ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 文学者

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 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、小説家白石一郎が生まれた日です。
 白石一郎(しらいし いちろう)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)11月9日 朝鮮の釜山で生まれ、太平洋戦争敗戦の1945年(昭和20)までは同地で過ごしました。長崎県立佐世保北高等学校時代に小説家を志し、雑誌の懸賞小説に次々と投稿し、早稲田大学政治経済学部へ進みます。
 1954年(昭和29)に同大学卒業後、一時期サラリーマン生活を送りますが、退職して帰郷、父親の経理事務所を手伝いながら創作に励みました。1955年(昭和30)に『臆病武者』が、九州時事新聞の懸賞小説に一席入選、1957年(昭和32)には、『みかん』で、第9回講談倶楽部賞[山岡荘八奨励賞]を受賞します。
 1958年(昭和33)に『雑兵』で、第10回講談倶楽部賞を受賞し、福岡県福岡市で本格的な作家生活に入り、1970年(昭和45)に第1回福岡市文学賞[小説]、1983年(昭和58)には、第8回福岡市文化賞を受賞しました。その間、1970年(昭和45)から度々直木賞候補となりますが、ようやく8回目にして、1987年(昭和62)に『海狼伝』で、第97回直木賞を受賞します。
 1992年(平成4)に『戦鬼たちの海—織田水軍の将・九鬼嘉隆』で、第5回柴田錬三郎賞、1994年(平成6)には、『十時半睡事件帖』シリーズがNHKでテレビドラマ化されました。1995年(平成7)には、朝日新聞で『異人館』の連載を開始、第54回西日本文化賞社会文化部門を受賞しています。
 九州の海を舞台にした海洋歴史小説を多数発表し、1998年(平成10)には、第2回海洋文学大賞特別賞を受賞しました。1999年(平成11)には、第7回福岡県文化賞[創造部門]、『怒濤のごとく』で、第33回吉川英治文学賞を受賞したものの、2002年(平成14)の冬から食道がんのため久留米市内の病院に入院後、入退院を繰り返し、2004年(平成16)9月20日に、福岡県久留米市の病院において、肺炎により、72歳で亡くなっています。

<白石一郎の主要な著作>

・『みかん』(1957年)第9回講談倶楽部賞[山岡荘八奨励賞]受賞
・『雑兵』(1958年)第10回講談倶楽部賞受賞
・『海狼伝』(1987年)第97回直木賞受賞
・『戦鬼たちの海—織田水軍の将・九鬼嘉隆』(1992年)第5回柴田錬三郎賞受賞
・『異人館』(1995年)
・『怒濤のごとく』(1999年)第33回吉川英治文学賞受賞

