ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 学者

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 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、国際政治学者緒方貞子が亡くなった日です。
 緒方貞子(おがた さだこ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)9月16日に、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、外交官・元フィンランド特命全権公使の父・中村豊一と母・恒子の長女として生まれました。1951年(昭和26)に聖心女子大学英文科を卒業し、ロータリー国際親善奨学生として渡米、1953年(昭和28)に、ジョージタウン大学国際関係論修士課程、1963年(昭和38)には、カリフォルニア大学バークレー校政治学博士課程を修了します。
 1965年(昭和40)に、国際基督教大学非常勤講師となり、1968年(昭和43)に、国連総会日本政府代表顧問、1974年(昭和49)には、国際基督教大学准教授となりました。1976年(昭和51) 国連日本政府代表部公使、1978年(昭和53)に、国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長、1979年(昭和54)には、外務省参与、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長となります。
 1980年(昭和55)に上智大学国際関係研究所教授、1981年(昭和56)に婦人問題企画推進会議委員、1982年(昭和57)に国連人権委員会日本政府代表、1983年(昭和58)には、国際人道問題独立委員会委員となりました。1987年(昭和62)に上智大学国際関係研究所長、1989年(平成元)に上智大学外国語学部長、1990年(平成2)には、国連人権委員会ビルマ人権状況専門官となります。
 1991年(平成3)に第8代国連難民高等弁務官に就任、1993年(平成5)にイタリア金の鳩平和賞、1994年(平成6)に自由賞、欠乏からの自由賞、1995年(平成7)にフィラデルフィア自由賞、1996年(平成8)にフェリックス・ウーフェ=ボワニ平和賞、1997年(平成9)にマグサイサイ賞平和・国際理解部門を受賞しました。2000年(平成12)に難民教育基金を設立、国連難民高等弁務官を退任、ソウル平和賞、2001年(平成13)に人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援政府特別代表となり、フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章、文化功労者となります。
 2002年(平成14)にアフガニスタン復興支援国際会議共同議長となり、フルブライト賞を受賞、2003年(平成15)に文化勲章を受章、2004年(平成16)には、東京都名誉都民となりました。2005年(平成17)に世界市民賞、2006年(平成18)にフィリピンのラカンドゥラ勲章、2008年(平成20)にオランダのオラニエ・ナッサウ勲章を受章、2009年(平成21)には、後藤新平賞を受賞します。2011年(平成23)に人間の安全保障諮問委員会議長を退任し、人間の安全保障諮問委員会名誉議長に就任、聖マイケル・聖ジョージ勲章(DCMG)、キルギスの国家友好章を受章、2012年(平成24)には、国際協力機構 (JICA) 理事長を退任し、国際協力機構 (JICA) 特別顧問に就任、地球市民賞を受賞しました。
 2013年(平成25)にアステカ鷲勲章、シカツナ勲章を受章したものの、2019年(平成31)10月22日に、東京において、92歳で亡くなり、従三位を追贈されます。

<主要な著書>

・『満州事変と政策の形成過程』(1966年)
・『日本における国際組織研究』(1982年)
・『難民つくらぬ世界へ』(1996年)
・『私の仕事――国連難民高等弁務官の十年と平和の構築』(2002年)
・『紛争と難民――緒方貞子の回想』(2006年)
・『満州事変――政策の形成過程』(2011年)
・『共に生きるということ――be humane』(2013年)

