ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 政治家

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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、自由民権運動家・政治家河野広中の亡くなった日です。
 河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
 明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
 1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
 1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
 1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
 1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
 1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。

〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる 
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
・1923年(大正12年)12月29日 東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、政治家・外交官小村寿太郎の亡くなった日です。
 小村寿太郎(こむら じゅたろう)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月16日)に、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれ、1861年(文久元)には、平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになりました。成績優秀だったため、1869年(明治2)には、長崎に赴いて学び、1870年(明治3年)に上京すると翌年には藩貢進生として大学南校に学びます。
 1875年(明治8)に文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学、1880年(明治13)に同校法科を卒業、帰国後に司法省に入りました。1882年(明治15)に大審院判事となり、1884年(明治17)に外務省権少書記官に転じ、1888年(明治21)には、外務省翻訳局長になります。
 1893年(明治26)に清国公使館1等書記官となり、翌年日清間の緊張が高まると強硬論を唱え、1895年(明治28)には、駐朝鮮弁理公使となりました。1896年(明治29)に日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させ、外務次官となります。
 1898年(明治31)に駐米公使、1900年(明治33)に駐露公使、1901年(明治34)に駐清国公使となり、全権として「北清事変議定書」に調印しました。同年に第1次桂内閣の外務大臣に就任、翌年には日英同盟を締結、1905年(明治38)には、首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結びます。
 1906年(明治39)に枢密顧問官、駐英大使となり、1908年(明治41)に第2次桂内閣の外務大臣に再任され、1910年(明治43)には、韓国併合を実施しました。1911年(明治44)に米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復、侯爵となりましたが、同年8月に内閣交替で外相を辞め、11月26日には、神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなっています。

〇小村寿太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年9月16日) 日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになる
・1869年(明治2年) 長崎に赴いて学ぶ
・1870年(明治3年) 上京する
・1871年(明治4年) 藩貢進生として大学南校に学ぶ
・1875年(明治8年) 文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学する
・1880年(明治13年) ハーバード大学法科を卒業、帰国後に司法省に入る
・1881年(明治14年)9月 旧幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)と結婚する
・1882年(明治15年)9月 大審院判事となる
・1884年(明治17年) 外務省権少書記官に転じる
・1885年(明治18年) 外務省翻訳局に勤務する
・1886年(明治19年)3月 外務省翻訳局次長に昇任する
・1888年(明治21年) 外務省翻訳局長に昇任する
・1893年(明治26年) 清国公使館1等書記官となる
・1894年(明治27年) 日清間の緊張が高まると強硬論を唱える
・1895年(明治28年) 駐朝鮮弁理公使となる
・1896年(明治29年)5月 朝鮮公使として日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させる
・1896年(明治29年)6月 外務次官となる
・1898年(明治31年) 駐米公使となる
・1900年(明治33年) 駐露公使となる
・1901年(明治34年) 全権として「北清事変議定書」に調印する
・1901年(明治34年) 第1次桂内閣の外務大臣に就任する
・1902年(明治35年)1月30日 日英同盟を締結する
・1902年(明治35年)2月27日 男爵となる
・1905年(明治38年) 首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結ぶ
・1906年(明治39年) 枢密顧問官、駐英大使となる
・1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 伯爵となる
・1908年(明治41年) 第2次桂内閣の外務大臣に再任される
・1910年(明治43年) 韓国併合を実施する
・1911年(明治44年) 米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復する
・1911年(明治44年)4月21日 侯爵となる
・1911年(明治44年)8月 内閣交替で外相を辞める
・1911年(明治44年)11月26日 神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細


