
孝徳天皇(こうとくてんのう)は、飛鳥時代の596年(推古天皇4年)に、父・茅渟王(舒明天皇の弟)、母(欽明天皇の孫)の長男として生まれましたが、名は軽(かる)と言いました。645年(大化元年)に、中大兄皇子(後の天智天皇)らにより蘇我蝦夷・入鹿父子が打倒される(乙巳の変)と、同年6月14日に、皇極天皇の譲位を受け、第36代とされる天皇として即位し、中大兄皇子を皇太子とします。
元号を大化と定め、都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移しました。翌年1月1日に、四ヵ条の改新の詔(班田収授、租・庸・調の制など)を発し、国家体制の整備に着手(大化の改新)します。
在位中には、高句麗、百済、新羅からしばしば使者が訪れ、北の蝦夷に対して、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えました。しかし、653年(白雉4)に至り、中大兄皇子との対立が深まり、天皇が同意しなかったにもかかわらず、皇極上皇、間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻ってしまいます。
一人難波に残される中で、654年(白雉5年10月10日)に、摂津の難波長柄豊碕宮において、病気により、58歳で亡くなり、河内の大坂磯長陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に葬られました。
元号を大化と定め、都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移しました。翌年1月1日に、四ヵ条の改新の詔(班田収授、租・庸・調の制など)を発し、国家体制の整備に着手(大化の改新)します。
在位中には、高句麗、百済、新羅からしばしば使者が訪れ、北の蝦夷に対して、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えました。しかし、653年(白雉4)に至り、中大兄皇子との対立が深まり、天皇が同意しなかったにもかかわらず、皇極上皇、間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻ってしまいます。
一人難波に残される中で、654年(白雉5年10月10日)に、摂津の難波長柄豊碕宮において、病気により、58歳で亡くなり、河内の大坂磯長陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に葬られました。
〇孝徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・596年(推古天皇4年) 父・茅渟王、母・欽明天皇の孫の長男として生まれる
・645年(大化元年6月14日) 皇極天皇の譲位を受け、第36代とされる天皇として即位し、中大兄皇子を皇太子とする
・646年(大化元年12月9日) 都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移す
・646年(大化2年1月1日) 四ヵ条の改新の詔(班田収授、租・庸・調の制など)を発し、国家体制の整備に着手する(大化の改新)
・647年(大化3年1月26日) 高句麗と新羅の使が調賦を貢ぐ
・648年(大化4年2月1日) 三韓に学問僧を遣わす
・649年(大化5年2月) 冠十九階を制定する
・650年(白雉元年2月15日) 白雉を観る儀式を行い、大赦し、年始に遡って白雉(はくち、びゃくち)と改元する
・651年(白雉2年6月) 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じる
・652年(白雉3年4月15日) 僧恵隠を内裏に呼び、『無量寿経』を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にする
・653年(白雉4年5月12日) 遣唐使を送り、一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒、別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂とする
・654年(白雉5年10月10日) 摂津の難波長柄豊碕宮において、病気により、58歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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