ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 天皇

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 今日は、飛鳥時代の654年(白雉5)に、第36代の天皇とされる孝德天皇が亡くなった日ですが、新暦では11月24日となります。
 孝徳天皇(こうとくてんのう)は、飛鳥時代の596年(推古天皇4年)に、父・茅渟王(舒明天皇の弟)、母(欽明天皇の孫)の長男として生まれましたが、名は軽(かる)と言いました。645年(大化元年)に、中大兄皇子(後の天智天皇)らにより蘇我蝦夷・入鹿父子が打倒される(乙巳の変)と、同年6月14日に、皇極天皇の譲位を受け、第36代とされる天皇として即位し、中大兄皇子を皇太子とします。
 元号を大化と定め、都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移しました。翌年1月1日に、四ヵ条の改新の詔(班田収授、租・庸・調の制など)を発し、国家体制の整備に着手(大化の改新)します。
 在位中には、高句麗、百済、新羅からしばしば使者が訪れ、北の蝦夷に対して、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えました。しかし、653年(白雉4)に至り、中大兄皇子との対立が深まり、天皇が同意しなかったにもかかわらず、皇極上皇、間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻ってしまいます。
 一人難波に残される中で、654年(白雉5年10月10日)に、摂津の難波長柄豊碕宮において、病気により、58歳で亡くなり、河内の大坂磯長陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に葬られました。

〇孝徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・596年(推古天皇4年) 父・茅渟王、母・欽明天皇の孫の長男として生まれる
・645年(大化元年6月14日) 皇極天皇の譲位を受け、第36代とされる天皇として即位し、中大兄皇子を皇太子とする
・646年(大化元年12月9日) 都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移す
・646年(大化2年1月1日) 四ヵ条の改新の詔(班田収授、租・庸・調の制など)を発し、国家体制の整備に着手する(大化の改新)
・647年(大化3年1月26日) 高句麗と新羅の使が調賦を貢ぐ
・648年(大化4年2月1日) 三韓に学問僧を遣わす
・649年(大化5年2月) 冠十九階を制定する
・650年(白雉元年2月15日) 白雉を観る儀式を行い、大赦し、年始に遡って白雉(はくち、びゃくち)と改元する
・651年(白雉2年6月) 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じる
・652年(白雉3年4月15日) 僧恵隠を内裏に呼び、『無量寿経』を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にする 
・653年(白雉4年5月12日) 遣唐使を送り、一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒、別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂とする
・654年(白雉5年10月10日) 摂津の難波長柄豊碕宮において、病気により、58歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1505年(永正2) 室町幕府より「撰銭令」が出される(新暦11月5日) 詳細
1877年(明治10) 北海道石狩町で開拓使石狩缶詰所が創業、本格的な缶詰生産が始まる(缶詰の日) 詳細
1934年(昭和9) 彫刻家高村光雲の命日 詳細
1945年(昭和20) 日本政府が日本共産党を合法化、徳田球一ら政治犯439人を釈放、自由戦士出獄歓迎人民大会が開催される 詳細
東京都の学童疎開(集団疎開)引揚げ第一陣が東京へ着く 詳細
1963年(昭和38) 「部分的核実験禁止条約(PTBT)」が発効する 詳細
1964年(昭和39) 第18回オリンピック・東京大会が開幕する 詳細
1997年(平成9) オペラ、舞踊(バレエ、現代舞踊)、演劇等の現代舞台芸術を上演する、新国立劇場が開場する 詳細