〇白石一郎関係略年表

・1931年(昭和6)11月9日 朝鮮の釜山で生まれる
・1945年(昭和20) 大平洋戦争敗戦に伴ない、朝鮮の釜山から長崎県佐世保市へ転居する
・1954年(昭和29) 早稲田大学政治経済学部卒業後、一時期サラリーマン生活を送る
・1955年(昭和30) 『臆病武者』が、九州時事新聞の懸賞小説に一席入選する
・1957年(昭和32) 『みかん』で、第9回講談倶楽部賞[山岡荘八奨励賞]を受賞する
・1958年(昭和33) 『雑兵』で、第10回講談倶楽部賞を受賞し、福岡県福岡市で作家生活に入る
・1970年(昭和45) 第1回福岡市文学賞[小説]を受賞する
・1983年(昭和58) 第8回福岡市文化賞を受賞する
・1987年(昭和62) 『海狼伝』で、第97回直木賞を受賞する
・1992年(平成4) 『戦鬼たちの海—織田水軍の将・九鬼嘉隆』で、第5回柴田錬三郎賞を受賞する
・1994年(平成6) 『十時半睡事件帖』シリーズがNHKでテレビドラマ化される
・1995年(平成7) 朝日新聞で、幕末から明治維新の長崎で活躍した英国商人グラバーの生涯を描いた『異人館』の連載を開始、第54回西日本文化賞社会文化部門を受賞する
・1998年(平成10) 第2回海洋文学大賞特別賞を受賞する
・1999年(平成11) 第7回福岡県文化賞[創造部門]を受賞、『怒濤のごとく』にて第33回吉川英治文学賞を受賞する、
・2002年(平成14) 冬から食道がんのため久留米市内の病院に入院する
・2004年(平成16)9月20日 福岡県久留米市の病院において、肺炎により、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)江戸幕府が島原の乱の鎮圧に板倉重昌らの派遣を決定する(新暦12月25日)詳細
1872年(明治5)太陽暦導入のため、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告)が布告される(新暦12月9日)詳細
1876年(明治9)医師・細菌学者野口英世の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「農業計画に関する覚書」(SCAPIN-257)を出す詳細
1963年(昭和38)三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人を出す詳細
鶴見事故で列車の三重衝突が起こり、死者161人・負傷者120人を出す詳細
1962年(昭和37)廖承志と高碕達之助が「日中LT貿易覚書」に調印する詳細
1988年(昭和63)物理学者・第17代東京大学総長茅誠司の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1111年(天永2)に、公卿・儒学者・歌人大江匡房の亡くなった日ですが、新暦では12月7日となります。
 大江匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代中期の1041年(長久2)に、父・大学頭成衡(しげひら)、母・文章博士宮内大輔橘孝親の娘の子として生まれました。幼少のころから文才があったと伝えられ、8歳で『史記』『漢書』に通じ、11歳で詩を賦し、世人から神童といわれます。
 1056年(天喜4)に、省試に合格して文章得業生、翌年に、丹波掾となり、1058年(康平元)には、対策に及第しました。1060年(康平3)に、治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられ、1067年(治暦3)には、東宮学士(春宮・尊仁親王)となりました。1068年(治暦4)に、尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられ、1069年(治暦5)には、蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任を果たします。
 1078年(承暦2)に、自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠し、1080年(承暦4)に権左中弁として弁官局に復し、1081年(永保元)に左中弁となり、1083年(永保3)には、式部権大輔も兼ねました。1084年(応徳元)に左大弁となり、1086年(応徳3)に従三位に叙せられ、1087年(応徳4年)に式部大輔、1088年(寛治2年)には、正三位に叙せられ、参議となって公卿に列します。
 1094年(寛治8)に従二位、権中納言となり、1096年(寛治10年)には、永長の大田楽を記録した『洛陽田楽記』を著しました。1097年(承徳元)に大宰権帥を兼ね、翌年には、筑前の大宰府に下向しましたが、1102年(康和4)には、任期満了に伴って京都に戻り、正二位に叙せられます。1105年(長治2)には、所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われました。1106年(嘉承元)に再び大宰権帥を兼ねましたが、病気もあって任地には下向せずに終わります。
 1111年(天永2)に大蔵卿に遷任されたものの、同年11月5日に京都において、数え年71歳で亡くなっています。博学で、和歌、漢詩はもとより、歴史、儀式、遊芸から兵学にいたるまで通じていて、その著作は非常に多く、後三条、白河、堀河天皇の侍読ともなり、『後拾遺和歌集』以後の勅撰集に多くの秀作を残し、百人一首にも入りました。

<大江匡房の代表的な和歌>

・「高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」(百人一首73番:後拾遺和歌集)
・「津の國の 蘆の葉凌ぎ 降る雪に 昆陽の篠屋も 埋もれにけり」
・「たかをかに 群れゐる人も 諸共に 千代契りし わかなをぞつむ」
・「箱根山 うすむらさきの つぼすみれ ふたしほみしほ たれか染めけむ」
・「春霞 立ちかくせども 姫小松 ひくまの野邊に 我は来にけり」(金葉和歌集)
・「山ざくら 千々に心の くだくるは 散る花ごとに そふにやあるらむ」(千載和歌集)

〇大江匡房の主要な著作

・『洛陽田楽(らくようでんがく)記』(1096年)
・有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』
・『和漢朗詠集』の注釈『朗詠江注』
・説話集『江談抄』
・兵法書『闘戦経』
・『続本朝往生伝』(1101年~1111年成立)
・『本朝神仙伝』
・和歌集『江帥(ごうのそつ)集』
・『江都督納言願文(がんもん)集』(1061~1111年)

☆大江匡房関係略年表(日付は旧暦です)