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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉が亡くなった日です。
 片岡健吉(かたおか けんきち)は、江戸時代後期の1844年2月14日(天保14年12月26日)に、土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれましたが、幼名は寅五郎、諱は益光と言いました。1849年(嘉永2)に藩主への御目見えを許され、1861年(文久元)に御扈従、1863年(文久3)には、御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となります。
 1865年(慶応元)に祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぎ、1866年(慶応2)に外輪物頭六明組郷士隊長、1867年(慶応3)に御侍別撰小隊司令、そして京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となりました。1868年(慶応4)に迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられ、京都に向けて出陣、現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立て、陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増されます。
 1869年(明治2)に参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、明治維新後は新政府に出仕、1871年(明治4)には、高知藩権大参事となり、2年間のロンドン留学に出発しました。1873年(明治6年)に帰国後、海軍中佐となりましたが、政府内の征韓論派の失脚(明治六年政変)に伴い、職を辞して高知に帰ります。
 1874年(明治7)に板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設、翌年には初代社長となりました。1877年(明治10)の西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出したものの、受け入れられず不受理となり、立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕されて、翌年には禁獄100日の判決を受けます。
 1879年(明治12)に高知県会の初代議長となりましたが、1ヶ月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職しました。1880年(明治13)の第4回愛国社大会の議長を務め、河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可ヲ上願スル書」を提出しましたが拒絶されます。
 1881年(明治14)の自由党の結成に重要な役割りを果たし、高知新聞社長となり、翌年には海南自由党を結成しました。1885年(明治18)に洗礼を受けてプロテスタントとなり、高知教会長老に選ばれます。
 1887年(明治20)の三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられ、「保安条例」違反で退去命令が出されるものの従わず、禁錮2年6か月の刑に処され、1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦で出獄しました。1890年(明治23)の第1回衆議院議員総選挙で高知県から当選(以後8期連続)、副議長、議長を歴任し、自由党解散後は、憲政党、立憲政友会にも属しましたが、1903年(明治36)に退党しています。
 一方で、基督教青年会(YMCA)理事長、同志社社長兼校長、土陽新聞社長などを歴任したものの、1903年(明治36)10月31日に、高知県において、数え年61歳で亡くなっています。

〇片岡健吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1844年2月14日(天保14年12月26日) 土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれる
・1849年(嘉永2年7月7日) 藩主への御目見えを許される
・1860年(万延元年8月18日) 前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受ける
・1861年(文久元年3月17日) 御扈従に就任する
・1862年(文久2年11月27日) 御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任する
・1863年(文久3年2月5日) 御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となる
・1863年(文久3年4月8日) 当役を以って外輪物頭を兼ねる
・1865年(慶応元年10月22日) 祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぐ
・1866年(慶応2年5月11日) 鉄砲頭を免じ御馬廻に再任される
・1866年(慶応2年8月2日) 外輪物頭六明組郷士隊長となる
・1867年(慶応3年3月6日) 文武出精を賞され褒詞を受ける
・1867年(慶応3年7月17日) 御侍別撰小隊司令に就任する
・1867年(慶応3年11月4日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となる
・1867年(慶応3年12月10日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属を免じられ、御馬廻りに転任、乾退助と共に勤王論を唱導し、その意を同じくする
・1868年(慶応4年1月8日) 迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられる
・1868年(慶応4年1月20日) 京都に向けて出陣する
・1868年(慶応4年2月2日) 現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てる
・1868年(明治元年11月26日) 陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増される
・1868年(明治元年11月27日) 当役まま大目付を兼帯する
・1869年(明治2年3月13日) 参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、維新後は新政府に出仕する
・1871年(明治4年2月) 高知藩権大参事となる
・1871年(明治4年5月6日) 2年間のロンドン留学に出発する
・1873年(明治6年)10月 帰国後に海軍中佐となるが、政府内の征韓論派の失脚に伴い、職を辞して高知に帰る(明治六年政変)
・1874年(明治7年) 板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設する
・1875年(明治8年)4月 立志社の初代社長となる
・1875年(明治8年)8月24日 高知県七等出仕する
・1876年(明治9年)1月 高知県七等出仕を辞める
・1877年(明治10年)6月9日 西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出するも、受け入れられず不受理となる
・1877年(明治10年)8月18日 立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕される
・1878年(明治11年)8月 禁獄100日の判決を受ける
・1879年(明治12年) 高知県会の初代議長となったが、1か月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職する
・1880年(明治13年)3月 第4回愛国社大会の議長を務める
・1880年(明治13年)4月 河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される
・1881年(明治14年) 自由党の結成に協力、高知新聞社長となる
・1882年(明治15年) 海南自由党を結成する
・1885年(明治18年)5月15日 高知市中島町の森武興邸(高知教会の発祥地)においてナックス宣教師の洗礼を受けてプロテスタントとなる
・1885年(明治18年)10月8日、片岡健吉・坂本直寛が高知教会長老に選ばれる
・1887年(明治20年) 三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられる
・1887年(明治20年)12月26日 「保安条例」違反で退去命令が出されるが従わず、禁錮2年6か月の刑に処される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦で出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆議院議員総選挙で当選する
・1893年(明治26年) 植村正久・井深梶之助(旧会津藩士)・グリナン宣教師・山田平左衛門・坂本直寛らと協力して高知県下の伝道を行なう
・1898年(明治31年) 衆議院議長となる
・1902年(明治35年)3月27日 同志社社長となる
・1903年(明治36年)10月31日 高知県において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)軍需会社法」が公布される詳細
1967年(昭和42)医学者佐々木隆興の命日詳細


