ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 文学者

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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、小説家・文化庁長官だった三浦朱門が生まれた日です。
 三浦 朱門(みうら しゅもん)は、大正時代の1926年(大正15)1月12日に、東京府豊多摩郡(現在の東京都中野区)において、イタリア文学者だった父・三浦逸雄の子として生まれました。東京府立第二中学校(現在の都立立川高等学校)から旧制高知高等学校へ入学しましたが、1945年(昭和20)に陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎えます。
 復学後、1948年(昭和23)に東京大学文学部言語学科を卒業、日本大学芸術学部非常勤講師となりました。1950年(昭和25)に第17次『新思潮』に参加、1951年(昭和26)に『画鬼』(のちに『冥府(めいふ)山水図』)を発表し、「芥川龍之介の再来」と呼ばれるようになり、1952年(昭和27)には、日本大学芸術学部助教授となり、『斧と馬丁』で芥川賞候補となり、「第三の新人」の一人として活躍します。
 1953年(昭和28)に同人仲間だった曾野綾子と結婚、1967年(昭和42)には、日本大学芸術学部教授となり、『箱庭』で、第14回新潮社文学賞を受賞しました。しかし、1969年(昭和44)の日大闘争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職したものの、翌年には、聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章しています。
 1983年(昭和58)に『武蔵野インディアン』で、第33回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、1985年(昭和60)には文化庁長官(~1986年)となりました。1987年(昭和62)に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し、日本芸術院会員となり、1988年(昭和63)には、日本文芸家協会理事長(~1994年)となります。
 1991年(平成3)に中部大学女子短期大学学長(~1995年)となり、1999年〈平成11〉には、第14回産経正論大賞を受賞し、文化功労者ともなりました。2004年(平成16)に日本芸術院の院長(~2014年)となりましたが、2017年(平成29)2月3日に、東京都において、間質性肺炎のため91歳で亡くなっています。

〇三浦朱門の主要な著作

・『斧と馬丁』(1952年)芥川賞候補
・『聖陵勲章』(1953年)
・『冥府(めいふ)山水図』(1955年)
・『礁湖』(1957年)
・『不肖の父』(1958年)
・『セルロイドの塔』(1960年)
・『神話』(1966年)
・『箱庭』(1967年)新潮文学賞受賞
・『教えの庭』(1969年)
・『竹馬の友』(1969年)
・『道の半ばに』(1969年)
・『鴉(からす)』(1971年)
・『武蔵野(むさしの)インディアン』(1982年)第33回芸術選奨文部科学大臣賞受賞
・『望郷』(1987年)
・『ささやかな不仕合わせ』(1987年)

☆三浦朱門関係略年表

・1926年(大正15)1月12日 東京府豊多摩郡(現在の東京都中野区)において、イタリア文学者だった父・三浦逸雄の子として生まれる
・1945年(昭和20) 陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える
・1948年(昭和23) 東京大学文学部言語学科を卒業、日本大学芸術学部非常勤講師となる
・1950年(昭和25) 第17次『新思潮』に参加する
・1951年(昭和26) 『画鬼』(のちに『冥府(めいふ)山水図』)を発表し、「芥川龍之介の再来」と呼ばれるようになる
・1952年(昭和27) 日本大学芸術学部助教授となり、『斧と馬丁』で芥川賞候補となる
・1953年(昭和28) 同人仲間だった曾野綾子と結婚する
・1967年(昭和42) 日本大学芸術学部教授となり、『箱庭』で、第14回新潮社文学賞を受賞する
・1969年(昭和44) 日大闘争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職する
・1970年(昭和45) 聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章する
・1983年(昭和58) 『武蔵野インディアン』で、第33回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞する
・1985年(昭和60) 文化庁長官となる
・1986年(昭和61) 文化庁長官を辞める
・1987年(昭和62) 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し、日本芸術院会員となる
・1988年(昭和63) 日本文芸家協会理事長となる
・1991年(平成3) 中部大学女子短期大学学長となる
・1994年(平成6) 日本文芸家協会理事長を辞める
・1995年(平成7) 中部大学女子短期大学学長を辞める
・1999年〈平成11〉 第14回産経正論大賞を受賞し、文化功労者となる
・2004年(平成16) 日本芸術院の院長となる
・2014年(平成26) 日本芸術院の院長を辞める
・2017年(平成29)2月3日 東京都において、間質性肺炎のため91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

