ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 昭和時代

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、学校給食に米飯が許可された日です。
 学校給食(がっこうきゅうしょく)は、児童、生徒の心身の健全な発達と国民の食生活の改善をはかるために、学校教育活動の一環として集団的に実施される給食のことです。日本では、明治時代の中頃の1889年(明治22)に、現在の山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に、おにぎり・焼き魚・漬物の昼食を無償で提供したのが始まりとされてきました。
 大正時代末頃から主に貧困児童の就学奨励策として、小規模ながら全国的に実施されたものの、太平洋戦争中は、食料不足で多くが中止されています。戦後の1946年(昭和21)に、文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」が発せられ、戦後の学校給食の方針が定まりました。
 翌年1月に、主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始され、1948年(昭和23)4月23日には、文部省が「全小中学校に学校給食を拡大」と発表します。翌年に、ユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始され、1950年(昭和25)には、8大都市の小学校児童に対し、米国寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食が実施されました。
 1954年(昭和29)6月3日に、「学校給食法」が公布・施行され、義務教育諸学校などに適用されます。1956年(昭和31)には、高等学校定時制課程の学校給食奨励のための法律も定められ,翌年には盲学校、聾学校、養護学校の学校給食に関する法律も制定されました。
 1970年(昭和45)1月19日に、学校給食に米飯が許可され、1976年(昭和51)には、学校給食制度上に米飯が正式に導入されます。その後、2005年(平成17)には、学校給食を教材として活用し、食に関する指導の充実をはかるため、栄養教諭制度が創設されました。

〇学校給食関係略年表

・1889年(明治22) 現在の山形県鶴岡市の私立忠愛小学校で貧困児童を対象に、おにぎり・焼き魚・漬物の昼食を無償で提供したのが始まり
・1923年(大正12) 文部次官通牒「小学校児童の衛生に関する件」において、児童の栄養改善のための方法としての学校給食が奨励される
・1929年(昭和4) この年までに学校給食を実施した学校は全国で204校、経費は約2万9,000円に及ぶ
・1932年(昭和7)9月 文部省が訓令「学校給食臨時施設方法」を制定し、給食のための設備が初めて法制化される
・1939年(昭和14) 昭和13年度の給食実施校が約1万2,000校、給食を提供された人数は約60万人(実人数)、給食費は約150万円に及ぶ
・1941年(昭和16) 学校給食は貧困児童の救済・児童の栄養改善に向けて全国に広がり、内容の充実が図られるも、太平洋戦争による食糧不足のため、学校給食は中止となる
・1944年(昭和19) 6大都市の小学生児童約200万人に対し、米・味噌等を特別配給して学校給食を実施、4月1日に6大都市の国民学校学童に1食7勺の給食が始まり、9月1日にパン食のみになる
・1946年(昭和21) 文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」が発せられ、戦後の学校給食の方針が定まる
・1947年(昭和22)1月 主要都市の約300万人の児童にララ物資を利用した学校給食が開始される
・1948年(昭和23)4月23日 文部省が「全小中学校に学校給食を拡大」と発表する
・1949年(昭和24) ユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて、ユニセフ給食が開始される
・1950年(昭和25) 8大都市の小学校児童に対し、米国寄贈の小麦粉によりはじめて完全給食が実施される
・1951年(昭和26) 講和条約の調印に伴い、給食用物資の財源であったガリオア資金(アメリカの占領地域救済政府資金)が6月末日をもって打ち切られ、学校給食は中止の危機にさらされる
・1952年(昭和27) 日本学校給食会が脱脂粉乳の輸入業務を開始、また、ユニセフ寄贈の脱脂粉乳の受入配分業務も実施される
・1954年(昭和29) 「学校給食法」が公布・施行され、日本の学校給食は第二のスタートを切る
・1956年(昭和31) 高等学校定時制課程の学校給食奨励のための法律も定められる
・1957年(昭和32) 盲学校、聾学校、養護学校の学校給食に関する法律も制定され、全国学校給食会連合会が発足する
・1958年(昭和33) 農林次官通達「学校給食用牛乳供給事業実施要綱」に伴い、文部省管理局長より「学校給食用牛乳取扱要領」が通知され、学校給食に牛乳が供給される
・1958年(昭和33)10月1日 「学習指導要領」が改訂され、学校給食が初めて学校行事などの領域に位置付けられる
・1960年(昭和35) 学校給食研究改善協会が設立され、「へき地における学校給食助成事業」が開始される
・1961年(昭和36) へき地におけるミルク給食施設設備費及び夜間定時制高等学校夜食費に対する補助制度が設けられる
・1962年(昭和37) 文部省より財団法人として学校給食研究改善協会が認可される
・1963年(昭和38) 脱脂粉乳に対する国庫補助(100グラム4円)が実現し、ミルク給食の全面実施が推進される
・1964年(昭和39) 国が共同調理場に勤務する学校栄養職員の設置に要する人件費の2分の1を補助することになる
・1966年(昭和41) 高度へき地学校の全児童生徒に対し、全学国庫補助により、パン・ミルクの無償給食が実施される
・1968年(昭和43) 「小学校学習指導要領」の改正に伴い、小学校の学校給食は「特別活動」の中の「学級指導」に位置づけられる
・1969年(昭和44) 「中学校学習指導要領」の改正に伴い、中学校の学校給食は「特別活動」の中の「学級指導」に位置付けられる
・1970年(昭和45)1月19日 学校給食に米飯が許可される
・1974年(昭和49) 教育的専門職員として「学校栄養職員」の名称地位が制度上明確になる
・1976年(昭和51) 学校給食制度上に米飯が正式に導入される
・1986年(昭和61) 「学校栄養職員の職務内容について」が文部省体育局長より通知される
・1989年(平成元) 「小学校学習指導要領」、「中学校学習指導要領」が改正され、学校給食は「特別活動」の中の「学級活動」に位置づけられる
・1995年(平成7) 学校給食用脱脂粉乳の輸入自由化に伴い、関税暫定措置法等関係法令が改正され、従来の輸入割当制度から関税割当制度に移行される
・1996年(平成8)7月18日 文部省が「学校給食における衛生管理の改善に関する調査研究協力者会議」を設置し、夏季緊急点検、抽出による食材の点検等が実施される
・1997年(平成9) 「学校給食衛生管理の基準」が定められる
・2004年(平成16) 「学校教育法の一部を改正する法律」が公布され、栄養教諭の役割が明記される
・2005年(平成17)4月、栄養教諭制度がスタートする
・2005年(平成17)6月 「食育基本法」が公布(7月より施行)される
・2006年(平成18) 食育推進基本計画が策定される
・2007年(平成19) 「食に関する指導の手引」が作成される
・2008年(平成20) 中教審答申にて「食育」の必要性が明記される
・2009年(平成21) 「学校給食法」が改正施行され、その目的が「食育」の観点から見直される
・2011年(平成23) 内閣府より公益財団法人として学校給食研究改善協会が認定される
・2012年(平成24) 文部科学省から「学校給食調理従事者研修マニュアル」が発行される
・2013年(平成25) 文部科学省から「学校給食施設・設備の改善事例集」が発行される
・2014年(平成26) 学校給食における食物アレルギー対応に関する調査研究協力者会議から「今後の学校給食における食物アレルギー対応について」最終報告が出る
・2015年(平成27) 文部科学省より「学校給食における食物アレルギー対応指針」が発行される
・2016年(平成28) 文部科学省より小学生用食育教材「たのしい食事つながる食育」が発行される
・2017年(平成29) 文部科学省より「栄養教諭を中核としたこれからの学校の食育」が発行される
・2018年(平成30) 文部科学省「学校給食実施基準」一部改正施行される
・2019年(平成31)3月 文部科学省「食に関する指導の手引(第二次改定版)」発行される

