ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 教育者

takigawayukitoki01

 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰が亡くなった日です。
 瀧川幸辰(たきがわ ゆきとき)は、1891年(明治24)2月24日に、岡山県岡山市で生まれました。神戸第一中学校、北野中学校を経て、1909年(明治42)に旧制第三高等学校に入学します。
 卒業後、1912年(大正元)21歳の時に、京都帝国大学法科大学独法科に入学し、ドイツ刑法を学び、1915年(大正4)に司法官試補に任官して修習を積んで、京都帝国大学を卒業しました。母校の助手となりましたが、1917年(大正6)に判事に任官し、京都地方裁判所・同区裁判所に勤務します。
 翌年、母校の助教授に就任し、刑法総論・各論などを担当しました。1922年(大正11)海外留学し、主としてドイツに滞在して学び、1924年(大正13)に帰国後、母校の教授に就任します。
 1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する「滝川事件」が起きました。法学部教授会がこれに反対、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。
 退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍しました。太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となります。
 1951年(昭和26)に法学博士となり、1953年(昭和28)には京都大学総長に就任し、1957年(昭和32)まで勤めて退官しました。刑法に関する著書を刊行し、多くの随筆集も出しましたが、1962年(昭和37)11月16日に、京都において、71歳で亡くなっています。

〇瀧川幸辰の主要な著作

・『刑法読本』(1932年)
・『犯罪論序説』(1938年)
・『刑法講義』(弘文堂書房)
・『刑法講義 改訂版』(弘文堂書房)
・『刑法における構成要件の機能』(刑法雑誌1巻2号、1950年)
・『犯罪論序説 改訂版』(有斐閣)
・『刑法講話』(日本評論社)
・『刑法各論 増補』(世界思想社)
・『瀧川幸辰刑法著作集・全5巻』(世界思想社)
・『激流』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1


 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 貝原 益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代前期の1630年(寛永7年11月14日)に、越前国福岡城内(現在の福岡県福岡市)において、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれましたが、名は篤信(あつのぶ)、字は子誠(しせい)と言いました。幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活し、1648年(慶安元)、18歳で福岡藩に仕えます。
 しかし、1650年(慶安3)に第2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなり、医者として身を立てようとして医学修業に励みました。1656年(明暦2)、27歳のときに第3代藩主・黒田光之に許され、藩医として帰藩、翌年から京都へ藩費遊学します。
 松永尺五、木下順庵、中村斎、向井元升、黒川道祐、松下見林らと交わり、本草学や朱子学等を学び、1664年(寛文4)35歳の時に福岡へ戻りました。150石の知行を得て、藩内での朱子学の講義や朝鮮通信使への対応に当たります。
 君命で『黒田家譜』や『筑前国続風土記』(1703年成立)を編纂したのをはじめ、晩年に至るまで、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育など幅広い分野で、98部247巻の著述をしました。博物学的実証主義に立って窮理の道を重視、民生日用の学を重んじて、庶民を啓蒙し、本草学史上で開拓的な意味をもつ『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)や医書『養生訓』(1713年)、子女の教育を説いた『和俗童子訓』(1710年)などで有名です。
 晩年には朱子学への疑問をまとめた『大疑録』も著しましたが、1714年(正徳4年8月27日)に、数え年85歳で亡くなりました。

