ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ: 大正時代

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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、「朝日新聞」で夏目漱石の『心先生の遺書』(後に『こゝろ』に改題)が連載開始された日です。
 『こゝろ』は、夏目漱石の長編小説で、漱石の代表作の一つです。1914年(大正3)4月20日~8月11日まで、「朝日新聞」で『心 先生の遺書』として連載され、同年9月20日に岩波書店より刊行(漱石自身の装丁)されました。
 「上・先生と私」「中・両親と私」「下・先生と遺書」の三部構成となっており、私(大学生)が、鎌倉の海で会った先生に心惹かれて、傾倒していくものの、世間から隠遁したように生活している先生は容易に心を開かず、その謎の多い言動が、自殺した先生の遺書によって解明されるという構成をとっています。漱石自身の孤独と彼が生きた明治への運命的な一体感を暗示しているとされ、前作『行人』以来の自我と他人との問題を扱った晩年の代表作とされてきました。
 この作品が、岩波書店にとっては、出版社として本格的に発刊した最初の小説となっています。
 以下に、『こゝろ』の冒頭部分を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。

〇夏目漱石著『こゝろ』の冒頭部分

上 先生と私


 私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉(かまくら)である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ)日数ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこ)で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人(ひとり)ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。
 宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった。玉突(たまつ)きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻(くすぶ)り返った藁葺(わらぶき)の間(あいだ)を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯(せんとう)のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑(にぎや)かな景色の中に裹(つつ)まれて、砂の上に寝(ね)そべってみたり、膝頭(ひざがしら)を波に打たしてそこいらを跳(はね)廻(まわ)るのは愉快であった。
 私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった。私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こし)らえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外(ほか)に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、ここへ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切(いっさい)を脱(ぬ)ぎ棄(すて)る事にしていた。

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

<夏目漱石の主要な著作>

・『我輩は猫である』(1905~06年)
・『倫敦塔』(1905年)
・『幻影(まぼろし)の盾』(1905年)
・『坊つちやん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『虞美人草』(1907年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』 (1909年)
・『門』 (1910年)
・『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912年)
・『行人(こうじん)』(1912~13年)
・『こゝろ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1546年(天文15)河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日)詳細
1651年(慶安4)江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日)詳細
1924年(大正13)宮沢賢治著の詩集『春と修羅』(関根書店)が刊行される詳細
1926年(大正15)「青年訓練所令」が公布され、在郷軍人や青年団幹部を職員とした青年訓練所が各地に設置される詳細
1947年(昭和22)飯田大火で4,010戸が焼失する詳細
1974年(昭和49)「日中航空協定」が調印(効力発生は同年5月24日)される詳細
1978年(昭和53)小説家橋本英吉の命日詳細
2005年(平成17)小説家丹羽文雄の命日詳細
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 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、羽仁もと子が東京・雑司ヶ谷に自由学園を開校した日です。
 自由学園(じゆうがくえん)は、大正時代の1921年(大正10)4月15日に、羽仁吉一・もと子夫妻によって、現在の東京都豊島区雑司ガ谷に創立された私立学校です。小学校を終えた女子のために、当時の「高等女学校令」によらないで設置され、カリキュラムは文部省令にはよらず5つの家族形態に分け、日常生活を小集団で自律的に管理させていく方針をとり、キリスト教的自由主義による徹底的な生活教育を行ってきました。
 1934年(昭和9)に校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に移転しましたが、旧校舎は「自由学園明日館」として残され、1997年(平成9)に国の重要文化財に指定されています。また現在は、初等部(小学校)、中等科(中学校)、高等科(高等学校)からなり、1949年(昭和24)には高等教育にあたる最高学部が設置されましたが、これは「学校教育法」に定められた大学によらず、2年課程と4年課程からなり、各種学校扱いとなってきました。
 尚、2007年(平成19)には、幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園しています。また、長年にわたり中等科、高等科は男女別学でしたが、2024年(令和6)に、中等部・高等部を共学化、男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組しました。

〇自由学園関係略年表

・1921年(大正10)4月15日 東京府北豊島郡高田町雑司が谷(現在の東京都豊島区西池袋2丁目)に「高等女学校令」によらない学校として開校(女子部)する
・1927年(昭和2) 初等部を開設する
・1934年(昭和9) 校舎を東京府北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)に完全移転する(旧校舎は「自由学園明日館」として現存)
・1935年(昭和10) 男子部を開設する
・1938年(昭和13) 北京生活学校を開校する
・1938年(昭和13) 財団法人化(財団法人自由学園)する
・1939年(昭和14) 幼児生活団を開設する
・1945年(昭和20) 北京生活学校を閉校する
・1949年(昭和24) 最高学部を開設する
・1951年(昭和26) 学校法人化(学校法人自由学園)する
・2007年(平成19) 幼児生活団が認可幼稚園「自由学園幼児生活団幼稚園」として開園する
・2024年(令和6) 中等部・高等部を共学化。男子部中等科を募集停止とし、女子部中等科を男女共学の中等科に改組する

☆羽仁 もと子(はに もとこ)とは?

