ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 実業家

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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、水産増殖研究家・十和田湖開発の先駆者和井内貞行の生まれた日ですが、新暦では3月29日となります。
 和井内貞行(わいない さだゆき)は、陸奥国鹿角郡毛馬内村柏崎(現在の秋田県鹿角市)において、盛岡藩重臣で毛馬内柏崎新城の城代であった桜庭家の筆頭家老職を勤める家柄の父・和井内次郎右衛門と母・ヱツの長男として生まれましたが、幼名は吉弥と言いました。幼少時代をこの毛馬内で過ごし、1866年(慶応2)に南部藩の儒学者泉澤恭助の塾に入門します。
 1874年(明治7)に毛馬内学校(現在の鹿角市十和田小学校)に助教員として採用され、1878年(明治11)には、鎌田倉吉氏長女カツと結婚しました。1881年(明治14)に、工務省小坂鉱山寮の吏員となり、十輪田鉱山の事務所に詰め鉱夫の監督を勤めたものの、1884年(明治17)には、小坂鉱山と共に、藤田組(現在の同和鉱業)に払い下げとなり、同時に貞行も藤田組の社員に身分が代わることになります。
 その頃から、十和田湖養魚事業にも着手し、最初に鯉の稚魚600尾を放流、1890年(明治23)には、鈴木通貫、三浦泉八、飯岡政徳らとの連名で、「往古ヨリ一ノ魚類ナキ」十和田湖への養魚願を青森県知事に提出、翌年には、湖水使用の許可を受けました。鯉、鮒、岩魚などの放流を行い、試行錯誤を続けたものの、1897年(明治30)に小坂鉱山を退社、養魚に専念し鯉を小坂や毛馬内などの市場に出荷、銀山の湖畔に旅館「観湖楼」を建て、小学校を買い取って人工孵化場も作ります。
 しかし、鱒の養殖にチャレンジしたものの、なかなかうまくいかず、1902年(明治35)に北海道支笏湖から、本州としては初めてヒメマスの卵3万粒を私費によって購入しました。翌年孵化した稚魚を放流、3年後の秋に成功裏に親魚が回帰したのを確認、「和井内鱒」と呼ばれるようになります。
 1907年(明治40)に、これらの業績により緑綬褒章を受章、マスの養殖標本と養殖方法の解説を東京勧業博覧会に出品し、一等賞を受けました。その後、1920年(大正9)に、鹿角乗合自動車組合、十和田遊覧自動車組合を設立、翌年に十和田湖を国立公園として指定するよう、内務省に陳情を行なうなど、十和田の観光開発に尽力したものの、1922年(大正11)5月16日に、郷里の毛馬内柏崎の本邸で亡くなり、正七位に叙せられています。

〇和井内貞行関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1858年(安政5年2月15日) 陸奥国鹿角郡毛馬内村柏崎(現在の秋田県鹿角市)において、盛岡藩重臣で毛馬内柏崎新城の城代であった桜庭家の筆頭家老職を勤める家柄の父・和井内次郎右衛門と母・ヱツの長男として生まれ、幼名は吉弥といった
・1866年(慶応2年) 9歳の時、南部藩の儒学者泉澤恭助の塾に入門する
・1874年(明治7年) 17歳の時、毛馬内学校教員手伝いを命ぜられる
・1878年(明治11年) 21歳の時、鎌田倉吉氏長女カツ(17歳)と結婚する
・1881年(明治14年) 24歳の時、工務省小坂鉱山寮の吏員となり、十輪田鉱山の事務所に詰め鉱夫の監督を勤める
・1882年(明治15年) 25歳の時、長男貞時十和田湖畔で生まれる
・1884年(明治17年) 27歳の時、小坂鉱山が藤田組(現在の同和鉱業)に払い下げとなり、同時に貞行も藤田組の社員に身分が代わることになり、十和田湖に養魚を決心、はじめて鯉の稚魚600尾を放流する
・1885年(明治18年) 28歳の時、大川岱の十和田小学校開校記念日に、鹿角郡長小田島由義より鯉の稚魚1,400尾の寄贈を受け放流する
・1886年(明治19年) 29歳の時、はじめて岩魚と金魚を放流する。
