ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、歴史学者・文学博士井上光貞の亡くなった日です。
 井上光貞(いのうえ みつさだ)は、大正時代の1917年(大正6)9月19日に、東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれました。成蹊高等学校を経て、1940年(昭和15)に、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、坂本太郎、和辻哲郎に師事します。
 1942年(昭和17)に卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)しました。1946年(昭和21)に東京帝国大学文学部助手となり、1949年(昭和24)に教養学部講師、1950年(昭和25)に同学部助教授に昇任します。
 1957年(昭和32)にデリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインドを訪問(~1958年6月)、1958年(昭和33)には、インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国しました。1959年(昭和34)に「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得、1961年(昭和36)には、東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任、ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任し、翌年帰国します。
 1964年(昭和39)に、平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となり、1967年(昭和42)には、東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当しました。1968年(昭和43)に東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組み、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長、1969年(昭和44)に多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となり、1974年(昭和49)には、東京大学文学部長に就任しています。
 1978年(昭和53)に東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となり、1980年(昭和55)に紫綬褒章を受章、1981年(昭和56)には、国立歴史民俗博物館初代館長に就任しました。戦後の日本古代史の研究をリードし、古代国家の形成や律令継受の過程などの解明に努めたものの、1983年(昭和58)2月27日に、順天堂大学病院において、肺炎により、65歳で亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈されています。尚、学生時代から短歌を詠み、没後一周忌に歌集『冬の海』が編まれました。

〇井上光貞の主要な著作

・『日本古代史の諸問題 大化前代の国家と社会』(1949年)
・『日本史』(1952年)
・『大化改新』(1954年)
・『日本史の人びと 1 とおい昔花の都』(1956年)
・『日本浄土教成立史の研究』(1956年)
・『日本国家の起源』(1960年)
・『日本史提要』(1961年)
・『日本古代国家の研究』(1965年)
・『日本古代の国家と仏教』(1971年)
・『日本の歴史3 飛鳥の朝廷』(1974年)
・『古代史研究の世界』(1975年)
・『日本古代仏教の展開』(1975年)
・『東大三十余年』(1978年)
・『日本古代思想史の研究』(1982年)
・『わたくしの古代史学』(1982年)
・『日本古代の王権と祭祀』(1984年)
・『天皇と古代王権』(2000年)