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 今日は、平安時代後期の1075年(承保2)に、平安時代の公卿・関白藤原教通が亡くなった日ですが、新暦では11月6日となります。
 藤原教通(ふじわら の のりみち)は、996年(長徳2年6月7日)に、京都において摂政藤原道長の三男(母は左大臣源雅信の女倫子)として生まれましたが、同母兄・頼通と同じく嫡子として扱われました。1006年(寛弘3)に元服し、正五位下となり、昇殿を許され、侍従となります。
 1008年(寛弘5)に従四位下、1008年(寛弘5)に従四位上、1010年(寛弘7)に従三位となり公卿に列しました。その後も順調に昇進し、1011年(寛弘8)に正三位、1013年(長和2)に権中納言、従二位、1019年(寛仁3)に権大納言、1021年(寛仁5)には内大臣となります。
 1028年(万寿4)に父・道長が亡くなりましたが、1039年(長暦3)には、娘・生子が第69代後朱雀天皇のもとに入内しました。それからも1047年(永承2)に右大臣となり、1047年(永承2)に娘・歓子が第70代後冷泉天皇のもとへ入内、1057年(天喜5)に従一位、1060年(康平3)には左大臣に至ります。
 1064年(康平7)に兄・頼通より藤原氏長者を譲られ、1068年(治暦4)には関白宣下されました。しかし、娘2人にいずれも皇子が生まれなかったことから、同年に藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位し、摂関家抑圧策をとったため,以後摂関家は衰退に向かいます。
 1070年(延久2)に太政大臣宣下されたものの、翌年には辞し、1075年(承保2)に京都において、数え年83歳で亡くなり、正一位を追贈されています。

〇藤原教通関係略年表(日付は旧暦です)

・996年(長徳2年6月7日) 京都において摂政藤原道長の三男(母は左大臣源雅信の女倫子)として生まれる
・1006年(寛弘3年12月5日) 元服し、正五位下となり、昇殿を許される
・1006年(寛弘3年12月16日) 侍従、禁色
・1007年(寛弘4年1月28日) 右兵衛佐となる
・1007年(寛弘4年11月2日) 右近衛少将となる
・1008年(寛弘5年1月7日) 従四位下となる
・1008年(寛弘5年1月28日) 右近衛中将、兼近江介となる
・1008年(寛弘5年10月16日) 従四位上となる
・1009年(寛弘6年3月20日) 左近衛中将となる
・1010年(寛弘7年11月28日) 従三位となる
・1011年(寛弘8年8月11日) 正三位となる
・1011年(寛弘8年12月18日) 兼中宮権大夫(中宮・藤原彰子)となる
・1012年(寛弘9年1月27日) 兼近江権守となる
・1012年(寛弘9年2月14日) 兼皇太后宮権大夫(皇太后・藤原彰子)となる
・1013年(長和2年6月23日) 権中納言、兼左衛門督となる
・1013年(長和2年9月16日) 従二位となる
・1013年(長和2年12月19日) 兼検非違使別当となる
・1014年(長和3年8月) 正室・藤原公任の娘との間に生子(後に第69代後朱雀天皇の女御)が生まれる
・1014年(長和3年11月) 去検非違使別当となる
・1015年(長和4年10月21日) 正二位となる
・1017年(長和6年4月3日) 兼左近衛大将となる
・1017年(長和6年8月9日) 兼春宮大夫(皇太子:敦良親王)となる
・1019年(寛仁3年12月21日) 権大納言となる
・1021年(寛仁5年7月25日) 内大臣となる
・1021年(治安元年) 正室・藤原公任の娘との間に歓子(後に第70代後冷泉天皇の皇后)が生まれる
・1028年(万寿4年12月4日) 父・道長が亡くなる
・1037年(長元10年8月17日) 兼東宮傅(皇太子・親仁親王)となる
・1039年(長暦3年11月21日) 娘・生子が第69代後朱雀天皇のもとに入内する
・1045年(寛徳2年1月16日) 東宮傅を辞す
・1046年(寛徳3年11月25日) 兼東宮傅(皇太子・尊仁親王)となる
・1047年(永承2年8月1日) 右大臣となる
・1047年(永承2年8月9日) 左近衛大将となる
・1047年(永承2年10月14日) 娘・歓子が第70代後冷泉天皇のもとへ入内する
・1057年(天喜5年1月7日) 従一位となる
・1060年(康平3年7月17日) 左大臣となる
・1062年(康平5年4月11日) 左近衛大将を辞す
・1064年(康平7年12月13日) 兄・頼通より藤原氏長者を譲られる
・1068年(治暦4年4月16日) 関白宣下される
・1068年(治暦4年4月19日) 藤原氏と外戚関係のない第71代後三条天皇が即位する
・1068年(治暦4年4月19日) 東宮傅を止める
・1069年(治暦5年8月13日) 左大臣を辞す
・1070年(延久2年3月23日) 太政大臣宣下される
・1071年(延久3年8月10日) 太政大臣を辞す
・1074年(延久6年2月2日) 兄・頼通が亡くなる
・1075年(承保2年9月25日) 京都において、数え年83歳で亡くなる
・1075年(承保2年10月6日) 正一位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