866年(慶応2)仏教学者・チベット探検家河口慧海の誕生日(新暦2月26日)詳細
1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1874年(明治7)板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
1954年(昭和29)文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始する詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、説教僧・茶人・文人安楽庵策伝が亡くなった日ですが、新暦では2月7日となります。
 安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は、戦国時代の1554年(天文23)に、金森定近(土岐可頼)の子(兄は戦国大名金森長近)として、美濃国(現在の岐阜市山県)で生まれたとされてきました。1560年(永禄3)の7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家し、1567年(永禄7年)の11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行します。
 1578年(天正6)の25歳の時、山陽地方へと布教の旅に出て、1592年(文禄元)の39歳の時、和楽に入り、1594年(文禄3年)の41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となりました。1596年(慶長元)の43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となり、1609年(慶長14)の56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かり、1613年(慶長18)の60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となります。
 1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始め、1623年(元和9)には、全8巻が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居しました。1624年(寛永元)に茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始め、1628年(寛永5年3月17日)には、京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈しています。
 1630年(寛永7)の77歳の時、『百椿集』1巻を上梓しましたが、1642年(寛永19年1月8日)に、京都において、数え年89歳で亡くなり、所は京都誓願寺とされました。説教僧として知られ、滑稽な落し噺を説教の高座で実演し,その話材を『醒睡笑(せいすいしょう)』に集録して後世に残したので、落語の元祖とも言われています。
 以下に、『醒睡笑』の構成と序文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇安楽庵策伝の主要な著作

・笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』全8巻(1623年完成)
・記録『百椿集(ひやくちんしゆう)』(1630年)
・交友録『策伝和尚送答控(さくでんおしょうそうとうひかえ)』

〇『醒睡笑』(せいすいしょう)とは?

 京の僧侶である安樂菴策傳著の笑話集で、全8巻からなり、42項に分類された1,039話を収録しています。江戸時代前期の1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって執筆を始め、1623年(元和9)頃に完成し、1628年(寛永5年3月17日)に板倉重宗に献呈されるたと考えられています。庶民の間に広く流行した話を集め、様々な滑稽話、人情話で構成されており、「睡り(ねむり)を醒まして笑う」という、本の中に出てくる文章から題名を名付けたとされ、落語の元になったとも言われてきました。

<構成>
(巻の一)
・謂えば謂われる物の由来(よくも謂えたものだというこじつけばなし)
・落書(風刺を含んだ匿名の投書)
・ふわとのる(「ふわっ」と乗る:煽てに乗ること)
・鈍副子(どんふうす:鈍物の副司。つまり血の巡りの悪い禅寺の会計係)
・無知の僧(お経もろくに読めない坊主のはなし)
・祝い過ぎるも異なること(縁起の担ぎすぎの失敗談)
(巻の二)
・名付親方(変な名前をつける名付親)
・貴人の行跡(身分の高い人の笑いのエピソード)
・空(愚か者の笑い)
・吝太郎(けちんぼの笑い)
・賢だて(利巧ぶる人の間抜け話)
(巻の三)
・文字知り顔(知ったかぶりの間抜けさ)
・不文字(文盲なのにそれを気が付かないふりをする。おかしさ)
・文のしなじな(機知にとんだ手紙の数々)
・自堕落(ふしだら者の犯す失敗談)
・清僧(女性と交わる罪を犯さない坊主の話)
(巻の四)
・聞こえた批判(頓智裁判)
・いやな批判(不合理な裁判)
・そでない合点(見当はずれ・早合点)
・唯あり(味のある話)
(巻の五)
・きしゃごころ(やさしい風流ごころ)
・上戸(酒飲みの珍談・奇談・失敗談)
・人はそだち(育ちの悪さから来る失敗談。「氏より育ち」の逆)
(巻の六)
・稚児のうわさ(稚児から聞いた内緒ばなし)
・若道知らず(男色のおかしさ)
・恋の道(夫婦間の笑い)
・吝気(やきもちばなし)
・詮無い秘密(くだらない秘密)
・推は違うた(推理がはずれてがっかりした話)
・うそつき(ほら話)
(巻の七)
・思いの色をほかにいう(心に思っていることは態度に出てしまうという笑い話)
・言い損ないはなおらぬ(失言を何とか取り繕うとするおかしさ)
・似合うたのぞみ(たかのぞみは失敗するという話)
・廃忘(失敗するとあわてるという話、蒙昧すること)
・うたい(謡曲の文句に題材をとった笑い話)
・舞(舞の台本を聞きかじった無知な人の話)
(巻の八)
・頓作(即席頓智話)
・平家(平家物語を詠う琵琶法師にまつわる滑稽談)
・かすり(語呂合わせや駄洒落)
・秀句(秀でた詩文をもとにした言葉遊び)
・茶の湯(茶道の心得が無いために起こすしくじり話)
・祝い済まいた(めでたし、めでたしで終わる話)