・1041年(長久2年) 父・大学頭成衡(しげひら)、母・文章博士・宮内大輔橘孝親の女の子として生まれる
・1048年(永承3年) 8歳で『史記』『漢書』に通じる
・1051年(永承6年) 11歳で詩を賦し、世人から神童といわれる
・1056年(天喜4年) 16歳で、省試に合格して文章得業生となる
・1057年(天喜5年) 丹波掾となる
・1058年(康平元年) 18歳で対策に及第する
・1060年(康平3年) 治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられる
・1067年(治暦3年) 東宮学士(春宮・尊仁親王)となる
・1068年(治暦4年) 尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられる
・1069年(治暦5年) 29歳で蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任をする
・1078年(承暦2年) 自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠する
・1080年(承暦4年) 権左中弁として弁官局に復する
・1081年(永保元年) 左中弁となる
・1083年(永保3年) 式部権大輔も兼ねる
・1084年(応徳元年) 左大弁となる
・1086年(応徳3年) 従三位に叙せられる
・1087年(応徳4年) 式部大輔となる
・1088年(寛治2年) 正三位に叙せられ、参議となり、公卿に列する
・1094年(寛治8年) 従二位、権中納言となる
・1096年(寛治10年)  永長の大田楽を記録した『洛陽田楽(らくようでんがく)記』を著す
・1097年(承徳元年) 大宰権帥を兼ねる
・1098年(永長3年) 58歳で筑前の大宰府に下向する
・1102年(康和4年) 正二位に叙せられる
・1105年(長治2年) 所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われる
・1106年(嘉承元年) 再び大宰権帥を兼ねるが、病気もあって任地には下向せず
・1111年(天永2年11月5日) 京都において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事).

1854年(嘉永7)安政南海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月24日)詳細
1857年(安政4)吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講する(新暦12月9日)詳細
1888年(明治21)日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日詳細
1895年(明治28)「日伯修好通商航海条約」が締結される(日本ブラジル修好記念日)詳細
1930年(昭和5)大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する詳細
1937年(昭和12)社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日詳細
1941年(昭和16)第7回御前会議の「帝国国策遂行要領」で対米交渉の甲乙二案を決定、決裂時は武力行使と決まる詳細
1954年(昭和29)日本とビルマ連邦が、ビルマのラングーンで「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」に調印する詳細
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yamakawakikue01
 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、評論家・女性運動家山川菊栄が亡くなった日です。
 山川菊栄(やまかわ きくえ)は、明治時代中頃の1890年(明治23)11月3日に、東京府麹町区番町において、父・森田龍之助、母・青山千世の二女として生まれました。東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)を経て、1912年(明治45)に、女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業し、英語辞書編集や翻訳などで生計を助けます。
 1914年(大正3)に、神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿、1915年(大正4)には、堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加しました。1916年(大正5)に、平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、その後、結婚します。
 1919年(大正8)に『女の立場から』を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始し、1921年(大正10)には、山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加しました。1922年(大正11)に、ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』を刊行します。
 1923年(大正12)に、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆、1925年(大正14)には、日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆しました。1928年(昭和3)に、『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』を刊行します。
 1936年(昭和11)に、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたて、1937年(昭和12)には、第一次人民戦線事件で夫・山川均が検挙されました。1940年(昭和15)に『女は働いている』を刊行、1943年(昭和18)には、柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』を刊行します。
 大平洋戦争後の1946年(昭和21)に新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆、1947年(昭和22)には、神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行しました。1951年(昭和26)に、労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国、1952年(昭和27)には、各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰します。
 1954年(昭和29)に『平和と革命の国―イギリス』を刊行、1958年(昭和33)には、夫・山川均が亡くなりました。1959年(昭和34)に、建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問、1962年(昭和37)には、「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立します。
 1974年(昭和49)に『覚書 幕末の水戸藩』を刊行し、翌年に第2回大佛次郎賞を受賞、1977年(昭和52)にまは、『女性解放へ』を刊行しました。1978年(昭和53)に「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』を刊行、1979年(昭和54)には、『日本婦人運動小史』を刊行しましたが、1980年(昭和55)11月2日に、東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなっています。

<山川菊栄の主要な著作>

・『女の立場から』(1919年)
・『女性の叛逆』(1922年)
・山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』(1928年)
・『女は働いている』(1940年)
・『武家の女性』(1943年)
・『わが住む村』(1943年)
・『明日の女性のために』(1951年)
・『平和と革命の国―イギリス』(1954年)
・『おんな二代の記』(1963年)
・『覚書 幕末の水戸藩』(1974年)第2回大佛次郎賞受賞
・『女性解放へ』(1977年)
・『二十世紀をあゆむ』(1978年)
・『日本婦人運動小史』(1979年)

