ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、医師・細菌学者秦佐八郎が亡くなった日です。
 秦佐八郎(はた さはちろう)は、明治時代前期の1873年(明治6)3月23日に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれましたが、本姓は山根でした。しかし、1887年(明治20)に同村の医家秦徳太・ツタの養子となり、秦姓となっています。
 1895年(明治28)に岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊(東京)に入営しました。1897年(明治30)には、岡山に戻って、岡山県立病院に勤務するようになります。
 1898年(明治31)に、上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事、1903年(明治36)には、国立血清薬院部長を兼任しました。1904年(明治37)に日露戦争に従軍し、南満州(現在の中国東北部)各地に赴いた後、1907年(明治40)には、国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学びます。
 その後、エールリヒ、さらにヤコビーのもとで研究し、1910年(明治43)には、サルバルサンを発見、ドイツ学会に発表後、日本へ帰国しました。1911年(明治44)にサルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受章、1912年(明治45)には、学位論文「螺旋菌病のヘモテラピー」により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与されています。
 1913年(大正2)に国産のサルバルサンを製造することに協力し、日本結核予防協会設立に参画、1914年(大正3)には、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となりました。1915年(大正4)に国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売します。
 1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じ、1926年(大正15)には、ドイツ帝国自然科学院会員に推されました。1931年(昭和6)に恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任、1933年(昭和8)には、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受けます。
 1934年(昭和9)に深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞、1935年(昭和10)には、財団法人保生会創設に参画、常務理事長となったものの、1938年(昭和13)11月22日に、東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなりました。

〇秦佐八郎の主要な著作

・エールリッヒ共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』(1910年)
・『化学療法ノ研究』(1911年)
・『サルヴァルサン療法』(1913年)
・『黴毒ノ診断 黴毒ノ療法』(1915年)

☆秦佐八郎関係略年表

・1873年(明治6)3月23日 島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれる
・1887年(明治20) 同村医家 秦徳太・ツタの養子となる
・1891年(明治24) 岡山第三高等中学校医学部に入学する
・1895年(明治28) 岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚する
・1897年(明治30) 岡山県立病院に勤務する
・1898年(明治31) 上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事する
・1903年(明治36) 国立血清薬院部長を兼任する
・1904年(明治37) 日露戦争従軍・南満州(現中国)各地に赴く
・1907年(明治40) 国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学ぶ
・1910年(明治43) ドイツ国立実験治療研究所でエールリッヒ博士を扶けてサルバルサンを発見、ドイツ学会に発表、日本へ帰国する
・1911年(明治44) サルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受ける
・1912年(明治45) 学位論文『螺旋菌病のヘモテラピー』により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与される
・1913年(大正2) 国産のサルバルサンを製造することになり、協力し、日本結核予防協会設立に参画する
・1914年(大正3) 伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となる
・1915年(大正4) 国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売する
・1920年(大正9) 慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じる
・1921年(大正10) 極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張する
・1923年(大正12) アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察する
・1926年(大正15) ドイツ帝国自然科学院会員に推される
・1928年(昭和3) ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席する
・1931年(昭和6) 恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任する
・1933年(昭和8) 帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける
・1934年(昭和9) 深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞する
・1935年(昭和10) 財団法人保生会創設に参画、常務理事長となる
・1938年(昭和13)11月22日 東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1724年(享保9)浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日)詳細
1917年(大正6)江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第5条に基づいて、「国民勤労報国協力令」が交布(施行は同年12月1日)される詳細
1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細
1945年(昭和20)「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される詳細
GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」が指令される詳細
1969年(昭和44)「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が出される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1982年(昭和57)に、地球物理学者・随筆家坪井忠二の亡くなった日です。
 坪井忠二(つぼい ちゅうじ)は、明治時代後期の1902年(明治35)9月9日に、東京府において、人類学者だった父・坪井正五郎、母・直子の次男として生まれました。東京高等師範学校附属小学校・中学校、旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に、東京帝国大学理学部物理学科に入学します。寺田寅彦に師事し、1926年(大正15)に卒業後、同大学地震研究所の助手となりました。1929年(昭和4)に東京帝国大学理学部助教授に昇任し、「地震は重力異常の場所で起こる」との新説を発表します。1933年(昭和18)に理学部地球物理学教室へ移り、翌年には、「精密測量に依りて見出サレタル地殻変動の研究」で、東京帝国大学より理学博士号を取得しました。1935年(昭和10)から翌年にかけて、欧米各国へ出張し、1941年(昭和16)には、東京帝国大学理学部教授に昇任します。1943年(昭和18)に理学部地球物理学第二講座を担当、1947年(昭和22)に測地審議会会長となり、1951年(昭和26)から日本全国約4500地点の重力測定を開始(~1954年)しました。1952年(昭和27)に「地殻の物理的性状に関する研究」で、日本学士院賞、1954年(昭和30)には、「重力測定に基く地下構造の研究」で、朝日文化賞を受賞しています。1960年(昭和35)に地震予知計画研究グループを結成、日本学士院会員となり、1961年(昭和36)には、東京大学理学部長(~1963年)となりました。1962年(昭和37)に和達清夫、萩原尊禮らと「地震予知研究計画」を取りまとめましたが、1963年(昭和38)には、東京大学を退官しています。その後、岩波新書『新・地震の話』(1967年)、岩波書店『数理のめがね』(1968年)、岩波書店『力学物語』(1970年)などの啓蒙書を刊行しました。1972年(昭和47)に勲二等授旭日重光章を受章したものの、1982年(昭和57)11月19日に、東京都において、80歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇坪井忠二の主要な著作

