出之處其儀無之私ニ致殺害候ハ 朝廷ヲ不憚致方ニ付右等之者有之ニ於テハ吟味之上屹度嚴刑ニ可被處候問心得違無之樣可致事

  「ウィキソース」より

<現代語訳>

最近いろいろなところで起きている暗殺事件の中には、罪状を書いて死体に添えているものも多い。どれも悪業や陰謀を憤ってのことであろう。もともと悪人はきちんと調査したうえで法律をもとに裁かれるものであるし、政治が変わったのだからなおのこと道理を守り、公に訴えなければいけないというのに、それをせず自分で殺害するのは、朝廷をおそれないやりかたである。よって、そういったことを行う者は調査したうえで間違いなく厳刑に処せられるので、間違った考えを抱かないようにすること。

☆幕末に暗殺された主要な人物

・1860年(安政7年3月3日) 江戸幕府大老・井伊直弼(桜田門外の変)
・1861年(安政7年12月4日) アメリカ人通訳・ヘンリー・ヒュースケン
・1862年(文久2年1月15日) 江戸幕府老中・安藤信正負傷(坂下門外の変)
・1862年(文久2年4月8日) 土佐藩参政・吉田東洋
・1862年(文久2年7月20日) 九条家の家士・島田正辰
・1862年(文久2年7月25日) 対馬藩江戸家老・佐須伊織
・1862年(文久2年9月2日) フランス士官・カミュ(井土ヶ谷事件)
・1863年(文久2年12月22日) 壬生藩家老・鳥居志摩
・1863年(文久3年1月22日) 儒学者・池内大学
・1863年(文久3年4月13日) 清河八郎
・1863年(文久3年5月18日) 儒学者・家里新太郎
・1863年(文久3年5月20日) 尊攘派公卿・姉小路公知(朔平門外の変)
・1863年(文久3年9月18日) 新選組局長・芹沢鴨
・1864年(元治元年7月11日) 佐久間象山
・1865年(元治元年12月8日) 尊攘派公卿・中山忠光
・1866年(慶応2年5月2日) 対馬藩佐幕派の巨頭・勝井五八郎
・1867年(慶応3年9月3日) 赤松小三郎
・1867年(慶応3年11月15日) 坂本龍馬と中岡慎太郎(近江屋事件)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1570年(永禄13)織田信長が「殿中御掟」追加5か条を室町幕府第15代将軍足利義昭に示す(新暦2月27日)詳細
1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1914年(大正3)第31帝国議会で島田三郎議員がシーメンス社の日本海軍への贈賄を追及する(シーメンス事件)詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1963年(昭和38)強い寒気の南下により北陸を中心に日本海側で猛烈な降雪があり、三八豪雪が本格化する詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、学校給食に米飯が許可された日です。
 学校給食(がっこうきゅうしょく)は、児童、生徒の心身の健全な発達と国民の食生活の改善をはかるために、学校教育活動の一環として集団的に実施される給食のことです。日本では、明治時代の中頃の1889年(明治22)に、現在の山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に、おにぎり・焼き魚・漬物の昼食を無償で提供したのが始まりとされてきました。
 大正時代末頃から主に貧困児童の就学奨励策として、小規模ながら全国的に実施されたものの、太平洋戦争中は、食料不足で多くが中止されています。戦後の1946年(昭和21)に、文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」が発せられ、戦後の学校給食の方針が定まりました。
 翌年1月に、主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始され、1948年(昭和23)4月23日には、文部省が「全小中学校に学校給食を拡大」と発表します。翌年に、ユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始され、1950年(昭和25)には、8大都市の小学校児童に対し、米国寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食が実施されました。
 1954年(昭和29)6月3日に、「学校給食法」が公布・施行され、義務教育諸学校などに適用されます。1956年(昭和31)には、高等学校定時制課程の学校給食奨励のための法律も定められ,翌年には盲学校、聾学校、養護学校の学校給食に関する法律も制定されました。
 1970年(昭和45)1月19日に、学校給食に米飯が許可され、1976年(昭和51)には、学校給食制度上に米飯が正式に導入されます。その後、2005年(平成17)には、学校給食を教材として活用し、食に関する指導の充実をはかるため、栄養教諭制度が創設されました。