 明治から昭和時代の教育家・婦人ジャーナリストの先駆者です。明治時代前期の1873年(明治6)9月8日に、青森県三戸郡八戸町(現在の八戸市)で、旧八戸藩士の松岡家に生まれましたが、本名はもとと言いました。
 1879年(明治12)に八戸小学校へ入学、成績優秀で文部省から表彰され、女子で唯一高等科へ進学します。1889年(明治22)に上京して東京府立第一高等女学校2年生に編入、翌年には洗礼を受けてキリスト教徒となりました。
 1891年(明治24)に第一高等女学校を卒業後、「女学雑誌」の編集長である巌本善治が校長を務める明治女学校高等科に入学します。1892年(明治25)に帰郷し尋常小学校や盛岡女学校の教員をし、その後結婚したものの、半年で離婚しました。
 1897年(明治30)に再度上京し、報知社(現・報知新聞社)に入社、1899年(明治32)には、婦人として初めて新聞記者の仕事に携わります。1901年(明治34)に職場で知り合った新聞記者の羽仁吉一と再婚、1903年(明治36)には、夫・吉一と共に女性雑誌「家庭之友」を創刊、長女・説子が誕生しました。
 1904年(明治37)に「家計簿」を創案して出版、1906年(明治39)に「主婦日記」を出版、1908年(明治41)には、雑誌「家庭の友」を「婦人之友」へと改題、婦人之友社を設立、家庭環境改善に大きな役割を果たします。1914年(大正3)に雑司ヶ谷に家と社屋を建てて移り、「婦人之友」の姉妹誌として、子ども向けの「子供之友」も出版しました。
 長女・説子が小学校を終えるのを機に、1921年(大正10)に東京・雑司ケ谷に自由学園を創設、「文部省令」によらない教育施設において、「真の自由人をつくりだすこと」を目的に、生活に立脚した「活(い)きた」教育の開発と実践を試みます。1925年(大正14)に学校規模の拡大により、現在の東京都東久留米市に新しい学校施設を建設して移転、1927年(昭和2)には羽仁もと子著作集を刊行しました。
 1928年(昭和3)に自由学園初等部を設立、1930年(昭和5)には、全国の「婦人之友」愛読者により「全国友の会」を設立されます。1932年(昭和7)に世界新教育会議(フランス・ニース)に出席、ヨーロッパ各国とアメリカを訪問して帰国、1935年(昭和10)には、凶作の東北6か村で農村セッツルメント運動を始めました。
 1938年(昭和13)に自由学園北京生活学校を開設、「幼児生活展」を全国に開催、1939年(昭和14)には、自由学園に幼児生活団を作ります。太平洋戦争後は、1949年(昭和24)に自由学園男子部最高学部(大学)、翌年に女子部最高学部(大学)を開学、文部省の基準によらない独自の総合的な学園構想実現へ努力しました。
 しかし、1955年(昭和30)10月26日に夫・吉一が75歳で亡くなり、1957年(昭和32)4月7日には、自身も東京において、脳血栓の後、心臓衰弱のため83歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1730年(享保15)江戸幕府が上米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻す(新暦5月31日)詳細
1900年(明治33)日本画家山本丘人の誕生日詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、大正時代の1921年(大正8)に、改正「度量衡法」が公布され、尺貫法・ヤード・ポンド法との併用からメートル法への一本化(勅令により尺貫法およびヤード・ポンド法が当分の間使用できるとされる)がされた日です。
 「度量衡法(どりょうこうほう)」は、1886年(明治19)の「メートル条約」加盟に伴い、日本の長さ・体積・質量の単位をそれに基づいて定め、商取引や公的証明のために用いるとしたもので、1893年(明治26)1月1日に施行されました。日本には、「度量衡取締条例」(明治8年8月5日太政官達第135号)によって尺貫法が整備されていたのですが、1886年(明治19)の「メートル条約」加盟により、1890年(明治23)にメートル原器、キログラム原器が到着したのに伴い、度(長さ)・量(体積)・衡(質量)の計測を精密に定めたものです。
 その内容は、まず基本単位として尺および貫をメートルおよびキログラム原器によって定義し、これに基づいて度、地積、量、衡の単位を定め、布帛(織物等)用に限るとして鯨尺を定め、第5条で、これら尺貫法の単位とメートル法の換算値を掲げ、メートル法度量衡を適法のものとし、尺貫法を基本にメートル法を併用するものとなりました。しかし、 1909年(明治42)の改正によりメートル法を基準として尺貫法、ヤード・ポンド法の3法が併用されることとなります。
 その後、1919年(大正8)に圧力・温度・比重単位の規定が追加され、1921年(大正10)には、メートル法に一本化する改正法が公布されましたが、従来慣用の度量衡(尺貫法およびヤード・ポンド法)は勅令により当分の間使用できると定められました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)にこの法律は廃止され、代わって「計量法」(昭和26年法律第207号)が制定されています。
 以下に、「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)