・1890年(明治23年) 33歳の時、湖岸の各所に尺余りの鯉が見られる。湖水使用の願いを秋田・青森両県知事に出す。農商務省水産技師の松原新之助がはじめて来湖する。
・1891年(明治24年) 34歳の時、青森県知事から湖水使用の許可を受ける
・1892年(明治25年) 35歳の時、はじめて鮒1,000尾を放流する
・1893年(明治26年) 36歳の時、青森・秋田両県知事から連盟で湖水の使用を許される。
・1894年(明治27年) 37歳の時、十輪田鉱山の生産が減少し鉱脈が尽き休山となり、小坂鉱山勤務となる
・1895年(明治28年) 38歳の時、密漁者を取り締まるために湖畔に養魚取締の請願巡査を置く
・1896年(明治29年) 39歳の時、はじめて鯉を正式に捕獲する
・1897年(明治30年) 40歳の時、小坂鉱山退社、養魚に専念し鯉を小坂や毛馬内などの市場に出荷、神戸で開催の第2回水産博覧会に大鯉2尾出品、銀山の湖畔に旅館「観湖楼」を建てる、青森県・秋田県の新聞に十和田湖景勝の記事をのせ、観光宣伝に務める、魚の繁殖法と缶詰製造法を研究するために、東京・関西方面へ出張する、銀山の小学校を買い取り、人工孵化場を作る
・1898年(明治31年) 41歳の時、鱒の人工孵化法と養殖法研究のために、長男貞時を日光養魚場へ派遣、鯉漁次第に減少する。
・1899年(明治32年) 42歳の時、鯉漁減少し、漁獲量前年の三分の一となり計画が崩れる、貞時を農商務省水産講習所に聴講生として派遣する、鱒の養殖設備に着手する
・1900年(明治33年) 43歳の時、青森県水産試験場から買い入れた川鱒を、貞良親子は事業の浮沈をかけて孵化し、5,000尾を放流、日光養魚場から日光マスの卵を買い求め、それを孵化させる
・1901年(明治34年) 44歳の時、湖畔で孵化した日光マスの稚魚35,000尾を放流する、松原新之助氏三度目の来湖、その示唆で銚子大滝に魚道を作る、山本由方水産技師再度来湖、次男貞實を青森県立水産試験場に勉学させる。
・1902年(明治35年) 45歳の時、日光マス、魚道共に失敗する
・1903年(明治36年) 46歳の時、カバチェッポの稚魚約3万粒を放流、「和井内マス」と命名する
・1904年(明治37年) 47歳の時、農商務省より十和田湖の専用漁業権が、10年間許可される
・1905年(明治38年) 48歳の時、日露戦争の勝利を記念して新たに生出に孵化場の建築を始める
・1906年(明治39年) 49歳の時、各地の湖沼から和井内マスの卵の注文がくる、英文入りの十和田湖の宣伝ビラ1万枚を全国へ配付し、初めて十和田湖の絵葉書を発行する、湖畔で孵化したマスの稚魚120万尾を貞時の手で放流する。そのマスの標本(アルコール漬瓶詰17個)に説明をつけて、毛馬内小学校に寄贈する、新孵化場が落成する、父治郎右衛門貞明が亡くなる
・1907年(明治40年) 50歳の時、「緑綬褒章」を授けられる、妻カツが湖畔で病のため亡くなる(享年46歳)、マスの養殖標本と養殖方法の解説を東京勧業博覧会に出品し、一等賞を受ける
・1908年(明治41年) 51歳の時、東宮殿下(大正天皇)東北地方御巡啓の際、秋田市の旅館でお言葉を賜る、小坂鉄道が開通して遊覧客が増加、発荷に旅館を新築して、末弟治郎を置き「十湾閣」と命名、大町桂月はじめて来遊し、雑誌「太陽」に紀行文を掲載する
・1908年(明治41年) 51歳の時、第2回のカバチェッポ放流のため、弟の治郎を北海道に派遣し、15万粒の卵を買い入れる、十和田湖遊覧案内所及びマスの売りさばき取次所を小坂町に設ける、湖沼学の田中阿歌麿に湖の科学調査を依頼、東京の新聞・雑誌記者団を招き、十和田湖の景勝を紹介する
・1910年(明治43年) 53歳の時、後妻ソメを毛馬内浅沼家より迎える。
・1911年(明治44年) 54歳の時、生出孵化場隣に旅館の新築を始め、銀山から生出に住居を移す、三男貞三を秋田測候所に派遣勉学させ、「十和田湖気象観測所」を設置、電話が開通し、湖上には2艘の遊覧船が就航する
・1913年(大正2年) 56歳の時、母エツが湖畔で亡くなる、柳田国男調査に来湖する、什器製造を湖畔住民の副業にするため、日光から木地職人を招く
