ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、天文学者・初代東京天文台長寺尾寿が亡くなった日です。
 寺尾寿(てらお ひさし)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月25日)に、福岡藩士寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現在の福岡県福岡市博多区中洲)に生まれました。藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)に学んで学才を示し、1873年(明治6)に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しフランス語を修めます。
 1874年(明治7)に開成学校(東京大学の前身)へ入学し物理学を専攻、フランス人お雇い外国人エミール・レピシエから天文学を学び、1878年(明治11)には、東京大学理学部物理学科を卒業しました。1879年(明治12)に官費留学生としてフランスに留学し、モンスウリ天文台に入り星学修業、パリ天文台に入り実地星学修業し、1882年(明治15)には、仏国文部卿より「リサンシェ・エス・シアンス・アマティク」の学位受領(パリ大学)、金星日面経過観察のため、仏国政府より「マルチニク島」へ観察委員派遣につき随行します。
 1883年(明治16)に米国を経て帰国、東京大学理学部講師となり、東京物理学校初代校長に就任、1884年(明治17)には、東京大学理学部星学科教授に昇任しました。1888年(明治21)に東京大学附属東京天文台(現在の国立天文台)の初代台長に就任、理学博士号を授与され、1889年(明治22)には、仏国パリ府において万国測地学会議開設に付、委員として派遣されます。
 1896年(明治29)に東京物理学校を辞め、勲、1897年(明治30)には、日本で初となる海外遠征でインドにおける日食観測を行ない、コロナの撮影に成功しました。1903年(明治36)に東京学士会院(帝国学士院の前身)会員となり、1908年(明治41)には、日本天文学会を創立し、初代会長に就任します。
 1915年(大正4)に東京帝国大学理科大学教授を退官、1919年(大正8)に日本天文学会長、東京天文台台長を退き、1920年(大正9)には、東京帝国大学名誉教授の称号を授与されました。1922年(大正11)には、フランス共和国政府より、「コンマンドール・メリット・アグリコル」勲章を受けます。
 引退後は、静岡県の伊東にある別荘において暮らしていましたが、1923年(大正12)8月6日に、67歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されました。