769年(神護景雲3)宇佐八幡宮神託事件が起きる(新暦10月28日)詳細
1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細


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 今日は、奈良時代の785年(延暦4)に、長岡京造営中に藤原種継暗殺事件が起きた日ですが、新暦では10月30日となります。
 藤原種継(ふじわら の たねつぐ)は、奈良時代の737年(天平9)に、奈良平城京で、式家藤原清成の長男(母は秦朝元の娘)として生まれたとされてきました。称徳天皇の時代の766年(天平神護2)に、従六位上から五階特進して従五位下へ叙爵し、768年(神護景雲2)には、美作守となります。
 叔父百川らの尽力によって光仁天皇が即位すると、774年(宝亀5)に従五位上、翌年に近衛少将となり、777年(宝亀8)には、正五位下に昇叙しました。その後も順調に昇進し、780年(宝亀11)に正五位上、781年(天応元)に従四位下、781年(天応元年)には従四位上となります。
 782年(延暦元年)に桓武天皇が即位すると、氷上川継の乱や三方王による天皇呪詛事件が起きましたが、その解決の功により、桓武天皇の信任を得て、参議に昇進しました。782年(延暦元)に正四位下となり、翌年には、右大臣・藤原田麻呂が没して種継が式家の代表になります。
 それからも、783年(延暦2)に従三位、式部卿兼近江按察使となり、翌年には中納言にまで昇りました。784年(延暦3)に種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議、桓武天皇の勅命で長岡の地を視察後、造長岡宮使となります。
 造営工事を進捗させ、11月には桓武天皇が平城宮から長岡宮へ移り、その功で正三位にまでなりました。しかし、皇太子早良親王と不和になり、遷都反対派の大伴継人(つぐひと)らに妬まれるようになります。
 そして、785年(延暦4)の天皇の奈良行幸の留守、9月23日に造営工事監督中に、春宮坊の役人や大伴氏の陰謀により、矢を射かけられ(藤原種継暗殺事件)、翌日数え年49歳で亡くなりました。その結果、大伴・佐伯氏ら数十人が処罰され、早良親王が皇太子を廃され、平安京への再遷都の一因になったとされています。
 尚、没後正一位・左大臣が追贈され、809年(大同4)には、太政大臣も追贈されました。
 以下に、藤原種継暗殺事件のことを記した『続日本紀』巻第三十八(桓武紀三)延暦4年の条の該当部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十八(桓武紀三)延暦4年(785年)の条

<原文>

乙夘。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種繼被賊射薨。
丙辰。車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。其種繼參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之孫也。神護二年。授從五位下。除美作守。稍迁。寳龜末。補左京大夫兼下総守。俄加從四位下。遷佐衛士督兼近江按察使。延暦初。授從三位。拜中納言。兼式部卿。三年授正三位。天皇甚委任之。中外之事皆取决焉。初首建議。遷都長岡。宮室草創。百官未就。匠手役夫。日夜兼作。至於行幸平城。太子及右大臣藤原朝臣是公。中納言種繼等。並爲留守。照炬催検。燭下被傷。明日薨於第。時年卌九。天皇甚悼惜之。詔贈正一位左大臣。