〇緒方貞子関係略年表

・1927年(昭和2)9月16日 東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、外交官・元フィンランド特命全権公使の父・中村豊一と母・恒子の長女として生まれる
・1951年(昭和26) 聖心女子大学英文科を卒業し、ロータリー国際親善奨学生として渡米する
・1953年(昭和28) ジョージタウン大学国際関係論修士課程を修了する
・1963年(昭和38) カリフォルニア大学バークレー校政治学博士課程を修了する
・1965年(昭和40) 国際基督教大学非常勤講師となる
・1968年(昭和43) 国連総会日本政府代表顧問となる
・1974年(昭和49) 国際基督教大学准教授となる
・1976年(昭和51) 国連日本政府代表部公使となる
・1978年(昭和53) 国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長となる
・1979年(昭和54) 外務省参与、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長となる
・1980年(昭和55) 上智大学国際関係研究所教授となる
・1981年(昭和56) 婦人問題企画推進会議委員となる
・1982年(昭和57) 国連人権委員会日本政府代表となる
・1983年(昭和58) 国際人道問題独立委員会委員となる
・1987年(昭和62) 上智大学国際関係研究所長となる
・1989年(平成元) 上智大学外国語学部長となる
・1990年(平成2) 国連人権委員会ビルマ人権状況専門官(ビルマは現在のミャンマー)となる
・1991年(平成3) 第8代国連難民高等弁務官に就任する
・1993年(平成5) イタリア金の鳩平和賞を受賞する
・1994年(平成6) 国連難民高等弁務官に再任(任期5年)され、自由賞、欠乏からの自由賞を受賞する
・1995年(平成7) フィラデルフィア自由賞を受賞する
・1996年(平成8) フェリックス・ウーフェ=ボワニ平和賞を受賞する
・1997年(平成9) マグサイサイ賞平和・国際理解部門を受賞する
・1999年(平成11) 国連難民高等弁務官に再任(任期2年)され、朝日賞特別賞を受賞する
・2000年(平成12) 難民教育基金を設立、国連難民高等弁務官を退任、ソウル平和賞を受賞する
・2001年(平成13) 人間の安全保障委員会共同議長、アフガニスタン支援政府特別代表となり、フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章、文化功労者となる
・2002年(平成14) アフガニスタン復興支援国際会議共同議長となり、フルブライト賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) 東京都名誉都民となる
・2005年(平成17) 世界市民賞を受賞する
・2006年(平成18) フィリピンの旗ラカンドゥラ勲章を受章する
・2008年(平成20) オランダの旗オラニエ・ナッサウ勲章を受章する
・2009年(平成21) 後藤新平賞を受賞する
・2011年(平成23) 人間の安全保障諮問委員会議長を退任し、人間の安全保障諮問委員会名誉議長に就任、聖マイケル・聖ジョージ勲章(DCMG)、キルギスの国家友好章を受章する
・2012年(平成24) 国際協力機構 (JICA) 理事長を退任し、国際協力機構 (JICA) 特別顧問に就任、地球市民賞を受賞する
・2013年(平成25) アステカ鷲勲章、シカツナ勲章を受章する
・2019年(平成31)10月22日 東京において、92歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1940年(昭和15)社会主義者西川光二郎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
2010年(平成22)囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) の命日詳細
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kobayashinaoki01
 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、法学者小林直樹が生まれた日です。
 小林直樹(こばやし なおき)は、大正時代の1921年(大正10)10月3日に、長野県小県郡滋野村(現在の小諸市)において生まれました。旧制上田中学校(現在の長野県上田高等学校)、旧制水戸高等学校(現在の茨城大学文理学部)を経て、11942年(昭和17)に東京帝国大学文学部哲学科へ入学しましたが、法学部政治学科に再受験の上で転籍します。
 1943年(昭和18)に、学徒動員により、帝国陸軍にて軍務に就いたものの、敗戦後の1945年(昭和20)に、東京帝国大学に復学しました。1946年(昭和21)に、東京帝国大学法学部を卒業し、同大学大学院特別研究生として、尾高朝雄の下で法哲学の研究を行い、1947年(昭和22)に高等文官試験に合格、1951年(昭和26)には、東京大学大学院特別研究生を修了し、東京大学教養学部講師となります。
 1953年(昭和28)に教養学部助教授に昇任し、1954年(昭和29)から、法哲学研究のため2年間西ドイツへ留学しました。1959年(昭和34)に東京大学法学部助教授(憲法第二講座)となり、1961年(昭和36)には、法学部教授(憲法第一講座)に昇任し、『憲法の構成原理』を東京大学出版会より刊行しています。
 1962年(昭和37)に学位論文「憲法の構成原理」で、東京大学より法学博士号を得ましたが、1982年(昭和57)には、東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となり、専修大学法学部教授となりました。甥の稲田年行や同僚の儀我壮一郎とともに自宅で学術サロンを開き、多様な学者たちの交流の場とします。
 1992年(平成4)に専修大学法学部教授を退職し、北海学園大学法学部教授・同大学院法学研究科教授となったものの、1996年(平成8)には、退職しました。2003年(平成15)に『法の人間学的考察』を刊行、2006年(平成18)に総合人間学会を設立し、初代会長となり、2011年(平成23)には、『暴力の人間学的考察』を刊行しています。
 「日本国憲法」を理論、解釈学、政策学の分野にわたり実証的に研究して学界を主導し、憲法の基本原理を擁護して、改憲論に一貫して反対の立場をとってきましたが、2020年(平成32)2月8日に、東京都内の病院において、くも膜下出血のため、98歳で亡くなりました。

