ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 芸術家

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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、日本画家菊池契月が亡くなった日です。
 菊池契月(きくち けいげつ)は、明治時代前期の1879年(明治12)11月14日に、長野県下高井郡中野村(現在の中野市)において、素封家であった父・細野勝太郎、母・はつの次男ととして生れましたが、本名は完爾(かんじ)と言いました。少年時代から絵を描くことを好み、1892年(明治25)に、山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に師事します。
 小学校高等科卒業後は、呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松に私淑し、やがて画家として立つことに思いを馳せていきました。1896年(明治29)に、同郷の友人・町田曲江と共に故郷を出奔して京都に出て、南画家・内海吉堂に入門し、翌年から後菊池芳文の塾へ入ります。
 1898年(明治31)の第4回新古美術品展では「文殊図」が褒状1等となり、翌年の第2回全国絵画共進会展でも「資忠決死」が褒状1等となりました。その後、新古美術品展で入賞を重ね、1903年(明治36)には、第5回内国勧業博覧会で「愴秋」が3等賞銅牌、全国絵画共進会で「閑話」2等賞銀牌となります。
 1906年(明治39)に、菊池芳文の養嗣子となって菊知性にかわり、1907年(明治40)の第1回文展に「春暖」、1908年(明治41)の第2回文展に「名士弔喪」を発表、1909年(明治42)の第3回文展では「悪者の童」が3等賞となり、京都市立美術工芸学校教諭心得ともなりました。翌年には、京都市立絵画専門学校助教諭となり、第4回文展で「供燈」が2等賞となります。
 その後も、文展での入賞を重ね、1914年(大正3)の大正博覧会では「媼」で銅牌を得て、1918年(大正7)には、京都市立絵画専門学校教授となり、文展審査委員ともなりました。1922年(大正11)に欧洲(イギリス、フランス、イタリア)へ出張し、1925年(大正14)には、帝国美術院会員となり、菊池塾を主宰するようになります。
 1932年(昭和7)に京都市立絵画専門学校並びに京都市立美術工芸学校校長となり、1934年(昭和9)には、帝室技芸員ともなりました。1936年(昭和11)に京都市立絵画専門学校教授を辞し、1937年(昭和12)には、帝国芸術院会員となります。
 大平洋戦争後は、1949年(昭和24)に日本芸術院会員、翌年に京都市立美術大学名誉教授、1952年(昭和27)には、東京芸術大学教授に就任しました。1954年(昭和29)に、「青年像」で第1回毎日美術賞を受賞、平等院鳳凰堂壁画の模写を指導し、京都市名誉市民の称号を贈られ、京都画壇で指導的立場に立ってきましたが、1955年(昭和30)9月9日に、京都市の自宅において、脳塞栓により、79歳で亡くなっています。

<菊池契月の主要な作品>

・「名士弔葬」(1908年)東京国立近代美術館蔵
・「供灯(ぐとう)」(1910年)
・「鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)」(1913年)
・「少女」(1920年)
・「立女(りつじょ)」(1924年)
・「赤童子」(1926年)京都市美術館蔵
・「南波照間(はいはてるま)」(1928年)京都市美術館蔵
・「涅歯(はくろめ)」(1933年)東京国立近代美術館蔵
・「麦姫」(1937年)東京国立近代美術館蔵
・「青年像」(1954年)第1回毎日美術賞受賞

