ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

カテゴリ:人物 > 政治家

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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、社会主義者西川光二郎が亡くなった日です。
 西川光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月29日に、兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市)において、父・西川林蔵、母・たつ の3男と生まれました。中学時代にキリスト教に入信し、札幌農学校で新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受けます。
 1896年(明治29)に上京して、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、社会学を学んで、在学中に社会問題に関心を持ち、1897年(明治30)には、片山潜と共に労働組合期成会の雑誌「労働世界」を発刊しました。1899年(明治32)に東京専門学校英語政治科を卒業後、毎日新聞社で社会労働問題に取り組みます。
 1900年(明治33)に社会主義協会の結成に参加、翌年の社会民主党創立にも参加しましたが2日後に結社禁止となり、片山潜との共著『日本の労働運動』を労働新聞社から刊行しました。1903年(明治36)に平民社に入って、「平民新聞」の編集にあたり、社会主義・非戦論を主張して日露戦争に反対します。
 1905年(明治38)の平民社解散後は、「光」を創刊し、同年創立された日本社会党の機関紙も手掛けました。1906年(明治39)に日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わり、東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われます。
 1907年(明治40)に社会主義が幸徳派と片山派に分裂すると後者に属し、1908年(明治41)には、東京市電値上反対事件において大審院で有罪(重禁錮2年)が確定して下獄しました。幸徳秋水の直接行動論に反対し、1910年(明治43)の大逆事件後、社会主義陣営を離脱して「実践道話活動」という道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進、『心懐語』を警醒社書店より刊行します。
 1914年(大正3)に自働道話社を興して「自働道話」を発刊し、孔子学舎を主宰して、全国で巡講を行いました。1940年(昭和15)に、北海道巡講中に病で倒れ、急きょ帰京し、10月22日に東京の帝国大学病院において、64歳で亡くなっています。

〇西川 光二郎の主要な著作

・片山潜との共著『日本の労働運動』(1901年)
・『人道の戦士社会主義の父カールマルクス』(1902年)
・『心懐語』(1910年)
・『改革者の心情』

☆西川 光二郎関係略年表

・1876年(明治9)4月29日 兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市)において、父・西川林蔵、母・たつ の3男と生まれる
・1896年(明治29) 上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、社会学を学ぶ
・1897年(明治30) 在学中に社会問題に関心を持ち、片山潜と共に労働組合期成会の雑誌「労働世界」を発刊する
・1899年(明治32) 東京専門学校英語政治科を卒業する
・1900年(明治33) 社会主義協会の結成に参加する
・1901年(明治34) 社会民主党創立に参加、片山潜との共著『日本の労働運動』を労働新聞社から刊行する
・1902年(明治33) 『人道の戦士社会主義の父カールマルクス』を中庸堂より刊行する
・1903年(明治36) 平民社に入り、『平民新聞』の編集にあたり、社会主義・非戦論を主張して日露戦争に反対する
・1904年(明治37) 横浜に行き、相生座で開かれた社会主義演説会で、「弱者勝つ」を演説する
・1905年(明治38) 平民社が解散し、「光」を創刊する
・1906年(明治39) 日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わり、東京市電値上げ反対デモで大杉栄らと兇徒聚衆罪に問われる(東京市電値上反対事件)
・1907年(明治40) 社会主義が幸徳派と片山派に分裂すると後者に属する
・1908年(明治41) 東京市電値上反対事件において大審院で有罪(重禁錮2年)が確定する
・1910年(明治43) 大逆事件後、社会主義陣営を離脱して「実践道話活動」という道徳修養運動、精神運動を行う社会教育家に転進、『心懐語』を警醒社書店より刊行する
・1914年(大正3) 自働道話社を興して「自働道話」を発刊する
・1940年(昭和15)10月22日 東京の帝国大学病院において、64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細
1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
2010年(平成22)囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保6年に、幕末の志士・政治家井上馨の生まれた日ですが、新暦では1836年1月16日となります。
 井上馨(いのうえ かおる)は、周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれましたが、幼名は勇吉(ゆうきち)と言いました。1851年(嘉永4)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学、1855年(安政2)には、長州藩士志道慎平の養嗣子(のち井上家に復帰)となります。
 1860年(万延元)に藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜りましたが、尊王攘夷運動に参加し、1862年(文久2)には、高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃しました。1863年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟り、1864年(元治元)には、下関砲撃事件を聞いて急遽帰国し、通訳として講和に参加します。
 1866年(慶応2)に高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加、薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器、外国船の購入などに携わりました。1868年(明治元)に新政府の成立に伴い、長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事するなどし、翌年には、大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力します。
 1871年(明治4)に大蔵大輔に就任したものの、1873年(明治6)に、予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、辞職しました。1875年(明治8)の大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島事件の特命副全権弁理大臣を務め、1876年(明治9)に「日朝修好条規」の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張します。
 1878年(明治11)に帰国して、参議兼工部卿となり、翌年には外務卿に転じました。1882年(明治15)に壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、1883年(明治16)には、鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張ります。
 1884年(明治17)の「華族令」で伯爵となり、翌年には、内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となりました。1887年(明治20)に本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任、翌年の黒田内閣で農商務大臣となりましたが、山県有朋内閣成立とともに辞職しています。
 1892年(明治25)の第2次伊藤内閣で内務大臣となったものの、1894年(明治27)には辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出しました。1898年(明治31)の第3次伊藤内閣で大蔵大臣となり、地租増徴をねらったものの、失敗します。
 財界、特に三井との関係が深く、1900年(明治33)制定の「三井家憲」において三井家終身顧問としての地位を明記されるなど、「三井の番頭」とも言われました。1907年(明治40)には侯爵ともなりましたが、1915年(大正4)9月1日に、静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなっています。

