ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > その他

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 今日は、江戸時代中期の1738年(元文3)に、仙台藩士・経世論家で、寛政三奇人の一人、林子平が生まれた日(新暦8月6日)であると共に、1793年(寛政5)に亡くなった日(新暦7月28日)でもあります。
 林子平(はやし しへい)は、江戸中期~後期の経世論家で、寛政三奇人の一人です。江戸時代中期の1738年(元文3年6月21日)に、江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれましたが、本名は友直(ともなお)と言いました。しかし、3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなります。
 1757年(宝暦7)に、兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移しましたが、1764年(明和1)に朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴くなど、しばしば江戸に遊学し、工藤平助に兄事し、大槻玄沢、桂川甫周 ら蘭学者と交流がありました。1775年(安永4)には、長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになります。
 1777年(安永6)に、『海国兵談』を起稿して、1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行しました。一方で、1785年(天明5)に、国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記します。
 しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られました。こういう不遇の状況の中で、1793年(寛政5年6月21日)に、江戸において、病気により、56歳で亡くなっています。
 同年のロシア使節の根室来航を契機に、著書『海国兵談』は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えることとなりました。尚、後世には、高山彦九郎、蒲生君平と並んで寛政の三奇人と称されるようになります。

〇林子平関係略年表(日付は旧暦です)

・1738年(元文3年6月21日) 江戸において、幕臣で御書物奉行(620石)であった岡村良通の次男として生まれる
・1741年() 3歳の頃に、故あって父は浪人の身となり、家族は伯父(父の弟)で町医者の林従吾(林道明)に預けられ、林姓を名乗ることとなる
・1757年(宝暦7) 兄が仙台藩に仕官することになり、仙台に居を移す
・1764年(明和1) 朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴く
・1775年(安永4) 長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学を志すようになる
・1777年(安永6) 『海国兵談』を起稿する
・1785年(天明5) 国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島の地理を記す
・1786年(天明6) 『海国兵談』を脱稿する
・1787年(天明7)~1791年(寛政3) 『海国兵談』を自費刊行する
・1791年(寛政3)末 みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚される
・1792年(寛政4)5月16日 蟄居処分となり、板木は没収され、12月には囚人として江戸に送られる
・1793年(寛政5年6月21日) 江戸において、病気により、56歳で亡くなる
・1848~54年(嘉永年間) 著書『海国兵談』は広く伝写され、 復刻出版される

☆『海国兵談』(かいこくへいだん)とは?

 ロシア勢力南下の情勢を踏まえて、対外的防備策として、国防、富国強兵の急務を論じた、林子平著の兵学書です。全16巻からなり、江戸時代後期の1777年(安永6)に起稿して1786年(天明6)に脱稿、1787年(天明7)~1791年(寛政3)にかけて自費刊行されました。
 当時ロシアが千島、北海道に南進したことに危機感を抱き、警告しようとして書かれたもので、日本を守るために海防が必要であることを説いています。第1巻では、オランダ船の装備や構造の紹介とともに,洋式軍艦を建造し海軍を充実させるよう説き、大砲を改善し沿海に配備すべきことを提言、特に江戸湾の防備が急務であると指摘、第2巻以下は従来の兵書の内容を出ていませんが、第14~16巻では武士土着論・富国策もあり、全般として国内戦の勝利よりも、対外戦の備えを論じていました。
 しかし、1791年(寛政3)末に、みだりに国防を論じた罪で幕府に召喚され、翌年5月16日に蟄居処分となり、板木は没収されます。1793年(寛政5)のロシア使節の根室来航を契機に、本書は広く伝写され、嘉永年間 (1848~54) には復刻出版され、海防の論議が高まるにつれて、尊皇攘夷思想に影響を与えました。

☆林子平著『海国兵談』(抄文)