第一條 度量ハ尺、衡ハ貫ヲ以テ基本トス 

第二條 度量衡ノ原器ハ白金、「イリヂウム」合金製ノ棒及分銅トス其ノ棒ノ面ニ記シタル標線間ノ攝氏〇、一五度ニ於ケル長サ三十三分ノ十ヲ尺トシ分銅ノ質量四分ノ十五ヲ貫トス 

第三條 度量衡ノ名稱命位ヲ定ムルコト左ノ如シ 

度 

毛 尺ノ萬分ノ一 

厘 尺ノ千分ノ一 

分 尺ノ百分ノ一 

寸 尺ノ十分ノ一 

尺 

丈 十尺 

間 六尺 

町 三百六十尺(六十間) 

里 一萬二千九百六十尺(三十六町) 

地積 

勺 歩ノ百分ノ一 

合 歩ノ十分ノ一 

歩 或ハ坪六尺平方 

畝 三十歩 

段 三百歩 

町 三千歩 

量 

勺 升ノ百分ノ一 

合 升ノ十分ノ一 

升 六萬四千八百二十七立方分 

斗 十升 

石 百升 

衡 

毛 貫ノ百萬分ノ一 

厘 貫ノ十萬分ノ一 

分 貫ノ萬分ノ一 

匁 貫ノ千分ノ一 

貫 

斤 百六十匁 

第四條 從來慣用ノ鯨尺ハ布帛ヲ度ルトキニ限リ之ヲ用ヰルコトヲ得 

鯨尺一尺ハ一尺二寸五分トシ其ノ十倍ヲ鯨尺一丈、十分ノ一ヲ鯨尺一寸、百分ノ一ヲ鯨尺一分トス 

第五條 「メートル」法度量衡ハ左ニ掲クル比較ニ依リ之ヲ適法ノモノトシ本條以下ノ規定ヲ適用ス 

度 

    「メートル」     「ミリメートル」   〇「尺」、〇〇三三〇
 毛  〇、〇〇〇〇三
   (三萬三千分ノ一)       
 厘   〇、〇〇〇三〇
   (三萬三千分ノ十)     「センチメートル」  〇、〇三三〇〇  
 分   〇、〇〇三〇三
   (三萬三千分ノ一百)   「デシメートル」   〇、三三〇〇〇  
 寸   〇、〇三〇三〇
   (三萬三千分ノ一千)   「メートル」     三、三〇〇〇〇  
 尺  〇、三〇三〇三
   (三萬三千分ノ一萬)   「デカメートル」   三三、〇〇〇〇〇  
 丈  三、〇三〇三〇
   (三萬三千分ノ十萬)   「ヘクトメートル」  三三〇、〇〇〇〇〇  
 間  一、八一八一八
   (十一分ノ二十)      「キロメートル」   三三〇〇、〇〇〇〇〇  
 町  一〇九、〇九〇九一
   (十一分ノ一千二百)  
 里  三九二七、二七二七三
   (十一分ノ四萬三千二百)  

  地積  

    「アール」
 勺  〇、〇〇〇三三
   (三千〇二十五分ノ一)    「センチアール」  〇「歩」、三〇二五〇  
 合  〇、〇〇三三一
   (三千〇二十五分ノ十)    「アール」     三〇、二五〇〇〇  
 歩或ハ坪 〇、〇三三〇六
   (三千〇二十五分ノ一百)  「ヘクタール」   三〇二五、〇〇〇〇〇  
 畝  〇、九九一七四
   (三千〇二十五分ノ三千)  
 段  九、九一七三六
   (三千〇二十五分ノ三萬)  
 町  九九、一七三五五
   (三千〇二十五分ノ三十萬)  

量  

   「リットル」
 勺  〇、〇一八〇四
   (十三萬三千一百分ノ二千四百〇一)  「センチリットル」 〇「升」、〇〇五五四
                              (二十四萬〇一百分ノ一千三百三十一)  
 合  〇、一八〇三九
   (十三萬三千一百分ノ二萬四千〇十)  「デシリットル」  〇、〇五五四四
                              (二十四萬〇一百分ノ一萬三千三百十)  
 升  一、八〇三九一
   (十三萬三千一百分ノ二十四萬〇一百)「リットル」    〇、五五四三五
                              (二十四萬〇一百分ノ十三萬三千一百)  
 斗  一八、〇三九〇七
   (十三萬三千一百分ノ二百四十萬一千)「デカリットル」  五、五四三五二
                              (二十四萬〇一百分ノ一百三十三萬一千)  
 石  一八〇、三九〇六八
   (十三萬三千一百分ノ二千四百〇一萬)「ヘクトリットル」 五五、四三五二四
                              (二十四萬〇一百分ノ一千三百三十一萬)  
衡  

