
推古天皇(すいこてんのう)は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15年4月9日)に、欽明天皇の第三皇女(母は蘇我堅塩媛の娘)として生まれましたが、幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といいました。571年(欽明天皇32年)に、皇太子(後の敏達天皇)妃となり、576年(敏達天皇5年)には、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられます。
585年(敏達天皇14年8月15日)に敏達天皇が亡くなり、587年(用明天皇2年)には、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立しました。592年(崇峻天皇5年11月15日)に蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺されると、593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)に豊浦宮で、第33代とされる天皇(日本最初の女帝)に即位し、同年4月10日には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、馬子と共に天皇の補佐の体制が確立します。
その中で、小墾田宮に都を移し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15年)に、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り(第2回遣隋使)、607年(推古天皇15年)には、法隆寺を創建するなどしました。また、620年(推古天皇28年)には、厩戸皇子や馬子に、『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂させています。
しかし、622年(推古天皇30年)に厩戸皇子が亡くなり、626年(推古天皇34年)に蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる中で、628年(推古天皇36年3月7日)に、皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなりました。その後、竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたものの、後に河内国の磯長山田(しながのやまだ)陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に移されています。
585年(敏達天皇14年8月15日)に敏達天皇が亡くなり、587年(用明天皇2年)には、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立しました。592年(崇峻天皇5年11月15日)に蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺されると、593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)に豊浦宮で、第33代とされる天皇(日本最初の女帝)に即位し、同年4月10日には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、馬子と共に天皇の補佐の体制が確立します。
その中で、小墾田宮に都を移し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15年)に、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り(第2回遣隋使)、607年(推古天皇15年)には、法隆寺を創建するなどしました。また、620年(推古天皇28年)には、厩戸皇子や馬子に、『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂させています。
しかし、622年(推古天皇30年)に厩戸皇子が亡くなり、626年(推古天皇34年)に蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる中で、628年(推古天皇36年3月7日)に、皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなりました。その後、竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたものの、後に河内国の磯長山田(しながのやまだ)陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に移されています。
〇推古天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・554年(欽明天皇15年4月9日) 欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれる
・571年(欽明天皇32年) 皇太子(敏達天皇)妃となる
・576年(敏達天皇5年) 前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられる
・585年(敏達天皇14年8月15日) 敏達天皇が亡くなる
・587年(用明天皇2年) 大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立する
・592年(崇峻天皇5年11月15日) 蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺される
・593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日) 第33代とされる天皇となる
・593年(推古天皇元年4月10日) 甥の厩戸皇子が摂政となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る(第2回遣隋使)
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する(第3回遣隋使)
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 厩戸皇子が『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子が馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、厩戸皇子が数え年49歳で亡くなる
・626年(推古天皇34年) 蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる
・628年(推古天皇36年3月7日) 皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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