ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 大正時代

oosugisakaesakaitoshihiko01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、大杉栄らが日本社会主義同盟を結成した日です。
 日本社会主義同盟(にほんしゃかいしゅぎどうめい)は、大正時代の社会主義者が大同団結した組織です。1907年(明治40)の日本社会党の結党禁止以後、1910年(明治43)の大逆事件による大弾圧を経て、社会主義運動は「冬の時代」を迎えていました。
 その中で、第一次世界大戦、ロシア革命の勃発などの影響もあり、1918年(大正7)の米騒動後、急速に労働運動や普選運動の勢いが高まります。堺利彦の「進歩主義の思想的大同団結」の提唱を受けて、橋浦時雄、岩佐作太郎、山崎今朝弥らの社会主義者を中心に大同団結の機運が高まり、1920年(大正9)8月5日に、趣旨書と規約草案が発表され、日本社会主義同盟準備会が結成されました。
 9月には、「新社会評論」を改題してて、機関誌「社会主義」が発刊され、各地で宣伝活動が進められます。発起人には堺、山川均らのマルクス主義者、大杉栄、近藤憲二らのアナルコ・サンディカリストと共に、著作家組合の大庭柯公らの文学者、友愛会や時計工組合などの労働組合、新人会や建設者同盟などの学生団体からの若い世代も名を連ね、11月には30名となりました。
 12月の創立大会には申込者が1,000名を超える中、12月9日に創立準備会を開き、官憲をだしぬいて突如結成を宣言し、翌日に結成の報告集会がなされます。同盟加入者は、創立当時3,000名にも及び、支部は大阪、神戸など5ヶ所に置かれ、翌年1月には、大杉らと近藤栄蔵らのアナ・ボル両派の共同編集の「労働運動」(第2次)も創刊されました。
 しかし、綱領・規約がなく思想的にも雑多で、統一運動も展開できず、弾圧が厳しくなる中で、5月9日に第2回大会を開催したものの、取締り当局の圧迫で解散を命ぜられ、同盟自身も同月28日結社禁止処分を受け、機関誌も9月号で停刊します。その後、アナーキズムとボルシェビズム両派はそれぞれ実際的行動を展開し、それぞれの立場から運動の再結集を図っていきました。

〇日本社会主義同盟関係略年表

<1920年(大正9)>

・8月5日 趣旨書と規約草案が発表され、日本社会主義同盟準備会が結成される
・9月 「新社会評論」を改題してて「社会主義」が発刊される
・11月 発起人が30名となる
・12月9日 創立準備会を開き、官憲をだしぬいて突如結成を宣言をする
・12月10日 結成の報告集会がなされる

<1921年(大正10)>

・1月 大杉らと近藤栄蔵らのアナ・ボル両派の共同編集の「労働運動」(第2次)も創刊される
・5月9日 第2回大会を開催する
・5月28日 弾圧が厳しく解散を命ぜられ、機関誌も9月号で停刊する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上する(新暦841年1月5日)詳細
1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派によって朝廷から「王政復古の大号令」が発せられ、新政府が発足する(新暦1868年1月3日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

shinnihonfujinkyoukaisoukai
 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、新婦人協会が内部対立のために解散した日です。
 新婦人協会(しんふじんきょうかい)は、大正時代に日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体でした。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めます。
 1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約(全21条)を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになりました。男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みます。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めました。その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しています。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至りましたが、約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員

<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言

 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領

一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)

一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より

☆平塚らいてふ(ひらつか らいちょう)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した評論家・婦人解放運動家です。明治時代前期の1886年(明治19)2月10日に、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)で、会計検査院高官だった父・平塚定二郎と母・光沢の3女として生まれましたが、本名は明(はる)と言いました。
 知的で裕福な家庭で、ハイカラで自由な環境で育ち、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を経て、1903年(明治36)に日本女子大学校家政学部へ入学しました。しかし、良妻賢母教育に失望して、文学、哲学、宗教などの本を読み、参禅し自我を追求、1906年(明治39)に卒業します。
 その後、英語を学びましたが、1908年(明治41)に森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)を起こしました。1911年(明治44)に生田長江にすすめられ、母から資金提供を受け、婦人文芸集団青鞜社を興し、雑誌『青鞜』を発刊以後、編集と経営にあたります。
 その創刊の辞「元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――」は、「新しい女」の出現を主張し、今日に至る女権宣言となりました。1914年(大正3)には、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけています。
 1920年(大正9)に、市川房枝、奥むめおらと新婦人協会を発足させ、婦人参政権運動に取り組みました。1930年(昭和5)に高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加して『婦人戦線』に関与、また協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立しています。
 太平洋戦争後は、反戦・平和運動に力を注ぎ、1953年(昭和28)に日本婦人団体連合会会長、1962年(昭和37)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成しました。晩年まで、安保条約廃棄やベトナム反戦運動に関わりましたが、1971年(昭和46)5月24日に、東京において、85歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥の命日詳細
1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