☆井上光貞関係略年表

・1917年(大正6)9月19日 東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれる
・1924年(大正13) 学習院初等科に入学する
・1930年(昭和5) 成蹊高等学校尋常科へ入学する
・1934年(昭和9) 成蹊高校高等科(のちの成蹊大学)理科乙類へ入学する
・1935年(昭和10) 腎臓炎に罹る
・1937年(昭和12) 成蹊高校高等科文科乙類2年に編入、夏に再び腎臓炎に罹る
・1940年(昭和15) 成蹊高校高等科文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科へ入学する
・1942年(昭和17) 卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学文学部助手となる
・1948年(昭和23) 教員適格判定審査に合格する
・1949年(昭和24) 東京大学教養学部講師となる
・1950年(昭和25) 東京大学教養学部助教授に昇任する
・1957年(昭和32) デリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインド訪問(~1958年6月)する
・1958年(昭和33) インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国する
・1959年(昭和34) 「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得する
・1961年(昭和36) 東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任。 8月 ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任(1962年7月帰国)する
・1964年(昭和39) 平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となる
・1967年(昭和42) 東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当する
・1968年(昭和43) 東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組む、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長となる
・1969年(昭和44) 多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となる
・1974年(昭和49) 東京大学文学部長に就任する
・1976年(昭和51) 心臓発作に倒れ、順天堂大学附属病院に入院(3月退院)する
・1977年(昭和52) 順天堂大学病院再入院、心臓バイパス手術を受け、4月退院する
・1978年(昭和53) 東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となる
・1980年(昭和55) 紫綬褒章を受章する
・1981年(昭和56) 国立歴史民俗博物館初代館長に就任する
・1983年(昭和58)2月27日 順天堂大学病院において、肺炎により、65歳て゜亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、建築家・工学博士内井昭蔵が生まれた日です。
 内井昭蔵(うちい しょうぞう)は、1933年(昭和8)2月20日に、東京市神田区において、建築家の父・内井進の子として生まれ、旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の県立熊谷高校)を経て、1956年(昭和31)に、早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業し、工学研究科修士課程に進みました。1958年(昭和33)に修士課程修了後、菊竹清訓建築設計事務所に勤務したものの、1967年(昭和42には辞めて独立し、内井昭蔵建築設計事務所を設立しています。
 1971年(昭和46)に、「桜台コートビレッジ」で、第22回日本建築学会賞作品賞、翌年には、神奈川県建築コンクール優秀賞を受賞、また、「宮崎台ビレジ」で、神奈川県建築コンクール佳作賞を受賞、日本建築家協会理事(~1974年)となりました。1979年(昭和54)に日本建築家協会副会長(~1981年)となり、1982年(昭和57)には、アメリカ建築家協会名誉会員となっています。
 1988年(昭和63)に新日本建築家協会副会長・広報委員長(~1990年)となり、1989年(平成元)には、第45回日本芸術院賞(世田谷美術館)を受賞しました。1993年(平成5)に京都大学工学部教授に就任、1996年(平成8)に退官後は、滋賀県立大学環境科学部教授となります。
 戦後の日本建築史を代表する建築家の一人とされ、数々の賞を受賞しましたが、2002年(平成14)8月3日に、東京都大田区の病院において、69歳で亡くなり、勲三等旭日章を受章しました。尚、著書には、『健康な建築 - イマジネイティブな生活空間を求めて』(1985年)、『内井昭蔵のディテール 生活空間としての美術館・世田谷美術館』(1987年)、『ロシアビザンチン - 黄金の環を訪ねて(建築巡礼)』(1991年)などがあります。

〇内井昭蔵の主要な建築設計作品・著書

<建築設計>
・「桜台コートビレッジ」(1971年)第22回日本建築学会賞作品賞、神奈川県建築コンクール優秀賞、第1回BELCA賞LLB部門、第4回横浜まちなみ景観賞受
・「宮崎台ビレジ」(1972年)神奈川県建築コンクール佳作賞受賞
・「川島テキスタイルスクール」(1975年)第16回BCS賞受賞
・「銀座対鶴館ビル」(1976年)日本サインデザイン協会賞銀賞受賞
・「身延山久遠寺宝蔵」(1977年)第18回BCS賞、第24回レイノルズ賞 (A.I.A)受賞
・「東京YMCA野辺山青少年センター」(1978年)第3回吉田五十八賞受賞
・「西谷の家 小倉邸」(1978年)神奈川県建築コンクール優秀賞受賞
・「新発田市民文化会館・公民館」(1981年)第22回BCS賞受賞
・「世田谷美術館」(1986年)第27回毎日芸術賞、第18回BCS賞、第45回日本芸術院賞受賞
・「修養団捧誠会御霊所」(1986年)第27回毎日芸術賞受賞
・「浦添市立図書館」(1988年)第4回日本図書館協会建築賞特定賞受賞
・「一宮市博物館」(1988年)第20回中部建築賞、一宮市建築賞、第4回公共建築賞中部地区優秀賞受賞
・「栄四郎瓦本社屋」(1990年)第1回へきなん都市デザイン文化賞大賞受賞
・「浦添市美術館」(1990年)全建賞受賞
・「福野文化創造センターヘリオス」(1991年)第22回富山県建築賞受賞
・「熊本県テクノポリスセンター」(1992年)第3回公共建築賞行政施設部門受賞
・「桂坂の住宅 東CED・中央CED」(1992年)第16回ひろば作品賞受賞
・「石川県金沢港大野からくり記念館」(1996年)金沢都市美文化賞、第18回石川県建築賞、第8回公共建築賞/北陸地区優秀賞受賞
・「国際日本文化研究センター」(2000年)第7回公共建築賞/近畿地区優秀賞受賞
・「大分市美術館」(2001年)第3回大分市建築大賞受賞
・「森の詩幼稚園」(2002年)彩の国さいたま景観賞受賞