〇『醒睡笑』(序)

ころはいつ、元和(げんな)九癸亥(みづのとのゐ)の稔(とし)、天下泰平、人民豊楽の折から、策伝某、小僧の時より耳にふれて、おもしろくをかしかりつる事を、反故(ほうご)の端にとめ置きたり。
是(こ)の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵と云ふ、柴の扉の明暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)をさましてわらふ。
さるまゝにや是を醒睡笑と名付け、かたはらいたき草紙を八巻となして残すのみ。

☆安楽庵策伝関係略年表

・1554年(天文23年) 金森定近(土岐可頼)の子として、現在の岐阜市山県で生まれる
・1560年(永禄3年) 7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家する
・1567年(永禄7年) 11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行する
・1578年(天正6年) 25歳の時、山陽・近畿地方へと布教の旅にでる
・1592年(文禄元年) 39歳の時、和楽に入る
・1594年(文禄3年) 41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となる
・1596年(慶長元年) 43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となる
・1609年(慶長14年) 56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かる
・1613年(慶長18年) 60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となる
・1615年(慶長20年) 京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始める
・1623年(元和9年) 『醒睡笑』(全8巻)が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居する
・1624年(寛永元年) 茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始める
・1628年(寛永5年3月17日) 京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈する
・1630年(寛永7年) 77歳の時、『百椿集』1巻を上梓する
・1642年(寛永19年1月8日) 京都において、数え年89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1920年(大正9)医師・生化学者・分子生物学者早石修の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、詩人・童謡作家中村雨紅の生まれた日(戸籍上は2月6日)です。
 中村雨紅(なかむら うこう)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日>に、東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれましたが、本名は高井宮吉(たかい みやきち)と言いました。1909年(明治42)に上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進み、1911年(明治44)に卒業後、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学します。
 1916年(大正5)に東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤め、翌年には、南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となりました。1918年(大正7)に日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始めます。
 1919年(大正8)に童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載され、1923年(大正12)には、文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたものの、関東大震災のため、多くの楽譜が失われました。1924年(大正13)に日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、1926年(大正15)には、日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任しています。
 1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職し、1956年(昭和31)には、還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立されました。1965年(昭和40)に望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年(昭和45)には、雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
 1971年(昭和46)に神奈川県厚木市の県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院し、翌年5月8日に、神奈同病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなりました。1993年(平成5)に雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立され、2005年(平成17)から、JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用されています。

〇中村雨紅の主要な作品

<作詞>
・『夕焼小焼』作曲:草川信
・『ふる里と母と』作曲:山本正夫
・『お舟の三日月』作曲:山本正夫
・『こんこん小兎』作曲:山本正夫
・『早春』作曲:山本正夫
・『花吹雪』作曲:山本正夫
・『花の夕ぐれ』作曲:山本正夫
・『坊やのお家』作曲:山本正夫
・『赤いものなあに』作曲:山本正夫
・『かくれんぼ』作曲:林松木
・『父さん恋しろ』作曲:林松木
・『ギッコンバッタン』作曲:井上武士
・『紅緒のぽっくり』作曲:井上武士
・『秋空』作曲:石島正博
・『海が逃げたか』作曲:星出敏一
・『荻野音頭』作曲:細川潤一
・『カタツムリの遠足』作曲:吉田政治
・『こほろぎ』作曲:黒沢隆朝
・『子猫の小鈴』作曲:守安省
・『ねんねのお里』作曲:杉山長谷夫
・『ばあやのお里』作曲:寺内昭
・『星の子』作曲:黒沢孝三郎
・『みかんとお星さま』作曲:斎藤六三郎