☆学校給食法(がっこうきゅうしょくほう)とは?

 学校給食および学校給食を活用した食に関する指導の実施に関して必要な事項を定めた法律(昭和29年法律第160号)でした。義務教育諸学校における学校給食の実施に関する根拠法律で、「学校給食が児童の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんがみ、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実を図ることを目的とする。」(第1条)と規定されます。
 学校設置者は学校給食の実施について努力しなければならないとされ、その食の経費については、施設設備費や関係職員の給与費などは設置者が、それ以外は児童生徒の保護者が負担するものとし、国はそれらの経費の一部を補助することができるとしていました。しかし、2009年(平成21)4月1日の改正で、日本における一般的な食生活の現状に鑑み同文言は削除され、かわって「食に関する正しい理解と適切な判断力を養う」点が盛り込まれています。

☆「学校給食法」(昭和29年法律第160号)1954年(昭和29)6月3日公布・施行

 (この法律の目的)

第一条 この法律は、学校給食が児童の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんがみ、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実を図ることを目的とする。

 (学校給食の目標)

第二条 学校給食については、小学校における教育の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
 一 日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養うこと。
 二 学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うこと。
 三 食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図ること。
 四 食糧の生産、配分及び消費について、正しい理解に導くこと。

 (定義)

第三条 この法律で「学校給食」とは、前条各号に掲げる目標を達成するために、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)に定める小学校、盲学校、ろう学校又は養護学校(以下「小学校等」と総称する。)において、その児童に対し実施される給食をいう。

 (小学校等の設置者の任務)

第四条 小学校等の設置者は、当該小学校等において学校給食が実施されるように努めなければならない。

 (国及び地方公共団体の任務)

第五条 国及び地方公共団体は、学校給食の普及と健全な発達を図るように努めなければならない。

 (経費の負担)

第六条 学校給食の実施に必要な施設及び設備に要する経費並びに学校給食の運営に要する経費のうち政令で定めるものは、小学校等の設置者の負担とする。
2 前項に規定する経費以外の学校給食に要する経費は、学校給食を受ける児童の保護者(学校教育法第二十二条第一項に規定する保護者をいう。)の負担とする。

 (国の補助)