〇学校給食関係略年表

・1889年(明治22) 現在の山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に、おにぎり・焼き魚・漬物の昼食を無償で提供したのが始まり
・1923年(大正12) 文部次官通牒「小学校児童の衛生に関する件」において、児童の栄養改善のための方法としての学校給食が奨励される
・1929年(昭和4) この年までに学校給食を実施した学校は全国で204校、経費は約2万9,000円に及ぶ
・1932年(昭和7)9月 文部省が訓令「学校給食臨時施設方法」を制定し、給食のための設備が初めて法制化される
・1939年(昭和14) 昭和13年度の給食実施校が約1万2,000校、給食を提供された人数は約60万人(実人数)、給食費は約150万円に及ぶ
・1941年(昭和16) 学校給食は貧困児童の救済・児童の栄養改善に向けて全国に広がり、内容の充実が図られるも、太平洋戦争による食糧不足のため、学校給食は中止となる
・1944年(昭和19) 6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・味噌等を特別配給して学校給食を実施、4月1日に6大都市の国民学校学童に1食7勺の給食が始まり、9月1日にパン食のみになる
・1946年(昭和21) 文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」が発せられ、戦後の学校給食の方針が定まる
・1947年(昭和22)1月 主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始される
・1948年(昭和23)4月23日 文部省が「全小中学校に学校給食を拡大」と発表する
・1949年(昭和24) ユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始される
・1950年(昭和25) 8大都市の小学校児童に対し、米国寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食が実施される
・1951年(昭和26) 講和条約の調印に伴い、給食用物資の財源であったガリオア資金(アメリカの占領地域救済政府資金)が6月末日をもって打ち切られ、学校給食は中止の危機にさらされる
・1952年(昭和27) 日本学校給食会が脱脂粉乳の輸入業務を開始、また、ユニセフ寄贈の脱脂粉乳の受入配分業務も実施される
・1954年(昭和29) 「学校給食法」が公布・施行され、日本の学校給食は第二のスタートを切る
・1956年(昭和31) 高等学校定時制課程の学校給食奨励のための法律も定められる
・1957年(昭和32) 盲学校、聾学校、養護学校の学校給食に関する法律も制定され、全国学校給食会連合会が発足する
・1958年(昭和33) 農林次官通達「学校給食用牛乳供給事業実施要綱」に伴い、文部省管理局長より「学校給食用牛乳取扱要領」が通知され、学校給食に牛乳が供給される
・1958年(昭和33)10月1日 「学習指導要領」が改訂され、学校給食が初めて学校行事などの領域に位置付けられる
・1960年(昭和35) 学校給食研究改善協会が設立され、「へき地における学校給食助成事業」が開始される
・1961年(昭和36) へき地におけるミルク給食施設設備費及び夜間定時制高等学校夜食費に対する補助制度が設けられる
・1962年(昭和37) 文部省より財団法人として学校給食研究改善協会が認可される
・1963年(昭和38) 脱脂粉乳に対する国庫補助(100グラム4円)が実現し、ミルク給食の全面実施が推進される
・1964年(昭和39) 国が共同調理場に勤務する学校栄養職員の設置に要する人件費の2分の1を補助することになる
・1966年(昭和41) 高度へき地学校の全児童生徒に対し、全学国庫補助により、パン・ミルクの無償給食が実施される
・1968年(昭和43) 「小学校学習指導要領」の改正に伴い、小学校の学校給食は「特別活動」の中の「学級指導」に位置づけられる
・1969年(昭和44) 「中学校学習指導要領」の改正に伴い、中学校の学校給食は「特別活動」の中の「学級指導」に位置付けられる
・1970年(昭和45)1月19日 学校給食に米飯が許可される
・1974年(昭和49) 教育的専門職員として「学校栄養職員」の名称地位が制度上明確になる
・1976年(昭和51) 学校給食制度上に米飯が正式に導入される
・1986年(昭和61) 「学校栄養職員の職務内容について」が文部省体育局長より通知される
・1989年(平成元) 「小学校学習指導要領」、「中学校学習指導要領」が改正され、学校給食は「特別活動」の中の「学級活動」に位置づけられる
・1995年(平成7) 学校給食用脱脂粉乳の輸入自由化に伴い、関税暫定措置法等関係法令が改正され、従来の輸入割当制度から関税割当制度に移行される
・1996年(平成8)7月18日 文部省が「学校給食における衛生管理の改善に関する調査研究協力者会議」を設置し、夏季緊急点検、抽出による食材の点検等が実施される
・1997年(平成9) 「学校給食衛生管理の基準」が定められる
・2004年(平成16) 「学校教育法の一部を改正する法律」が公布され、栄養教諭の役割が明記される
・2005年(平成17)4月、栄養教諭制度がスタートする
・2005年(平成17)6月 「食育基本法」が公布(7月より施行)される
・2006年(平成18) 食育推進基本計画が策定される
・2007年(平成19) 「食に関する指導の手引」が作成される
・2008年(平成20) 中教審答申にて「食育」の必要性が明記される
・2009年(平成21) 「学校給食法」が改正施行され、その目的が「食育」の観点から見直される
・2011年(平成23) 内閣府より公益財団法人として学校給食研究改善協会が認定される
・2012年(平成24) 文部科学省から「学校給食調理従事者研修マニュアル」が発行される
・2013年(平成25) 文部科学省から「学校給食施設・設備の改善事例集」が発行される
・2014年(平成26) 学校給食における食物アレルギー対応に関する調査研究協力者会議から「今後の学校給食における食物アレルギー対応について」最終報告が出る
・2015年(平成27) 文部科学省より「学校給食における食物アレルギー対応指針」が発行される
・2016年(平成28) 文部科学省より小学生用食育教材「たのしい食事つながる食育」が発行される
・2017年(平成29) 文部科学省より「栄養教諭を中核としたこれからの学校の食育」が発行される
・2018年(平成30) 文部科学省「学校給食実施基準」一部改正施行される
・2019年(平成31)3月 文部科学省「食に関する指導の手引(第二次改定版)」発行される