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 今日は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15)に、日本最初の女帝で、第33代の天皇とされる推古天皇が生まれた日ですが、新暦では5月21日となります。
 推古天皇(すいこてんのう)は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15年4月9日)に、欽明天皇の第三皇女(母は蘇我堅塩媛の娘)として生まれましたが、幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といいました。571年(欽明天皇32年)に、皇太子(後の敏達天皇)妃となり、576年(敏達天皇5年)には、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられます。
 585年(敏達天皇14年8月15日)に敏達天皇が亡くなり、587年(用明天皇2年)には、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立しました。592年(崇峻天皇5年11月15日)に蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺されると、593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)に豊浦宮で、第33代とされる天皇(日本最初の女帝)に即位し、同年4月10日には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、馬子と共に天皇の補佐の体制が確立します。
 その中で、小墾田宮に都を移し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15年)に、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り(第2回遣隋使)、607年(推古天皇15年)には、法隆寺を創建するなどしました。また、620年(推古天皇28年)には、厩戸皇子や馬子に、『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂させています。
 しかし、622年(推古天皇30年)に厩戸皇子が亡くなり、626年(推古天皇34年)に蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる中で、628年(推古天皇36年3月7日)に、皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなりました。その後、竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたものの、後に河内国の磯長山田(しながのやまだ)陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に移されています。

〇推古天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・554年(欽明天皇15年4月9日) 欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれる
・571年(欽明天皇32年) 皇太子(敏達天皇)妃となる
・576年(敏達天皇5年) 前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられる
・585年(敏達天皇14年8月15日) 敏達天皇が亡くなる
・587年(用明天皇2年) 大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立する
・592年(崇峻天皇5年11月15日) 蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺される
・593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日) 第33代とされる天皇となる
・593年(推古天皇元年4月10日) 甥の厩戸皇子が摂政となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る(第2回遣隋使)
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する(第3回遣隋使)
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 厩戸皇子が『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子が馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、厩戸皇子が数え年49歳で亡くなる
・626年(推古天皇34年) 蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる
・628年(推古天皇36年3月7日) 皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

752年(天平勝宝4)奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われる(新暦5月26日)詳細
1584年(天正12)小牧・長久手の戦いの中の長久手の戦いが行われる(新暦5月18日)詳細
1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1911年(明治44)東京の吉原大火で、死者8名、負傷者100名以上、全焼6,189戸、半焼69戸の被害を出す詳細
1921年(大正10)「職業紹介法」(大正10年法律第55号)が公布(同年7月1日施行)される詳細
1922年(大正11)日本最初の農民組合の統一組織である日本農民組合が創立される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1308年(徳治3)に、第94代の天皇とされる後二條天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月10日となります。
 後二条天皇(ごにじょうてんのう)は、鎌倉時代の1285年(弘安8年2月2日)に、京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇(大覚寺統)の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれました。1286年(弘安9年10月)に親王宣下され、1298年(永仁6年)には、冷泉万里小路殿で元服、両統(持明院統・大覚寺統)迭立により、後伏見天皇の皇太子に立てられます。
 1300年(正安2年)に徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれました。1301年(正安3年)に鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位しましたが、父・後宇多院が院政を敷きます。
 1302年(正安4年)に五辻宗子を母として第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催しました。1303年(嘉元元年)に徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召します。
 1305年(嘉元3年)に自撰の御集『後二条院御集』を撰集しましたが、1308年(徳治3年8月25日)に、京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で急死し、墓所は北白河陵(現在の京都市左京区)とされました。尚、歌を能くし、宮中で歌合を何度か催し、新後撰集初出で、勅撰入集は、計百首に及んでいます。

<代表的な和歌>

・「人としていかでか世にもありふべき五(いつつ)の常のみちはなれては」(後二条院御百首)
・「ながき日をふりくらしたる春雨はさびしきことのかぎりなりけり」(後二条院御百首)
・「志賀の山風をさまれる春にあひて君が御幸を花も待ちけり」(新拾遺和歌集)
・「うづら鳴く野原の浅茅うちなびき夕露もろく秋風ぞふく」(新後撰和歌集)
・「白露のをかべの薄はつ尾花ほのかになびく時は来にけり」(続後拾遺和歌集)
・「もみぢ葉の深山にふかく散りしくは秋のかへりし道にやあるらん」(風雅和歌集)
・「恋しさの寝てや忘るると思へどもまた名残そふ夢の面影」(玉葉和歌集)