第七条 国は、公立又は私立の小学校等の設置者に対し、政令で定めるところにより、予算の範囲内において、学校給食の開設に必要な施設又は設備に要する経費の一部を補助することができる。

 (補助の申請等)

第八条 小学校等の設置者は、前条の規定により国の補助を受けようとする場合においては、政令で定めるところにより、文部大臣に補助金の交付申請書を提出しなければならない。
2 文部大臣は、前項の規定により補助金の交付申請書の提出を受けたときは、補助金を交付するかしないかを決定し、その旨を当該小学校等の設置者に通知しなければならない。

 (補助金の返還等)

第九条 文部大臣は、前条第二項の規定により補助金の交付の決定を受けた者が左の各号の一に該当するときは、補助金の交付をやめ、又はすでに交付した補助金を返還させるものとする。
 一 補助金を補助の目的以外の目的に使用したとき。
 二 正当な理由がなくて補助金の交付の決定を受けた年度内に補助に係る施設又は設備を設けないこととなつたとき。
 三 補助に係る施設又は設備を、正当な理由がなくて補助の目的以外の目的に使用し、又は文部大臣の許可を受けないで処分したとき。
 四 補助金の交付の条件に違反したとき。
 五 虚偽の方法によつて補助金の交付を受け、又は受けようとしたとき。

 (小麦等の売渡し)

第十条 国が、食糧管理特別会計の負担において買い入れた小麦又はこれを原料として製造した小麦粉を、農林大臣が文部大臣と協議して定める売渡計画に従い、食糧管理法(昭和十七年法律第四十号)の定めるところにより、学校給食用として売り渡す場合における売渡しの予定価格は、食生活の改善のため必要があるときは、食糧管理法第四条ノ三第二項の規定にかかわらず、農林大臣が定める価格によるものとする。

 (小麦等の用途外使用の禁止)

第十一条 前条に規定する小麦又は小麦粉を学校給食用として買い受けた者、その者から当該小麦又は小麦粉を学校給食用として買い受けた者及びこれらの者のために当該小麦又は小麦粉を保管する者は、当該小麦又は小麦粉を学校給食以外の用途に供する目的で譲渡し、又は学校給食以外の用途に使用してはならない。

 (報告の徴取)

第十二条 文部大臣又は農林大臣は、第十条に規定する売渡計画の立案又は実施のため必要があるときは、公立又は私立の小学校等の設置者に対し、学校給食に関し必要な事項の報告を求めることができる。

 (政令への委任)

第十三条 この法律に規定するもののほか、この法律の実施のため必要な手続その他の事項は、政令で定める。

   附 則

1 この法律は、公布の日から施行する。
2 食糧管理特別会計法(大正十年法律第三十七号)の一部を次のように改正する。
  附則第七項中「麦ノ売渡」を「麦ノ売渡及学校給食法(昭和二十九年法律第百六十号)第十条ノ規定ニ依ル小麦又ハ小麦粉ノ売渡」に改める。

(大蔵・文部・農林・内閣総理大臣署名) 

   「衆議院ホームページ」より

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 今日は、昭和時代中期の1940年(昭和15)に、津田事件で、津田左右吉が記紀研究の主要4著作に関して、右翼から訴えられ早稲田大学教授辞任に追い込まれた日です。
 津田事件(つだじけん)は、昭和時代前期の1940年(昭和15)2月10日に、歴史学者津田左右吉の『古事記及日本書記の研究』、『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』の4冊の著書が発禁処分となり、3月8日に津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条違反の疑いで起訴され、1942年(昭和17)5月21日に有罪判決を受けた事件です。1939年(昭和14)末に津田の『古事記及日本書記の研究』を蓑田胸喜らが雑誌「原理日本」で“大逆思想”にあたると攻撃、これを受けて、検察当局はただちに行動を開始しました。
 翌年1月11日には早稲田大学文学部教授を解任され、2月10日に上記4著書を発売禁止処分とされ、さらに、3月8日には、津田本人と発行元である岩波書店の岩波茂雄が出版法第26条「皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ、政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱セムトスル文書図画ヲ出版シタルトキハ著作者、発行者、印刷者ヲ二月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ二十円以上二百円以下ノ罰金ヲ附加ス」の疑いで起訴されます。その後の裁判は29回の予審と21回の公判を経て、1942年(昭和17)5月21日に、『古事記及日本書記の研究』のみ、その記述の崇神、垂仁朝を仮定視し、仲哀天皇以前の天皇の存在を疑問視したことが「出版法」第26条違反とし、津田に禁固3ヶ月、岩波に禁固2ヶ月(いずれも執行猶予2年)の判決が出されました。
 津田、岩波の側はこの判決を不満として控訴、また検察当局も判決が軽すぎると控訴して争いましたたが、結局1944年(昭和19)11月に、控訴院で本件は「時効完成により免訴」という宣告が出されて終わっています。

