ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 宗教家

kuukai01

 今日は、平安時代前期の835年(承和2)に、平安時代の僧・真言宗の開祖空海(弘法大師)の亡くなった日ですが、新暦では4月22日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

keichyuu01

 今日は、江戸時代中期の1701年(元禄14)に、真言宗僧・国学者・歌人契沖の亡くなった日ですが、新暦では3月4日となります。
 契沖(けいちゅう)は、江戸時代前期の1640年(寛永17)に、摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、尼崎青山氏に仕えた下川(しもがわ)家の、父・元全(もとさだ)の第3子(母は間氏の出)として生まれました。11歳で出家し、大坂今里妙法寺の定(かいじょう)の弟子となり、13歳で高野山に上り東室院快賢(とうしついんかいけん)について修業します。
 23歳で大坂の曼陀羅院の住職となり、24歳で阿闍梨位を得、その間に下河辺長流の知遇を得て学問的な示唆を受け、古典に親しみ始めました。27歳の頃、諸国修行の旅に出て、大和室生、高野を経て、30歳頃より和泉の名家伏屋家などに寄食、この間和漢の典籍を読破したとされます。
 1677年(延宝5)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受け、1679年(延宝7)には大坂に戻り、再び妙法寺の住持となりました。1690年(元禄3)51歳の頃、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退き、古典研究等に没頭、多くの著述を成します。
 その過程で、徳川光圀の知遇を得、水戸家の嘱をうけて万葉集の注釈をし、『万葉代匠記』を書きあげ、続いて、古代歌謡の注釈書『厚顔抄』(1691年成立)、古今和歌集の注釈書『古今余材抄』(1692年成立)、伊勢物語の注釈書『勢語臆断』などを著しました。その他、『和字正濫鈔』などで歴史的仮名遣いの基礎を確立し、『勝地吐懐編』など歌枕研究も行い、また新古今調で写実的な和歌を詠み、『契沖和歌延宝集』、『漫吟集』等を出し、随筆『円珠庵雑記』なども残します。
 国学発展の基礎を築き、後世に大きな影響を与えることとなりますが、1701年(元禄14年1月25日)に、大坂の円珠庵において、数え年62歳で亡くなりました。

<代表的な和歌>

・「和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉」
・「はつせのや 里のうなゐに 宿とへば 霞める梅の 立枝をぞさす」(漫吟集類題)
・「ふじのねは 山の君にて 高御座 空にかけたる 雪のきぬがさ」(漫吟集類題)
・「出でてこし わが故里を 人とはば いづれの雲を さしてこたへん」(漫吟集類題)

〇契沖の主要な著作

・注釈書『万葉代匠記』(1690年)
・注釈書『厚顔抄』(1691年成立)
・注釈書『古今余材抄』(1692年成立)
・注釈書『新勅撰評註』
・注釈書『勢語臆断』
・注釈書『源註拾遺』(1696年成立)
・注釈書『百人一首改観抄』
・国語学書『和字正濫鈔』(1693年成立、1695年刊)
・国語学書『和字正濫通妨抄』(1697年成立)
・歌枕研究書『勝地吐懐編(しょうちとかいへん)』
・歌集『漫吟集(まんぎんしゅう)』
・歌集『契沖和歌延宝集(えんぽうしゅう)』
・随筆『河社(かわやしろ)』
・随筆『契沖雑考』
・随筆『円珠庵雑記』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

