ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 芸術家

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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、日本画家片岡球子が亡くなった日です。
 片岡球子(かたおか たまこ)は、明治時代後期の1905年(明治38)1月5日に、北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれました。1922年(大正11)に北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業後、上京して、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学し、1926年(大正15)に卒業後、親の反対を押し切って、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となります。
 帝展に応募しましたが落選を続けたものの、1930年(昭和5)に「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に初入選し、研究会員となりました。1939年(昭和14)に日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙されます。
 1942年(昭和17)に日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞、1946年(昭和21)には、安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞しました。1948年(昭和23)に第33回院展入選「室内」が日本美術院賞、1950年(昭和25)に第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞、1951年(昭和26)に第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙されました。1955年(昭和30)に、30年間勤めた横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、東京都世田谷区粕谷町に転居します。
 1960年(昭和35)に女子美術大学日本画科助教授、1961年(昭和36)に院展出品「渇仰」が文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任しました。1962年(昭和37)に初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡り、1965年(昭和40)には、女子美術大学日本画科教授に昇任しています。
 1966年(昭和41)に女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、「面構」シリーズ、「富士山」シリーズの製作も開始しました。1970年(昭和45)に神奈川県藤沢市に転居、1973年(昭和48)には、定年により愛知県立芸術大学客員教授となります。
 1975年(昭和50)に第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、1976年(昭和51)に勲三等瑞宝章を受章、1978年(昭和53)には、第27回神奈川文化賞を受賞しました。1981年(昭和56)に日本美術院理事、1982年(昭和57)に日本芸術院会員となり、1986年(昭和61)には、文化功労者、1989年(平成元)に第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章し、1990年(平成2)には、藤沢市名誉市民に選ばれています。
 2000年(平成12)には、「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が開催されましたが、2008年(平成20)1月16日に、神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈されました。

〇片岡球子の主要な作品

・「枇杷」(1930年)第17回日本美術院再興展入選
・「炬燵」(1935年)第19回日本美術院絵画部試作展試作賞受賞
・「寒空」(1938年)日本美術院絵画部研究会員研究会大観賞第一賞受賞
・「新緑」(1939年)日本美術院絵画部研究会大観賞第二賞受賞
・「緑陰」(1939年)第26回院展入選
・「祈祷の僧」(1942年)日本美術院絵画部研究会大観賞受賞
・「夏」(1946年1)第31回院展日本美術院賞受賞
・「室内」(1948年)第33回院展入選・日本美術院賞受賞
・「剃髪」(1950年)第35回院展入選・日本美術院賞・白寿賞受賞
・「行楽」(1951年)第36回院展入選・奨励賞・白寿賞受賞
・「美術部にて」(1952年)第37回院展入選・日本美術院賞・大観賞受賞
・「海岸」(1959年)日本美術院第14回春季展出品
・「渇仰」(1961年)文部省買い上げ優秀美術品
・「幻想」(1961年)第46回院展文部大臣賞受賞
・「面構・足利義政」(1966年)第51回院展出品
・「面構二 東洲斎写楽」(1971年)第56回院展出品
・「面構一 葛飾北斎」(1971年)第56回院展出品
・「面構 鳥文斉栄之」(1975年)第59回院展出品・第31回日本芸術院恩賜賞受賞
・「面構 安藤広重」(1975年)院展六十年の歩み展出品
・「喜多川歌麿」(1978年)日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)出品・国際交流基金買上げ
・「ポーズ1」(1983年)第38回春の院展出品