〇津田左右吉(つだ そうきち)とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した歴史学者・思想史家です。明治時代前期の1873年(明治6)10月3日に、岐阜県加茂郡下米田村(現在の美濃加茂市下米田町)で、尾張藩家老竹腰家の旧家臣津田藤馬の長男として生まれました。
 名古屋の私立中学を中退し、上京して東京専門学校(早稲田大学の前身)邦語政治科で学びます。1891年(明治24)に卒業後、中学教員を勤めつつ白鳥庫吉の指導を受け、1901年(明治34)に『新撰東洋史』を刊行しました。
 1908年(明治41)に、白鳥の開設した満鮮歴史地理調査室研究員(満鉄東京支社嘱託)となり、1913年(大正2)に『朝鮮歴史地理』上下を刊行、文献批判的実証研究を培います。1918年(大正7)に早稲田大学講師となり、東洋史、東洋哲学を教え、記紀の文献学的考証を行い、『古事記及び日本書紀の新研究』(1919年)を刊行しました。
 1920年(大正9)に早稲田大学文学部教授となってからも、『神代史の研究』(1924年)、『道家の思想と其の開展』(1927年)、『日本上代史研究』(1930年)、『上代日本の社会及び思想』(1933年)など旺盛に執筆活動を続けます。しかし、記紀研究の主要4著作に関して、皇室の尊厳を冒涜したかどで右翼から訴えられ、1940年(昭和15)に早稲田大学を辞職せざるを得なくなり、発売禁止処分も受け、出版元の岩波茂雄と共に、「出版法」違反で起訴(津田事件)されました。
 その後、1942年(昭和17)には、禁錮3ヶ月、執行猶予2年の宣告を受けますが、1944年(昭和19)には控訴院で免訴となっています。太平洋戦争後も旺盛な著作活動を続け、1949年(昭和24)に文化勲章、1960年(昭和35年)に美濃加茂市名誉市民第1号に選ばれ、1961年(昭和36)には朝日文化賞も受賞しました。しかし、1961年(昭和36)12月4日に、東京都の武蔵境の自宅でにおいて、88歳で亡くなっています。

<津田左右吉の主要な著作>

・『新撰東洋史』(1901年)
・『朝鮮歴史地理』上・下(1913年) 
・『神代史の新しい研究』(1913年)
・『文学に現はれたる我が国民思想の研究』4冊(1916~21年)
・『古事記及び日本書紀の新研究』(1919年)
・『神代史の研究』(1924年)
・『道家(どうか)の思想と其(そ)の開展』(1927年)
・『日本上代史研究』(1930年)
・『上代日本の社会及び思想』(1933年)
・『左伝の思想史的研究』(1935年)
・『支那思想と日本』(1938年)
・『蕃山・益軒』(1938年)
・『論語と孔子の思想』(1947年) 
・『シナ仏教の研究』(1957年) 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)武蔵国秩父郡から朝廷に銅が献上され、記念して和銅改元がされる(新暦2月7日)詳細
1871年(明治4)三浦半島南東端に立つ、日本7番目の洋式灯台である劔埼灯台が初点灯する(新暦3月1日)詳細
1938年(昭和13)御前会議で「支那事変処理根本方針」が決定される詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第20条に基づき、「新聞紙等掲載制限令」が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)植物学者・遺伝学者藤井健次郎の命日詳細
1964年(昭和39)伊豆大島大火で584棟418戸が焼失する詳細
1966年(昭和41)青森県三沢市で三沢大火が起きる詳細
1974年(昭和49)劇作家・小説家山本有三の命日(1.11忌)詳細
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 今日は、昭和派時代中期の1952年(昭和27)に、電気通信省(後の電電公社)が中断されていた慶弔電報の取扱いを再開した日です。
 電報(でんぽう)は、公衆電気通信の一分野で、発信者の原文を電信で送り、先方で紙などに印刷して、受信者に配達する通信サービスです。外国では、1837年に、アメリカ合衆国のサミュエル・F.B.モースが、電気信号を電磁石の動きとして受信する電信機を発明して特許を得、1843年には、モースがアメリカ政府の援助を受け、ワシントンD.C.―ボルティモア間の通信実験に成功、1844年5月24日に、電信システムが実用化されました。
 日本では、1870年(明治2年12月25日)に、東京~横浜間で公衆電報の取扱いが開始され、1871年(明治3)に、長崎~上海間、長崎~ウラジオストク間に国際電信が開通、1908年(明治40)には、千葉県銚子に無線電信所が開業して船舶無線が始まります。20世紀後半以降、電話、ファクシミリ、携帯電話や電子メールの普及によって利用が限定されるようになり、今日では慶弔電報がその中心となりました。