 海国の武備は海辺にあり。海辺の兵法は水戦にあり。水戦の要は大銃にあり、是れ海国自然の兵制也。
 昇平久き時は人心弛む。人心弛む時は乱を忘るゝ事、和漢古今の通病なり。是を忘れざるを武備といふ。蓋し武は文と相並んで徳の名なり。備は徳にあらず事なり。変に臨て事欠さる様に物を備置を云なり。
 当世の俗習にて、異国船の入津は長崎に限りたる事にて、別の浦江船を寄する事は決して成らざる事と思へり。実に太平の鼓腹する人と云うべし。既に古は薩摩の坊の津、筑前の博多、肥前の平戸、摂州の兵庫、泉州の堺、越前の敦賀等え異国船入津して物を献じ、物を商いたること数多あり。是自序にも言し如く、海国なるゆえ何国の浦へも、心に任せて船を寄せらるゝことなれば、島国なりとて曾て油断は致されざる事也。是に因て思へば、当世長崎の港口に、石火矢台を設て備を張が如く、日本国中東西南北を論せず、悉く長崎の港の如くに備置きたき事、海国武備の大主意なるべし。さて此事、為し難き趣意にあらず。今より新制度を定て漸々に備なば、五十年にして、日本の惣海浜堂々たる厳備をなすべき事、得て期すべし。疑ふこと勿れ。此の如く成就する時は、大海を以て池と為し、海岸を以て石壁と為し、日本といふ方五千里の大城を築き立たるが如し。豈愉快ならずや。
 竊に憶へば当時長崎に厳重に石火矢の備有りて、却て、安房・相模の海港に其備なし、此事甚不審。細かに思へば、江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり。然るを此に備へずして、長崎のみ備るは何ぞや。小子が見を以てせば安房、相模の両国に諸侯を置て、入海の瀬戸に厳重の備を設けたき事なり。日本の惣海岸に備る事は、先ず此の港口を以て始と為べし。是海国武備の中の又肝要なる所なり。然と云とも忌諱を顧りみずして有の侭に言は不敬なり。言はざるは又不忠なり。此の故に独夫、罪を憚らずして以て書す。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の10番目夏至です詳細
1635年(寛永12)江戸幕府が改訂発布した「武家諸法度」(寛永令)で参勤交代の義務化等を命じる(新暦8月3日)詳細
1892年(明治25)「鉄道敷設法」公布される詳細
1949年(昭和24)川崎汽船青葉丸がデラ台風により大分県沖で転覆、死者・行方不明者141人を出す(青葉丸転覆事故)詳細
1951年(昭和26)教育科学文化機関(ユネスコ)が日本の加盟を承認する詳細
国際労働機関(ILO)が日本の再加盟を承認する詳細
1962年(昭和37)「サンケイ」新聞夕刊で司馬遼太郎著の『竜馬がゆく』の連載が開始される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12年)に、囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策が生まれた日ですが、新暦では6月6日となります。
 本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)は、備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男として生まれましたが、幼名は虎次郎と言いました。3、4歳の時に、母より囲碁の手ほどきを受け、1833年(天保4年)の5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、棋才を見出され、以後支援を受けることとなります。
 1835年(天保6年)の7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受けることとなり、翌年には、江戸へ出て第12世本因坊丈和の門に入りました。1839年(天保10年)の11歳の時、初段の免状を受け、翌年に因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わり、1841年(天保12年)の13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進します。
 1842年(天保13年)の14歳の時、三段へ昇進、翌年に四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになり、1845年(弘化2年)の17歳の時、12人扶持ちに増録されました。1846年(弘化3年)の18歳の時、大阪にて第11世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進、1848年(嘉永元年)の20歳の時、第14世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進します。
 1849年(嘉永2年)の21歳の時、初めての御城碁へ出仕して勝ち、以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げました。1853年(嘉永6年)の25歳の時、太田雄三と30番碁をはじめ、23局終え、七段(上手)へ昇進、1857年(安政4年)の29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫しています。
 1861年(文久元年)の33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入ったものの、江戸にコレラが大流行する中、翌年8月10日に、コレラによって、本因坊家において、数え年34歳で急逝しました。没後、第4世本因坊道策、第12世本因坊丈和と並んで碁聖と呼ばれることとなります。

〇本因坊秀策関係略年表(日付は旧暦です)