<主要な著作>

・『法理学 上巻』(1960年)
・『憲法講義』第1-第3 東京大学出版会, 1961
・『憲法の構成原理』(1961年)
・『日本における憲法動態の分析』(1963年)
・『日本国憲法の問題状況』(1964年)
・『憲法を読む』(1966年)
・『現代基本権の展開』現代法叢書 (1976年) 
・『憲法判断の原理』 1977-78年) 
・『国家緊急権 非常事態における法と政治』 (1979年) 
・『憲法第九条』 (1982年)
・『現代教育の条件 その再生をねがって』 (1983年) 
・『立法学研究:理論と動態』(1984年)
・『憲法秩序の理論』(1986年)
・『憲法と日本人』UP選書(1987年) 
・『法・道徳・抵抗権』(1988年)
・『憲法政治の転換 民主政の再建を求めて』(1990年) 
・『憲法政策論』(1991年) 
・『憲法学の基本問題』(2002年)
・『法の人間学的考察』(2003年)
・『平和憲法と共生六十年--憲法第九条の総合的研究に向けて』(2006年)
・『暴力の人間学的考察』(2011年)
・『欲望の人間学』(2012年)

〇小林直樹関係略年表

・1921年(大正10)10月3日 長野県小県郡滋野村(現在の小諸市)において、生まれる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部哲学科へ入学するが、法学部政治学科に再受験の上で転籍する
・1943年(昭和18) 学徒動員により、帝国陸軍にて軍務につく
・1945年(昭和20) 東京帝国大学に復学する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学法学部を卒業し、同大学大学院特別研究生として、尾高朝雄の下で法哲学の研究を行う
・1947年(昭和22) 高等文官試験に合格する
・1951年(昭和26) 東京大学大学院特別研究生を修了し、東京大学教養学部講師となる
・1953年(昭和28) 東京大学教養学部助教授となる
・1954年(昭和29) 法哲学研究のため西ドイツへ留学する
・1956年(昭和31) 西ドイツの留学から帰国する
・1959年(昭和34) 東京大学法学部助教授(憲法第二講座)となる
・1961年(昭和36) 東京大学法学部教授(憲法第一講座)となり、『憲法の構成原理』を東京大学出版会より刊行する
・1962年(昭和37) 学位論文「憲法の構成原理」で、東京大学より法学博士号を得る
・1982年(昭和57) 東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となり、専修大学法学部教授となる
・1992年(平成4) 専修大学法学部教授を退職し、北海学園大学法学部教授・同大学院法学研究科教授となる
・1996年(平成8) 北海学園大学法学部教授・同大学院法学研究科教授を退職する
・2003年(平成15) 『法の人間学的考察』を刊行する
・2006年(平成18) 総合人間学会を設立し、初代会長となる
・2011年(平成23) 『暴力の人間学的考察』を刊行する
・2020年(平成32)2月8日 東京都内の病院において、くも膜下出血のため、98歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)土佐藩後藤象二郎らが前藩主山内豊信の「大政奉還建白書」を幕府に提出する(新暦10月29日)詳細
1871年(明治4)宗門人別改帳が廃止される(新暦11月15日)詳細
1884年(明治19)小説家・社会教育家下村湖人の誕生日詳細
1899年(明治32)日本画家山口華楊の誕生日詳細
1932年(昭和7)拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発する詳細
1964年(昭和39)日本武道館の開館式・演武始めの儀が行なわれる詳細
大分県別府市~熊本県阿蘇郡一の宮町50kmの九州横断道路(愛称:やまなみハイウェイ)が開通する詳細
1983年(昭和58)三宅島の雄山が21年ぶりに大噴火し、熔岩流によって約400戸が埋没・焼失する(三宅島1983年噴火)詳細