・1914年(大正3年) 57歳の時、大日本水産会から功績を表彰される、大湯街道ができ、発荷峠まで車が通るようになる、湖上に石油発動機船の「南祖丸」が初就航する
・1915年(大正4年) 58歳の時、実業之日本社の「日本新十勝景」に十和田湖が二位で当選する
・1916年(大正5年) 59歳の時、建築中の旅館が落成し、「和井内十和田ホテル」と命名、中央日本新聞社募集の避暑三景の第一位に十和田湖が当選し一躍有名になる
・1917年(大正6年) 60歳の時、孵化場を改築して東洋一となる
・1917年(大正6年)8月21日 発荷「十湾閣」を利用して、治郎「大湯郵便局十和田湖出張所」を開局する
・1919年(大正8年) 62歳の時、養魚事業を長男貞時にゆずり、毛馬内の本邸で起居、マスの燻製製造販売の東北水産会社を創設し、生出に工場を置く
・1920年(大正9年) 63歳の時、秋田鉄道が毛馬内駅(現十和田南駅)まで開通する、宮内省に石原次官を訪問し、十和田湖畔にご用邸設置を請願する、鹿角乗合自動車組合設立、毛馬内・発荷峠間運行する、十和田遊覧自動車組合設立、三本木より湖畔子の口まで運行する
・1921年(大正10年) 64歳の時、内務省に十和田湖の国立公園候補地編入を陳情する、修養団鹿角郡支部長に推され、夏期その中堅青年講習会場として孵化場を提供する、五戸鉄道及び来満鉄道の建設請願をし、帝国議会で採択される、和井内十和田ホテルに秩父宮・高松宮両殿下を迎える
・1922年(大正11年) 65歳の時、3月半ば北海道増毛方面まで至り、帰った後、4月初め感冒で床に就く
・1922年(大正11年)5月16日 毛馬内柏崎の本邸で亡くなり、正七位に叙せられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細
1877年(明治10)薩摩軍の一番隊が鹿児島を出発し、西南戦争(西南の役)が始まる詳細
1938年(昭和13)実業家で「電力王」とも呼ばれた福沢桃介の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、実業家で「電力王」とも呼ばれた福澤桃介の亡くなった日です。
 福澤桃介(ふくざわ ももすけ)は、1868年(慶應4年6月25日)に武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県比企郡吉見町荒子)の名主の末端の分家で、農業を営む父・岩崎紀一、母・サダの6人兄弟の次男として生まれました。幼い頃、一家で川越町(現在の埼玉県川越市)に移り住み、ここで提灯屋を開業、1878年(明治11)に第八十五国立銀行が設立されると、父は提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになります。川越中学校を卒業後上京して、1883年(明治16年)に福澤諭吉が開いている「慶應義塾」へと入学、1886年(明治19年)には諭吉の次女房との結婚を前提に福澤家へ養子入りして福澤姓となりました。1887年(明治20)に横浜港よりアメリカ合衆国へと向い、語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通い、さらにフィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとなります。1889年(明治22)に帰国し、房と結婚後、北海道炭礦鉄道にに入社して、北海道へ赴きました。1894年(明治27)夏に喀血して結核と診断され、北里柴三郎の病院「養生園」に入院、この頃から株式投資を始めましたが、日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期となります。1898年(明治31)に王子製紙の取締役、翌年に貿易商「丸三商会」の旗揚げなどに関わりましたが、うまくいきませんでした。1901年(明治34)に北海道炭礦鉄道に復帰し、元の重役付として勤め始め、1906年(明治39)の日露戦争後の株式投機で利益を挙げて財を成し、「成金」の一人に数えられるようになります。