今日は、幕末維新期の1868年(慶応4)に、神祇官事務局達(いわゆる神仏判然令)が出された日です。
神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)は、明治新政府が神道の国教化政策を行うため、1868年(慶応4/明治元年3月~10月)に、神社から仏教的な要素を排除しようとした太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の内、中心となるもので、神仏分離令ともいわれてきました。内容は、①神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、②仏像を神体としている神社は仏像を取り払うことと本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じたものです。
その後、各地で仏教を排撃し、神道を極度に重んじようとする神仏分離や廃仏毀釈が行われ、神社に勤仕していた僧侶が還俗して神職となったり、失職したりしました。河内国の西琳寺が一堂も残さず破却されつくし、比叡山麓の日吉山王社では仏像、仏具などのはげしい破壊が行われるなど全国で混乱が起き、歴史的・文化的に価値のある多くの文化財が失われています。
以下に、一連の神仏分離に関わる太政官布告、神祇官事務局達、太政官達などを掲載しておきましたのでご参照下さい。
〇「太政官布告」慶応4年3月13日(王政復古・祭政一致の宣言と神祇官再興の布告)
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事
但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事
〇「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」慶応4年3月17日(神社に於ける僧職の復飾の命令)
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
〇「神祇官事務局達」慶応4年3月28日(いわゆる神仏判然令)
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事
『明治維新神仏分離史料』より
〇「太政官布告」慶応4年4月10日(神仏判然の主旨と「私憤ヲ斉シ候様之所業」、「粗暴ノ振舞等」への戒め)
諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早早取除相改可申旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候、若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事、
但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事、
〇「太政官達」慶応4年4月24日(八幡大菩薩号の停止の命令)
此度大政御一新ニ付、石清水、宇佐、筥崎等、八幡宮大菩薩之称号被為止、八幡大神ト奉称候様被.. 仰出候事
〇「太政官達」慶応4年閏4月4日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、
但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、
是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
〇「神祇事務局ヨリ諸国神職ヘ達」慶応4年閏4月19日
一、神職之者ハ、家内ニ至迄、以後神葬相改可申事、
一、今度別当社僧還俗之上者、神職ニ立交候節モ、神勤順席等、先是迄之通相心得可申事、
〇「太政官より法華宗諸本寺へ達」明治元年10月18日
王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被 仰出候処、於其宗ハ、従来三十番神ト称シ、皇祖太神ヲ奉始、其他之神祇ヲ配祠シ、且曼陀羅ト唱ヘ候内ハ、天照皇太神八幡太神等之御神号ヲ書加ヘ、剰ヘ死体ニ相著セ候経帷子等ニモ神号ヲ相認候事、実ニ不謂次第ニ付、向後禁止被仰出候間、総テ神祇之称号決テ相混ジ不申様、屹度相心得、宗派末々迄不洩様、可相達旨 御沙汰事、
但是迄祭来候神像等、於其宗派設候分ハ、速ニ可致焼却候、若又由緒有之、往古ヨリ在来之分ヲ相祭候類ハ、夫々取調、神祇官ヘ可伺出候事、
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1682年(天和2) | 連歌師・俳人・談林派の祖西山宗因の命日(新暦5月5日) | 詳細 |
1929年(昭和4) | 「国宝保存法」が公布される | 詳細 |
1940年(昭和15) | 内務省がミス・ワカナ、ディック・ミネ、藤原釜足ら16人に改名を命令する | 詳細 |
コメント