〇山川菊栄関係略年表

・1890年(明治23)11月3日 東京府麹町区番町において、父・森田龍之助、母・青山千世の二女として生まれる
・1902年(明治35) 東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)へ入学する
・1907年(明治40) 府立第二高等女学校を卒業、国語伝習所に通うかたわら、朝方、成美女学校での開催の勉強会、閨秀文学会を通じて馬場孤蝶に師事し、与謝野晶子、平塚らいてう達と知り合う
・1908年(明治41) 女子英学塾(現在の津田塾大学)へ入学する
・1912年(明治45) 女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業、英語辞書編集や翻訳などで生計を助ける。
・1914年(大正3) 神近市子らの雑誌『番紅花』(さふらん)にカーペンターの翻訳を寄稿する
・1915年(大正4) 堺利彦、幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会に神近市子の誘いで参加する
・1916年(大正5) 平民講演会の散会後に拘束検挙され、一夜拘留、この会で山川均と知り合い、山川均編集の『新社会』へ寄稿し、結婚する
・1917年(大正6) 肺結核を患いながら、長男振作を出産する
・1918年(大正7) 母性保護論争で平塚らいてうや伊藤野枝らに対して、社会主義の立場を明確にしながら『婦人公論』誌上で批判を開始し、論壇の地位を確立する
・1919年(大正8) 『女の立場から』(三田書房)を刊行、合衆国労働省婦人局の統計調査資料を入手開始する
・1921年(大正10) 山川均とともに、『社会主義研究』の主筆となり、日本初の社会主義を標榜する女性団体「赤瀾会」を堺真柄、九津美房子らの発起で結成、同年メーデーに初参加する
・1922年(大正11) ロシア飢饉救済運動を提唱し、七日会メンバーとともに募金活動など成果をあげ、『女性の叛逆』(三穂社)を刊行する
・1923年(大正12) 種蒔き社主催の第1回国際婦人デー記念講演会、神田青年会館で開催、40分ほどで中止解散となり、雑誌『種蒔く人』3月号の特集「無産婦人号ー国際婦人デー記念」を実質的に企画し、巻頭論文「プロレタリアと婦人問題」を執筆する
・1925年(大正14) 日本労働組合評議会設立に際し、「婦人部テーゼ」を執筆する
・1927年(昭和2) 社会主義者への偏見から自己名義で借家できず、母千世の名義で借家を転々とし、鎌倉稲村ケ崎に借地し、ようやく自宅を建築する
・1928年(昭和3) 『労農』婦人版の編集を1号から7号まで行い、山川均との共著『無産者運動と婦人の問題』(白揚社)を刊行する
・1933年(昭和8) 夫や長男の看病の間、執筆活動にも支障があったが、各新聞雑誌への寄稿文をまとめた『女性五十講』(改造社)を発表、即日発行禁止処分となる
・1936年(昭和11) 稲村ケ崎自宅を貸家として、鎌倉郡村岡村弥勒寺にて「湘南うづら園」を開業し、鶉の卵を販売して生計をたてる
・1937年(昭和12) 第一次人民戦線事件で山川均が検挙される
・1938年(昭和13) 山川均が留置場で肺結核発病、「治安維持法」違反で起訴、巣鴨留置場に移送される
・1939年(昭和14) 山川均が2年の留置生活を経て、保釈され帰宅する
・1940年(昭和15) 『女は働いている』(育生社)を刊行する
・1943年(昭和18) 柳田国男の企画による女性叢書として、『武家の女性』(三国書房)と『わが住む村』(三国書房)を刊行する
・1945年(昭和20) 広島に疎開、敗戦を迎え、年末藤沢に帰宅する
・1946年(昭和21) 新歴史協会創立し、雑誌『新歴史』に水戸藩生瀬事件を執筆する
・1947年(昭和22) 神近市子、平林たい子らとともに民主婦人協会(のちの民主婦人同盟)結成に参加、日本社会党に入党、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任、『明日の女性のために』(鱒書房)を刊行する
・1951年(昭和26) 労働省を退職、渡英し、イギリス労働党を中心とした労働運動を調査研究、欧州視察ののちインド経由で帰国する
・1952年(昭和27) 各地の労働組合会合で講演、日本社会党左派婦人部の準機関誌『婦人のこえ』発刊、主宰する
・1954年(昭和29) 『平和と革命の国―イギリス』(慶友社)を刊行する
・1955年(昭和30) 神奈川県婦人図書館員研究会の第1回研究会で講演を行なう
・1958年(昭和33) 夫・山川均が亡くなる