資金を使って、1907年に日清紡績(株)を発足させて初代専務取締役に就任、1909年(明治42)に福博電気軌道(株)を設立して社長に就任、また中部地方の名古屋電灯(株)を買収するなどいろいろな事業に関わります。翌年に名古屋電燈の常務取締役となり、木曽川水力の開発調査に着手、1912年(明治45)には千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補して当選、一期務めました。1914年(大正3)に名古屋電燈社長に就任、1918年(大正7)に木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立、翌年賤母発電所を建設しました。1919年(大正8)に名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、東海道電気鉄道を設立して社長に就任、1921年(大正10)には木曽電気興業と日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力の前身)、社長に就任しました。木曽川の電力開発を推進し、1922年(大正11)に資材運搬用として桃介橋を完成、翌年に読書第1発電所を竣工、アメリカからの資金調達を得て、1924年(大正13)に大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所を竣工させます。その他、設立や経営に関係した会社は100社に及び、女優川上貞奴との仲も知られましたが、体調を崩し、1928年(昭和3)に実業界を引退しました。1932年(昭和7)に家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居、1937年(昭和12)2月15日に東京の渋谷本邸で、数え年70歳で亡くなっています。

福澤桃介関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1868年(慶應4年6月25日) 名主の末端の分家で、農業を営む父・岩崎紀一、母・サダの6人兄弟の次男として生まれる
・1883年(明治16年) 慶應義塾に入学する
・1886年(明治19年)12月17日 福澤諭吉の次女「房」との結婚を前提に桃介は福澤家へ養子入りして福澤桃介となる
・1887年(明治20年) 慶應義塾を卒業する
・1887年(明治20年)2月2月 横浜港よりアメリカ合衆国へと出発する
・1887年(明治20年)3月 アメリカへ到着し、語学勉強の傍ら実業学校に通い、次いでボストン近郊の語学学校へ通う、
・1888年(明治21年)1月 フィラデルフィアに移り、当時アメリカ最大の鉄道会社であったペンシルバニア鉄道に事務見習いとなる
・1889年(明治22年)11月15日 アメリカから横浜港に帰着する
・1889年(明治22年)12月 福澤房と結婚する
・1889年(明治22年)12月31日 北海道炭礦鉄道にに入社する
・1894年(明治27年)夏 喀血して結核と診察され、北里柴三郎の病院「養生園」に入院する
・1894年(明治27年) この頃株式投資を始めた。日清戦争が終わることで、買えば必ず利益が上がる時期だった
・1898年(明治31年)9月 親戚の中上川彦次郎の紹介で、王子製紙の取締役として入社する
・1899年(明治32年) 健康回復しを機に、貿易商「丸三商会」を旗揚げする
・1901年(明治34年)2月3日 義父の福澤諭吉が死去する
・1901年(明治34年)7月 北海道炭礦鉄道の常務・井上角五郎に誘われて同社に復帰し、元の重役付として勤め始める
・1906年(明治39年) 日露戦争後の株式投機で利益を挙げた桃介は「成金」の一人に数えられるようになる
・1907年(明治40年)1月 資本金1000万円で日清紡績株式会社が発足すると、初代専務取締役に就任する
・1909年(明治42年)8月 大株主となって福博電気軌道株式会社を設立して自ら社長に就任する
・1909年(明治42年) 中部地方の名古屋電灯を買収する