・『地球』(鉄塔書院 鉄塔科学叢書 1933年)
・『重力』(岩波書店 岩波全書 1935年)
・『地球の形』(日本数学物理学会 最新科学叢書1 1936年)
・『岩波講座 物理学及ビ化学・重力の測定』(岩波書店 1939年)
・『物理学実験12・地球物理及び天文学』(河出書房 1940年)
・『地震の話』(岩波新書 1941年)
・『新 地震の話』(岩波新書 1967年)
・『数理のめがね』(岩波書店 1968年/ちくま学芸文庫 2020年)
・『自然地理学・重力の測定』(地人書館 1970年)
・『力学物語』(岩波書店 1970年)
・『右と左』(サイエンス社 サイエンス叢書 1980年)

☆坪井忠二関係略年表

・1902年(明治35)9月9日 東京府において、人類学者だった父・坪井正五郎、母・直子の次男として生まれる
・1915年(大正4) 東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業する
・1920年(大正9) 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校に入学する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科に入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、同大学地震研究所の助手となる
・1929年(昭和4) 東京帝国大学理学部助教授となり、「地震は重力異常の場所で起こる」との新説を発表する
・1933年(昭和18) 理学部地球物理学教室へ移る
・1934年(昭和19) 「精密測量に依りて見出サレタル地殻変動の研究」で、東京帝国大学より理学博士を得る
・1935年(昭和10) 欧米各国の出張に出発する
・1936年(昭和11) 欧米各国より帰国する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学理学部教授となる
・1943年(昭和18) 理学部地球物理学第二講座を担当する
・1947年(昭和22) 測地審議会会長となる
・1951年(昭和26) 日本全国約4500地点の重力測定を開始する(~1954年)
・1952年(昭和27) 「地殻の物理的性状に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1954年(昭和30) 「重力測定に基く地下構造の研究」で、朝日文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 地震予知計画研究グループを結成、日本学士院会員となる
・1961年(昭和36) 東京大学理学部長(~1963年)となる
・1962年(昭和37) 和達清夫・萩原尊禮らと「地震予知研究計画」を取りまとめる
・1963年(昭和38) 東京大学を退官する
・1967年(昭和42) 岩波新書『新・地震の話』を刊行する
・1968年(昭和43) 岩波書店『数理のめがね』を刊行する
・1970年(昭和45) 岩波書店『力学物語』を刊行する
・1972年(昭和47) 勲二等授旭日重光章を受章する
・1982年(昭和57)11月19日 東京都において、80歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1975年(昭和50)MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の命日詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
1998年(平成10)気象学者藤田哲也の命日詳細
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kurobachika01
 今日は、昭和時代の1968年(昭和43)に、化学者で日本で2番めの女性理学博士だった黒田チカが亡くなった日です。
 黒田チカ(くろだ ちか)は、明治時代前期の1884年(明治17)3月24日に、佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれました。1901年(明治34)に、佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就きましたが、翌年には、上京して女子高等師範学校理科へ進みます。
 1906年(明治39)に同校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得ましたが、翌年には、女子高等師範学校の研究科に入学し、1909年(明治39)に研究科を修了し、同校の助教授となりました。1913年(大正2)に、女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究します。
 1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得て、翌年に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となりました。1918年(大正7)に天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表、1921年(大正10)には、英国オックスフォード大学へ国費留学します。
 1923年(大正12)に2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始めました。1929年(昭和4)に「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与され、1936年(昭和11)には、第1回真島賞 (日本化学会) を受賞します。
 大平洋戦争後の1949年(昭和24)に新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任しました。1952年(昭和27)にタマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となり、翌年(昭和28)には、特許を得てケルチンCとして市販されます。
 1958年(昭和33)に日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任し、1959年(昭和34)には、紫綬褒章を受章しました。1965年(昭和40)には、勲三等宝冠章を受章したものの、1968年(昭和43)11月8日に、福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙されています。
 尚、1999年(平成11)には、東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設されました。

