今日は、江戸時代中期の1738年(元文3)に、仙台藩士・経世論家で、寛政三奇人の一人、林子平が生まれた日(新暦8月6日)であると共に、1793年(寛政5)に亡くなった日(新暦7月28日)でもあります。
林子平(はやし しへい)は、江戸中期~後期の経世論家で、寛政三奇人の一人です。江戸時代中期の1738年(元文3年6月21日)に、江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれましたが、本名は友直(ともなお)と言いました。しかし、3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなります。
1757年(宝暦7)に、兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移しましたが、1764年(明和1)に朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴くなど、しばしば江戸に遊学し、工藤平助に兄事し、大槻玄沢、桂川甫周 ら蘭学者と交流がありました。1775年(安永4)には、長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになります。
1777年(安永6)に、『海国兵談』を起稿して、1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行しました。一方で、1785年(天明5)に、国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記します。
しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られました。こういう不遇の状況の中で、1793年(寛政5年6月21日)に、江戸において、病気により、56歳で亡くなっています。
同年のロシア使節の根室来航を契機に、著書『海国兵談』は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えることとなりました。尚、後世には、高山彦九郎、蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称されるようになります。
1757年(宝暦7)に、兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移しましたが、1764年(明和1)に朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴くなど、しばしば江戸に遊学し、工藤平助に兄事し、大槻玄沢、桂川甫周 ら蘭学者と交流がありました。1775年(安永4)には、長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになります。
1777年(安永6)に、『海国兵談』を起稿して、1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行しました。一方で、1785年(天明5)に、国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記します。
しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られました。こういう不遇の状況の中で、1793年(寛政5年6月21日)に、江戸において、病気により、56歳で亡くなっています。
同年のロシア使節の根室来航を契機に、著書『海国兵談』は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えることとなりました。尚、後世には、高山彦九郎、蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称されるようになります。
〇林子平関係略年表(日付は旧暦です)
・1738年(元文3年6月21日) 江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれる
・1741年() 3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなる
・1757年(宝暦7) 兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移す
・1764年(明和1) 朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴く
・1775年(安永4) 長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになる
・1777年(安永6) 『海国兵談』を起稿する
・1785年(天明5) 国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記す
・1786年(天明6) 『海国兵談』を脱稿する
・1787年(天明7)~1791年(寛政3) 『海国兵談』を自費刊行する
・1791年(寛政3)末 みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚される
・1792年(寛政4)5月16日 蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られる
・1793年(寛政5年6月21日) 江戸において、病気により、56歳で亡くなる
・1848~54年(嘉永年間) 著書『海国兵談』は広く伝写され、 復刻出版される
☆『海国兵談』(かいこくへいだん)とは?
ロシア勢力南下の情勢を踏まえて、対外的防備策として、国防、富国強兵の急務を論じた、林子平著の兵学書です。全16巻からなり、江戸時代後期の1777年(安永6)に起稿して1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行されました。
当時ロシアが千島、北海道に南進したことに危機感を抱き、警告しようとして書かれたもので、日本を守るために海防が必要であることを説いています。第1巻では、オランダ船の装備や構造の紹介とともに,洋式軍艦を建造し海軍を充実させるよう説き、大砲を改善し沿海に配備すべきことを提言、特に江戸湾の防備が急務であると指摘、第2巻以下は従来の兵書の内容を出ていませんが、第14~16巻では武士土着論・富国策もあり、全般として国内戦の勝利よりも、対外戦の備えを論じていました。
しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収されます。1793年(寛政5)のロシア使節の根室来航を契機に、本書は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えました。
当時ロシアが千島、北海道に南進したことに危機感を抱き、警告しようとして書かれたもので、日本を守るために海防が必要であることを説いています。第1巻では、オランダ船の装備や構造の紹介とともに,洋式軍艦を建造し海軍を充実させるよう説き、大砲を改善し沿海に配備すべきことを提言、特に江戸湾の防備が急務であると指摘、第2巻以下は従来の兵書の内容を出ていませんが、第14~16巻では武士土着論・富国策もあり、全般として国内戦の勝利よりも、対外戦の備えを論じていました。
しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収されます。1793年(寛政5)のロシア使節の根室来航を契機に、本書は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えました。
☆林子平著『海国兵談』(抄文)
海国の武備は海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃にあり、是れ海国自然の兵制也。
昇平久き時は人心弛む。人心弛む時は乱を忘るゝ事、和漢古今の通病なり。是を忘れざるを武備といふ。蓋し武は文と相並んで徳の名なり。備は徳にあらず事なり。変に臨て事欠さる様に物を備置を云なり。
当世の俗習にて、異国船の入津は長崎に限りたる事にて、別の浦江船を寄する事は決して成らざる事と思へり。実に太平の鼓腹する人と云うべし。既に古は薩摩の坊の津、筑前の博多、肥前の平戸、摂州の兵庫、泉州の堺、越前の敦賀等え異国船入津して物を献じ、物を商いたること数多あり。是自序にも言し如く、海国なるゆえ何国の浦へも、心に任せて船を寄せらるゝことなれば、島国なりとて曾て油断は致されざる事也。是に因て思へば、当世長崎の港口に、石火矢台を設て備を張が如く、日本国中東西南北を論せず、悉く長崎の港の如くに備置きたき事、海国武備の大主意なるべし。さて此事、為し難き趣意にあらず。今より新制度を定て漸々に備なば、五十年にして、日本の惣海浜堂々たる厳備をなすべき事、得て期すべし。疑ふこと勿れ。此の如く成就する時は、大海を以て池と為し、海岸を以て石壁と為し、日本といふ方五千里の大城を築き立たるが如し。豈愉快ならずや。
竊に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有りて、却て、安房・相模の海港に其備なし、此事甚不審。細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり。然るを此に備へずして、長崎のみ備るは何ぞや。小子が見を以てせば安房、相模の両国に諸侯を置て、入海の瀬戸に厳重の備を設けたき事なり。日本の惣海岸に備る事は、先ず此の港口を以て始と為べし。是海国武備の中の又肝要なる所なり。然と云とも忌諱を顧りみずして有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す。
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