     「グラム」
 毛    〇、〇〇三七五       「ミリグラム」  〇「匁」、〇〇〇二七
                        (一萬五千分ノ四)  
 厘    〇、〇三七五〇      「センチグラム」〇、〇〇二六七
                      (一萬五千分ノ四十)  
 分    〇、三七五〇〇      「デシグラム」 〇、〇二六六七
                      (一萬五千分ノ四百)  
 匁    三、七五〇〇〇      「グラム」   〇、二六六六七
                      (一萬五千分ノ四千)  
 貫    三七五〇、〇〇〇〇〇  「デカグラム」 二、六六六六七
                      (一萬五千分ノ四萬)  
                  「ヘクトグラム」二六、六六六六七
                                         (一萬五千分ノ四十萬)  
 斤    六〇〇、〇〇〇〇〇    「キログラム」  二六六、六六六六七
                                            (一萬五千分ノ四百萬)  

第六條 度量衡ノ原器ハ農商務大臣之ヲ保管ス 

農商務大臣ハ度量衡ノ原器ニ依リ副原器二組ヲ製作セシメ原器ノ代用ニ供ス 

副原器ノ一組ハ農商務大臣之ヲ保管シ他ノ一組ハ文部大臣之ヲ保管ス 

第七條 農商務大臣ハ副原器ニ依リ地方原器ヲ製作セシムヘシ 

地方原器ハ地方長官之ヲ保管シ度量衡器檢定ノ標準ニ供スルモノトス 

第八條 度量衡器ヲ製作シ修覆シ若ハ販賣セント欲スル者ハ地方長官ヲ經由シ農商務大臣ニ願出免許ヲ受クヘシ 

製作ノ免許ヲ得タル者ハ修覆及販賣ヲナスコトヲ得 

免許ニ關スル年限、身元保證金其ノ他必要ナル制限ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム 

第九條 度量衡器ヲ製作シ修覆シ若ハ輸入シテ販賣シ又ハ營業ノ目的ニ使用スル者ハ豫メ其ノ檢定ヲ受クヘシ 

營業ノ目的ニ使用スル度量衡器ハ前項檢定ノ外之ヲ修覆シタルトキ及定期間ニ於テ檢定ヲ受クヘシ 

官廳、公署、官立、公立ノ諸建設場又ハ貧院、病院其他之ニ類スル建設場ニ於テ賣買、授受及證明ノ爲ニ使用スル度量衡器ハ營業ノ目的ニ使用スルモノニ準ス 

第十條 度量衡器ノ種類、形状、物質、檢定ノ定期及公差、檢定スヘキ目盛及分銅ノ最小定限ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム 

第十一條 度量衡器ノ檢定及取締ハ地方長官之ヲ管理ス 

地方長官ハ市長、町村長ヲシテ其ノ市町村内ニ於ケル度量衡器ノ取締ヲ行ハシメ及其ノ檢定ニ關スル事務ヲ補助セシムルコトヲ得 

第十二條 度量衡器ノ製作者、修覆者、販賣者及使用者ハ取締ノ爲ニ行フ當該吏員ノ臨檢ヲ拒ムコトヲ得ス但シ吏員ハ主任タルノ證票ヲ携帯シテ之ヲ示スヘシ 

第十三條 度量衡器ノ製作、修覆及販賣ノ免許ヲ受クル者ハ免許料ヲ、檢定ヲ受クル者ハ檢定料ヲ納ムルヘシ 

免許料及檢定料ノ金額ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム 

第十四條 度量衡器ノ製作者、修覆者若ハ販賣者ニシテ度量衡ニ關スル法律命令ニ違背シタルトキハ農商務大臣ハ其ノ營業免許ヲ取消スコトヲ得 

第十五條 免許ヲ受ケスシテ度量衡器ヲ製作シ若ハ修覆シテ販賣シタル者ハ二十圓以上三百圓以下ノ罰金ニ處ス 

免許ヲ受ケスシテ度量衡器ヲ販賣シ又ハ檢定ヲ受ケサル度量衡器ヲ販賣シ若ハ之ヲ營業ノ目的ニ使用シ及吏員ノ臨檢ヲ拒ミタル者ハ十圓以上二百圓以下ノ罰金ニ處ス 

差狂アル度量衡器ナルコトヲ知テ之ヲ販賣シ又ハ營業ノ目的ニ使用シタル者亦前項ニ同シ 

第十六條 本法施行ノ細則ハ農商務大臣之ヲ定ム 

附則 

第十七條 本法ハ明治二十六年一月一日ヨリ之ヲ施行ス 

第十八條 度量衡器ノ製作ニ限リ本法施行前六箇月以内ニ之ヲ免許スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ本法中製作ニ關スル條項ハ之ヲ適用ス 