・1959年(昭和34) 建国10周年にあたる中華人民共和国を招聘訪問する
・1962年(昭和37) 「婦人問題懇話会」(後の日本婦人問題懇話会)を設立する
・1963年(昭和38) 『おんな二代の記』(平凡社)を刊行する
・1967年(昭和42) 労働省婦人少年局廃止の動きに対する反対運動の先頭に立ち、陳情の発起人代表の一人となる
・1974年(昭和49) 『覚書 幕末の水戸藩』(岩波書店)を刊行する
・1975年(昭和50) 『覚書 幕末の水戸藩』で、第2回大佛次郎賞を受賞する
・1977年(昭和52) 『女性解放へ』(日本婦人会議出版部)を刊行する
・1978年(昭和53) 「日本婦人問題懇話会」代表となり、『二十世紀をあゆむ』(大和書房)を刊行する
・1979年(昭和54) 『日本婦人運動小史』(大和書房)を刊行する
・1980年(昭和55)11月2日 東京都において、脳梗塞により、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1288年(正応元)第96代天皇とされる後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1714年(正徳4)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣・譜代大名柳沢吉保の命日(新暦12月8日)詳細
1917年(大正6)中国に関する「石井・ランシング協定」が調印される詳細
1931年(昭和6)東京科学博物館の上野新館(現在の国立科学博物館日本館)が完成し、開館披露が行われる詳細
1940年(昭和15)「国民服令」が公布・施行され、男子の服装として国民服が定められる詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
1948年(昭和23)女性として初めて、日本画家の上村松園が文化勲章を受章する詳細
1957年(昭和32)ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家徳富蘇峰の命日詳細
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 今日は、平成時代の2016年(平成28)に、小説家高井有一の亡くなった日です。
 高井有一(たかい ゆういち)は、1932年(昭和7)4月27日に、東京府北豊島郡長崎町(現在の東京都豊島区)において、画家の父・田口省吾と母・信子の長男として生まれましたが、本名は田口掬汀(たぐち きくてい)と言いました。1943年(昭和8)に祖父、父があいついで亡くなり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下において、母・妹と共に秋田県へ疎開しています。
 成蹊高等学校へ入学して、中村草田男の授業を受け、1951年(昭和26)に成蹊大学に進学したものの、翌年に早稲田大学第二文学部英文学科に編入しました。文学サークル「現代文学会」で活動、かたわら大学の広報誌「早稲田学報」の編集助手を務め、1955年(昭和30)に卒業し、共同通信社文化部記者となります。
 1964年(昭和39)に同人雑誌「犀」の創刊に参加、翌年に『夏の日の影』を発表、1966年(昭和41)に発表した『北の河』で、第54回芥川龍之介賞を受賞しました。1975年(昭和50) 共同通信社を退社し、作家専業となり、1977年(昭和52)には、季刊誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務め、祖父の田口掬汀の生涯を描いた『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1984年(昭和59)に共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚、『この国の空』で谷崎潤一郎賞、1990年(平成2)には、『夜の蟻』で読売文学賞を受賞しました。1992年(平成4)に立原正秋の生涯を描いた『立原正秋(せいしゅう)』で毎日芸術賞を受賞、1996年(平成8)には、日本芸術院会員となります。
 1999年(平成11)に『高らかな挽歌』で大佛次郎賞を受賞、2000年(平成12)には、日本文芸家協会理事長(~2002年)となりました。2015年(平成27)には、『この国の空』が映画化されたものの、2016年(平成28)10月26日に、東京都内の病院において、心不全のため84歳で亡くなっています。