☆片岡球子関係略年表

・1905年(明治38)1月5日 北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれる
・1922年(大正11) 北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学する
・1926年(大正15) 女子美術専門学校を卒業し、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となる
・1930年(昭和5) 「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に入選し、研究会員となる
・1935年(昭和10) 日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞を受賞する
・1938年(昭和13) 日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞を受賞する
・1939年(昭和14) 日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙される
・1942年(昭和17) 日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞する
・1946年(昭和21) 安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞する
・1948年(昭和23) 第33回院展入選「室内」が日本美術院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞を受賞する
・1951年(昭和26) 第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞、この頃に東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学ぶ
・1952年(昭和27) 第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1955年(昭和30) 横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居する
・1959年(昭和34) 日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品する
・1960年(昭和35) 女子美術大学日本画科助教授となる
・1961年(昭和36) 院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任する
・1962年(昭和37) 第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品、初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
・1965年(昭和40) 女子美術大学日本画科教授に就任する
・1966年(昭和41) 女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、第51回院展に「面構・足利義政」を出品してから、「面構」シリーズ制作開始、この頃から「富士山」シリーズを製作も開始する
・1970年(昭和45) 北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)、神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品する
・1973年(昭和48) 定年により愛知県立芸術大学客員教授となる
・1975年(昭和50) 自伝「情(こころ)ありて」を執筆、第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1978年(昭和53) 日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」を出品、国際交流基金買上げとなり、第27回神奈川文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) 日本美術院理事に就任する
・1982年(昭和57) 日本芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 第38回春の院展に「ポーズ1」を出品する
・1986年(昭和61) 文化功労者に選ばれる
・1989年(平成元) 第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 藤沢市名誉市民に選ばれる
・1993年(平成5) 愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成し、一般公開される
・1996年(平成8) 愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈する
・1998年(平成10) 日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品する
・1999年(平成11) 都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画を制作する
・2000年(平成12) 「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催する
・2008年(平成20)1月16日 神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈される
・2014年(平成26) 名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20)細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、洋画家岸田劉生の亡くなった日(劉生忌)です。
 岸田劉生(きしだ りゅうせい)は、明治時代中頃の1891年(明治24)6月23日に、東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれました。1907年(明治40)に、東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受け、翌年には、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。
 1909年(明治42)の第13回白馬会展に「雨」、1910年(明治43)の第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点が入選しました。1911年(明治44)に『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、1912年(明治45)には、高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らと共に反自然主義のヒュウザン会を結成します。
 1913年(大正2)7月に、小林蓁(しげる)と結婚し、翌年には、娘の麗子が誕生しました。1915年(大正4)に木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品します。1916年(大正5)に結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画きました。1917年(大正6)の第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞、翌年に、初めて娘・麗子が、「麗子五歳の像」のモデルとなります。
 1920年(大正9)に『鵠沼日記』の記述を開始し、『劉生画集及芸術観』を出版、翌年には、『劉生図案集』を出版しました。1922年(大正11)に春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となり、翌年の関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去って、京都に移り住みます。
 1926年(大正15)に、京都を引き上げて鎌倉に移り、1927年(昭和2)には、第1回大調和美術展に審査員として参加しました。1929年(昭和4)9月末から、南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在、帰途に山口県徳山市において、12月20日に、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝しています。

〇岸田劉生の作品・著作

<絵画>
・「雨」(1909年)第13回白馬会展入選
・「馬小屋」(1910年)第4回文展入選
・「若杉」(1910年)第4回文展入選
・「道路と土手と塀 (切通しの写生)」(1915年)東京国立近代美術館蔵 国指定重要文化財
・「初夏の小径」(1917年)第4回二科展二科賞受賞 下関市立美術館蔵
・「麗子五歳之像」(1918年)東京国立近代美術館蔵
・「麗子微笑 (青果持テル)」(1921年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・「村娘於松立像」(1921年)東京国立近代美術館蔵