☆学校給食法(がっこうきゅうしょくほう)とは?

 学校給食および学校給食を活用した食に関する指導の実施に関して必要な事項を定めた法律(昭和29年法律第160号)でした。義務教育諸学校における学校給食の実施に関する根拠法律で、「学校給食が児童の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんがみ、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実を図ることを目的とする。」(第1条)と規定されます。
 学校設置者は学校給食の実施について努力しなければならないとされ、その食の経費については、施設設備費や関係職員の給与費などは設置者が、それ以外は児童生徒の保護者が負担するものとし、国はそれらの経費の一部を補助することができるとしていました。しかし、2009年(平成21)4月1日の改正で、日本における一般的な食生活の現状に鑑み同文言は削除され、かわって「食に関する正しい理解と適切な判断力を養う」点が盛り込まれています。

☆「学校給食法」(昭和29年法律第160号)1954年(昭和29)6月3日公布・施行

 (この法律の目的)

第一条 この法律は、学校給食が児童の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんがみ、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実を図ることを目的とする。

 (学校給食の目標)

第二条 学校給食については、小学校における教育の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
 一 日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養うこと。
 二 学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うこと。
 三 食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図ること。
 四 食糧の生産、配分及び消費について、正しい理解に導くこと。

 (定義)

第三条 この法律で「学校給食」とは、前条各号に掲げる目標を達成するために、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に定める小学校、盲学校、ろう学校又は養護学校(以下「小学校等」と総称する。)において、その児童に対し実施される給食をいう。

 (小学校等の設置者の任務)

第四条 小学校等の設置者は、当該小学校等において学校給食が実施されるように努めなければならない。

 (国及び地方公共団体の任務)

第五条 国及び地方公共団体は、学校給食の普及と健全な発達を図るように努めなければならない。

 (経費の負担)

第六条 学校給食の実施に必要な施設及び設備に要する経費並びに学校給食の運営に要する経費のうち政令で定めるものは、小学校等の設置者の負担とする。
2 前項に規定する経費以外の学校給食に要する経費は、学校給食を受ける児童の保護者(学校教育法第二十二条第一項に規定する保護者をいう。)の負担とする。

 (国の補助)

第七条 国は、公立又は私立の小学校等の設置者に対し、政令で定めるところにより、予算の範囲内において、学校給食の開設に必要な施設又は設備に要する経費の一部を補助することができる。

 (補助の申請等)

