ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 文学者

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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、小説家・直木賞作家藤原伊織が生まれた日です。
 藤原伊織(ふじわら いおり)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)2月17日に、大阪府大阪市において生まれましたが、本名は利一(としかず)と言いました。大阪府立高津高等学校を卒業後、1967年(昭和42)に東京大学文科Ⅲ類に進学し、在学中の1968年(昭和43)に「第2次東大文学Ⅱ」誌(文学集団)に、「ゲーム」を書き、同誌の「表紙・目次イラスト」も描き、1971年(昭和46)には、発売された LPレコードに収録された「めくら花」の詞を書いています。
 1973年(昭和48)に東京大学文学部フランス文学科卒業後、(株)電通に入社、その後も勤務のかたわら小説を書き続けました。1977年(昭和52)に『踊りつかれて』で、野性時代新人文学賞佳作に入選、1978年(昭和53)に『風の魚』で、第5回野性時代新人文学賞候補、1982年(昭和57)に『気分はいつも、四月の光』で、第9回野性時代新人文学賞候補、1984年(昭和59)には、『ベルゲンの蕩児』で、第64回オール讀物新人賞候補となります。
 1985年(昭和60)に『ダックスフントのワープ』で、第9回すばる文学賞、1995年(平成7)に『テロリストのパラソル』で、第41回江戸川乱歩賞を受賞、翌年には、同作で第114回直木賞も受賞し、フジテレビ金曜エンタテイメント枠にて萩原健一主演でテレビドラマ化されました。2000年(平成12)に『てのひらの闇』で、第53回日本推理作家協会賞[長編及び連作短編集部門]候補となり、翌年には、同作がテレビ東京女と愛とミステリー枠にて舘ひろし主演でテレビドラマ化されています。
 2002年(平成14)に(株)電通を退社しましたが、2005年(平成17)には、癌に侵されていることを公表しました。個性あふれる登場人物が活躍するハードボイルド小説で人気を集めたものの、2007年(平成19)5月17日に、東京都品川区の病院において、食道癌のため59歳で亡くなっています。
 尚、翌年に『シリウスの道』がWOWOWドラマW枠で内野聖陽主演でテレビドラマ化されました。

〇藤原伊織の主要な著作

・『ダックスフントのワープ』(1987年)第9回すばる文学賞受賞
・『テロリストのパラソル』(1995年)第41回江戸川乱歩賞、第114回直木賞受賞
・『ひまわりの祝祭』(1997年) 
・『雪が降る』(1998年)
・『てのひらの闇』(1999年)第53回日本推理作家協会賞[長編及び連作短編集部門]候補
・『蚊トンボ 白鬚の冒険』(2002年)
・『シリウスの道』(2005年) 
・『ダナエ』(2007年)
・『遊戯』(2007年)
・『名残り火 てのひらの闇II』(2007年) 

