ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、昭和時代の1968年(昭和43)に、化学者で日本で2番めの女性理学博士だった黒田チカが亡くなった日です。
 黒田チカ(くろだ ちか)は、明治時代前期の1884年(明治17)3月24日に、佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれました。1901年(明治34)に、佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就きましたが、翌年には、上京して女子高等師範学校理科へ進みます。
 1906年(明治39)に同校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得ましたが、翌年には、女子高等師範学校の研究科に入学し、1909年(明治39)に研究科を修了し、同校の助教授となりました。1913年(大正2)に、女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究します。
 1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得て、翌年に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となりました。1918年(大正7)に天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表、1921年(大正10)には、英国オックスフォード大学へ国費留学します。
 1923年(大正12)に2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始めました。1929年(昭和4)に「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与され、1936年(昭和11)には、第1回真島賞 (日本化学会) を受賞します。
 大平洋戦争後の1949年(昭和24)に新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任しました。1952年(昭和27)にタマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となり、翌年(昭和28)には、特許を得てケルチンCとして市販されます。
 1958年(昭和33)に日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任し、1959年(昭和34)には、紫綬褒章を受章しました。1965年(昭和40)には、勲三等宝冠章を受章したものの、1968年(昭和43)11月8日に、福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙されています。
 尚、1999年(平成11)には、東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設されました。

〇黒田チカ関係略年表

・1884年(明治17)3月24日 佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれる
・1901年(明治34) 佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就く
・1902年(明治35) 上京して女子高等師範学校理科へ進む
・1906年(明治39) 女子高等師範学校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得る
・1907年(明治40) 女子高等師範学校の研究科に入学する
・1909年(明治39) 女子高等師範学校研究科を修了し、東京女子高等師範学校の助教授となる
・1913年(大正2) 女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究する
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得る
・1917年(大正6) 東京駒込に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となる
・1918年(大正7) 天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表する
・1921年(大正10) 英国オックスフォード大学へ国費留学する
・1923年(大正12) 2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める
・1929年(昭和4) 「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与される
・1936年(昭和11) 第1回真島賞 (日本化学会) を受賞する
・1949年(昭和24) 新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任する
・1952年(昭和27) タマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となる
・1953年(昭和28) 特許を得てケルチンCとして市販される
・1958年(昭和33) 日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任する
・1959年(昭和34) 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39) 黒田を主人公とするNHKの子供向けドラマは「たまねぎおばさん」が放送される
・1965年(昭和40) 勲三等宝冠章を受章する
・1968年(昭和43)11月8日 福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙される
・1999年(平成11) 東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設される
・2013年(平成25) 日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日)詳細
1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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shinoharamiyohei01
 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、経済学者篠原三代平が生まれた日です。
 篠原 三代平(しのはら みよへい)は、大正時代の1919年(大正8)10月26日に、富山県高岡市末広町において、雑貨商の家の長男として生まれました。高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を経て、1940年(昭和15)に高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学、一般均衡論を唱えた中山伊知郎に師事します。
 1941年(昭和16)に学徒出陣し、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍し、翌年に東京商科大学(現在の一橋大学)は繰り上げ卒業措置が取られ、東京商科大学特別研究生の身分となりました。1945年(昭和20)に大蔵省財政経済実勢研究室研究員となり、1950年(昭和25)には、一橋大学経済研究所の助教授に就任します。
 早くから経済の実証的分析と景気循環論が評価され、日本経済の成長と景気循環の研究ですぐれた業績をあげ、1961年(昭和36)には、『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞しました。1962年(昭和37)に一橋大学経済研究所教授となり、日本経済学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会会長などの要職を歴任します。
 1970年(昭和45)に経済企画庁経済研究所所長となり、1973年(昭和48)に 成蹊大学教授、1980年(昭和55)には、(財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となりました。1984年(昭和59)に紫綬褒章を受章、1985年(昭和60)に東京国際大学教授、景気循環学会会長となり、1988年(昭和63)には、『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞しています。
 1989年(平成元)に『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となりました。1998年(平成10)に文化功労者となり、2006年(平成18)に文化勲章を受章、2007年(平成19)には、武蔵野市名誉市民となっています。しかし、2012年(平成24)12月7日に、東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇篠原三代平の主要な著作

・『所得分配と賃金構造』(1955年)
・『日本経済の成長と循環』(1961年)
・『産業構造論』(1966年)
・『経済学入門』(1994年)