takuwansouhou01

 今日は、江戸時代前期の正保2年に、臨済宗の僧沢庵宗彭がなくなった日(沢庵忌)ですが、新暦では1646年1月27日となります。
 沢庵宗彭(たくあん そうほう)は、安土桃山時代の1573年(天正元年12月1日)に、但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市)において、山名祐豊の重臣だった秋庭綱典の次男として生まれました。1580年(天正8)、8歳のときに但馬山名家が羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父が浪人となり、1582年(天正10)に出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得ます。
 禅に志すようになり、1586年(天正14年)に出石の宗鏡寺塔頭勝福寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しました。1592年(文禄元)に董甫が宗鏡寺に来り、1594年(文禄3)には薫甫が大徳寺住持となり上京したため、連れられて大徳寺三玄院に入ります。
 大徳寺の諸老に参じましたが、1599年(慶長4)に江州佐和山に移り、翌年の関ヶ原の戦いを経て、石田三成の没後、大徳寺三玄院に帰りました。1601年(慶長6)に堺に移り、詩文を文西に学び、翌年に和歌を細川幽斎に学び、1603年(慶長8)には一凍紹滴に参じ、翌年に一凍が印可し、初めて沢庵と号します。
 1607年(慶長12)に大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに堺南宗寺にも住持し、1609年(慶長14)には、大徳寺の第154世住持に出世するも名利を求めず、3日で去って堺へ戻りました。1615年(元和元)に南宗寺が大坂夏の陣の兵火にかかりましたが、1619年(元和5)には再興が成ります。
 1620年(元和6)に郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、投淵軒と命名して隠棲生活に入り、翌年には『理気差別論』を著しました。1626年(寛永3)に「禁中並公家諸法度」の励行が達せられ、大徳寺の出世が禁ぜられるなどの紫衣事件が起こると、翌年にはこれに反発して京に上り、大徳寺の僧侶をまとめ、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行います。
 これが幕府の忌諱に触れ、1629年(寛永6)に江戸へ召喚され、同年7月には有罪とされて出羽国上山に配流されました。しかし、1632年(寛永9年)に大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、江戸に帰り駒込に住むことになります。
 その後、後水尾天皇・第3代将軍徳川家光の厚遇を受け、家光の命により、1639年(寛永16年)に江戸品川に東海寺が完成し、開山となりました。1641年(寛永18)には、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されます。
 詩歌・俳諧・書画・茶道にも通じたものの、病を得て、1646年1月27日(正保2年12月11日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなりました。

〇沢庵宗彭の主要な著作

・『理気差別論』(1621年)
・『東国紀行』(1629年)
・『鎌倉遊覧記』(1633年)
・『木曽路紀行』(1634年)
・『東海道の記』(1636年)
・『祠堂記』(1643年)
・『不動智神妙録』
・『沢庵和尚法語』

☆沢庵宗彭関係略年表(日付は旧暦です)