☆藤原伊織関係略年表

・1948年(昭和23)2月17日 大阪府大阪市において、生まれる
・1967年(昭和42) 東京大学文科Ⅲ類に進学する
・1968年(昭和43) 東大在学中、『第2次東大文学Ⅱ』誌(文学集団)に、「ゲーム」を書き、同誌の「表紙・目次イラスト」も描く
・1971年(昭和46) 東大在学中、発売された LPレコードに収録された「めくら花」の詞を書く
・1973年(昭和48) 東京大学文学部フランス文学科卒業後、(株)電通に入社する
・1977年(昭和52) 『踊りつかれて』で、野性時代新人文学賞佳作に入選する
・1978年(昭和53) 『風の魚』で、第5回野性時代新人文学賞候補となる
・1982年(昭和57) 『気分はいつも、四月の光』で、第9回野性時代新人文学賞候補となる
・1984年(昭和59) 『ベルゲンの蕩児』で、第64回オール讀物新人賞候補となる
・1985年(昭和60) 『ダックスフントのワープ』で、第9回すばる文学賞を受賞する
・1995年(平成7) 『テロリストのパラソル』で、第41回江戸川乱歩賞を受賞する
・1996年(平成8) 『テロリストのパラソル』で、第114回(1995年度下半期)直木賞を受賞、フジテレビ金曜エンタテイメント枠にて萩原健一主演でテレビドラマ化される
・2000年(平成12) 『てのひらの闇』で、第53回日本推理作家協会賞[長編及び連作短編集部門]候補となる 
・2001年(平成13) 『てのひらの闇』が、テレビ東京女と愛とミステリー枠にて舘ひろし主演でテレビドラマ化される
・2002年(平成14) (株)電通を退社する
・2005年(平成17) 癌に侵されていることを公表する
・2007年(平成19)5月17日、東京都品川区の病院において、食道癌のため59歳で亡くなる
・2008年(平成20) 『シリウスの道』がWOWOWドラマW枠で内野聖陽主演でテレビドラマ化される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1272年(文永9)第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日)詳細
1906年(明治39)大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり、文芸協会が結成される詳細
1928年(昭和3)国語学者・国語辞典『言海』の編纂者である大槻文彦の命日詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細
1972年(昭和47)小説家平林たい子の命日詳細
2005年(平成17)愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、童画家・版画家・童話作家・造本作家武井武雄が亡くなった日です。
 武井武雄(たけい たけお)は、明治時代後期の1894年(明治27)6月25日に、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)西堀の裕福な地主だった父・武井慶一郎、母・さちの子として生まれました。平野村小井川尋常小学校、長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年(大正8)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業します。
 1922年(大正11)に東京社が創刊した絵雑誌「コドモノクニ」創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当し、童画家として出発しました。1923年(大正12)に処女童話集『お伽の卵』を刊行、1924年(大正13)には、東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造します。
 1926年(大正15)に郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられ、長篇童話『ラムラム王』を刊行、1927年(昭和2)には、岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と共に日本童画協会を結成、特集『花園の車』を刊行しました。1929年(昭和4)に自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催、1930年(昭和5)には、「日本郷土玩具・東西篇」を刊行しています。
 1935年(昭和10)に私刊本『十二支絵本』を創始し、芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱、1938年(昭和13)には、エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊しました。1941年(昭和16)の4月から3年がかりで『武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉』を刊行開始、1945年(昭和20)には、空襲で池袋の家が全焼、作品および貴重な資料を失ない、岡谷に疎開、文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行います。
 1946年(昭和21)に日本童画会が結成され会員となり、文化団体「双燈社」を起こし、1948年(昭和23)に東京の荏原に単身仮寓、1949年(昭和24)には、東京都板橋区南常盤台に新居を構え、「一掬庵」と称しました。1959年(昭和34)に児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受章、1962年(昭和37)には、旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活、この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催しています。
 1967年(昭和42)に勲四等旭日小綬章を受章、1968年(昭和43)には、ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪しました。1975年(昭和50)に童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれ、1979年(昭和54)には、紺綬褒章および賜杯を受けています。
 1982年(昭和57)に第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開催しましたが、1983年(昭和58)2月7日に、東京都板橋区の自宅において、心筋梗塞のため89歳で亡くなりました。

〇武井武雄の主要な著作

・童話集『お噺の卵』(1923年)
・童話『ペスト博士の夢』(1924年)
・童話『ラムラム王』(1926年)
・エッセイ『日本の郷土玩具』(1930年)
・童画・絵本論集『本とその周辺』(1960年)
・画文集『戦中年儘画帖』(1973年)
・画文集『戦後年儘画帖』(1973年)
・『武井武雄作品集』全三冊(1974年)

