1188年(文治4)の17歳の時、東大寺戒壇院で受戒して法諱を成弁とし、尊勝院弁暁・聖詮について華厳・俱舎を受学し、密教を興然・実尊に、禅を栄西について学びました。1195年(建久6)に遁世して、紀州白上峰に籠って修行を積み、1198年(建久9)には高雄に戻ります。
高雄を拠点として活動し、1202年(建仁2)にインドに渡ろうとしたものの、病気のため断念、1205年(元久2)には、釈尊を慕い『大唐天竺里程記(だいとうてんじくりていき)』をつくり、再度インドに渡って仏跡を拝せんとしましたが、春日明神の託宣により果たせませんでした。1206年(建永元)に後鳥羽院の院宣を受けて、栂尾の地を与えられ、高山寺(現在の京都市右京区)を再興して、華厳宗を唱え、南都仏教の復興を図ろうとします。
1212年(建暦2)に、法然批判の書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著し、翌年には、『摧邪輪荘厳記(しょうごんき)』を著してそれを補足しました。また、上覚から伝法灌頂を受け、華厳と密教との融合、学問研究と実践修行の統一を図り、『唯心観行式(ゆいしんかんぎょうしき)』、『三時三宝礼釈(らいしゃく)』、『華厳仏光三昧観秘宝蔵(けごんぶっこうざんまいかんひほうぞう)』を著しています。
1221年(承久3)の承久の乱では、後鳥羽上皇方の敗兵をかくまったことを機縁に、北条泰時と親交し、栄西が将来したチャを栂尾に栽培して、その普及に尽くしました。女人救済にも努め、1223年(貞応2)に善妙尼寺を開創しましたが、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものです。
1231年(寛喜3)に、故地である紀州の施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれたものの、翌年1月19日に、弥勒の宝号を唱えながら、数え年60歳で亡くなりました。