・1910年(明治43年) 日清紡績常務取締役を辞任して撤退、
・1910年(明治43年)5月 名古屋電燈(株)の常務取締役となり、木曽川水力の開発調査に着手する
・1912年(明治45年) 千葉県から第11回衆議院議員選挙に立憲政友会から立候補し当選する
・1913年(大正2年) 名古屋電燈常務に復帰する
・1914年(大正3年) 名古屋電燈社長に就任する
・1918年(大正7年)9月 木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立する
・1918年(大正7年) 電源開発用のセメント製造を目的に名古屋セメントを設立して社長となる 
・1918年(大正7年) 「川上絹布株式会社」が設立され、貞奴は名古屋に居を構え、旧知の仲である福沢桃介の事業パートナーとして共に生活をする
・1919年(大正8年) 賤母発電所を築く
・1919年(大正8年)9月 名古屋から豊橋へと至る電気鉄道の敷設計画に参加し、資本金1000万円の東海道電気鉄道を設立、社長に就任する 
・1920年(大正9年) 名古屋市東二葉町に貞奴邸が新築され、川上貞奴と同居する
・1921年(大正10年)2月 日本水力、大阪送電を合併して、大同電力株式会社を設立(現在の関西電力の前身)、社長に就任する
・1922年(大正11年) 大同電力、読書第1発電所の資材運搬用として、木曽川に橋長248.8mの吊橋・桃介橋を完成する
・1923年(大正12年) 読書第1発電所が竣工する
・1924年(大正13年)5月13日 資金調達のため、横浜港を出向してアメリカへ向かう
・1924年(大正13年)8月23日 アメリカから帰国する
・1924年(大正13年)12月 大正期最大の高さ53mの大井ダムと大井発電所が竣工する
・1926年(大正15年)4月 大倉喜八郎の退任に伴い帝国劇場株式会社の会長に就任する
・1926年(大正15年) 大同電力、木曽川水系7カ所に水力発電所16.78万kWを開発する
・1928年(昭和3年)3月、帝国劇場会長を辞任
・1928年(昭和3年)6月6日 実業界引退を宣言する
・1932年(昭和7年) 家督を長男駒吉に譲り、妻の房とともに隠居する
・1937年(昭和12年)2月15日 東京の渋谷本邸で、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

708年(和銅元)元明天皇が平城京造営の詔を布告する(新暦3月11日)詳細
1239年(延応元)僧侶・時宗の開祖一遍の誕生日(新暦3月21日)詳細


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 今日は、江戸時代中期の1699年(元禄12)に、商人・海運と治水の功労者河村瑞賢の亡くなった日ですが、新暦では7月12日となります。
 河村瑞賢(かわむら ずいけん)は、江戸時代前期の1618年(元和4年2月15日)に、伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農の家に生まれましたが、名は七兵衛(のち十右衛門)と言いました。赤貧のうちに幼少期を過ごし、13歳のとき江戸に出て車力等を業とし、元服して十右衛門と称するようになります。
 機略に富んでいて、品川沿岸に漂流する盂蘭盆の瓜や茄子を拾って漬け物にし、それを売り歩いて資金を得たとされ、1657年(明暦3)の明暦の大火に際しては、木曾の材木を買い占めて巨富を築きました。
 さらに、土建業を営み、両国橋の建設、浅草寺修築、千川上水工事に参画するなど、幕府や諸大名の工事を請け負います。海運、水利にも着目し、1670年(寛文10)に江戸幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するよう命ぜられ、翌年東回り航路 (奥州荒浜-江戸) を開発しました。
 同年に土木家として幕府に召し出され御家人となり、1672年(寛文12)には、西回り航路 (出羽最上-下関-大坂) も開きます。さらに、1684年(貞享元)から淀川下流に安治川を開削するなど、近畿地方の治水工事を担当しました。