☆武井武雄関係略年表

・1894年(明治27)6月25日 長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)西堀の裕福な地主だった父・武井慶一郎、母・さちの子として生まれる
・1908年(明治41) 平野村小井川尋常小学校 高等3年終了。
・1913年(大正2) 長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を卒業する
・1919年(大正8) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1922年(大正11) 東京社が創刊した絵雑誌「コドモノクニ」創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当する
・1923年(大正12) 処女童話集『お伽の卵』を目白書房より刊行する
・1924年(大正13) 東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造する
・1926年(大正15) 郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられる。長篇童話『ラムラム王』を叢文閣より刊行する
・1927年(昭和2) 岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と共に日本童画協会を結成、特集『花園の車』をフタバ書房より刊行する
・1929年(昭和4) 自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催する
・1930年(昭和5) 「日本郷土玩具・東西篇」を地平社より刊行する
・1935年(昭和10) 私刊本『十二支絵本』を創始し、芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱する
・1938年(昭和13) 母、長男、次男を失う、エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊する
・1941年(昭和16) 4月から3年がかりで『武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉』を吾八より刊行開始する
・1945年(昭和20) 5月の空襲で池袋の家が全焼、作品および貴重な資料を失ない、岡谷に疎開、文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行う
・1946年(昭和21) 日本童画会が結成され、会員となる、文化団体「双燈社」を起こす
・1948年(昭和23) 東京の荏原に単身仮寓する
・1949年(昭和24) 東京都板橋区南常盤台に新居を構え、「一掬庵」と称する
・1959年(昭和34) 児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受章する
・1962年(昭和37) 旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活、この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催する
・1967年(昭和42) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1968年(昭和43) ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪する
・1971年(昭和46) 市立岡谷美術考古館にて「武井武雄作品展」を開催する
・1975年(昭和50) 童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれる
・1979年(昭和54) 紺綬褒章および賜杯を受ける
・1982年(昭和57) 第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開く
・1983年(昭和58)2月7日 東京都板橋区の自宅において、心筋梗塞のため89歳で亡くなる
・1984年(昭和59) 市立岡谷美術考古館で特別展「武井武雄の世界」(展示作品700点)を開催する
・2015年(平成27) 岡谷市のデザインナンバープレートと家屋調査済証に武井の童画を使用する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1184年(治承8)一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日)詳細
1681年(天和元)江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓で、江戸に護国寺創建を命じる(新暦3月26日)詳細
1692年(元禄4)孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日)詳細
1731年(享保16)俳人・蕉門十哲の一人各務支考の命日(新暦3月14日)詳細
1873年(明治6)「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)が布告される詳細
1899年(明治32)「実業学校令」(明治32年勅令第29号)が公布(同年4月1日施行)される詳細
1998年(平成10)長野オリンピック(第18回冬季オリンピック・長野大会)が開幕する詳細
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takahashikiichirou01
 今日は、平成時代の2007年(平成19)に、小説家高橋揆一郎が亡くなった日です。
 高橋揆一郎(たかはし きいちろう)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)4月10日に、北海道歌志内市上唄の炭鉱長屋で生まれましたが、本名は良雄(よしお)と言いました。歌志内小学校卒業後、北海道庁の給仕をしながら、庁職員養成を目標とした札幌市の私立昭和中学校(夜間中学)を1946年(昭和21)に卒業し、歌志内国民学校の代用教員となります。
 1948年(昭和23)に、代用教員を辞して、北海道第一師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)入学したものの、中退して住友石炭鉱業上歌志内砿に入社しました。社内報の編集等の仕事に携わりながら、1950年(昭和25)に上歌砿の文学サークル「上歌文学会セナクール」を結成したほか、さまざまな同人誌を発刊、執筆し、『仮寓の半生』で炭労文学小説部門で入選しています。
 1958年(昭和33)に赤平と上歌両地区の文学愛好者15人が集い「住友赤平文学会」を結成、雑誌『赤い崖』を創刊しましたが、1965年(昭和40)に札幌の住友石炭北海道支店に転勤、同人誌活動を中断される状況となりました。1970年(昭和45)に住友石炭鉱業を退職し、フリーのイラストレーターとなり、「財界さっぽろ」に時事漫画を連載、1971年(昭和46)には、「くりまの会」同人となり、文学活動を本格化します。
 1973年(昭和48)に『ぽぷらと軍神』で第37回文學界新人賞を受賞、1975年(昭和50)に『清吉の暦』で第73回芥川賞候補となりました。1977年(昭和52)に『観音力疾走』で第11回北海道新聞文学賞を受賞、第77回芥川賞候補となり、『日蔭の椅子』で第78回芥川賞候補となりましたが、1978年(昭和53)には、『伸予』で第79回芥川賞、札幌市民芸術賞を受賞しています。
 1987年(昭和62)に札幌歌志内会が設立され、会長を務め(~2001年度まで)、1991年(平成3)に北海道文化賞、1992年(平成4)には、『友子』で第11回新田次郎文学賞を受賞しました。1993年(平成5)に歌志内市内に「高橋揆一郎文学碑」が建立され、1997年(平成9)には、歌志内市名誉市民となり、歌志内市郷土館「ゆめつむぎ」の名誉館長となったものの、2007年(平成19)1月31日に、北海道札幌市内の病院において、肺炎のため78歳で亡くなっています。