〇黒田チカ関係略年表

・1884年(明治17)3月24日 佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれる
・1901年(明治34) 佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就く
・1902年(明治35) 上京して女子高等師範学校理科へ進む
・1906年(明治39) 女子高等師範学校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得る
・1907年(明治40) 女子高等師範学校の研究科に入学する
・1909年(明治39) 女子高等師範学校研究科を修了し、東京女子高等師範学校の助教授となる
・1913年(大正2) 女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究する
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得る
・1917年(大正6) 東京駒込に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となる
・1918年(大正7) 天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表する
・1921年(大正10) 英国オックスフォード大学へ国費留学する
・1923年(大正12) 2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める
・1929年(昭和4) 「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与される
・1936年(昭和11) 第1回真島賞 (日本化学会) を受賞する
・1949年(昭和24) 新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任する
・1952年(昭和27) タマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となる
・1953年(昭和28) 特許を得てケルチンCとして市販される
・1958年(昭和33) 日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任する
・1959年(昭和34) 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39) 黒田を主人公とするNHKの子供向けドラマは「たまねぎおばさん」が放送される
・1965年(昭和40) 勲三等宝冠章を受章する
・1968年(昭和43)11月8日 福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙される
・1999年(平成11) 東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設される
・2013年(平成25) 日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日)詳細
1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、経済学者篠原三代平が生まれた日です。
 篠原 三代平(しのはら みよへい)は、大正時代の1919年(大正8)10月26日に、富山県高岡市末広町において、雑貨商の家の長男として生まれました。高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を経て、1940年(昭和15)に高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学、一般均衡論を唱えた中山伊知郎に師事します。
 1941年(昭和16)に学徒出陣し、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍し、翌年に東京商科大学(現在の一橋大学)は繰り上げ卒業措置が取られ、東京商科大学特別研究生の身分となりました。1945年(昭和20)に大蔵省財政経済実勢研究室研究員となり、1950年(昭和25)には、一橋大学経済研究所の助教授に就任します。
 早くから経済の実証的分析と景気循環論が評価され、日本経済の成長と景気循環の研究ですぐれた業績をあげ、1961年(昭和36)には、『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞しました。1962年(昭和37)に一橋大学経済研究所教授となり、日本経済学会会長、財団法人アジア・クラブ理事長、統計研究会会長などの要職を歴任します。
 1970年(昭和45)に経済企画庁経済研究所所長となり、1973年(昭和48)に 成蹊大学教授、1980年(昭和55)には、(財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となりました。1984年(昭和59)に紫綬褒章を受章、1985年(昭和60)に東京国際大学教授、景気循環学会会長となり、1988年(昭和63)には、『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞しています。
 1989年(平成元)に『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となりました。1998年(平成10)に文化功労者となり、2006年(平成18)に文化勲章を受章、2007年(平成19)には、武蔵野市名誉市民となっています。しかし、2012年(平成24)12月7日に、東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇篠原三代平の主要な著作

・『所得分配と賃金構造』(1955年)
・『日本経済の成長と循環』(1961年)
・『産業構造論』(1966年)
・『経済学入門』(1994年)