・1573年(天正元年12月1日) 山名祐豊の重臣だった秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。
・1579年(天正7年) 父綱典が沢庵の出家を約束する。
・1580年(天正8年) 8歳のとき但馬山名家が羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父が浪人となる。
・1582年(天正10年) 出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得る。
・1585年(天正13年) 禅に志す。
・1586年(天正14年) 出石の宗鏡寺塔頭勝福寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名する。
・1591年(天正19年) 勝福寺の希先が示寂する。 
・1592年(文禄元年) 董甫が宗鏡寺に来る。
・1594年(文禄3年) 薫甫が大徳寺住持となり上京したため、連れられて大徳寺三玄院に入る。 
・1596年(慶長元年) 大徳寺の諸老に参じる。 
・1599年(慶長4年) 江州佐和山に移る。
・1600年(慶長5年) 大徳寺三玄院に帰る。
・1601年(慶長6年) 堺に移り、詩文を文西に学ぶ。 
・1602年(慶長7年) 和歌を細川幽斎に学ぶ。 
・1603年(慶長8年) 一凍紹滴に参じる。
・1604年(慶長9年8月4日) 一凍紹滴が印可し、初めて沢庵と号する。
・1606年(慶長11年) 一凍紹滴が示寂し、父秋庭能登守も亡くなる。 
・1607年(慶長12年) 母(枚田氏)が亡くなる。大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに堺南宗寺にも住持する。 
・1608年(慶長13年) 一絲が生まれる。
・1609年(慶長14年) 大徳寺の第154世住持に出世するも、3日で大徳寺を去り、堺へ戻る。 
・1611年(慶長16年) 円鑑国師が示寂し、大仙院に住する。
・1612年(慶長17年) 南宗寺にいて詠歌音義を作る。
・1613年(慶長18年) 『大灯国師年譜』を編する。
・1614年(慶長19年) 八瀬の橋をかける。 
・1615年(元和元年) 南宗寺が兵火にかかる。大徳寺法度が配布される。
・1616年(元和2年) 宗鏡寺が再興される。
・1617年(元和3年) 南宗寺の再興に着手する。
・1619年(元和5年) 南宗寺の再興が成る。
・1620年(元和6年) 郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、投淵軒と命名して隠棲生活に入る。
・1621年(元和7年) 『理気差別論』を著する。子の一絲が相国寺に入る。
・1622年(元和8年) 烏丸光広が出石に来る。 
・1624年(寛永元年) 高松宮が出石に来られる。 
・1626年(寛永3年) 「禁中並公家諸法度」の励行を達し、大徳寺の出世を禁ずる。 子の一絲が沢庵に参ずる。
・1627年(寛永4年) 正隠を出世させる。紫衣事件に反発して京に上り、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行う。
・1628年(寛永5年) 祥雲寺を開く。紫衣事件に関連して幕府は大徳寺を責め、弁明書を書く。 
・1629年(寛永6年) 幕府により江戸へ召喚される。
・1629年(寛永6年7月) 幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵は出羽国上山に流される。『東国紀行』、『碧巌九十偈』を作る。 
・1630年(寛永7年) 槍術の奥儀書を作る。
・1632年(寛永9年) 大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、江戸に帰り駒込に住む。 
・1633年(寛永10年) 『鎌倉遊覧記』を作る。 家光が柳生を通して質問する。
・1634年(寛永11年) 『木曽路紀行』を書き上洛し、二条城で家光に会い、次いで院参し但馬に帰る。
・1635年(寛永12年) 出石から江戸に帰る。
・1636年(寛永13年) 家光がしきりに召し、上洛し『東海道の記』を作る。但馬に帰る。
・1637年(寛永14年) 江戸に下り途中で病む。日光に社参する。
・1638年(寛永15年) 東海寺が建立されることにる。上洛し上皇に原人論を御進講申し上げ、国師号は辞退する。柳生に芳徳寺を開く。 
・1639年(寛永16年) 東海寺が落成し、新寺に移る。
・1640年(寛永17年) 日光に社参し、熱海に浴する。 
・1641年(寛永18年) 長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡される。
・1642年(寛永19年) 病にかかる。
・1643年(寛永20年) 『祠堂記』、『万年石の記』を作る。子の一絲が永源寺に住する。
・1644年(正保元年) 上京し参院して但馬に帰る。
・1645年(正保元年) 円相に賛を作る。
・1645年(正保元年11月29日) 発病する。
・1646年(正保元年12月11日) 江戸において、「夢」の一字を残し、数え年73歳で亡くなる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