〇日本の電報サービス関係略年表

・1870年1月26日(明治2年12月25日) 東京~横浜に電信線が開通し、電報の取扱いが始まる
・1871年(明治3) 大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ。デンマーク資本)による長崎 - 上海、長崎 - ウラジオストク間の海底電信線敷設。欧亜陸上電信線経由で国際電報が開始される
・1873年(明治5) 東京~長崎間の国内電報が開始。大北電信会社とも接続され、逓信省による国際電報の託送が開始された。以後、国内各地への電信線の敷設が急速に進められた。
・1878年(明治10) 東京木挽町に電信中央局が開業したことにより、海外電報の取り扱いが開始。以後、本格的な電信利用が始まる
・1883年(明治15) 大北電信会社による呼子~釜山間の海底電信線敷設。同社に20年間の海外通信の独占権を与える
・1890年(明治22) 呼子~対馬間の海底電信線を大北電信会社から買収する
・1897年(明治29) 日本独自の大隅半島~基隆間海底電信線を敷設する
・1898年(明治30) 台湾から福建間の海底電信線を日本が買収。イースタン・テレグラフ・カンパニー社(大東電信会社、イギリス資本、後のケーブル・アンド・ワイヤレス社)のThe Red Routeにより接続される
・1904年(明治36)5月7日~1905年(明治37年)9月29日 読売新聞が、本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う
・1906年(明治38) 東京~小笠原~グアム間の海底電信線を敷設し、日本とアメリカがコマーシャル・パシフィックケーブル社(商業太平洋電線会社、アメリカ資本)のマニラ - グアム - サンフランシスコ線により接続される
・1908年(明治40) 千葉県銚子に無線電信所が開業して、無線電報サービスが開始される
・1911年(明治43) 対馬~釜山間の海底電信線を大北電信会社より買収する
・1914年(大正3) 第一次世界大戦による好景気で国内・外国電報の利用数が激増する
・1930年(昭和5) 写真電報サービスが開始される
・1934年(昭和9) 年賀電報サービスが開始される
・1936年(昭和11) 冠婚葬祭等の祝電・弔電用として慶弔電報サービスが開始される
・1943年(昭和18) 大東電信会社の運用権を買収、海底電信線を日本領海内で切断、大東電信の名称が国内から消える
・1946年(昭和21) 模写電報サービスを開始する
・1952年(昭和27)1月9日 電気通信省(後の電電公社)が慶弔電報の取扱いを再開する
・1955年(昭和30) 大北電信会社の請求権解決取極(戦後賠償)。
・1969年(昭和41) 大北電信会社の独占権が喪失する
・1976年(昭和30) 至急電報(ウナ電)サービスが終了する
・1985年(昭和60) 夜間配達を19時から翌朝8時に受け付けた緊急定文電報のみに変更。
・1988年(昭和63) ひらがな電報サービスを開始する
・1991年(平成3)3月31日:受付時間を8時から22時までに変更する
・1994年(平成6) 漢字電報サービスを開始する
・2004年(平成16)4月1日 千代田電報配達所と中央電報配達所を合併し、日本一のマンモス配達所になる。
・2018年(平成30)1月1日 緊急定文電報を定文電報に名称変更し、受付時間を午前8時から午後7時に短縮、通常電報の受付時間も午後7時までに変更する
・2023年(令和5)1月10日 定文電報、無線電報、ファクシミリによる電報受付を終了する
・2023年(令和5)1月11日 料金体系を文字数単位料金から、ページ単位料金へ変更する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結される詳細
1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1895年(明治28)新KS鋼の発見で知られる金属物理学者増本量の誕生日詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細
1943年(昭和18)日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される詳細
1953年(昭和28)今井正監督・脚本の映画『ひめゆりの塔』が封切られる詳細
1985年(昭和60)北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する詳細
1998年(平成10)日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、ブリヂストン(株)創業者の石橋正二郎が、ブリヂストン美術館(現在のアーティゾン美術館)を開設し、自身のコレクションを公開した日です。
 アーティゾン美術館(あーてぃぞんびじゅつかん)は、東京都中央区京橋にある私立美術館で、公益財団法人石橋財団が運営しています。昭和時代中期の1952年(昭和27)1月8日に、ブリヂストン(株)創業者の石橋正二郎が、新築のブリヂストンビル2階に、ブリヂストン美術館を開設し、自身のコレクションを公開したのに始まりました。
 1956年(昭和31)に、石橋財団が設立されて運営を開始し、1961年(昭和36)に、石橋所蔵の美術品の大半を受贈します。2015年(平成27)月18日より、ビルの建て替えに伴う新築工事のため、長期休館となり、2019年(令和元)7月1日にミュージアムタワー京橋が竣工、その1~6階部分を利用し、翌年1月18日に、アーティゾン美術館と改称して開館しました。
 カミーユ・コロー、ピエール=オーギュスト・ルノアールなど19世紀フランスの印象主義絵画、パブロ・ピカソなどの 20世紀の西洋近代美術、および青木繁など明治以降の日本の洋画を中心に約2,800点を収蔵しています。

