ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 武人

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 今日は、江戸時代中期の1712年(正徳2)に、江戸幕府第6代将軍徳川家宣が亡くなった日ですが、新暦では11月12日となります。
 徳川家宣(とくがわ いえのぶ)は、1662年(寛文2年4月25日)に江戸根津邸にて、徳川綱重の長男(母はお保良の方)として生まれましたが、幼名は虎松といいました。父・綱重が正室を迎える前の子であったので、世間を憚って一時家老新見正信に養われ、新見左近と名乗ります。
 しかし、父・綱重には他に男子が生まれなかったので、1670年(寛文10年)に嗣子となって、甲府藩邸に戻り、1676年(延宝4年)には、元服して綱豊と名のり、従三位左近衛権中将に叙任されました。同年10月25日、17歳の時に、父・綱重が死去し、家督を継承、甲府25万石を継ぎ、翌年には近衛基熙の娘熙子と結婚します。
 1680年(延宝8年)に参議、正三位に昇り、さらに10万石を加増されて35万石を領し、1690年(元禄3)には、権中納言に昇進しました。1704年(宝永元)に第5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名、江戸城西の丸に入り、翌年には、従二位権大納言に叙任されます。
 1709年(宝永6)に第5代将軍綱吉が亡くなると、48歳で第6代将軍となり、正二位内大臣に叙任され、江戸城本丸に移りました。甲府藩以来の側近である側用人間部詮房や儒者新井白石を重用して、前代の悪政の修正として、権勢を振るった柳沢吉保を退け、「生類憐みの令」を廃止、「武家諸法度」を改訂するなど政治の刷新を図ります。
 儒教的徳治主義を政治の理想とし、朝鮮通信使の待遇を改め、儀礼の整備、勘定所機構改革、宿駅制度の改革、通貨改良などに着手、後世に「正徳の治」と称されるようになりました。ところが、在職わずか4年足らずの1712年(正徳2年10月14日)に江戸城内において、数え年51歳で亡くなっています。

〇徳川家宣関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年4月25日) 江戸根津邸にて、徳川綱重の長男(母はお保良の方)として生まれる
・1664年(寛文4年) 生母お保良の方(長昌院)が亡くなる
・1670年(寛文10年) 綱重の嗣子となり、甲府藩邸にもどる
・1676年(延宝4年) 元服して綱豊と名のり、従三位左近衛権中将に叙任される
・1678年(延宝6年10月25日) 17歳の時、父・綱重が死去し、家督を継承、甲府25万石を継ぐ
・1679年(延宝7年) 近衛基熙の娘熙子と結婚する
・1680年(延宝8年) 参議、正三位に昇り、さらに10万石を加増されて35万石を領する
・1690年(元禄3年) 権中納言に昇進する
・1704年(宝永元年12月5日) 第5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名、江戸城西の丸に入る
・1705年(宝永2年) 従二位権大納言に叙任される
・1709年(宝永6年1月10日) 第5代将軍綱吉が亡くなる
・1709年(宝永6年5月1日) 48歳の時、第6代将軍となり、正二位内大臣に叙任される
・1709年(宝永6年11月2日) 江戸城本丸に移る
・1712年(正徳2年10月14日) 江戸において、数え年51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上し、大政奉還される(新暦11月9日)詳細
1873年(明治6)祝祭日を定める太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」が発布される詳細
1986年(昭和61)洋画家荻須高徳の命日詳細
2007年(平成19)埼玉県さいたま市大宮区に鉄道博物館が開館する詳細