☆篠原三代平関係略年表

・1919年(大正8)10月26日 富山県高岡市末広町において、雑貨商の家に長男として生まれる
・1932年(昭和7) 定塚小学校を卒業する
・1937年(昭和12) 高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を卒業し、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)へ入学する
・1940年(昭和15) 高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学する
・1941年(昭和16) 学徒出陣、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍する
・1942年(昭和17) 東京商科大学(現在の一橋大学)を繰り上げ卒業し、東京商科大学特別研究生となる
・1945年(昭和20) 大蔵省財政経済実勢研究室研究員となる
・1950年(昭和25) 一橋大学経済研究所助教授となる
・1961年(昭和36) 『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞する
・1962年(昭和37) 一橋大学経済研究所教授となる
・1970年(昭和45) 経済企画庁経済研究所所長となる
・1973年(昭和48)  成蹊大学教授となる
・1980年(昭和55) (財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となる
・1984年(昭和59)  紫綬褒章を受章する
・1985年(昭和60) 東京国際大学教授、景気循環学会会長となる
・1988年(昭和63) 『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞する
・1989年(平成元)  『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4)  物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となる
・1998年(平成10) 文化功労者となる
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2007年(平成19) 武蔵野市名誉市民となる
・2012年(平成24)12月7日 東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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kawashimatakeyoshi01
 今日は。明治時代後期の1909年(明治42)に、法学者川島武宜が生まれた日です。
 川島武宜(かわしま たけよし)は、1909年(明治42)10月17日に、岐阜県岐阜市において、生まれましたが、旧姓は高木でした。大阪府立北野中学校(現在の府立北野高等学校)を経て、1928年(昭和3)に大阪高等学校(現在の大阪大学)を卒業し、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部へ進みます。
 我妻栄の下で学び、1932年(昭和7)に卒業後、東京帝国大学法学部助手(民法)となりました。1933年(昭和8)に高等文官試験司法科に合格し、翌年には、東京帝国大学法学部助教授に昇進します。
 1945年(昭和20)に東京帝国大学法学部教授となり、1947年(昭和22)には、日本法社会学会の設立に尽力しました。1948年(昭和23)に『日本社会の家族的構成』で、毎日出版文化賞を受賞、翌年には、『所有権法の理論』、『民法解釈学の諸問題』を刊行し、民法学に新しい視点を導入しています。
 1950年(昭和25)に『法社会学における法の存在構造』、1955年(昭和30)に『科学としての法律学』、1959年(昭和34)に『近代社会と法』、1960年(昭和35)に『民法総論』を刊行し、科学としての法律学を提唱しました。1969年(昭和44)に学位論文「所有権法の理論」で東京大学より法学博士の学位を取得、1970年(昭和45)に定年退官し、東京大学名誉教授となり、弁護士登録をしています。
 1979年(昭和54)に日本学士院会員となり、1980年(昭和55)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1991年(平成3)に文化功労者となりましたが、翌年5月21日に82歳で亡くなっています。

〇川島武宜の主要な著作

・『日本社会の家族的構成』(1948年)
・『債権法講義』(1948年)
・『所有権法の理論』(1949年)
・『債權法總則講義』(1949年)
・『民法解釈学の諸問題』(1949年)
・『法社会学に於ける法の存在構造』(1950年)
・『民法講義』(1951年)
・『民法』(1951年)
・『結婚』(1954年)
・『科学としての法律学』(1955年)
・『近代社会と法』(1959年)
・『総論・物権』(1960年)
・『民法総則』(1965年)
・『日本人の法意識』(1978年)
・『ある法学者の軌跡』(1979年)
・『川島武宜著作集』第1巻~第11巻(1982~1986年)
・『「科学としての法律学」とその発展』(1987年)