cdb04d7c.gif
 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、北海道の新夕張炭鉱若鍋第二斜坑でガス炭塵爆発が起き、死者・行方不明者423人を出した日です。
 新夕張炭鉱若鍋坑ガス炭塵爆発事故(しんゆうばりたんこうわかなべこうがすたんじんばくはつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)11月28日に、石狩石炭株式会社が経営する新夕張炭鉱若鍋第二斜坑で起きたガス炭塵爆発事故です。この炭鉱は、石炭の産出が急拡大する一方で、炭鉱の坑道からのガスの発生が多いという特徴も持っていて、札幌鉱務署から度々ガス爆発の災害の危険性の指摘があり、炭鉱側も坑道に風穴を開けたり、常に扇風機で風を送るなど、危険を未然に防ごうと注意を払っていました。
 約600人の人間が若鍋炭坑内で作業中だった、午後3時30分に、ガス炭塵爆発が起き、炭鉱全体を揺るがすような大音響が轟きわたります。坑内全域で大規模に落盤も発生、火焔も走り、多くの者が即死しました。二日後の30日から救援活動が行われ、坑内に充満していたガスが一気に爆発し燃え尽きたので、救援隊員は落盤を排除しながら奥まで進むことが出来たものの、四日後の12月2日午後9時になって、斜坑坑口より約900mの個所で火災が発生したため、遺体の3分の2を残したまま密閉、水没させています。
 この事故は、死者・行方不明者423人、負傷者25人という大惨事となり、北海道の炭鉱史上最悪のものとなりました。

〇1914年(大正3)12月2日付「北海タイムス記事」

慄然惻然措く能ず

会社にては 既報の如く 死体引取人に対し 死者一人に付 埋葬料十円 香典十円を與へ 遺族には労働賃金一日分の百倍を交付すると予め会社対坑夫間に於ける契約として成立し居るものなるが故に 会社は之等の金円を與ふれば 遺族保護の責任を脱し得るに似たるも 保護の実を締め山には未だ遠し
今回の変災たるや 未だ嘗て見ざる惨状を呈し 一家数人の死者を出したる者 少なからず 両親共に死して 五歳 八歳の東西をも弁(わきま)へ難き幼児のみなるあり 六十歳以上の老人のみ残れるもあり
扶助を受けたる金額のみを以て 今後の生計を支え難き 其数 甚少にあらざるべし
之等に対しては契約上の金円を與ふる以外 亦 別に適切の手段を巡らして 同情の実を現はすべきなり
尚 彼らは初めより危険なる坑内の労働に従事する者なり雖も 此の変災なかりせば 尚 幾多の星霜を迎えて 快く天寿を全うし 人生の幸福を享受するを得べかりしに哀れや惨禍 身に及びて 忽ち焦熱の間に悶死し 人としての取扱いを受けずして 一片の煙と化す
一度 位 地を転じて 遺族の心に同化すれば 誰れが慄然として人世の無常を嘆せざるあらむや
彼等は今 生計を支ゆる爲に金円を求むる
夫れよりも尚 渇仰するは 社会人心の同情なり
渾然として暖かき情味に浴せんと欲するは痛切なる彼らの希望なり
実情を目撃する者にして 此の感 切なり
而して会社は先づ 其路に当たるべき責任重大なり

〇新夕張炭鉱(しんゆうばりたんこう)とは?             

 1899年(明治32)に北海道庁の地理調査班が発見、持田辰之助が鉱業権を獲得し、中野四郎を経て谷七太郎が谷新夕張炭山の第二鉱として1906年(明治39)に開削されます。その後、石狩石炭が事業を継承し、1907年(明治40)に琴平坑(西一番坑・西二番坑・西二番斜坑)と八坂坑(東二番坑・東二番斜坑)を開坑、1913年(大正2)には18万トンの石炭を算出、さらに、1914年(大正3)に平安坑(南坑又は三坑)が開坑し、数千人の坑夫・雑夫が働き、毎日約700人が坑内作業にあたっていました。
 しかし、同年11月28日に、西一番坑及び西二番斜坑において、死者・行方不明者423人を出す大事故が発生、1916年(大正5)に住吉坑(西新坑)が開坑したものの経営は悪化し、石狩石炭は最終的に1920年(大正9)に北炭に合併します。それからもガス爆発の死傷事故が相次ぎ、ガスの処理の問題が解決されず、1930年(昭和5)に一度閉山に至りました。
 その後、1937年(昭和12)に北炭平和炭鉱が旧若鍋炭鉱の鉱区にに開鉱します。戦後の1948年(昭和23)に平和第二炭鉱(第二斜坑)が開鉱、1954年(昭和29)に平和炭鉱、平和第二炭鉱を一鉱、二鉱と改称、1957年(昭和32)に一区、二区とさらに改称されました。
 一区は1964年(昭和39)に終掘しましたが、二区は1964年(昭和39)に北部第二立坑が完成します。1966年(昭和41)には、生産量が106万トンと一度100万tを越えましたが、1968年(昭和43)に坑内火災で31人の方が亡くなる事故が発生してました。1969年(昭和44)には、第二立坑が完成したものの、1975年(昭和50)に閉山に至っています。

☆日本の主な炭鉱事故

<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]

<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]