<読み下し文>

乙夘[1]。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継[2]、賊に射られて薨しぬ[3]。
丙辰[4]。車駕[5]、平城[6]より至りたまふ。大伴継人[7]、同じく竹良[8]并せて党与数十人を捕獲して推鞫[9]するに、並に皆承伏[10]す。法に依りて推断[11]して、或いは斬し或いは流す[12]。その種継は参議式部卿兼大宰帥正三位宇合の孫なり。神護二年、従五位下を授けられ、美作守に除せらる。稍遷りて[13]、宝亀の末[14]に左京大夫兼下総守に補せられ、俄に[15]従四位下を加えられ、佐衛士督兼近江按察使に遷さる。延暦の初[16]、従三位を授けられ、中納言を拝し、式部卿を兼ぬ。三年、正三位を授けらる。天皇、甚だこれを委任して[17]、中外[18]の事皆決を取る。初め、首として議を建てて都を長岡に遷さむ[19]とす。宮室[20]草創[21]して、百官[22]未だ就らず、匠手[23]・役夫[24]、日夜に兼作す[25]。平城[6]に行幸[26]したまふに至りて、太子[27]と右大臣藤原朝臣是公[28]、中納言種継らと並に留守と為り。灯りを照らして催し検るに、燭下[29]に傷を被ひて、明日第[30]に薨しぬ[3]。時に年四十九。天皇、甚だ悼み[31]惜しみたまひて、詔して[32]正一位左大臣を贈りたまふ。

【注釈】

[1]乙夘:きのとう=干支の組み合わせの52番目で、この場合は9月23日のこと。
[2]藤原朝臣種繼:ふじわらのあそんたねつぐ=中納言正三位造長岡宮使の藤原種継のこと。
[3]薨しぬ:こうしぬ=死んでしまった。亡くなってしまった。
[4]丙辰:ひのえたつ=干支の組み合わせの53番目で、この場合は9月24日のこと。
[5]車駕:しゃが=天皇が行幸するときに乗る車。また、その行幸。
[6]平城:へいじょう=奈良の平城京のこと、この時桓武天皇が行幸していた。
[7]大伴継人:おおとものつぐひと=奈良時代の官人。左大弁古麻呂の子。
[8]竹良:たけら=大伴竹良のこと、大伴継人の兄弟。
[9]推鞫:すいきく=罪人などを取り調べること。吟味。推問。訊問。
[10]承伏:しょうふく=承知して従うこと。納得して従うこと。また、犯した罪を認め判決に従うこと。
[11]推断:すいだん=推定。
[12]流す:ながす=流罪に処する。
[13]稍遷りて:ややうつりて=少しの間移り変わって。しばらく変遷して。しばらくたって。
[14]宝亀の末:ほうきのすえ=宝亀年間(770~782年)の終わり頃。
[15]俄に:にわかに=突然に。急に。すぐに。
[16]延暦の初:えにりゃくのはじめ=延暦年間(782~806年)の初め頃。
[17]委任して:いにんして=仕事などを、他人にまかせて。委託して。
[18]中外:ちゅうがい=国内と国外。内政と外交。
[19]都を長岡に遷さむ:みやこをながおかにうつさむ=平城京から長岡京へ遷都すること。
[20]宮室:きゅうしつ=天皇の住む宮殿。
[21]草創:そうそう=創始。創業。
[22]百官:ひゃっかん=数多くの官。もろもろの役人。中央、地方の多くの役人。またぱ役所。
[23]匠手:しょうしゅ=中務省の内匠寮に属し、殿舎の修繕・調度の製作などにたずさわった下級の技術官人。
[24]役夫:えきふ=古代、徭役 (ようえき) に従事した人。
[25]日夜に兼作す:にちやにけんさくす=昼夜を問わず工事する。日夜ぶっ通しで工事する。
[26]行幸:ぎょうこう=天皇が皇居を出て、よそへ行くこと。
[27]太子:たいし=皇太子の早良親王のこと。
[28]藤原朝臣是公:ふじわらのあそんこれきみ=奈良時代の貴族。藤原武智麻呂の第4子乙麻呂の長男。
[29]燭下:しょくか=灯火の下。
[30]第:だい=りっぱな家。やしき。邸宅。
[31]悼み:いたみ=人の死を悲しみ嘆くこと。
[32]詔して:しょうして=天皇の命令を直接伝える文書によって。