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nishizawajyunichi01
 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、半導体工学者西澤潤一が生まれた日です。
 西澤 潤一(にしざわ じゅんいち)は、大正時代の1926年(大正15)9月12日に、宮城県仙台市において、東北帝国大学教授だった、父・西澤恭助の長男として生まれました。宮城県仙台第二中学校、第二高等学校を経て、1945年(昭和20)に東北大学工学部電気工学科へ入学します。
 渡辺寧に師事して、半導体の研究を開始し、1948年(昭和23)に卒業後、同大学大学院特別研究生となり、1953年(昭和28)に修了後、同大学電気通信研究所助手となりました。1954年(昭和29)に助教授に昇任し、1960年(昭和35)に東北大学より工学博士を得て、1962年(昭和37)には、教授に昇任します。
 1965年(昭和40)に、「不純物不均一半導体」で科学技術庁長官奨励賞、翌年には、恩賜発明賞を受賞しました。1968年(昭和43)に財団法人半導体研究振興会半導体研究所長となり、1969年(昭和44)に「半導体デバイスの研究」で松永賞、翌年には、「半導体メーサー」で科学技術庁長官奨励賞を受賞します。
 1974年(昭和49)に「半導体及びトランジスタの研究」で日本学士院賞、1980年(昭和55)に「高輝度発光ダイオードの連続成長技術の開発について」で大河内記念技術賞を受賞、1983年(昭和58)に東北大学電気通信研究所長(~1986年3月)、文化功労者となりました。1989年(平成元)に文化勲章を受章、1990年(平成2)に東北大学名誉教授、東北大学総長に就任し、宮城県名誉県民、1995年(平成7)には、日本学士院会員となります。
 1997年(平成9)に東北自治総合研修センター館長、宮城大学名誉学長、1998年(平成10)に岩手県立大学学長、2000年(平成12)には、日本人初のIEEEエジソンメダルを得ました。2002年(平成14)に勲一等瑞宝章を受章、西澤の業績を記念してIEEE Jun-ichi Nishizawa Medalが創設され、2005年(平成17)には、首都大学東京学長、岩手県立大学名誉学長、上智大学特任教授となったものの、2018年(平成30)10月21日に、宮城県仙台市において、92歳で亡くなっています。

<西澤潤一の主要な著作>

・『闘う独創技術』(1981年)
・『愚直一徹 - 私の履歴書 -』(1985年) 
・『独創は闘いにあり』(1986年)
・『「十年先を読む」発想法』(1986年)
・『西澤潤一の独創開発論』(1986年) 
・『「技術大国・日本」の未来を読む』(1989年)
・『私のロマンと科学』(1990年)
・『独創教育が日本を救う』(1991年)
・『人類は滅亡に向かっている』(1993年)
・『東北の時代 - もはや一極集中の時代ではない』(1995年) 
・『教育の目的再考』(岩1996年) 
・『新学問のすすめ - 21世紀をどう生きるか』(1997年) 
・『背筋を伸ばせ日本人』(1999年) 
・『人類は80年で滅亡する』(2000年) 
・『教育亡国を救う』(2000年) 
・『赤の発見 青の発見』(2001年)
・『日本人よロマンを』(2002年)
・『戦略的独創開発』(2006年)
・『生み出す力』(2010年) 
・『わたしが探究について語るなら』(2010年)