<著作>
・『劉生画集及芸術観』(1920年)
・『劉生図案画集』(1921年)
・『図画教育論』
・『演劇美論』
・『美の本体』
・『劉生日記』

☆岸田劉生関係略年表

・1891年(明治24)6月23日 東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれる
・1907年(明治40) 東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受ける
・1908年(明治41) 東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事する
・1909年(明治42) 第13回白馬会展に「雨」が入選する
・1910年(明治43) 第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点の作品が入選する
・1911年(明治44) 『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合う
・1912年(明治45) 高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らとともに反自然主義のヒュウザン会を結成する
・1913年(大正2) 7月に小林蓁(しげる)と結婚する
・1914年(大正3) 娘の麗子が誕生する
・1915年(大正4) 木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品、武者小路実篤を訪う
・1916年(大正5) 結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画く
・1917年(大正6) 鵠沼松が岡3-23の佐藤別荘に移住、松本別荘(鵠沼下岡6732-13・現鵠沼松が岡4-7-10)へ移り、第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞する
・1918年(大正7) 岸田麗子、初めて父=劉生の『麗子五歳の像』のモデルとなる
・1920年(大正9) 数え年30歳になったことを期に『鵠沼日記』を5年7ヵ月にわたり記述、葉山サダ(『村娘像』のモデル=マツの母親)が手伝いに入り、『劉生画集及芸術観』を出版する
・1921年(大正10) 『劉生図案集』を出版、画家棟方寅雄、岸田劉生宅に寄食する
・1922年(大正11) 春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となる
・1923年(大正12) 医師富士山、岸田麗子を往診、関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去り名古屋へ出発、京都に移り住む
・1926年(大正15) 京都を引き上げて鎌倉に移る
・1927年(昭和2) 第1回大調和美術展に審査員として参加する
・1929年(昭和4)9月末 南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在する
・1929年(昭和4)12月20日 満州旅行の帰途に山口県徳山市において、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1879年(明治12)青森県の尻屋崎灯台に日本初の霧笛(霧信号所)が設置された(霧笛記念日)詳細
1930年(昭和5)岡崎駅~多治見駅間・瀬戸記念橋駅~高蔵寺駅間で省営自動車(国鉄バスの前身)が運行開始される詳細
1947年(昭和22)「臨時石炭鉱業管理法」(昭和22年法律第219号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1948年(昭和23) 「日本専売公社法」が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
「日本国有鉄道法」(昭和23年法律256号)が公布(施行は翌年6月1日)される詳細
1962年(昭和37)首都高速道路初の開通区間である京橋~芝浦間(4.5km)が開通する詳細
1984年(昭和59)小説家藤原審爾の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、彫刻家北村西望の生まれた日です。
 北村西望(きたむら せいぼう)は、明治時代前期の1884年(明治17)12月16日に、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれましたが、本名は「にしも」と読みます。。1900年(明治33)に、有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)されましたが、1901年(明治34)に母校の白木野小学校に転じて、代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめ、1902年(明治35)に、長崎師範学校に入学したものの、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養します。
 1903年(明治36)に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学しましたが、1907年(明治40)に卒業後、上京して東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。在学中の1908年(明治41)に第2回文展への出品作「憤闘」が初入選し、以来毎年出品するようになりました。
 1912年(明治45)に東京美術学校を首席で卒業、1915年(大正4)に第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められます。1916年(大正5)の第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成、翌年の第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめるようになりました。
 1919年(大正8)の第1回帝展以降審査員を務め、曠原社を結成、1921年(大正10)に東京美術学校塑造部教授となり、1922年(大正11)には、彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設します。1925年(大正14)に帝国美術院会員となり、1931年(昭和6)には、京都市立美術工芸学校教諭となりました。
 1944年(昭和19)の敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行ないます。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本芸術院会員、1949年(昭和24)に日展理事となり、1953年(昭和28)には、東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設しました。
 1955年(昭和30)に5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品し、1958年(昭和33)には、文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となります。1962年(昭和37)に武蔵野市名誉市民、日本彫塑会名誉会長となり、1969年(昭和44)に紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任、1972年(昭和47)には、島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設されました。
 1980年(昭和55)に東京都名誉都民、1981年(昭和56)に東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となったものの、1987年(昭和62)3月4日に、東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなっています。

〇北村西望の主要な作品

<彫刻>
・「憤闘」(1908年)第2回文展入選
・「怒濤」(1915年)第9回文展二等賞
・「晩鐘」(1916年)第10回文展特選 東京国立近代美術館蔵
・「燈臺」(1931年)東京銀座・数寄屋橋公園
・巨像「長崎平和祈念像」(1955年)長崎平和公園