〇寺尾寿関係略年表

・1855年(安政2年9月25日) 福岡藩士寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現在の福岡県福岡市博多区中洲)に生まれる
・1873年(明治6) 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しフランス語を修める
・1874年(明治7) 開成学校(東京大学の前身)へ入学し物理学を専攻する
・1878年(明治11) 東京大学理学部物理学科を卒業する
・1879年(明治12) 官費留学生としてフランスに留学し、モンスウリ天文台に入り星学修業、パリ天文台に入り実地星学修業をする
・1882年(明治15) 仏国文部卿より「リサンシェ・エス・シアンス・アマティク」の学位受領(パリ大学)、金星日面経過観察のため、仏国政府より「マルチニク島」へ観察委員派遣につき随行する
・1883年(明治16) 米国を経て帰朝、東京大学理学部講師となり、東京物理学校初代校長に就任、渡仏前の黒田清輝に仏語を教授する
・1884年(明治17) 東京大学理学部星学科教授に就任する
・1886年(明治19) 従六位に叙される
・1888年(明治21) 東京大学附属東京天文台(現在の国立天文台)の初代台長に就任、理学博士号を授与される
・1889年(明治22) 仏国パリ府において万国測地学会議開設に付、委員として派遣される
・1892年(明治25) 正六位に叙される
・1893年(明治26) 東京大学理学部星学科が二講座制になると第一講座を担当する
・1896年(明治29) 東京物理学校を辞め、勲六等瑞宝章を受章する
・1897年(明治30) 日本で初となる海外遠征でインドにおける日食観測を行ない、コロナの撮影に成功し、正五位に叙される
・1900年(明治33) 勲四等瑞宝章を受章する
・1901年(明治34) 従四位に叙される
・1902年(明治35) 勲三等瑞宝章を受章する
・1903年(明治36) 東京学士会院(帝国学士院の前身)会員となる
・1908年(明治41) 日本天文学会を創立し、初代会長に就任する
・1909年(明治42) 勲二等瑞宝章を受章する
・1911年(明治44) 従三位に叙される
・1915年(大正4) 東京帝国大学理科大学教授を退官する
・1919年(大正8) 日本天文学会長、東京天文台台長を退く
・1920年(大正9) 東京帝国大学名誉教授の称号を授与される
・1922年(大正11) フランス共和国政府より、「コンマンドール・メリット・アグリコル」勲章を受ける
・1923年(大正12)8月6日 67歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1359年(正平14/延文4)筑後川の戦いで南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利する(新暦8月29日)詳細
1896年(明治29)国際法学者・第3代最高裁判所長官横田喜三郎の誕生日詳細
1926年(大正15)東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍の中小型58機による都城大空襲が行われ、56人が亡くなる詳細
1949年(昭和24)「広島平和記念都市建設法」が公布・施行される詳細
1955年(昭和30)広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される詳細
1981年(昭和56)電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1801年(享和元)に、折衷学派の儒者細井平洲が亡くなった日ですが、新暦では8月8日となります。
 細井平洲(ほそい へいしゅう)は、江戸時代中期の1728年(享保13年6月28日)に、尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれましたが、本姓は紀。名は徳民と言いました。幼年時代から学問に励み、1735年(享保20)に加家村観音寺の義観和尚に学び、1737年(元文2)に名古屋に出て学び、1743年(寛保3)には、京都に遊学しています。
 1744年(延享元)に名古屋へ帰り、折衷学派の中西淡淵に入門し、1745年(延享2)には、長崎へ遊学し、中国語を学びましたが、母の病死にあって帰郷しました。1751年(宝暦元)に江戸へ出て、私塾を開き、1753年(宝暦3)には、伊予西条藩主の師となり、私塾の名を嚶鳴館とします。
 1764年(明和元)に米沢藩の次期藩主・上杉治憲(1767年に第9代藩主)の師となり、1770年(明和7)に高山彦九郎が、平洲に入門、1771年(明和8)には、米沢へ行って講義をし、藩政改革や文教に与り、1776年(安永5)の米沢藩校興譲館の創設に尽力しました。1781年(天明元)に尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、1783年(天明3)には、尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をし、庶民教化にも努めています。
 1786年(天明6)に人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立されましたが、1792年(寛政4)には、明倫堂の督学を辞任しました。1796年(寛政8)には、米沢に行き、上杉治憲と普門院で久し振りの歓談をしたものの、1801年(享和元年6月29日)に、江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬されています。

〇細井平洲の主要な著作

・『詩経古伝』10巻(1759年)
・『嚶鳴館詩集』(1764年)
・『つらつらふみ』(1802年)
・『嚶鳴館遺稿』(1809年)
・『嚶鳴館遺草』(1835年)

☆細井平洲関係略年表(日付は旧暦です)