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 今日は、南北朝時代の1367年(正平22/貞治6)に、室町幕府第2代将軍足利義詮の亡くなった日ですが、新暦では12月28日となります。
 足利義詮(あしかが よしあきら)は、1330年(元徳2年6月18日)に、室松幕府初代将軍足利尊氏の三男(母は北条久時の娘赤橋登子)として生まれましたが、幼名は千寿王と言いました。1333年(正慶2/元弘3)の元弘の乱で父・尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留されましが、鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加します。
 1335年(建武2)に従五位下に叙され、1335年(建武2)に父・尊氏が建武政府にそむき、南北朝の動乱が始ると足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守りました。1344年(興国5/康永3)に正五位下に昇叙、左馬頭に任官、1347年(正平2/貞和3)に従四位下に昇叙します。
 1349年(正平4/貞和5)に父・尊氏、高師直と叔父足利直義との間に不和が生じて観応の擾乱が始まり、直義が失脚すると講和条件に従って入京し政務を執り、参議に補任され、左近衛中将を兼任しました。1351年(正平6/観応2)に父・尊氏が直義派に対抗するために父と共に南朝に降伏(正平一統)、翌年に南朝軍は約束を破って京都に侵入、1353年(正平8)には、異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われ、神器と3上皇を伴って賀名生に逃げます。
 畿内各地を転戦し、直義方、南朝軍と京都争奪戦を展開、1356年(正平11/延文元)に従三位に昇叙、1358年(正平13/延文3)に父・尊氏が亡くなると征夷大将軍に宣下され、第2第将軍となりました。1361年(正平16/延文6)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降りましたが、1362年(正平17/貞治元)の清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命、翌年には、大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめます。
 1363年(正平18/貞治2)に権大納言に転任、大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、従二位に昇叙しました。1365年(正平20/貞治4)に三条坊門万里小路の新邸に移り、翌年に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命(貞治の変)、1367年(正平22/貞治6)には、正二位に昇叙します。
 しかし、1367年(正平22/貞治6)に幼少の嫡男・義満を細川頼之に託して、同年12月7日に、京都において、病によって数え年38歳で亡くなりました。

〇足利義詮関係略年表(日付は旧暦です)

・1330年(元徳2年6月18日) 室松幕府初代将軍足利尊氏の三男(母は北条久時の娘赤橋登子)として生まれる
・1333年(正慶2/元弘3年) 元弘の乱で父・尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留されるが、鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加する
・1335年(建武2年 4月7日) 従五位下に叙される
・1335年(建武2年) 父・尊氏が建武政府にそむき、南北朝の動乱が始ると足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守る
・1344年(興国5/康永3年3月16日) 正五位下に昇叙する
・1344年(興国5/康永3年3月18日) 左馬頭に任官する
・1347年(正平2/貞和3年12月3日) 従四位下に昇叙する
・1349年(正平4/貞和5年) 父・尊氏、高師直と叔父足利直義との間に不和が生じる
・1350年(正平5/観応元年) 観応の擾乱が始まり、執政の叔父足利直義が失脚すると講和条件に従って入京し政務を執る 
・1350年(正平5/観応元年8月22日) 参議に補任され、左近衛中将を兼任する
・1351年(正平6/観応2年8月) 父・尊氏が直義派に対抗するために父と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1353年(正平8年6月) 異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10年1月) 再び、一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 従三位に昇叙。参議左近衛中将如元
・1358年(正平13/延文3年4月) 父・尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3年12月18日) 征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2第将軍となる 
・1359年(正平14/延文4年2月4日) 武蔵守を兼任する
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平22/貞治6年) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託する
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 京都において、数え年38歳で亡くなる 
・1367年(正平22/貞治6年12月20日) 従一位左大臣が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

721年(養老5)第43代の天皇とされる元明天皇の命日(新暦12月29日)詳細
1944年(昭和19)昭和東南海地震(M7.9)が起き、死者1,223人を出す詳細
1948年(昭和23)警視庁が昭和電工事件で、芦田均前首相を逮捕する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1264年(文永元)に、武将・鎌倉幕府第6代執権北条長時の亡くなった日ですが、新暦では9月12日となります。
 北条長時(ほうじょう ながとき)は、1230年(寛喜2年)に、六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任した父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれましたが、1235年(嘉禎元)に、異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされました。1245年(寛元3)に従五位下に叙し、左近衛将監に任官、1247年(宝治元)には、北条時盛の娘と結婚します。
 1247年(宝治元)に宝治合戦が起きると、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐するため鎌倉に下向、そのあと幕府の六波羅探題北方となり、宗尊親王の将軍就任にも活躍しました。1256年(建長8)に六波羅探題を退き、鎌倉へ下向して、引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となり、武蔵守に転任します。
 同年に執権北条時頼が出家、あとをつぐ時宗が幼少だったため第6代執権に就任しました。1258年(正嘉2)に従五位上に昇叙し、1260年(正嘉4年)には、赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列します。
 1261年(弘長元)に父・北条重時が亡くなり、病魔にも侵されるようになって、翌年に奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向したとき、母・妻と共に受戒しました。1264年(文永元)に病により執権職を辞任して出家しましたが、同年8月21日に、相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなっています。
 尚、歌人としても知られ、勅撰集に12首の歌が採録されました。