〇井上馨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年(天保6年11月28日) 周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学する
・1855年(安政2年) 長州藩士志道慎平の養嗣子となる
・1860年(万延元年) 藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜る
・1862年(文久2年) 高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃する
・1863年(文久3年) 伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟る
・1864年(元治元年) 下関砲撃事件を聞いて帰国し、通訳として講和に参加する
・1865年(慶応元年) 攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れる
・1866年(慶応2年) 高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加する
・1868年(明治元年) 長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事する
・1869年(明治2年) 大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力する
・1869年(明治2年11月10日) 従五位となる
・1869年(明治2年12月13日) 従四位となる
・1870年(明治3年8月) 大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚する
・1871年(明治4年) 大蔵大輔に就任する
・1873年(明治6年)5月 予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、大蔵大輔を辞職する
・1875年(明治8年) 大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣を務める
・1876年(明治9年) 江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張する
・1878年(明治11年) 帰国して、参議兼工部卿(こうぶきょう)となる
・1879年(明治12年) 外務卿となる
・1879年(明治12年)2月10日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放する(明治十四年の政変)
・1882年(明治15年) 壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避する
・1883年(明治16年) 鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張る
・1884年(明治17年) 甲申(こうしん)政変後の特派全権大使となる
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」で伯爵となる
・1885年(明治18年) 内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる
・1885年(明治18年)4月6日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン勲章グロースクロイツを受章する
・1885年(明治18年)4月14日 ハワイ王国:カメハメハ第一世勲章グランドクロスを受章する
・1885年(明治18年)5月8日 ロシア帝国:白鷲大綬章を受章する
・1886年(明治19年)2月3日 波斯国:獅子太陽第一等勲章を受章する
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1887年(明治20年) 本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任する
・1888年(明治21年) 黒田内閣で農商務大臣となるが、山県有朋内閣成立とともに辞職する
・1888年(明治21年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1892年(明治25年)8月 第2次伊藤内閣で内務大臣となる
・1892年(明治25年)11月10日 オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章を受章する
・1894年(明治27年)10月 内務大臣を辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出す
・1895年(明治28年)10月7日 旭日桐花大綬章を受章する
・1896年(明治29年)6月20日 正二位となる
・1898年(明治31年)1月 第3次伊藤内閣で大蔵大臣となる
・1899年(明治32年) 自ら有楽会を組織し、有力財界人との懇談の場を設ける
・1900年(明治33年) 制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記される
・1902年(明治35年)6月21日 大韓帝国:李花大綬章を受章する
・1903年(明治36年) 斬奸状を送られる危険な立場に置かれる
・1904年(明治37年) 日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集する
・1906年(明治39年)4月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 侯爵となり、貴族院議員章を受章する
・1908年(明治41年)3月 三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席する
・1911年(明治44年)5月10日 維新史料編纂会総裁に任命される
・1912年(明治45年) 辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助する
・1915年(大正4年)9月1日 静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなり、従一位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
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 今日は、平安時代中期の949年(天暦3)に、公卿藤原忠平の亡くなった日ですが、新暦では9月9日となります。
 藤原忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期の880年(元慶4年)に、京都において、関白だった藤原基経の四男(母は人康親王の娘)として生まれました。891年(寛平3)に父・藤原基経が亡くなりましたが、895年(寛平7)に元服し、正五位下に叙せられ、昇殿を許されます。
 宇多天皇の皇女(異説あり)順子を室として迎え、900年(昌泰3)に数え年21歳で参議となりましたが、一旦叔父清経に譲り、908年(延喜8)に再任されました。翌年に、氏長者だった長兄・時平が亡くなると次兄・仲平を越えて、氏長者となり、従三位に昇叙し、権中納言となります。
 以後急速に累進し、910年(延喜10)に中納言、911年(延喜11)に大納言、914年(延喜14)に右大臣、916年(延喜16)に従二位に昇叙し、924年(延長2)には、正二位に昇叙し、左大臣ともなりました。927年(延長5)に、先に勅命によって時平が編纂を開始した『延喜格式』を完成撰進させます。
 930年(延長8)に醍醐天皇が亡くなると、妹穏子の生んだ朱雀天皇が8歳で即位、その摂政として政治を後見(40年ぶりの摂関政治復活)し、932年(承平2)に従一位に昇叙、936年(承平6)には太政大臣ともなりました。941年(天慶4)に朱雀天皇が元服したため摂政を辞しましたが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられます。
 946年(天慶9)の村上天皇即位後も、949年(天暦3)まで関白にあり、温厚で勤勉なため人望を得ていましたが、949年(天暦3年8月14日)に、京都の小一条第において、数え年70歳で亡くなり、正一位を追贈され、信濃国に封じ、貞信公と諡されました。その日記『貞信公記』は公卿日記として最も古く、摂関政治成立期の動向を伝えるものとなり、和歌は、『後撰和歌集』初出後、勅撰入集は十三首に及び、後世「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今一度(ひとたび)の みゆき待たなむ」が『小倉百人一首』に採られています。