第十九條 從來度量衡製作及賣捌ノ免許ヲ受ケタル者ハ更ニ免許ヲ受クルコトヲ要セス本法ノ規定ニ從ヒ其ノ營業ヲ繼績スルコトヲ得 

第二十條 從來ノ度量衡器ハ本法施行ノ日ヨリ七箇年以内ニ本法ノ規定ニ依リ其ノ檢定ヲ受クヘシ檢定ヲ經サルモノハ其ノ期限ヲ過クル後之ヲ販賣シ若ハ營業ノ目的ニ使用スルコトヲ得ス 

第二十一條 從來ノ度量衡器ニシテ修覆シタルモノ丶檢定ハ本法施行ノ日ヨリ七箇年ヲ限リ從來ノ檢査規則ニ依ル 

第二十二條 明治八年太政官第百三十五號逹度量衡取締條例竝檢査規則同九年第十七號布告度量衡改定規則及西洋形權衡ニ係ル從來ノ法令ハ本法施行ノ日ヨリ之ヲ廢止ス但シ度量衡取締條例附屬檢査規則ハ前條ノ場合ニ限リ明治三十二年十二月三十一日マテ其ノ効力ヲ有ス 

           「ウイキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1782年(天明2)儒学者・教育者・漢詩人広瀬淡窓の誕生日(新暦5月22日)詳細
1868年(慶応4)[閏]会津藩・庄内藩赦免を求めるため、奥羽25藩の代表による白石列藩会議が始まる(新暦5月3日)詳細
1919年(大正8)「ベルサイユ条約」によって、国際連盟に国際労働機関(ILO)が設立される詳細
1922年(大正11)「改正鉄道敷設法」が公布・施行され、別表で、149項目、178線に及ぶ建設予定線が決定される詳細
1925年(大正14)「陸軍現役将校学校配属令」が発せられ、中学校以上の公立学校で軍事教練開始詳細
1952年(昭和27)「夏時刻法を廃止する法律」(昭和27年法律第84号)が公布・施行され、夏時間が廃止される詳細
「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」が公布・施行される詳細
1967年(昭和42)「日本近代文学館」が開館する詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、島村抱月と松井須磨子が起こした劇団芸術座が、トルストイの『復活』を帝国劇場で初演した日です。
 帝国劇場(ていこくげきじょう)は、東京都千代田区丸の内3丁目にある劇場で、通称「帝劇(ていげき)」と呼ばれています。明治時代後期の1906年(明治39)に、劇場新設のための委員会(委員長は渋沢栄一)が発足し、1907年(明治40)3月9日には、帝国劇場株式会社が正式に成立して、建設が始まりました。
 1911年(明治44)2月10日に落成しましたが、ルネサンス風のフランス様式を模した劇場で、建坪約2,000㎡、観客席は4階まですべて椅子席(1,700席)で、オーケストラ・ボックスを持つ新しい劇場機構、観劇制度が評判を呼びます。同年3月1日に開館し、6世尾上梅幸、7世松本幸四郎が専属となり歌舞伎を上演する一方、翻訳劇や創作劇を並行して取り上げ、帝国劇場付属技芸学校を設立して女優の養成にも乗り出しました。
 大正時代には、エルマン、クライスラー、パブロワら海外の一流音楽家、舞踊家を招くなど文化交流にも尽くします。しかし、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で、隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちたものの、翌年には、横河民輔により改修されて再開しました。
 1930年(昭和5)に松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転用、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となりましたが、1939年(昭和14)には、運営会社を東宝が合併します。翌年に、松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻されたものの、内閣情報部が庁舎として利用することとなり、9月15日の新国劇の上演をもって休演となりました。
 1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦後、初公演として、六世尾上菊五郎一座の「銀座復興」が行われ、て復活します。1955年(昭和30)には、舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じました。
 1964年(昭和39)に映画「アラビアのロレンス」が上映されましたが、翌年には、都市高層化の波で建物が取り壊され、解体されています。しかし、1966年(昭和41)に敷地内(丸の内3丁目)に新築されたビルの中の1,900の客席をもつ大劇場となり、廻り舞台は大小4つの迫りが内部に設置されており、直径16.4m・高さ22mあって、地上1階から地下6階までを貫く構造となりました。
 開場記念公演の「風と共に去りぬ」は6ヶ月のロングランでヒットし、その後ミュージカルや大型娯楽劇を柱に東宝演劇の中心的劇場となります。1969年(昭和44)に「日本レコード大賞」の発表会会場として使用開始(~1984年)され、1989年(平成元)には、「レ・ミゼラブル」が初演され、以後の看板公演になりました。
 2022年(令和4)9月27日に、竣工から約56年を経過したことなどにより、一体的に建て替えることが発表され、2025年(令和7)には、建て替えのために、一時休館の予定(2030年度の開館見込)となっています。