〇北条長時関係略年表(日付は旧暦です)

・1230年(寛喜2年) 父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれる
・1235年(嘉禎元年10月) 異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされる
・1245年(寛元3年3月29日) 従五位下に叙し、左近衛将監に任官する
・1247年(宝治元年春) 北条時盛の娘と結婚する
・1247年(宝治元年6月) 宝治合戦が起きる 
・1247年(宝治元年7月18日) 父・重時のあと幕府の六波羅探題北方となる
・1256年(建長8年3月29日、3月20日) 六波羅探題を退任する
・1256年(建長8年6月) 引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となる
・1256年(建長8年7月20日) 武蔵守に転任する
・1256年(建長8年11月22日) 鎌倉幕府の第6代執権執権と就る
・1258年(正嘉2年12月14日) 従五位上に昇叙、武蔵守如元
・1260年(正嘉4年) 赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列する
・1261年(弘長元年11月3日) 父・北条重時が亡くなる
・1262年(弘長2年) 奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向のとき、母・妻と受戒する
・1264年(文永元年7月3日) 病により執権職を辞任して出家する
・1264年(文永元年8月21日) 相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細


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 今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、江戸幕府第12代将軍徳川家慶が亡くなった日ですが、新暦では7月27日となります。
 徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、1793年(寛政5年5月14日)に、江戸城内において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれましたが、幼名は敏治郎と言いました。兄竹千代が夭折したので、将軍継嗣となり、1797年(寛政9)に従二位権大納言に叙任され、元服して家慶を名乗ります。
 1816年(文化13)に右近衛大将を兼任し、1822年(文政5)には、正二位内大臣に昇叙転任しました。1824年(文政7)に四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれ、1827年(文政10)には、従一位に昇叙します。
 1837年(天保8)に、45歳で父・家斉から譲られ、左大臣に転任して、第12代将軍となったものの、父が大御所として実権を握り続けました。その中で、1839年(天保10)に渡辺崋山、高野長英らを処罰する事件(蛮社の獄)が起きます。
 1841年(天保12)に、父・家斉が亡くなると、家斉側近を排し、水野忠邦を重用して天保の改革を断行させ、内憂外患の危機打開を図ろうとしました。「株仲間解散令」、遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」、「人返しの法」、江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」、「無利子年賦返済令」などを立て続けに発令します。
 しかし、急激にすぎて多くの反発を招き、2年余りで挫折、忠邦は失脚、その後、阿部正弘を老中首座に起用し、海防問題の難局に対処しました。しかし、1853年(嘉永6)にアメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、難局に直面する中、同年6月22日に、江戸城内において、数え年61歳で亡くなっています。

〇徳川家慶関係略年表(日付は旧暦です)

・1793年(寛政5年5月14日) 江戸城において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれる
・1793年(寛政5年) 兄竹千代が夭折する
・1797年(寛政9年3月1日) 従二位権大納言に叙任、元服して家慶を名乗る
・1816年(文化13年4月2日) 右近衛大将を兼任する
・1822年(文政5年3月5日) 正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し
・1824年(文政7年4月8日) 四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれる
・1827年(文政10年3月18日) 従一位に昇叙し、内大臣右近衛大将元の如し
・1837年(天保8年9月2日) 左大臣に転任し、征夷大将軍・源氏長者宣下、右近衛大将は同日、世子徳川家定が兼任する
・1839年(天保10年) 渡辺崋山、高野長英らを処罰する(蛮社の獄)
・1841年(天保12年閏1月7日) 父・家斉が亡くなる
・1841年(天保12年5月15日) 享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、天保の改革が始まる
・1841年(天保12年12月13日) 最初の「株仲間解散令」が出される
・1842年(天保13年) 遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」を発令する
・1843年(天保14年) 「人返しの法」が制定される
・1843年(天保14年) 江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」を発令する
・1843年(天保14年) 「無利子年賦返済令」を発令する
・1853年(嘉永6年6月3日) アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる(黒船来航)
・1853年(嘉永6年8月21日) 正一位太政大臣を贈られる
・1853年(嘉永6年6月22日) 江戸城において、数え年年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細