〇西澤潤一関係略年表

・1926年(大正15)9月12日 宮城県仙台市において、東北帝国大学教授だって父・西澤恭助の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 宮城県仙台第二中学校を卒業する
・1945年(昭和20) 第二高等学校を卒業する
・1948年(昭和23) 東北大学工学部電気工学科を卒業する
・1953年(昭和28) 東北大学大学院特別研究生修了、東北大学電気通信研究所助手となる
・1954年(昭和29) 東北大学電気通信研究所助教授となる
・1960年(昭和35) 東北大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 東北大学電気通信研究所教授となる
・1965年(昭和40) 「不純物不均一半導体」で科学技術庁長官奨励賞を受賞する
・1966年(昭和41) 「不純物不均一半導体」恩賜発明賞を受賞する
・1968年(昭和43) 財団法人半導体研究振興会半導体研究所長となる
・1969年(昭和44) 「半導体デバイスの研究」で松永賞を受賞する
・1970年(昭和45) 「半導体メーサー」で科学技術庁長官奨励賞を受賞する
・1971年(昭和46) 「合金拡散法によるシリコン可変容量ダイオードの開発」で大河内記念技術賞を受賞する
・1974年(昭和49) 「半導体及びトランジスタの研究」で日本学士院賞を受賞する
・1975年4月15日、「静電誘導電界効果トランジスタの開発」で科学技術功労賞、「新しい三極管特性を有する高性能トランジスタ」で電子通信学会業績賞、「位置の制御装置」で東北地方発明賞宮城県支部長賞を受賞、「完全結晶と静電誘導トランジスタ」で紫綬褒章を受章する
・1980年(昭和55) 「高輝度発光ダイオードの連続成長技術の開発について」で大河内記念技術賞、「連続液相成長による半導体デバイスの製造方法及び製造装置」で特許庁長官奨励賞を受賞する
・1982年(昭和57) 「高輝度発光ダイオードの連続製造技術」で井上春成賞を受賞する
・1983年(昭和58) 東北大学電気通信研究所長(~1986年3月)、文化功労者(半導体工学)となり、「SIT(静電誘導トランジスタ)の開発と光通信の基本3要素」でIEEEジャック・A・モートン賞を受賞する
・1984年(昭和58) 「光通信と半導体の研究」で朝日賞を受賞する
・1986年(昭和58) 「pinダイオード、静電誘導トランジスタなどを発明したほか光通信技術の応用発展に寄与」で本田賞を受賞する
・1989年(平成元) 再び、東北大学電気通信研究所長(~1990年3月)となる
・1989年(平成元) IOCG(国際結晶成長機構)ローディス賞を受賞する
・1989年(平成元) 文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 東北大学名誉教授、東北大学総長に就任し、宮城県名誉県民となる
・1995年(平成7) 日本学士院会員となる
・1996年(平成8) 「材料科学の独創的研究と半導体工学の発展および光通信の先駆的業績と多大な貢献」で大川賞を受賞する
・1997年(平成9) 東北自治総合研修センター館長、宮城大学名誉学長となる
・1998年(平成10) 岩手県立大学学長となる
・1999年(平成11) 東北大学電気系同窓会会長となる
・2000年(平成12) IEEE エジソンメダルを得る
・2002年(平成14) 勲一等瑞宝章を受章、西澤の業績を記念してIEEE Jun-ichi Nishizawa Medalが創設される
・2005年(平成17) 首都大学東京学長、岩手県立大学名誉学長、上智大学特任教授となる