〇高橋揆一郎の主要な著作

・『ぽぷらと軍神』(1973年)第37回文學界新人賞受賞
・『観音力疾走 木偶おがみ』(1977年) 第11回北海道新聞文学賞受賞、第77回芥川賞候補
・『伸予』(1978年)第79回芥川賞受賞
・『狐沢夢幻』(1979年)
・『友子』(1992年)第11回新田次郎文学賞受賞

〇高橋揆一郎関係略年表

・1928年(昭和3)4月10日 北海道歌志内市上唄の炭鉱長屋で生まれる 
・1946年(昭和21) 札幌の夜間中学(旧制)を卒業後、歌志内国民学校の助教諭となり、国民学校の教師たちによって同人雑誌「白楊」が発刊される
・1948年(昭和23) 北海道第一師範学校入学のため退職したものの、わずかな期間で中退し、再び歌志内へ戻り、住友鉱業所上歌志内砿に入社、社内報の編集等の仕事に携わる
・1950年(昭和25) 上歌砿の文学サークル「上歌文学会セナクール」を結成したほか、さまざまな同人誌を発刊、執筆し、『仮寓の半生』で炭労文学小説部門で入選する
・1958年(昭和33) 赤平と上歌両地区の文学愛好者15人が集い「住友赤平文学会」を結成、雑誌『赤い崖』を創刊する
・1965年(昭和40) 札幌の住友石炭北海道支店に転勤、同人誌活動を中断される状況となる
・1970年(昭和45) 住友石炭鉱業を退職し、フリーのイラストレーターとなり、「財界さっぽろ」に時事漫画を連載する
・1971年(昭和46) 渡辺淳一を輩出した「くりまの会」同人となり、文学活動を本格化する
・1973年(昭和48) 『ぽぷらと軍神』で第37回文學界新人賞を受賞する
・1975年(昭和50) 『清吉の暦』で第73回芥川賞候補となる
・1977年(昭和52) 『観音力疾走』で第11回北海道新聞文学賞を受賞、第77回芥川賞候補となり、『日蔭の椅子』で第78回芥川賞候補となる
・1978年(昭和53) 『伸予』で第79回芥川賞、札幌市民芸術賞を受賞する
・1987年(昭和62) 札幌歌志内会が設立され、会長を務める(~2001年度まで)
・1991年(平成3) 北海道文化賞を受賞する
・1992年(平成4) 『友子』で第11回新田次郎文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 歌志内市内3つ目の文学碑として「高橋揆一郎文学碑」が建立される
・1997年(平成9) 歌志内市名誉市民となり、歌志内市郷土館「ゆめつむぎ」の名誉館長となる
・2007年(平成19)1月31日 北海道札幌市内の病院において、肺炎のため78歳で亡くなる
・2008年(平成20) 常設展示コーナーが新設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1883年(明治16)病理学者緒方知三郎の誕生日詳細
1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1935年(昭和10)小説家・ノーベル文学賞作家大江健三郎の誕生日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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hashimotoosamu01
 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、小説家・評論家・随筆家橋本治の亡くなった日です。
 橋本治(はしもと おさむ)は、昭和時代中期の1948年(昭和23)3月25日に、東京都杉並区和泉の菓子店に生まれましたが、1951年(昭和26)の3歳の時に世田谷区に転居しました。杉並区立和泉中学校、都立豊多摩高校を経て、1967年(昭和42)に、東京大学文科Ⅲ類へ入学します。
 在学中の1968年(昭和43)に、東京大学駒場祭のポスターで「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打って注目され、イラストレーターとしての活動をスタートました。1970年(昭和45)に「週刊新潮」で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当、1973年(昭和48)には、卒論『四世鶴屋南北の劇世界』を書いて、東京大学文学部国文学科を卒業し、イラストレーターとなります。
 1977年(昭和52)に、女子高生の風俗を超口語体で描いた『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、文筆業に転じ、1987年(昭和62)には、『桃尻語訳 枕草子』がベストセラーとなりました。1990年(平成2)に『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞候補に選出されるも落選、1991年(平成3)には、米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録されています。
 1992年(平成4)に小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務め、1993年(平成5)には、雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始(~2005年)しました。1996年(平成8)にオウム真理教事件を題材にした『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞、2002年(平成14)には、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞しています。
 2004年(平成16)に文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになり、2005年(平成17)に短編集『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞、2008年(平成20)には、『双調 平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞しました。2018年(平成30)に『草薙の剣』で第71回野間文芸賞を受賞しましたが、2019年(平成31)1月29日に、東京都新宿区の病院において、肺炎のために70歳で亡くなっています。