・1829年(文政12年5月5日) 備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男(幼名は虎次郎)として生まれる
・1831~32年(天保2~3年) 3、4歳の時、母より囲碁の手ほどきを受ける
・1833年(天保4年) 5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、竹下は秀策の棋才を見抜き、以後支援を受ける
・1835年(天保6年) 7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受ける
・1837年(天保8年) 9歳の時、江戸へ出て十二世本因坊丈和の門に入る
・1839年(天保10年) 11歳の時、初段の免状を受ける
・1840年(天保11年) 12歳の時、因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わる
・1841年(天保12年) 13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進する
・1842年(天保13年) 14歳の時、三段へ昇進する
・1843年(天保14年) 15歳の時、四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになる
・1845年(弘化2年) 17歳の時、12人扶持ちに増録される
・1846年(弘化3年) 18歳の時、大阪にて十一世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進する
・1848年(嘉永元年) 20歳の時、十四世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進する
・1849年(嘉永2年) 21歳の時、初めての御城碁へ出仕し勝つ(以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げる)
・1853年(嘉永6年) 25歳の時、太田雄三と三十番碁をはじめ、二十三局終え、七段(上手)へ昇進する
・1857年(安政4年) 29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫する
・1861年(文久元年) 33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入る
・1862年(文久2年8月10日) 江戸にコレラが大流行する中、本因坊家でコレラにて、数え年34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) が亡くなった日です。
 坂田栄男(さかた えいお)は、大正時代の1920年(大正9)2月15日に、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれましたが、囲碁好きの父の影響で子供の頃から囲碁を覚えました。1929年(昭和4)に、増淵辰子六段(後に八段)に入門し、翌年に日本棋院院生となり、1935年(昭和10)に、入段後、二段となります。
 1937年(昭和12)に三段、1938年(昭和13)に四段、1940年(昭和15)に五段、1943年(昭和18)には、六段に昇段しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本棋院を脱退し囲碁新社を結成し、翌年に七段に昇段しましたが、1949年(昭和24)には、日本棋院に復帰しています。
 1951年(昭和26)に第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れた後、翌年には、八段に昇段しました。1953年(昭和28)に、呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとし、1955年(昭和30)には、九段に昇段します。
 1959年(昭和34)に日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固め、1961年(昭和36)には、高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作りました。1963年(昭和38)に名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となり、1964年(昭和39)には、名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たします。
 1967年(昭和42)に7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得、1978年(昭和53)に日本棋院理事長となり、1979年(昭和54)には、紫綬褒章を受章しました。1982年(昭和57)にNHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得、1983年(昭和58)には、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とします。
 1986年(昭和61)に日本棋院理事長を辞め、1988年(昭和63)に日本棋院顧問となり、1990年(平成2)に勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に 二十三世本因坊を名乗ることを認められ、切れ味鋭い棋風で「かみそり坂田」とよばれてきたものの、2000年(平成12)の80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退しています。
 2009年(平成21)には、日本棋院名誉顧問となったものの、2010年(平成22)10月22日に、胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈されました。

<坂田栄男の記録>

・総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多)
・年間30勝2敗(1964年)
・一般棋戦29連勝(1963~64年)
・同一タイトル戦17連勝(第18期本因坊戦第5局~第22期本因坊戦第3局)
・通算成績1,117勝654敗16ジゴ
・連勝記録歴代1位(29連勝)