 他にも、全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施、それらの功により、1698年(元禄11)に旗本に列せられ、150俵を与えられます。しかし、翌年6月16日に江戸において、82歳で亡くなり、鎌倉の建長寺に葬られました。

〇河村瑞賢関係略年表(日付は旧暦です)

・1618年(元和4年2月15日) 伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の貧農の家に生まれる
・1630年(寛永7)頃 13歳で江戸に出て車力等を業とする
・1657年(明暦3年) 江戸の明暦の大火に際し、木曾の材木を買い占めて巨富を得る
・1670年(寛文10年) 江戸幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するよう命ぜられる
・1671年(寛文11年) 東回り航路 (奥州荒浜-江戸) を開発する
・1671年(寛文11年) 土木家として幕府に召し出され御家人となる
・1672年(寛文12年) 西回り航路 (出羽最上-下関-大坂) も開発する
・1683年(天和3年) 幕命により稲葉正休らに伴われて大和川関係河川を視察する
・1684年(貞享元年) 淀川下流に安治川の開削に着手する
・1685年(貞享2年) 大和川修築工事にあたる
・1698年(元禄11年) 旗本に列せられ、150俵を与えられる
・1698年(元禄11年) 江戸幕府の命で、新地の開発を目的に、大坂三郷地続きの長堀川、道頓堀にはさまれた地を開発する
・1699年(元禄12年6月16日) 江戸において、82歳で亡くなり、鎌倉の建長寺に葬られる
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 今日は、江戸時代後期の1835年(天保6)に、官僚・実業家・男爵前島密の生まれた日ですが、新暦では2月4日となります。
 前島密は、近代郵便制度の創設者の一人で、1円切手の図案にもなっていました。
 1835年(天保6年1月7日)に、越後国頸城郡下池部村(現在の新潟県上越市)の豪農上野家の父助右衛門、母ていの次男として生まれ、幼名は房五郎と言います。
 1845年(弘化2)に11歳で高田藩の儒学者倉石典太の門に入り、1847年(弘化4)、13歳で江戸に出て苦学の末に医学、蘭学を学びました。
 その後、箱館で武田斐三郎の門下生となって、航海術、測量法を修得し、1865年(慶応元)薩摩藩の開成学校に英学教師として招かれます。翌年、江戸に帰って、幕臣前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗ることになりました。
 1869年(明治2)には、明治政府に出仕し、翌年に租税権正と駅逓権正を兼任し、郵便創業の建議を行います。そして、郵便制度調査のためイギリスに出張、1871年(明治4)帰国後、駅逓頭に就任して、東京~京都~大阪間に官営の郵便事業を開始しました。
 そして、郵便、切手、葉書の名称を定めるなど、近代的郵便制度の確立に尽力し、“郵便制度の父”と呼ばれるようになります。
 しかし、1881年(明治14)の政変で大隈重信らとともに政府を去り、立憲改進党の結成に参加しました。その後、1886年(明治19)には、東京専門学校(現在の早稲田大学)校長に就任し、晩年は実業界でも活動したのです。
 1902年(明治35)男爵に、1904年(明治37)年には、貴族院議員にもなりましたが、1919年(大正8)4月27日に、84歳で亡くなりました。
 尚、新潟県上越市の生家跡には、1931年(昭和6年)11月7日に「前島記念館」が建てられていて、前島密の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙や前島密の遺品、遺墨(絵や絵画)などが展示されています。
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