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 今日は、江戸時代中期の1761年(宝暦11)に、江戸幕府第9代将軍徳川家重の亡くなった日ですが、新暦では7月13日となります。
 徳川家重(とくがわ いえしげ)は、1711年(正徳元年12月21日)に、江戸赤坂の紀州藩邸で、紀州徳川家第5代藩主徳川吉宗(のちの第8代将軍)の長男(母は側室・大久保氏)として生まれましたが、幼名は長福丸と言いました。1716年(享保元年8月13日)に、父・吉宗が江戸幕府代8代将軍となり、江戸城へ入ります。
 1724年(享保9)に将軍後継者となり、1725年(享保10)には、従二位・権大納言に叙任され、元服して家重と名乗りました。1737年(元文2)に長男・竹千代(のちの第10代将軍家治)が生まれ、1745年(延享2)には、次男・萬二郎(のちの清水徳川家の初代当主)が生まれます。
 生来虚弱のうえ、さらに健康を害して、言語も不明瞭となりましたが、父・吉宗の隠居により、同年11月2日に、正二位・内大臣に昇叙転任し、江戸幕府第9代将軍となりました。しかし、父が大御所として実権を握り続けます。
 1751年(寛延4)に、父・吉宗が亡くなると、独自の政策として、1753年(宝暦3)に薩摩藩に木曽川改修を命じ(宝暦治水)、翌年には「宝暦の勝手造り令」を出し、酒造統制の規制を緩和するなどしました。1755年(宝暦5)の凶作がきっかけで、一揆が続発、翌年に大岡忠光を側用人に登用して、重用したものの、1758年(宝暦8)には宝暦事件が起きています。
 同年に、次男・重好に清水門内に邸地を与え(のちの清水徳川家のはじまり)、徳川姓を許し、御三卿体制を整えましたが、1760年(宝暦10)には将軍を辞し、長男(家治)が第10代将軍となり、大御所と称しました。ところが、翌年6月12日には、江戸城内において、数え年51歳で亡くなり、正一位・太政大臣が追贈されています。

〇徳川家重関係略年表(日付は旧暦です)

・1711年(正徳元年12月21日) 江戸赤坂の紀州藩邸で、紀州徳川家第5代藩主徳川吉宗(のちの第8代将軍)の長男として生まれる
・1716年(享保元年8月13日) 父・吉宗が江戸幕府代8代将軍となる
・1724年(享保9年11月15日) 将軍後継者となる
・1725年(享保10年4月9日) 従二位・権大納言に叙任。元服して家重と名乗る
・1731年(享保16年12月) 比宮増子と結婚する
・1737年(元文2年5月22日) 長男・竹千代(のちの第10代将軍家治)が生まれる
・1741年(寛保元年8月7日) 右近衛大将を兼任する
・1745年(延享2年2月15日) 次男・萬二郎(のちの清水徳川家の初代当主)が生まれる
・1745年(延享2年11月2日) 正二位・内大臣に昇叙転任し、江戸幕府第9代将軍となる
・1751年(寛延4年6月20日) 父・徳川吉宗が亡くなる
・1753年(宝暦3年) 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
・1754年(宝暦4年) 「宝暦の勝手造り令」を出し、酒造統制の規制を緩和する
・1755年(宝暦5年) 凶作がきっかけで、一揆が続発する
・1756年(宝暦6年) 大岡忠光を側用人に登用する
・1758年(宝暦8年) 宝暦事件が起こる
・1758年(宝暦8年) 次男・重好に清水門内に邸地を与える(のちの清水徳川家のはじまり)
・1760年(宝暦10年2月4日)  右大臣に転任する
・1760年(宝暦10年4月1日)  征夷大将軍を辞し、長男(家治)に家督を譲る
・1760年(宝暦10年4月26日)  側用人大岡忠光が亡くなる
・1760年(宝暦10年9月2日)  長男(家治)が第10代将軍の宣下を受ける
・1761年(宝暦11年6月12日) 江戸城において、数え年51歳で亡くなる
・1761年(宝暦11年7月24日) 贈正一位・太政大臣となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日)詳細
1910年(明治41)本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船宇高連絡船)が運航開始する詳細
1965年(昭和40)家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される詳細
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