☆川島武宜関係略年表

・1909年(明治42)10月17日 岐阜県岐阜市において、生まれる
・1925年(大正14) 大阪府立北野中学校(現在の府立北野高等学校)を卒業する
・1928年(昭和3) 大阪高等学校(現在の大阪大学)を卒業する
・1932年(昭和7) 東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業し、東京帝国大学法学部助手(民法)となる
・1933年(昭和8) 高等文官試験司法科に合格する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学法学部助教授となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学法学部教授となる
・1947年(昭和22) 日本法社会学会の設立に尽力する
・1948年(昭和23) 『日本社会の家族的構成』で、毎日出版文化賞を受賞する
・1949年(昭和24) 『所有権法の理論』、『民法解釈学の諸問題』を刊行する
・1950年(昭和25) 『法社会学における法の存在構造』を刊行する
・1955年(昭和30) 『科学としての法律学』を刊行する
・1959年(昭和34) 『近代社会と法』を刊行する
・1960年(昭和35) 『民法総論』を刊行する
・1969年(昭和44) 学位論文「所有権法の理論」で東京大学より法学博士の学位を取得する
・1970年(昭和45) 定年退官し、東京大学名誉教授となり、弁護士登録をする
・1979年(昭和54) 日本学士院会員となる
・1980年(昭和55) 勲二等瑞宝章を受章する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1992年(平成4)5月21日 82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1803年(享和3)蘭学者・医師前野良沢の命日(新暦11月30日)詳細
1877年(明治10)東京・神田に華族の子弟の教育機関・華族学校が開校、臨席の明治天皇が「学習院」と名附ける詳細
1887年(明治20)H・S パーマにより横浜の市街地へ日本初の近代的上水道が完成、給水が開始される(上水道の日)詳細
1903年(明治36)小説家・評論家立野信之の誕生日詳細
1956年(昭和31)財団法人日本モンキーセンターが設立される詳細
1968年(昭和43)川端康成のノーベル賞(文学賞)受賞が決定する詳細
1980年(昭和55)「ラムサール条約」が日本国内で発効する詳細
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teraohisashi01
 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、天文学者・初代東京天文台長寺尾寿が亡くなった日です。
 寺尾寿(てらお ひさし)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月25日)に、福岡藩士寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現在の福岡県福岡市博多区中洲)に生まれました。藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)に学んで学才を示し、1873年(明治6)に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しフランス語を修めます。
 1874年(明治7)に開成学校(東京大学の前身)へ入学し物理学を専攻、フランス人お雇い外国人エミール・レピシエから天文学を学び、1878年(明治11)には、東京大学理学部物理学科を卒業しました。1879年(明治12)に官費留学生としてフランスに留学し、モンスウリ天文台に入り星学修業、パリ天文台に入り実地星学修業し、1882年(明治15)には、仏国文部卿より「リサンシェ・エス・シアンス・アマティク」の学位受領(パリ大学)、金星日面経過観察のため、仏国政府より「マルチニク島」へ観察委員派遣につき随行します。
 1883年(明治16)に米国を経て帰国、東京大学理学部講師となり、東京物理学校初代校長に就任、1884年(明治17)には、東京大学理学部星学科教授に昇任しました。1888年(明治21)に東京大学附属東京天文台(現在の国立天文台)の初代台長に就任、理学博士号を授与され、1889年(明治22)には、仏国パリ府において万国測地学会議開設に付、委員として派遣されます。
 1896年(明治29)に東京物理学校を辞め、勲、1897年(明治30)には、日本で初となる海外遠征でインドにおける日食観測を行ない、コロナの撮影に成功しました。1903年(明治36)に東京学士会院(帝国学士院の前身)会員となり、1908年(明治41)には、日本天文学会を創立し、初代会長に就任します。
 1915年(大正4)に東京帝国大学理科大学教授を退官、1919年(大正8)に日本天文学会長、東京天文台台長を退き、1920年(大正9)には、東京帝国大学名誉教授の称号を授与されました。1922年(大正11)には、フランス共和国政府より、「コンマンドール・メリット・アグリコル」勲章を受けます。
 引退後は、静岡県の伊東にある別荘において暮らしていましたが、1923年(大正12)8月6日に、67歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈されました。

〇寺尾寿関係略年表

・1855年(安政2年9月25日) 福岡藩士寺尾喜平太の長男として、筑前国那珂郡春吉村(現在の福岡県福岡市博多区中洲)に生まれる
・1873年(明治6) 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しフランス語を修める
・1874年(明治7) 開成学校(東京大学の前身)へ入学し物理学を専攻する
・1878年(明治11) 東京大学理学部物理学科を卒業する
・1879年(明治12) 官費留学生としてフランスに留学し、モンスウリ天文台に入り星学修業、パリ天文台に入り実地星学修業をする
・1882年(明治15) 仏国文部卿より「リサンシェ・エス・シアンス・アマティク」の学位受領(パリ大学)、金星日面経過観察のため、仏国政府より「マルチニク島」へ観察委員派遣につき随行する
・1883年(明治16) 米国を経て帰朝、東京大学理学部講師となり、東京物理学校初代校長に就任、渡仏前の黒田清輝に仏語を教授する
・1884年(明治17) 東京大学理学部星学科教授に就任する
・1886年(明治19) 従六位に叙される
・1888年(明治21) 東京大学附属東京天文台(現在の国立天文台)の初代台長に就任、理学博士号を授与される
・1889年(明治22) 仏国パリ府において万国測地学会議開設に付、委員として派遣される
・1892年(明治25) 正六位に叙される
・1893年(明治26) 東京大学理学部星学科が二講座制になると第一講座を担当する
・1896年(明治29) 東京物理学校を辞め、勲六等瑞宝章を受章する
・1897年(明治30) 日本で初となる海外遠征でインドにおける日食観測を行ない、コロナの撮影に成功し、正五位に叙される
・1900年(明治33) 勲四等瑞宝章を受章する
・1901年(明治34) 従四位に叙される
・1902年(明治35) 勲三等瑞宝章を受章する
・1903年(明治36) 東京学士会院(帝国学士院の前身)会員となる
・1908年(明治41) 日本天文学会を創立し、初代会長に就任する
・1909年(明治42) 勲二等瑞宝章を受章する
・1911年(明治44) 従三位に叙される
・1915年(大正4) 東京帝国大学理科大学教授を退官する
・1919年(大正8) 日本天文学会長、東京天文台台長を退く
・1920年(大正9) 東京帝国大学名誉教授の称号を授与される
・1922年(大正11) フランス共和国政府より、「コンマンドール・メリット・アグリコル」勲章を受ける
・1923年(大正12)8月6日 67歳で亡くなり、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1359年(正平14/延文4)筑後川の戦いで南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利する(新暦8月29日)詳細
1896年(明治29)国際法学者・第3代最高裁判所長官横田喜三郎の誕生日詳細
1926年(大正15)東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する詳細
1945年(昭和20)アメリカ軍の中小型58機による都城大空襲が行われ、56人が亡くなる詳細
1949年(昭和24)「広島平和記念都市建設法」が公布・施行される詳細
1955年(昭和30)広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される詳細
1981年(昭和56)電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日)詳細
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hosoiheishyuu001
 今日は、江戸時代後期の1801年(享和元)に、折衷学派の儒者細井平洲が亡くなった日ですが、新暦では8月8日となります。
 細井平洲(ほそい へいしゅう)は、江戸時代中期の1728年(享保13年6月28日)に、尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれましたが、本姓は紀。名は徳民と言いました。幼年時代から学問に励み、1735年(享保20)に加家村観音寺の義観和尚に学び、1737年(元文2)に名古屋に出て学び、1743年(寛保3)には、京都に遊学しています。
 1744年(延享元)に名古屋へ帰り、折衷学派の中西淡淵に入門し、1745年(延享2)には、長崎へ遊学し、中国語を学びましたが、母の病死にあって帰郷しました。1751年(宝暦元)に江戸へ出て、私塾を開き、1753年(宝暦3)には、伊予西条藩主の師となり、私塾の名を嚶鳴館とします。
 1764年(明和元)に米沢藩の次期藩主・上杉治憲(1767年に第9代藩主)の師となり、1770年(明和7)に高山彦九郎が、平洲に入門、1771年(明和8)には、米沢へ行って講義をし、藩政改革や文教に与り、1776年(安永5)の米沢藩校興譲館の創設に尽力しました。1781年(天明元)に尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、1783年(天明3)には、尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をし、庶民教化にも努めています。
 1786年(天明6)に人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立されましたが、1792年(寛政4)には、明倫堂の督学を辞任しました。1796年(寛政8)には、米沢に行き、上杉治憲と普門院で久し振りの歓談をしたものの、1801年(享和元年6月29日)に、江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬されています。

〇細井平洲の主要な著作

・『詩経古伝』10巻(1759年)
・『嚶鳴館詩集』(1764年)
・『つらつらふみ』(1802年)
・『嚶鳴館遺稿』(1809年)
・『嚶鳴館遺草』(1835年)

☆細井平洲関係略年表(日付は旧暦です)

・1728年(享保13年6月28日) 尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれる
・1735年(享保20年) 加家村観音寺の義観和尚に学ぶ
・1737年(元文2年) 名古屋に出て学ぶ
・1743年(寛保3年) 京都に遊学する
・1744年(延享元年) 名古屋へ帰り、中西淡淵に入門する
・1745年(延享2年) 長崎へ遊学し、中国語を学ぶ
・1751年(宝暦元年) 江戸へ出て、私塾を開く
・1753年(宝暦3年) 伊予西条藩主の師となり、私塾を嚶鳴館とする
・1764年(明和元年) 米沢藩の次期藩主・上杉治憲の師となる
・1767年(明和4年) 上杉治憲が第9代藩主となる
・1770年(明和7年) 高山彦九郎、平洲に入門する
・1771年(明和8年) 米沢へ行き、講義をする
・1776年(安永5年) 米沢藩校興譲館の創設に尽力する
・1781年(天明元年) 尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、八柱神社(東海市荒尾町・市指定文化財)に、灯籠を寄進する
・1783年(天明3年) 尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をする
・1786年(天明6年) 人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立される
・1792年(寛政4年) 明倫堂の督学を辞任する
・1796年(寛政8年) 米沢に行き、上杉治憲が米沢郊外の関根まで出迎え、普門院で久し振りの歓談をする
・1801年(享和元年6月29日) 江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬される
・1807年(文化4年) 神明社境内に、「平洲先生旧里碑」を建立する
・1809年(文化6年) 上杉治憲が「嚶鳴館遺稿」を刊行する
・1835年(天保6年) 「嚶鳴館遺草」が刊行される
・1913年(大正2年) 従四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1929年(昭和4)評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の命日詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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