<現代語訳>

(延暦4年)9月23日。中納言・正三位で式部卿を兼ねる藤原朝臣種継は、賊に射られて亡くなった。
9月24日。天皇が行幸するときに乗る車は、平城京より到着した。大伴継人、大伴竹良ならびに徒党数10人を捕獲して取り調べたところ、そろって皆が犯した罪を認め判決に従った。法によって裁定して、あるいは斬首刑あるいは流刑とした。その種継は参議・式部卿で大宰帥を兼ねた正三位の藤原朝臣宇合の孫である。天平神護2年(766年)に従五位下を授けられ、美作守に除せられた。しばらくたって、宝亀年間(770~782年)の終わり頃に左京大夫兼下総守に任じられ、すぐに従四位下を加えられ、佐衛士督兼近江按察使に転任した。延暦年間(782~806年)の初め頃、従三位を授けられ、中納言を拝命し、式部卿を兼ねた。延暦3年(784年)に、正三位を授けられた。天皇は、とてもこれを信頼して任せ、内政と外交の事をみな決定した。初め、種継がリーダーとして建議をし、平城京から長岡京へ遷都しようとした。天皇の住む宮殿を創建したものの、諸々の役所はまだ出来上がらず、技術官人・徭役従事者は、昼夜を問わず工事をした。天皇が平城京に行幸することになり、皇太子の早良親王と右大臣藤原朝臣是公、中納言種継らがともに留守官となった。夜も灯りを照らして造営工事を検分していたところ、灯火の下で傷を負い、翌日邸宅において亡くなった。その時49歳で、天皇は、とても死を悲しみ嘆き惜しんで、勅命によって正一位・左大臣を追贈した。

☆藤原種継関係略年表(日付は旧暦です)

・737年(天平9) 奈良平城京で、式家藤原清成の子(母は秦朝元の娘)として生まれる
・766年(天平神護2年11月5日) 従五位下となる
・768年(神護景雲2年2月18日) 美作守となる
・771年(宝亀2年閏3月1日) 兼紀伊守となる
・771年(宝亀2年9月16日) 兼山背守となる
・774年(宝亀5年1月7日) 従五位上となる
・775年(宝亀6年9月27日) 近衛少将となる
・777年(宝亀8年1月10日) 正五位下となる
・778年(宝亀9年2月23日) 左京大夫となる
・780年(宝亀11年3月17日) 兼下総守となる
・780年(宝亀11年12月11日) 正五位上となる
・781年(天応元年1月16日) 従四位下となる
・781年(天応元年4月15日) 従四位上となる
・781年(天応元年5月25日) 兼近江守となる
・781年(天応元年7月10日) 左衛士督となる
・782年(延暦元年閏1月) 氷上川継の乱が起きる
・782年(延暦元年3月) 三方王による天皇呪詛事件が起きる
・782年(延暦元年3月26日) 参議となる
・782年(延暦元年4月) 桓武天皇の詔により造宮省が廃止される
・782年(延暦元年6月21日) 正四位下となる
・783年(延暦2年3月) 右大臣・藤原田麻呂が没して種継が式家の代表になる
・783年(延暦2年4月18日) 従三位となる
・783年(延暦2年7月25日) 式部卿兼近江按察使となる
・784年(延暦3年1月16日) 中納言となる
・784年(延暦3年) 種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議する
・784年(延暦3年5月16日) 桓武天皇の勅命で長岡の地を視察する 
・784年(延暦3年6月10日) 造長岡宮使となる
・784年(延暦3年11月11日) 桓武天皇が平城宮から長岡宮へ移る 
・784年(延暦3年12月2日) 正三位となる
・785年(延暦4年9月23日) 長岡京造宮現場で矢を射かけられる(藤原種継暗殺事件)
・785年(延暦4年9月24日) 矢傷がもとで数え年49歳で亡くなり、正一位・左大臣が追贈される
・809年(大同4年4月12日) 太政大臣が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細
1884年(明治17)自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる詳細


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