ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > その他

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 今日は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、探検家・測量家間宮林蔵が亡くなった日ですが、新暦では4月13日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

〇間宮林蔵主要な著作

・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

☆間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著『日本』で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1858年(安政5)越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)「日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
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 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、漫画家・放送タレント加藤芳郎の亡くなった日です。
 加藤芳郎(かとう よしろう)は、大正時代の1925年(大正14)6月25日 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)において、公務員の家庭に生まれ、幼い頃から絵を描くのが好きでした。10歳の頃に父親が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、生活が苦しくなり、病院の給仕として昼間に働きながら、旧制東京府立第六中学校夜間部に通学するようになります。
 1939年(昭和14)に雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったのを契機として、投稿を重ね「週刊少国民」「オール讀物」「モダン日本」などで入選を重ね、1941年(昭和16)には、近藤日出造編集の月刊誌「漫画」に投稿し1等となりました。中学卒業後、川端画学校で学び、1943年(昭和18)には、東京都防衛局に就職し、夜は画学校に通います。
 しかし、1944年(昭和19)に召集されて、中国へ従軍し、1945年(昭和20)に復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描き続けました。1948年(昭和23)に東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入り、1951年(昭和26)に『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描き、1954年(昭和29)には、「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』(~1960年)、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』(~2001年)の連載を開始します。
 1957年(昭和32)に『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞、1968年(昭和43)から、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年、1970~1991年)となりました。1975年(昭和50)から日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」の司会(~1984年)を担当し、1981年(昭和56)には、日本漫画家協会の理事長となります。
 1986年(昭和61)に紫綬褒章を受章、1988年(昭和63)に第36回菊池寛賞、1989年(平成元)にNHK放送文化賞を受賞し、1992年(平成4)には、日本漫画家協会の会長(~1996年)となりました。1996年(平成8)に勲四等旭日小綬章を受章、1999年(平成11)に四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞、2000年(平成12)には、東京都文化賞を受賞します。
 2001年(平成13)には、「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了し、2006年(平成18)1月6日に、東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなりました。

〇加藤芳郎の主要な著作

<漫画集>
・『あほだら漫画集』(1955年)
・現代漫画 第1期4巻『加藤芳郎集』(1969年)

<エッセイ> 
・『雷おやじの本』(1982年)
・『加藤芳郎のまっぴらごめん』(1984年)

☆加藤芳郎関係略年表

・1925年(大正14)6月25日 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)において、公務員の家庭に生まれる
・1939年(昭和14) 雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取る
・1941年(昭和16) 近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し1等となる
・1943年(昭和18) 東京都防衛局に就職し、夜は川端画学校に通う
・1944年(昭和19) 召集されて、中国へ従軍する
・1945年(昭和20) 中国から復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描きつづける
・1948年(昭和23) 東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入る
・1951年(昭和26) 『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描く
・1954年(昭和29) 「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』の連載を開始する
・1957年(昭和32) 『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』の連載が終わる
・1968年(昭和43) NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年)となる
・1970年(昭和45) 再び、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1991年)となる
・1975年(昭和50) 「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の司会を担当する
・1981年(昭和56) 日本漫画家協会の理事長となる
・1984年(昭和59) 「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の司会が終わる
・1986年(昭和61) 紫綬褒章を受章する
・1988年(昭和63) 第36回菊池寛賞を受賞する
・1989年(平成元) NHK放送文化賞を受賞する
・1992年(平成4) 日本漫画家協会の会長(~1996年)となる
・1996年(平成8) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1999年(平成11) 四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞する
・2000年(平成12) 東京都文化賞を受賞する
・2001年(平成13) 「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了する
・2006年(平成18)1月6日 東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