<主要な収蔵品>

・レンブラント・ファン・レイン『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』1626-28年
・カミーユ・コロー『ヴィル・ダヴレー』1835-40年
・オノレ・ドーミエ『山中のドン・キホーテ』1850年頃
・ギュスターヴ・クールベ『雪の中を駆ける鹿』1856-57年頃
・エドガー・ドガ『レオポール・ルヴェールの肖像』1874年頃
・ピエール=オーギュスト・ルノワール『すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢』1876年
・カミーユ・ピサロ『菜園』1878年
・エドゥアール・マネ『自画像』1878-79年
・アルフレッド・シスレー『サン=マメス、六月の朝』1884年
・フィンセント・ファン・ゴッホ『モンマルトルの風車』1886年
・ポール・ゴーギャン『乾草』1889年
・ギュスターヴ・モロー『化粧』1885年-1890年
・ポール・セザンヌ『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』1904-06年
・モーリス・ド・ヴラマンク『運河船』1905-06年
・クロード・モネ『黄昏、ヴェネツィア』1908年
・アメデオ・モディリアーニ『若い農夫』1918年頃
・モーリス・ドニ『バッカス祭』1820年
・ジョルジュ・ルオー『郊外のキリスト』1920-24年
・パブロ・ピカソ『腕を組んですわるサルタンバンク』1923年
・パウル・クレー『島』1932年
・アンリ・マティス『青い胴着の女』1935年
・藤島武二『黒扇』(国指定重要文化財)1908-09年
・山下新太郎『読書』1908年
・藤田嗣治『猫のいる静物』1939-40年
・小出楢重『帽子をかぶった自画像』1924年
・中村彝『自画像』1909年
・佐伯祐三『テラスの広告』1927年
・関根正二『子供』1919年

〇アーティゾン美術館(ブリヂストン美術館)関係略年表

・1952年(昭和27)1月8日 株式会社ブリヂストンの創業者・石橋正二郎が、新築のブリヂストンビル2階にブリヂストン美術館を開設し、自身のコレクションを公開する
・1956年(昭和31) 財団法人石橋財団が設立され、ブリヂストン美術館はその運営下に入る
・1957年(昭和32) 「世界現代芸術展」を開催する
・1959年(昭和34) 全面改修により、延べ床面積が8割増加し2,413㎡になる
・1961年(昭和36) 石橋正二郎より石橋コレクションの大半を受贈する
・1962年(昭和37) パリ国立近代美術館にて「石橋コレクション展」が開催される
・1972年(昭和47) ブリヂストン美術館開館20周年記念「青木繁」展を開催する
・1976年(昭和51) ブリヂストン美術館の創設者、石橋正二郎が亡くなる
・1980年(昭和55) ピカソ「腕を組んですわるサルタンバンク」を購入する
・1987年(昭和62) ルノワール「すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢」を購入する
・1989年(平成元) 「ギュスターヴ・クールベ展」を開催する
・1994年(平成6) 「モネ展」を開催し「睡蓮」などの連作を展示する
・1996年(平成8) 入館者数500万人を突破する
・1999年(平成11) 大規模な内装リニューアルを実施、延べ床面積は2,924平方メートルになる
・2001年(平成13) 「ルノワール展」を開催、過去最高の33万人余の入場者を集める
・2002年(平成14) ブリヂストン美術館開館50周年記念「コレクター石橋正二郎」展、「藤島武二」展を開催する
・2004年(平成16) 土曜講座2000回を突破する
・2005年(平成17) 石橋財団創設50周年を記念し、ポロック「Number 2, 1951」を購入する
・2006年(平成18) 石橋財団創設50周年記念「雪舟からポロックまで」展、「坂本繁二郎」展を開催する
・2011年(平成23) カイユボット「ピアノを弾く若い男」を購入する
・2012年(平成24) 石橋財団を公益財団法人に移行、ブリヂストン美術館開館60周年記念「パリへ渡った『石橋コレクション』1962年、春」展、「ドビュッシー−音楽と美術」展、「あなたに見せたい絵があります。」展を開催する
・2013年(平成25) 「カイユボット展」を開催する
・2015年(平成27) 「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展を開催、ビルの建て替えに伴う新築工事のため、5月18日より長期休館となる
・2016年(平成28) 石橋美術館の運営を久留米市に返還し、久留米市美術館に改名する
・2017年(平成29) オランジュリー美術館、パリにて「ブリヂストン美術館の名品-石橋財団コレクション」展を開催する
・2018年(平成30) 2019年7月のブリヂストン美術館館名変更 (アーティゾン美術館へ)と、2020年1月の 新美術館開館について発表する
・2019年(令和元)7月1日 ミュージアムタワー京橋が竣工する
・2020年(令和2)1月18日 アーティゾン美術館として開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1642年(寛永19)説教僧・茶人・文人安楽庵策伝の命日(新暦2月7日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1920年(大正9)医師・生化学者・分子生物学者早石修の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領(満州事変)を非難する「スティムソン・ドクトリン」を発表した日です。
 「スティムソン・ドクトリン」(timson doctrine)は、昭和時代前期の1932年(昭和7)1月7日に、ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領(満州事変)を非難するために出した声明です。「ケロッグ・ブリアン条約」(パリ不戦条約)に違反する手段を用いてなされた、いかなる事態、条約、協定も承認しないと主張し、同時に、中国政策における「門戸開放政策」の方針を示したものでした。
 これに対して、日本は、1月16日に、芳沢謙吉外相が、「支那不統一の現状を斟酌されたし」と回答しています。3月11日には、国際連盟総会決議によって連盟加盟国の義務として確認され、同年の「チャコ宣言」、1933年(昭和8)の「ラテンアメリカ不戦条約」などにも採用されました。
 以下に、「スティムソン・ドクトリン」の日本語訳を掲載しておきますから、ご参照ください。