・1728年(享保13年6月28日) 尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれる
・1735年(享保20年) 加家村観音寺の義観和尚に学ぶ
・1737年(元文2年) 名古屋に出て学ぶ
・1743年(寛保3年) 京都に遊学する
・1744年(延享元年) 名古屋へ帰り、中西淡淵に入門する
・1745年(延享2年) 長崎へ遊学し、中国語を学ぶ
・1751年(宝暦元年) 江戸へ出て、私塾を開く
・1753年(宝暦3年) 伊予西条藩主の師となり、私塾を嚶鳴館とする
・1764年(明和元年) 米沢藩の次期藩主・上杉治憲の師となる
・1767年(明和4年) 上杉治憲が第9代藩主となる
・1770年(明和7年) 高山彦九郎、平洲に入門する
・1771年(明和8年) 米沢へ行き、講義をする
・1776年(安永5年) 米沢藩校興譲館の創設に尽力する
・1781年(天明元年) 尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、八柱神社(東海市荒尾町・市指定文化財)に、灯籠を寄進する
・1783年(天明3年) 尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をする
・1786年(天明6年) 人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立される
・1792年(寛政4年) 明倫堂の督学を辞任する
・1796年(寛政8年) 米沢に行き、上杉治憲が米沢郊外の関根まで出迎え、普門院で久し振りの歓談をする
・1801年(享和元年6月29日) 江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬される
・1807年(文化4年) 神明社境内に、「平洲先生旧里碑」を建立する
・1809年(文化6年) 上杉治憲が「嚶鳴館遺稿」を刊行する
・1835年(天保6年) 「嚶鳴館遺草」が刊行される
・1913年(大正2年) 従四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1929年(昭和4)評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の命日詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、東洋史学者山本達郎が生まれた日です。
 山本達郎(やまもと たつろう)は、東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれましたが、日本銀行総裁などを歴任した祖父の山本達雄の養子となり改姓しました。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業し、翌年には、東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受けます。
 1942年(昭和17)に、東京帝国大学文学部助教授となり、1949年(昭和24)には、文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受けました。1951年(昭和26)に東京大学より文学博士の学位を取得、翌年には、「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)から東洋文庫の評議員・理事を歴任し、近代中国研究委員会(現在の東洋文庫 近代中国研究班)を発足させました。1966年(昭和41)に東京大学文学部長となり、翌年には、学士院会員となっています。
 1971年(昭和46)に東京大学を定年退官し、翌年には、国際基督教大学教授となり、イェール大学客員教授、コーネル大学客員教授も務めました。1975年(昭和50)に国際哲学人文科学協議会会長となり、1986年(昭和61)に文化功労者、1998年(平成10)には、文化勲章を受章しています。
 東南アジア史研究の先駆者として知られ、国際学術交流にも努めましたが、2001年(平成13)1月24日に、東京において、心不全により90歳で亡くなりました。

〇山本達郎の主要な著作

・『印度支那諸民族に関する民族学的研究の現状』帝国学士院(1942年)
・『世界史概観』東京大学文学部内史学会編:村川堅太郎・林健太郎共著、山川出版社(1949年)
・『安南史研究』山川出版社(1950年) 
・『世界史』 村川堅太郎・江上波夫・林健太郎共著、山川出版社(1952年)
・『歴史の見方』三省堂〈社会科歴史文庫〉(1957年)

☆山本達郎関係略年表

・1910年(明治43)6月16日 東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業する
・1934年(昭和9) 東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受ける
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1949年(昭和24) 東京大学文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受ける
・1951年(昭和26) 東京大学より文学博士の学位を取得する
・1952年(昭和27) 「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 東洋文庫の評議員となる
・1966年(昭和41) 東京大学文学部長となる
・1967年(昭和42) 学士院会員となる
・1971年(昭和46) 東京大学を定年退官する
・1972年(昭和47) 国際基督教大学教授となる
・1975年(昭和50) 国際哲学人文科学協議会会長となる
・1986年(昭和61) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)1月24日 東京において、心不全により90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1699年(元禄12)商人・海運と治水の功労者河村瑞賢の命日(新暦7月12日)詳細
1884年(明治17)俳人荻原井泉水の誕生日詳細
1939年(昭和14)国民精神総動員委員会がネオン抑制、パーマネント廃止等の生活刷新案を発表詳細
1943年(昭和18)「工場法戦時特例」公布・施行、「工場就業時間制限令」廃止で、労働時間制限撤廃等を許可する詳細
1961年(昭和36)「スポーツ振興法」が公布(施行は同年9月15日)される詳細
1964年(昭和39)新潟地震(M7.5)が起こり、死者26人、負傷者447人を出す詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、地球物理学者・航空学者・貴族院議員田中舘愛橘が亡くなった日です。
 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、江戸時代後期の1856年(安政3年9月18日)に、陸奥国二戸郡福岡村(現在の岩手県二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれました。1862年(文久2)の6歳の時、母・喜勢を亡くし、1865年(慶応元)に下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学びます。
 1870年(明治3)に盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修め、1872年(明治5)には、一家で東京へ移住し、慶應義塾英語学校に入学しました。1876年(明治9)に東京開成学校へ入学、1878年(明治11)に東京大学理学部本科へ入学し、1882年(明治15)に卒業後、同校の準助教授となります。
 1888年(明治21)にイギリスのグラスゴー大学に留学、1890年(明治23)にドイツのベルリン大学へ転学し、1891年(明治24)に帰国後、帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、同年10月28日に発生した濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見しました。1894年(明治27)に万国測地協会委員、1902年(明治35)に勲四等旭日小綬章受章、1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章、1907年(明治40)には、万国度量衡会議常任委員となります。
 1910年(明治43)に航空事業視察のためヨーロッパへ派遣され、所沢飛行場建設に関わり、1914年(大正3)には、文部省測地学委員会委員長となりました。1916年(大正5)に勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出し、翌年に名誉教授となり、万国度量衡会議に出席します。
 1918年(大正7)に国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となり、1919年(大正8)には、地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となりました。1921年(大正10)に小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となり、1925年(大正14)には、文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となります。
 1928年(昭和3)に航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、1930年(昭和5)には、文部省臨時ローマ字調査委員会委員となりました。1932年(昭和7)に貴族院議員に再選され、1933年(昭和8)の御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、1939年(昭和14)には、中央航空研究所施設委員会委員となり、貴族院議員に3選されます。
 1940年(昭和15)に帝国学士院第二部部長となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞、1945年(昭和20)には、空襲の激化により、故郷の福岡町に疎開しました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)、1950年(昭和25)に日本物理学会名誉会員、1951年(昭和26)に福岡町名誉町民となったものの、1952年(昭和27年)5月21日に、東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1999年(平成11)には、故郷の岩手県二戸市に「田中舘愛橘記念科学館」がオープンしました。