757年(天平宝字元)皇族・公卿・歌人橘諸兄の命日(新暦1月30日)詳細
1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
1977年(昭和52)国鉄が「一枚のキップから」キャンペーンを開始する詳細
2010年(平成22)鋳金作家蓮田修吾郎の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1738年(元文3)に、仙台藩士・経世論家で、寛政三奇人の一人、林子平が生まれた日(新暦8月6日)であると共に、1793年(寛政5)に亡くなった日(新暦7月28日)でもあります。
 林子平(はやし しへい)は、江戸中期~後期の経世論家で、寛政三奇人の一人です。江戸時代中期の1738年(元文3年6月21日)に、江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれましたが、本名は友直(ともなお)と言いました。しかし、3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなります。
 1757年(宝暦7)に、兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移しましたが、1764年(明和1)に朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴くなど、しばしば江戸に遊学し、工藤平助に兄事し、大槻玄沢、桂川甫周 ら蘭学者と交流がありました。1775年(安永4)には、長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになります。
 1777年(安永6)に、『海国兵談』を起稿して、1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行しました。一方で、1785年(天明5)に、国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記します。
 しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られました。こういう不遇の状況の中で、1793年(寛政5年6月21日)に、江戸において、病気により、56歳で亡くなっています。
 同年のロシア使節の根室来航を契機に、著書『海国兵談』は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えることとなりました。尚、後世には、高山彦九郎、蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称されるようになります。

〇林子平関係略年表(日付は旧暦です)

・1738年(元文3年6月21日) 江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれる
・1741年() 3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなる
・1757年(宝暦7) 兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移す
・1764年(明和1) 朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴く
・1775年(安永4) 長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになる
・1777年(安永6) 『海国兵談』を起稿する
・1785年(天明5) 国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記す
・1786年(天明6) 『海国兵談』を脱稿する
・1787年(天明7)~1791年(寛政3) 『海国兵談』を自費刊行する
・1791年(寛政3)末 みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚される
・1792年(寛政4)5月16日 蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られる
・1793年(寛政5年6月21日) 江戸において、病気により、56歳で亡くなる
・1848~54年(嘉永年間) 著書『海国兵談』は広く伝写され、 復刻出版される

☆『海国兵談』(かいこくへいだん)とは?

 ロシア勢力南下の情勢を踏まえて、対外的防備策として、国防、富国強兵の急務を論じた、林子平著の兵学書です。全16巻からなり、江戸時代後期の1777年(安永6)に起稿して1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行されました。
 当時ロシアが千島、北海道に南進したことに危機感を抱き、警告しようとして書かれたもので、日本を守るために海防が必要であることを説いています。第1巻では、オランダ船の装備や構造の紹介とともに,洋式軍艦を建造し海軍を充実させるよう説き、大砲を改善し沿海に配備すべきことを提言、特に江戸湾の防備が急務であると指摘、第2巻以下は従来の兵書の内容を出ていませんが、第14~16巻では武士土着論・富国策もあり、全般として国内戦の勝利よりも、対外戦の備えを論じていました。
 しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収されます。1793年(寛政5)のロシア使節の根室来航を契機に、本書は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えました。

☆林子平著『海国兵談』(抄文)