<著書>
・『夕やけ小やけ 中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『中村雨紅詩謡集』(1971年)
・『抒情短篇集 若かりし日』(1975年)
・『中村雨紅 お伽童話 第1集 - 第3集』(1985年)
・『中村雨紅 青春譜』(1994年)

☆中村雨紅関係略年表

・1897年(明治30)1月7日<戸籍上は2月6日> 東京府南多摩郡恩方村上恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の宮尾神社宮司だった父・髙井丹吾と母・シキの三男として生まれる 
・1909年(明治42) 上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業し、報恩高等小学校へ進む
・1911年(明治44) 恩方村報恩高等小学校を卒業し、東京府立青山師範学校(現在の東京学芸大学)へ入学する
・1916年(大正5) 東京府立青山師範学校を卒業し、日暮里町第二日暮里小学校へ勤める
・1917年(大正6) 南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる
・1918年(大正7) 日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤し、児童の情操教育のため、同僚の訓導矢沢らと共に回覧文集を始め、童話の執筆を始める
・1919年(大正8) 童話童謡雑誌『金の船』(のちに『金の星』と改題)に童話数編が選に入り掲載される
・1923年(大正12) 文化楽社刊「文化楽譜-新しい童謡-」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載されたが、関東大震災のため、多くの楽譜が失われ、おば中村家との養子縁組が解消し、漢学者本城間停の次女千代子と結婚する
・1924年(大正13) 日暮里町第三日暮里尋常小学校から、板橋尋常高等小学校へ転任、長男・喬(たかし)が誕生する
・1926年(大正15) 日本大学高等師範部国漢科を卒業し、神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)へ赴任する
・1927年(昭和2) 長女・緑(みどり)が誕生する
・1949年(昭和24) 神奈川県立厚木東高等学校依願退職する
・1956年(昭和31) 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立50周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が行われ、生家の宮尾神社境内に『夕焼小焼』の歌碑が建立される
・1965年(昭和40) 望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞する
・1970年(昭和45) 雨紅自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立する
・1971年(昭和46) 神奈川県立厚木病院(現在の厚木市立病院)へ入院する
・1972年(昭和47)5月8日 神奈川県厚木市の県立厚木病院において、回盲部腫瘍のため75歳で亡くなる
・1993年(平成5) 雨紅がその生涯の大半を過ごした厚木市の市立厚木小学校にも「中村雨紅記念歌碑」が建立される
・2005年(平成17) JR八王子駅の各番線の発車メロディとして『夕焼小焼』が採用される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1868年(慶応4)新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、評論家・児童文学作家古田足日の生まれた日です。
 古田足日(ふるた たるひ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)11月29日に、愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれました。1940年(昭和15)に川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学したものの、中学4年生の時に戦時下の学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働きます。
 旧制第一高等学校を受験しましたが不合格、翌年旧制松山高等学校も受験しましたが不合格となり、1945年(昭和20)に大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学しました。しかし、1948年(昭和23)に中退し、翌年に上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となります。
 1950年(昭和25)に代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらいました。1951年(昭和26)に早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知り、1953年(昭和28)には、早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚しています。
 1954年(昭和29)に小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊、1955年(昭和30)に日本児童文学者協会常任理事に就任、翌年には、日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務めました。1959年(昭和34)に第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞、1964年(昭和39)には、雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始します。
 1966年(昭和41)に『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞、1968年(昭和43)に『モグラ原っぱのなかまたち』、1970年(昭和45)には、『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行しました。1976年(昭和51)に山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)し、1978年(昭和53)には、『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行しています。
 1980年(昭和55)に『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行、翌年の第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となりました。1993年(平成5)に「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版、1994年(平成6)には、第17回巖谷小波文芸賞を受賞しています。
 1997年(平成9)に日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任、2004年(平成16)には、戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行しました。2008年(平成20)に「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務めましたが、2014年(平成26)6月8日に、東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなっています。