☆篠原三代平関係略年表

・1919年(大正8)10月26日 富山県高岡市末広町において、雑貨商の家に長男として生まれる
・1932年(昭和7) 定塚小学校を卒業する
・1937年(昭和12) 高岡商業学校(現在の富山県立高岡商業高等学校)を卒業し、高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)へ入学する
・1940年(昭和15) 高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)を卒業し、東京商科大学(現在の一橋大学)へ入学する
・1941年(昭和16) 学徒出陣、不整脈のため幹部候補生試験には不合格となり、主計伍長として富山、鹿児島で従軍する
・1942年(昭和17) 東京商科大学(現在の一橋大学)を繰り上げ卒業し、東京商科大学特別研究生となる
・1945年(昭和20) 大蔵省財政経済実勢研究室研究員となる
・1950年(昭和25) 一橋大学経済研究所助教授となる
・1961年(昭和36) 『日本経済の成長と循環』で、日経経済図書文化賞・特別賞を受賞する
・1962年(昭和37) 一橋大学経済研究所教授となる
・1970年(昭和45) 経済企画庁経済研究所所長となる
・1973年(昭和48)  成蹊大学教授となる
・1980年(昭和55) (財)統計研究会理事長、アジア経済研究所会長となる
・1984年(昭和59)  紫綬褒章を受章する
・1985年(昭和60) 東京国際大学教授、景気循環学会会長となる
・1988年(昭和63) 『日本経済の成長と循環』、『日本経済の構造と政策』で、日本学士院賞を受賞する
・1989年(平成元)  『個人消費支出』、『鉱工業』で日経経済図書文化賞・特別賞を受賞、勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4)  物価安定政策会議議長、(財)統計研究会会長となる
・1998年(平成10) 文化功労者となる
・2006年(平成18) 文化勲章を受章する
・2007年(平成19) 武蔵野市名誉市民となる
・2012年(平成24)12月7日 東京都内の病院において、93歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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 今日は。明治時代後期の1909年(明治42)に、法学者川島武宜が生まれた日です。
 川島武宜(かわしま たけよし)は、1909年(明治42)10月17日に、岐阜県岐阜市において、生まれましたが、旧姓は高木でした。大阪府立北野中学校(現在の府立北野高等学校)を経て、1928年(昭和3)に大阪高等学校(現在の大阪大学)を卒業し、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部へ進みます。
 我妻栄の下で学び、1932年(昭和7)に卒業後、東京帝国大学法学部助手(民法)となりました。1933年(昭和8)に高等文官試験司法科に合格し、翌年には、東京帝国大学法学部助教授に昇進します。
 1945年(昭和20)に東京帝国大学法学部教授となり、1947年(昭和22)には、日本法社会学会の設立に尽力しました。1948年(昭和23)に『日本社会の家族的構成』で、毎日出版文化賞を受賞、翌年には、『所有権法の理論』、『民法解釈学の諸問題』を刊行し、民法学に新しい視点を導入しています。
 1950年(昭和25)に『法社会学における法の存在構造』、1955年(昭和30)に『科学としての法律学』、1959年(昭和34)に『近代社会と法』、1960年(昭和35)に『民法総論』を刊行し、科学としての法律学を提唱しました。1969年(昭和44)に学位論文「所有権法の理論」で東京大学より法学博士の学位を取得、1970年(昭和45)に定年退官し、東京大学名誉教授となり、弁護士登録をしています。
 1979年(昭和54)に日本学士院会員となり、1980年(昭和55)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1991年(平成3)に文化功労者となりましたが、翌年5月21日に82歳で亡くなっています。

〇川島武宜の主要な著作

・『日本社会の家族的構成』(1948年)
・『債権法講義』(1948年)
・『所有権法の理論』(1949年)
・『債權法總則講義』(1949年)
・『民法解釈学の諸問題』(1949年)
・『法社会学に於ける法の存在構造』(1950年)
・『民法講義』(1951年)
・『民法』(1951年)
・『結婚』(1954年)
・『科学としての法律学』(1955年)
・『近代社会と法』(1959年)
・『総論・物権』(1960年)
・『民法総則』(1965年)
・『日本人の法意識』(1978年)
・『ある法学者の軌跡』(1979年)
・『川島武宜著作集』第1巻~第11巻(1982~1986年)
・『「科学としての法律学」とその発展』(1987年)

☆川島武宜関係略年表

・1909年(明治42)10月17日 岐阜県岐阜市において、生まれる
・1925年(大正14) 大阪府立北野中学校(現在の府立北野高等学校)を卒業する
・1928年(昭和3) 大阪高等学校(現在の大阪大学)を卒業する
・1932年(昭和7) 東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業し、東京帝国大学法学部助手(民法)となる
・1933年(昭和8) 高等文官試験司法科に合格する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学法学部助教授となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学法学部教授となる
・1947年(昭和22) 日本法社会学会の設立に尽力する
・1948年(昭和23) 『日本社会の家族的構成』で、毎日出版文化賞を受賞する
・1949年(昭和24) 『所有権法の理論』、『民法解釈学の諸問題』を刊行する
・1950年(昭和25) 『法社会学における法の存在構造』を刊行する
・1955年(昭和30) 『科学としての法律学』を刊行する
・1959年(昭和34) 『近代社会と法』を刊行する
・1960年(昭和35) 『民法総論』を刊行する
・1969年(昭和44) 学位論文「所有権法の理論」で東京大学より法学博士の学位を取得する
・1970年(昭和45) 定年退官し、東京大学名誉教授となり、弁護士登録をする
・1979年(昭和54) 日本学士院会員となる
・1980年(昭和55) 勲二等瑞宝章を受章する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1992年(平成4)5月21日 82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1803年(享和3)蘭学者・医師前野良沢の命日(新暦11月30日)詳細
1877年(明治10)東京・神田に華族の子弟の教育機関・華族学校が開校、臨席の明治天皇が「学習院」と名附ける詳細
1887年(明治20)H・S パーマにより横浜の市街地へ日本初の近代的上水道が完成、給水が開始される(上水道の日)詳細
1903年(明治36)小説家・評論家立野信之の誕生日詳細
1956年(昭和31)財団法人日本モンキーセンターが設立される詳細
1968年(昭和43)川端康成のノーベル賞(文学賞)受賞が決定する詳細
1980年(昭和55)「ラムサール条約」が日本国内で発効する詳細
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