<著書>
・『健康な建築 - イマジネイティブな生活空間を求めて』(1985年)
・『内井昭蔵のディテール 生活空間としての美術館・世田谷美術館』(1987年)
・『ロシアビザンチン - 黄金の環を訪ねて(建築巡礼)』(1991年)
・『建築家のドローイング1 世田谷美術館』(1993年)
・『モダニズム建築の軌跡 - 60年代のアヴァンギャルド』(2000年)
・仙田満との共著『続モダニズム建築の軌跡 - 環境へ』(2003年)
・『装飾の復権 - 空間に人間性を』(2003年)
・『再び健康な建築 - 生活空間に倫理を求めて』(2003年)
・『装飾の復権 - 空間に人間性を』(2003年)

☆内井昭蔵関係略年表

・1933年(昭和8)2月20日 東京市神田区において、建築家の父・内井進の子として生まれる
・1956年(昭和31) 早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する
・1958年(昭和33) 早稲田大学大学院工学研究科修士課程を修了、菊竹清訓建築設計事務所に勤務する
・1967年(昭和42) 菊竹清訓建築設計事務所を辞めて独立し、内井昭蔵建築設計事務所を設立する
・1971年(昭和46) 第22回日本建築学会賞作品賞(桜台コートビレッジ)
・1972年(昭和47) 日本建築家協会理事(~1974年)となり、神奈川県建築コンクール優秀賞(桜台ビレジ)、神奈川県建築コンクール佳作賞(宮崎台ビレジ)を受賞する
・1975年(昭和50) 第16回BCS賞(川島テキスタイルスクール)を受賞する
・1976年(昭和51) 日本サインデザイン協会賞銀賞(銀座対鶴館ビル)を受賞する
・1977年(昭和52) 第18回BCS賞(身延山久遠寺宝蔵)を受賞する
・1978年(昭和53) 第3回吉田五十八賞(東京YMCA野辺山青少年センター)・神奈川県建築コンクール優秀賞(西谷の家 小倉邸)を受賞する
・1979年(昭和54) 日本建築家協会副会長(~1981年)となる
・1980年(昭和55) 第24回レイノルズ賞 (A.I.A)(身延山久遠寺宝蔵)を受賞する
・1981年(昭和56) 第22回BCS賞(新発田市民文化会館・公民館)を受賞する
・1982年(昭和57) アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1986年(昭和61) 第27回毎日芸術賞(修養団捧誠会御霊所・世田谷美術館)・第18回BCS賞(世田谷美術館)を受賞、昭和60年度横浜市優良建築設計者となる
・1988年(昭和63) 新日本建築家協会副会長・広報委員長(~1990年)となり、第4回日本図書館協会建築賞特定賞(浦添市立図書館)・第20回中部建築賞(一宮市博物館)を受賞する
・1989年(平成元) 第45回日本芸術院賞(世田谷美術館)を受賞する
・1990年(平成2) 第1回へきなん都市デザイン文化賞大賞(栄四郎瓦本社屋)・全建賞(浦添市美術館)を受賞する
・1991年(平成3) 一宮市建築賞(一宮市博物館)・第22回富山県建築賞(福野文化創造センターヘリオス)を受賞する
・1992年(平成4) 学位論文「住宅の集合形態に関する実践的研究」で、京都大学より工学博士を得る、第1回BELCA賞LLB部門(桜台コートビレッジ)・第4回横浜まちなみ景観賞(桜台コートビレッジ)・第3回公共建築賞行政施設部門(熊本県テクノポリスセンター)・第16回ひろば作品賞(桂坂の住宅 東CED・中央CED)を受賞する
・1993年(平成5) 京都大学工学部教授に就任、第4回公共建築賞中部地区優秀賞(一宮市博物館)を受賞する
・1995年(平成7) 第13回京都府文化賞を受賞する
・1996年(平成8) 京都大学工学部教授を退官し、滋賀県立大学環境科学部教授となり、金沢都市美文化賞(石川県金沢港大野からくり記念館)を受賞する
・1997年(平成9) 第18回石川県建築賞(石川県金沢港大野からくり記念館)、平成9年度京都新聞五大賞 第41回文化賞を受賞する
・1998年(平成10) 公共建築百選(世田谷美術館・滋賀県立大学・世田谷美術館・高岡市美術館・富山県産業創造センター・蕗谷虹児記念館)を受賞する
・2000年(平成12) 第7回公共建築賞/近畿地区優秀賞(国際日本文化研究センター)を受賞、京都市文化功労者となる
・2001年(平成13) 第3回大分市建築大賞( 大分市美術館)を受賞する
・2002年(平成14) 滋賀県立大学環境科学部教授を辞め、第8回公共建築賞/北陸地区優秀賞(石川県金沢港大野からくり記念館)・彩の国さいたま景観賞(森の詩幼稚園)を受賞する
・2002年(平成14)8月3日 東京都大田区の病院において、69歳で亡くなり、勲三等旭日章を受章する
・2006年(平成18)  DOCOMOMO Japan「日本におけるモダン・ムーブメントの建築2005年度選定建築物15選」(桜台コートビレッジ)に選定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