<著作>
・『百歳のかたつむり』

☆北村西望関係略年表

・1884年(明治17)12月16日 長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれる
・1892年(明治25) 白木野尋常小学校に入学する
・1896年(明治29) 有馬尋常高等小学校に進む
・1900年(明治33) 有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)される
・1901年(明治34) 母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると
・1902年(明治35) 長崎師範学校に入学したが、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養する
・1903年(明治36) 京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学する
・1907年(明治40) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する
・1908年(明治41) 第2回文展への出品作「憤闘」が初入選する
・1909年(明治42) 第3回文展で「雄風」が褒状を受賞する
・1911年(明治44) 第5回文展で「壮者」も褒状を受賞する
・1912年(明治45) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業する
・1915年(大正4) 第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められる
・1916年(大正5) 第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成する
・1917年(大正6) 第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめる
・1919年(大正8) 第1回帝展以降審査員を務め、曠原社(こうげんしゃ)を結成する
・1921年(大正10) 東京美術学校塑造部教授となる
・1922年(大正11) 彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設する
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となる
・1931年(昭和6) 京都市立美術工芸学校教諭となる
・1932年(昭和7) ロサンゼルスオリンピック芸術競技に「The Repose (Boxing)」を出品する
・1933年(昭和8) 2年前の1931年第12回帝展に出品した作品『燈臺』を震災記念碑として東京銀座・数寄屋橋公園に設置、東邦彫塑院顧問を務める
・1944年(昭和19) 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行なう
・1947年(昭和22) 日本芸術院会員となる
・1949年(昭和24) 日展理事となる
・1953年(昭和28) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設する
・1955年(昭和30) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となる
・1962年(昭和37) 武蔵野市名誉市民となり、日本彫塑会名誉会長となる
・1969年(昭和44) 紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任する
・1972年(昭和47) 島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設される
・1974年(昭和49) 日展名誉会長となる。
・1979年(昭和54) 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された
・1980年(昭和55) 東京都名誉都民となる
・1981年(昭和56) 東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となる
・1986年(昭和61) 12月より風邪を患い自宅静養となる
・1987年(昭和62)3月4日 東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始する(電話創業の日)詳細
1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1966年(昭和41)国際連合総会で「国際人権規約」が採択される詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
1988年(昭和63)洋画家小磯良平の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、日本画家橋本関雪が生まれた日です。
 橋本関雪(はしもと かんせつ)は、明治時代前期の1883年(明治16)11月10日に、兵庫県神戸市の坂本村(現在の神戸市中央区楠木町)において、旧明石藩の儒者であった父・橋本海関、母・フジの長男として生まれましたが、本名は関一と言いました。1895年(明治28)に、湊川尋常高等小学校を中退、絵画に対する興味を持つようになり、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門、傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示します。
 1898年(明治31)に絵画修行を志して上京したものの、翌年には、神戸に戻りました。1903年(明治36)に京都市に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入り、1905年(明治38)には、東京美術研精会主催展覧会に「四面楚歌の声」を出品し、研精賞を受け、満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍しています。
 1906年(明治39)に神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行、1907年(明治40)には、神戸花隈にて従軍記念絵画展を開きました。1908年(明治41)の第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」が入選、上京して谷中清水町に住み、1910年(明治43)には、漢詩集『関雪詩稿』を出版しています。
 1913年(大正2)の第7回文展から3回連続で二等賞、1916年(大正5)の第10回文展から3回連続で特選を受賞しました。1919年(大正8)の第1回帝展から審査委員を歴任し、1931年(昭和6)にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与され、1934年(昭和9)に帝室技芸員、翌年には帝国美術院会員となります。
 1937年(昭和12)に帝国芸術院が成立し、会員に任命され、第一回新文展に「赴征」を出品しました。1939年(昭和14)にニュ-ヨーク万国博に「霜猿」を出品、第1回聖戦美術展の審査員を勤め、「江上雨来る」を出品、橋本関雪聖戦記念画展で「軍馬二題」が朝日賞を受賞、1940年(昭和15)の紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会の審査委員を務めています。
 四条派の画風に南画などの技法を加味した画風で、関西日本画壇に重きをなしましたが、1945年(昭和20)2月26日 京都府京都市において、狭心症の発作により61歳で亡くなりました。尚、中国古典に精通し、詩文も巧みで『南画への道程』(1924年)、『関雪随筆』(1925年)などの著書も残しています。

<橋本関雪代表的作品>

・「琵琶行」(1910年)白沙村荘橋本関雪記念館蔵 
・「遅日」(1913年)第7回文展二科二等賞・足立美術館蔵
・「南国」(1914年)第8回文展二等賞・姫路市立美術館蔵
・「桃源郷」(1914年)大正博覧会銀賞
・「猟」(1915年)第9回文展二等賞・白沙村荘橋本関雪記念館蔵
・「寒山拾得」(1916年)第10回文展特選・林原美術館蔵
・「睨雲林」(1917年)第11回文展特選
・「木蘭」(1918年)第12回文展特選・白沙村荘橋本関雪記念館蔵
・「意馬心猿」(1928年)京都国立近代美術館蔵
・「長恨歌」(1929年)京都市美術館蔵
・「玄猿」(1933年)東京芸術大学大学美術館蔵
・「暮韻」(1934年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・「唐犬図」(1936年)大阪市立美術館蔵
・「軍馬二題」(1939年)橋本関雪聖戦記念画展朝日賞
・「防空壕」(1942年)東京国立近代美術館蔵
・「香妃戎装」(1944年)衆議院蔵

〇橋本関雪の主要な著作

・漢詩集『関雪詩稿』(1910年)
・『南画への道程』(1924年)
・『関雪随筆』(1925年)
・『支那(しな)山水随縁(ずいえん)』(1940年)
・『白沙村人随筆』(1957年)