〇菊池契月関係略年表

・1879年(明治12)11月14日 長野県下高井郡中野村(現在の中野市)において、細野勝太郎の二男として生れる
・1892年(明治25) この頃より山ノ内町の渋温泉在住の南画家・児玉果亭に学ぶ
・1896年(明治29) 町田典江とともに京都に出る。
・1897年(明治30) 内海吉堂に師事、後菊池芳文の塾に転じる
・1898年(明治31) 第4回新古美術品展「文殊図」が褒状1等となる
・1899年(明治32) 第2回全国絵画共進会展「資忠決死」が褒状1等となる
・1900年(明治33) 第6回新古美術品展10年回顧展「聖徳太子遇飢人」が3等賞銅牌、日本絵画協会日本美術院共催第9回絵画共進会「栲幡娘姫」褒状2等となる
・1901年(明治34) 第7回新古美術品展「垓下別離」が3等賞銅牌となる
・1902年(明治35) 第8回新古美術品展「寂光院」かせ2等賞銀牌となる
・1903年(明治36) 第5回内国勧業博覧会「愴秋」3等賞銅牌、全国絵画共進会「閑話」2等賞銀牌となる
・1904年(明治37) 第9回新古美術品展「落花」3等賞銅牌となる
・1905年(明治38) 第10回新古美術品展「近藤重蔵」3等賞銅牌となる
・1906年(明治39) 第11回新古美術品展「栄華」3等賞銅牌となり、菊池芳文の養嗣子となる
・1907年(明治40) 第12回新古美術品展「姜詩妻」3等賞銅牌、第1回文展「春暖」を出品する
・1908年(明治41) 第13回新古美術品展「故園の花」2等賞銀牌、第2回文展「名士弔喪」2等賞となる
・1909年(明治42) 京都市立美術工芸学校教諭心得となり、第14回新古美術品展「達磨」2等賞銀牌、第3回文展「悪者の童」3等賞となる
・1910年(明治43) 京都市立絵画専門学校助教諭となり、第4回文展「供燈」2等賞となる
・1912年(明治45/大正元) 第17回新古美術品展「木蓮」、第6回文展「茄子」3等賞となる
・1913年(大正2) 第18回新古美術品展「煎茶人物図」、第7回文展「鉄漿蜻蛉」2等賞となる
・1914年(大正3) 大正博覧会「媼」銅牌、第8回文展「ゆふべ」2等賞となる
・1915年(大正4) 第9回文展で「浦島」が2等賞となる
・1916年(大正5) 第10回文展「花野」が推薦となる
・1917年(大正6) 第11回文展「蓮華」が推薦となる
・1918年(大正7) 京都市立絵画専門学校教授となる。第12回文展「夕至」、審査委員となる
・1919年(大正8) 第1回帝展「庭の池」、審査委員となる
・1920年(大正9) 第2回帝展「少女」、審査委員となる
・1921年(大正10) 第3回帝展「鶴」、審査委員となる
・1922年(大正11) 欧洲(イギリス、フランス、イタリア)へ出張する
・1923年(大正12) 帰国し、日本美術展に「水汲み女」を出品する
・1924年(大正13) 第5回帝展「立女」、帝展委員となる
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となり、第1回菊池塾展に「春風払絃」を出品する
・1926年(大正15/昭和元) 第2回菊池塾展に「経政」、第7回帝展「赤童子」を出品する
・1927年(昭和2) 第3回菊池塾展に「敦盛」を出品する
・1928年(昭和3) 沖縄地方へ旅行、第4回菊池塾展「女」、第9回帝展「南波照間」、御用画「若菜、着綿」を出品する
・1929年(昭和4) 第5回菊池塾展に「桜」を出品する
・1930年(昭和5) 第6回菊池塾展に「婦女」「麦」、第1回七絃会展「搗布図」「狗児」、ローマ日本美術展「菊」「聖徳太子影」) 
・1931年(昭和6) 京都市立絵画専門学校長事務取扱、京都市立美術工芸学校長事務取扱となり、第7回菊池塾展「朱唇」、シャム日本画展「調馬」) 
・1932年(昭和7) 京都市立絵画専門学校長兼同教授、京都市立美術工芸学校長となり、第8回菊池塾展「少女」、第3回七絃会展「柘榴」を出品する
・1933年(昭和8) 京都市立絵画専門学校長を辞し教授専任となり、第9回菊池塾展「友禅の少女」、第4回七紘会展「涅歯」を出品する
・1934年(昭和9) 帝室技芸員となり、京都市展「生暖」、第5回七絃会展「菊」「早苗」、第15回帝展「散策」。第1回珊々会展「北条時宗」を出品する
・1935年(昭和10) 第1回春虹会展「旗手」、第2回珊々会展「松明牛」、第6回七絃会展「太子孝養図」を出品する
・1936年(昭和11) 京都市立絵画専門学校教授を辞し、第7回七絃会展「吉法師、竹千代」を出品する
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となり、第3回春虹会展「遅日」、第3回珊々会展「朝爽」、第1回文展「麦拒」、審査員となり、第8回七絃会展「迦楼羅」を出品する
・1938年(昭和13) 第3回京都市展「清水」、第2回文展「交歓」、審査員となり、第9回七絃会展「華」を出品する
・1939年(昭和14) 第10回七紘会展に「忠度」を出品する
・1940年(昭和15) 第6回珊々会展「少年家康」、第11回七絃会展「吹奏」を出展する
・1941年(昭和16) 日本画家連盟を結成、第7回珊々会展「郭公」、第12回七紘会展「厳親」を出展する
・1942年(昭和17) 第7回京都市展「紫★」、第8回珊々会展「観画」、満洲国建国10周年慶祝絵画展「孔雀鳩」、第13回七絃会展「樵翁」、日本画家報国会献納作品展「菊図」を出展する
・1943年(昭和18) 関西邦画展に「北政所」、第8回京都市展に「小楠公弟兄」を出展する
・1944年(昭和19) 第9回京都市展に「萩」を出展する
・1947年(昭和22) 法輪寺多宝塔天井画「龍」、七絃会復活展「彼岸」を描く
・1949年(昭和24) 日本芸術院会員となる
・1950年(昭和25) 京都市立美術大学名誉教授となる
・1952年(昭和27) 東京芸術大学教授に就任する
・1954年(昭和29) 「青年像」で第1回毎日美術賞を受賞、鳳凰堂壁画の模写を指導し、京都市名誉市民の称号を贈られる
・1955年(昭和30)9月9日 京都の自宅において、脳塞栓により、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、建築家芦原義信の生まれた日です。
 芦原義信(あしはら よしのぶ)は、大正時代の1918年(大正7)7月7日に、東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれました。府立一中(現在の都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、東京帝国大学工学部建築学科へ進み、1942年(昭和17)に卒業後、技術士官として海軍に入ります。
 1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
 1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
 1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
 1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。