国際デー国際連合が定めた世界社会正義の日です詳細
1886年(明治19)歌人石川啄木の誕生日詳細
1913年(大正2)大正2年東京神田三崎町の大火で、家屋全焼2,376戸、半焼54戸を出す詳細
1928年(昭和3)改正「衆議院議員選挙法」(普通選挙法)により第16回衆議院議員総選挙の投票が行われる詳細
1949年(昭和24)秋田県で第一次能代大火が起き、2,237棟が焼失する詳細
1985年(昭和60)評論家・英文学者・平和運動家中野好夫の命日詳細
2018年(平成30)俳人金子兜太の命日詳細
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 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、生態学者森下正明の生まれた日です。
 森下正明(もりした まさあき)は、大正時代の1913年(大正2)1月27日に、大阪市東区東雲町59番地(現在の大阪市中央区玉造2丁目)において生まれました。土佐中学校(現在の土佐高校)、官立高知高等学校(現在の高知大学)を経て、1932年(昭和7)に、京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農林生物学科へ入学します。
 1935年(昭和10)に卒業後、京都帝国大学副手となり、1937年(昭和12)には、立命館商業学校(現在の立命館高校)講師となって、グライダー部顧問(2級滑空士免許取得)となりました。1939年(昭和14)に立命館商業学校講師を退職をして、今西錦司と二人で蒙古馬車探検へ出かけ、1941年(昭和16)にポナペ島(ミクロネシア連邦ポナペ島)、1942年(昭和17)には、大興安嶺(中華人民共和国・黒龍江省)を探検(副隊長・漠河隊長)します。
 1946年(昭和21)に京都府立嵯峨野高等女学校(現在の嵯峨野高等学校)教諭となり、1948年(昭和23)には、京都府立鴨沂高等学校(新制)教諭(学制変更により移動)となりました。1950年(昭和25)に学位論文『ヒメアメンボの棲息密度と移動』で、京都大学から理学博士を得て、1952年(昭和27)には、九州大学理学部生物学科助教授(生態学講座)となります。
 1964年(昭和39)に日本動物学会賞を受賞し、1965年(昭和40)には、京都大学理学部動物学科教授(動物生理・生態学講座)となりました。1967年(昭和42)に京都大学理学部付属瀬戸臨海実験所(のち京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館)所長(兼担)となりましたが、1976年(昭和51)には、定年退官し、京都大学名誉教授となっています。
 1986年(昭和61)に勲三等旭日中綬章を授章、1992年(平成4)に京都府教育委員会から文化財専門委員として表彰を受け、1994年(平成6)には、Distinguished Statistical Ecologist Award 国際生態学会賞を受賞しました。1996年(平成8)には、種多様性指数値に対するサンプルの大きさの影響、最後の論文を発表したものの、1997年(平成9)2月25日に、84歳で亡くなり、正四位を追贈されています。
 尚、アリの生態研究で世界的に知られ、数理生態学の第一人者とされ、生物の分布集中度指数「モリシタ-インデックス」は国際的に使用されてきました。