 海国の武備は海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃にあり、是れ海国自然の兵制也。
 昇平久き時は人心弛む。人心弛む時は乱を忘るゝ事、和漢古今の通病なり。是を忘れざるを武備といふ。蓋し武は文と相並んで徳の名なり。備は徳にあらず事なり。変に臨て事欠さる様に物を備置を云なり。
 当世の俗習にて、異国船の入津は長崎に限りたる事にて、別の浦江船を寄する事は決して成らざる事と思へり。実に太平の鼓腹する人と云うべし。既に古は薩摩の坊の津、筑前の博多、肥前の平戸、摂州の兵庫、泉州の堺、越前の敦賀等え異国船入津して物を献じ、物を商いたること数多あり。是自序にも言し如く、海国なるゆえ何国の浦へも、心に任せて船を寄せらるゝことなれば、島国なりとて曾て油断は致されざる事也。是に因て思へば、当世長崎の港口に、石火矢台を設て備を張が如く、日本国中東西南北を論せず、悉く長崎の港の如くに備置きたき事、海国武備の大主意なるべし。さて此事、為し難き趣意にあらず。今より新制度を定て漸々に備なば、五十年にして、日本の惣海浜堂々たる厳備をなすべき事、得て期すべし。疑ふこと勿れ。此の如く成就する時は、大海を以て池と為し、海岸を以て石壁と為し、日本といふ方五千里の大城を築き立たるが如し。豈愉快ならずや。
 竊に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有りて、却て、安房・相模の海港に其備なし、此事甚不審。細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり。然るを此に備へずして、長崎のみ備るは何ぞや。小子が見を以てせば安房、相模の両国に諸侯を置て、入海の瀬戸に厳重の備を設けたき事なり。日本の惣海岸に備る事は、先ず此の港口を以て始と為べし。是海国武備の中の又肝要なる所なり。然と云とも忌諱を顧りみずして有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の10番目夏至です詳細
1635年(寛永12)江戸幕府が改訂発布した「武家諸法度」(寛永令)で参勤交代の義務化等を命じる(新暦8月3日)詳細
1892年(明治25)「鉄道敷設法」公布される詳細
1949年(昭和24)川崎汽船青葉丸がデラ台風により大分県沖で転覆、死者・行方不明者141人を出す(青葉丸転覆事故)詳細
1951年(昭和26)教育科学文化機関(ユネスコ)が日本の加盟を承認する詳細
国際労働機関(ILO)が日本の再加盟を承認する詳細
1962年(昭和37)「サンケイ」新聞夕刊で司馬遼太郎著の『竜馬がゆく』の連載が開始される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12年)に、囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策が生まれた日ですが、新暦では6月6日となります。
 本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)は、備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男として生まれましたが、幼名は虎次郎と言いました。3、4歳の時に、母より囲碁の手ほどきを受け、1833年(天保4年)の5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、棋才を見出され、以後支援を受けることとなります。
 1835年(天保6年)の7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受けることとなり、翌年には、江戸へ出て第12世本因坊丈和の門に入りました。1839年(天保10年)の11歳の時、初段の免状を受け、翌年に因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わり、1841年(天保12年)の13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進します。
 1842年(天保13年)の14歳の時、三段へ昇進、翌年に四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになり、1845年(弘化2年)の17歳の時、12人扶持ちに増録されました。1846年(弘化3年)の18歳の時、大阪にて第11世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進、1848年(嘉永元年)の20歳の時、第14世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進します。
 1849年(嘉永2年)の21歳の時、初めての御城碁へ出仕して勝ち、以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げました。1853年(嘉永6年)の25歳の時、太田雄三と30番碁をはじめ、23局終え、七段(上手)へ昇進、1857年(安政4年)の29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫しています。
 1861年(文久元年)の33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入ったものの、江戸にコレラが大流行する中、翌年8月10日に、コレラによって、本因坊家において、数え年34歳で急逝しました。没後、第4世本因坊道策、第12世本因坊丈和と並んで碁聖と呼ばれることとなります。

〇本因坊秀策関係略年表(日付は旧暦です)