〇後二条天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1285年(弘安8年2月2日) 京都において、第91代の天皇とされる後宇多天皇の第一皇子(母は堀河具守女基子)として生まれる
・1286年(弘安9年10月) 親王宣下される
・1298年(永仁6年) 冷泉万里小路殿で元服、両統迭立により後伏見天皇の皇太子に立てられる
・1300年(正安2年) 徳大寺忻子が女御として入内、五辻宗子を母として邦良親王(後に第一皇子)が生まれる
・1301年(正安3年) 鎌倉幕府の介入により、後伏見天皇の譲位を受けて践祚、第94代とされる天皇として即位するが、父・後宇多院が院政を敷く
・1302年(正安4年) 第二皇子の花町宮邦省親王が生まれ、二条為藤らを召して当座歌合を催す
・1303年(嘉元元年) 徳大寺忻子が中宮に冊立され、後二条院歌合を催し、内裏百首を召す
・1305年(嘉元3年) 自撰の御集『後二条院御集』を撰集する
・1308年(徳治3年8月25日) 京都の二条高倉皇居において、数え年24歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1498年(明応7)東海道沖で明応地震が起きる(新暦9月20日)詳細
1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1757年(宝暦7)柄井川柳が最初の川柳評万句合を行った日(川柳発祥の日)です(新暦10月7日)詳細
1907年(明治40)明治40年函館大火で、死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸の被害を出す詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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 今日は、室町時代の1377年(永和3)に、第100代の天皇(北朝第6代)とされる後小松天皇の生まれた日ですが、新暦では8月1日となります。
 後小松天皇(ごこまつてんのう)は、京都の押小路殿において、北朝第5代の後円融天皇の第一皇子(母は内大臣三条公忠の女の三条厳子)として生まれましたが、名は幹仁(もとひと)と言いました。1382年(永徳2年)に、乳父日野資教邸で著袴し、父・後円融天皇より譲位を受けて践祚、北朝第6代天皇として即位しましたが、父・後円融上皇による院政が行われます。
 1387年(嘉慶元年)に元服し、1392年(明徳3年閏10月5日)には、南北両朝合体の議によって、南朝の後亀山天皇から神器を受け継ぎ、第100代とされる天皇となり、南北朝合一を果たしました。1393年(明徳4年)に父・後円融上皇が亡くなり、親政を開始、1406年(応永13年)には、生母通陽門院(三条厳子)が亡くなっています。
 和歌・連歌を能くし、1407年(応永14年)には、内裏九十番歌合に出詠、琵琶・立花なども愛好しました。1409年(応永15年)に足利義満の北山第に行幸しましたが、その2ヶ月後に義満が亡くなっています。
 1412年(応永19年8月29日)に、第一皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し、東洞院殿(一条正親町)を御所として院政を執りました。1428年(正長元年)に称光天皇の死後は、伏見宮貞成親王の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させ、引き続き院政を継続します。
 1431年(永享3年)に出家し、法名を素行智としましたが、1433年(永享5年10月20日)に、京都の東洞院御所において、数え年57歳で亡くなり、陵墓はの深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされました。尚、『後小松院御百首』が残され、勅撰入集は『新続古今和歌集』のみ27首となっています。

<後小松天皇の代表的な和歌>

・「あはれなり小田もる庵(いほ)におくかびの煙や民の思なるらむ」(新続古今和歌集)
・「志賀の浦やよせてかへらぬ浪のまに氷うちとけ春は来にけり」(新続古今和歌集)
・「しぐれつつくれてきのふの秋篠やと山の雲のうつりやすさよ」(御百首)
・「又むすぶ契りもしらで消えかへる野上の露のしののめの空」(新続古今和歌集)
・「蘆の芽と見えしかたちをはじめにて国つ社の神のかしこさ」(内裏九十番歌合)