〇「スティムソン・ドクトリン」 1932年(昭和7)1月7日にワシントンで発表

<日本語訳>

 ワシントン、1932年1月7日

 次の書簡をできるだけ速やかに、貴国政府の代わりの外国駐在事務所に伝達を乞う。
 錦州における最近の軍事作戦により、1931年9月18日以前に存在し、南満州における中華民国政府の最後に残っていた現地当局は壊滅させられました。アメリカ政府は、日本と中国の間にある諸困難の種を究極的に解決すべく推進している国際連盟理事会によって、最近承認された中立的介入努力について引き続いて自信をもってはいます。しかしながら現下の情勢およびその中にある諸権利及び諸義務に鑑み、アメリカ政府は、日本帝国政府と中華民国政府の双方に対して、以下のように通知することが義務であると勘考しております。すなわちー。
 アメリカ合衆国の条約上の諸権利あるいは中国におけるアメリカ市民の諸権利、これには主権あるいは独立、中華民国の領土的あるいは行政的統一性などを含み、一般に門戸開放政策として知られる諸権利のことを指していますが、を損なうような両国政府(日本政府と中華民国政府のこと)あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできませんし、既成事実によって作られたいかなる状況の合法性も承認することはできません。また1928年8月27日に締結されたパリ平和条約、これは中国も日本もアメリカも締結国でありますが、の定める義務及び盟約に反するいかなる状況、条約、合意も承認する意図はありません。

〇「スティムソンに対する日本の回答」

 駐日アメリカ大使(フォーブス)から国務長官へ

 東京、1932年1月16日

 私は日本政府からの回答を受け取りました。それは以下にて読めます。
 ・・・日本政府は合衆国政府が、戦争の非合法性を謳った「ケロッグ・ブリアン条約」及びワシントンにおける諸条約の全ての詳細について完全かつ全般的に保障しようとする日本の努力をアメリカ政府がその全ての力をもって支持していることを良く承知しております。この事実を追加的に保証されたことは喜びに堪えません。
 閣下が特に触れられた、いわゆる「門戸開放政策」に関して言えば、日本政府は、しばしば指摘されている如く、極東の政治において主要な特徴をなす政策だと見なしております。また中国を通じて明らかになった不安定な情勢によって、その効力が深刻なまでに失われていることを残念に思っています。彼らが門戸開放政策を保証する限りにおいて、門戸開放政策は満州および中国本土において、常に維持されるでありましょう。
 彼らは、アメリカ政府によってなされた声明の後半部分、すなわち、1928年8月27日の「ケロッグ・ブリアン条約」に反する手段によってもたらされるかもしれない、あるいはアメリカ合衆国あるいはアメリカ市民の条約上の権利を損なうかも知れない非合法な事柄を承認しないとする部分に注意を払っております。現下の情勢で必要にして執られた手段が不適切であるかどうかまた安全保障に終止符を打つものであるかどうかは、学問的疑義に属するものであるかも知れません。日本は不適切な手段を執る意図はありませんので、そのような疑念は事実上発生しません。
 中国に関連する条約は、中国において、時にして明らかになる事柄の状況に応じて適応されねばならないということも付け加えなければならないかも知れません。また現在の中国における不安定かつ混乱した状態は、ワシントン条約が結ばれた時に、条約原締結国が熟慮したものではない、ということも付け加えた方が良いのかも知れません。その時、それは明らかに不十分なものでした。そこには現在みられるような敵愾心とか分断は明示されていませんでした。これは諸条約の明示事項やそこに込められた性格に影響を与えることはできません。しかしながら、現在それらがおかれた事実の状態に鑑み、当てはめてみることが必要なわけですから、もしかしてそれらの応用を試みることが必要かも知れません。
 私の政府(*日本政府のこと)は、満州における政権人事で発生している入れ替えは現地の住民とって必要な行為であったことを、指摘したいと思います。もしかりにそれが敵対的占領であったにせよー事実はそうではないのですがー、それは現地の政府高官にとって、その機能を維持する習慣的な行為なのです。現在の場合は彼らは辞任するかあるいは逃げ出しているのですが、それは政府諸機関の働きを破壊すると思量される彼ら自身の態度なのです。日本政府は、他のすべての人たちとは違って、現在の高官たちに見捨てられた時、文明的な状態を保証するに際して、中国の人たちが、かれら自身の自決の力や組織する力に乏しいと、考えることはできません。
 繰り返すまでもないことですが、日本は満州にいかなる領土的目的や野心を持つものではありません。しかし、閣下もご承知のように、満州の安全と福祉及び商取引一般の到達性は、日本の人々にとって極めて重要であり、極めて深甚な利益の問題であります。アメリカ政府にとって、すでに一度ならず示されているように極東における問題については、緊急の課題であります。現在の分岐点において、われわれの国家政策の存在が深く関わっている時、アメリカ政府が、現在の状況をより評価していただけるような地道な配慮を含む友好的な精神に邁進していただけるようであれば、合意は確かなものなりましょう。