〇森下正明の主要な著作

・『動物の社会』(1977年)
・『森下正明生態学論集(1〜2)』(1979年)

☆森下正明関係略年表

・1913年(大正2)1月27日 大阪市東区東雲町59番地(現在の大阪市中央区玉造2丁目)において、生まれる
・1929年(昭和4) 土佐中学校(現在の土佐高校)を卒業する
・1929年(昭和4) 官立高知高等学校(現在の高知大学)へ入学する
・1932年(昭和7) 官立高知高等学校(現在の高知大学)を卒業し、京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農林生物学科へ入学する
・1935年(昭和10) 京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農林生物学科を卒業し、京都帝国大学副手となる
・1937年(昭和12) 立命館商業学校(現在の立命館高校)講師となり、グライダー部顧問(2級滑空士免許取得)となる
・1939年(昭和14) 立命館商業学校講師を退職をして、今西錦司と二人で蒙古馬車探検へ出かける
・1941年(昭和16) ポナペ島(ミクロネシア連邦ポナペ島)を探検する
・1942年(昭和17) 大興安嶺(中華人民共和国・黒龍江省)を探検(副隊長・漠河隊長)する
・1946年(昭和21) 京都府立嵯峨野高等女学校(現在の嵯峨野高等学校)教諭となる
・1948年(昭和23) 京都府立鴨沂高等学校(新制)教諭(学制変更により移動)となる
・1950年(昭和25) 学位論文『ヒメアメンボの棲息密度と移動』で、京都大学から理学博士を得る
・1952年(昭和27) 九州大学理学部生物学科助教授(生態学講座)となる
・1964年(昭和39) 日本動物学会賞を受賞する
・1965年(昭和40) 京都大学理学部動物学科教授(動物生理・生態学講座)となる
・1967年(昭和42) 京都大学理学部付属瀬戸臨海実験所(のち京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館)所長(兼担)となる
・1976年(昭和51) 京都大学を定年退官し、京都大学名誉教授となる
・1984年(昭和59) 京都府教育委員会から文化財保護審議会委員として表彰を受ける
・1986年(昭和61) 勲三等旭日中綬章を授章する
・1992年(平成4) 京都府教育委員会から文化財専門委員として表彰を受ける
・1994年(平成6) Distinguished Statistical Ecologist Award 国際生態学会賞を受賞する
・1996年(平成8) 種多様性指数値に対するサンプルの大きさの影響、最後の論文を発表する
・1997年(平成9)2月25日 84歳で亡くなり、正四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1219年(建保7)鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺される(新暦2月13日)詳細
1713年(正徳3)狩野派の絵師狩野常信の命日(新暦2月21日)詳細
1770年(明和7)商人・随筆家・文人鈴木牧之の誕生日(新暦2月22日)詳細
1870年(明治3)「郵船商船規則」を布告、日本の商船は日章旗を掲揚するとし、日章旗規格を定める(新暦2月27日)詳細
1885年(明治18)日本画家前田青邨の誕生日詳細
1967年(昭和42)「宇宙条約」が署名開放され、日本が署名する詳細
1998年(平成10)小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の命日詳細
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yamagatamasaochyo01
 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、船舶工学者山県昌夫が生まれた日です。
 山県昌夫(やまがた まさお)は、明治時代後期の1898年(明治31)1月4日に、東京において生まれ、東京府立第一中学、旧制第一高校を経て、東京帝国大学工学部船舶工学科へ入学し、船型学を専攻しました。1921年(大正10)に卒業し、逓信省に入って、逓信技師となります。
 運輸省に移り、1933年(昭和8)に日本造船学会論文賞を受賞、1937年(昭和12)に『船型試験法』を刊行し、1941年(昭和16)には、船舶試験所所長となりました。1943年(昭和18)に、運輸通信省船舶局長となり、『戦争と造船』を刊行し、太平洋戦争後の1947年(昭和22)にらは、東京大学工学部教授に就任します。
 1950年(昭和25) 運輸技術研究所の設立に携わり、1952年(昭和27)に『船型学 推進編』を刊行、1953年(昭和28)には、社団法人日本造船研究協会を設立に関わり、『船型学 抵抗編』を刊行するなど、船舶の設計に新分野を開き、日本の造船技術の進歩に大きな貢献をしました。1958年(昭和33)に東京大学工学部教授を辞め、名誉教授となり、1961年(昭和36)に日本学士院会員となり、1963年(昭和38)には、船舶技術研究所の設立に携わります。
 造船協会長、原子力委員会参与、日本海事協会長、日本造船技術センター会長などを歴任し、1967年(昭和42)には、造船工学界では初めての文化勲章を受章しました。1972年(昭和47)に勲一等旭日大綬章を受章、日本の学術、技術、行政面へも寄与してきたものの、1981年(昭和56)3月3日に、東京都内の東京大学附属病院において、83歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇山県昌夫の主要な著作