<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1835年(天保6)幕末の志士・政治家井上馨の誕生日(新暦では1836年1月16日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
1951年(昭和26)「旅券法」(昭和26年法律第267号)が公布(施行は同年12月1日)される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

Washingtonkaigi03
 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、アメリカのワシントンD.C.において、ワシントン会議が始まった日です。 
 ワシントン会議(わしんとんかいぎ)は、大正時代の1921年(大正10)11月12日~翌年2月6日にかけて、海軍軍備制限と太平洋・極東問題に関し、アメリカのワシントンD.C.で開催された国際会議です。アメリカ大統領ハーディングの招請によって、中国に利害関係のあるアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ポルトガル、ベルギー、オランダおよび中華民国の9ヶ国が集まり、協議しました。
 その結果、各国の主力艦の保有量の比率をアメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.67、イタリア1.67と定め、10年間建造中止を約した「ワシントン海軍軍縮条約」、アメリカ・イギリス・フランス・日本間で太平洋の諸島嶼に関して現状維持を合意した「四カ国条約」(日英同盟は廃棄)、中国の独立、領土保全、門戸開放、機会均等を定めた、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本・中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルによる「九カ国条約」、石井・ランシング協定が破棄され、日本が山東省、山東鉄道を中華民国に還付することで解決した「山東懸案解決に関する条約」など7条約、12決議が成立します。
 これによりアメリカは、第一次世界大戦後の極東、太平洋地域における列国の勢力関係を画定し、いわゆる「ワシントン体制」を構築しました。しかし、アメリカに対して、日本は不利な状況が確定し、以後の日米対立の原因の一つとなったとされます。

〇ワシントン会議で成立した主要な条約

・「四カ国条約」1921年12月13日
・「山東懸案解決に関する条約」1922年2月4日
・「ワシントン海軍軍縮条約」1922年2月6日
・「中国の関税に関する条約」1922年2月6日
・「九カ国条約」1922年2月6日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出港する(新暦12月23日)詳細
1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1974年(昭和49)実験物理学者菊池正士の命日詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

shinoharamiyohei01
 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、経済学者篠原三代平が生まれた日です。
 篠原 三代平(しのはら みよへい)は、大正時代の1919年(大正8)10月26日に、富山県高岡市末広町において、雑貨商の家の長男として生まれました。高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を経て、1940年(昭和15)に高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学、一般均衡論を唱えた中山伊知郎に師事します。
 1941年(昭和16)に学徒出陣し、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍し、翌年に東京商科大学(現在の一橋大学)は繰り上げ卒業措置が取られ、東京商科大学特別研究生の身分となりました。1945年(昭和20)に大蔵省財政経済実勢研究室研究員となり、1950年(昭和25)には、一橋大学経済研究所の助教授に就任します。
 早くから経済の実証的分析と景気循環論が評価され、日本経済の成長と景気循環の研究ですぐれた業績をあげ、1961年(昭和36)には、『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞しました。1962年(昭和37)に一橋大学経済研究所教授となり、日本経済学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会会長などの要職を歴任します。
 1970年(昭和45)に経済企画庁経済研究所所長となり、1973年(昭和48)に 成蹊大学教授、1980年(昭和55)には、(財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となりました。1984年(昭和59)に紫綬褒章を受章、1985年(昭和60)に東京国際大学教授、景気循環学会会長となり、1988年(昭和63)には、『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞しています。
 1989年(平成元)に『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となりました。1998年(平成10)に文化功労者となり、2006年(平成18)に文化勲章を受章、2007年(平成19)には、武蔵野市名誉市民となっています。しかし、2012年(平成24)12月7日に、東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇篠原三代平の主要な著作

・『所得分配と賃金構造』(1955年)
・『日本経済の成長と循環』(1961年)
・『産業構造論』(1966年)
・『経済学入門』(1994年)

☆篠原三代平関係略年表

・1919年(大正8)10月26日 富山県高岡市末広町において、雑貨商の家に長男として生まれる
・1932年(昭和7) 定塚小学校を卒業する
・1937年(昭和12) 高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を卒業し、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)へ入学する
・1940年(昭和15) 高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学する
・1941年(昭和16) 学徒出陣、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍する
・1942年(昭和17) 東京商科大学(現在の一橋大学)を繰り上げ卒業し、東京商科大学特別研究生となる
・1945年(昭和20) 大蔵省財政経済実勢研究室研究員となる
・1950年(昭和25) 一橋大学経済研究所助教授となる
・1961年(昭和36) 『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞する
・1962年(昭和37) 一橋大学経済研究所教授となる
・1970年(昭和45) 経済企画庁経済研究所所長となる
・1973年(昭和48)  成蹊大学教授となる
・1980年(昭和55) (財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となる
・1984年(昭和59)  紫綬褒章を受章する
・1985年(昭和60) 東京国際大学教授、景気循環学会会長となる
・1988年(昭和63) 『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞する
・1989年(平成元)  『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4)  物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となる
・1998年(平成10) 文化功労者となる
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2007年(平成19) 武蔵野市名誉市民となる
・2012年(平成24)12月7日 東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