〇後小松天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1377年(永和3年6月27日) 京都の押小路殿において、北朝第5代の後円融天皇の第一皇子(母は内大臣三条公忠の女の三条厳子)として生まれる
・1382年(永徳2年4月7日) 乳父日野資教邸で著袴する
・1382年(永徳2年4月11日) 父・後円融天皇より譲位を受け、践祚する
・1382年(永徳2年12月28日) 北朝第6代天皇として即位するが、父・後円融上皇による院政が行われる
・1387年(嘉慶元年1月3日) 元服する
・1392年(明徳3年閏10月5日) 南北両朝合体の議によって、南朝の後亀山天皇から神器を受け継ぐ(南北朝合一)
・1393年(明徳4年) 父・後円融上皇が亡くなり、親政を開始する
・1406年(応永13年12月) 生母通陽門院(三条厳子)が亡くなる
・1407年(応永14年) 内裏九十番歌合に出詠する
・1409年(応永15年3月) 足利義満の北山第に行幸する
・1409年(応永15年5月) 足利義満が亡くなる
・1412年(応永19年8月29日) 實仁親王(称光天皇)に譲位し、東洞院殿(一条正親町)を御所として院政をとる
・1428年(正長元年) 称光天皇の死後に貞成の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させる
・1431年(永享3年3月24日) 出家し、法名を素行智とする
・1433年(永享5年10月20日) 京都の東洞院御所において、数え年57歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
1850年(嘉永3)新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日詳細
1900年(明治33)高岡明治33年の大火で、死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸の被害を出す詳細
1909年(明治42)「朝日新聞」で夏目漱石著の小説『それから』が連載開始される詳細
1927年(昭和2)満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策決定のため、「東方会議」が開始(~7月7日)される詳細
1936年(昭和11)小説家・児童文学者鈴木三重吉の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1139年(保延5)に、第76代とされる近衛天皇が生まれた日ですが、新暦では6月16日となります。
 近衛天皇(このえてんのう)は、平安時代後期の1139年(保延5年5月18日)に、鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれましたが、生後三ヶ月で立太子しました。1142年(永治元年12月7日)の3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位したものの、父・鳥羽天皇が院政を敷きます。
 1150年(久安6年)に、12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となりました。これにより、摂関家の内部対立が深まり、保元の乱の遠因となったとされます。
 1153年(仁平3年)の15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げました。しかし、1155年(久寿2年7月23日)に京都において、御所としていた近衛殿で、皇子女のないままに、数え年17歳で夭折しています。
 墓所は安楽寿院南陵(京都市伏見区)とされましたが、死因は呪詛によるとの噂が流れました。尚、和歌を能くし、「千載和歌集」初出で、勅撰集へ五首入集しています。

<代表的な和歌>

・「浮雲の かかる程だに あるものを 隠れなはてそ 有明の月」(千載和歌集)
・「この寝ぬる 夜のまの風や さえぬらむ 筧の水の 今朝はこほれる」(続古今和歌集)
・「虫の音の 弱るのみかは 過ぐる秋を 惜む我が身ぞ まづ消えぬべき」(玉葉和歌集)

〇近衛天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1139年(保延5年5月18日) 鳥羽天皇の第9皇子(母は藤原長実の娘美福門院得子)として生まれる
・1139年(保延5年8月) 生後三ヶ月で立太子する
・1142年(永治元年12月7日) 3歳の時、異母兄崇徳天皇の譲位をうけ、第76代とされる天皇として即位するが、父・鳥羽天皇が院政を敷く
・1150年(久安6年) 12歳で元服し、内覧・藤原頼長の養女の多子が入内して皇后となる一方で、関白・藤原忠通の養女の呈子も入内して、中宮となる
・1153年(仁平3年) 15歳の頃から著しく病気がちであり、一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げる
・1155年(久寿2年7月23日) 京都において、数え年17歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3/正慶2)鎌倉幕府第16代執権北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで自刃する(新暦6月30日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が蕃書調所を「洋書調所」と改称する(新暦6月15日)詳細
1869年(明治2)榎本武揚らが最後の拠点・五稜郭を開城し維新政府軍に降伏する(新暦6月27日)詳細
1901年(明治34)日本最初の社会主義政党である「社会民主党」が結成される詳細
1943年(昭和18)日本美術報国会(会長横山大観)が結成される詳細
1970年(昭和45)「全国新幹線鉄道整備法」(昭和45年法律第71号)が公布(施行は同年6月18日)される詳細
1982年(昭和57)国連環境計画特別会議で「ナイロビ宣言」が採択される詳細
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