・『船型試験法』(1937年)
・『戦争と造船』(1943年)
・『船型学 推進編』(1952年)
・『船型学 抵抗編』(1953年)

☆山県昌夫関係略年表

・1898年(明治31)1月4日 東京において生まれる
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、逓信省に入る
・1933年(昭和8) 日本造船学会論文賞を受賞する
・1937年(昭和12) 『船型試験法』を刊行する
・1941年(昭和16) 船舶試験所所長となる
・1943年(昭和18) 運輸通信省船舶局長となり、『戦争と造船』を刊行する
・1947年(昭和22) 東京大学工学部教授となる
・1950年(昭和25) 運輸技術研究所の設立に携わる
・1952年(昭和27) 『船型学 推進編』を刊行する
・1953年(昭和28) 社団法人日本造船研究協会を設立、『船型学 抵抗編』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京大学工学部教授を辞め、名誉教授となる
・1961年(昭和36) 日本学士院会員となる
・1963年(昭和38) 船舶技術研究所の設立に携わる
・1967年(昭和42) 文化勲章を受章する
・1972年(昭和47) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1981年(昭和56)3月3日 東京都内の東京大学附属病院において、83歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1882年(明治15)「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」(軍人勅諭)が発布される詳細
1888年(明治21)三井財閥、藤田伝三郎などの出資により、山陽鉄道会社(現在の山陽本線)が設立される詳細
1912年(明治45)公家・政治家・伯爵東久世通禧の命日詳細
1922年(大正11)小説家山田風太郎の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「超国家主義団体の解体の指令」(SCAPIN-548)を出す詳細
GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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yanokentarou01
 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、数学者矢野健太郎が亡くなった日です。
 矢野健太郎(やの けんたろう)は、明治時代末期の1912年(明治45)3月1日に、東京府東京市において、彫刻家の子として生まれました。市立東京第二中学校、旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科へ入学し、1934年(昭和9)に卒業後、大学院に進み、同時に東京物理学校の講師に就任します。
 1936年(昭和11)にパリ大学へ留学し、1938年(昭和13)に同校を卒業、パリ大学に提出した射影接続空間に関する論文により、1940年(昭和15)に東京帝国大学より、理学博士号を得ました。1941年(昭和16)に東京帝国大学講師となり、1945年(昭和20)には、助教授に昇任し、1950年(昭和25)からアメリカのプリンストン高等研究所の所員(~1952年)となります。
 1953年(昭和28)にローマ大学客員教授となり、1954年(昭和29)には、アムステルダム大学客員教授となって、国際数学者会議で招待講演をしました。帰国後の1958年(昭和33)に東京工業大学教授となり、1966年(昭和41)に岩波新書『新しい数学』、1968年(昭和43)に新潮選書『アインシュタイン伝』、講談社現代新書『数学へのすすめ』、1969年(昭和44)に講談社現代新書『確率のはなし』を刊行するなど、一般対象の啓発書を執筆しています。
 1970年(昭和45)に東京工業大学理学部長となり、退職後の1972年(昭和47)には、東京工業大学名誉教授に就任しました。1964年(昭和39)に『科学図説シリーズ』全12巻の執筆者の一人として、サンケイ児童出版文化賞を受賞し、1976年(昭和51)に紫綬褒章、1983年(昭和58)に勲二等瑞宝章を受章しています。
 専門書の他にも、教科書、啓蒙書、数学エッセーなど幅広い分野の著作によって、数学的概念の普及に努めましたが、1993年(平成5年)12月25日に81歳で亡くなりました。