☆橋本関雪関係略年表

・1883年(明治16)11月10日 兵庫県神戸市の坂本村(現神戸市中央区楠木町)において、旧明石藩の儒者であった父・橋本海関、母・フジの長男として生まれる
・1890年(明治23) 神戸市湊川尋常高等小学校に入学し、傍ら父より家学(漢詩・書画など)を受ける
・1895年(明治28) 湊川尋常高等小学校を中退、絵画に対する興味を持つようになり、市外平野村に住む四条派の画家片岡公曠に入門、傍ら漢詩を作り、和歌・俳句などにも興味を示す
・1898年(明治31) 絵画修行を志して上京する
・1899年(明治32) 神戸に帰るが、父・海関は経済上の理由により兵庫県尾上村に隠棲し、関雪は自活を余儀なくされる
・1900年(明治33) 神戸美術協会主催で東宮御慶事記念展覧会が催され、「王昭君」を出品し、御前揮毫を仰せつかることとなる
・1901年(明治34) 曽根神社(高砂市)へ「管公図」絵馬を奉納、吉野へ旅行する
・1903年(明治36) 京都に出て光村利藻氏の紹介により、竹内栖鳳の竹杖会に入る
・1904年(明治37) 岩見ヨネと結婚する
・1905年(明治38) 東京美術研精会主催展覧会に「四面楚歌の声」を出品し、研精賞を受け、満州軍総司令部嘱託として、日露戦争に従軍する
・1906年(明治39) 神戸在住の若手画家達を集め、神戸絵画研精会を興し、その機関紙『白毫』を編集発行、水曜会展覧会(於京都倶楽部)に出品する
・1907年(明治40) 神戸花隈にて従軍記念絵画展を開く
・1908年(明治41) 第2回文展に「鉄嶺城外の宿雪」が入選、上京して谷中清水町に住む
・1909年(明治42) 第3回文展に「失意」を出品、褒状を受ける
・1910年(明治43) 漢詩集『関雪詩稿』を出版、第4回文展に「琵琶行」を出品、褒状を受ける
・1911年(明治44) 第5回文展に「片岡山のほとり」「異見王達磨を送る」を出品、前者は褒状を受ける
・1912年(明治45) 第6回文展一科に「松下煎茗」を、二科に「五醍醐帝」を出品し、共に褒状を受ける
・1913年(大正2) 初めて中国大陸を遊行、船で揚子江を溯り重慶に至り、さらに上海、浙江省、蘇州、北京、満州、朝鮮などを経て6月末に帰国、京都に移り岡崎徳成橋畔に住み、第7回文展二科に「遅日」を出品、二等賞を得る
・1914年(大正3) 大正博覧会に「桃源郷」を出品、銀賞を得、第8回文展に無鑑査で「南国」と「後苑」を出品、前者は二等賞を得る
・1915年(大正4) 第9回文展に無鑑査で「猟」「狭江の六月」を出品、前者は二等賞を得、文展画稿展に「猟(画稿)」を出品、南禅寺山内金地院に移る
・1916年(大正5) 第10回文展に無鑑査で「寒山拾得図」「煉丹」を出品、前者は初めて特選となり、京都市左京区浄土寺石橋町に白沙村荘が完成し移り住む
・1917年(大正6) 第11回文展に無鑑査で「睨雲林」を出品、特選となり、金島桂華らと共に中国を旅行する
・1918年(大正7) 第12回文展に無鑑査で「木蘭」を出品、特選となり、本年より永久無鑑査の"推薦"となる
・1919年(大正8) 栖鳳門下小品展に「松下弾琴」「桃果」などを出品、橋本関雪小品展が開催され、第1回帝展の審査委員をつとめ、「郭巨」「遊踪四題」を出品する
・1920年(大正9) 第2回帝展の審査委員をつとめ、「木蘭詩」「林和靖」を出品、東京博覧会の審査委員をつとめ、「木蘭詩巻」を出品する
・1921年(大正10) 長男節哉を伴って、神戸より北野丸にてヨーロッパ旅行に出発、フランス、ドイツ、オランダ、イタリアなどを巡って帰国する
・1922年(大正11) 平和記念東京博覧会の日本画の審査委員をつとめ、第4回帝展(於竹之台10・14~11・20)の審査委員をつとめ、「聖地の旅」 を出品、個展に「閑庭春色」「留園一角」「小院春夕」など44点を出品する
・1923年(大正12) 日本美術展の審査委員を務め、竹内栖鳳の竹杖会を脱会する
・1924年(大正13) 帝展美術院委員となり、第5回帝展の審査委員を務め、個展に「船」「連甍吐月」「春江惜別」「楊妃酔酒」「荒村薄暮」「春暖」などを出品する
・1925年(大正14) 第5回中央美術展の鑑査員を務め、関雪自撰30題展を開催、中央美術10周年記念展に「採蓴」を出品、第6回帝展に「相牛」「摘瓜図」を出品する
・1926年(大正15) 第7回中央美術展の鑑査員を務め、8人の日中画家で古画の研究と鑑賞を目的として"解衣社"を結成、第1回聖徳太子奉讃展に日本画の代表委員として、「僊女図」を出品、郷土美絵画展に「漁樵問答」を出品、解衣社第1回展に「湘江煙雨」「看馬」、金冬心筆『墨竹図』を出品、個展を開催、西村五雲、西山翠嶂、堂本印象、福田平八郎、菊池契月と6人で『六合会』を創立し、第1回帝展に、「長安一片月」を出品する
・1927年(昭和2) 婦人と娘を伴って二度目のヨーロッパ旅行に行きヨーロッパ数カ国を巡り、明治大正名作展に「遅日」「木蘭詩」が出品され、第9回帝展に「意馬心猿」を出品する
・1928年(昭和3) パリ日本美術展に「木蘭詩」「瀟湘」を出品し、後者はフランス政府買い上げとなり、美之国五周年記念展に「闌春」を出品、第10回帝展の審査委員を務め、「長恨歌」を出品する
・1929年(昭和4) 第2回聖徳太子奉讃展に「波ニ鷲」(久邇宮家襖)を出品、ローマ日本美術展に「猿猴図」「暖日の図」を出品、第11回帝展に「訪隠図」を出品する
・1930年(昭和5) 夫人同伴で中国に旅行し、西湖、鎮江を経て天台山に登り、「トレド-市、ニューヨーク市日本美術展」に「木蘭詩巻」を出品する
・1931年(昭和6) 個展に「談山論水」「想思」「仙山採薬」「赤壁之図」「観音の図」など20数点を出品、竹内栖鳳、横山大観、松岡映丘らと共にシュバリエ・ド・レジョン・ド・ヌール勲章を授与される