oofunakannon01

 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、彫刻家山本豊市が生まれた日です。
 山本豊市(やまもと とよいち)は、東京の四谷(現在の新宿区)で生まれましたが、本名は豊と言いました。錦成中学校在学中に戸張孤雁を知り、1917年(大正6)に卒業後に師事し、翌年より3年間、太平洋画会研究所でデッサンも学びます。
 1921年(大正10)の第8回再興院展に『トルソ(胴)』が初入選し、以後同展に出品、1923年(大正12)には、日本美術院院友に推挙されました。翌年から渡仏し、1925年(大正14)にA.マイヨールに師事して4年間学び、1928年(昭和3)にシベリヤ経由で帰国し、マイヨールを日本に紹介します。
 その後、1930年(昭和5)より日本大学で講師として教え、1932年(昭和7)には日本美術院同人となりました。その中で、日本の伝統的素材である漆を西洋的な造形に生かした乾漆技法を研究、1936年(昭和11)の第1回改組帝展に乾漆像『岩戸神楽』を出品、日本古来の素材を近代彫刻のなかによみがえらせたものとして高く評価されます。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に東京美術学校講師となり、戦後院展に出品する一方、1950年(昭和25)より新樹会に参加、1953年(昭和28)には、前年作の『頭像』、『エチュード』により第5回毎日芸術賞を受賞しました。また、同年より東京芸術大学教授となり、1967年(昭和42)に停年退官後は、同大学名誉教授となるとともに、愛知県立芸術大学で教授として、後進の指導にあたります。
 一方で、1951年(昭和36)に彫刻家集団・SASを結成、1963年(昭和38)には国画会と合同、その彫刻部会員として、1975年(昭和50)の退会まで同会に出品しました。1983年(昭和58)には文化功労者として顕彰されましたが、1987年(昭和62)2月2日に、東京都新宿区の自宅において、87歳で亡くなっています。

〇山本豊市の代表的な作品

・『トルソ(胴)』(1921年)第8回日本美術院展入選
・『腰かけた女』(1925年)
・『スペインの娘』(1926年)
・『岩戸神楽』(1936年)第1回改組帝展出品
・『頭像』(1952年)第5回毎日美術賞受賞
・『エチュード』(1952年)第5回毎日美術賞受賞
・『とぶ』(1957年)
・『女の顔』(1958年)芸術選奨文部大臣賞受章
・『立女』(1959年)第4回新樹会展出品
・『大船観音』(1960年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1929年(昭和4)東京の日比谷公園に日比谷公会堂(当時東洋一の規模)が開場する詳細
1956年(昭和31)日本とソビエト連邦が「日ソ共同宣言」に調印する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

musousoseki01

 今日は、南北朝時代の1351年(観応2/正平6)に、臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓国師)の亡くなった日ですが、新暦では10月20日となります。
 夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、伊勢国で、宇多(うだ)源氏の出身とされる父・佐々木朝綱の子(母は平政村の娘)として生まれ、初名は智(ちかく)と言いました。4歳で甲斐国(現在の山梨県)に移住し、1283年(弘安6)に9歳で甲斐平塩寺の空阿の弟子となって密教を学び、1292年(正応5)に18歳で東大寺戒壇院で具足戒を受けます。
 1294年(永仁2)20歳にして京都建仁寺の無隠円範に接し、禅宗に帰依し、その後鎌倉へ赴き、桃渓徳悟、約翁徳倹、一山一寧らを訪ねて教えを受けました。1300年(正安2)下野国(現在の栃木県)那須雲巌寺にとどまった後、ふたたび鎌倉に帰り、1303年(嘉元元)に万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び、1305年(嘉元3)には浄智寺で印可を受けます。
 それからも各地を遊歴し、甲斐の龍山庵(後の天龍山栖雲寺)や美濃の古谿庵(後の虎渓山永保寺)に草庵を営んだのち、土佐国五台山に吸江庵を結びました。1325年(正中2)に後醍醐天皇の要望により上洛し、勅願禅寺である南禅寺の住持となりますが、北条氏に請われて鎌倉に入り、1333年(元弘3/正慶2)に鎌倉幕府が滅亡すると、上京して再び南禅寺に入ります。
 1335年(建武2)に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられ、1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇が亡くなると、足利尊氏に菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し、利生塔を設置することを勧めました。また、冥福を祈るために尊氏が天龍寺を建てると、招かれて開山となり、天龍寺船による宋との貿易を促します。
 多くの弟子を教化し、義堂周信や絶海中津、無極志玄、春屋妙葩らを出し、五山文化に影響を与え、庭園設計、詩偈、和歌にもすぐれましたが、1351年(正平6年/観応2年9月30日)に、京都の臨川寺三会院において、数え年76歳で亡くなりました。