・2018年(平成30)10月21日 宮城県仙台市において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1868年(明治元)明治新政府が江戸幕府の洋学教育研究機関「開成所」を「開成学校」として復興する(新暦10月27日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細
1887年(明治20)日本画家堅山南風の誕生日詳細
1913年(大正2)「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始される詳細
1963年(昭和38)松川事件で、最高裁が検察側による再上告を棄却し、被告17名全員の無罪が確定する詳細
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aboshiyoshinori01
 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、考古学者網干善教の亡くなった日です。
 網干善教(あぼし よしのり)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)9月29日に、奈良県高市郡飛鳥村(現在の明日香村)において、父・網干順三の子として生まれましたが、3歳の時、父の網干順三が唯称寺の住職・順誠となり、一家で移り住みました。1933年(昭和8)に、第一次石舞台発掘調査に身近に接して考古学に関心を持つようになり、1940年(昭和15) には、奈良県立畝傍中学校(現在の畝傍尚等学校)へ入学します。
 1948年(昭和23)に、龍谷大学文学部国史学科へ入学し、1951年(昭和26) には、龍谷大学文学部史学科国史学専攻 (旧制)を卒業後、奈良県高市郡飛烏村立飛島中学校教諭となり、1952年(昭和27)には、奈良県大和高田市立尚田中学校教諭となりました。1954年(昭和29)に龍谷大学大学院文学研究科修士謀程修了、末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となり、1954年(昭和29)には、龍谷大学大学院文学研究科修士謀程を修了、末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となります。
 1955年(昭和30)に橿原(かしはら)考古学研究所所員となり、1957年(昭和32) に龍谷大学副手、1962年(昭和37)には、奈良県立奈良商工高等学校教諭となりました。1967年(昭和42)に関西大学文学部専任講師、1969年(昭和44)に同大学文学部助教授となり、1972年(昭和47)には、高松塚古墳の調査に参加し彩色壁画を発見します。
 1973年(昭和48)に関西大学文学部教授、1975年(昭和50)に平城・飛鳥藤原京跡調究整備委員会委員となり、1979年(昭和54)には、学位論文「終末期古墳の研究」を関西大学に提出して文学博士号を取得しました。1985年(昭和60)に関西大学日・印共同学術調査派逍調査隊長となり、インドのサヘート遺跡を調査、1988年(昭和63)にマルコ山古瑣現境賂備委員会委員となり、1994年(平成6)には、関西大学博物館長となります。
 1996年(平成8)にキトラ古瑣調査委員会顧問となり、1997年(平成9)に「大和における寺院跡の研究」で竜谷賞を受賞、1998年(平成10) には、関西大学を定年退官して名誉教授となり、奈良新聞文化賞を受賞しました。1999年(平成11)に奈良県文化財保存評議会委員、2000年(平成12)に関西大学評議員となり、2002年(平成14)には、大阪文化賞、明日香村自治功労賞を受賞、2003年(平成15)には、飛鳥古京を守る会委員長となります。
 2005年 (平成17)に宮内庁掛陵部委員となり、明日香村名誉村民となったものの、2006年(平成18)7月29日に、胆管癌により78歳で亡くなり、従五位・瑞宝中授章を追贈されました。