・1932年(昭和7) 妻・ヨネが東京において亡くなり、満州国皇帝に『老松鷲の図』を献上する
・1933年(昭和8) 鄭考胥満州国総理が白沙村荘に、関雪の父海関を訪ね「細雨春帆」を贈り、大礼記念京都美術館開館記念に「夕月」を出品する
・1934年(昭和9) 個展を開催、近代美術館建設期成会の発起人に参加、第15回帝展に「暮韻」を出品、宮内省買い上げとなり、帝室技芸員に任命される
・1935年(昭和10) 川路柳虹讃詩画展に「山鳩」を出品、東京府美術館開館一〇周年記念展に「長恨歌」を出品、第1回京都市美術展の展覧会委員を務め、帝国美術院会員に任命され、個展を開催、父・海関が亡くなる
・1936年(昭和11) 改組第1回帝展に「唐犬図」を出品、6人で『興遊会』を結成し、その第1回展を開き、冨田渓仙、横山大観、鏑木清方、川合玉堂ら14人の会員とともに帝国美術院に辞表を提出、、大倉集古館創立20周年記念店に「暖日」が出品される
・1937年(昭和12) 盲腸炎を患い、個展を開催、第2回京都市美術展に「夏草」を出品、帝国芸術院が成立し、会員に任命され、第一回新文展に「赴征」を出品する
・1938年(昭和13) 第3回京都市美術展の審査委員をつとめ、第17回朝鮮美術展の日本画の審査委員をつとめ、個展を開催、新篁会展に「兎」を出品する
・1939年(昭和14) 紐育(ニューヨーク)万国博国内展示に『霜猿』を出品、ニュ-ヨーク万国博に「霜猿」を出品、第1回聖戦美術展の審査員をつとめ「江上雨来る」を出品、橋本関雪聖戦記念画展で「軍馬二題」が朝日賞を受賞する
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会の審査委員をつとめ、「柳蔭馬を洗ふ」を出品、紀元二千六百年奉祝美術展覧会の展覧会委員をつとめる
・1941年(昭和16) 個展を開催、第6回京都市美術展の審査委員をつとめ、第2回聖戦美術展の審査員をつとめ、第4回新文展に「夏夕」を出品する
・1942年(昭和17) 朝日新聞社の委託により、吉川英治とともに南方の空を飛び、第5回新文展に「防空壕」を出品する
・1943年(昭和18) 第6回新文展に「霧」を出品する
・1944年(昭和19) 第2回大東亜戦争美術展に「黄浦江の朝」を出品、平安神宮御鎮座五十年平安遷都千百五十年奉祝京都市美術展の審査員をつとめ、陸軍献納画展に「霜鷹」を出品、戦時特別文展に「香妃戎装」を出品する
・1945年(昭和20)2月26日 京都府京都市に於て、狭心症の発作により61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1696年(元禄9)第109代とされる明正天皇(女帝)の命日(新暦12月4日)詳細
1920年(大正9)日本画家福王寺法林の誕生日詳細
1940年(昭和15)神武天皇即位2600年とされる「紀元二千六百年記念行事」が始まる詳細
1945年(昭和20)角川源義が角川書店を設立する詳細
1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細
2008年〈平成20〉数学者伊藤清の命日詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、日本画家佐藤太清が亡くなった日です。
 佐藤太清(さとう たいせい)は、大正時代の1913年(大正2)11月10日に、京都府福知山市字岡ノ上において、天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男として生まれましたが、本名は實(みのる)と言いました。福知山惇明尋常高等小学校を経て、1931年(昭和6)に福知山実践商業学校を卒業し、上京します。
 東京外国語大学を中退後、1933年(昭和8)には、児玉希望塾に内弟子(~1936年)として入門し、雅号を「太清」としました。花鳥画と風景画を得意とし、1943年(昭和18)に「かすみ網」が、第6回新文展で初入選し、1947年(昭和22)には、「清韻」が、第3回日展で特選を受賞します。
 1952年(昭和27)の第8回日展で、「睡蓮」が特選、「罌粟」が朝倉賞を受賞、「雨の日」が第3回日月社展で奨励賞を受賞しました。1955年(昭和30)に武蔵野美術大学参与となり、1958年(昭和33)に1959年(昭和34) 第2回新日展の審査員をつとめ、「寂」を出品、1960年(昭和35)には、新日展会員となります。
 1965年(昭和40)に日展評議員に就任、日春会の委員となり、1966年(昭和41)に「風騒」で、第9回新日展文部大臣賞を受賞、翌年には、日本芸術院賞を受賞しました。1971年(昭和46)に日展理事、翌年に社団法人日本美術家連盟委員、1973年(昭和48)には、東京都美術館後援会理事に就任しています。
 1977年(昭和52)に日展理事、翌年には、東京国立美術展覧会会場建設委員、日本美術家連盟委員に就任しました。1980年(昭和55)に日本芸術院会員、1981年(昭和56)に日展常務理事、1983年(昭和58)には、日展事務局長に就任しています。
 1985年(昭和60)に勲三等瑞宝章を受章、日展理事長(~1987年)に就任、1988年(昭和63)には、文化功労者となり、日中文化交流協会常任理事に就任しました。1992年(平成4)に文化勲章を受章、翌年に福知山市名誉市民となりましたが、1995年(平成7)に腹部大動脈瘤の手術を受けています。
 繊細で写実的な表現方法で、叙情的な花鳥画や風景画を描き、日本画壇に新境地を開きましたが、2004年(平成16)11月6日に、東京都板橋区において、多器臓不全のため90歳で亡くなり、従三位を追叙され、平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られました。