<藤原忠平の代表的な歌>

・「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今一度(ひとたび)のみゆき待たなむ」(拾遺和歌集・百人一首)
・「折りて見るかひもあるかな梅の花ふたたび春に逢ふ心ちして」(続後撰和歌集)
・「君がため祝ふ心のふかければひじりの御代のあとならへとぞ」(後撰和歌集)
・「春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは」(後撰和歌集)

〇藤原忠平関係略年表(日付は旧暦です)

・880年(元慶4年) 京都において、関白藤原基経の四男(母は人康親王の娘)として生まれる
・891年(寛平3年1月13日) 父・藤原基経が亡くなる
・895年(寛平7年8月21日) 元服し、正五位下となる
・895年(寛平7年9月15日) 雑袍を聴す。昇殿
・896年(寛平8年1月26日) 侍従となる
・897年(寛平9年2月14日) 備後権守を兼任する
・898年(寛平10年1月29日) 再び備後権守を兼任する
・898年(昌泰元年11月22日) 従四位下に昇叙される
・900年(昌泰3年1月28日) 参議となる
・900年(昌泰3年2月20日) 宇多天皇の命により参議を辞退する
・900年(昌泰3年4月23日) 昇殿元の如し
・900年(昌泰3年5月15日) 右大弁に補任される
・903年(延喜3年1月7日) 従四位上に昇叙される
・905年(延喜5年1月11日) 備後権守を兼任する
・908年(延喜8年1月12日) 参議に還任する
・908年(延喜8年2月24日) 春宮大夫をを兼任する
・908年(延喜8年3月9日) 昇殿元の如し
・908年(延喜8年8月26日) 右大弁を去り、左兵衛督を兼任する
・908年(延喜8年9月1日) 検非違使別当に補任される
・909年(延喜9年4月4日) 氏長者だった長兄・藤原時平が亡くなる
・909年(延喜9年4月9日) 従三位に昇叙し、権中納言となり、氏長者ともなる
・909年(延喜9年5月11日) 蔵人所別当に補任される
・909年(延喜9年9月27日) 左兵衛督を去り、右近衛大将をを兼任する
・909年(延喜9年10月22日) 検非違使別当元の如し
・910年(延喜10年1月13日) 中納言となる
・911年(延喜11年1月13日) 大納言となる
・911年(延喜11年12月28日) 検非違使別当を止む
・913年(延喜13年1月7日) 正三位に昇叙する
・913年(延喜13年4月15日) 左近衛大将を兼任する
・914年(延喜14年8月25日) 右大臣となる
・916年(延喜16年2月28日) 従二位に昇叙される
・924年(延長2年1月7日) 正二位に昇叙される
・924年(延長2年1月22日) 左大臣となる
・925年(延長3年10月21日) 東宮傅を兼任する
・927年(延長5年) 『延喜格式』を完成撰進させる
・930年(延長8年9月22日) 東宮傅を止め、摂政となる
・930年(延長8年12月17日) 左近衛大将を止める
・932年(承平2年3月29日) 従一位に昇叙される
・936年(承平6年8月19日) 太政大臣となる
・939年(天慶2年2月28日) 准三宮となる(年官・年爵を賜うこと三宮に准ず)。
・941年(天慶4年11月8日) 摂政を止め、関白となる
・946年(天慶9年5月20日) 関白元の如し
・949年(天暦3年8月14日) 京都の小一条第において、数え年70歳で亡くなる
・949年(天暦3年8月18日 贈正一位、信濃国に封じ、貞信公と諡す

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)藤原良房らが『続日本後紀』20巻を撰上する(新暦9月23日)詳細
1511年(永生8)室町幕府第11代将軍足利義澄の命日(新暦9月6日)詳細
1656年(明暦2)彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の誕生日(新暦10月1日)詳細