〇芦原義信の主要な作品

<建築・設計>
・「中央公論ビル」(1956年)日本建築学会賞受賞
・「駒沢公園体育館・管制塔」(1964年)日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞受賞
・「東京銀座のソニービル」(1966年)
・「モントリオール万博・日本館」(1968年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「国立歴史民俗博物館」(1984年)日本芸術院賞受賞

<著作>
・『外部空間の構成』(1962年)
・『外部空間の設計』(1975年)
・『街並みの美学』(1979年)第33回毎日出版文化賞受賞
・『続 街並みの美学』(1983年)
・『隠れた秩序』(1986年)
・『秩序への模索』(1995年)

☆芦原義信関係略年表

・1918年(大正7)7月7日 東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれる 
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、技術士官として海軍に入る
・1945年(昭和20) 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所する
・1952年(昭和27) ハーバード大学大学院に留学する
・1953年(昭和28) ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所する
・1954年(昭和29) 日本へ帰国し、法政大学工学部講師となる
・1956年(昭和31) 芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞する
・1959年(昭和34) 法政大学教授となる
・1960年(昭和35) ロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在する
・1961年(昭和36) 学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 『外部空間の構成』を刊行する
・1964年(昭和39) 「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となる
・1965年(昭和40) 武蔵野美術大学建築学科教授となる
・1966年(昭和41) 東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなる
・1968年(昭和43) 「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章する
・1979年(昭和54) アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章する
・1987年(昭和62) 王立オーストリア建築家協会名誉会員となる
・1988年(昭和63) 日本芸術院会員となる
・1989年(平成元) 勲二等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 日本建築学会大賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 東京大学名誉教授となる
・2003年(平成15)9月24日 東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事七夕です詳細
1129年(大治4)白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日)詳細
1823年(文政6)P.F.vonシーボルトがオランダ商館の医師として長崎・出島に着任する(新暦8月12日)詳細
1844年(天保15)和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日)詳細
1884年(明治17)「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる詳細
1964年(昭和39)山梨県の「富士ラマパーク」(後の富士急ハイランド)が開園する詳細
2017年(平成29)「核兵器禁止条約」が国連で採択される詳細
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 今日は、大正時代の1915年(大正4)に、インダストリアルデザイナー柳宗理の生まれた日です。
 柳宗理(やなぎ そうり)は、1915年(大正4)6月29日 東京市赤坂区原宿において、父・柳宗悦、母・兼子の第一子として生まれましたが、本名は宗理(むねみち)と呼びました。1923年(大正12)の関東大震災により家屋の一部が破損、翌年に京都市上京区へ転居、錦林小学校へ入学します。
 京都府立第一中学校卒業後、1933年(昭和8)に東京市小石川区へ転居し、川端画学校で一年間の浪人生活を送りました。東京美術学校西洋画科へ入学し、1940年(昭和15)に卒業後、社団法人日本輸出連合会(商工省外郭団体)嘱託となり、『輸出工芸』第5号の編集を担当、シャルロット・ペリアンの日本各地の視察に同行します。
 1941年(昭和16)にシャルロット・ペリアン 企画展『選択・伝統・創造』に協力し、1942年(昭和17)には、坂倉準三建築研究所研究員となり、レオナルド・ダ・ヴィンチ展(上野)の会場構成に携わりました。1943年(昭和18)に陸軍報道部宣伝部員としてフィリピンへ行き、1945年(昭和20)にフィリピンにて敗戦を迎え、収容所に入れられます。
 1946年(昭和21)に帰国、工業振興会に嘱託として勤務して、工業デザインの研究に着手、1947年(昭和22)には、文化学院文学部および美術部講師に就任しました。1950年(昭和25)に、柳インダストリアルデザイン研究所を開設、駒場の自宅傍にアトリエを構え、1952年(昭和27)に、第1回新日本工業デザインコンクールに出品し第1席「レコードプレイヤー」(日本コロムビア製作)、2席を併せて入選します。
 この賞金を元に、1953年(昭和28)に財団法人柳工業デザイン研究会を設立、『プラスチック振興展』で工業奨励館賞を受賞しました。1955年(昭和30)に、金沢美術工芸大学産業美術学科工業デザイン専攻教授に就任、1957年(昭和32)に、第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品してインダストリアル・デザイン金賞を受賞し、世界的に名が知られるようになります。
 1967年(昭和42)に、金沢美術工芸大学教授を退任し、翌年から非常勤となり、1977年(昭和52)に日本民藝館館長に就任、翌年には、日本民藝協会会長に就任しました。1981年(昭和56)に紫綬褒章、1987年(昭和62)に旭日小綬章を受章し、2002年(平成14)には文化功労者となります。
 2008年(平成20)には、英国王立芸術協会より ロイヤルデザイナー・フォー・インダストリー(Hon RDI)の称号を授与されたものの、2011年(平成23)12月25日に、東京都内の病院において、肺炎のため96歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈されました。

<柳宗理の主要なデザイン作品>

・1952年(昭和27) - レコードプレイヤー(日本コロムビア)
・1953年(昭和28) - 「早く沸くヤカン」(東京ガス)
・1954年(昭和29) - 「スタッキングスツール(エレファントスツール)」(コトブキ製作)
・1956年(昭和31) - 「バタフライスツール」(天童木工製作)、オート三輪(三井精機製作)、白磁土瓶・醤油入れ(多治見陶磁器試験所製作)
・1960年(昭和35) - 二回転式下皿秤「パール」(寺岡精工製作)
・1964年(昭和39) - 東京オリンピック聖火コンテナ、トーチ・ホルダー、水泳競技場座席等
・1965年(昭和40) - 「スタッキング・チェア」(コトブキ製作)
・1970年(昭和45) - 札幌冬季オリンピック聖火台、トーチ・ホルダー
・1970年(昭和45) - 野毛のつり橋、野毛山動物園看板
・1973年(昭和48) - 横浜市営地下鉄駅設備
・1980年(昭和55) - 東名高速道路・東京料金所防音壁
・1985年(昭和60) - 関越自動車道・関越トンネル坑口
・1991年(平成3) - 東名高速道路・足柄橋
・1997年(平成9) - 東京湾横断道路・木更津料金所
・1999年(平成11) - 「シェルチェア」「スタッキングチェア」(天童木工製作)