〇坂田栄男関係略年表

・1920年(大正9)2月15日 東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれる
・1929年(昭和4) 故増淵辰子八段に入門する
・1930年(昭和5) 日本棋院院生となる
・1935年(昭和10) 入段後、二段となる
・1937年(昭和12) 三段に昇段する
・1938年(昭和13) 四段に昇段する
・1940年(昭和15) 五段に昇段する
・1943年(昭和18) 六段に昇段する
・1944年(昭和19) 2ヶ月の教育召集を受ける
・1947年(昭和22) 日本棋院を脱退し囲碁新社を結成する
・1948年(昭和23) 七段に昇段する
・1949年(昭和24) 日本棋院に復帰する
・1951年(昭和26) 第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れる
・1952年(昭和27) 八段に昇段する
・1953年(昭和28) 呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする
・1955年(昭和30) 九段に昇段する
・1959年(昭和34) 日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める
・1961年(昭和36) 高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る
・1963年(昭和38) 名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となる
・1964年(昭和39) 名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たす
・1967年(昭和42) 7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得る
・1978年(昭和53) 日本棋院理事長となる
・1979年(昭和54) 紫綬褒章を受章する
・1982年(昭和57) NHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得る 
・1983年(昭和58) NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とする
・1986年(昭和61) 日本棋院理事長を辞める
・1988年(昭和63) 日本棋院顧問となる
・1990年(平成2) 勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 二十三世本因坊を名乗ることを認められる
・2000年(平成12) 80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退する
・2009年(平成21) 日本棋院名誉顧問となる
・2010年(平成22)10月22日 胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈される
・2019年(平成31) 第16回囲碁殿堂入りが決まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、登山家で女性初のエベレスト登頂者田部井淳子の生まれた日です。
 田部井淳子(たべい じゅんこ)は、福島県田村郡三春町の石橋家に生まれ、福島県立田村高等学校を経て、1958年(昭和33)に昭和女子大学英米文学科に入学しました。1962年(昭和37)に卒業後、日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら、社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐようになります。
 1965年(昭和40)に佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功、1967年(昭和42)には、田部井政伸と結婚しました。1969年(昭和44)に、「女子だけで海外遠征を」を合言葉に女子登攀クラブを設立し、1970年(昭和45)には、アンナプルナIII峰(7,555m)に遠征して登頂に成功します。
 1975年(昭和50)に、エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、 世界最高峰エベレスト(8,848m)に女性世界初の登頂に成功、ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞を受賞しました。1990年(平成2)に日本に山岳環境保護団体・日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)が設立され、同団体の代表に就任(~2014年)します。
 1992年(平成4)にオセアニアの最高峰であるニューギニア島のジャヤ山(4,884m)の登頂に成功し、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となり、2度目の文部省スポーツ功労賞を受賞しました。1995年(平成7)に内閣総理大臣賞を受賞、1999年(平成11)には、旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得ます。
 山岳環境保護の啓蒙活動に力を注ぎ、2000年(平成12)に九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了(研究テーマ:エベレストのゴミ問題)し、2007年(平成19)には、環境大臣賞(環境保全功労者表彰)、野外教育功労賞(日本野外教育学会)を受賞しました。子育てや仕事などで忙しい若い世代の女性たちにも山や自然に親しんでもらいたいと、2009年(平成21)に、20~40代の女性のための山の会MJリンクを立ち上げます。
 2016年(平成28)には、東日本大震災被災者への支援活動として東北地方の高校生らとともに富士登山に参加しましたが、同年10月20日に、埼玉県川越市において、腹膜癌によって、77歳で亡くなりました。没後の2018年(平成30)に、第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られ、翌年には、田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名されています。

〇田部井淳子の主要な著作

・『エベレスト・ママさん 山登り半生記』(1978年)
・『七大陸最高峰に立って』(1992年)
・『山の頂の向こうに』(1995年)
・『エプロンはずして夢の山』(1996年)
・『さわやかに山へ』(1997年)
・『山を楽しむ』(2002年)
・『はじめての山歩き 花、木、自然に会いに』(2002年)
・『山からの贈り物』(2007年)
・『いつでも山を 田部井淳子の実践エイジング登山』(2008年)
・『再発! それでもわたしは山に登る』(2016年)

