1874年(明治7)に毛馬内学校(現在の鹿角市十和田小学校)に助教員として採用され、1878年(明治11)には、鎌田倉吉氏長女カツと結婚しました。1881年(明治14)に、工務省小坂鉱山寮の吏員となり、十輪田鉱山の事務所に詰め鉱夫の監督を勤めたものの、1884年(明治17)には、小坂鉱山と共に、藤田組(現在の同和鉱業)に払い下げとなり、同時に貞行も藤田組の社員に身分が代わることになります。
その頃から、十和田湖養魚事業にも着手し、最初に鯉の稚魚600尾を放流、1890年(明治23)には、鈴木通貫、三浦泉八、飯岡政徳らとの連名で、「往古ヨリ一ノ魚類ナキ」十和田湖への養魚願を青森県知事に提出、翌年には、湖水使用の許可を受けました。鯉、鮒、岩魚などの放流を行い、試行錯誤を続けたものの、1897年(明治30)に小坂鉱山を退社、養魚に専念し鯉を小坂や毛馬内などの市場に出荷、銀山の湖畔に旅館「観湖楼」を建て、小学校を買い取って人工孵化場も作ります。
しかし、鱒の養殖にチャレンジしたものの、なかなかうまくいかず、1902年(明治35)に北海道支笏湖から、本州としては初めてヒメマスの卵3万粒を私費によって購入しました。翌年孵化した稚魚を放流、3年後の秋に成功裏に親魚が回帰したのを確認、「和井内鱒」と呼ばれるようになります。
1907年(明治40)に、これらの業績により緑綬褒章を受章、マスの養殖標本と養殖方法の解説を東京勧業博覧会に出品し、一等賞を受けました。その後、1920年(大正9)に、鹿角乗合自動車組合、十和田遊覧自動車組合を設立、翌年に十和田湖を国立公園として指定するよう、内務省に陳情を行なうなど、十和田の観光開発に尽力したものの、1922年(大正11)5月16日に、郷里の毛馬内柏崎の本邸で亡くなり、正七位に叙せられています。