1885年(明治18)「専売特許条例」に基づいて、日本初の専売特許7件がが交付される(専売特許の日)詳細
1945年(昭和20)昭和天皇臨席の第15回御前会議において、無条件でのポツダム宣言受諾を決定し、太平洋戦争に敗れる詳細
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 今日は、平安時代後期の1074年(延久6)に、公卿・歌人藤原頼通が亡くなった日ですが、新暦では3月2日となります。
 藤原頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期の992年(正暦3年1月)に、京都において、摂政・関白・太政大臣だった、父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれましたが、幼名は田鶴(たづ)と言いました。1003年(長保5)に元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許され、侍従に任官します。
 翌年には、従四位下に昇叙し、近江介を兼任、春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれました。1006年 (寛弘3) に従三位、1009年(寛弘6)に権中納言、1011年(寛弘8)に正二位、1013年(長和2)に権大納言、1015年(長和4)に左近衛大将と順調に昇叙・任官します。
 同年に内大臣となり、後一条天皇の摂政を父・道長から譲られ、藤原氏長者ともなり、1019年(寛仁3)には関白宣下されました。1021年(治安元)に居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集め、1021年(治安元)に従一位に昇叙し、左大臣に転任します。
 1024年(万寿元)に高陽院において競馬を催したりしますが、1028年(万寿4)には、父・道長が亡くなりました。1035年(長元8)に関白左大臣頼通歌合を開催、1037年(長暦元)に養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内、1051年(永承6)には、平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となり、天皇との姻戚関係を強め、藤原氏全盛時代を築きます。
 一方で、1040年(長久元)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)に「荘園整理令」に着手したものの、権門擁護策に終わりました。後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代、50余年に渡って、摂政あるいは関白の座を占め、女子を天皇の後宮にいれて、外孫皇子の誕生を期待しましたが、その誕生がないままとなります。
 1061年(康平4)に太政大臣まで上り詰めたものの、翌年には辞し、1064年(康平7)に藤原氏長者も辞め、1067年(治暦3)には関白も辞し、准三宮を宣下されました。翌年には、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、1072年(延久4)には、出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とします。
 1052年(永承8)に宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立していましたが、そこに隠遁し、1074年(延久6年2月2日)に宇治において、数え年83歳で亡くなりました。尚、歌人としても知られ、歌壇の後援者として大きな存在で、私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きく、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集入集は15首にも及んでいます。