〇柳宗理関係略年表

・1915年(大正4)6月29日 東京市赤坂区原宿において、父・柳宗悦、母・兼子の第一子として生まれる
・1921年(大正10)3月 東京市赤坂区へ転居する
・1923年(大正12)9月 関東大震災により家屋の一部が破損する
・1924年(大正13) 京都市上京区へ転居、錦林小学校へ入学する
・1928年(昭和3) 京都府立第一中学校へ入学する
・1929年(昭和4) 京都市左京区へ転居する
・1933年(昭和8) 東京市小石川区へ転居する
・1934年(昭和9) 川端画学校で一年間の浪人生活を送る
・1935年(昭和10) 東京都目黒区駒場へ転居、東京美術学校西洋画科入学(1940年4月卒業)
・1939年(昭和14) 『東京美術』の編集委員として「現代美術における無意識性に就て」執筆、『美術』17号発行 特集「新日本美術文化の動向」を編集する
・1940年(昭和15) 東京美術学校西洋画科を卒業し、社団法人日本輸出連合会(商工省外郭団体)嘱託となり、『輸出工芸』第5号の編集を担当、シャルロット・ペリアンの日本各地の視察に同行する
・1941年(昭和16) シャルロット・ペリアン 企画展『選択・伝統・創造』高島屋(東京・大阪巡回展)に協力する
・1942年(昭和17) 坂倉準三建築研究所研究員となり、レオナルド・ダ・ヴィンチ展(上野)の会場構成に携わる
・1943年(昭和18) 陸軍報道部宣伝部員としてフィリピンへ(坂倉準三建築研究所の日本文化会館の設計建築に協力)
・1945年(昭和20) フィリピンにて敗戦を迎え、収容所に入られる
・1946年(昭和21) フィリピンから帰国、工業デザインの研究に着手(農村工業振興会に嘱託として勤務)する
・1947年(昭和22) 文化学院文学部および美術部講師に就任する
・1948年(昭和23) 前川設計研究所編『PLAN』発行に「ラスキン、モリスよりグロピウス、コルビュジェへ」を執筆する
・1949年(昭和24) 『第一回産業意匠展』で優秀賞、『中小企業庁主催第一回産業意匠展』で中小企業長官賞及び優秀賞を受賞する
・1950年(昭和25) 柳インダストリアルデザイン研究所を開設、駒場の自宅傍にアトリエを構える
・1952年(昭和27) 『新日本工業デザイン展』(日本橋三越)出展、『第一回新日本工業デザインコンクール(現・毎日ID賞)』で通商産業大臣賞及び佳作を受賞、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)設立に参加(~1960年まで会員)
・1953年(昭和28) 日本インダストリアルデザイナー協会が文部省より財団法人認可 、財団法人柳工業デザイン研究会を設立、『プラスチック振興展』で工業奨励館賞を受賞、国際デザインコミッティー (現・日本デザインコミッティー)設立に参加(~1980年まで会員)する
・1954年(昭和29) 前川國男の事務所新設(東京・四谷)にあたり、その建物の半地下へアトリエ移転、女子美術大学非常勤講師(~1966年)
・1955年(昭和30) 『スェーデン国際建築意匠「H55」展』に展示、『三井精機56年型三輪車オリエント号完成発表会』、銀座松屋グッドデザインコーナー開設(現・デザインコレクション) 商品の推薦、展示に携わる
・1956年(昭和31) 金沢美術工芸大学嘱託教授となり(~1965年)、渡米する
・1957年(昭和32) 特許庁、意匠奨励審査会委員となり、優良意匠の奨励助成・意匠侵害防止・グッドデザインの選定などを行う、北欧(イタリア・アルベロベッロへ)を訪れる
・1958年(昭和33) 【バタフライスツール】ニューヨーク近代美術館パーマネントコレクションに選定される
・1959年(昭和34) 吉田璋也を訪ね鳥取へ、牛ノ戸焼脇窯を訪れ、渡英する
・1960年(昭和34) 世界デザイン会議企画分科会副委員長に任命され、カッセル国立デザイン専門学校講師(1960年10月~1961年2月の冬季授業を担当)となる
・1961年(昭和36) 父・宗悦が亡くなる
・1964年(昭和39) 第3回ドクメンタ(ドイツ・カッセル)招待出品【灰皿1953、スツール1956、黒釉ティーポット1956、東京オリンピックトーチ1964】
・1966年(昭和41) 『椅子の50年史』アムステルダム市立美術館【バタフライスツール、エレファントスツール】美術館のパーマネントコレクションに選ばれる
・1967年(昭和42) 金沢美術工芸大学教授を退任する
・1969年(昭和44) 横浜市営地下鉄デザイン委員会設置、ファニチャーその他設備のデザイン担当委員を務める
・1972年(昭和47) 柳デザイン(株)(現・柳ショップ)を設立する
・1973年(昭和48) 柳デザインショールーム(浜松町)開設、渡米し、『国際クラフト展』審査員となる
・1974年(昭和49) 『国際クラフト展』審査員(カナダ・トロント)となる
・1975年(昭和50) ヤナギ・ショップ(東京・千駄ヶ谷)が開店する
・1976年(昭和51) ドイツ(シュトゥットガルト)へ行き、フリッツ・レオンハルト博士を訪ねて、意見を聴く
・1977年(昭和52) 日本民藝館館長に就任する(~2006年)
・1978年(昭和53) 日本民藝協会会長に就任する(~2003年)、『民藝』309号に「民芸とモダンデザインの接点」掲載(〜2006年8月644号までの表紙デザイン、図版構成をする)、大阪日本民藝館館長に就任する(〜2011年3月)
・1979年(昭和54) ネパールからインドネシア(ジャワ島)を訪れる
・1980年(昭和55) イタリア(アルベロベッロ)を訪れる
・1981年(昭和56) ブータンを訪れ、紫綬褒章を受賞、フィンランド(ヘルシンキ)を訪れ、フィンランド・デザイナー協会名誉会員となり、メンフィスを結成する
・1982年(昭和57) インド(ラダック)を訪れる
・1983年(昭和58) インドのパキスタン近くのクラジャアート、ラジャスタン地方を訪ねる
・1984年(昭和59) 母・兼子が亡くなる
・1985年(昭和60) フランスへ(『シャルロット・ペリアン展』(パリ)視察)、マリ共和国へ行き、ドゴン族の生活文化を取材する
・1986年(昭和61) カナダ(バンクーバー)、北欧(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド) を訪れる