<高井有一の主要な著作>

・『北の河』(1964年)第54回芥川賞受賞
・『少年たちの戦場』(1968年)
・『雪の涯(はて)の風葬』(1970年)
・『蟲たちの棲家』(1973年)
・『夢の碑』(1976年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・『真実の学校』(1980年)
・『青梅』(1980年)
・『この国の空』(1983年)谷崎潤一郎賞受賞
・『俄瀧』(1984年)
・『塵の都に』(1988年)
・『夜の蟻』(1989年)読売文学賞受賞
・評伝『立原正秋』(1991年)毎日芸術賞受賞
・『愛日』(1994年)
・エッセイ集『作家の生き死(しに)』(1997年)
・『高らかな挽歌』(1999年)大佛次郎賞受賞
・『時の潮』(2002年)野間文芸賞受賞

〇高井有一関係略年表

・1932年(昭和7)4月27日 東京府北豊島郡長崎町(現在の東京都豊島区)において、画家の父・田口省吾と母・信子の長男として生まれる
・1943年(昭和8) 祖父、父があいついで亡くなる
・1945年(昭和20) 母・妹と共に秋田県へ疎開する
・1951年(昭和26) 成蹊高等学校から成蹊大学に進学する
・1952年(昭和27) 早稲田大学第二文学部英文学科に編入する
・1955年(昭和30) 早稲田大学第二文学部英文学科を卒業し、共同通信社文化部記者となる
・1964年(昭和39) 同人雑誌「犀」の創刊に参加する
・1965年(昭和40) 同人雑誌「犀」に『夏の日の影』を発表する
・1966年(昭和41) 同人雑誌「犀」に発表した『北の河』で、第54回芥川龍之介賞を受賞する
・1975年(昭和50) 共同通信社を退社し、作家専業となる
・1977年(昭和52) 季刊誌『文体』(平凡社)で、古井由吉、坂上弘、後藤明生とともに責任編集者を務め、祖父の田口掬汀の生涯を描いた『夢の碑』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1984年(昭和59) 共同通信社の同僚だった中村輝子と結婚、『この国の空』で谷崎潤一郎賞を受賞する
・1990年(平成2) 『夜の蟻』で読売文学賞を受賞する
・1992年(平成4) 立原正秋の生涯を描いた『立原正秋(せいしゅう)』で毎日芸術賞を受賞する
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1999年(平成11) 『高らかな挽歌』で大佛次郎賞を受賞する
・2000年(平成12) 日本文芸家協会理事長(~2002年)となる
・2002年(平成14) 『時の潮』で野間文芸賞を受賞する
・2008年(平成20) 日本近代文学館理事長となる
・2015年(平成27) 『この国の空』が映画化される
・2016年(平成28)10月26日 東京都内の病院において、心不全のため84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1867年(慶応3)建築家・建築史学者伊東忠太の誕生日(新暦11月21日)詳細
1868年(明治元)戊辰戦争の箱館の戦いにおいて、榎本武揚軍が北海道・箱館の五稜郭を占領する詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
1919年(大正8)経済学者篠原三代平の誕生日詳細
1983年(昭和58)国営公園の一つとして東京の米軍立川基地跡地に国営昭和記念公園が開園する詳細
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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、ドイツ文学者相良守峯が亡くなった日です。
 相良守峯(さがら もりお)は、明治時代後期の1895年(明治28)4月14日に、山形県鶴岡市若葉町において、相良守一の長男として生まれましたが、幼名は鈇太郎(おのたろう)と言いました。荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1917年(大正6)に、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部ドイツ文学科へ進みます。
 在学中の1919年(大正8)に坪田譲治、亀尾英四郎らと『地上の子』を発刊し、この頃に郡長の許可を得て守峯(もりお)と改名しました。1921年(大正10)に、東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業し、早稲田大学理工科講師となり、翌年には、旧制水戸高等学校の教授となります。
 1924年(大正13)に、旧制第一高等学校教授に転任し、1930年(昭和5)には、文部省在外研究員としてドイツ・イタリア・アメリカに留学しました。帰国後、1933年(昭和8)に、東京帝国大学助教授となり、1940年(昭和15)には、木村謹治共編の『木村・相良独和辞典』を刊行します。
 1945年(昭和20)に、「独逸中世叙事詩研究」で、東京帝国大学より文学博士を得て、1947年(昭和22)には、東京大学教授に昇任し、日本独文学会創設とともに理事長(~1957年)に就任しました。1948年(昭和23)に、『ドイツ中世叙事詩研究』を刊行、1955年(昭和30)に、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章を受章、1956年(昭和31)には、東京大学を定年退官し名誉教授となり、慶應義塾大学教授に就任しています。
 1958年(昭和33)に、日本ゲーテ協会を再建し会長となり、1967年(昭和42)に勲二等瑞宝章を受章、1968年(昭和43)には、西ドイツゲーテ協会「ゲーテ賞碑金章」を受賞、文化功労者となりました。1969年(昭和44)に、京都外国語大学教授(~1976年)に就任し、鶴岡市名誉市民(第1号)となります。
 日本における中世ドイツ文学研究の基盤をつくった業績などにより、1985年(昭和60)に文化勲章を受章しましたが、1989年(平成元)10月16日に、東京都において、94歳で亡くなり、従三位と勲一等瑞宝章を追贈されました。