<藤原頼通の代表的歌>

・「そらならば たづねきなまし 梅の花 まだ身にしまぬ 匂ひとぞみる」(新勅撰和歌集)
・「有明の 月だにあれや ほととぎす ただ一声の ゆくかたも見む」(後拾遺和歌集)
・「見もはてで さめけむ夢を 思ふにも これぞうつつと いかで知らせむ」(玉葉和歌集)

〇藤原頼通関係略年表(日付は旧暦です)

・992年(正暦3年1月) 京都において、摂政・関白・太政大臣だった父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれる
・1003年(長保5年2月20日) 元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許される
・1003年(長保5年2月28日) 侍従に任官する
・1004年(長保6年1月7日) 従四位下に昇叙し、右近衛少将如元
・1004年(長保6年1月24日) 近江介を兼任する
・1004年(長保6年) 春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれる
・1005年(寛弘2年10月22日) 従四位上に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年3月4日) 従三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年9月22日) 正三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1007年(寛弘4年1月28日) 春宮(のちの三条天皇こと、居貞親王)権大夫に転任する
・1008年(寛弘5年10月16日) 従二位に昇叙し、春宮権大夫如元
・1009年(寛弘6年3月4日) 権中納言に転任し、左衛門督を兼任、春宮権大夫如元
・1011年(寛弘8年6月9日) 正二位に昇叙し、権中納言・左衛門督如元
・1011年(寛弘8年6月13日) 春宮権大夫如元
・1013年(長和2年6月23日) 権大納言に転任し、春宮権大夫如元
・1015年(長和4年10月27日) 左近衛大将を兼任する
・1016年(長和5年1月29日) 春宮権大夫を停む
・1017年(長和6年3月4日) 内大臣に転任する
・1017年(長和6年3月6日) 左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月16日) 摂政宣下、内大臣・左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月22日) 左近衛大将を辞任する
・1019年(寛仁3年12月22日) 摂政を止め、関白宣下、内大臣如元
・1021年(治安元年) 居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集める
・1021年(治安元年1月7日) 従一位に昇叙し、関白・内大臣如元
・1021年(治安元年7月25日) 左大臣に転任し、関白如元
・1021年(治安元年8月10日) 太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり
・1024年(万寿元年秋) 高陽院において競馬を催す
・1028年(万寿4年12月4日) 父・藤原道長が亡くなる
・1035年(長元8年) 関白左大臣頼通歌合を開催する
・1037年(長暦元年) 養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内する
・1040年(長久元年) 「荘園整理令」を出す
・1045年(寛徳2年) 「荘園整理令」を出す
・1051年(永承6年) 陸奥国で前九年の役が勃発する
・1051年(永承6年) 平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となる
・1052年(永承8年) 宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立する
・1055年(天喜3年) 「荘園整理令」を出す
・1060年(康平3年7月17日) 左大臣を辞し、関白如元
・1061年(康平4年12月21日) 太政大臣宣下、関白如元
・1062年(康平5年9月2日) 太政大臣を辞す
・1064年(康平7年12月13日) 藤原氏長者を辞す
・1067年(治暦3年4月16日) 関白を辞し、准三宮宣下される
・1068年(治暦4年4月19日) 170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位する
・1072年(延久4年4月29日) 出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とする
・1074年(延久6年2月2日) 山城国宇治において、数え年83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