<佐藤太清代表的な作品>

・「かすみ網」(1943年・板橋区立美術館蔵)第6回新文展初入選
・「清韻」(1947年・山種美術館蔵)第3回日展特選受賞
・「竹窗細雨」(1951年・埼玉県立近代美術館蔵)
・「睡蓮」(1952年)第8回日展特選受賞
・「樹」(1956年・佐久市立近代美術館蔵)
・「寂」(1959年・東京都現代美術館蔵)
・「風騒」(1966年・日本芸術院蔵)第9回新日展文部大臣賞・日本芸術院賞受賞
・「燄」(1967年・茨城県近代美術館蔵))
・「洪」(1968年・福知山市佐藤太清記念美術館蔵)
・「緑雨」(1970年・東京国立近代美術館蔵)
・「夢殿」(1972年・所蔵先非公開)
・「昏」(1974年、愛媛県立美術館蔵)
・「雨の天壇」(1979年・日本芸術院蔵)
・「東大寺暮雪」(1975年・広島県立美術館蔵)
・「旅の朝」(1980年・所蔵先非公開)
・「旅の夕暮」(1981年・愛知県美術館蔵)
・「最果の旅」(1983年・福知山市佐藤太清記念美術館蔵)
・「旅愁」(1986年・光記念館蔵)