第八条 小学校等の設置者は、前条の規定により国の補助を受けようとする場合においては、政令で定めるところにより、文部大臣に補助金の交付申請書を提出しなければならない。
2 文部大臣は、前項の規定により補助金の交付申請書の提出を受けたときは、補助金を交付するかしないかを決定し、その旨を当該小学校等の設置者に通知しなければならない。

 (補助金の返還等)

第九条 文部大臣は、前条第二項の規定により補助金の交付の決定を受けた者が左の各号の一に該当するときは、補助金の交付をやめ、又はすでに交付した補助金を返還させるものとする。
 一 補助金を補助の目的以外の目的に使用したとき。
 二 正当な理由がなくて補助金の交付の決定を受けた年度内に補助に係る施設又は設備を設けないこととなつたとき。
 三 補助に係る施設又は設備を、正当な理由がなくて補助の目的以外の目的に使用し、又は文部大臣の許可を受けないで処分したとき。
 四 補助金の交付の条件に違反したとき。
 五 虚偽の方法によつて補助金の交付を受け、又は受けようとしたとき。

 (小麦等の売渡し)

第十条 国が、食糧管理特別会計の負担において買い入れた小麦又はこれを原料として製造した小麦粉を、農林大臣が文部大臣と協議して定める売渡計画に従い、食糧管理法(昭和十七年法律第四十号)の定めるところにより、学校給食用として売り渡す場合における売渡しの予定価格は、食生活の改善のため必要があるときは、食糧管理法第四条ノ三第二項の規定にかかわらず、農林大臣が定める価格によるものとする。

 (小麦等の用途外使用の禁止)

第十一条 前条に規定する小麦又は小麦粉を学校給食用として買い受けた者、その者から当該小麦又は小麦粉を学校給食用として買い受けた者及びこれらの者のために当該小麦又は小麦粉を保管する者は、当該小麦又は小麦粉を学校給食以外の用途に供する目的で譲渡し、又は学校給食以外の用途に使用してはならない。

 (報告の徴取)

第十二条 文部大臣又は農林大臣は、第十条に規定する売渡計画の立案又は実施のため必要があるときは、公立又は私立の小学校等の設置者に対し、学校給食に関し必要な事項の報告を求めることができる。

 (政令への委任)

第十三条 この法律に規定するもののほか、この法律の実施のため必要な手続その他の事項は、政令で定める。

   附 則

1 この法律は、公布の日から施行する。
2 食糧管理特別会計法(大正十年法律第三十七号)の一部を次のように改正する。
  附則第七項中「麦ノ売渡」を「麦ノ売渡及学校給食法(昭和二十九年法律第百六十号)第十条ノ規定ニ依ル小麦又ハ小麦粉ノ売渡」に改める。

(大蔵・文部・農林・内閣総理大臣署名) 

   「衆議院ホームページ」より

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 今日は、昭和時代中期の1940年(昭和15)に、津田事件で、津田左右吉が記紀研究の主要4著作に関して、右翼から訴えられ早稲田大学教授辞任に追い込まれた日です。
 津田事件(つだじけん)は、昭和時代前期の1940年(昭和15)2月10日に、歴史学者津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』、『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』の4冊の著書が発禁処分となり、3月8日に津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条違反の疑いで起訴され、1942年(昭和17)5月21日に有罪判決を受けた事件です。1939年(昭和14)末に津田の『古事記及日本書記の研究』を蓑田胸喜らが雑誌「原理日本」で“大逆思想”にあたると攻撃、これを受けて、検察当局はただちに行動を開始しました。
 翌年1月11日には早稲田大学文学部教授を解任され、2月10日に上記4著書を発売禁止処分とされ、さらに、3月8日には、津田本人と発行元である岩波書店の岩波茂雄が出版法第26条「皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ、政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス」の疑いで起訴されます。その後の裁判は29回の予審と21回の公判を経て、1942年(昭和17)5月21日に、『古事記及日本書記の研究』のみ、その記述の崇神、垂仁朝を仮定視し、仲哀天皇以前の天皇の存在を疑問視したことが「出版法」第26条違反とし、津田に禁固3ヶ月、岩波に禁固2ヶ月(いずれも執行猶予2年)の判決が出されました。
 津田、岩波の側はこの判決を不満として控訴、また検察当局も判決が軽すぎると控訴して争いましたたが、結局1944年(昭和19)11月に、控訴院で本件は「時効完成により免訴」という宣告が出されて終わっています。