749年(天平21)社会事業に尽力した法相宗の僧行基の命日詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)が結成される詳細
1942年(昭和17)大日本国防婦人会・愛国婦人会・大日本聯合婦人会を統合し、大日本婦人会が発足詳細
1971年(昭和46)湿地の保存に関する「ラムサール条約」が調印される(世界湿地デー)詳細
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 今日は、奈良時代の757年(天平宝字元)に、皇族・公卿・歌人橘諸兄が亡くなった日ですが、新暦では1月30日となります。
 橘諸兄(たちばな の もろえ)は、684年(天武13)に、敏達天皇の玄孫で、従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれましたが、最初は葛城王と称しました。710年(和銅3)に無位から従五位下に叙され、翌年に馬寮監に任ぜられると、以後累進して、724年(神亀元)に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に昇叙されます。
 729年(神亀6)の「長屋王の変」後に行われたの叙位にて正四位下に昇叙され、続いて左大弁に任ぜられ、731年(天平3)には、藤原宇合、麻呂らと共に諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列しました。732年(天平4)に従三位に昇叙し、736年(天平8)には、弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改めます。
 737年(天平9)に天然痘の流行による藤原4卿(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) の急死によって、大納言に任ぜられ、翌年に正三位・右大臣、翌々年には従二位に昇叙され、唐から帰国した玄昉や吉備真備らを顧問に起用しました。740年(天平12)秋に、大宰少弐の藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こすと、鎮圧後に恭仁京を都と定められ、その遷都に尽力します。
 741年(天平13)に聖武天皇によって「国分寺建立の詔」が出され、743年(天平15)には、「墾田永年私財法」、「大仏造立の詔」が出され、それにあたりました。同年に従一位・左大臣に叙任されたものの、744年(天平15)に恭仁京の造営が中止され、翌年には難波宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出されましたが、745年(天平17)には、平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰します。
 749年(天平感宝元)の東大寺行幸に際し、正一位に昇叙されて、翌年に朝臣の姓を賜るなど全盛を極めたものの、藤原仲麻呂の台頭によって、しだいに実権を失っていきました。755年(天平勝宝7年11月)に祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴されると、翌年には辞職を申し出て致仕します。
 歌人としても知られ、『万葉集』に7首所載されましたが、757年(天平宝字元年1月6日)に失意のうちに、数え年74歳で亡くなりました。

<橘諸兄の代表的な和歌>

・「降る雪の白髪(しろかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」(万葉集)
・「あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」(万葉集)
・「高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪」(万葉集)

〇橘諸兄関係略年表(日付は旧暦です)

・684年(天武13年) 敏達(びだつ)天皇の玄孫で従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれる
・710年(和銅3年1月) 無位から従五位下に叙される
・711年(和銅4年12月) 馬寮監に任ぜられる
・717年(霊亀3年1月) 従五位上に昇叙される
・721年(養老5年1月) 正五位下に昇叙される
・723年(養老7年1月) 正五位上に昇叙される
・724年(神亀元年2月) 聖武天皇の即位後間もなく従四位下に昇叙される
・729年(神亀6年2月13日) 長屋王が自殺する(長屋王の変)
・729年(神亀6年3月) 長屋王の変後に行われたの叙位にて、正四位下に昇叙される
・729年(神亀6年9月) 左大弁に任ぜられる 
・731年(天平3年8月) 藤原宇合、麻呂らとともに諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列する
・732年(天平4年1月) 従三位に昇叙される
・736年(天平8年11月) 弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改める
・737年(天平9年9月) 天然痘の流行による藤原4卿の急死によって、大納言に任ぜられる
・738年(天平10年1月) 正三位に昇叙され、右大臣に任ぜられる
・739年(天平11年1月) 従二位に昇叙される
・740年(天平12年)秋 大宰少弐の)藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こす
・740年(天平12年12月15日) 恭仁京を都と定める 
・741年(天平13年3月24日) 聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される 
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が「大仏造立の詔」を出す 
・743年(天平15年5月) 従一位に昇叙され、左大臣に任ぜられる
・744年(天平15年12月26日) 恭仁京の造営を中止する 
・744年(天平16年2月26日) 難波(なにわ)宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出される
・745年(天平17年)頃 諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める
・745年(天平17年5月1日) 平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰する 
・749年(天平感宝元年4月) 東大寺行幸に際し、正一位に昇叙される
・749年(天平勝宝元年7月2日) 聖武天皇が譲位し、安倍内親王が孝謙天皇として即位する
・750年(天平勝宝2年1月) 朝臣の姓を賜る  
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が開催される 
・755年(天平勝宝7年11月) 祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴される
・756年(天平勝宝8年2月) 辞職を申し出て致仕する
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武上皇が崩御し、道祖王が立太子する 
・757年(天平宝字元年1月6日) 失意のうちに数え年74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
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