〇網干善教の主要な著作

・『高松塚論批判』(1974年)
・『飛鳥の遺蹟』(1978年)
・『日本にきた韓国文化』(1982年)
・『飛鳥の発掘』(1985年)
・『飛鳥発掘:成果と展望』(1988年)
・『飛鳥の風土と歴史:あすかとともに』(1996年)
・『アジア史紀行:一考古学徒の遊学記』(1996年)
・『古墳と古代史』(1996年)
・『日本古代史稿』(1998年)
・『高松塚古墳の研究』(1999年)
・『仏教考古学研究』(2000年)
・『古都・飛鳥の発掘』(2003年)
・『終末期古墳の研究』(2003年)
・『壁画古墳の研究』(2006年)
・『大和の古代寺院跡をめぐる』(2006年)
・『高松塚への道』(2007年)

☆網干善教関係略年表

・1927年(昭和2)9月29日 奈良県高市郡飛鳥村(現在の明日香村)において、父・網干順三の子として生まれる
・1930年(昭和5) 父の網干順三が唯称寺の住職・順誠となり、一家で移り住む
・1933年(昭和8) 第一次石舞台発掘調査に身近に接して考古学に関心を持つようになる
・1940年(昭和15)  奈良県立畝傍中学校(現在の畝傍尚等学校)へ入学する
・1948年(昭和23)  龍谷大学文学部国史学科へ入学する
・1951年(昭和26)  龍谷大学文学部史学科国史学専攻 (旧制)を卒業後、奈良県高市郡飛烏村立飛島中学校教諭となる
・1952年(昭和27)  奈良県大和高田市立尚田中学校教諭となる
・1954年(昭和29) 龍谷大学大学院文学研究科修士謀程修了、末永博士の指示で実家近くの石舞台復元工事の現場責任者となる
・1955年(昭和30) 橿原(かしはら)考古学研究所所員となる
・1957年(昭和32)  龍谷大学副手となる
・1962年(昭和37) 奈良県立奈良商工高等学校教諭となる
・1967年(昭和42) 関西大学文学部専任講師となる
・1969年(昭和44) 関西大学文学部助教授となる
・1970年(昭和45) 高松塚のそばで生姜用の穴を掘っていくと切石が見えたという話を聞き、自転車で現場に急行する
・1972年(昭和47) 高松塚古墳の調査に参加し彩色壁画を発見する
・1973年(昭和48) 関西大学文学部教授となる
・1975年(昭和50) 平城・飛鳥藤原京跡調究整備委員会委員となる
・1979年(昭和54) 学位論文「終末期古墳の研究」を関西大学に提出して文学博士号を取得する
・1982年(昭和57) 全国大学拇物館学講座協議会委員長となる
・1985年(昭和60) 関西大学日・印共同学術調査派逍調査隊長となり、インドのサヘート遺跡を調査する
・1988年(昭和63) マルコ山古瑣現境賂備委員会委員となる
・1994年(平成6)  関西大学博物館長となる
・1996年(平成8) キトラ古瑣調査委員会顧問となる
・1997年(平成9) 「大和における寺院跡の研究」で竜谷賞を受賞する
・1998年(平成10)  関西大学を定年退官して名誉教授となり、奈良新聞文化賞を受賞する
・1999年(平成11) 奈良県文化財保存評議会委員となる
・2000年(平成12) 関西大学評識貝となる
・2002年(平成14) 大阪文化賞、明日香村自治功労賞を受賞する
・2003年(平成15) 飛鳥古京を守る会委員長となる
・2005年 (平成17) 宮内庁掛陵部委員となり、明日香村名誉村民となる
・2006年(平成18)7月29日 胆管癌により78歳で亡くなり、従五位・瑞宝中授章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)「日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1899年(明治32)第1回万国平和会議(於:オランダ・ハーグ)が終了し、「ハーグ陸戦条約」が締結される詳細
1905年(明治38)「桂・タフト協定」が締結される詳細
1957年(昭和32)「国際原子力機関憲章(IAEA憲章)」が発効し、国際原子力機関(略称:IAEA)が設立される詳細
1969年(昭和44)冶金学者・化学者村上武次郎の命日詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細
1999年(平成11)小説家・フランス文学者辻邦生の命日詳細
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kodairakunihiko01
 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、数学者小平邦彦の亡くなった日です。
 小平邦彦(こだいら くにひこ)は、大正時代の1915年(大正4)3月16日に、東京市において、農政官僚だった小平権一の長男として生まれました。東京府立第五中学(現在の都立小石川中等教育学校)、(旧制第一高等学校を経て、1935年(昭和10)に、東京帝国大学理学部数学科へ入学します。
 1938年(昭和13)に数学科卒業後、同大学物理学科へ再入学し、1941年(昭和16)に物理学科を卒業後、同学科講師となりました。1942年(昭和17)に東京文理大学理学部数学科助教授、1944年(昭和19)には、東京帝国大学理学部物理学科助教授となります。
 1949年(昭和24)に、論文:「Harmonic fields in Riemannian manifolds(リーマン空間に於ける調和場)」で、東京大学より理学博士号を得、プリンストン高等研究所研究員となり、1952年(昭和27)には、プリンストン大学数学科准教授となりました。1954年(昭和29)に国際数学者会議において、「調和積分論」で、フィールズ賞を受賞、1955年(昭和30)に、プリンストン大学数学科教授となり、1957年(昭和32)には、日本学士院賞を受賞、文化勲章を受章しています。
 1962年(昭和37)に、ジョンズ・ホプキンズ大学数学科教授となり、1965年(昭和40)には、スタンフォード大学数学科教授、日本学士院会員となりました。1967年(昭和42)に日本へ帰国し、翌年には、東京大学理学部数学科教授となり、1975年(昭和50)には、東京大学を定年退官し、学習院大学理学部教授となり、「複素多様体の理論特に変形理論と複素解析曲面論の研究」で、藤原賞を受賞しています。
 1984年(昭和59)に、イスラエルのウルフ財団よりウルフ賞数学部門を受賞、1985年(昭和60)に学習院大学理学部教授を辞め、1987年(昭和62)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1990年(平成2)らに、京都市開催の国際数学者会議で組織委員長を務め、固有値問題、代数幾何学、群論など広範囲にわたる業績を上げてきたものの、1997年(平成9)7月26日に、山梨県の病院において、82歳で亡くなっています。
 尚、2019年(平成31)には、日本数学会が小平邦彦賞を設立し、第1回授賞式が行われました。