〇夢窓疎石の主要な著作

・『夢中(むちゅう)問答集』
・『西山(せいざん)夜話』
・『谷響(こっきょう)集』
・『和歌集』
・『臨川寺家訓』
・『夢窓国師語録』

〇夢窓疎石作庭の庭園

・西芳寺庭園(京都市西京区)世界遺産、国の特別名勝
・天龍寺庭園(京都市右京区)世界遺産、国の特別名勝
・永保寺庭園(岐阜県多治見市)国の名勝
・瑞泉寺庭園(神奈川県鎌倉市)国の名勝
・恵林寺庭園(山梨県甲州市)国の名勝
・覚林房庭園(山梨県身延町)町指定文化財ほか

☆夢窓疎石関係略年表(日付は旧暦です)

・1275年(建治元年) 伊勢国で、父・佐々木朝綱の子(母は平政村の娘)として生まれる
・1278年(弘安元年) 4歳で甲斐国(現在の山梨県)に移住する
・1283年(弘安6年) 9歳で甲斐平塩寺の空阿の弟子となって密教を学ぶ
・1292年(正応5年) 18歳で東大寺戒壇院で具足戒を受ける
・1294年(永仁2年) 20歳にして京都建仁寺の無隠円範に接し、禅宗に帰依する
・1299年(正安元年) 鎌倉建長寺の一山一寧のもとで首座を勤める
・1300年(正安2年) 下野国(現在の栃木県)那須雲巌寺にとどまる
・1303年(嘉元元年) 鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学ぶ
・1305年(嘉元3年) 鎌倉浄智寺で印可を受ける
・1305年(嘉元3年) 甲斐牧の荘の浄居寺を創建する
・1311年(応長元年) 龍山庵(後の天龍山栖雲寺)を結び一時隠棲する
・1313年(正和3年) 美濃国に古谿庵を開く
・1314年(正和4年) 美濃国に観音堂(虎渓山永保寺)を開く
・1317年(文保元年) 同門の元翁本元(仏徳禅師)に観音堂(虎渓山永保寺)の後事を託して上京する
・1319年(元応元年) 北条貞時夫人の請により鎌倉の勝栄寺に寓居する
・1325年(正中2年) 後醍醐天皇の要望により上洛し、勅願禅寺である南禅寺の住持となる
・1326年(正中3年) 南禅寺住持の職を辞し、伊勢の善応寺を開く
・1327年(嘉暦2年) 二階堂道蘊が鎌倉に瑞泉院(のちの瑞泉寺)を創建し、開山となる
・1330年(元徳2年) 甲斐守護の二階堂貞藤(道蘊)に招かれ牧庄内に恵林寺を創建、再び瑞泉寺に戻る
・1333年(元弘3年/正慶2年) 鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行う
・1334年(建武元年) 再び南禅寺の住職となる
・1335年(建武2年) 後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられる
・1335年(建武2年) 後醍醐天皇が皇子世良親王追悼のため、勅願寺として臨川寺を開創、開山に招かれる
・1339年(延元4年/暦応2年8月) 後醍醐天皇が亡くなる
・1339年(延元4年/暦応2年) 幕府の重臣(評定衆)である中原親秀に請われ、西芳寺の中興開山を行う
・1339年(延元4年/暦応2年) 足利尊氏が後醍醐天皇追悼の為、天龍寺建立を開始し、招かれて開山となる
・1342年(興国3年/暦応5年) 天龍寺船の派遣を献策する
・1345年(興国6年/貞和1年8月)光巌上皇・光明天皇臨幸のもとに後醍醐天皇七周忌と天龍寺落慶仏事を行う
・1346年(正平元年/貞和2年) 退席し、正覚国師の号を賜る
・1351年(正平6年/観応2年) 天龍寺に再住し、光巌上皇より心宗国師の号を賜る
・1351年(正平6年/観応2年9月30日) 京都の臨川寺三会院において、数え年76歳で亡くなる

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