☆満州事変(まんしゅうじへん)とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)9月18日、中国東北部の奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まり、1933年(昭和8)5月31日の「塘沽協定」 での停戦まで続いた日本の満州(中国東北部)に対する軍事行動です。日露戦争後の1905年(明治38)9月4日締結の「ポーツマス条約」で利権を得た南満州鉄道株式会社 (満鉄) を拠点として、日本は満州に対する独占的支配に乗出し、政治的経済的進出をはかりました。
 その中で、関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破し、これを中国軍の行為であるとして「自衛のため」と称して満鉄沿線一帯で軍事行動(柳条湖事件)を起します。若槻礼次郎内閣は、ただちに不拡大方針を取りましたが、現地軍は政府の方針を無視して、同年10月の錦州爆撃などにより南満州を占領、さらに北部満州の占領を企図し、11月チチハル占領、翌年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領して、東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)におよぶ満州全域を支配下におさめました。
 そして、1932年(昭和7)3月9日に、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政に就任させて傀儡国家「満州国」を建国させます。日本国内では、若槻礼次郎内閣が倒れて、犬養毅内閣が成立していましたが、五・一五事件によって犬養毅首相が暗殺され、斎藤実内閣に取って代られました。
 そして、9月15日に斎藤実内閣は「日満議定書」に調印して正式に満州国を承認します。そこで、国際連盟は中国の提訴により満州事変に関して、リットン調査団を派遣し、柳条湖事件は日本の自衛行動と認めず、満州国も否定する報告書を採択、日本軍の東北撤退を勧告することとなりました。
 しかし、日本はこれを拒否し、1933年(昭和8)2月からの熱河作戦で熱河省を占領、3月に国際連盟を脱退、5月31日には、中国との間で「塘沽協定」を結び停戦して、中国東北部での権益を確保し、「満州国」を既成事実化させることで満州事変は一応終わります。これらのことにより、国際連盟やアメリカとの対立を深め、この後、1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件による日中戦争全面化から、1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦へと進んでいくこととなりました。

☆満州事変関係略年表

<1931年(昭和6)>
・5月28日 汪兆銘ら広東に国民政府を樹立する
・6月27日 北満密偵中の中村大尉殺害される(8.17 関東軍、公表)
・7月2日 万宝山事件が起きる
・9月18日 関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破(柳条湖事件)、関東軍これを理由に総攻撃を始める(満州事変開始)
・9月19日 関東軍が奉天城を占領する
・9月28日 親日派軍閥が国民政府からの離脱を宣言する
・11月8日 天津で日中両軍激突、溥儀が天津を脱出する
・11月19日 関東軍がチチハルを占領する
・11月27日 中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)が樹立(主席は毛沢東)される
・12月28日 関東軍が錦州に進撃する

<1932年(昭和7)>
・1月1日 蒋介石と汪兆銘合体し、新国民政府が樹立(広東政府解消)される
・1月3日 関東軍が錦州占領し、黒竜江省独立宣言を出す
・1月5日 広東政府が解消される
・1月7日 ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領を非難する「スティムソン・ドクトリン」を発表する
・1月16日 芳沢謙吉外相からヘンリー・スティムソン米国務長官へ「スティムソンに対する日本の回答」が出される
・1月21日 満鉄調査会が新設される
・1月28日 上海事変が勃発(日本海軍の陸戦隊と中国軍が衝突)する
・2月5日 関東軍がハルビンを占領する
・3月1日 満州国建国宣言が発表される
・3月9日 溥儀が満州国執政に就任する
・4月26日 中華ソビエト政府が日本に宣戦布告する
・5月5日 上海からの日中両軍撤退の上海停戦協定に調印する
・5月15日 五・一五事件(海軍青年将校らが犬養首相を暗殺)が起きる
・6月11日 満州国が「貨幣法」を公布する
・6月15日 満州中央銀行が設立される
・7月11日 満州国が大同学院を設立する
・7月14日 関税自主声明が出される
・9月15日 「日満議定書」が調印そされ、日本は満州国を正式承認する
・10月15日 チャムスに第一次武装移民団が到着する
・12月1日 満州国に日本大使館が開設される

<1933年(昭和8)>
・1月1日 山海関で日中軍が衝突する
・1月3日 日本軍が山海関を占領する
・1月30日 ヒトラーがドイツ首相に就任する
・2月9日 満州国有鉄道経営を満鉄に委託する
・2月23日 関東軍が熱河省への進攻作戦を開始する
・3月4日 日本軍が熱河省承徳を占領する
・3月27日 日本政府が国際連盟脱退を通告する
・4月1日 満州国が非承認国に門戸封鎖する
・5月31日 「塘沽停戦協定」が成立し、一応満州事変が終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1868年(慶応4)新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日)詳細
1897年(明治30)詩人・童謡作家中村雨紅の誕生日(戸籍上は2月6日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
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