〇矢野健太郎の主要な著作

・『数学物語』(1936年)
・『初等解析幾何学』(1950年)
・『数学のはなし』(1953年)
・『代数入門』(1955年)
・『エレガントな解答』(1958年)
・『新しい数学』岩波新書(1966年)
・『接続の幾何学』(1968年)
・『アインシュタイン伝』新潮選書(1968年)
・『数学へのすすめ』講談社現代新書(1968年)
・『確率のはなし』講談社現代新書(1969年)
・『数学の楽しさ』(1976年)
・『数学への招待』(1977年)
・『ゆかいな数学者たち』(1981年)
・『数学おしゃべり帳』(1982年)

☆矢野健太郎関係略年表

・1912年(明治45)3月1日 東京府東京市において、彫刻家 の子として生まれる
・1934年(昭和9) 東京帝国大学理学部数学科を卒業し、大学院に進む
・1936年(昭和11) パリ大学へ留学する
・1938年(昭和13) パリ大学を卒業する
・1940年(昭和15) 射影接続空間に関する論文により、東京帝国大学より、理学博士号を得る
・1941年(昭和16) 東京帝国大学講師となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学助教授となる
・1950年(昭和25) アメリカのプリンストン高等研究所の所員(~1952年)となる
・1953年(昭和28) ローマ大学客員教授となる
・1954年(昭和29) アムステルダム大学客員教授となり、国際数学者会議で招待講演をする
・1958年(昭和33) 東京工業大学教授となる
・1966年(昭和41) 岩波新書より『新しい数学』を刊行する
・1968年(昭和43) 新潮選書より『アインシュタイン伝』、講談社現代新書より『数学へのすすめ』を刊行する
・1969年(昭和44) 講談社現代新書より『確率のはなし』を刊行する
・1970年(昭和45) 東京工業大学理学部長となる
・1972年(昭和47) 東京工業大学名誉教授に就任する
・1964年(昭和39) 『科学図説シリーズ』全12巻の執筆者の一人として、サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1976年(昭和51) 紫綬褒章を受章する
・1983年(昭和58) 勲二等瑞宝章を受章する
・1993年(平成5年)12月25日 81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1783年(天明3)俳人・画家与謝蕪村の命日(新暦1784年1月17日)詳細
1809年(文化6)『大日本史』全397巻が一部を除き完成し、水戸藩より朝廷へ献上される(新暦1810年1月30日)詳細
1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
1961年(昭和36)キリスト教伝道者・経済学者・教育家・東京大学総長矢内原忠雄の命日詳細
1986年(昭和61)医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の命日詳細
1988年(昭和63)小説家・評論家大岡昇平の命日詳細
1997年(平成9)小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の命日詳細
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