〇帝国劇場関係略年表

・1906年(明治39) 劇場新設のための委員会(委員長は渋沢栄一)が発足する
・1907年(明治40)3月9日 帝国劇場株式会社が正式に成立する
・1911年(明治44) 2月10日に落成し、3月1日に開館する
・1912年(大正元) イタリア人のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを招いて歌劇・バレエを上演する
・1914年(大正3)3月26日 劇団芸術座が、トルストイの『復活』を初演する
・1915年(大正4) ローシー振付 「夢幻的バレエ」が上演される
・1916年(大正5) ロシアの舞踊が上演される
・1922年(大正11) パヴロワ婦人露国舞踊劇一座の上演が行われる
・1923年(大正12) 関東大震災では隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちる
・1924年(大正13) 横河民輔により改修されて再開する
・1929年(昭和4) スペイン舞踏家ラ・アルヘンティーナの来日公演が行われる
・1930年(昭和5) 松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転用、SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となる
・1938年(昭和13) 「江口・宮舞踊研究所」旗揚げ公演「麦と兵隊」が行われる
・1939年(昭和14) 運営会社を東宝が合併する
・1940年(昭和15) 松竹の賃借期限が切れると共に、東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻されたものの、内閣情報部が庁舎として利用することとなり、9月15日の新国劇の上演をもって休演となる
・1944年(昭和19) 地下食堂が一般人でも利用できる雑炊食堂として供される
・1945年(昭和20) 太平洋戦争敗戦後の初公演として、六世尾上菊五郎一座の「銀座復興」が行われる
・1946年(昭和21) 東京バレエ団の白鳥の湖(8月9日〜30日、日本初演)が行われる
・1947年(昭和21) 「江口・宮舞踊研究所」伊福部昭作曲「イゴザイダー」が上演される
・1948年(昭和21) 貝谷八百子振付「サロメ」伊福部昭作曲が上演される
・1948年(昭和21) 石井漠振付『さまよえる群像』 伊福部昭作曲が上演される
・1949年(昭和21) 貝谷八百子振付「パスカーナ(憑かれたる城)」伊福部昭作曲が上演される
・1950年(昭和21) 「江口・宮舞踊研究所」 伊福部昭作曲「プロメテの火」が上演される
・1955年(昭和30) 舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じる
・1964年(昭和39) 映画「アラビアのロレンス」が上映される
・1965年(昭和40) 都市高層化の波で建物が取り壊され、解体される
・1966年(昭和41) 敷地内(丸の内3丁目)に新築されたビルの中の1,900の客席をもつ大劇場となり、「風と共に去りぬ」が上演される
・1967年(昭和42) 「屋根の上のバイオリン弾き」が上演される
・1969年(昭和44) 「日本レコード大賞」の発表会会場として使用開始される(~1984年)
・1989年(平成元) 「レ・ミゼラブル」が初演され、以後帝劇の看板公演になる
・1992年(平成4) 「ミス・サイゴン」が上演される
・1999年(平成11) オリジナル・ミュージカル「ローマの休日」を上演する
・2022年(令和4)9月27日 竣工から約56年を経過したことなどにより、一体的に建て替えることが発表される
・2025年(令和7) 建て替えのために、一時休館の予定(2030年度の開館見込)となっている