〇田中舘愛橘の主要な著作

・『電気ニ就テノ演説』(1899年)
・『航空機講話』(1915年)
・『羅馬字意見及び発音考』(1926年)
・『メートル法の歴史と現在の問題』(1934年)
・『ローマ字綴り方の外交及び国際関係の事項概要』(1936年)
・随筆・論文集『葛の根 田中館愛橘論文抜集』(1938年)
・『時は移る』(1948年)
・『田中館愛橘遺墨集』(1992年)
・『田中館愛橘博士歌集 地球を翔けた心の歌』(1997年)
・『献詠和歌集 田中舘愛橘博士墓前祭 昭和27年~平成18年』(2007年)

☆田中舘愛橘関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1856年(安政3年9月18日) 陸奥国二戸郡福岡村(現在の二戸市福岡)において、南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 母キセから文字の手習い、伯父小保内定身より和漢の書を学ぶ
・1862年(文久2年) 母・喜勢が病没する
・1865年(慶応元年) 下斗米軍七の武芸「実用流」に入門する
・1866年(慶応2年) 福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学ぶ
・1870年(明治3年) 盛岡藩校修文所入学、和漢の学問を修める  
・1872年(明治5年) 一家で東京へ移住、慶應義塾英語学校に入学する
・1876年(明治9年) 東京開成学校入学する
・1878年(明治11年) 東京大学理学部本科入学する
・1880年(明治13年) メンデンホールの指導の下で、東京や富士山の重力測定をする
・1882年(明治15年) 東京大学を卒業し、準助教授となる  
・1883年(明治16年) 東京大学助教授となる
・1888年(明治21年) イギリスのグラスゴー大学に留学する
・1890年(明治23年) ドイツのベルリン大学へ転学する
・1891年(明治24年) 帰国し帝国大学理科大学教授(理学博士)となり、濃尾大地震の調査で根尾谷大断層を発見する
・1893年(明治26年) 本宿キヨ子と結婚する  
・1894年(明治27年) 長女美稲誕生、産後の病により夫人が亡くなり、万国測地協会委員となる
・1898年(明治31年) 万国測地学協会総会に出席する
・1902年(明治35年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争、陸軍の気球の研究に従事する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となり、勲二等旭日重光章を受章  
・1907年(明治40年) 万国度量衡会議常任委員となる
・1909年(明治42年) 臨時軍用気球研究会委員となる
・1910年(明治43年) 航空事業視察のためヨーロッパへ派遣、所沢飛行場建設に関わる
・1914年(大正3年) 文部省測地学委員会委員長となる
・1915年(大正4年) 貴族院有志に航空機の発達及び研究状況を講演『航空機講話』を発行する
・1916年(大正5年) 勲一等瑞宝章を受章、帝国大学教授在職25年祝賀会の日に辞表を提出する  
・1917年(大正6年) 東京帝国大学名誉教授となり、万国度量衡会議に出席する
・1918年(大正7年) 国際学術研究会議のため欧州各国へ出張、東京帝国大学航空研究所を創立し、顧問となる
・1919年(大正8年) 地磁気・空中電気国際会議に出席し会長となる
・1920年(大正9年) 東京帝国大学航空研究所嘱託、陸軍省航空機調査研究嘱託、外務省より航空条約事務嘱託、国際連盟協会会議、万国度量衡委員会議、万国学術研究会議出席する
・1921年(大正10年) 小石川区雑司ヶ谷町へ転居、日本ローマ字会を創立、航空評議会評議員となる
・1923年(大正12年) 万国度量衡常置委員会議及び物理学会に出席する
・1924年(大正13年) 測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1925年(大正14年) 文部省学術研究会議副議長、貴族院議員となる
・1926年(大正15年) 故郷の福岡町において古希の祝賀会、震災予防評議会評議員となる、太平洋学術会議副議長となる