〇小平邦彦の主要著作

・『解析入門 I-IV』(1976年、1977年、1979年)
・『複素解析 I-III』(1977年、1978年)
・『複素多様体論 I-III』(1979年、1981年)
・『幾何のおもしろさ』(1985年)
・『幾何への誘い』(1991年)
・『怠け数学者の記』(1986年)
・『ボクは算数しか出来なかった―小平邦彦・私の履歴書』(1987年)

☆小平邦彦関係略年表

・1915年(大正4)3月16日 東京市において、農政官僚だった小平権一の長男として生まれる
・1935年(昭和10) 東京帝国大学数学科へ入学する
・1938年(昭和13) 東京帝国大学数学科卒業後、同大学物理学科へ入学する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学物理学科を卒業後、同学科講師となる
・1942年(昭和17) 東京文理大学理学部数学科助教授となる
・1944年(昭和19) 東京帝国大学理学部物理学科助教授となる
・1949年(昭和24) 論文:「Harmonic fields in Riemannian manifolds(リーマン空間に於ける調和場)」で、東京大学より理学博士号を得、プリンストン高等研究所研究員となる
・1952年(昭和27) プリンストン大学数学科准教授となる
・1954年(昭和29) 国際数学者会議において、「調和積分論」で、フィールズ賞を受賞する
・1955年(昭和30) プリンストン大学数学科教授となる
・1957年(昭和32) 日本学士院賞を受賞、文化勲章を受章する
・1962年(昭和37) ジョンズ・ホプキンズ大学数学科教授となる
・1965年(昭和40) スタンフォード大学数学科教授となり、日本学士院会員となる
・1967年(昭和42) 日本へ帰国する
・1968年(昭和43) 東京大学理学部数学科教授となる
・1975年(昭和50) 東京大学を定年退官し、学習院大学理学部教授となり、「複素多様体の理論特に変形理論と複素解析曲面論の研究」で、藤原賞を受賞する
・1984年(昭和59) イスラエルのウルフ財団よりウルフ賞数学部門を受賞する
・1985年(昭和60) 学習院大学理学部教授を辞める
・1987年(昭和62) 勲一等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 京都市開催の国際数学者会議で組織委員長を務める
・1997年(平成9)7月26日 山梨県の病院において、82歳で亡くなる
・2019年(平成31) 日本数学会が小平邦彦賞を設立し、第1回授賞式が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1651年(慶安4)軍学者・慶安の変の首謀者由比正雪が自害する(新暦9月10日)詳細
1825年(文政8)江戸中村座で鶴屋南北(四代目)作の『東海道四谷怪』が初演さされる(新暦9月8日)詳細
1881年(明治14)劇作家・演出家小山内薫の誕生日詳細
1940年(昭和15)第2次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)で協議の上、ポツダム宣言が出される詳細
1963年(昭和38)経済協力開発機構(OECD)が日本の加盟を承認(正式加盟は翌年4月28日)する詳細
1981年(昭和56)全国8番目の地下鉄として、福岡市地下鉄初の天神駅~室見駅間(1号線)が開業する詳細
1992年(平成4)将棋棋士・15世永世名人大山康晴の命日詳細
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