〇古田足日の主要な作品

・評論集『現代児童文学論―近代童話批判』(1959年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『ぬすまれた町』(1961年)
・『宿題ひきうけ株式会社』(1966年)日本児童文学者協会賞受賞
・『モグラ原っぱのなかまたち』(1968年)
・『ロボット・カミイ』(1970年)
・『大きい1年生と小さな2年生』(1970年)
・絵本『おしいれのぼうけん』(1974年)
・『ダンプえんちょうやっつけた』(1978年)
・『さくらんぼクラブにクロがきた』(1980年)第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書

☆古田足日関係略年表

・1927年(昭和2)11月29日 愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれる
・1931年(昭和6) 与謝野晶子夫妻が村を訪問する
・1940年(昭和15) 川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学する
・1943年(昭和18) 学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働き、旧制第一高等学校を受験しましたが不合格となる
・1944年(昭和19) 旧制松山高等学校を受験しましたが不合格となる
・1945年(昭和20) 大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学する
・1948年(昭和23) 大阪外専を中退する
・1949年(昭和24) 上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となる
・1950年(昭和25) 代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらう
・1951年(昭和26) 早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知る
・1953年(昭和28) 早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚する
・1954年(昭和29) 小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊する
・1955年(昭和30) 日本児童文学者協会常任理事に就任する
・1956年(昭和31) 日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務める
・1959年(昭和34) 第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞する
・1960年(昭和35) 東京都豊島区椎名町のアパートに転居する
・1964年(昭和39) 雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始する
・1966年(昭和41) 『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞する
・1967年(昭和42) 雑誌「幼児と保育」(小学館)6月号増刊に『ロボット・カミイ』の原型を発表する
・1968年(昭和43) 『モグラ原っぱのなかまたち』を刊行する
・1970年(昭和45) 『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行する
・1971年(昭和46) 紙芝居『ロボット・カミイ』シリーズ(全4巻)刊行開始(1971~1974年刊行)する
・1974年(昭和49) 『おしいれのぼうけん』刊行。
・1976年(昭和51) 山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)する
・1978年(昭和53) 『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行する
・1980年(昭和55) 『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行する
・1981年(昭和56) 『さくらんぼクラブにクロがきた』 が第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となる
・1993年(平成5) 「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版する
・1994年(平成6) 第17回巖谷小波文芸賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任する
・2002年(平成14) 『ひみつのやくそく』を刊行する
・2004年(平成16) 戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行する
・2008年(平成20) 「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務める
・2011年(平成23) 『現代児童文学を問い続けて』を刊行する
・2014年(平成26)6月8日 東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する詳細
1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1910年(明治43)白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港する詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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 今日は、平成時代の2011年(平成23)に、小説家・エッセイスト・精神科医北杜夫の亡くなった日です。
 北杜夫(きた もりお)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)5月1日に、東京市赤坂区青山南町において、医師・歌人の父・斎藤茂吉、母・輝子の次男として生まれましたが、本名は、斎藤宗吉(さいとう そうきち)といいました。麻布中学、旧制松本高校を経て、1947年(昭和22)に東北帝国大学から改称したばかりの東北大学医学部へ進学します。
 精神科を専攻し、1952年(昭和27)に卒業後、慶應義塾大学病院に勤務しながら、同人誌「文芸首都」を拠点に小説を発表しました。1954年(昭和29)には、「文藝首都」に連載した『幽霊』を、田畑麦彦の『祭壇』と共に文芸首都社から自費出版します。
 1955年(昭和30)から山梨県甲府市里吉町の県立玉諸病院(現在は山梨県立北病院)に一年間勤務しました。1958年(昭和33)11月~翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海し、この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』を刊行するとベストセラーとなります。
 1960年(昭和35)に、ナチス政権下のドイツにおける精神科医の抵抗を描いた『夜と霧の隅で』で、第43回芥川龍之介賞、1964年(昭和39)には、『楡家の人々』で毎日出版文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)にカラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加、翌年には、その体験を基に『白きたおやかな峰』を刊行しています。
 1976年(昭和51)に新潮社より、『北杜夫全集』全15巻の刊行を翌年にかけて行いました。1982年(昭和57)に『輝ける碧き空の下で』第一部を刊行、1986年(昭和61)に第二部を刊行し、日本文学大賞を受賞しています。
 1991年(平成3)に『青年茂吉』を刊行し、茂吉評伝四部作が開始され、1996年(平成8)には、日本芸術院会員となりました。1998年(平成10)『茂吉晩年』を刊行し、茂吉評伝四部作が完結、2001年(平成13)には、第5回海洋文学大賞特別賞を受賞しています。
 2008年(平成20)には、マンボウ昆虫展の全国巡回が開始(~2011年)されましたが、2011年(平成23)10月24日に、東京都目黒区の国立病院機構東京医療センターにおいて、腸閉塞のため、84歳で亡くなり、従四位、旭日中綬章が追贈されました。