〇津田左右吉(つだ そうきち)とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した歴史学者・思想史家です。明治時代前期の1873年(明治6)10月3日に、岐阜県加茂郡下米田村(現在の美濃加茂市下米田町)で、尾張藩家老竹腰家の旧家臣津田藤馬の長男として生まれました。
 名古屋の私立中学を中退し、上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)邦語政治科で学びます。1891年(明治24)に卒業後、中学教員を勤めつつ白鳥庫吉の指導を受け、1901年(明治34)に『新撰東洋史』を刊行しました。
 1908年(明治41)に、白鳥の開設した満鮮歴史地理調査室研究員(満鉄東京支社嘱託)となり、1913年(大正2)に『朝鮮歴史地理』上下を刊行、文献批判的実証研究を培います。1918年(大正7)に早稲田大学講師となり、東洋史、東洋哲学を教え、記紀の文献学的考証を行い、『古事記及び日本書紀の新研究』(1919年)を刊行しました。
 1920年(大正9)に早稲田大学文学部教授となってからも、『神代史の研究』(1924年)、『道家の思想と其の開展』(1927年)、『日本上代史研究』(1930年)、『上代日本の社会及び思想』(1933年)など旺盛に執筆活動を続けます。しかし、記紀研究の主要4著作に関して、皇室の尊厳を冒涜したかどで右翼から訴えられ、1940年(昭和15)に早稲田大学を辞職せざるを得なくなり、発売禁止処分も受け、出版元の岩波茂雄と共に、「出版法」違反で起訴(津田事件)されました。
 その後、1942年(昭和17)には、禁錮3ヶ月、執行猶予2年の宣告を受けますが、1944年(昭和19)には控訴院で免訴となっています。太平洋戦争後も旺盛な著作活動を続け、1949年(昭和24)に文化勲章、1960年(昭和35年)に美濃加茂市名誉市民第1号に選ばれ、1961年(昭和36)には朝日文化賞も受賞しました。しかし、1961年(昭和36)12月4日に、東京都の武蔵境の自宅でにおいて、88歳で亡くなっています。

<津田左右吉の主要な著作>

・『新撰東洋史』(1901年)
・『朝鮮歴史地理』上・下(1913年) 
・『神代史の新しい研究』(1913年)
・『文学に現はれたる我が国民思想の研究』4冊(1916~21年)
・『古事記及び日本書紀の新研究』(1919年)
・『神代史の研究』(1924年)
・『道家(どうか)の思想と其(そ)の開展』(1927年)
・『日本上代史研究』(1930年)
・『上代日本の社会及び思想』(1933年)
・『左伝の思想史的研究』(1935年)
・『支那思想と日本』(1938年)
・『蕃山・益軒』(1938年)
・『論語と孔子の思想』(1947年) 
・『シナ仏教の研究』(1957年) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)武蔵国秩父郡から朝廷に銅が献上され、記念して和銅改元がされる(新暦2月7日)詳細
1871年(明治4)三浦半島南東端に立つ、日本7番目の洋式灯台である劔埼灯台が初点灯する(新暦3月1日)詳細
1938年(昭和13)御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定される詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第20条に基づき、「新聞紙等掲載制限令」が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)植物学者・遺伝学者藤井健次郎の命日詳細
1964年(昭和39)伊豆大島大火で584棟418戸が焼失する詳細
1966年(昭和41)青森県三沢市で三沢大火が起きる詳細
1974年(昭和49)劇作家・小説家山本有三の命日(1.11忌)詳細
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 今日は、昭和派時代中期の1952年(昭和27)に、電気通信省(後の電電公社)が中断されていた慶弔電報の取扱いを再開した日です。
 電報(でんぽう)は、公衆電気通信の一分野で、発信者の原文を電信で送り、先方で紙などに印刷して、受信者に配達する通信サービスです。外国では、1837年に、アメリカ合衆国のサミュエル・F.B.モースが、電気信号を電磁石の動きとして受信する電信機を発明して特許を得、1843年には、モースがアメリカ政府の援助を受け、ワシントンD.C.―ボルティモア間の通信実験に成功、1844年5月24日に、電信システムが実用化されました。
 日本では、1870年(明治2年12月25日)に、東京~横浜間で公衆電報の取扱いが開始され、1871年(明治3)に、長崎~上海間、長崎~ウラジオストク間に国際電信が開通、1908年(明治40)には、千葉県銚子に無線電信所が開業して船舶無線が始まります。20世紀後半以降、電話、ファクシミリ、携帯電話や電子メールの普及によって利用が限定されるようになり、今日では慶弔電報がその中心となりました。