〇橋本治の主要な著作

・戯曲『義経伝説』(1991年)
・『桃尻娘』(1977年)第29回小説現代新人賞佳作
・『蓮(はす)と刀』(1982年)
・『その後の仁義なき桃尻娘』(1983年)
・『帰って来た桃尻娘』(1984年)
・『革命的半ズボン主義宣言』(1984年)
・『無花果少年(いちぢくボーイ)と瓜売小僧(うりうりぼうや)』(1985年)
・『完本チャンバラ時代劇講座』(1986年)
・『無花果少年と桃尻娘』(1988年)
・『雨の温州蜜柑姫(おみかんひめ)』(1990年)
・『'89』(1990年)
・『古事記』(1993年)
・シリーズ『貧乏は正しい!』(1994~1996年)
・『桃尻語訳枕草子』上中下(1987、1988、1995年)
・『宗教なんかこわくない!』(1996年)第9回新潮学芸賞受賞
・『絵本徒然草(つれづれぐさ)』上下(1990、1993年)
・『窯変(ようへん)源氏物語』全14巻(1991~1993年)
・『双調平家物語』全15巻(1998~2007年)
・『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(2002年)第1回小林秀雄賞受賞
・短編集『蝶のゆくえ』(2005年)第18回柴田錬三郎賞受賞
・『双調 平家物語』(2008年)第62回毎日出版文化賞受賞
・『草薙の剣』(2018年)第71回野間文芸賞受賞