・1829年(文政12年5月5日) 備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男(幼名は虎次郎)として生まれる
・1831~32年(天保2~3年) 3、4歳の時、母より囲碁の手ほどきを受ける
・1833年(天保4年) 5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、竹下は秀策の棋才を見抜き、以後支援を受ける
・1835年(天保6年) 7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受ける
・1837年(天保8年) 9歳の時、江戸へ出て十二世本因坊丈和の門に入る
・1839年(天保10年) 11歳の時、初段の免状を受ける
・1840年(天保11年) 12歳の時、因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わる
・1841年(天保12年) 13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進する
・1842年(天保13年) 14歳の時、三段へ昇進する
・1843年(天保14年) 15歳の時、四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになる
・1845年(弘化2年) 17歳の時、12人扶持ちに増録される
・1846年(弘化3年) 18歳の時、大阪にて十一世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進する
・1848年(嘉永元年) 20歳の時、十四世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進する
・1849年(嘉永2年) 21歳の時、初めての御城碁へ出仕し勝つ(以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げる)
・1853年(嘉永6年) 25歳の時、太田雄三と三十番碁をはじめ、二十三局終え、七段(上手)へ昇進する
・1857年(安政4年) 29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫する
・1861年(文久元年) 33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入る
・1862年(文久2年8月10日) 江戸にコレラが大流行する中、本因坊家でコレラにて、数え年34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) が亡くなった日です。
 坂田栄男(さかた えいお)は、大正時代の1920年(大正9)2月15日に、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれましたが、囲碁好きの父の影響で子供の頃から囲碁を覚えました。1929年(昭和4)に、増淵辰子六段(後に八段)に入門し、翌年に日本棋院院生となり、1935年(昭和10)に、入段後、二段となります。
 1937年(昭和12)に三段、1938年(昭和13)に四段、1940年(昭和15)に五段、1943年(昭和18)には、六段に昇段しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本棋院を脱退し囲碁新社を結成し、翌年に七段に昇段しましたが、1949年(昭和24)には、日本棋院に復帰しています。
 1951年(昭和26)に第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れた後、翌年には、八段に昇段しました。1953年(昭和28)に、呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとし、1955年(昭和30)には、九段に昇段します。
 1959年(昭和34)に日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固め、1961年(昭和36)には、高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作りました。1963年(昭和38)に名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となり、1964年(昭和39)には、名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たします。
 1967年(昭和42)に7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得、1978年(昭和53)に日本棋院理事長となり、1979年(昭和54)には、紫綬褒章を受章しました。1982年(昭和57)にNHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得、1983年(昭和58)には、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とします。
 1986年(昭和61)に日本棋院理事長を辞め、1988年(昭和63)に日本棋院顧問となり、1990年(平成2)に勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に 二十三世本因坊を名乗ることを認められ、切れ味鋭い棋風で「かみそり坂田」とよばれてきたものの、2000年(平成12)の80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退しています。
 2009年(平成21)には、日本棋院名誉顧問となったものの、2010年(平成22)10月22日に、胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈されました。

<坂田栄男の記録>

・総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多)
・年間30勝2敗(1964年)
・一般棋戦29連勝(1963~64年)
・同一タイトル戦17連勝(第18期本因坊戦第5局~第22期本因坊戦第3局)
・通算成績1,117勝654敗16ジゴ
・連勝記録歴代1位(29連勝)

〇坂田栄男関係略年表

・1920年(大正9)2月15日 東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれる
・1929年(昭和4) 故増淵辰子八段に入門する
・1930年(昭和5) 日本棋院院生となる
・1935年(昭和10) 入段後、二段となる
・1937年(昭和12) 三段に昇段する
・1938年(昭和13) 四段に昇段する
・1940年(昭和15) 五段に昇段する
・1943年(昭和18) 六段に昇段する
・1944年(昭和19) 2ヶ月の教育召集を受ける
・1947年(昭和22) 日本棋院を脱退し囲碁新社を結成する
・1948年(昭和23) 七段に昇段する
・1949年(昭和24) 日本棋院に復帰する
・1951年(昭和26) 第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れる
・1952年(昭和27) 八段に昇段する
・1953年(昭和28) 呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする
・1955年(昭和30) 九段に昇段する
・1959年(昭和34) 日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める
・1961年(昭和36) 高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る
・1963年(昭和38) 名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となる
・1964年(昭和39) 名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たす
・1967年(昭和42) 7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得る
・1978年(昭和53) 日本棋院理事長となる
・1979年(昭和54) 紫綬褒章を受章する
・1982年(昭和57) NHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得る 
・1983年(昭和58) NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とする
・1986年(昭和61) 日本棋院理事長を辞める
・1988年(昭和63) 日本棋院顧問となる
・1990年(平成2) 勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 二十三世本因坊を名乗ることを認められる
・2000年(平成12) 80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退する
・2009年(平成21) 日本棋院名誉顧問となる
・2010年(平成22)10月22日 胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈される
・2019年(平成31) 第16回囲碁殿堂入りが決まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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