・1987年(昭和62) 旭日小綬章を授賞する
・1988年(昭和63) 『インド民藝展』(日本民藝館)打ち合わせ調査のため、ニューデリー、ジャイプール、アメダバードなどを訪ねる
・1990年(平成2) 「JC(ジャパンクリエイティブ)」が西武百貨店プライベートブランドとして発足。多数作品の復刻、デザインを行う
・1992年(平成4) 沖縄県立芸術大学非常勤講師となり、国井喜太郎産業工芸賞を受賞する(柳宗理「創成期よりデザイン活動を実践、日本民藝館を通して文化交流に尽力」)
・1994年(平成6) 『Japanese design(日本のデザイン)展』フィラデルフィア博物館(アメリカ) 【バタフライスツール他9点】
・1995年(平成7) 『日本民藝館展』ピーボディ・エセックス博物館(アメリカ巡回展)準備のため渡米する
・1996年(平成8) 沖縄県立芸術大学客員教授となる(~1997年)
・2000年(平成12) 金沢美術工芸大学客員教授となる(~2011年)
・2002年(平成14) 文化功労者となる
・2003年(平成15) 『柳宗理デザイン展』mono gallery(東京)開催
・2006年(平成18) 『柳宗理デザイン生活道具』(熊本国際民芸館)開催
・2007年(平成19) 『柳宗理展ー生活の中のデザイン』(東京国立近代美術館)開催
・2008年(平成20) 英国王立芸術協会より ロイヤルデザイナー・フォー・インダストリー(Hon RDI)の称号を授与される
・2011年(平成23)12月25日 東京都内の病院において、肺炎のため96歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1801年(享和元)折衷学派の儒者細井平洲の命日(新暦8月8日)詳細
1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1929年(昭和4)評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の命日詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、映画監督市川崑の亡くなった日です。
 市川崑(いちかわ こん)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれましたが、幼名は儀一(ぎいち)と言いました。父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳の時に大阪に移住し、大阪市立市岡商業を病気中退しています。
 1933年(昭和8)に京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事、1937年(昭和12)にJOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になりました。1944年(昭和19)と翌年に2度召集令状が来ましたが、身体検査で引っかかり、入隊はしていません。
 大平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に20分ほどの短編人形劇である『娘道成寺』を東宝第三撮影所で作り上げました。1947年(昭和22)に第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督し、1948年(昭和23)に、新東宝の長編「花ひらく」で監督デビューを果たしています。
 1951年(昭和26)に東宝へ、1956年(昭和31)に日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞しました。1959年(昭和34)に「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞、翌年(昭和35)に「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞、翌々年に「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞しています。
 1962年(昭和37)に「私は二歳」でアジア映画祭監督賞、1965年(昭和40)に「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞しました。1969年(昭和44)に黒澤明、木下惠介、小林正樹と共に「四騎の会」を結成、1972年(昭和47)に時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博し、翌年には、ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導きます。
 1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1983年(昭和58)に「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞、1984年(昭和59)には、「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞しました。1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1994年(平成6)に「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となり、2000年(平成12)には、ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞しています。
 2001年(平成13)にモントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞、2007年(平成19)には、東京国際映画祭黒澤明賞を受賞しました。戦後の日本映画の隆盛を担った名監督の一人とされましたが、2008年(平成20年)2月13日に、東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈されています。

〇市川崑監督作品一覧

・「花ひらく」(1948)
・「三百六十五夜 東京篇・大阪篇」(1948年)
・「人間模様」(1949年)
・「果てしなき情熱」(1949年)
・「銀座三四郎」(1950年)
・「熱泥池」(1950年)
・「暁の追跡」(1950年)
・「夜来香」(1951年)
・「恋人」(1951年)
・「無国籍者(1951年)
・「盗まれた恋」(1951年)
・「ブンガワンソロ」(1951年)
・「結婚行進曲」(1951年)
・「ラッキーさん」(1952年)
・「若い人」(1952年)
・「足にさわった女」(1952年)
・「あの手この手」(1952年)
・「プーサン」(1953年)
・「青色革命」(1953年)
・「天晴れ一番手柄 青春銭形平次」(1953年)
・「愛人」(1953年)
・「わたしの凡(すべ)てを」(1954年)
・「億万長者」(1954年)
・「女性に関する十二章」(1954年)
・「青春怪談」(1955年)
・「こころ」(1955年)
・「ビルマの竪琴」(1956年)
・「処刑の部屋」(1956年)
・「日本橋」(1956年)
・「満員電車」(1957年)
・「東北の神武たち」(1957年)
・「穴」(1957年)
・「炎上」(1958年)
・「あなたと私の合言葉 さようなら、今日は」(1959年)
・「鍵」(1959年)
・「野火」(1959年)
・「女経~第二話「物を高く売りつける女」」[増村保造、吉村公三郎とのオムニバス](1960年)
・「ぼんち」(1960年)
・「おとうと」(1960年)
・「黒い十人の女」(1961年)
・「破戒」(1962年)
・「私は二歳」(1962年)
・「雪之丞変化」(1963年)
・「太平洋ひとりぼっち」(1963年)
・「ど根性物語 銭の踊り」(1964年)
・「東京オリンピック」(1965年)
・「トッポ・ジージョのボタン戦争」(1967年)
・「京」(1967年)
・「青春」(1968年)
・「愛ふたたび」(1971年)
・「股旅」(1973年)
・「時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日~「最も速く」」(1973年)
・「吾輩は猫である」(1975年)
・「妻と女の間」[豊田四郎との共同監督](1976年)
・「犬神家の一族」(1976年)
・「悪魔の手毬唄」(1977年)
・「獄門島」(1977年)
・「女王蜂」(1978年)
・「火の鳥」(1978年)
・「病院坂の首縊(くく)りの家」(1979年)
・「古都」(1980年)
・「幸福」(1981年)
・「長江」(1981年)
・「細雪」(1983年)
・「おはん」(1984年)
・「ビルマの竪琴」(1985年)
・「子猫物語」(1986年)
・「鹿鳴館」(1986年)
・「映画女優」(1987年)
・「竹取物語」(1987年)
・「つる 鶴」(1988年)
・「天河伝説殺人事件」(1991年)
・「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)
・「その木戸を通って」(1993年)
・「四十七人の刺客」(1994年)
・「八つ墓村」(1996年)
・「新撰組」(2000年)
・「どら平太」(2000年)
・「かあちゃん」(2001年)
・「ユメ十夜 第二夜」(2006年)
・「犬神家の一族」(2006年)

☆市川崑関係略年表

・1915年(大正4)11月20日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれる
・1933年(昭和8) 京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事する
・1937年(昭和12) JOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になる
・1947年(昭和22) 第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督する
・1948年(昭和23) 新東宝の「花ひらく」で長編監督デビューを果たす
・1951年(昭和26) 東宝へ移籍する
・1956年(昭和31) 日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞する
・1959年(昭和34) 「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞する
・1961年(昭和36) 「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞する
・1962年(昭和37) 「私は二歳」でアジア映画祭監督賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞する
・1969年(昭和44) 黒澤明、木下惠介、小林正樹とともに「四騎の会」を結成する
・1972年(昭和47) 時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博する
・1973年(昭和48) ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導く
・1982年(昭和57) 紫綬褒章を受章する
・1983年(昭和58) 「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞する
・1988年(昭和63) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1994年(平成6) 「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となる
・2000年(平成12) ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞する
・2001年(平成13) モントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞を受賞する
・2007年(平成19) 東京国際映画祭黒澤明賞を受賞する
・2008年(平成20年)2月13日 東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

797年(延暦16)六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上される(新暦3月15日)詳細
807年(大同2)斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される(新暦3月25日)詳細
1875年(明治8)「平民苗字必称義務令」が出され国民に姓を名乗ることを義務附ける(苗字制定記念日)詳細
1900年(明治33)足尾鉱毒事件被害民二千余名が請願のため上京する途中、警官隊・憲兵と衝突した川俣事件が起きる詳細
1946年(昭和21)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「改正憲法草案(マッカーサー草案)」を日本側に手交する詳細
1989年(平成元)リクルート事件で、東京地検特捜部がリクルート前会長江副浩正ら4人を逮捕する詳細
2006年(平成18)財団法人日本城郭協会が「日本100名城」を発表する詳細
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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、日本画家片岡球子が亡くなった日です。
 片岡球子(かたおか たまこ)は、明治時代後期の1905年(明治38)1月5日に、北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれました。1922年(大正11)に北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業後、上京して、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学し、1926年(大正15)に卒業後、親の反対を押し切って、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となります。
 帝展に応募しましたが落選を続けたものの、1930年(昭和5)に「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に初入選し、研究会員となりました。1939年(昭和14)に日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙されます。
 1942年(昭和17)に日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞、1946年(昭和21)には、安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞しました。1948年(昭和23)に第33回院展入選「室内」が日本美術院賞、1950年(昭和25)に第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞、1951年(昭和26)に第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙されました。1955年(昭和30)に、30年間勤めた横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、東京都世田谷区粕谷町に転居します。
 1960年(昭和35)に女子美術大学日本画科助教授、1961年(昭和36)に院展出品「渇仰」が文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任しました。1962年(昭和37)に初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡り、1965年(昭和40)には、女子美術大学日本画科教授に昇任しています。
 1966年(昭和41)に女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、「面構」シリーズ、「富士山」シリーズの製作も開始しました。1970年(昭和45)に神奈川県藤沢市に転居、1973年(昭和48)には、定年により愛知県立芸術大学客員教授となります。
 1975年(昭和50)に第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、1976年(昭和51)に勲三等瑞宝章を受章、1978年(昭和53)には、第27回神奈川文化賞を受賞しました。1981年(昭和56)に日本美術院理事、1982年(昭和57)に日本芸術院会員となり、1986年(昭和61)には、文化功労者、1989年(平成元)に第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章し、1990年(平成2)には、藤沢市名誉市民に選ばれています。
 2000年(平成12)には、「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が開催されましたが、2008年(平成20)1月16日に、神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈されました。

〇片岡球子の主要な作品

・「枇杷」(1930年)第17回日本美術院再興展入選
・「炬燵」(1935年)第19回日本美術院絵画部試作展試作賞受賞
・「寒空」(1938年)日本美術院絵画部研究会員研究会大観賞第一賞受賞
・「新緑」(1939年)日本美術院絵画部研究会大観賞第二賞受賞
・「緑陰」(1939年)第26回院展入選
・「祈祷の僧」(1942年)日本美術院絵画部研究会大観賞受賞
・「夏」(1946年1)第31回院展日本美術院賞受賞
・「室内」(1948年)第33回院展入選・日本美術院賞受賞
・「剃髪」(1950年)第35回院展入選・日本美術院賞・白寿賞受賞
・「行楽」(1951年)第36回院展入選・奨励賞・白寿賞受賞
・「美術部にて」(1952年)第37回院展入選・日本美術院賞・大観賞受賞
・「海岸」(1959年)日本美術院第14回春季展出品
・「渇仰」(1961年)文部省買い上げ優秀美術品
・「幻想」(1961年)第46回院展文部大臣賞受賞
・「面構・足利義政」(1966年)第51回院展出品
・「面構二 東洲斎写楽」(1971年)第56回院展出品
・「面構一 葛飾北斎」(1971年)第56回院展出品
・「面構 鳥文斉栄之」(1975年)第59回院展出品・第31回日本芸術院恩賜賞受賞
・「面構 安藤広重」(1975年)院展六十年の歩み展出品
・「喜多川歌麿」(1978年)日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)出品・国際交流基金買上げ
・「ポーズ1」(1983年)第38回春の院展出品

☆片岡球子関係略年表

・1905年(明治38)1月5日 北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれる
・1922年(大正11) 北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学する
・1926年(大正15) 女子美術専門学校を卒業し、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となる
・1930年(昭和5) 「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に入選し、研究会員となる
・1935年(昭和10) 日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞を受賞する
・1938年(昭和13) 日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞を受賞する
・1939年(昭和14) 日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙される
・1942年(昭和17) 日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞する
・1946年(昭和21) 安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞する
・1948年(昭和23) 第33回院展入選「室内」が日本美術院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞を受賞する
・1951年(昭和26) 第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞、この頃に東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学ぶ
・1952年(昭和27) 第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1955年(昭和30) 横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居する
・1959年(昭和34) 日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品する
・1960年(昭和35) 女子美術大学日本画科助教授となる
・1961年(昭和36) 院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任する
・1962年(昭和37) 第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品、初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
・1965年(昭和40) 女子美術大学日本画科教授に就任する
・1966年(昭和41) 女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、第51回院展に「面構・足利義政」を出品してから、「面構」シリーズ制作開始、この頃から「富士山」シリーズを製作も開始する
・1970年(昭和45) 北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)、神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品する
・1973年(昭和48) 定年により愛知県立芸術大学客員教授となる
・1975年(昭和50) 自伝「情(こころ)ありて」を執筆、第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1978年(昭和53) 日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」を出品、国際交流基金買上げとなり、第27回神奈川文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) 日本美術院理事に就任する
・1982年(昭和57) 日本芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 第38回春の院展に「ポーズ1」を出品する
・1986年(昭和61) 文化功労者に選ばれる
・1989年(平成元) 第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 藤沢市名誉市民に選ばれる
・1993年(平成5) 愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成し、一般公開される
・1996年(平成8) 愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈する
・1998年(平成10) 日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品する
・1999年(平成11) 都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画を制作する
・2000年(平成12) 「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催する
・2008年(平成20)1月16日 神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈される
・2014年(平成26) 名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20)細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
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