<相良守峯の主要な著作>

・訳書『グリム童話傑作集』3巻(1946~48年)
・『ドイツ中世叙事詩研究』(1948年)
・『ワーグナーの思想と芸術』(1948年)
・木村謹治共編、『木村・相良独和辞典』(1948年)
・『ゲーテ事典』(1950年)
・『ドイツ文法』(1951年)
・『ドイツ文学史』3巻(1954~62年)
・訳書『ファウスト』(1955年)
・訳書『ニーベルンゲンの歌』(1955年)
・編集『大独和辞典』(1958年)
・エッセイ集『茫々(ぼうぼう)わが歳月』(1978年)

〇相良守峯関係略年表

・1895年(明治28)4月14日 山形県鶴岡市若葉町において、相良守一の長男として生まれる
・1913年(大正2) 荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)を卒業する
・1917年(大正6) 第四高等学校 (旧制)を卒業する
・1919年(大正8) 坪田譲治、亀尾英四郎らと『地上の子』を発刊する
・1921年(大正10) 東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業し、早稲田大学理工科講師となる
・1922年(大正11) 水戸高等学校 (旧制)教授となり、従七位となる
・1923年(大正12) 正七位となる
・1924年(大正13) 第一高等学校 (旧制)教授となる
・1926年(大正15) 従六位となる
・1928年(昭和3) 正六位となる
・1930年(昭和5) 文部省在外研究員としてドイツ・イタリア・アメリカに留学する
・1931年(昭和6) 従五位となる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学助教授となる
・1934年(昭和9) 勲六等瑞宝章を受章する
・1936年(昭和11) 正五位となる
・1938年(昭和13) 勲五等瑞宝章を受章する
・1940年(昭和15) 「木村・相良独和辞典」を刊行、紀元二千六百年祝典記念章を受章する
・1941年(昭和16) 従四位となる
・1944年(昭和19) 勲四等瑞宝章を受章する
・1945年(昭和20) 「独逸中世叙事詩研究」で、東京帝国大学より文学博士を得る
・1947年(昭和22) 東京大学教授、日本独文学会創設とともに理事長に就任する
・1948年(昭和23) 『ドイツ中世叙事詩研究』を刊行する
・1955年(昭和30) ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章を受章する
・1956年(昭和31) 東京大学を定年退官し名誉教授となり、慶應義塾大学教授となる
・1957年(昭和32) 日本独文学会理事長を退任する
・1958年(昭和33) 日本ゲーテ協会を再建し会長となる
・1967年(昭和42) 勲二等瑞宝章を受章する
・1968年(昭和43) 西ドイツゲーテ協会「ゲーテ賞碑金章」を受賞、文化功労者となる
・1969年(昭和44) 京都外国語大学教授となり、鶴岡市名誉市民(第1号)となる
・1976年(昭和51) 京都外国語大学を退職する
・1985年(昭和60) 文化勲章を受章する
・1989年(平成元)10月16日 東京都において、94歳で亡くなり、従三位と勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

669年(天智天皇8)政治家・藤原氏の祖藤原鎌足の命日(新暦11月14日)詳細
1279年(弘安2)『十六夜日記』の著者阿仏尼が鎌倉に向けて京を出立する(新暦11月21日)詳細
1878年(明治11)札幌市時計台が、旧札幌農学校(現在の北海道大学)の演武場として建設される詳細
1944年(昭和19)小磯国昭内閣により、「国内防衛方策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)GHQが「映画企業に対する日本政府の統制の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-146)を出す詳細
国連食糧農業機関(FAO)が設立される詳細
1970年(昭和45)物理学者坂田昌一の命日詳細
1981年(昭和56)北炭夕張炭鉱(夕張新鉱)でガス噴出事故が起こり、死者93人、負傷者39人を出す詳細
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