☆田部井淳子関係略年表

・1939年(昭和14)9月22日、福島県田村郡三春町の石橋家に生まれる
・1958年(昭和33) 福島県立田村高等学校を卒業し、昭和女子大学英米文学科に入学する
・1962年(昭和37) 昭和女子大学英米文学科卒業後、日本物理学会で学会誌の編集に従事しながら、社会人の山岳会に入会し、登山活動に力を注ぐ
・1965年(昭和40) 佐宗ルミエと共に、女性ペアによる初めての谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀に成功する
・1967年(昭和42) 田部井政伸と結婚する
・1969年(昭和44) 『女子だけで海外遠征を』を合言葉に女子登攀クラブを設立する
・1970年(昭和45) アンナプルナIII峰(7,555m)に遠征して登頂に成功する
・1975年(昭和50) エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として、 世界最高峰エベレスト(8,848m)に女性世界初の登頂に成功、ネパール王国から最高勲章グルカ・ダクシン・バフ賞、文部省スポーツ功労賞、日本スポーツ賞、朝日体育賞を受賞する
・1980年(昭和55) タンザニアのキリマンジャロ山(5,895m)の登頂に成功する
・1985年(昭和60) イスモイル・ソモニ峰、スィーナー峰(旧:レーニン峰)、コルジェネフスカヤの3峰を1シーズンで完登する
・1987年(昭和62) アルゼンチンのアコンカグア山(6,959m)の登頂に成功する
・1988年(昭和63) アラスカのマッキンレー山(今日のデナリ6,190m)の登頂に成功、埼玉県民栄誉賞、川越市民栄誉賞、三春町名誉町民、エイボンスポーツ賞を受賞する
・1989年(平成元) ロシアのエリブルース山(5,642m)の登頂に成功する
・1990年(平成2) 日本に山岳環境保護団体・日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)が設立され、同団体の代表に就任(~2014年)する
・1991年(平成3) 南極大陸のビンソン山(4,892m)の登頂に成功、福島県民栄誉賞第1号を受賞する
・1992年(平成4) オセアニアの最高峰であるニューギニア島のジャヤ山(4,884m)の登頂に成功し、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となり、2度目の文部省スポーツ功労賞を受賞する
・1994年(平成6) ハン・テングリの登頂に成功する
・1995年(平成7) 内閣総理大臣賞を受賞する
・1996年(平成8) チョ・オユーの登頂に成功する
・1999年(平成11) 旧ソ連7000メートル峰5座の登頂により、スノー・レオパードの称号を得る
・2000年(平成12) 九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程修了 (研究テーマ:エベレストのゴミ問題)
・2001年(平成13) ムスターグ・アタの登頂に成功する
・2006年(平成18) (財)ソロプチミスト日本財団千嘉代子賞を受賞する
・2007年(平成19) 環境大臣賞(環境保全功労者表彰)、野外教育功労賞(日本野外教育学会)を受賞する
・2008年(平成20) 2008 Mountain Hero Award(ワシントンにあるThe Mountain Instituteより受賞)を受賞する
・2009年(平成21) 20~40代の女性のための山の会MJリンクを立ち上げ、日本放送協会放送文化賞を受賞する
・2010年(平成22) テンジン・ヒラリー賞(ネパール政府観光省より)を受賞する
・2012年(平成24) ファウスト特別賞を受賞する
・2013年(平成25) さいたま輝き荻野吟子賞を受賞する
・2015年(平成27) みんゆう県民大賞(福島民友新聞社)を受賞する
・2016年(平成28)10月20日 埼玉県川越市において、腹膜癌によって、77歳で亡くなる
・2018年(平成30) 第1回ネパール社会貢献者表彰を贈られる
・2019年(平成31) 田部井にちなんで、国際天文学連合は冥王星の山に「Tabei Montes」と命名する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元) 鎌倉幕府第10代執権北條師時の命日(新暦11月3日) 詳細
1868年(明治元) 戊辰戦争で鶴ヶ城が開城され、会津藩が新政府軍に降伏する(新暦11月6日) 詳細
1945年(昭和20)  GHQが「日本に与うる放送遵則(ラジオコード)」(SCAPIN-43)を出す 詳細
GHQが「公衆衛生対策に関する覚書」(SCAPIN-48)を出す 詳細
1968年(昭和43) 第3宮古島台風により宮古島で最大瞬間風速79.8mを記録する 詳細
1980年(昭和55) 文芸評論家・音楽評論家河上徹太郎の命日 詳細
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kugakatsunan01
 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、新聞記者・政治評論家陸羯南が亡くなった日です。
 陸羯南(くが かつなん)は、江戸時代後期の1857年(安政4年10月14日)に、陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)において、弘前藩の御茶坊主頭だった父・中田謙斎と母・なほの子として生まれましたが、幼名は巳之太郎、のち実(みのる)と言いました。1871年(明治4)頃から、藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学びはじめ、1873年(明治6)には、旧藩校の後身・東奥義塾へ進みます。
 1874年(明治7)に宮城師範学校に転校しましたが、1876年(明治9)には、宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格しました。1879年(明治12)に、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となったものの、翌年に「讒謗律」に触れ罰金刑を受けます。
 1881年(明治14)に上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぎ、1883年(明治16)には、太政官御用掛となり、新設の文書局に勤めました。1885年(明治18)に文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進したものの、1888年(明治21)には依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊します。
 1889年(明治22)に改組して、新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となり、1890年(明治23)には、東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなりました。1892年(明治25)に隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供、1895年(明治28)には、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦します。
 1896年(明治29)に各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導、翌年には、「新聞紙条例」の緩和に成功しました。1898年(明治31)に創立された東亜同文会の幹事長になり、1900年(明治33)には、近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画します。
 1901年(明治34)に近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得、1902年(明治35)には、『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担しました。1903年(明治36)に米欧旅行に出発、翌年帰国し、その後の静養中に肺結核を発症、1905年(明治38)の夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになります。
 1906年(明治39)に健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡しましたが、引き続き社説欄を担当したものの、1907年(明治40年)9月2日に、神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなりました。