〇貝原益軒の主要な著作

・『近思録備考』(1668年)
・『和漢名数』(正1678年、続1695年)
・本草書『花譜』(1694年)
・『黒田家譜』
・語源辞書『日本釈名』(1700年)
・『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)
・本草書『菜譜(さいふ)』(1704年)
・本草書『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)
・教育書『和俗童子訓』(1710年)
・思想書『自娯集』(1712年)
・医書『養生訓』(1713年)
・教育書『大和俗訓』
・思想書『慎思録(しんしろく)』
・思想書『大疑録(たいぎろく)』
・『君子訓』
・紀行文『和州巡覧記』
・教育書『五常訓』
・教育書『家道訓』
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代後期の1860年(万延元)に、教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の生まれた日ですが、新暦では12月10日となります。
 嘉納治五郎(かのう じごろう)は、摂津国菟原郡御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区御影町)で、廻船問屋を営む父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれましたが、幼名は伸之助と言いました。
 1870年(明治3)に、明治新政府に招聘された父の下へと上京し、箕作秋坪塾などで書道・英語等を学んだ後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学します。1877年(明治10)に東京大学に入学し、在学中から自身の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目するようになり、福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学びました。
 大学卒業後、柔術の抜本的な合理化と体系化に取り組むため、1882年(明治15)に、東京下谷永昌寺内に私塾講道館を開き門弟に柔術を指導するようになります。やがて門下に西郷四郎、横山作次郎らの俊秀が集まり、1884年(明治17)の警視庁主催の武道大会で好成績を収め、世間に知られることになりました。1888年(明治21)には、古来の柔術を改良した“柔道”の成立を宣言し、以来講道館柔道を完成させていきます。
 一方で、1883年(明治16)に学習院の講師となり英語と理財学を教え、院長谷干城の信任を得、4年後には教授兼教頭を命ぜられました。1892年(明治25)には文部省参事官に転じ、第五高等中学校校長等を経て、1894年(明治27)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長となり、以来24年にわたって(二度の中断あり)勤めます。
 1909年(明治42)に日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、日本のオリンピック参加に尽力し、1911年(明治44)には、大日本体育協会(のちの日本体育協会)を創立して、初代会長に就任、翌年、日本のオリンピック初参加となった第5回ストックホルム大会には選手2人を率いて行きました。
 1938年(昭和13)に、カイロでのIOC総会で第12回東京オリンピック大会招致に成功(のち戦争のため中止)しましたが、帰路の氷川丸船上において、同年5月4日に77歳で病死します。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、思想家・美術指導者岡倉天心(おかくら てんしん)の亡くなった日です。
 岡倉天心は、1863年2月14日(文久2年12月26日)に、横浜の本町5丁目(現在の神奈川県横浜市)で、福井藩士だった父・岡倉覚右衛門と母・このの次男として生まれましたが、幼名は角蔵(のち覚三)といいました。
 ジェームズ・バラの塾で英語を学んでいましたが、1870年(明治3)に母このが急逝し、翌年父が再婚すると長延寺に預けられ、漢籍を学びます。1873年(明治6)に一家で上京し、東京開成学校に入学、1877年(明治10)には、新設の東京大学に進みました。
 政治学、理財学を専攻し、アメリカ人教師フェノロサについて哲学も学び、1880年(明治13)に卒業します。同年文部省に入り、フェノロサの日本美術研究の通訳や助手を務め始めます。
 美術教育制度の確立や古美術保護に努め、1884年(明治17)には、河瀬秀治やフェノロサらと鑑画会をおこし、絵画界の刷新を目ざしました。
 同年、文部省図画調査会委員に任命されたフェノロサと共に、近畿地方の古社寺宝物調査を行ない、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したことで知られます。
 1886年(明治19)に文部省の美術取調委員としてフェノロサとアメリカ経由でヨーロッパを巡り、翌年帰国しました。1890年(明治23)には、東京美術学校長に就任、帝国博物館理事等を兼任、美術専門誌『国華』を創刊して、多くの論評を発表し、美術界をリードします。
 しかし、1898年(明治31)に校長排斥運動がおこって辞職し、博物館等の公職も退き、下野しました。その後、橋本雅邦・横山大観・菱田春草らと日本美術院を結成し、伝統に基づく新美術の開発に尽します。
 1904年(明治37)大観、春草を伴い渡米し、ボストン美術館の仕事にあたり、翌年に同館の東洋部長となり、東洋・日本美術を海外に紹介しました。1907年(明治40)に文部省美術審査委員会委員となり、翌年国画玉成会を結成、1910年(明治43)には東京帝国大学で講義も担当します。
 翌年欧米旅行、続いて1912年(明治45)インド、ヨーロッパを経て渡米するなど精力的に活動しましたが、病気に罹って帰国、療養中の新潟県赤倉山荘において、1913年(大正2)9月2日に、50歳で亡くなりました。

〇岡倉天心の主要な著作

・英文『東洋の理想』(1903年)
・英文『日本の覚醒(かくせい)』(1904年)
・英文『茶の本』(1906年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代後期の1862年(文久2)に、教育者・思想家・農政学者新渡戸 稲造の生まれた日ですが、新暦では9月1日となります。
 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、陸奥国岩手郡盛岡(現在の岩手県盛岡市)で、南部藩士の父・新渡戸十次郎、母・せきの3男として生まれましたが、幼名は稲之助といいました。
 その後、名を稲造と改めて上京し、数え年13歳頃から東京英語学校で学びます。農学を志すようになり、札幌農学校の二期生として入学、在学中に内村鑑三らとともに受洗し、キリスト者となりました。
 1881年(明治14)札幌農学校を卒業し、1883年(明治16)には東京大学に入学しますが満足できず、翌年退学し、アメリカに留学します。
 ジョンズ・ホプキンス大学在学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、ドイツに移り、ボン、ベルリン、ハレ各大学で農政学を研究、1891年(明治24)に帰国し、札幌農学校教授となりました。しかし、病を得て、1898年(明治31)から3年間、療養を兼ねて欧米を漫遊します。
 1901年(明治34)には、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画、糖業により統治の経済的基礎を確立しました。
 1903年(明治36)に京都帝国大学教授に就任、1906年(明治39)には、第一高等学校校長となり、7年間在職します。また、1909年(明治42)より東京帝国大学教授として植民政策講座を担当しました。
 1918年(大正7)に東京女子大学初代学長、1928年(昭和3)に東京女子経済専門学校の初代校長に就任、女子教育に尽力します。
 その一方で、国際連盟事務次長(1920~26年)や太平洋問題調査会理事長(1929~33年)を務めて、「太平洋の橋」になることを願い、国際理解と世界平和のために活躍しました。
 その中で、帝国学士院会員、貴族院議員ともなって活躍しましたが、1933年(昭和8)に太平洋会議(カナダ開催)出席後、病を得て、同年10月16日にカナダのビクトリアで、71歳で亡くなります。
 尚、1984年(昭和59)発行の5,000円札の肖像に選ばれたことでも知られました。

〇新渡戸稲造の主要な著作

・『農業本論』(1898年)
・『武士道』(1899年)
・『修養』(1911年)
・『新渡戸稲造全集』23巻別巻1(1987年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