☆島村抱月(しまむら ほうげつ)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人です。明治時代前期の1871年(明治4)1月10日に、島根県那賀郡小国村(現在の浜田市)で、佐々山一平の長男として生まれましたが、幼名は佐々山瀧太郎と言いました。
 小学校卒業後、苦学して浜田町裁判所書記となり、上京遊学後、1891年(明治24)に島村文耕の養子となります。東京専門学校(現在の早稲田大学)文学科へ入学し、在学中は坪内逍遙、大西祝の指導を受けました。
 1894年(明治27)に卒業後、卒業論文『審美的意識の性質を論ず』や『西鶴の理想』を『早稲田文学』(第1次)誌上に発表、同誌の記者ともなります。1898年(明治31)に読売新聞社会部主任となり、その後母校の文学部講師に迎えられました。
 1902年(明治35)から、早稲田の海外留学生として、イギリス、ドイツで学び、1905年(明治38)に帰国します。早稲田大学文学部教授となり、『早稲田文学』を復刊(第2次)して、同誌上に『囚はれたる文芸』(1906年)、『文芸上の自然主義』、『自然主義の価値』(共に1908年)を掲載して自然主義を論じました。
 一方で、坪内逍遙と文化革新運動をもくろんで、1906年(明治39)に文芸協会を設立し、本格的に新劇運動をはじめます。しかし、坪内逍遙との間で意見が対立、女優松井須磨子との恋愛問題も表面化し、協会幹事を辞任、1913年(大正2)には早稲田大学を去ることにもなりました。
 そして、松井須磨子と共に芸術座を旗揚げし、イプセン作『人形の家』、トルストイ作『復活』などを翻訳・脚色して上演し、評判となります。新劇の大衆化に貢献しましたが、1918年(大正7)11月5日、全世界で大流行していたスペイン風邪が原因で、東京において、48歳で亡くなりました。尚、須磨子もあとを追って、2ヶ月後に自殺しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1205年(元久2)『新古今和歌集』が一応成立し、竟宴が開かれる(新暦4月16日)詳細
1489年(長享3)室町幕府第9代将軍足利義尚の命日(新暦4月26日)詳細
1867年(慶応3)江戸幕府がオランダに発注していた蒸気軍艦「開陽」が横浜港に到着する(新暦4月30日)詳細
1925年(大正14)「衆議院議員選挙法」の全面改正(通称:普通選挙法)が貴族院を通過成立する詳細
1935年(昭和10)小説家与謝野寛(鉄幹)の命日詳細
1962年(昭和37)小説家・詩人室生犀星の命日詳細
1971年(昭和46)東京都南西部の多摩ニュータウンで第一次入居が開始される詳細
1975年(昭和50)「生物兵器禁止条約(BWC)」が発効する詳細
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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、上野公園(現在の上野恩賜公園)等で平和記念東京博覧会が開幕し、文化住宅の展示などが開始された日です。
 平和記念東京博覧会(へいわきねんとうきょうはくらんかい)は、大正時代の1922年(大正11年)3月10日~7月31日に、東京の上野公園等で行われた博覧会です。第一次世界大戦終結後の平和を記念し、日本産業の発展に資するため開催され、第1会場は上野公園(4万4925坪)、第2会場は不忍池畔(6万9650坪)とされました。
 5ヶ月弱の期間中に訪れた人は、約1,100万人(入場料1人60銭)で、英国皇太子も会場を訪れるなど、大反響を呼んでいます。展示された内容には、日本の最新の技術や文化が取り入れられ、機械館、航空館、林業館など、日本の産業の発達ぶりをアピールするパビリオンをはじめ、樺太館、満蒙館、台湾館など、大陸や南方への進出を積極的に推し進めていた当時の日本を物語る建物も多く、人々に感動を与えました。
 不忍池には水上飛行機までもが浮かび、池の両岸には「平和塔」と名づけられた塔(高さ42m余)が建てられています。「文化村」では、あめりか屋などによる中流階層向けの住宅14棟が展示され、ここから文化住宅という言葉が広まったとされてきました。
 尚、作家宮本百合子は、「博覧会見物の印象」という文章を書いています。

〇「博覧会見物の印象」宮本百合子著

 まだ第二会場を一遍通り抜けただけなのでよく分りません。建物から云っては、決して感じよい建築とは思えません。モダーンなのはよいが、もう少し、外国雑誌の写真の、皮相的模倣以外に出られなかったものでしょうか。一目見てごたごたし、雑駁な印象を強く与えられたから、しんから愛らしい心持で欲しいなと思うようなものは見つかりませんでした。

☆上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)とは?

 東京都台東区にある都立公園で、面積は53.2万㎡あり、通称は上野公園と言います。恩賜上野動物園、東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館、東京都美術館、東京文化会館、東京芸術大学など多くの文化施設があり、都内随一のサクラの名所としても知られてきました。
 江戸時代は寛永寺の境内でしたが、1868年(慶応4)の彰義隊の戦いで寛永寺の建物が焼失し、その跡地が1873年(明治6)1月15日の公園開設の「明治6年太政官布達第16号」により、同年3月25日には、芝、飛鳥山、深川、浅草と共に最初の5公園の一つとして正式指定されて東京府公園となります。1875年(明治8)に不忍池(しのばずのいけ)周辺も編入され、翌年1月には、東京府から内務省博物局に移管、博物館所属の公園地となりました。
 その後、造営が進められ完成に伴って、同年5月9日に明治天皇行幸で開園式が行われています。1877年(明治10)に第1回内国勧業博覧会がこの公園で開催され、以後第3回まで続きました。
 1882年(明治15)に上野動物園、寛永寺本堂跡に現在の東京国立博物館、1887年(明治20)に美術学校・音楽学校(現在の東京芸術大学)などが開設、移築されています。1924年(大正13)には、昭和天皇御成婚記念として不忍池とともに東京市に下賜され、一般に開放されて上野恩賜公園と命名されました。