〇佐藤太清関係略年表

・1913年(大正2)11月10日 京都府福知山市字岡ノ上において、天田郡役所に勤務していた父・佐藤平馬、母・まさの四男として生まれる
・1921年(大正10) 福知山惇明尋常高等小学校入学する
・1927年(昭和2) 福知山惇明尋常高等小学校を卒業し、福知山実践商業学校に入学する
・1931年(昭和6) 福知山実践商業学校を卒業し、上京する
・1933年(昭和8) 児玉希望塾に内弟子(~1936年)として入門する
・1943年(昭和18) 「かすみ網」が、第6回新文展で初入選する
・1945年(昭和20) 第1回現代美術展覧会(朝日新聞社主催)に「迎春」を招待出品する
・1947年(昭和22) 「清韻」が、第3回日展で特選を受賞する
・1948年(昭和23) 「幽韻」が、第4回日展無鑑査出品となる
・1951年(昭和26) 「朝顔」が、第4回美術協会展で佳作賞を受賞する
・1952年(昭和27) 第8回日展で、「睡蓮」が特選、「罌粟」が朝倉賞を受賞、「雨の日」が第3回日月社展で奨励賞を受賞する
・1953年(昭和28) 第4回日月社展の審査員をつとめ、「阿修羅」を出品する
・1955年(昭和30) 武蔵野美術大学参与となる
・1958年(昭和33) 「尾山幟・佐藤太清二人展」を東洋美術館画廊(東京都・銀座)で開催する
・1959年(昭和34) 第2回新日展の審査員をつとめ、「寂」を出品する
・1960年(昭和35) 新日展会員となる
・1962年(昭和37) 第5回新日展の審査員をつとめ、「冬日」を出品する
・1965年(昭和40) 日展評議員に就任、日春会の委員となる
・1966年(昭和41) 「風騒」で、第9回新日展文部大臣賞を受賞、第1回日春展審査員となり「尾瀬」を出品する
・1967年(昭和42) 前年に出品した「風騒」で、日本芸術院賞を受賞する
・1968年(昭和43) 第11回新日展の審査員をつとめ、「洪」を出品、外務省の委嘱により国連本部(米国・ニューヨーク)に納める「白鷺」を制作する
・1970年(昭和45) 日春展運営委員となり第5回展の審査をつとめる
・1971年(昭和46) 日展理事に就任、第3回日展の審査員をつとめ、「無」出品する
・1972年(昭和47) 外務省の委嘱により在中国日本国大使館(中国・北京)に「孔雀」(昭和36年日展出品)を納め、社団法人日本美術家連盟委員に就任する
・1973年(昭和48) 第5回日展の審査員をつとめ、「清韻」を出品、第8回日春展の審査員をつとめ、「水辺」を出品、東京都美術館後援会理事に就任する
・1975年(昭和50) 日展監事、日本美術家連盟委員に就任する
・1976年(昭和51) 第8回日春展の審査員をつとめ、「孟春」(たげり)を出品する
・1977年(昭和52) 日展理事に就任、第9回日展の審査員をつとめ、「蓮」を出品、第8回日春展の審査員をつとめ、「パンジー」を出品する
・1978年(昭和53) 第10回日展の審査員をつとめ、「朝霧」を出品、東京国立美術展覧会会場建設委員、日本美術家連盟委員に就任する
・1979年(昭和54) 現代日本絵画展開催に際し文化使節として中国を訪問する
・1980年(昭和55) 日本芸術院会員となる
・1981年(昭和56) 日展常務理事に就任、渡欧してフランス、イタリア、バチカン等を訪れる
・1982年(昭和57) メキシコのマヤ遺跡を訪れる
・1983年(昭和58) 日展事務局長に就任する
・1984年(昭和59) 「佐藤太清展」(読売新聞社主催)を松屋銀座、大阪大丸にて開催する
・1985年(昭和60) 勲三等瑞宝章を受章、日展理事長(~1987年)に就任する
・1987年(昭和62) 「現代作家デッサン・シリーズI 佐藤太清展」(朝日新聞社主催)を松屋銀座(東京都・銀座)で開催する
・1988年(昭和63) 文化功労者となり、日中文化交流協会常任理事に就任する
・1992年(平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5) 福知山市名誉市民となり、福知山市美術館にて、「文化勲章記念 佐藤太清展」開催する
・1995年(平成7) 腹部大動脈瘤の手術を受ける
・1996年(平成8) 若い世代への美術奨励のために板橋区に「佐藤青少年美術奨励基金」が創設される
・2004年(平成16)11月6日 東京都板橋区において、多器臓不全のため90歳で亡くなり、従三位を追叙され、平成16年度区民文化栄誉賞(板橋区文化振興財団)、区政功労表彰(板橋区)が贈られる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1717年(享保2)地理学者・儒学者長久保赤水の誕生日(新暦12月8日)詳細
1906年(明治39)考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫の誕生日詳細
1937年(昭和12)「日独伊防共協定」が調印される詳細
1938年(昭和13)北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出す詳細
1943年(昭和18)大東亜会議において「大東亜共同宣言」が出される詳細
1945年(昭和20)GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細
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