☆橋本治関係略年表

・1948年(昭和23)3月25日 東京都杉並区の菓子店に生まれる
・1951年(昭和26) 3歳の時に世田谷区に転居する
・1954年(昭和29) 杉並区立新泉小学校へ入学する
・1960年(昭和35) 杉並区立新泉小学校を卒業し、杉並区立和泉中学校へ入学する
・1963年(昭和38) 杉並区立和泉中学校を卒業し、都立豊多摩高校に入学する
・1966年(昭和41) 都立豊多摩高校卒業後、予備校に通う
・1967年(昭和42) 東京大学文科Ⅲ類へ入学する
・1968年(昭和43) 大学2年次に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東京大学駒場祭のポスターで注目される
・1970年(昭和45) 「週刊新潮」で「ぽるの日本史」の挿絵を1年間担当する
・1973年(昭和48) 卒論『四世鶴屋南北の劇世界』を書いて、東京大学文学部国文学科を卒業し、イラストレーターとして活動する
・1977年(昭和52) 女子高生の風俗を超口語体で描いた『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、文筆業に転じる
・1987年(昭和62) 『桃尻語訳 枕草子』がベストセラーとなる
・1990年(平成2) 『江戸にフランス革命を!』で第17回大佛次郎賞候補に選出されるも落選する
・1991年(平成3) 米国で出版された現代日本文学のアンソロジー『Monkey brain sushi』に「愛の牡丹雪」の英訳が収録される
・1992年(平成4) 小学館ヤングサンデーの主催するサマーセミナーで講師を務める
・1993年(平成5) 雑誌「芸術新潮」で連載「ひらがな日本美術史」を開始(~2005年)する
・1995年(平成7) 雑誌「WIRED」の創刊2号(1995年3月号)で大友良英とトークセッションする
・1996年(平成8) オウム真理教事件を題材にした『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞を受賞する
・1999年(平成11) 東京・三軒茶屋シアタートラムで篠井英介の一人芝居『女賊』の作・演出を務める
・2002年(平成14) 『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で第1回小林秀雄賞を受賞する
・2004年(平成16) 文化論『上司は思いつきでものを言う』がベストセラーになる
・2005年(平成17) 短編集『蝶のゆくえ』で第18回柴田錬三郎賞を受賞する
・2007年(平成19) 小林秀雄賞の選考委員となる(~2018年)
・2008年(平成20) 『双調 平家物語』で第62回毎日出版文化賞を受賞する
・2009年(平成21) 「週刊新潮」2009年2月号に「巡礼」が一挙掲載される
・2013年(平成25) 東京都立西高等学校で「役に立たないことの大切さ」と題して講演会を行なう
・2018年(平成30) 『草薙の剣』で第71回野間文芸賞を受賞する
・2019年(平成31)1月29日 東京都新宿区の病院において、肺炎のために70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置する(新暦2月26日)詳細
1879年(明治12)日本が国際電信連合(現在の国際電気通信連合)に加盟する詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
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fujimotogiichi01
 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・放送作家藤本義一の生まれた日です。
 藤本義一(ふじもと ぎいち)は、昭和時代前期の1933年(昭和8)1月26日に、大阪府堺市において生まれましたが、本名は義一(よしかず)と読みます。泉北郡浜寺尋常小学校(現在の堺市立浜寺小学校)を経て、1945年(昭和20)に私立浪速中学に入学後、航空機搭乗員養成所に入りましたが、敗戦となりました。
 戦後の1950年(昭和25)に新制浪速高校を卒業後、立命館大学法学部に入学したものの、まもなく中退し、翌年には、大阪府立浪速大学(現在の大阪府立大学)教育学部に入学します。1952年(昭和27)に経済学部へ転部し、在学中より脚本家を目ざしラジオドラマの懸賞に次々と入選、1955年(昭和30)にラジオドラマ「大黒主命」「花火」「あら、あら、かしこ」、1956年(昭和31)には、「うちうみ」「三等待合室」が放送されました。
 1957年(昭和32)に戯曲『つばくろの歌』で、芸術祭戯曲部門の文部大臣賞を受賞、1958年(昭和33)には、学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚して枚方市に転居、校名が変わった大阪府立大学経済学部を卒業します。その後、テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、1959年(昭和34)に大映にて、『貸間あり』の脚本の共作者となり、1961年(昭和36)には、NHKのドラマ「現代人間模様」を執筆しました。
 1965年(昭和40)にテレビ番組「11PM」(日本テレビ・よみうりテレビ共同製作)での大阪制作分のキャスターとなり、長編小説を書くようになって、1968年(昭和43)に『ちりめんじゃこ』、1969年(昭和44)に『マンハッタン・ブルース』、1971年(昭和46)には、『生きいそぎの記』がいずれも直木賞候補となります。1972年(昭和47)に第1回噂賞、1974年(昭和49)には、上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で、第71回直木賞を受賞しました。
 1975年(昭和50)に『雨月物語』の現代語訳を発表、1978年(昭和53)に上方の笑いを応援する「笑(しょう)の会」の村長を務め、1980年(昭和55)には、日本放送作家協会の関西支部長に就任するなど多彩な活躍をします。それによって、1986年(昭和61)に第1回関西大賞を受賞、1987年(昭和62)には、『螢の宿』で第7回日本文芸大賞を受賞しました。
 1990年(平成2)に、司会を務めるなど25年に渡って関わって来たテレビ番組「11PM」が最終回を迎え、1998年(平成10)に大阪芸術賞を受賞しています。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災の被災遺児のために、1999年(平成11)に児童厚生施設「浜風の家」をオープンしました。
 しかし、2010年(平成22)に多方面にわたる活動を続ける最中に軽度の脳梗塞を患い、翌年の春に中皮腫を患っていることがわかり、余命は1年と宣告され、2012年(平成24)10月30日に、肺がんのため、79歳で亡くなっています。尚、2014年(平成26)には、遺品や蔵書を集めたギャラリー「藤本義一の書斎」が兵庫県芦屋市にオープンしました。

