今日は、平安時代前期の850年(嘉祥3)に、第54代の天皇とされる仁明天皇の亡くなった日ですが、新暦では5月4日となります。
仁明天皇(にんみょうてんのう)は、平安時代前期の810年(弘仁元年)に、京都において、嵯峨天皇の第二皇子(母は橘清友の娘)として生まれましたが、名は正良(まさら)と言いました。823年(弘仁14年2月)に立太子し、827年(天長4年8月)には、藤原順子を母として、第一皇子の道康親王(後の文徳天皇)が生まれています。
また、藤原沢子を母として、828年(天長5)に第二皇子の宗康親王、830年(天長7)には、第三皇子の時康親王(後の光孝天皇)が生まれました。833年(天長10年2月28日)に、叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位し、第54代とされる天皇となり、同年11月には、道康親王の母、藤原順子を女御としています。
嵯峨上皇の家父長的権威の下、政情は安定していましたが、嵯峨・淳和両上皇没後の842年(承和9年7月)には、伴健岑らの謀反が発覚、皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃され(承和の変)、藤原北家の政権独占の端を開くこととなりました。生来病弱なこともあって医学に詳しく、経史にも造詣が深く、また詩文、書法、管弦などを能くし、『経国集』に詩1首が入集しています。
『令義解』の施行や『日本後紀』40巻の編修などもこの時代に行われました。天皇40歳の算賀行事は盛大を極めましたが、850年(嘉祥3年3月19日)に病により出家し、3日後の21日には京都において、数え年41歳で亡くなり、陵墓は深草陵(現在の京都市伏見区深草東伊達町)とされています。
〇仁明天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・810年(弘仁元年) 京都において、嵯峨天皇の第二皇子(母は橘清友の娘)として生まれる
・823年(弘仁14年2月) 立太子する
・827年(天長4年8月) 藤原順子を母として、第一皇子の道康親王(後の文徳天皇)が生まれる
・828年(天長5年) 藤原沢子を母として、第二皇子の宗康親王が生まれる
・830年(天長7年) 藤原沢子を母として、第三皇子の時康親王(後の光孝天皇)が生まれる
・833年(天長10年2月28日) 叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位する
・833年(天長10年11月) 道康親王の母、藤原順子が女御となる
・842年(承和9年7月) 嵯峨上皇の死に際して、伴健岑らの謀反が発覚、皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃される(承和の変)
・842年(承和9年8月) 第一皇子道康親王(後の文徳天皇)が皇太子に立てられる
・843年(承和10年) 文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処する
・845年(承和12年) 自身の更衣三国町と女御藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞の密通を疑い、地方官に左遷する
・849年(嘉祥2年) 天皇40歳の算賀行事が盛大に催される
・850年(嘉祥3年3月19日) 病により出家する
・850年(嘉祥3年3月21日) 京都において、数え年41歳で亡くなる
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