・1927年(昭和2年) 国際航空委員会、測地学・地球物理学国際会議、度量衡会議総会へ出席する
・1928年(昭和3年) 航空事業に対しフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章する  
・1929年(昭和4年) 万国度量衡会議、国際航空連盟会議、国際気象学会へ出席する
・1930年(昭和5年) 文部省臨時ローマ字調査委員会委員となる  
・1931年(昭和6年) 万国度量衡常置委員を辞し同名誉委員となる、言語学国際会議へ出席する
・1932年(昭和7年) 貴族院議員に再選される
・1933年(昭和8年) 御講書始めに「航空発達史の概要」を御進講、測地学・地球物理学国際会議へ出席する
・1935年(昭和10年) 天文学会、国際音声学会、議員会議、気象学会、国際航空連盟会議へ出席する
・1938年(昭和13年) 随筆・論文集『葛の根』を発刊、科学振興調査会委員、航空機技術委員会委員となる  
・1939年(昭和14年) 中央航空研究所施設委員会委員となる、貴族院議員に3選される
・1940年(昭和15年) 帝国学士院第二部部長となる
・1944年(昭和19年) 文化勲章を受章し、朝日文化賞を受賞する  
・1945年(昭和20年) 故郷の福岡町に疎開する  
・1948年(昭和23年) 自著『時は移る』を発行(ローマ字、漢字かな書き併記)する
・1950年(昭和25年) 日本物理学会名誉会員となる
・1951年(昭和26年) 福岡町名誉町民となる  
・1952年(昭和27年)5月21日 東京の経堂の自宅において、95歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1999年(平成11年) 故郷の二戸市に田中舘愛橘記念科学館がオープンする  
・2002年(平成14年) 没後50年記念事業が挙行される
・2015年(平成27年) 二戸市名誉市民となる 
・2016年(平成28年) 田中舘愛橘像が落成し、二戸市のシンボルとなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、法医学者・血清学者・人類遺伝学者古畑種基が亡くなった日です。
 古畑種基(ふるはた たねもと)は、明治時代後期の1891年(明治24)6月15日に、三重県南牟婁郡相野谷村(現在の紀宝町)平尾井において、地元の開業医だった父・古畑虎之助、母・志うの次男として生まれました。旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1912年(明治45)に、東京帝国大学医科大学へ入学します。
 1916年(大正5)に卒業後、同校の医学部助手となり、1921年(大正10)に欧米留学に出発、生物学的実験術式を研修し、法医学組織学を専修し、1923年(大正12)には、医学博士となりました。1924年(大正13)に欧米留学から帰国し、金沢医科大学教授兼同大学附属医学専門部教授となり、1934年(昭和9)には、Q式血液型を発見します。
 1936年(昭和11)に東京帝国大学医学部法医学教室主任教授(~1952年)となり、1943年(昭和18)に帝国学士院恩賜賞を受賞、1947年(昭和22)には、日本学士院会員に選出されました。1949年(昭和24)の下山事件で、下山国鉄総裁の死因について(死後轢断、他殺説)を主張して捜査当局と対立、1950年(昭和25)には、中尊寺の金色堂を修復するにあたり、藤原四代の遺体を調査します。
 1952年(昭和27)に東京医科歯科大学教授(~1960年)となり、1954年(昭和29)には、第1回世界人口会議(於:ローマ)に日本代表として出席、「血液型因子の人口に及ぼす遺伝的影響」について発表しました。1956年(昭和31)に法医学研究の業績が認められ、文化勲章を受章、1960年(昭和35)に東京医科歯科大学教授を辞め、科学警察研究所所長となり、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章を受章しています。
 1971年(昭和46)に脳血栓で倒れ、療養に入りましたが、1975年(昭和50)5月6日に、東京において、83歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇古畑種基の主要な著作

