今日は、平成時代の2005年(平成17)に、建築家・都市計画家・工学博士丹下健三の亡くなった日です。
丹下健三(たんげ けんぞう)は、大正時代の1913年(大正2)9月4日に、大阪府堺市において、住友銀行社員であった父・丹下辰世(ときよ)と母・テイ(禎・禎子)の三男としてに生まれました。幼少時は中国の上海の租界で過ごし、1920年(大正9)に父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住します。
旧制今治中学(現在の今治西高校)を経て、1930年(昭和5)に旧制広島高校(現在の広島大学)理科甲類に進学しました。建築家を志して、2度の受験失敗後、1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部建築科へ入学、ル・コルビュジエやグロピウスらのモダニズムから影響を受けます。
1938年(昭和13)に大学卒業後、前川國男建築事務所に入所、1941年(昭和16)にはね東京帝国大学大学院に入学し、高山英華の研究室に入りました。1942年(昭和17)に大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選し、1946年(昭和21)に大学院修了後、同大学建築科助教授に就任します。
1950年(昭和25)に広島平和公園の設計で注目され、翌年には、CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、初めて国外旅行し、ロンドンで広島計画を発表しました。1954年(昭和29)に愛媛県民館、翌年に図書印刷原町工場の設計で、日本建築学会作品賞を連続受賞、1957年(昭和32)には、旧東京都庁舎を設計、サンパウロ国際ビエンナーレ建築部門審査員となります。
1959年(昭和34)に博士論文「大都市の地域構造と建築形態」で、東京大学より工学博士の学位を受け、マサチューセッツ工科大学客員教授(~1960年)ともなり、1961年(昭和36)には、丹下健三+都市・建築設計事務所を開設しました。1963年(昭和38)に新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任、1964年(昭和39)に東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計、1965年(昭和40)には国立屋内総合競技場の設計で、日本建築学会特別賞受賞、またイギリスRIBAゴールドメダルも受賞します。
1966年(昭和41)にアメリカ合衆国AIAゴールドメダルを受賞、1970年(昭和45)に日本万国博覧会マスタープランを作成、ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章を受章、1973年(昭和48)には、フランス建築アカデミーゴールドメダルを受賞しました。1974年(昭和49)に東京大学を定年退官、名誉教授となりましたが、1976年(昭和51)に西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章、1979年(昭和54)にナイジェリア新首都都心計画作成、イタリア国家有功勲章コメンダトーレ章、1980年(昭和55)に文化勲章、1984年(昭和59)にフランス芸術文化勲章コマンドール章、1986年(昭和61)に日本建築学会大賞を受賞するなど国際的に数々の栄誉に輝きます。
その後も、1987年(昭和62)にアメリカ合衆国プリツカー賞受賞、新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)となり、1991年(平成3)に新東京都庁舎を設計、1996年(平成8)にフランスレジオンドヌール勲章受章など晩年まで活躍したものの、2005年(平成17)3月22日に、東京都港区において、91歳で亡くなりました。
〇丹下健三の主要な建築作品
・丹下健三邸(1953年)
・広島平和記念資料館(1955年)
・旧東京都庁舎(1957年)
・駿府(すんぷ)会館(1957年)
・香川県庁舎(1958年)
・国立屋内総合競技場(1964年)
・東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964年)
・静岡新聞・静岡放送本社(1970年)
・シンガポールOUBセンター(1986年)
・横浜美術館(1989年)
・新東京都庁舎(1991年)
・フジテレビ本社ビル(1996年)
〇丹下健三の主要な著作
・『桂――日本建築における伝統と創造』(1960年)
・『伊勢――日本建築の原形』(1962~65年)
・『丹下健三 1946~1969――建築と都市』(1970年)
・『21世紀の日本――その国土と国民生活の未来像』(1971年)
☆丹下健三関係略年表
・1913年(大正2)9月4日 大阪府堺市において、住友銀行社員であった父・丹下辰世(ときよ)と母・テイ(禎・禎子)の三男としてに生まれる
・1918年(大正7) 中国上海の日本尋常小学校へ入学する
・1920年(大正9) 父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住、今治の第二尋常小学校(現・今治市立吹揚小学校)に編入する
・1926年(大正15) 旧制今治中学(現在の今治西高校)へ入学する
・1930年(昭和5) 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現在の広島大学)理科甲類に進学する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学建築科の受験に失敗する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学建築科の受験に再度失敗する
・1938年(昭和13) 東京帝国大学工学部建築科より辰野賞を受賞、東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学大学院に入学し、高山英華の研究室に入る
・1942年(昭和17) 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任、「丹下研究室」を作る
・1950年(昭和25) 広島平和公園の設計で注目される
・1951年(昭和26) CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドンで広島計画を発表、初めての日本国外旅行となる
・1954年(昭和29) 日本建築学会作品賞(愛媛県民館)を受賞する
・1955年(昭和30) 日本建築学会作品賞(図書印刷原町工場)を受賞、広島平和記念資料館の設計で注目される
・1957年(昭和32) 旧東京都庁舎を設計、サンパウロ国際ビエンナーレ建築部門審査員となる
・1958年(昭和33) 香川県庁舎を設計、日本建築学会作品賞(倉吉市庁舎)を受賞、アメリカ合衆国建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞を受賞する
・1959年(昭和34) 博士論文「大都市の地域構造と建築形態」で、東京大学より工学博士の学位を受ける、マサチューセッツ工科大学客員教授(~1960年)となる
・1961年(昭和36) 丹下健三+都市・建築設計事務所を開設する
・1963年(昭和38) 新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任する
・1964年(昭和39) 国立屋内総合競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計する
・1965年(昭和40) 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)、イギリスRIBAゴールドメダルを受賞する
・1966年(昭和41) アメリカ合衆国AIAゴールドメダルを受賞する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会マスタープランを作成、ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章を受章する
・1973年(昭和48) フランス建築アカデミー ゴールドメダルを受賞する
・1974年(昭和49) 東京大学を定年退官、名誉教授となる
・1976年(昭和51) 西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章を受章する
・1979年(昭和54) ナイジェリア新首都都心計画作成、イタリア国家有功勲章コメンダトーレ章を受章する
・1980年(昭和55) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) フランス芸術文化勲章コマンドール章を受章する
・1986年(昭和61) 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)を受賞する
・1987年(昭和62) アメリカ合衆国プリツカー賞受賞、新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)となる
・1991年(平成3) 新東京都庁舎を設計する
・1993年(平成5) 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門を受賞する
・1994年(平成6) 勲一等瑞宝章を受章する
・1996年(平成8) フランスレジオンドヌール勲章を受章する
・2005年(平成17)3月22日 東京都港区において、91歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
646年(大化2) | 「薄葬令」が発布される(新暦4月12日) | 詳細 |
1943年(昭和18) | 童話作家新見南吉の命日 | 詳細 |
2007年(平成19) | 小説家・経済学者城山三郎の命日 | 詳細 |
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