〇日本の電報サービス関係略年表

・1870年1月26日(明治2年12月25日) 東京~横浜に電信線が開通し、電報の取扱いが始まる
・1871年(明治3) 大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ。デンマーク資本)による長崎 - 上海、長崎 - ウラジオストク間の海底電信線敷設。欧亜陸上電信線経由で国際電報が開始される
・1873年(明治5) 東京~長崎間の国内電報が開始。大北電信会社とも接続され、逓信省による国際電報の託送が開始された。以後、国内各地への電信線の敷設が急速に進められた。
・1878年(明治10) 東京木挽町に電信中央局が開業したことにより、海外電報の取り扱いが開始。以後、本格的な電信利用が始まる
・1883年(明治15) 大北電信会社による呼子~釜山間の海底電信線敷設。同社に20年間の海外通信の独占権を与える
・1890年(明治22) 呼子~対馬間の海底電信線を大北電信会社から買収する
・1897年(明治29) 日本独自の大隅半島~基隆間海底電信線を敷設する
・1898年(明治30) 台湾から福建間の海底電信線を日本が買収。イースタン・テレグラフ・カンパニー社(大東電信会社、イギリス資本、後のケーブル・アンド・ワイヤレス社)のThe Red Routeにより接続される
・1904年(明治36)5月7日~1905年(明治37年)9月29日 読売新聞が、本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う
・1906年(明治38) 東京~小笠原~グアム間の海底電信線を敷設し、日本とアメリカがコマーシャル・パシフィックケーブル社(商業太平洋電線会社、アメリカ資本)のマニラ - グアム - サンフランシスコ線により接続される
・1908年(明治40) 千葉県銚子に無線電信所が開業して、無線電報サービスが開始される
・1911年(明治43) 対馬~釜山間の海底電信線を大北電信会社より買収する
・1914年(大正3) 第一次世界大戦による好景気で国内・外国電報の利用数が激増する
・1930年(昭和5) 写真電報サービスが開始される
・1934年(昭和9) 年賀電報サービスが開始される
・1936年(昭和11) 冠婚葬祭等の祝電・弔電用として慶弔電報サービスが開始される
・1943年(昭和18) 大東電信会社の運用権を買収、海底電信線を日本領海内で切断、大東電信の名称が国内から消える
・1946年(昭和21) 模写電報サービスを開始する
・1952年(昭和27)1月9日 電気通信省(後の電電公社)が慶弔電報の取扱いを再開する
・1955年(昭和30) 大北電信会社の請求権解決取極(戦後賠償)。
・1969年(昭和41) 大北電信会社の独占権が喪失する
・1976年(昭和30) 至急電報(ウナ電)サービスが終了する
・1985年(昭和60) 夜間配達を19時から翌朝8時に受け付けた緊急定文電報のみに変更。
・1988年(昭和63) ひらがな電報サービスを開始する
・1991年(平成3)3月31日:受付時間を8時から22時までに変更する
・1994年(平成6) 漢字電報サービスを開始する
・2004年(平成16)4月1日 千代田電報配達所と中央電報配達所を合併し、日本一のマンモス配達所になる。
・2018年(平成30)1月1日 緊急定文電報を定文電報に名称変更し、受付時間を午前8時から午後7時に短縮、通常電報の受付時間も午後7時までに変更する
・2023年(令和5)1月10日 定文電報、無線電報、ファクシミリによる電報受付を終了する
・2023年(令和5)1月11日 料金体系を文字数単位料金から、ページ単位料金へ変更する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される詳細
1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1895年(明治28)新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の誕生日詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細
1943年(昭和18)日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される詳細
1953年(昭和28)今井正監督・脚本の映画『ひめゆりの塔』が封切られる詳細
1985年(昭和60)北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する詳細
1998年(平成10)日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日詳細
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