☆上野公園関係略年表

・1868年(明治元)7月4日 上野戦争により寛永寺伽藍の大部分を焼失する
・1873年(明治6)3月 太政官布達第16号により東京府公園に指定される
・1875年(明治8) 上野山内に加え不忍池も公園地として併合され、府下一の公園となる
・1876年(明治9)1月 東京府から内務省博物局に移管され、上野公園は博物館所属の公園地となる
・1877年(明治10) 国立科学博物館の前身である教育博物館竣工(のちの東京芸大の地)、寛永寺本坊跡地にて第1回内国勧業博覧会を開催する
・1879年(明治12)8月 島津忠義公が、訪日中のグラント将軍と明治天皇のため、天覧犬追物を開催。タイサンボクとローソンヒノキが植樹される
・1881年(明治14) 第2回内国勧業博覧会を開催、閉会後に博物館が使用する前提で煉瓦造の建物を建設する
・1882年(明治15)3月20日 国立博物館および付属動物園(元寒松院跡の清水谷に)が開館する
・1887年(明治20)12月 図面取調掛は東京美術学校と改称し、現在の地に移転する
・1890年(明治23) 公園地は帝室御料地となり宮内省の管轄に置かれる
・1898年(明治31) 西郷隆盛像除幕式が行われる
・1902年(明治35)3月 帝室博物館開館式が行われる
・1909年(明治42)2月 東京帝室博物館表慶館が開館する
・1914年(大正3) 園内で東京大正博覧会が開催される(3月20日~7月31日)
・1922年(大正11) 園内で平和記念東京博覧会が開催され、文化住宅の展示などが行われる
・1924年(大正13) 宮内省から東京市に下賜され(払い下げられ)、この経緯から「上野恩賜公園」という名称となる
・1926年(大正15)5月 東京府美術館が開館する
・1928年(昭和3) 御大礼記念国産振興博覧会が開催される(3月24日~5月27日)
・1930年(昭和5)3月 上野図書館新館が落成する
・1931年(昭和6)11月 東京科学博物館が開館する
・1946年(昭和21) 戦災者救済会により不忍池(蓮池)の水を落として水田とし、上野田圃と呼ばれる
・1948年(昭和23)3月 上野鐘声会が花咲き匂う上野の山の復興を願って1250本のサクラを植樹する
・1952年(昭和27) 上野動物園拡張整備、東京科学博物館が廃止となり、国立科学博物館が設置される
・1953年(昭和28) 竹の台周辺整備開始され、水上音楽堂が竣工する
・1959年(昭和34)6月 国立西洋美術館が開館する
・1961年(昭和36)4月 東京文化会館が開館する
・1962年(昭和37)5月 竹の台噴水テラス沈床芝生が完成する
・1965年(昭和40) 東照宮が国の重要文化財に指定される
・1968年(昭和43)4月 明治100年記念サクラ植樹が行われる
・1972年(昭和47) 上野の森美術館が開館、上野動物園にジャイアントパンダが到着する
・1973年(昭和48) 公園指定100周年を記念して、アントニウス・ボードウィンの銅像を建立する
・1975年(昭和50)9月 東京都美術館新館が開館する
・1979年(昭和54)11月 国立西洋美術館新館が開館する
・1980年(昭和55)10月 下町風俗資料館が開館する
・1987年(昭和62)3月 東京芸術大学旧奏楽堂が移築復元される
・1988年(昭和63)6月 水上音楽堂改築が竣工する
・1997年(平成9)12月 国立西洋美術館企画展示館が竣工する
・1998年(平成10)3月 東京芸術大学奏楽堂が竣工する
・1999年(平成11) 東京芸術大学美術館、東京国立博物館平成館が開館する
・2000年(平成12)10月 「パンダ橋」が竣工する
・2008年(平成20)9月 水上音楽堂改築竣工、野外ステージに改名される
・2012年(平成24) 「上野恩賜公園再生整備事業」における「竹の台・文化施設エリア」の再整備工事(噴水・オープンカフェ・園路の再整備と樹木伐採)が完了する
・2020年(令和2)3月 JR上野駅公園口周辺の再整備により、公園敷地と公園口改札の歩行者空間が一体化される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1276年(建治2)鎌倉幕府が蒙古再来(再度の元寇)に備えて築前の海岸に元寇防塁を築くよう指示する(新暦3月26日)詳細
1742年(寛保2)医者・俳人井上士朗の誕生日(新暦4月14日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1923年(大正12)中国が「対華二十一箇条要求」の廃棄を日本に要求したものの、日本が拒絶する詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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