〇北杜夫の主要な著作

・『幽霊』(1954年)
・『岩尾根にて』(1956年)
・『霊媒のいる町』(1956年)
・『夜と霧の隅で』(1960年)芥川賞受賞
・『どくとるマンボウ航海記』(1960年)
・『どくとるマンボウ昆虫記』(1961年)
・『楡家の人々』(1964年)毎日出版文化賞受賞
・『白きたおやかな峰』(1966年)
・『どくとるマンボウ途中下車』(1967年)
・『どくとるマンボウ青春記』(1968年)
・『酔いどれ船』(1972年)
・『木精』(1975年)
・『輝ける碧き空の下で』第1部・第2部(1982年・1986年)日本文学大賞受賞
・『青年茂吉』(1991年)大佛次郎賞受賞
・『壮年茂吉』(1993年)大佛次郎賞受賞
・『茂吉彷徨(ほうこう)』(1996年)大佛次郎賞受賞
・『茂吉晩年』(1998年)大佛次郎賞受賞

☆北杜夫関係略年表

・1927年(昭和2)5月1日 東京市赤坂区青山南町において、医師・歌人の父・斎藤茂吉、母・輝子の次男として生まれる
・1947年(昭和22) 東北帝国大学から改称したばかりの東北大学医学部へ進学する
・1952年(昭和27) 東福大学医学部(精神科専攻)を卒業後、慶應義塾大学病院に勤務する
・1954年(昭和29) 「文藝首都」に連載した『幽霊』を、田畑の『祭壇』と共に文芸首都社から自費出版する
・1955年(昭和30) 「文藝首都」10月号に、辻邦生との「トーマス・マンに就ての対話」を掲載、山梨県甲府市里吉町の県立玉諸病院(現在は山梨県立北病院)に一年間勤務する
・1958年(昭和33) 11月~翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海する
・1960年(昭和35) 『夜と霧の隅で』で、第43回芥川龍之介賞を受賞する
・1964年(昭和39) 『楡家の人々』で毎日出版文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) カラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加する
・1966年(昭和41) カラコルム・ディラン峰への遠征隊の体験を基に『白きたおやかな峰』を刊行する
・1969年(昭和44) フランスのパリに滞在中の辻邦生を訪ね、連れ立ってスイスのチューリッヒ州のキルヒベルクでトーマス・マンの墓参りをする
・1976年(昭和51) 新潮社より『北杜夫全集』の刊行を開始(~1977年)する
・1980年(昭和55) テレビのトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演する
・1981年(昭和56) 自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マブゼ共和国」主席を名乗る
・1982年(昭和57) 『輝ける碧き空の下で』第一部を刊行する
・1986年(昭和61) 『輝ける碧き空の下で』第二部を刊行、日本文学大賞を受賞する
・1991年(平成3) 『青年茂吉』を刊行し、茂吉評伝四部作が開始される
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1998年(平成10)『茂吉晩年』を刊行し、茂吉評伝四部作が完結する
・2001年(平成13) 第5回海洋文学大賞特別賞を受賞する
・2008年(平成20) テレビのトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日)に28年ぶりに出演、マンボウ昆虫展の全国巡回が開始される(~2011年)
・2010年(平成22) 「週刊文春」連載の「新・家の履歴書」に登場し、斎藤茂吉家を回想する
・2011年(平成23)10月24日 東京都目黒区の国立病院機構東京医療センターにおいて、腸閉塞のため、84歳で亡くなり、従四位、旭日中綬章が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1933年(昭和8)小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の誕生日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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