・『血液型と親子鑑定・指紋学 近代犯罪科学全集 第12篇』(1930年)
・『血液型と其の決定法 臨牀医学講座』(1936年)
・『簡明法医学』(1937年)
・『犯罪と法医学』(1938年)
・『法医学』(1939年)
・『法医学と犯罪捜査』(1939年) 
・『血液型』(1945年)
・『血液型学』(1947年)
・『犯罪と法医学』(1948年)
・『民族と血液型』(1948年)
・『法医学雑記』(1949年)
・『犯罪の科学』(1950年)
・『血と指紋とミイラの話』(1952年)
・『法医学入門』(1953年)
・『法医学の話』(1958年)
・『今だから話そう 法医学秘話』(1959年)
・『法医学ノート』(1959年)
・『血液型の話』(1962年)
・『一本の毛は語る 科学捜査物語』(1963年)
・『遺伝と疾病』(1964年)
・『血液型を考える 法医学のはなし』(1972年)

☆古畑種基関係略年表

・1891年(明治24)6月15日 三重県南牟婁郡相野谷村(現在の紀宝町)平尾井において、地元の開業医だった父・古畑虎之助、母・志うの次男として生まれる
・1897年(明治30) 同町平尾井の明成尋常小学校に入学する
・1900年(明治33) 和歌山市内に転居し、和歌山市広瀬小学校へ転校する
・1904年(明治37) 旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)へ入学する
・1909年(明治42) 旧制和歌山県立和歌山中学校(現在の県立桐蔭高等学校)を卒業し、旧制第三高等学校へ入学する
・1912年(明治45) 旧制第三高等学校を卒業し、東京帝国大学医科大学へ入学する
・1916年(大正5) 東京帝国大学医科大学を卒業し、同校の医学部助手となる
・1921年(大正10) 欧米留学に出発する
・1923年(大正12) 医学博士となる
・1924年(大正13) 欧米留学から帰国し、金沢医科大学教授兼同大学附属医学専門部教授となる
・1934年(昭和9) Q式血液型を発見する
・1936年(昭和11) 東京帝国大学医学部法医学教室主任教授(~1952年)となる
・1943年(昭和18) 帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1947年(昭和22) 日本学士院会員に選出される
・1949年(昭和24) 下山事件で、下山国鉄総裁の死因について(死後轢断、他殺説)を主張して捜査当局と対立する
・1950年(昭和25) 中尊寺の金色堂を修復するにあたり、藤原四代の遺体を調査する
・1952年(昭和27) 東京医科歯科大学教授(~1960年)となる
・1954年(昭和29) 第1回世界人口会議(於:ローマ)に日本代表として出席、「血液型因子の人口に及ぼす遺伝的影響」について発表する
・1956年(昭和31) 法医学研究の業績が認められ、文化勲章を受章する
・1960年(昭和35) 東京医科歯科大学教授を辞め、科学警察研究所所長となる
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を受章する
・1971年(昭和46) 脳血栓で倒れ、療養に入る
・1975年(昭和50)5月6日 東京において、83歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈される

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