〇陸羯南の主要な著作

・『予算論』(1890年)
・『近時政論考』(1891年)
・『行政時言』(1891年)
・『予算弁妄』(1891年)
・『原政及国際論』(1893年)

☆陸羯南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1857年(安政4年10月14日) 陸奥国弘前(現在の青森県弘前市)において、弘前藩の御茶坊主頭だった父・中田謙斎と母・なほの子として生まれる
・1871年(明治4年)頃 藩校の教官・工藤他山の私塾・思斉堂に学びはじめる
・1873年(明治6年) 旧藩校の後身・東奥義塾へ進む
・1874年(明治7年) 宮城師範学校に転校する
・1876年(明治9年) 宮城師範学校校長の松林義規に逆らい退校処分を受けて上京し、フランス法律学専修の司法省法学校に合格する
・1879年(明治12年) 賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校し、故郷青森に帰り『青森新聞』編集長となる
・1880年(明治13年) 「讒謗律」に触れ罰金刑を受ける
・1881年(明治14年) 上京し、新設の農商務省などのフランス語の翻訳を下請けして食いつなぐ
・1883年(明治16年) 太政官御用掛となり、新設の文書局に勤める
・1884年(明治17年) 依田學海らの媒酌で、今居てつと結婚する
・1885年(明治18年) 文書局が廃止され内閣官報局ができ、その編輯課長に昇進する
・1888年(明治21年) 春に内閣官報局を依願退職し、谷干城,杉浦重剛らの支援を受けて新聞『東京電報』を創刊する
・1889年(明治22年) 新聞『日本』を創刊し、社主兼主筆となる
・1890年(明治23年) 東邦協会の設立に参画して評議員となり、国家経済会設立の発起人ともなる
・1892年(明治25年) 隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供する
・1895年(明治28年) 三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦する
・1896年(明治29年) 各社新聞同盟を結成し、「新聞紙条例」撤廃の運動を主導する
・1897年(明治30年) 「新聞紙条例」の緩和に成功する
・1898年(明治31年) 創立された東亜同文会の幹事長になる
・1900年(明治33年) 近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、国民同盟会に相談役として参画する
・1901年(明治34年) 近衛に従い清国・韓国を視察、近衛から日本新聞への資金援助を得る
・1902年(明治35年) 『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担する
・1903年(明治36年) 米欧旅行に出発する
・1904年(明治37年) 米欧旅行から帰国、その後の静養中に肺結核を発症する
・1905年(明治38年) 夏からは三宅雪嶺が『日本新聞』の社説を書くようになる
・1906年(明治39年) 健康不良と経営悪化から、『日本新聞』を伊藤欽亮に譲渡したが、引き続き社説欄を担当する
・1907年(明治40年)9月2日 神奈川県鎌倉市において、肺結核により、51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1828年(文政11)越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の誕生日(新暦10月10日)詳細
1871年(明治4)社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の誕生日(新暦10月15日)詳細
1913年(大正2)思想家・美術指導者岡倉天心の命日詳細
1945年(昭和20)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する詳細
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される詳細
1990年(平成2)「児童の権利に関する条約」が国際条約として発効する詳細
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