〇藤本義一の主要な著作

・戯曲『つばくろの歌』(1957年)芸術祭曲部門の文部大臣賞受賞
・長編小説『ちりめんじゃこ』(1968年)第61回直木賞候補
・長編小説『マンハッタン・ブルース』(1969年)第62回直木賞候補
・長編小説『生きいそぎの記』(1971年)第65回直木賞候補 
・長編小説『鬼の詩(うた)』(1974年)第71回直木賞受賞
・『大いなる笑魂(しょうこん)』(1977年)
・『西鶴(さいかく)くずし・好色一代男』(1978年)
・『人間萬事(ばんじ)』(1986年)
・『女の淵(ふち)』(1980年)
・長編小説『蛍(ほたる)の宿』(1986年)第7回日本文芸大賞受賞
・長編小説『蛍の宴(うたげ)』(1987年)
・長編小説『蛍の街』(1988年)
・長編小説『蛍の死』(1989年)
・連作短編集『迷子の天使たち』(1993年)
・短編作品集『三条木屋(きや)町』(1994年)
・エッセイ集『けったいな人たち――日本異人伝』(1994年)
・『なにわ商人(あきんど)1500年の知恵』(1994年)
・『人生の賞味期限』(2001年)
・『人生は、いつも始発駅』(2001年)
・『人生の自由時間』(2001年)

☆藤本義一関係略年表

・1933年(昭和8)1月26日 大阪府堺市において、生まれる
・1939年(昭和14) 泉北郡浜寺尋常小学校(現在の堺市立浜寺小学校)に入学する
・1945年(昭和20) 私立浪速中学に入学後、航空機搭乗員養成所に入るが、敗戦となる
・1950年(昭和25) 新制浪速高校を卒業後、立命館大学法学部に入学するが、まもなく中退する
・1951年(昭和26) 大阪府立浪速大学(現在の大阪府立大学)教育学部に入学する
・1952年(昭和27) 経済学部へ転部する
・1955年(昭和30) ラジオドラマ「大黒主命」「花火」「あら、あら、かしこ」が放送される
・1956年(昭和31) ラジオドラマ「うちうみ」「三等待合室」が放送される
・1957年(昭和32) 戯曲『つばくろの歌』で、芸術祭戯曲部門の文部大臣賞を受賞する
・1958年(昭和33) 学生時代に知り合っていた統紀子夫人と結婚して枚方市に転居、大阪府立大学経済学部を卒業する
・1959年(昭和34) 大映にて、『貸間あり』の脚本の共作者とな
・1960年(昭和35) 長女が誕生する
・1961年(昭和36) NHKのドラマ「現代人間模様」を執筆する
・1963年(昭和38) 次女が誕生する
・1965年(昭和40) テレビ番組「11PM」(日本テレビ・よみうりテレビ共同製作)での大阪制作分のキャスターとなる
・1968年(昭和43) 長編小説『ちりめんじゃこ』が第61回直木賞候補となる
・1969年(昭和44) 『マンハッタン・ブルース』が第62回直木賞候補となる
・1971年(昭和46) 『生きいそぎの記』が第65回直木賞候補となる
・1972年(昭和47) 第1回噂賞を受賞する
・1974年(昭和49) 上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で、第71回直木賞を受賞する
・1975年(昭和50) 『雨月物語』の現代語訳を発表する
・1978年(昭和53) 上方の笑いを応援する「笑(しょう)の会」の村長を務める
・1980年(昭和55) 日本放送作家協会の関西支部長に就任する
・1986年(昭和61) 第1回関西大賞を受賞する
・1987年(昭和62) 『螢の宿』で第7回日本文芸大賞を受賞する
・1990年(平成2) 司会を務めた「11PM」が最終回をむかえる
・1998年(平成10) 大阪芸術賞を受賞する
・1999年(平成11) 阪神・淡路大震災の被災遺児のために児童厚生施設「浜風の家」をオープンする
・2010年(平成22) 多方面にわたる活動を続ける最中に軽度の脳梗塞を患う
・2011年(平成23) 春に中皮腫を患っていることがわかり、余命は1年と宣告される
・2012年(平成24)10月30日 肺がんのため、79歳で亡くなる
・2014年(平成26) 遺品や蔵書を集めたギャラリー「藤本義一の書斎」が兵庫県芦屋市にオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)神田松枝町大火が起き、10,673戸を焼失し、36,542人の被災者を出す詳細
1944年(昭和19)内務省が「(改正)防空法」により、東京と名古屋に初の建物疎開の命令を出す詳細
1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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